2013年12月25日

喪失について 1


これまであれこれ片づけながら、いままで失ったものや手放してしまったものについて、否応なくいろいろと考えた。
そのうち、それはつまり、自分がどういうものに価値を置いているのかということなのだと気がついた。
自分が大切に思うからこそ、忘れられないからこそ、「失った」とか「手放した」とか思うのだと。

片づけに明け暮れるうち、気がつけばクリスマス。
せっかくだから、クリスマスへの自分の複雑な思いもこの機会に整理を。



クリスマスのことを考えると必ず思い出すのが子供のころに描いた2枚の絵だ。
1枚は、幼稚園のときに描いたもの。
真ん中に、四角いレンガの鉢に植わったクリスマストゥリー。
その上を、トナカイに引かせた橇に乗って飛ぶサンタ。
淡黄色に紫の文字で<メリークリスマス!!>
ふつうにボールペンで輪郭を描いて色鉛筆で塗ってある。

その頃は、よくそういうの描いてたな。
これも幼稚園のころだったけど、12月のカレンダーをつくって、その25日のところに色紙の窓を貼りつけ、窓を開けるとサンタが手を振ってる、みたいのをつくったこともあった。
ステレオタイプだろうが何だろうが、とにかく好きでたまらなかった。

もう1枚は小学校2年生くらいのときに描いたもの。
こちらは虹の七色のクレヨンで画用紙を塗ったうえに、さらに黒のクレヨンで全体を塗りつぶし、尖ったもので引っかいて描いた。
こうすると、黒地に七色のラインが浮かび出るのだ。
描かれているのは、やはり真ん中に、レンガの鉢のクリスマス・トゥリー。
まわりにとんがり帽をかぶり、オーバーオールを着た小人たちが、トゥリーに梯子をかけたりして忙しく飾りつけしている。

子供の頃、描いた絵はわりとすぐ捨てたり人にあげたりしてしまっていた。
けれどこの2枚は手元に残していた。
なぜかレコードプレイヤーの上で、ずっと埃をかぶっていた。

あるとき、小学校4年くらいのときかな、居間の家具を入れ替えるというのでそのレコードプレイヤーを含め、オーディオセット一式が別の部屋に移された。
それからしばらくして、あの2枚の絵がどこにも見当たらないことに気がついた。

「私の絵は?」と聞くと、
「知らないよ。自分がちゃんと管理しとかないのがいけないんでしょ」と言われた。

そのときのショックから立ち直るのにしばらく時間がかかった。
今でも思い出すと心痛む。
それまでも私は奪われていたのに、二度までも奪われた! という思い。
私の家ではクリスマスを祝うことを許されていなかった。

私の家は3代つづいたキリスト教の家系だ。
曽祖父はロシア正教徒だった。
おそらくロシアの血が入っていたのだろう。
「目が青かったのよ!」と、何度も聞かされた。

祖父母と母親はプロテスタント系だ。
なのにクリスマスを祝うことが許されなかった。
クリスマスはキリスト教にローマの異教が融合して生まれた背徳の祝祭で、もとは冬至に行われていた、ローマの太陽神崇拝が起源なのだそうだ。
とか何とか。

そんなわけで、私は学校のクリスマス会なんかにも参加できなくて、しかもそれを自分で言わないといけなかった。
もごもごと口ごもりながら、やっとの思いで「私、クリスマスは祝わないんです」と説明しても、そんな生徒に出くわしたことのない先生のほうは訳が分からない。
「大丈夫よ」とかいう先生もいて、いやアナタが判断できる問題じゃないのよ・・・
でもそんなこと言ったらさすがに失礼だし・・・
それにしても、「祝わない」って言いにくっ!! 「祝う」っていう日本語は、つくづく否定形で使うことを想定してない言葉なんだわ・・・

あとになって、ポール・オースターも子供時代に同じ経験をしたのを知った。
彼の場合はユダヤ人だったからだけど。
こんな経験をした人はたくさんいるにちがいない。

子供時代からクリスマスと誕生日と、この二つを奪われるということは、取り返しのつかないものだ。
どんなに惜しみなく愛を注がれ、それからクリスマスでも誕生日でもないほかの日にいくら心のこもったプレゼントをもらおうとも、決して埋め合わせのできるものではない。
ほかのどの日でもないその日にもらうことにこそ、意味があるのだから。
というか、ほしかったのはプレゼントでさえなかった。

