2010年06月17日

サングラスをかけたライオン

   サングラスをかけたライオン by中島 迂生 Ussay Nakajima



 その女の子は、たしかにまだそんなに大きくなかった。八つにはなっていなかっただろう。名前は、トザエモと言った。つまり、ほんとうの名前はトザエモレンスカなのだけれど、みんなは、縮めてトザエモと呼んでいた。
 私は今でもありありと思い出す--あの子がたった一人で住んでいた、沼のほとりの大きな気持ちよい家の佇まいを。それは切り倒した丸太を組んで建てられた家で、その木肌はすみずみまでていねいに鉋をかけられ、その色あいも年経るごとに落ち着いて、家の中にはいつだって、かぐわしい木の香りが満ちていた。

 夏のはじめのその朝のこと、トザエモは例によって、鳥たちの鳴き交わす時間に目を覚ました--つる草や動物のもようを彫りつけた、お気に入りのベッドの上で。最高に、気持ちのいい朝だ。トザエモはベッドからとびおりると、寝室の窓をいっぱいに開け放った。涼しい風が、森の香りをのせて流れこんでくる。
 トザエモは引き出しを開けて木のくしを取り出し、窓枠に腰かけてゆっくりと髪をすいた。トザエモの髪は、一夏のうちでいちばん大きく実ったオレンジのような、輝くようなオレンジ色をしている。一つかみ持ちあげてくしを通すと、朝の風を含んでぱらぱらと肩に落ちる。そんなことを心ゆくまで何度もくり返して楽しんでから、トザエモは床にとびおり、はしごを伝って一階におりて、それから外へ出ていった。急に、水浴びがしたくなったのだった。

 ところが、外に出ようとして、トザエモは、扉の外側に一枚の紙が鋲でとめられているのを見つけた。それが、事件の発端だったのだ。彼女は、しばらくその紙を見つめてから、
「こんなことをするのは、母さん以外に考えられないな」
とつぶやいた。貼り紙には、こうあった。

 地下室を入ってすぐの左側にあるたんす、上から二番目の引き出し

「これはかなり重要なことかもしれないよ」
と、トザエモは独り言を言った。
「ひょっとして、象十頭分くらい重要なことかも。何たって、あたしの母さんときたら、あたしが二才のときに家出したっきり、今の今まで何の音沙汰もないんだもんね。--それにしても、このことば、一体どういう意味だろう」
 トザエモは、考えに沈みながら茂みの間を歩いていった。
 家のまわりには深い森が続き、すぐ横手には浅い沼地があって、霧に包まれた茶色い水がなめらかに広がっている。そして、足もとには、昔父さんがつくった小さな桟橋がある。ここから、いつだって好きなときにドブンととびこんでひと泳ぎできるように。

 沼地の向こうでは、大きな灰色のアルヌマーニクがのんびりと木の葉をほおばっている。トザエモは魚のように泳ぎまわって、ときどきアルヌマーニクに向かってしぶきをはねちらかしたりする、けれど、アルヌマーニクは全然気にしない。
 水から上がると、トザエモは鋭く口笛をならしてアルヌマーニクを呼ぶ。すると、アルヌマーニクはめんどうくさそうに、若枝を鼻で折り取ってむしゃむしゃやりながら茂みの中から出てくる。
「母さんが、貼り紙をおいていったんだけど。あんた、この意味分かる?」
 トザエモは、その紙を扉からはがしてひらひらさせて見せた。けれど、アルヌマーニクには分からなかった。
「誰かに聞けば、分かるかもしれないわね。よし、それじゃ、行こう」
 トザエモが横腹を軽く叩くと、アルヌマーニクはできるだけ身を屈めて主人がよじ登りやすいようにする。トザエモはその背骨のいちばん高いところにまたがって、細い素足をぶらぶらさせる。

 アルヌマーニクは、父さんからの贈り物だった。むかし父さんが、群れの仲間とはぐれて森をさまよっていた、その頃はほんの赤ちゃん象だったアルヌマーニクを見つけてきて、それをトザエモにプレゼントしてくれたのだ。
 朝、風はまだ涼しい。空はちょうど鳩の翼の色、沼地の灌木が静かにそよいでいる。幾つかの鳥影が水面すれすれに渡ってゆく。
 アルヌマーニクは浅い沼地をゆっくりと進んでいった。けれど、本当はやわらかい泥の中に寝そべりたいのを我慢している。
 つい二、三日前、アルヌマーニクはひとりで出歩いて、肩に傷をつけて帰ってきた。何の傷なのか、トザエモには分からない。かなり痛そうだ。けれど、小さなトザエモには、冷たい水で洗って古布をあてがってやることくらいしかできない。

