2013年12月21日

片づけについて 3-過去の書類を整理する-



混沌として、とてもvulnerable な。
自分の部屋にある諸々のモノについて、そういう感覚をもっていた。
でも、そこを突きつめると、

ほんとうに大切で、ぜったいに失いたくないのは、おおかた、自分の作品だけ。
それ以外はとくに。
作品というのは、まず文筆作品であり、それから絵などのアート作品と、劇団関連、少しは自分の書いた曲など。

それも、なぜ大切かというと、唯一性。
基本、それを持っているのが私しかいないから、まだ世に出ていない限り、ひとたび失われたら再現できないからだ。

それも、昔だったら「世に出る」とは例えばそれが本になって出版されるようなことを意味したが、ネットのおかげでとりあえず上げておきさえすればavailable になった。つまり、読む気のある人には読んでもらえることが可能になった。

ということはつまり、ネットに上げていないから気にかかっていただけで、ネット上にデータさえちゃんと保存されていれば、available でありさえすれば、モノじたいに執着している対象など、実はほとんどないことに気がついた。



書類について。

10月、書類の整理にとりかかった。
私の場合、書類とはおもに自分で書いたものだ。

とりあえず、引っ越したときから書棚に入りきれなくて段ボールに入れっぱなしだったもの。
全部出して、テーマ別に床に積みあげたら、9つの山になった。

・劇団関係
・セントパトリックス・フェス関係
・高校時代の教材関係、講師になってからの教材関係(おもに古典と英語)
・大学時代の講義メモ、キリスト教時代のノートや思索メモ、<創造的な不幸>のためのメモや資料類
・牛久沼環境保全活動関連
・アイルランド入管問題資料
・文筆作品のためのメモ、下書き、プリントアウトなど
・ファッション、アート関連の雑誌や切り抜き
・ふつうに日記

ほとんど床を占領されて、とりかかる前から疲れてしまった。
こんなにあるんだなー やれやれ。。



生きて、活動していくことで、どんどん色んな書類や作品がたまっていくのを一体どうしたらいいのだろう。
全部捨ててしまうのではやってきたことを無に帰すようだし、でもいちいち全部とっていると埋もれて息がつまりそう。
もう興味ないのは邪魔なだけだし、まだ執着があるものは、しかるべく評価されたり解決していないことが頭にくる。

書類がたまることのひとつの大きな原因は、アナログ時代にやたらコピーをいっぱいつくりすぎたことだ。
電子文書にしてネットに保存しない限り、脆弱性は変わらないのに。
でも、その頃は人に説明するのに、一式コピーして渡す、ということをしていたから。
原本のほかに、そのままコピー機にかけられる印刷用原本、メモなど書き込んだ自分用コピー、すぐ人に渡せる予備コピーなどつねにつくっていた。
それでどんどんかさが増えてた。

ひとつの活動にかかりきっているときって、関連するさまざまなことにしぜんとアンテナが向くし、放射的に広がっていくから、しぜんといろんな資料がいろいろ集まってくるし
フェスなんかに出展するとなると展示用にまたいろいろつくったり、飾り立てたりして、それでまたどんどんかさが増える
本質の核のところはそう大量にはないって、分かっているのに



小さいころの絵とか工作品とか、おおかたは惜しげもなく手放していた
飽きると執着がなくなって、すぐ人にあげたり捨ててしまったりしていた
文筆作品も、中学生くらいまでは、ひとたび清書しおえると、下書きはどんどん捨てていた。

おとなになってから、子供時代についてまとめようと試みたことがある。
あの膨大な落書きと書き散らしの山なしに、それを再現するのはちょっと無理があることに気づく



やたら何でもとっておくようになったのは、おとなになってから。
メモ、下書き、書き散らし、清書したのやタイプしてプリントアウトした書類。
それらはすべて、自分の精神のエクステンション。
とりあえずとっとかなきゃ、というのがあった。

ヴァルター・ベンヤミンのアウラ。
手書きの文字が印刷に変換される過程で失われるもののことを、彼はアウラと呼んだ。
等々。

アリス・ベイカーだったかな? 自宅が火事になって、自分の本の下書きメモや色んな資料が全部焼けてしまったと、ものすごくショックを受けた様子で語っていた。
その本はもう無事に世に出て、賞を取ったりしていたのに。
下書きや資料くらい別にいいじゃんと、当時の私には思われた・・・何をそんなにショック受けてるんだろう、この人は?
ひょっとして、私の感覚が間違っているのかな?
下書きやら資料やらって、そんなに大事なものかしら。