何がほしかったのかっていうと、
クリスマスを祝えるということそのものがほしかった。
後ろ暗い心なしに、トゥリーの輝きを堂々と愛せるということがほしかった。
クリスマスのイデーそのものが。

クリスマスの時期に塹壕で戦っていた兵士たちや、アウシュヴィッツの捕虜たちでさえ、こうしたものまで奪われはしなかった。
クリスマスのイデーを心の中で愛することまで禁じられはしなかった。



私にとって、クリスマスは何よりもクリスマストゥリーだ。
トゥリーさえあればほかはいらないくらい。
トゥリーにこそクリスマスのイデーが凝縮されている。

見上げるように背の高いのもいいけど、どっちかっていうと1メートルとか50センチくらいの小ぶりのやつが好き。
綿の雪がちぎってところどころに乗せてあって、星の飾りや針金モールのトムテみたいなサンタが下がっていて、昔ながらのろうそくの炎の形をした、ピンクや青やオレンジのあたたかい色合いの電飾が、・・・ちかっ、・・・ちかっ、て光っているのがいい。

・・・って、なんでそこまで具体的なんだろう?
書きながら、ふと考えたら、思い出した・・・
そういうのがピアノの先生のうちにあって、自分ちにはなかったからだな。
外を歩いていて、人のうちの窓辺から、そういうのが・・・ちかっ、・・・ちかっ、てカーテン越しに見えるのもいい。

それよりもっと好きなのが、20センチくらいの高さのガラスのクリスマストゥリー。
カットグラスより種からつくる吹きガラスのがいい。
脆いけれど、ずっと有機的なラインをもっていて、ちょっとした具合で枝のひとつひとつが全部ちがう。
トゥリーそのものはもちろん緑。
で、ぜんぶの枝の先がくるんと跳ね上がって、そこに飾りを下げられるようになっていて、やっぱり吹きガラスでできた、ひとつひとつちがう色々な飾りを下げる。

そういうのを小さい頃お店で見て、世の中にこれほど綺麗なものがあるだろうかと思った。
そういえば、いちどそんなのを紙粘土でつくろうとしたのだっけ。
でも、形は似せても、質感がまるでちがった。
あの透明な輝きがないと意味がなかった。
ガラスでないと、意味がなかった。

おとなになってから、友だちと京都へ行ったとき、雑貨屋の片隅で偶然そんなのを見つけた。
その場で即買い。2000円くらい。
しかも夏だった。

それからしばらくの間、クリスマスの時期になると取り出して飾って、いつも2月くらいまで出していた。
てっぺんに赤い星がついているのだけど、何度目かの冬に水道の蛇口にぶつけてそこをちょっとだけ欠いてしまった。

ひとつひとつ、セットの小さな飾りを枝の先に下げていくのが好き。
リース、ミニトゥリー、雪だるまはとてもよくできていてお気に入り。
ろうそく、サンタ、クロス、ブーツ、キャンディーあたりまでまぁいい。
けれど、ベル、天使、星は不恰好でちょっと失敗作じゃないかな。
いくつかのフルーツに至っては・・・なんでここにブドウの房が?みたいな。

こだわりだすときりがない。
時にはセットのガラスの飾りのかわりにピアスとか指輪とかペンダントトップとか、いろいろ吊り下げて気分を変えてみた。
金銀の細いチェーンをまとわせてみるのも楽しいが、それには緑のじゃなく、クリアなトゥリーのほうがいいかも。
やっぱりガラスのトゥリーにはガラスの飾りがいちばん合うみたい。

そのうちめんどうになって必ずしも毎年出さなくなり、出さなくてももっているだけで満足だった。
今年久しぶりに出してきてまた飾ってみた。
うーん、前からうっすら思ってはいたけど、ガラスの赤い部分がちょっとオレンジっぽいのが気になる。
クリスマスの赤はほんとは真紅って感じの赤だといいのだけどな。
・・・こだわりだすときりがない。