 沼地を越えて少し行ったところに、ミス・ラフレシアの家はある。草深い庭に埋もれて、まるで何かの動物を思わせる。ミス・ラフレシアは家中にありとあらゆる珍しい植物の鉢を並べていて、朝から晩までその世話にかけずりまわっている。
 トザエモは家の前に着くとアルヌマーニクの背から飛び降り、からみあった草を踏み越えて、丸太を組んだ階段をかけのぼった。そして大声で、
「ミス・ラフレシア!」
と叫んだ。窓が開き、緑色の髪を垂らした丸顔がのぞく。
「そんなに大声出さなくたって聞こえるよ。うるさい子だね」
 ミス・ラフレシアは頭の上に小さな赤紫色の花を咲かせていた。彼女が言うには、それは学名をプランテシオース・何とかという珍しい花で、寒さと乾燥に特別弱いので、人の頭の上でなければ育てることができないそうだ。
 貼り紙の話を聞くと、おばさんは真剣な顔つきになった。
「それは確かに重大なことだわね。それでお前さん、地下室を探してみた?」
「いいえ、まだなの。誰かと一緒の方が心強いでしょう。アルヌマーニクじゃ入れないし。ミス・ラフレシア、来てくれない?」
「あたしゃ、だめだよ」
と、ミス・ラフレシアは断った。
「何しろ、あたしの子供たちの世話をするのに忙しくて(彼女は自分の鉢植えをそう呼んでいた)、一時も家から離れられないんだからね。足指亭にでも行ってみることさね」
「うん、そうするわ」
と言って、トザエモはアルヌマーニクのところへ駆け戻る。
「でも、お忘れでないよ、」
と、後ろからミス・ラフレシアが呼びかける。
「あんたのお母さんがいつだってあんたのことを心配してるってことをね。例え、今どこにいるか分からないとしてもさ」
「分かってるわ」
と、トザエモは答える。

 ミス・ラフレシアの家を後にしてずっと進んでいくと、やがて森が少しずつ開けてくる。あちこちに、丸太で建てた家が何軒かずつかたまっている。このあたりが、ビッテムロシュナだ。開拓者たちの安息の地。かつて大いなる希望と夢を抱いてこの地にやって来た開拓者たちの末裔と、あたり前の暮らしを捨てた流れ者たちとが、住みついている。そう、今しもちらほら人の姿が見え、喋ったり、馬の世話をしたり、柵によりかかって空模様を眺めたりしている。あるいは畑に出ているものもある。多くの人は家のそばに小さな菜園を持っていて、そこでとうもろこしだの豆だのを作っているのだ。
 村の中央には噴水があって、そのまわりを巨大なパイナップルの缶詰みたいな黄色い輪が、絶えず形を変えながらぐるぐるまわっている。それは奇術師カデンツァがビッテムロシュナを訪れたときの記念の品で、この辺では一つの伝説になっている--固形リンと油絵具と液体カルシウムと、奇術師の偉大な想像力とでできている。それは夏には速く、冬にはゆっくりとまわり、夜になるとぼうっと光って道行く者を照らすのだった。

 その程近くに、虹の足指亭はある。ビッテムロシュナ唯一の食堂兼酒場で、ひまな連中のたまり場であり、休息と音楽の場だ。外側の壁に、人の背くらいもあるはだしの足あとが極彩色のペンキでいくつも描きなぐってあって、それが店の名の由来だった。そのすきまには小さなひまわりの花だとか歌の文句なんかがいっぱいはねまわっている。
 扉には、木製のサラダサーバーだったナイフとフォークがぶっちがいに打ちつけてあって、そこを開けて中に入ると、中は暗くて、がらんとしている。人の姿はあるが、みんなほとんど喋らずに、テーブルに肘をついたり開け放した窓の枠にもたれてジョッキを傾けたりしている。すみの方では誰かが静かにギターをつまびいている。

 トザエモが入ってきたのを見て、幾人かが「おはよう」と声をかける。トザエモは、
「夜警とのんべえはいつ会ってもおはよう!」
とまぜっかえし、ぴょんとはずみをつけてカウンター席に腰掛ける。それから奥に向かって、
「フルーツ・ジュースをちょうだい!」
とどなった。すると、奥のすだれが跳ね上がって、海賊みたいに頭にバンダナを巻いた男が出てくる。
「おっ、こんな時間にくるなんて珍しいじゃないか。一体何が起こったね?」
「母さんが、貼り紙をおいていったの」
「五年前に家出したって言う母ちゃんが」
「そうよ」
 白髪の女主人がジュースを持ってきて口をはさむ。
「何がどうしたって?」
「トザエモの母ちゃんが連絡をよこしたらしいぜ」
と、海賊が答える。これが親子なのだ。
 女主人はトザエモから事の次第を聞かされたが、どう考えていいか分からなかったので、「おやおや、そうかい」と言って首を振った。
 トザエモは身をのばしてかごの中から果物を一つ取ると、窓のところへ行ってそれを差し出した。すぐにしわくちゃの鼻が伸びてきて器用にそれを受け取った。

「あなたのお母さん、今どこにいるのかしらね」
と、痩せぎすのレンカが話しかけてきた。レンカは、トザエモがもっと小さかった頃、よくお話を作って聞かせてくれたひとだ。トザエモは肩をすくめた。
「分かんない」
「そう」と引き取って、レンカは微笑んだ。
「私にはお話をしてあげることしかできないけど、まあ、お聞きなさいな。今、ちょうど思い出したお話があるわ」
 彼女は脚をくみ直し、煙草の先に火をつけて、話しはじめた。