それから、しばらく法律事務所に勤めて、そこで手に入る限りの資料はすべて<書証>としてためこむ習慣が身にしみてしまった。
当時、私のまわりにはアウラ的な感性を大切にするアナログな人たちが多かった。



もう興味なくても、まだネットに上げてないものは、きちんとまとめて、体裁を整えてネットに上げよう。
まだ執着があって解決していないものは、これも今までのところをきちんとまとめて、整えてネットに上げよう。
ネットに公開することで自分の中での解決としよう。

手書きの文書でも、コピーは全部捨てていいよね。原本だけとっておけば。
それで原本をスキャンして電子文書にして、ネットに上げる。それでいいよね。

お世話になった色んな団体の活動案内資料とかパンフ類とか。
敬意と感謝の念は変わらないとしても、今の自分にとってあまり意味をもたなくなってしまっているものはもういいよね。
それは彼らの活動なのだから、彼ら自身が原本を管理していれば。

そして原本をミニマムにまとめたら、テーマ別に、年代順にファイリングして、いつでも取り出してパッと見られるように、きちんと棚に並べる。それでいいよね。

とにかく書類は、どこに何があるかひと目でパッと分かって見やすい、取り出しやすい、それが大事。
だから必ずファイルして、立てて、パラパラ見られる状態にまとめておくこと。



書類を整理するっていうことは、その問題をもういちど生き直すということだ
気持ち的にすごくめんどくさいし、けっこう疲れる

でも、そうしてはじめて全体が見えてくるし、本質がつかめて、必要な部分が見えてくる
ここは要るような気がしてたけど、よくよく考えたら別に必要ないなとか、そういうことが見えてくる
そうしてはじめてかさが減って、秩序だって、結果として、棚の限られたスペースにもすっきり収まるようになる

全部に目を通して、内容を確認し、年代順に並べ、重複するプリントアウトや、複数のバージョンがあるものは、最終版だけ残してあとを捨てる

行き詰って頭が疲れると、息抜きして映画を見たり、一日置いたりした
そうするとまた力が回復してきたり、整理の仕方が見えてきたりした



劇団資料も片づけて、色々見えてきた
さいしょの<エニス>では私、ほんとに色々試行錯誤してたな。
ほんとに色々、いろんな形式で何度も書いて、膨大な量の時間を費やした
でも3作目、4作目とつれて脚本はどんどん短く、コンパクトになって
分かってきたんだ 歌も踊りも入れて、全部含めて30分ってなると、
どうしたって脚本はミニマムになるしかないんだって

劇団ちらしのプリントアウトとか、訂正シール貼りとか
ほんとがんばったな私。夜中まで、あのクソのろいプリンタで
ほんとがんばったよ ほんとお疲れさま



予備校講師時代の教材やら資料やら、段ボール3箱分を整理して、いっぱい捨てた
もう使わない、戻るつもりもないものを取ってあったのは、過去の自分の仕事へのリスペクト。
でも、ほんとに好きなものだけ選んでいったら、ほとんど残らなかった。

使ってた教材じたいにとくに愛着はない・・・というか、ぜんぜん
ほんとに自分がつくったといえるものだけとっておけばいい

とくに愛着があるのは、高校時代の古典のノートと、講師になってから既存のテキストに飽き足りず、自分でつくった古典文法基礎のテキスト。
基礎でつまづいて3年まで来てしまった生徒から、「・・・そういうことだったのか!」って言われたときは嬉しかったっけ。

私、ほんとに古典文法が好きなんだな、と改めて気づく。
古典の内容そのものより、文法が好きなのだ。



あっちこっちにネコが跳ねてて
半ば無意識にいっぱい描いてた
ぜんぶ救うことはできないけど、何匹かでも救い出してやらなくては

ほんと私、こんなにたくさん、あらゆる種類のネコを描いていたんだな
あとはトカゲとか竜とか・・・
好きなものは変わらない



日記なんか読み返すとたしかに あんなこまごまとしたディテールは
文字にして残しておかないと到底覚えていないよ
なんかあたし いいことも悪いことも全部忘れたくない っていうのがあって