普通の大きなトゥリーに飾るオーナメントを見て歩くのもいい。
シーズンになると大きなデパートなんかで実にバラエティー豊かな色んなオーナメントをおいている。

なかでもいちばん心惹かれるのは、星や雪の結晶のモチーフで、やはりガラスとかラインストーンとかのキラキラしたクリアな素材のものが好き。
こうしたモチーフなら吹きガラスじゃなくてカットガラスのほうが好きかも。
もともとが鋭角的なモチーフだし、それにぎざぎざした形をしているので、吹きガラスだと実に壊れやすいのだ。

まるい飾り玉で、上品なパステルカラーの地に金銀で細いアラベスクが入ったようなのもいい。
掠れたような金色のクラシックな天使たちもいい。
金銀に染められた松ぼっくりもいい。
柊の飾りなんかもいい。

あまりにいろいろ見て歩きすぎて目が肥えてしまい、さいきんは完璧に気に入ったといえるものになかなか出会わない。
というか、そろそろ見て歩くことに「気が済んで」しまったのかも。



電飾をつけるなら、昔ながらのあたたかい光のやつがいい。
あまりめまぐるしくパターンが変わるやつじゃなく、ゆっくりおだやかにチカチカするのがいい。
淡い金色一色のもいいけど、マルチカラーのもいい。

発光ダイオードは偉大な発見だと思うが、あのクールな輝きはむしろマリブのビーチバーなんかに似合いそうだ。
正直、クリスマスにはどうかと思う。
とくに青系のイルミネーションはいけない。
ただでさえ寒い季節なのに、見ているとよけい寒くなる。
いま、私の住んでいるつくばの駅の近くの遊歩道の街路樹が目の覚めるようなブルー一色に飾り立てられていて、見られたものじゃなく、目に入るとあわててそらしてしまう。

それから、あくまで一般論だけど、大きいと大きいほどどうもディテールが適当な感じが。
駅前の大きな<トゥリー>なんかだと、かんじんの木がなくて、ただ巨大な円錐形に枠組みをつくってイルミネーションを這わせ、飾り玉やリボンで隙間を埋め尽くしただけ、というのも。
まぁ綺麗だからいいか、と思う一方、・・・っていうかそもそもこれをトゥリーというのか? というかすかな疑問が。



ふつうにお店で手に入るトゥリーの本体はもちろん本物のトウヒではなくイミテーションだが、それはそれでいいと思う。
フェイクファーをそれはそれでいいと思うのと同じことだ。
それで本物の木が切られないですむのなら。

昔ランダル・スチュアートが、キリストの自己犠牲の、現代に残る数少ないアナロジーとしてクリスマストゥリーをあげていたのを読んで驚いた。
というか、そのことを、さいきん論文を読み直していて思い出した。

本物の木を使う場合に、ふつう切ってきて使うことは知っていたけど、信じられなかった。
だいたい木は、人間どもの犠牲となることにいつ同意したのだろう。

あ、そっか。それで私が子供の頃描いたトゥリーはいつも、レンガの鉢に植わっていたんだな。
切られてしまった木に飾りつけするなど、考えただけでぞっとするもの。
死に装束じゃあるまいし。

木は、人間たちよりよほど格の高い種族だ。
我々はもっと木から学び、木をふさわしく尊ぶことを学ぶべきだ。

クリスマストゥリーのあり方というのも、だから、木を切ってきて家の中に飾りつけるのではなく、できれば我々のほうが雪を踏み分けて森へ出ていって飾らせてもらうべきだと思う。
焚き火でも焚きながらね。
古代の太陽神崇拝もそんな感じだったのかもしれない。

古代の人々がトウヒやヤドリギを不滅の生命の象徴として崇めたのはまったく正しい。
木は我々よりよほど神に近い種族なのだ。



やれやれ、これでようやく、どこへ行っても逃げられないあの能天気なクリスマス・ソングから解放される。
あれは音の暴力だわ。
いいかげんにしてほしい。
といって、お正月の雅楽も苦手だけど・・・。