「まだほんの小さい頃、母親を大統領に殺されたライオンがいたんだって。大統領は家来と一緒に狩りに来て、お母さんライオンを殺したのよ。そのライオンは三週間の間泣き通して、それから心に誓ったんだって。自分はきっと母親の分まで生き続けて、成功してお金持ちになって、人から尊敬される人物になってやろう。そして、あの大統領を裁判にかけてやろうって。それから彼は、涙のあとが見えないように黒いサングラスをかけて、広い世間へ出ていったの。
 やがてライオンは銀行家として成功し、国じゅうで大統領の次にお金持ちになったんだって。
 ところが、いざ訴訟を起こす段になって、裁判所へ行く道の途中で、当の大統領が馬に乗り、家来を引き連れて来るのに出会ってしまったの。ライオンの胸に、幼き日の怒りと絶望とがむらむらとこみあげてきた。ふと気がついたら、ライオンは日頃の礼節も忘れ、うなり声とともに大統領めがけて飛びかかっていたの。でも、大統領の方が速かった。第六感で、何か感づいていたのね。一瞬先に銃を取り、ライオンに向かって発砲した。バーン! それで、何もかも終わってしまったの。
 幸い命は免れたものの、それ以来ライオンは気が狂ってしまって、地位も名誉も捨ててひとり淋しく荒野をさまよってるっていうはなしよ」

 部屋の隅で、誰かが鼻を鳴らした。
「ふん、ライオンの銀行家か」
と、そいつは馬鹿にしたように言った。
「いるんなら会ってみたいもんだね」
「あんた誰だい?--あんまり見かけない顔だが」
 海賊が、たった今その男に気づいたというふうに、訝しげに尋ねた。
「俺かい? なに、別に名乗るほどの者でもないさ。そうさな、どうしても名前が必要なら、旅がらすとでも呼んでくれよ」
 男は帽子を取って指でくるくる回した。黒髪に、日にやけた赤銅色の肌をしている。
 トザエモは彼を横目で見て、「とにかく、」と断言した。
「あたしの母さんはまだ死んでやしないわ。それにあたしだって、銀行家になる予定なんかないし」
「あんたのことじゃないんだから」
 と、女主人が注意した。
「へんに深読みしなさんなよ」

 部屋のもう一方の端で歌が始まった。誰かが歌い、ギター弾きのツインギーがそれに合わせている。ちらほら手拍子が混じり、その場がちょっと活気づいた。
「君も歌えよ」
 海賊がトザエモに声をかける。彼女はちょっと自慢できるくらい、歌がうまいのだ。ここへ来る者はみんな、彼女の歌を聞きたがった。その声には独特の響きがあったし、その調子や微妙な間の取り方なんかもすごく魅力的だった。持って生まれた才能だろう。
 女主人が古めかしいアコーディオンを持ち出してきて、トザエモの歌が始まった。その声は楽器と溶け合い、荒削りの木の床に差す陽光と溶け合って部屋を満たしていく。みんなは盛り上がって、拍手喝采し、それが終わるとまたがやがや喋りだした。
「それにしても、あの大統領が狩り気違いだってのは確からしいね」
と、誰かが言った。
「何でも、ついこないだもお屋敷からわざわざこの辺りまで遠征しにきたってはなしじゃないか」
「へえ、知らないね」
 海賊が眉をひそめた。
「そうともさ。栗色の純血種にまたがって、金ボタンつきの上着を着込んで、ぴかぴか光る鉄砲をかついでさ。珍しい動物がいたとくりゃ、手当たり次第にバン! バン! ていうわけさ」
「どうしようもない人間だよ」
 女主人が怒って言った。
「よく来るの? この近くにも?」
 トザエモが尋ねると、彼はうなずいた。
「たぶんね。今頃またこの辺に来てるかも知れん」
 みんなはちょっとの間口をつぐんだ。トザエモはアルヌマーニクの肩の傷のことを考えていた。いつだったか、彼が出歩いていた霧深い夜、遠くで銃撃のような音を聞いたのではなかったか? ・・・