それとも忘れていいのかな
過去の記録というものは、口頭伝承のように、印象の強いものだけ淘汰されて残っていくのがいいのかな



17-18のときの、魂の暗黒時代の書き散らし。
いまだに目に触れると吐き気がする
こんなもの持っていたくない

けれど、ナチの時代の記録を残すように残してきた
二度と同じ過ちを繰り返さないために
殺人事件の証拠みたいに
痛ましい魂の拷問と虐殺を忘れないように

でも、集会のメモとかはもういいよね。
学生時代の数学のノートと同じで、ただ言われたことを書いたに過ぎず、ほんとに私が書いたとは言えないから

ほんとに、あんなことのために何て時間をムダにしてきたんだろう
自分に申し訳なくて仕方ない
人生に対する罪だ



キリスト教にしてもフェスにしてもそうだ
なんで私、吐き気がするまでとことんやるんだろう
そこまでイヤになる前にさっさとやめればよかったのに
こんどからはそうしよう

膨大な書類を整理しながら、自分のやってきた仕事量に気が遠くなった
ほんとよく耐えたね ほんとにお疲れさま よくがんばった



入管問題も いつまでも解決しないことに疲れ果て もう見たくなくてしまいこんでた
でもそれでは永久に片づかないままだ
どこかでずっと引きずることになる

それよりは少しは時間をとられ、改めて思い出させられて疲れても
いまここできちんとまとめて、片づけておきたい



やり終えた仕事を世に出すため、外枠を整えるのに、あと少しの時間とエネルギー。
長く、大変に感じられるのは、もう心はその仕事を終えてしまって、心がそこにないから。
手間ひまばかり取られて前に進めないように感じる。
それでも。



2ヶ月間で、9つの山のうち6つまで片づけて、そのうち3つをネットに上げた

創造的な不幸
http://ballylee.tsukuba.ch/e241301.html

牛久沼環境保全関連
http://ushikunuma.tsukuba.ch/

アイルランド入管問題
http://stptsfes.tsukuba.ch/e242456.html

いい感じに進んでるね
でもまだ道半ば
頑張れ、私。






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Posted by 中島迂生 at 22:39Comments(0)片づけ2013-2014

2013年12月21日

片づけについて 2-ものの持ち方を考える-



「片づけコンサルタント」、近藤麻理恵(こんまり)さんの本。
片づけたいな!と思った頃に出会って、ここ1年半くらいずっと愛読してる。

巫女さんだった、というのが、すごい説得力のあるところ。
すごく若いけど信頼できる、と直感的に思える。
理屈や経験だけでなく、自分を越えた力を感じとって、そこからものを言う人。
モノの気持ち、家の気持ちを感じ取ることができる人なのだ。

いちばん大切なものは、目に見える現実や論理を超えたところにある。
いつだって直感的、本能的なところにある。
いわば原始的なアニミズム。
それを知ってる人。



こんまりさんの本より、個人的なメモ。
一字一句その通りではないけど、だいたいの感じ。

「片づけを始める前に、自分がどういう部屋に住みたいか、それはなぜかを徹底的に考える
 具体的にイメージする
 つまり、ゴールを設定する」

「使ってないモノは、持ち主のこと恨んだりしていない、ただ役に立ちたいと願っている
 役に立たないのであれば、外に出たいと願っている
 人だけじゃなくモノもエネルギー
 たとえ燃やされて原始のレベルにまで分解したとしても、役に立ちたいというエネルギーは残る
 放っただけのエネルギーが形を変えて戻ってくる
 もっと素敵なモノに生まれ変わって、あるいはご縁や情報というかたちで戻ってくる
 すべてはエネルギーの形で循環してる」

「いらないものを捨てるのではなく 残すものを選ぶ
 自分の持ち物の中から、お店で買うものを選ぶときのように」

「迷ったときは、モノ本来の役割を考える
 そうすると、驚くほどたくさんのモノがすでに役割を終えていることに気づく」

「判断を下すレッスンを繰り返すことで判断力が磨かれていく
 自分の好きなものがはっきり分かって
 自分を好きになる」

「要るか要らないかは自分の身体に聞いてみる
 収納は自分の家に聞いてみる」

「どうやって収納すべきかは部屋じたいが知っている
 おうちが喜ぶ収納になっているか」

「片づけ終えると、人生がドラマティックに変わっていく
 子供のころからの夢を思い出して起業しちゃいました とか
 独立したとか転職したとか仕事がうまくいくようになったとか
 なぜか3キロ痩せましたとか
 会いたかった人から連絡が来るようになりましたとか」