今年は横浜のクリスマスを味わえたのがよかったな。
3月から念願のスケートクラスに通い始めて、これまで都内だったのが、12月から横浜のリンクへ。
毎週土曜、朝5時半に起きてまだ暗いなかを飛ばして6時半の電車に飛び乗り、8時すぎに着いて、駅前のカフェで軽い朝食のあと、9時からのクラス。
だいたい昼過ぎまで滑って、そのあと桜木町へ散歩に出かける。
まず日本丸を眺め、それから気分次第でぶらぶらしながら赤レンガ倉庫のところまで歩く。

12月からこっちっていうのがよかった。
赤レンガ倉庫のところにクリスマスのイルミネーションとトゥリーと、ヒュッテというドイツ式の屋台が出ていて、プレッツェルやホットワインなんかを売っている。
夕暮れまで時間をつぶして、水上バスの切符を買い、虹色の孔雀みたいに綺麗な観覧車のネオンを眺めながら横浜駅まで帰ってくる。
夢のようなひととき。



いつかパリでクリスマスを過ごしてみたいな。
イルミネーションに輝くシャンゼリゼを歩きたい。

マディソン・スクエアのクリスマスも体験してみたい。
あ、でもこっちはニュー・イヤーのほうが有名かな。

クリスマスのイデーを求める旅路はまだまだ終わらない。

「喪失をのりこえるには、まずきちんと悲しまなければならない。
 そうしてはじめて乗り越えることができる」-ジュリア・キャメロン





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Posted by 中島迂生 at 21:54Comments(0)身辺雑記

2013年12月21日

片づけについて 1-住みたい部屋を考える-


いつかはこういう日が来るだろうと、うすうす気づいてはいた。
劇団の活動に生活空間を乗っ取られてしまった。

今までに4作品、つくりあげてきて、それまでも寝室はほぼ物置き状態だったのが、大道具やら衣裳類やらでいよいよ身動きがとれなくなり、向こう側の棚の扉に到達することもできない状態に。

四六時中、道具類を見ているのも疲れてしまった。
いったん目につかないところにしまいこみたい。

ここらで何とかしないといかん。
そこで腰を上げたのが2012年の秋くらいからだった。

そのへんから前後して、堰を切ったように、それまで気になりつつも放置していた色んなものを片づけにかかった。

劇団活動にひと区切りつけて、新しい扉を開ける前に、今までの色んな活動をいろいろ片づけたい季節なのだと思う。
ここ1年半くらいの日記を読み返すと、大方は片づけのこととスケートのことで埋まっている。



まず、段プラでつくった大道具類は、たたんであっちの書棚とこっちの書棚の裏側に滑り込ませた。

劇団衣裳類は衣裳ケースにまとめてクロゼットの上段、<エニス>の7枚の背景幕をたたんでしまってあるとなりに。

たためない道具類その他をしまうために、5月の連休を使って、寝室の壁の二面にあらたに棚をつくりつけた。

それでやっと、床が見える状態に。



内装と家具について、など。

家具はわりと自分でつくるほう。
いまも小学生のときにつくった机、引っ越すときに廃材でつくったベッドなどを使っている。
ペンキ塗りもよくする。
考えてみると、ほぼすべての家具に自分の手をかけている。

片づけよう!ってなったときにも、ただ片づけるだけでなく、同時にしぜんといわば外枠の整備にかかる。
家具を処分したり、移動したり、ペンキを塗ったり、材木を買ってきてあたらしく棚をつくったり、窓まわりのデザインを考えたり。
だから時間がかかる。

3月、キャスター付きの引き出し棚をいくつか整理して、ひとつを苦労して解体し、処分。
思いのほか体力を要してきつかった。

4月、クロゼットの掃除と整理。
大道具類の材料の余った段プラ類などけっこうとってあったのだけど、このさいいったん処分。
ワードローブを整理して、劇団関係以外の衣類もだいぶ処分した。

5月、前述の、壁面二面に天井までの収納棚をつくりつけ。
ホームセンターで買った材木を運ぶのに軽トラを借りた。

基本、収納スペースは天井まできっちり使い切る。
空間をムダなく使うということにもなるし、それによって棚の上に埃がたまらない!という偉大な効用が。

6月、使い勝手の悪かった本棚を寝室から玄関に引っぱってきて、前面にスタンドミラーから外した鏡を蝶つがいで取り付け、シュークロゼットに。
鏡が重くて大変だったけど、今は大活躍でお気に入り。