 だしぬけに入り口の扉が勢いよく開いて、だれもがぎくりとして飛び上がった。けれども入ってきたのは鉄砲を持った大統領なんかではなくて、気の良さそうな背の高い若者だった。
「ああ、びっくりした」
 海賊が言った。
「たった今、こわい大統領の話をしていたところなんだ」
「へえ、そいつは興味深いな」
と、その若者はのんびりと言って、くわえていた空のパイプを口から離した。
「ぼくは私立探偵なんだ」
「おや、ちょうどいいじゃないか」
 女主人が言った。
「トザエモ、あんたの件を依頼したらどう?」
「なに、さっそく事件?」
 若者はくるっと目を回して、トザエモの方へ面白そうな目を向けた。トザエモは批判的な目つきで、若者をじろじろ観察した。二人の目が合った。トザエモはちょっと首をかしげた。それから、おもむろに貼り紙を取り出して若者に渡すと、これこれしかじかと説明しはじめた。
「ふうむ、なるほど」
 若者はパイプの先を噛みながら熱心に聞いていたが、だんだんその目が輝いてきた。
「一つ尋ねるがね。君のお母さん、どういうわけでこんなに幼い娘をおいて家出しちまったんだい?」
「あたしにもよく分かんないの」
 トザエモは肩をすくめて、女主人の方を見た。
「あなたは知らない?」
「そうさね、ずいぶん昔のことだからね」
 女主人は目を細めて記憶をたぐった。
「あの頃は私らももうちょっと若かったね。あんたはほんの赤ちゃんだったし--あんたのお母さんは、働き者のきれいな人だったっけ。確か、その頃には父さんももういなかっただろう。だから、私らはよくあんたたちのところへ食事を届けたりなんかして、色々と世話を焼いたもんだよ。そうそう、大風であんたんとこの家畜小屋の屋根が飛ばされちまって、みんなで直しにいったときのことを覚えてるよ。そんなこんなで、まあ、たいして苦しい生活じゃなかったと思うがね・・・」
「でも、母さん、きっと何かのことで苦しんでいたんだわ--そうに違いないわ」
 トザエモがふいに言った。
「普段は馬のように強くて、すごく陽気な人だったのに。ときどき、夜中に一人で泣いてたことがあったのよ」
「何だって! そんな小さい頃のことを覚えてるのかい?」
「覚えてるわ。かわいそうだから、気づかないふりをしてたけど。ええ、忘れようったってできないわ。母さんが家出したとき、あたしに一緒に来るかどうかって聞いたの。あたしここが好きだったから行かないって答えたわ。母さん、それじゃがんばってねって」
「興味深いな、実に興味深い」
 私立探偵は考え込むように言った。
「君はぼくの最初の依頼人なんだ。しかし、きっとうまくやってみせるよ」
「へえ!」
 海賊が呆れて呟いた。
「あんた、一体いつから探偵やってるのさ?」
「さっき、やぶの間を歩いていたときからさ。ここはいいねえ。何もかも自然のままだし、うるさいこと聞くやつもいないし。だが、そんなことは関係ないと。--依頼人に質問する」
 私立探偵はにわかに職業的口調になって言った。
「これは大切な点なんだが、君はなぜ貼り紙をお母さんが書いたと断言できるんだね?」
「分かるものは分かるのよ。あたし、母さんの娘だもの」
「やれやれ、それじゃ証拠にならないよ。事件の解決に当たっては--よろしい、それを書いたのはお母さんだと仮定しよう。するとだな、本人は今どこにいるのかが問題になってくる。貼り紙が前の日になかったというのは確かだね?」
「そうよ」
「ふむ。ほんの一晩のうちに(あるいは明け方かもしれないが)扉にそれを張りつけることのできる距離--となると、必然的に、君んちのかなり近くということになるな」
「そんなこと、絶対にないわ!」
と、トザエモは異議を唱えた。
「家出した人が家のそばで暮らすと思う? 第一、もし近くにいるんなら見かけるはずじゃない。それが、今までに母さんの影ぼうし一つ見ないんだから」
「ぼくが言うことにいちいち逆らわないでくれ。頭がごちゃごちゃになるじゃないか」
 私立探偵がいらいらして声を荒らげた。
「誰のことだと思ってるのよ!」
 トザエモは黙るどころか、逆に腹を立ててどなった。
「あたしの母さんなんだから。他人に命令される筋合いはないわ!」
「おいおい、つまらん口げんかはよせよ」
 海賊がうんざりして言った。
「ビッテムロシュナに歌と休息以外のものがあっちゃいかん。いやしくも大地と向き合って暮らしてきた偉大な開拓者たちの・・・」
「偉大な開拓者たちが、あたしの母さんと何の関係があるっていうの?」
と、トザエモはぶつぶつ言った。
 私立探偵は空咳を一つした。
「よし、では--よろしい。--大いによろしい。それは後に回すとして--次なる点は、だ。貼り紙それ自体について、この伝言が何を意味しているのかを知る必要がある。それには、まず地下室の入り口の左側にあるたんす、これを調査することだ」
「そうとも、そうとも」
 女主人があいづちを打った。
「あんたたち、それを始めにしなきゃいけないよ--ほんとに、そうすべきだよ」
「もっとも、この言葉がもっと深い意味を持っているってことも考えられるな。何かの暗号とか・・・」
「ばか言ってら。あんた、推理小説を読みすぎて、頭がおかしくなっちまったんだ。ここはビッテムロシュナだぜ、ニューヨークの殺人街じゃないんだ。親が七歳の娘に秘密文書のありかを暗号で書き残すなんてことがあるもんか」
「まあ、とにかく行ってみよう。トザエモ君、といったね・・・君の家まで案内してくれないかい?」
 トザエモは苦い顔になった。
「ほんとに来るつもりなの? 別に構わないけど・・・あんたみたいのと一緒に地下室を探すことになるなんて、全く考えもしなかったわ」
 それでも彼女は、すっかりぬるくなったジュースを飲み干すと椅子から飛び下りた。
「一つお尋ねするがね」
 それまで黙っていた、赤銅色の肌をしたさっきの旅がらすが、突然後ろから声をかけた。
「あんたの母さんて、ちょうどあんたみたいなオレンジ色の髪をしていたのかい?」
 トザエモはちょっとびっくりして振り向くと、彼の顔をじっと見て、「そうよ」と答えた。

