2021年09月15日
祖父について補足 思い出すままに
私の祖父の描いた絵。
この記事では、前記事でまとめた祖父の生涯についての補足を記します。(本文は、前記事のスクリプトをどうぞ。)
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祖母が体を壊してしまってからも、祖父は藤沢の家で何とかやっていこうと、ずいぶん努力をしたようだ。
目も耳も悪く、腰も悪いというのに、自転車で買い出しに出かけ、リュックに買ったものを詰めて運んでいたという。
聞くだに背筋が寒くなる。そんな状態で転倒したら。
それほどまでにあの街を、あの家を離れたくなかったに違いない。
せめてうちで一緒に住めたらいいのに、とひそかに思っていた。
けれど、母にしたら考えるのも無理みたいだった。
まぁ…今思えば、向こうの会衆でよかったのだろうな。
内心どう思っていたかは分からないけれど、私から見ると、驚くべき適応力だった。
向こうの会衆でもあっというまになじんで、ほんとに愛されていた。
毎日のようにお花や果物が届いていたイメージ。
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なるべく会いに行きたかった。会えるうちに会っておかないと。
けれど、ケアホームはずいぶん不便なところにあって、なかなかどうして、容易ではなかった。
当時私は車を持っていなかったから、なおさら。
電車とバスを乗り継いでいくと交通費も高くつき、連結も悪い。
さいしょにひとりで行ったときは帰りにバスを1時間も待つはめに。
なので次のときはバイクで行った。
ところがふだん乗らない長距離に、おんぼろバイクが参ってしまったようで。
帰り、動かなくなってしまった。
そこで業者に頼んで運んでもらうはめになり、さらに高くつくことに。
これに懲りて足が遠のいているうちに亡くなってしまった。
だからひとりで行ったのは2回だけ。
それでも、貴重な記憶だ。
90代の人が、これほど「ふつう」でいられるものか。
それまで私の知っていたお年寄りというものは、たいていボーッとしていて、動作も緩慢で、話しかけてもとんちんかんな答えが返ってきたりしたものだ。
けれど、祖父にはそんなところが全くなかった。
話していても、ほんとに全く「ふつう」だった。
これほどまともな人はいないっていうくらい。
***
その日もちょうど小さな寄せ植えが届いたところで、祖父はさっそくスケッチブックを開いて描きにかかったが…
「バランスっていうものは、難しいもんだな」と。
「いや、それアナタの問題じゃないから、」と言いたかった。
贈ってくれた人には悪いけど、その寄せ植え、ほんとにバランス悪くて、センスのかけらもなかった。
よくこんなの売ってるなって、呆れるくらい。
でまた、よくこんなの買って、人に贈ろうと思うよな。
ただバラバラに植わっているだけで、「寄って」さえいないんだもの。
いや、祖父だって、内心はそう感じていたに違いない。
でも人のいい祖父は勝手にデフォルメしたら悪いと思ったのか、そのひどい寄せ植えを律義にスケッチし続けるのだった。
水彩で描く祖父の、あの絵はそのときの記憶だ。
さすがにあれを私の絵でまで再現する気にはならなくて、絵のモデルは果物に変えた。
果物もよく描いていたから。
***
それぞれのカメラをもって、一緒にぶらっとケアホームのまわりを散歩したことがある。
カピバラとかいるケアホームだった。
私が金網の向こうの景色を撮ろうとカメラを向けると、
「こうやってレンズのところをここに当てて撮るといいよ」って教えてくれた。
金網の菱形の隙間にレンズを当てて撮ると、網目に邪魔されずに向こうの景色が綺麗に撮れるんだ。
「こうして撮るといいよ」って、その言い方が好きだった。
孫とかそういうのに関係なく、全く対等に接してくれている感じが。
***
ロシア系の曽祖父の血か、味覚が少し日本人離れしているみたいだった。
若い頃は祖母に、誕生日にカスタードクリームをつくってほしいとせがんでいたそうだ。
もらいもののブルーチーズを家族のだれもが受け付けなかったのを、ひとりで「うまいよ」と食べていたっていう話も聞いた。
ケアホームのあっさりした食事は物足りなかったようだ。
たまに外食するとなると、ファミレスのドリアが大好きだった。子供みたいだ。
90代のお年寄りってこんなんだっけ?と考えてしまう。
そういえば娘である私の母も、私より油っこいものが好きだったりする。
藤沢の家では、朝食はいつもパンだったようだ。
でも、家族で行っていたときには、うちの家族にだけご飯が出ていたみたい。
というのも、父が和食でないとだめな人だったからだ。
朝食を食べ終わって、手を洗おうと流しに行くとき、台所の狭いテーブルで食べていた祖父の後ろを通ったら、ハート型のパン籠にトーストが載っていた。
「えっ、パン食べてる! いいなー、私もパンを食べたかったのに。
何で私には、どっちがいいか聞いてもらえなかったんだろう」って思って。
ちなみに私のうちでは、そういう理由で生まれてこのかた、毎日毎日、死ぬほど毎日ずっとご飯だったので、おとなになってからは、朝はぜったいパン。
***
祖母が亡くなったあと訪ねていくと、ケアホームの家賃とか管理費が思ったほど変わらないという話をしてくれた。
なんだか独特な算出方法なのだそうだ。
「ひとり減ったからだいぶ浮くかなと思ったけど、案外そうでもなくてね」と。
「ひとり減った」ってアナタ。
軽いユーモアさえ交えた語り口が… ほんとに、そんなに落ち込んでいなかった。
この人の信仰は本物で、この人を内側から強めているのだった。