「片づけたところと同じようなところが反応する
 服を整理すると、ぜい肉がとれてすっきりする
 本や書類を処分すると、頭が軽くなる
 水まわりを片づけて化粧品類など減らすと肌がうるおう」

「ひとりの時間は 大切な人と過ごすために もっとすてきな自分になるためにある」

「疲れたときは片づけを休んで いま身のまわりにあるものに感謝する」



こんまりさんのブログより。

「かなりの割合で、成功してる人の家は片づいています
 そして彼らはたいてい、成功して広い家に住んでいるから片づいているのではなく、
 広い家に住む前からさっぱり片づいた家に住んでいるのです

 低所得層の居住区域ほど、外から見てもモノが多い印象で、ベランダにゴミ袋や壊れた椅子などが放置されていることが多かったような。。」

「手紙の役目、水まわりと心の潤い、部屋を背負っているということ。」

「受け取った瞬間が最高の状態」

「空気が変わる 部屋が軽くなる

 外に出すものと残すものの区別ができるようになる
 ふしぎとこれは外に出たがっている、というのが分かるようになる」

等々、等々。。



片づけって、哲学的
片づけについての本がいっぱい出てるのも分かる
モノを処分するにも、買ってきたりつくったりするのと同じくらいの手間がかかる。
時間もかかる。お金がかかりさえもする。
片づけのために生きてるの私?
これじゃいつまでたっても先へ進めない・・・



回転を速くしてゆくということ。
ただしまいこんでいるだけでは意味がない
でも 昔のこと忘れて、自分の出自や愛してきたものを忘れてしまうのが怖い

回転速い人たちって、あまり惹かれずにきた
ただ次から次へと回転しているだけで、核がなくて薄っぺらな印象で

回転速い人たちって、昔のことどうやって覚えているの?
そのつど新しいものを取り込むために、過去をぜんぶ忘れていくの?

手放してしまったけど今でも覚えているものはいくつもあるな

溜めこんで持っておくのは過去を見つめること。捨てるのは未来に目を向けること。
どっちも大事。

未来は可能性、でも不確実。
不確実なものを受け入れられるってことは、柔軟性であり、自分への自信ってこと。



好きな服はとことん着て擦り切れるし
着ない服は擦り切れないから いつまでもずっとそこにある という逆説



衣類の処分、とくに田舎暮らしで車ないとなかなかたいへん

リサイクルショップも一長一短
たまーにこないだの指輪みたいなこともあるけど

苦労して運んでいっても引き取ってくれなくて、また持って帰ってくるはめになるの、ほんとにイヤ。
引き取ってくれるときも、いちいち個人情報書かされるのがほんとにイヤ。

だから古布の日に出すと
雨に降られてしまったり それでまた罪悪感が



まだ使えるけど使わないもの、よそでも引き取ってくれないもの、
どうしようもなくボロボロになってしまったもの
きちんと感謝して送り出して すっきりして
でもやっぱりどこか心が痛む



旅行、好き。
すばらしい経験だけして、あとに何も残らないところがいい。
花とキャンドルも好き。
見飽きる前に、萎れたり溶けたりしてたちまちなくなってしまうところがいい。



モノに対して、間違った責任感をもっていたかも。
私のところへ来ちゃった以上は、って。

好きじゃなくても、使わなくても。
とっくに飽きてしまっていても。

女に飽きるように、手に入れたときは心からほんとに好きでも、自分でも気がつかぬうち飽きてしまっていて、罪悪感もあってそれを自分に対して認めたくなく、それで捨てはしないけど手にとるもない、ただ置いてある、みたいな

資源ムダにしちゃいけないし、とか
まだ使えるのだから使ってあげなきゃとか

ソリッドにそこにあるから 尊重しなきゃいけない気がして
軸をモノ自体に置いてしまっていた 自分自身にではなく



でもやっぱり、いちばん大切にすべきは自分の気もちだよね
流動的で、変わりやすいものだけど

自分自身と同じように、モノも、ほんとはソリッドではなく、常に流動的なもの。
自分が変わるにつれ、モノが自分に対してもつ意味も変わっていく。



いろんなことがあるな。
愛着なくなることもある。
必要ないのに、手放したとたん落ち着かないことも。
ぜひとも欲しいものが手に入らないことも。
かと思えば、それが誂えたようにすとんと自分のところに来ることも。