 既に日は高く昇り、大地は熱気と強烈な日差しに包まれていた。トザエモは口笛をならしてアルヌマーニクを呼んだ。
「ひゃっ、何だい! 君は、象を飼っているのか?」
 アルヌマーニクがのっそりやって来るのを見ると、私立探偵は肝をつぶした。
 トザエモは憐れむような顔つきで彼の方を見て、
「アルヌマーニクよ」
と言った。それから、
「あたしの相棒なの」
と付け加えた。私立探偵は、てっきりアルヌマーニクというのはオウムか何かだと思っていた、とか何とか、口の中でぶつぶつ言った。
 それから、彼らは黙りこくって森の中を進んでいった。
「君、こんな森の奥に、たった一人で住んでるのかい?」
と、しばらくして、私立探偵が言った。
「淋しくない?」
「一人じゃないわ。アルヌマーニクがいるもの」
と、トザエモは答えた。
「あんた、さっきから質問ばかりしてるのね。自分は一体、どこから来たのさ?」
「どこから来たって!」
 私立探偵はとたんに不機嫌になって、言い捨てた。
「およそ思いつく中で、いちばんひどいところからさ。あんなとこの話は、もう二度としないでくれ!」
 それから、彼らは再び黙って歩き続けた。沼岸に来ると、私立探偵が言った。
「何だい、橋もないのか! 靴がぬれちまうじゃないか」
「靴なんか、必要ないわ。捨てちゃいなさいよ」
と、トザエモは親切に助言したが、私立探偵はそれを脱ぐと、捨てないで、片方ずつ灌木の枝にぶらさげた。

 うちに着くと、トザエモは私立探偵を後ろに従えて、こわごわ地下室へ下りていった。
「うわっ、クモの巣がいっぱい張ってるよ・・・気をつけて」
 二人して渾身の力を込めてうんうん言いながら押すと、重たい扉はギイッと音をたててようやく開いた。地下室の中は真っ暗で、埃とかびの匂いが鼻を突く。
「入って左っ側にたんすがあるはずなんだけど・・・何しろここへ来たのは、ずっと前、かくれんぼをしたとき以来だから・・・」
 トザエモはどうやら、埃に埋もれた小さい藤だんすを見つけることができた。
 引き出しの中を探ってみたが、色んなものがごちゃごちゃ入っていて訳が分からない。仕方がないから引き出しごと抜き取って、ひとまず地上へ戻ることにした。
 陽の光のまぶしさに顔をしかめながら検証にかかる。
 ぜんまいの部品。栓抜き。麻ひもの束。ドライバー。きれいな絵のついた紅茶の缶から。・・・一個ずつ確かめながら草の上に放り出していく。
 そのうちにトザエモは、何か中身の詰まった丸い缶を発見する。固いふたを苦労して開けてみると、中には黄色いどろっとしたものがいっぱい入っている。用心深く匂いを嗅いでみて、「あっ、これは軟膏だ」と彼女は気づく。薬草のツンと来る匂い。そう、これに違いない。

「これは一体、どういう意味だい?」
 私立探偵は、それを見ると、当惑して言った。けれど、トザエモの目には、今やすべてが全く明瞭だった。
「これ、アルヌマーニクにつけてやれってことよ!」
と言うなり、ぱっと立ち上がって外へとびだしていった。
「さて、事態がこみ入ってきたぞ」
 私立探偵は独り言を言って考えこんだ。
「あの象がけがをしたことを、あの子の母親が知っていた--ということは、何を意味するのだろう?」
 けれども、結論に至ることができなかったので、彼はあきらめて、とりあえず手に入る資料をあたってみることにした。

 トザエモが戻ってみると、私立探偵は本棚から中のものを手当たり次第にひっぱり出しているところだった。
「ひとのうちのものを勝手に散らかさないでよ!」
と、トザエモが文句をつけると、私立探偵は弁解した。
「証拠物件を調査しているんだよ。何か手がかりが見つかるかもしれないと思ってさ」
 トザエモは黙って本棚を眺めていたが、つと進み出て、一冊の本を手に取った。<シャーロック・ホームズ全集1 緋色の研究>とあった。
「今まで全然気をつけて見たことなかったけど、こんな本あったのね。きっと父さんが読んでたんだわ」
「君のお父さんはどうしてるんだい?」
と、私立探偵が尋ねた。
「父さんも家出したの。私が生まれてすぐくらい、だから顔は覚えてないけど。母さんが言うには、孤独と自由を愛する人だったんだって。結婚して次の春を迎えるともう我慢できなくなって、つばめのあとを追っかけて飛び出していってしまったんだって」
「なるほど」
「この本を読んだら、父さんや母さんが今どうしてるか、分かると思う?」
 私立探偵はうなずいた。
「もしかしたらね」
「じゃ、そうしてみるわ」
 トザエモはそう言うと、<緋色の研究>を抱えて二階へ昇っていった。床にあぐらをかいてすわり、声を出して熱心に読み始めたが、正直なところ、難しくて何の話なのやら、さっぱり分からなかった。
 アフガン戦線。ロンドンの大学だか、研究室だかで、変な実験をやって喜んでいる男の話。
 こんなのが、今の自分の問題と一体どんな関係があるんだろう? こんなのをがんばって読んでみたところで、本当に何か分かるんだろうか?