7月、鏡つきの収納棚に白ペンキ+流し台の上に取りつける。
それまで流し台の上に鏡がなかった。

8月、ずっと気になってた大物をいくつか処分。
はじめてネットで粗大ゴミ収集を予約した。

9月、イス数脚、エレピ台その他に白ペンキ。

10月、ずっとどうしてもイヤだったアルミの鎧戸と、窓ガラスのチャコールグレイのアルミ部分に養生して白ペンキ。
窓は3か所。カーテンレールがキライなのでハテナ釘を打ってポールを取りつけ、木製の洗濯バサミに針金でフック部分を加えた手製のハサミフックで白い木綿地の布を吊ってカーテンに。

バランスを見ながらいろいろ試して時間かかった。
でも、おかげで今は目に入るたび穏やかな気持ちになれる窓。

そんなのでいちいち時間がかかる。エネルギーも要する。
まぁ仕方ないよね。



モノがだんだん片づいて 部屋本来の様相というか骨格というか
それが見えてくると
当初の不満があらためて目につくように

たとえば
・・・塩ビの壁紙はもうイヤだよ。
化粧合板の床板、イヤ。
アルミの窓枠、イヤ。

たしかに見せられたサンプルの中から自分で選んだ壁紙ではあるが
その中からしか選べないという時点で ほんとに選んだことにならない
貼ったすぐあとに「これ、剥がすにはどうやったらいいんですか?」と業者に聞いて
イヤな顔をされた

今となっては、重たい家具を置いたり、つくりつけのクロゼットや棚をつけてしまったりしたから、すぐにどうこうするのは難しい。

それでも、やっぱり。。。
塩ビの壁紙なんか貼られていたら、ほんとうの家とはいえない
よくみんな我慢してると思うよ

そういうところの感覚が鈍感になっているのはよくない 間違った鈍感さだと思う
ずっと住むなら、何とかしないと



いまの部屋の壁はコンクリ板らしい。
塩ビの壁紙より、剥き出しのコンクリートのほうがよっぽどいい。

コンクリの空間は、わりと昔から惹かれる。
90年代後半くらいにできたバーで、コンクリのままの壁で、照明は暗めのブルー、みたいのがよくあった。
そういうの好き。



AZUL by moussy の空間好き。
黒や暗色系の内装
音響がよくて、クラブっぽい音楽が大音量でかかっていて
すごくいい香りのミスト

包み込まれるような居心地のよさと
気分が高揚する感じ
いるだけで幸せ

モノクロの女の子の写真
すてきだなぁと思って眺めていると
別の店舗ではそのショートムービーが流れていて

あれ、つくる人になりたい
採用情報とか真剣にチェックしてしまった



映画を見ても、調度に目がいくように

<人生に乾杯>ってハンガリー映画。
老夫婦の暮らす部屋は、まだ賭けに出る前の、積み重なってきた過去
茶色やモスグリーンを基調として、年月を経て落ち着いた居心地よさ
昔の人の部屋って、けっこう濃い色の、しかも花柄の壁紙だったりする
あれをセットとしてあらたにつくったのならすごいな

<ハリーとトント>
頑固なおじいちゃんの部屋だが、白が基調の明るいモダンな感じ
持ち主の変化を怖れない、自由で若い精神をあらわしてる

SATC(映画版)のキャリーの部屋
壁をけっこう濃い水色に塗りなおすのだけど、ドアや窓枠なんかは白いままに残していて、ウェッジウッドの陶器みたいでいい感じ

さいきん、ペパーミントグリーンの壁に惹かれる
この色はかげんが難しい
濃すぎるとしつこくて見てられないし
薄すぎるとむしろ白より弱い
黄みの入り具合でもぜんぜん違う

<バグダッド・カフェ>で彼女が暮らす部屋の壁は、だいぶ前に塗ったのがいい感じに剥げたペパーミント・グリーンで、味があって魅力的
差し込む日のあかるみをより引き立てるような