片づけが進むにつれ 部屋がすっきりと、居心地よくなって
部屋で過ごす時間が 穏やかで心楽しくなってきた

ただそこにあって埃をかぶっているだけのものがなくなって
すべてが必然性をもって役割をもっていきいきとそこにあるという感じ

身体的にも、体のなかのよけいな部分が削ぎ落とされた感じ
気もちよいすっきり感



掃除も苦にならなくなった

考えてみると掃除のめんどくささって
かなりの割合が掃除じたいじゃなく、そのためにモノを動かすめんどくささ

卓上や床によけいなモノがないと、動かす手間もないので
掃除がほんとにあっというまに終わる

苦じゃないのでまめに掃除するようになる
ますます居心地よくなる
といういいサイクルに



上着のポケットやバッグやバイクのバスケットによけいなものを入れなくなってから
動きが速くなったような
よけいな時間をとらずにさっと動けるようになった

買い物とか用事とかすませるのも速くなってきた
あまりいろいろ迷わなくなって、選ぶのが速くなった
見た瞬間に、買うか買わないかだいたい分かるように



自分がほんとに好きなものを大事にしていくこと。
それしかないであろう。






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Posted by 中島迂生 at 22:43Comments(0)片づけ2013-2014

2013年12月21日

片づけについて 1-住みたい部屋を考える-


いつかはこういう日が来るだろうと、うすうす気づいてはいた。
劇団の活動に生活空間を乗っ取られてしまった。

今までに4作品、つくりあげてきて、それまでも寝室はほぼ物置き状態だったのが、大道具やら衣裳類やらでいよいよ身動きがとれなくなり、向こう側の棚の扉に到達することもできない状態に。

四六時中、道具類を見ているのも疲れてしまった。
いったん目につかないところにしまいこみたい。

ここらで何とかしないといかん。
そこで腰を上げたのが2012年の秋くらいからだった。

そのへんから前後して、堰を切ったように、それまで気になりつつも放置していた色んなものを片づけにかかった。

劇団活動にひと区切りつけて、新しい扉を開ける前に、今までの色んな活動をいろいろ片づけたい季節なのだと思う。
ここ1年半くらいの日記を読み返すと、大方は片づけのこととスケートのことで埋まっている。



まず、段プラでつくった大道具類は、たたんであっちの書棚とこっちの書棚の裏側に滑り込ませた。

劇団衣裳類は衣裳ケースにまとめてクロゼットの上段、<エニス>の7枚の背景幕をたたんでしまってあるとなりに。

たためない道具類その他をしまうために、5月の連休を使って、寝室の壁の二面にあらたに棚をつくりつけた。

それでやっと、床が見える状態に。



内装と家具について、など。

家具はわりと自分でつくるほう。
いまも小学生のときにつくった机、引っ越すときに廃材でつくったベッドなどを使っている。
ペンキ塗りもよくする。
考えてみると、ほぼすべての家具に自分の手をかけている。

片づけよう!ってなったときにも、ただ片づけるだけでなく、同時にしぜんといわば外枠の整備にかかる。
家具を処分したり、移動したり、ペンキを塗ったり、材木を買ってきてあたらしく棚をつくったり、窓まわりのデザインを考えたり。
だから時間がかかる。

3月、キャスター付きの引き出し棚をいくつか整理して、ひとつを苦労して解体し、処分。
思いのほか体力を要してきつかった。

4月、クロゼットの掃除と整理。
大道具類の材料の余った段プラ類などけっこうとってあったのだけど、このさいいったん処分。
ワードローブを整理して、劇団関係以外の衣類もだいぶ処分した。

5月、前述の、壁面二面に天井までの収納棚をつくりつけ。
ホームセンターで買った材木を運ぶのに軽トラを借りた。

基本、収納スペースは天井まできっちり使い切る。
空間をムダなく使うということにもなるし、それによって棚の上に埃がたまらない!という偉大な効用が。

6月、使い勝手の悪かった本棚を寝室から玄関に引っぱってきて、前面にスタンドミラーから外した鏡を蝶つがいで取り付け、シュークロゼットに。
鏡が重くて大変だったけど、今は大活躍でお気に入り。