 夕方近く、巣に帰る鳥たちの声が聞こえる頃になって、おもてで、
「トザエモ!」
と呼ぶ声がした。急いで下りていくと、戸口にミス・ラフレシアが立っていた。
「取り込んでるだろうと思って、夕飯を作ってきたよ」
と言って、ほうろうびきの小鍋をトザエモの手に押しつけた。
「わあ、ありがとう。でもおばさん、忙しいんじゃなかったの?」
「忙しいとも。だからさっさと帰らせてもらうよ」
 ミス・ラフレシアが手を振って、帰りかけると、
「コナン・ドイルって知ってる?」
と、トザエモが唐突に尋ねた。
「コナン何だって?」
「シャーロック・ホームズを書いた人よ。絶対、読んでみるといいわ」
 ミス・ラフレシアは面食らって、首をふりふり、口の中で何かつぶやいた。それから、頭に咲かせた花を揺らしながら、スカートをつまんで沼をじゃぶじゃぶ渡って帰っていった。
 トザエモが家に入って、
「となりのおばさんが夕飯を持ってきてくれたんだけど、いらない?」
と尋ねると、私立探偵は、
「今、熱中しててそれどころじゃないんだ」
と言って断った。
 トザエモは小鍋にじかにさじをつっこんで、ひきわり小麦のお粥を少し食べ、台所に行って、ベーコンの塊から一切れ切り取って食べた。それからまた二階へ戻ると、<緋色の研究>の続きに読みふけった。
 日が暮れるとまた階下に降りていって、私立探偵に、今晩自分の家に泊まるかどうか尋ねた。
「いや、足指亭に泊めてもらうよ。ありがとう」
と、私立探偵は答えた。
「それより、ごらんよ。君のお母さんが書いた日記を見つけたんだ。このかちっとした文体といい、文字の大きさといい、貼り紙の字にそっくりじゃないか。これで、確かにあれを書いたのはお母さんだということを証明できる」
「そんなこと、前から言ってるじゃないの。私は見た瞬間に分かったわ。何たって、私のお母さんなんですもの」

 彼が「参考資料」として例の貼り紙と、本棚で見つけた二、三冊の書物を携え、送っていくという申し出を断って、月明かりの沼地を渡って帰ってしまってから、トザエモはランプにあかりを灯した。そして、発見された埃だらけの日記帳を手に取り、つくづくと眺めた。「19××年8月16日-」とだけ、表紙には書かれていた。
「プライバシーは尊重しなくちゃいけないからな。僕は一ページめの最初のところを少し見ただけだ」
と私立探偵は言っていた。
「これを読めば、事の真相がすっかり分かるはずね」
とトザエモは思った。
「でも、やっぱりプライバシーは守ってあげなきゃ。読みたいけど、謎がすっかり解けるまで、我慢するわ」
 トザエモは、日記帳を本棚に大切に戻した。それからランプを下げて二階に昇ってゆき、<緋色の研究>を読み続けた。ロンドンで起こった殺人事件。ホームズの調査と推理、ショパンのバイオリン・ソロについての話。ページの余白に、らんぼうな走り書きで、「ショパンがバイオリンだなんて、そんなばかな!」とあるのを見て、トザエモはどきどきした。父さんの字だ。トザエモのほとんど知らない父さんの姿を、彼女はその文字ごしに想像してみようとした。ショパンて何だろう? 楽器の名前かな?
 ずいぶん遅くなってからようやくベッドに入ったが、しばらく眠れなかった。色んな場面が次々に頭に浮かんだ。<緋色の研究>を読んでいる父さん。そのわきで、一心に日記帳に何かを書きつけている母さん。異境の地をさすらっている父さん。トザエモの寝ている間にそっとドアに貼り紙している母さん。それから、いつの日か母さんとめぐり会う場面まで。・・・
 彼女の記憶の中では、母さんはいつもその見事なオレンジ色の髪をよく梳いて、後ろにまっすぐ伸ばしていた。日光を受けるとそれは美しく輝いて、見とれてしまうくらいだった。笑うととてもすてきな顔になった。トザエモの髪も母さん譲りのオレンジだが、あれほどすばらしくはない。
 トザエモは夜中に起き上がって、窓から濃い色をした夜空を眺めた。遠くで夜の鳥たちがうるさく鳴き交わしていた。密林がざわめいていた。時折、何かのうなり声が低く伝わってきた。
「あのライオンかもしれない。涙のあとが見えないようにサングラスをかけてたっていう・・・」
と思った。
 ぞくっと身震いを覚えて、トザエモは思わず身をのり出し、相棒がいつもの場所で寝ているかどうかを確かめた。相棒はちゃんとそこで寝ていた。大きな岩山みたいにうずくまって、弓なりに伸びた牙だけが闇に浮き出ていた。
 トザエモは安心して再びベッドにもぐりこんだ。しばらく落ちつかなげに寝返りを打っていたが、やがて浅い眠りに落ちた。

 翌朝、トザエモは私立探偵に会うために再び足指亭に向かった。けれど、その前にちょっと寄り道して、土手の洞穴に住んでいるマーレーのところに寄った。
 マーレーは女薬剤師だ。一体いくつくらいになるのか、想像もつかないほど年をとっている。洞穴の壁をくりぬいた棚には、ありとあらゆる種類の薬のびん、干した薬草、木の皮なんかがぎっしり詰まっている。
 トザエモは、あの軟膏がここで調合されたものかどうか知りたいと思ったのだ。それはすごい効き目だった。傷は傷には違いなかったが、痛々しく裂けた肉のところは一晩でほとんどくっついていた。
 マーレーは、トザエモの持ってきた軟膏をよくよく調べて言った。
「主な原料は、銀色パイプの草の根っこ、レポミアの葉、その辺だね。色々入っているが、あたしのところでこんなのを作った覚えはないねえ」
 トザエモはちょっとがっかりして、マーレーのところを後にした。