これが家ってものだわ!
というイデーをはっきり得たのは、イギリス。

石もりっぱに有機物だわと思うようになった
石造りの古いとても素敵な建物をたくさん訪ねたり、泊まったりしてから



いまの部屋はシェルターだ
外の眺めが好きじゃないから
白いカーテンを通して光を入れるだけ
窓は開けない

でもほんとは窓を開けた外の世界といい関係でいるって大切
だから
次に住みたい部屋の条件は
窓を開けた外の眺めが気に入ること






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Posted by 中島迂生 at 22:48Comments(0)身辺雑記片づけ2013-2014

2013年12月21日

片づけについて 2-ものの持ち方を考える-



「片づけコンサルタント」、近藤麻理恵(こんまり)さんの本。
片づけたいな!と思った頃に出会って、ここ1年半くらいずっと愛読してる。

巫女さんだった、というのが、すごい説得力のあるところ。
すごく若いけど信頼できる、と直感的に思える。
理屈や経験だけでなく、自分を越えた力を感じとって、そこからものを言う人。
モノの気持ち、家の気持ちを感じ取ることができる人なのだ。

いちばん大切なものは、目に見える現実や論理を超えたところにある。
いつだって直感的、本能的なところにある。
いわば原始的なアニミズム。
それを知ってる人。



こんまりさんの本より、個人的なメモ。
一字一句その通りではないけど、だいたいの感じ。

「片づけを始める前に、自分がどういう部屋に住みたいか、それはなぜかを徹底的に考える
 具体的にイメージする
 つまり、ゴールを設定する」

「使ってないモノは、持ち主のこと恨んだりしていない、ただ役に立ちたいと願っている
 役に立たないのであれば、外に出たいと願っている
 人だけじゃなくモノもエネルギー
 たとえ燃やされて原始のレベルにまで分解したとしても、役に立ちたいというエネルギーは残る
 放っただけのエネルギーが形を変えて戻ってくる
 もっと素敵なモノに生まれ変わって、あるいはご縁や情報というかたちで戻ってくる
 すべてはエネルギーの形で循環してる」

「いらないものを捨てるのではなく 残すものを選ぶ
 自分の持ち物の中から、お店で買うものを選ぶときのように」

「迷ったときは、モノ本来の役割を考える
 そうすると、驚くほどたくさんのモノがすでに役割を終えていることに気づく」

「判断を下すレッスンを繰り返すことで判断力が磨かれていく
 自分の好きなものがはっきり分かって
 自分を好きになる」

「要るか要らないかは自分の身体に聞いてみる
 収納は自分の家に聞いてみる」

「どうやって収納すべきかは部屋じたいが知っている
 おうちが喜ぶ収納になっているか」

「片づけ終えると、人生がドラマティックに変わっていく
 子供のころからの夢を思い出して起業しちゃいました とか
 独立したとか転職したとか仕事がうまくいくようになったとか
 なぜか3キロ痩せましたとか
 会いたかった人から連絡が来るようになりましたとか」

「片づけたところと同じようなところが反応する
 服を整理すると、ぜい肉がとれてすっきりする
 本や書類を処分すると、頭が軽くなる
 水まわりを片づけて化粧品類など減らすと肌がうるおう」

「ひとりの時間は 大切な人と過ごすために もっとすてきな自分になるためにある」

「疲れたときは片づけを休んで いま身のまわりにあるものに感謝する」



こんまりさんのブログより。

「かなりの割合で、成功してる人の家は片づいています
 そして彼らはたいてい、成功して広い家に住んでいるから片づいているのではなく、
 広い家に住む前からさっぱり片づいた家に住んでいるのです

 低所得層の居住区域ほど、外から見てもモノが多い印象で、ベランダにゴミ袋や壊れた椅子などが放置されていることが多かったような。。」

「手紙の役目、水まわりと心の潤い、部屋を背負っているということ。」

「受け取った瞬間が最高の状態」

「空気が変わる 部屋が軽くなる

 外に出すものと残すものの区別ができるようになる
 ふしぎとこれは外に出たがっている、というのが分かるようになる」

等々、等々。。



片づけって、哲学的
片づけについての本がいっぱい出てるのも分かる
モノを処分するにも、買ってきたりつくったりするのと同じくらいの手間がかかる。
時間もかかる。お金がかかりさえもする。
片づけのために生きてるの私?
これじゃいつまでたっても先へ進めない・・・



回転を速くしてゆくということ。
ただしまいこんでいるだけでは意味がない
でも 昔のこと忘れて、自分の出自や愛してきたものを忘れてしまうのが怖い

回転速い人たちって、あまり惹かれずにきた
ただ次から次へと回転しているだけで、核がなくて薄っぺらな印象で

回転速い人たちって、昔のことどうやって覚えているの?
そのつど新しいものを取り込むために、過去をぜんぶ忘れていくの?