祖父の印象は「気骨ある」って感じだった。
藤沢の家にあったソファみたいな、質実剛健な感じ。
祖父のそばにいると、しずかにあたたかいエネルギーが放射されてる感じがした。
「子供の頃は弱くって、いつも泣いてるみたいな子だったよ」って話してくれたことがある。
想像もつかなかった。
***
昔から、とくにおじいちゃん子というわけではなかった。
家族で藤沢の家へ行くのは、せいぜい年に一度。滞在するのもせいぜい、足掛け3日だった。
それを過ぎると、祖母がいらいらしてくるらしかったので。
祖父は、<赤毛のアン>に出てくるマシューみたいな感じで… 無口で、正直、あまり存在感がなかった。
祖母が二人分、いや下手すると三人分くらいよく喋った。
小さい頃は、祖父に頼まれて、ピアノをカセットテープに入れて持っていっていた。
祖父はそれを聞きながら絵を描いたりしていた。
あるとき、カセットからテープが飛び出してしまっていたのを、祖父は丹念に全部引き出して、巻き直して収めて又聞けるようにしてくれた。
仕組みを知らなかった当時の私には、まるで魔法のようようだった。
カセットからテープが飛び出したりしたら、人の腹から腸が飛び出したのと同じで一巻の終わりだと思っていたから。
あとになって、昔映写技師だったという話をきいて、この時の記憶とつながった。
***
若い頃はただ真面目だけが取り柄の不器用者だった、とよく聞かされた。
年を経るほどに円熟味を増し、独特のユーモアも相まって、飴色のつやを帯びていった感じ。
のんきで、自由で、心が広く、自分の好きなことに忠実で、身内に対してはけっこう我儘なところもあった。
祖父の魂のかたちを思い浮かべようとすると、丸みを帯びて磨き込まれた琥珀の塊を思い出す。
薄黄色で透明なやつじゃなくて、あたたかな茶色で、ごつごつとニュアンス豊かで、昆虫が封じ込まれたりしてるやつ。
教会の壇上で、一同を代表して祈るとき。
決まって低くしわがれた声で、「愛と、憐れみと…」と始める。
それはサザエさんのように、人を安心させる、偉大なマンネリなのだった。
小さな子どもたちが面白がって、しわがれ声で「愛と、憐れみと…」と口真似をしていた。
祖父には、「ああしろこうしろ」とか、「これをするな」ということを一切言われたことがない。
私がキリスト教をやめたときにすら、何も言わなかった。
「長老」まで務めあげた人だったのに。
変わらずに優しくしてくれていた。
***
さいごに遊びにいったのは、アイルランドの風景画の画集を持っていったとき。
あれを見てもらうのに、間に合ってよかったな。
眺めながら、「アイルランド面白そうだな。行ってみたいな」というのを聞いて、行けるんじゃないかと思った。
どうやったら連れていけるかなって、考え始めていたときだった。
もう一回くらい、遊びにいきたかったな。
亡くなったときはもちろん悲しかったけれど、そこまでじゃなかった。
むしろ感嘆の念に打たれたというほうが強い。
良質な映画のラストシーンを見るようで… 人って、こんなに完璧な死に方ができるのかって。
「さいごに50枚もの絵を描いてケアホームの全員に贈った」とか、「なくなる二日前まで伝道に出ていて、仲間たちに別れの挨拶までしていた」とか。
ちょっと、話が出来すぎなくらい。
フルマラソンをさいごまで完走するみたいに、自分の人生を、全力でりっぱに生ききった感じがあった。
これ以上を、求めちゃいけない。
拍手喝采して、「お疲れさまでした!!」って感じだった。
***
それからずっと、いつか祖父の個展を開きたいなと思っていた。
会場を探して、下見に行ったこともある。
でも… 人のいい絵描きあるある。
よく描けた絵ほど気前よく人にあげてしまって、ほぼ散逸状態。
どの絵が誰の手に渡ったのかほとんど知らないし、そもそも、どんな絵をどれだけ描いていたかの全体像すら、同居していなかった私は知らない。
祖父があげてしまった絵を、私が探してまわるのもどうかと思うし。
でも、こんなもんじゃない。
祖父が生涯に描いた絵の数と規模は、ほんとはこんなもんじゃない。
残されたスケッチブックをパラパラしながらため息をつき…
どうにも八方ふさがりで、腰が上がらなかったのは、そういうこともあった。
アナログ絵の唯一性って、罪だよな。
ひとりずつがオリジナルの絵を一枚ずつ持ってるより、みんなが全体を共有できた方がぜったいいいのに。
でも、とにかくあれだけの人のことを、このまま忘れ去られるままにしてはいけない。
何とかまとめて、形にしたい。
自分のことで忙しかった長い年月の間も、ずっと心の隅には掛かっていた。
こんな、よりによってほぼ全く資料が手元にない状態で、取り掛かることになるとは思わなかったけれど。
ほんとに、いよいよどうしようもないところへ追い込まれるまで、自分で絵を描いて祖父の人生を再現しようってことは思いつかなかった。
窮すれば通ずというやつ?
資料をとりに家へ戻ることすら許されない状況への怒りが爆発して、
「もういい! 全部自分で描いて取り戻すからいい!!」ってなった。
人の顔を思い出して描くだけならともかく、人の絵を記憶だけで絵に描くってどうなの?
ある意味、もとの絵への冒瀆ではないだろうか。
どう逆立ちしたって、元の絵を完全に再現することなどできないのだから。
でもごめん、今の私にはほんとに、それしか方法がないんだ。
祖父があんなにも描いたことを、あんなにも美しい絵をたくさん描いたことを、私はどうしても伝えたかった。
こういう人が、かつて地上に存在したことを。
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