2020年08月03日

高校の話~17 私がキリスト教をやめた理由~

高校の話~17 私がキリスト教をやめた理由~

前の記事で、数学のK先生、いろいろと私のことを覚えてくれてたという話をしたけど、そのひとつ。
思いもよらなかったけど、私がキリスト教徒だったことも、知ってくれていた。
K先生と宗教について語る日が来ようとは。

生物学者から転身して、牧師になったご友人がいらっしゃるそうです。
色々と思うところがあって、学者をやめて牧師になったのだが、こんどは教理上、科学とそぐわない部分が気になって、悩みは尽きないらしい。
面白い人だなぁ。いつか話してみたい。

片や私は逆のパターンで、キリスト教徒をやめてアートに生きる道を選びましたが、おかげさまで、この方のような悩みとは無縁です。
うーん。
キリスト教をやめた人間の精神性って、やっぱりけっこう独特だと思うんですよ。
人によるのかもしれないけど。

私の場合は、いまでも特に、聖書と科学とが矛盾するとは思わない。
それは、必ずしも生物学の専門知識がないからってわけではないんだ。
我々の宗派は、「アミノ酸配列がどーのこーの」とか、けっこう細かいところまで勉強するんですよ。
そのうえで、科学はむしろ創造説を支持していると思う。

たとえば分かりやすいのは、神がどんな順番で地球上の色んな生き物を創っていったかというのが創世記に書いてあるんだけど、地層を掘って出てくる化石の順番って、それとぴったり一致するんですって。
けっこう、説得力ないですか。
正直、進化論とか、「宇宙のすべては無から生まれた」とかのほうが、よっぽど荒唐無稽だと思うわ。
やめたからって、そんな急に進化論なんか信じられませんって。

じっさい、世の大方のひとも、進化論をそう積極的に「信じてる」って感じではないと思うの。
なんとなくそれが前提となっていて。
とくに異論もなく生きてる。

そもそも、なんで世間の大方の人々は、進化論にとくに異論を唱えないんでしょうか。
自分でいろいろ専門書を読んだり、地層を掘り返してみたり、炭素測定法とかを試してみたあげく、結論として信じてるわけじゃないと思うんですよ。
世間一般でそういうことになっていて、受け入れても自分の日常生活に特に差支えもないから、ではないでしょうか。
仮に中世に逆戻りして、「進化論信じたら殺すぞ!」って脅されたら、みんなあっさり捨てると思うの。

神の存在というのも、私がそれを信じるか信じないかとは、あんまり関係ないものです。
たとえば明日も日が昇ることを「私は信じない!」と言い張ったところで、まぁたいがい、日は昇るでしょうよ。
地球上の人間すべてが「信じない!」と言い張っても、やっぱり日は昇るでしょう。
そういうものです。

だからいまも、重力の法則を信じるかっていうレベルで神の存在を信じるかって聞かれたら、そりゃまあ、信じてはいますよ。
だけど、信じるだけなら、悪魔だって神の存在を信じていますからね。
そこに、とくべつ意味はないです。

***

当時私が悩んでいたのは、どっちかっていうと、古代イスラエル史における環境決定論的な問題、ポリティカル・コレクトネス的な問題だった。

人の命の扱われ方が、どうもあまりに行き当たりばったりで、一貫性がないように思われて。
いろいろ調べれば調べるほど、ますます疑問は大きくなった。
でも、当時は、そんなことをまわりに相談できるような空気じゃなかったんだ。
そんなこと、とてもとても。

ミヒャエル・ハネケの<白いリボン>を見たとき、ぞっとした。
私、ここにいたわ、って思った。
私が当時いた会衆、まさにああいう雰囲気だった。
まだ子供だったけど、当時会衆を牛耳っていたクソジジイに自分のそんな悩みを打ち明けないだけの分別はもっていた。

そこで、もっと偉い人が巡回してくるまで待っていて、そしてそのことを相談してみたの。
そしたらまぁ、色々もっともらしいことを言われたんだけど、さいごにこう言われたんだ。
アナタのそういうたぐいの疑問は人をつまずかせるから、あんまり他のひとには言わないようにって。