 足指亭には、今日もひまな連中が集まって、談笑したり一杯やったりしている。そんな中で、私立探偵はひとり離れて座り、何か一心に考え事をしているようすだった。
「何ぼんやりしているのよ。パイプでもなくしたの?」
 目の前でトザエモに元気よくどなられて、私立探偵はやっと我に返った。かと思うと、いきなり、
「すまないが、君の象くんをちょっと見せてくれないか」
と言い出した。
「探偵やめて、動物学者でも始めたの?」
 トザエモが冷やかすと、私立探偵は首を振った。
「重大なことなんだ。ひょっとしたら、貴重な手がかりが得られるかもしれない」
 私立探偵はアルヌマーニクの傷をよくよく調べてから、唐突にチョッキのポケットから鋭いナイフを取り出した。そしてそれをブランデーでさっと一ふきすると、トザエモがとめる間もなく、閉じかけた傷口に突き立てた。
 そのとたん、アルヌマーニクは壊れたラッパみたいな、とてつもない悲鳴を上げた。
「よしよし、すぐ終わるからな。ちょっと待ってろよ・・・そら!」
 私立探偵はなだめつつ、傷口の奥の方から何かをかき出した。黒い、かたいかけらのようなものだった。彼はそれを手のひらに乗せて、トザエモに見せた。
「何だか分かるかい?」
 トザエモは戸惑いながら首を振った。
「鉄砲のたまだよ! もうちょっとしていたら、中に入り込んで取れなくなるところだった」
 私立探偵はすっかり興奮していた。
「アルヌマーニクは・・・鉄砲で撃たれたの?」
 トザエモが恐る恐る聞くと、私立探偵はまじめな顔でうなずいた。
「これで分かってきたぞ。考えてみろよ、君が今までに知っている人のうちで、鉄砲を持ってる奴と言ったら誰だ? それに、最近この辺りに狩りをしに来たのは?」
「大統領・・・ね?」
「そうとも。それがたった今確証された一つの点だ。それに、もう一つある」
 私立探偵は、ポケットから例の貼り紙をひっぱり出した。
「きのうの晩、これを詳しく調べたんだ。この紙をよく見てごらん。非常に薄くて、なめらかだろう。普通の店では、こんな紙は売っていない。決定的な証拠は、これだ」
 私立探偵は、紙を陽にかざした。下の右はじに、ある形がくっきりと浮き出て見えた--四つの翼を持ったトーテム・ポール。
「これが何だか、知ってるだろ?」
 トザエモはうなずいた。これこそは誉れある国家の紋章だった。
「この紋章を使うことを許されているのは、国じゅうでたったの二人だけだ。つまり、王様と大統領だ。以上の二つのことから、何が言えるか?」
 私立探偵は、トザエモの顔をじっと見ながら続けた。
「君のお母さんは、大統領と何らかの関係があるに違いない、ということだ。だからこそ大統領が君の象を撃ったのを知ることができたし、その対処の仕方を君に知らせるのに、--自分で意識していたかどうかはともかく--手近にあった、国家の紋章入りの上質紙を使うことができたんだ。・・・とすると、お母さんが近くにいるという当初の見解は、間違っていたことになるぞ。何しろ、大統領の家は、遠くだからな」
 私立探偵は考えに沈んだ。

 トザエモの頭に、とびぬけてりっぱなお屋敷が立ち並ぶ大きな通りの景色が浮かんできた。そこが、大統領の住む町だ。
 その町のことは、うわさに聞いて知っていた。ここから東へ向かってずっと行ったところに深い谷間が口を開けていて、そこから先は密林また密林、道なき道を三日三晩も歩き続けて、ようやくそれがとぎれたところに、あの名高い都が始まっているのだった。トザエモの想像の中で、大統領の家は青と緑の瀬戸物でできていて、窓枠とベランダの手すりには金がかぶせてあった。・・・そんな人と、母さん、何の関係があるんだろう?
「聞き込み調査をしたら、何か分かるかもしれないな」
と、私立探偵は言った。
「明日また来てくれよ。何事も時間をかけることが大切だからね」