7月、鏡つきの収納棚に白ペンキ+流し台の上に取りつける。
それまで流し台の上に鏡がなかった。

8月、ずっと気になってた大物をいくつか処分。
はじめてネットで粗大ゴミ収集を予約した。

9月、イス数脚、エレピ台その他に白ペンキ。

10月、ずっとどうしてもイヤだったアルミの鎧戸と、窓ガラスのチャコールグレイのアルミ部分に養生して白ペンキ。
窓は3か所。カーテンレールがキライなのでハテナ釘を打ってポールを取りつけ、木製の洗濯バサミに針金でフック部分を加えた手製のハサミフックで白い木綿地の布を吊ってカーテンに。

バランスを見ながらいろいろ試して時間かかった。
でも、おかげで今は目に入るたび穏やかな気持ちになれる窓。

そんなのでいちいち時間がかかる。エネルギーも要する。
まぁ仕方ないよね。



モノがだんだん片づいて 部屋本来の様相というか骨格というか
それが見えてくると
当初の不満があらためて目につくように

たとえば
・・・塩ビの壁紙はもうイヤだよ。
化粧合板の床板、イヤ。
アルミの窓枠、イヤ。

たしかに見せられたサンプルの中から自分で選んだ壁紙ではあるが
その中からしか選べないという時点で ほんとに選んだことにならない
貼ったすぐあとに「これ、剥がすにはどうやったらいいんですか?」と業者に聞いて
イヤな顔をされた

今となっては、重たい家具を置いたり、つくりつけのクロゼットや棚をつけてしまったりしたから、すぐにどうこうするのは難しい。

それでも、やっぱり。。。
塩ビの壁紙なんか貼られていたら、ほんとうの家とはいえない
よくみんな我慢してると思うよ

そういうところの感覚が鈍感になっているのはよくない 間違った鈍感さだと思う
ずっと住むなら、何とかしないと



いまの部屋の壁はコンクリ板らしい。
塩ビの壁紙より、剥き出しのコンクリートのほうがよっぽどいい。

コンクリの空間は、わりと昔から惹かれる。
90年代後半くらいにできたバーで、コンクリのままの壁で、照明は暗めのブルー、みたいのがよくあった。
そういうの好き。



AZUL by moussy の空間好き。
黒や暗色系の内装
音響がよくて、クラブっぽい音楽が大音量でかかっていて
すごくいい香りのミスト

包み込まれるような居心地のよさと
気分が高揚する感じ
いるだけで幸せ

モノクロの女の子の写真
すてきだなぁと思って眺めていると
別の店舗ではそのショートムービーが流れていて

あれ、つくる人になりたい
採用情報とか真剣にチェックしてしまった



映画を見ても、調度に目がいくように

<人生に乾杯>ってハンガリー映画。
老夫婦の暮らす部屋は、まだ賭けに出る前の、積み重なってきた過去
茶色やモスグリーンを基調として、年月を経て落ち着いた居心地よさ
昔の人の部屋って、けっこう濃い色の、しかも花柄の壁紙だったりする
あれをセットとしてあらたにつくったのならすごいな

<ハリーとトント>
頑固なおじいちゃんの部屋だが、白が基調の明るいモダンな感じ
持ち主の変化を怖れない、自由で若い精神をあらわしてる

SATC(映画版)のキャリーの部屋
壁をけっこう濃い水色に塗りなおすのだけど、ドアや窓枠なんかは白いままに残していて、ウェッジウッドの陶器みたいでいい感じ

さいきん、ペパーミントグリーンの壁に惹かれる
この色はかげんが難しい
濃すぎるとしつこくて見てられないし
薄すぎるとむしろ白より弱い
黄みの入り具合でもぜんぜん違う

<バグダッド・カフェ>で彼女が暮らす部屋の壁は、だいぶ前に塗ったのがいい感じに剥げたペパーミント・グリーンで、味があって魅力的
差し込む日のあかるみをより引き立てるような



これが家ってものだわ!
というイデーをはっきり得たのは、イギリス。

石もりっぱに有機物だわと思うようになった
石造りの古いとても素敵な建物をたくさん訪ねたり、泊まったりしてから



いまの部屋はシェルターだ
外の眺めが好きじゃないから
白いカーテンを通して光を入れるだけ
窓は開けない

でもほんとは窓を開けた外の世界といい関係でいるって大切
だから
次に住みたい部屋の条件は
窓を開けた外の眺めが気に入ること






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Posted by 中島迂生 at 22:48Comments(0)片づけ2013-2014