…お前もか、って感じだった。
分かってますよそんなこと!!
だからアナタが来るまで待ってたんじゃないの。
そんなこと言わずにいられないほど、この人は私を信じていないのか。…

結局、大学に入ってからやっと、自分がそれまで考えていた同じようなことを考えている本たちに出会った。
ジョージ・シュタイナーの The Portage to San Cristobal of A. H. とかね。たとえば。
それで、それまでに自分が考えてきたこと、思い悩んできたことすべて、最終的に、卒論にぶちこんだのです。

(興味ある方は、こちらどうぞ。でも、あんまり面白くはないと思うよ。)

***

あの頃、高校生やりながらキリスト教もやるって、けっこうきつかった。
週に3回、集会があって、こればかりは「私、予習はしない主義なんで」ってわけにいかない。
めっちゃ時間とエネルギーを食う。
週に一度か二度は、伝道にも行かなきゃいけないし。
自由になる時間のほとんどを、持っていかれた。

キリスト教って、それ自体が、すごくラディカルな思想なんです。
とくにうちの宗派がってことではなく、本来それ自体がね。
聖書を読めば、それは自明。
マイルドに見えてるとすれば、それは人間が薄めているだけのこと。

とにかく極端に、要求が大きすぎる。
片手間にやれるものじゃない。
求められるのは、献身だ。
魂の全体をそっくり丸ごと、ぜんぶ差し出すことを要求される。
さいごのひとかけらまで。
ひとかけたりとも、自分の手には残らない。
息の根も、止められそう。
それで、24時間、毎日毎日、土日も祝日もなく毎日、死ぬまで体を張って、キリスト教の宣伝搭でいなくちゃいけない。

最悪なのは、例の、キリスト教最大の掟というやつ。
「思いを尽くし、力を尽くし、魂を尽くして神を愛せ」
…あと一つくらい何か尽くすものがあったような気がするけど、まぁいいや。

私の場合、結局、そこだった。
いちばん中核の、核心だった。

愛せって命令してくるような相手を、一体どうやって愛せる?
献身なんて途方もないことを要求してくる相手を、どうやって愛したらいい?…

***

神にとってはただそういう人間だけが意味があって、あとはぜんぶ排除。
「あれか、これか」なんです。
中途半端は許されない。

だがじっさい、そこまでの根性はないけど、きっぱり捨てるだけの勇気もない、って人はたくさんいる。
あたりまえだ。
で、まじめな人ほど思い悩んで、うつ病になってしまったりする。
とくに、自ら選んでそういう家庭に生まれてきたわけではないいわゆる<二世>に、そういう人は多い。

年端もいかない頃から、そんなキツイ選択を、突きつけられて育って。
そこしか知らないから、逃げ場もない。
生きていくのが辛くなってしまったとしても、ふしぎじゃない。

そしてね、あえて言うとするなら。
そういう子たちが何とか死を選ばずに踏みとどまってるとしても、
それは、しかるべきときに助けを得られたから、ではないかもしれない。

では、それ以外の理由って?
たとえば、ひとつには、キリスト教では自殺を禁じているから。
あるいは、自殺なんかしたら組織に非難が及ぶから。

もちろん、本人にとっては、何の助けにもならない理由だ、そんなの。
死ぬほど苦しいのにそれでも生きなきゃいけないって、
死ぬよりもっと苦しいだろう。

だったらさっさとやめろ!って話ではある、もちろん。
でも、キリスト教をやめるって、思いのほか、大変なんだ。
なんだろ、室内飼いで育ったネコが、いきなり外に出て野良猫としてやってくみたいなもの。
遮断されて、育ってるからね。
いまから、あえてそっちを選ぶとなると。
環境も価値観もまるでがらっと違うし、あらゆる場面で適応異常を起こして、自分の根底が揺らぐ。
なにかとてつもない、生身の人間には耐えがたい、次元の乖離を感じるんだ。

さいきん知ったけど、二世会みたいの、あるらしい。
そうやってトラウマを負った人たちが、傷を舐めあ…いや失礼、お互いを支えあう、みたいな。
まぁ、そういうものが生まれるのも分かるし、それで救われてる人たちもいるのだろうな。