手放してしまったけど今でも覚えているものはいくつもあるな

溜めこんで持っておくのは過去を見つめること。捨てるのは未来に目を向けること。
どっちも大事。

未来は可能性、でも不確実。
不確実なものを受け入れられるってことは、柔軟性であり、自分への自信ってこと。



好きな服はとことん着て擦り切れるし
着ない服は擦り切れないから いつまでもずっとそこにある という逆説



衣類の処分、とくに田舎暮らしで車ないとなかなかたいへん

リサイクルショップも一長一短
たまーにこないだの指輪みたいなこともあるけど

苦労して運んでいっても引き取ってくれなくて、また持って帰ってくるはめになるの、ほんとにイヤ。
引き取ってくれるときも、いちいち個人情報書かされるのがほんとにイヤ。

だから古布の日に出すと
雨に降られてしまったり それでまた罪悪感が



まだ使えるけど使わないもの、よそでも引き取ってくれないもの、
どうしようもなくボロボロになってしまったもの
きちんと感謝して送り出して すっきりして
でもやっぱりどこか心が痛む



旅行、好き。
すばらしい経験だけして、あとに何も残らないところがいい。
花とキャンドルも好き。
見飽きる前に、萎れたり溶けたりしてたちまちなくなってしまうところがいい。



モノに対して、間違った責任感をもっていたかも。
私のところへ来ちゃった以上は、って。

好きじゃなくても、使わなくても。
とっくに飽きてしまっていても。

女に飽きるように、手に入れたときは心からほんとに好きでも、自分でも気がつかぬうち飽きてしまっていて、罪悪感もあってそれを自分に対して認めたくなく、それで捨てはしないけど手にとるもない、ただ置いてある、みたいな

資源ムダにしちゃいけないし、とか
まだ使えるのだから使ってあげなきゃとか

ソリッドにそこにあるから 尊重しなきゃいけない気がして
軸をモノ自体に置いてしまっていた 自分自身にではなく



でもやっぱり、いちばん大切にすべきは自分の気もちだよね
流動的で、変わりやすいものだけど

自分自身と同じように、モノも、ほんとはソリッドではなく、常に流動的なもの。
自分が変わるにつれ、モノが自分に対してもつ意味も変わっていく。



いろんなことがあるな。
愛着なくなることもある。
必要ないのに、手放したとたん落ち着かないことも。
ぜひとも欲しいものが手に入らないことも。
かと思えば、それが誂えたようにすとんと自分のところに来ることも。



片づけが進むにつれ 部屋がすっきりと、居心地よくなって
部屋で過ごす時間が 穏やかで心楽しくなってきた

ただそこにあって埃をかぶっているだけのものがなくなって
すべてが必然性をもって役割をもっていきいきとそこにあるという感じ

身体的にも、体のなかのよけいな部分が削ぎ落とされた感じ
気もちよいすっきり感



掃除も苦にならなくなった

考えてみると掃除のめんどくささって
かなりの割合が掃除じたいじゃなく、そのためにモノを動かすめんどくささ

卓上や床によけいなモノがないと、動かす手間もないので
掃除がほんとにあっというまに終わる

苦じゃないのでまめに掃除するようになる
ますます居心地よくなる
といういいサイクルに



上着のポケットやバッグやバイクのバスケットによけいなものを入れなくなってから
動きが速くなったような
よけいな時間をとらずにさっと動けるようになった

買い物とか用事とかすませるのも速くなってきた
あまりいろいろ迷わなくなって、選ぶのが速くなった
見た瞬間に、買うか買わないかだいたい分かるように



自分がほんとに好きなものを大事にしていくこと。
それしかないであろう。






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Posted by 中島迂生 at 22:43Comments(0)身辺雑記片づけ2013-2014