でも、個人的には思うの。
どうせ生きるなら、パキッと生きないと。
キライなものはキライでいい、逃げ出して全然いいんだけど、逃げるなら後ろを振り返らない、キッパリあとにしないとダメ。
ふり返ったらいつまででもつきまとわれる。
前に何が待ち受けていても、もう、後ろを見ちゃダメ。
そして、逃げ出したことで身に受けるどんなことも引き受けていかなくては。
「あれか、これか」なのだ。
どっちかにしないと。

***

たとえば、いま先生たちが、生徒のカウンセリングをしているなんて話を聞くと、いいなー、羨ましいなと思うけれど。
仮に当時、先生たちに相談できたとして、私はそんな話をしただろうか?

だいいち、先生たち含めて、会衆の輪の中以外はぜんぶ、「に対して看板を掲げておかなきゃならない、外の世界」だったし。
それにじっさい、「古代イスラエル史における環境決定論の問題で悩んでいるんです」とか、「神を愛せない」とか打ち明けたところで、先生たち、困ったんじゃないかと思うの。
たぶん、ふだんそんな問題意識ないじゃないですか。
当たり前だけど。
そんな、自分のふだんの思考領域の外のことを相談されてもね。

というかむしろ、当時は先生たち見ていて、忙しそうだな、大変だな、と思っていたからな。
自分の問題に巻き込んで、先生たちの仕事を増やそうなんて考えもしなかった。

***

あの頃、私と聖書の勉強をしてくれていたクラスメートもいて、そういう人たちがこれを読んでたらまことに申し訳ないのですが。
もし、その中でいまキリスト教徒になってる人がいたら、あの時点ではあなたに届けるために、私がパイプとして、神の器として用いられていた、と考えてほしい。
じっさいそうだと思うし。

私が結局キリスト教をやめたのは、それが「間違ってるから」じゃない。
当時だってそれが「正しい」ことに異存はなかったし、何なら今だってありませんさ。
私はどうしても「好きじゃない」から、イヤだったからやめたのです。

「正しい」ことだから「やらなくちゃいけない」と思ってやっていた。
そう教え込まれてきた。
けど、ほんとのほんとは、さいしょからキライだった。
2歳くらいのころ、はじめてキリスト教徒がうちにやってきたその頃から。
うわっ、なんかイヤなものがうちの中に入ってきたな、って、本能的に思った。
それから長いこと、軋みあいのなかでずいぶんと頑張ったけど。
結局、ここまでキライなことを、一生続けることはできないと思ったの。
この世を救うものがキリスト教のほかに何もないとしても。
それでも、やっぱり。

今でも宗教の話をあまりしないのは、捨てた罪悪感からじゃない。
ただただ、「好きじゃない」から。
牛乳とか納豆とかが、話題に上るだけでも我慢できないように、キリスト教もそうなんです、私にとっては。

だからほんとはこの記事も、正直、あんまり筆が進まないんだ。
でも、このブログを読む人にはこういうところまで含めて私のことを知ってほしいから、こうして書いている。

K先生みたいな、ニュートラルな立場の人とこういう話をするのはいいんだ。
むしろ楽しい。
でも、同じ宗派のキリスト教徒とはもう、話したくない。
隙あらば引っぱり戻そうとするからイヤ。

今でも何年かに一度、夢を見るんだ。
とっくの昔にやめたはずなのに、なぜかまたキリスト教の集会に出ていたり、伝道に出ていたりする夢。
そのたびに、あれ、何で私またこれやってるんだろう、って。
そのたびに、その場で私、もうやめますって宣言する。
そのたびにまた、家族とかコミュニティーの色んな人たちを巻き込んで大騒ぎになって。

で、目が覚めて、あれ、夢だったんだ、ってなる。
なんだ私、またよけいなエネルギー使っちゃった。
ふーっ、疲れた! ってなる。
それでもやっぱり、何度でも、戦わないわけにはいかない。
どうせ夢なんだから、覚めるまで適当にやってよう、とは思わないんだ。
だってイヤなんだもの。
もうこれ以上、1秒だってそんなことやっていたくないんだもの。






















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Posted by 中島迂生 at 19:32│Comments(0)高校の話 2020
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