 足指亭を出たあと、トザエモはゲシー老人のところにぶらっと寄った。彼はヤシの葉でふいた小さな小屋に住んでいる。トザエモが行くと、彼は例の貼り紙の話を知っていた。不思議なことじゃない。この辺りは朝から晩まで暑くって誰も働く気がしないから、うわさ話ばかりしているのだ。
「何だかよく分からなくなっちゃった」
と、膝を抱えて座り込みながら、トザエモはぼやいた。
「本当に母さんのこと、知りたいんだかどうか」
「お前さん、それでもお母さんのいどころが分かったら、どうするね?」
と、ゲシー老人は尋ねた。
「もちろん、連れ戻しに行くわ」
「なぜだね?」
「なぜって・・・あんまり、無責任じゃない。子供を放ったらかして、勝手気ままな暮らしをしているなんてさ。ふつう、家出したら、後悔して帰ってくるもんなのにさ。そうでしょ?」
「勝手気ままか--なるほどな。勝手気ままか」
 ゲシーは口の中でつぶやき、長いすの上で目を閉じる。
 そう言われると、確信がゆらいでくる。何とはなしに、自分がまちがっているような気がしてくる。一体、母さんが本当に勝手気ままに暮らしてきたってほんとうだろうか。実は、トザエモが勝手にそう思い込んできただけだとしたら?
 実際には、帰るに帰れなくて大変な苦労をしているのだとしたら? 母さんが勝手だと思ってきたから、トザエモは自分も好きなように暮らしてきた。けれど、--もしそうじゃないとしたら?

 カデンツァの噴水に立ち寄ると、先客が来ていた。
 やせて背の高い旅人がひとり、腰をおろして休んでいる。
 よそ人がこの辺に立ち寄ったり流れついたりするのは珍しいことじゃないから、トザエモも慣れたものだ。近くまで行って、しげしげと観察する。傍らに、ぼろ布で縛って中身がとびださないようにしてある、年季の入った絵の具箱。
「絵を描くの?」
と、トザエモは聞いてみた。
 旅人は、そこではじめてトザエモの方へ目をやって、返事したものかどうか迷っているふうだった。が、やっと答えた。
「ああ、--昔はな」
「今は、描かないの?」
「描けなくなったんだ」
「どうして、描けなくなったの?」
と聞くと、彼はちょっと首をかしげて、
「言っても、分からんよ。苦労を知らない子供には」
と言った。
「あたしが苦労を知らないって、どうして分かるの」
 トザエモは気を悪くして、言い返した。
「あたし、父さんも母さんも家出しちゃって、ずっとこいつと二人きりで暮らしてるのよ」
と言って、アルヌマーニクの足を軽くたたいた。
 旅人は、それを聞いてちょっと考えていたが、
「でも、やっぱり、分からんよ」
と言った。
「そんなら、もう絵も描けないくせに、どうしてその絵の具を捨ててしまわないの?」
と、腹を立てて、トザエモが言うと、旅人は、肩をすくめて黙りこくってしまい、それ以上、もう何を言っても返事しようとしなかった。

「さて、私はこれからどうしたもんだろうな」
 トザエモはアルヌマーニクの背の上に戻ると、独り言を言った。するとアルヌマーニクは、訴えるように高々と鼻を上げてみせた。
「よしよし、分かったよ。今日はいろいろと、疲れたよね。うちへ帰ってひと眠りすることにしよう」
 二人はそれから家に帰ると、夕方までぐっすり眠った。
 けれど、トザエモは月の出るころに起き出して、何か一口つまむものを探しに台所へ降りてゆき、それからまた例の<緋色の研究>を読み進めるのだった。
 相変わらず難しくてよく分からなかったが、一つだけ、トザエモの目を引いたところがあった。
「人生という無色の糸かせには、殺人という真っ赤な糸がまざって巻きこまれている。それを解きほぐして分離し、端から端まで一インチ刻みに明るみへさらけ出してみせるのが、我々の任務なんだ」
「なるほど、これがキーワードなんだな」
と、トザエモは考えた。
「キーワードって、だいたいいつも、本筋とは関係のないところにあるんだ。人生の中にまざって巻きこまれた赤い糸・・・とすると、あたしが抱えている謎のキーワードって、何だろう?」

 さらにいくつかのナイチンゲールのささやく夜と、いくつかの太陽の照りつける昼とがやってきた。
 謎の解明は遅々として進まず、足指亭の私立探偵はひたすら聞き込み調査と沈思黙考とに明け暮れていた。
 大地は光をあび、雨を吸いこんで、果てしもなく成長と衰退とをくり返す。みんなは歌をうたい、ジョッキをかたむけ、それぞれ、心のままに生きている。
 一つの、さらにもう一つの情報が入った。トザエモによく似たオレンジ色の髪の女性が、あの日の朝早く村に入るのを見かけたというのと、もう一つは最近この辺にやってきた旅人から聞いたことで、都にある大統領のお屋敷の庭で、やはりオレンジ色の髪の女が彼の猟犬の世話をしているのを見かけたというものだった。総合的に考えて、それが両方ともトザエモの母さんであることはほぼまちがいない。しかし、彼女がなぜ、よりによって大統領の召し使いなんかになったのが、それは依然として謎のままだった。

 一人でもやもやを抱え込んでいるのに嫌気がさすと、トザエモはかんかん日の照りつける中を、てくてく足指亭まで歩いていった。足指亭の午後は、まるで時間が止まったように、ひっそりと静かだ。青い木陰の中にいるようで、暗く、涼しく、気持ちいい。外があんまりまぶしいので、急に入っていくと、目が暗がりに慣れるまでにしばらくかかる。
 ドアを乱暴にバタンと閉めて、トザエモは不機嫌なようすでカウンターの上に両ひじをつき、組んだ腕の上にあごをのせた。
「おや、トザエモ。元気だったかい?」
 白髪の女主人がやってきて、トザエモの前に果物のジュースを置く。トザエモはそれには答えず、カウンターの奥の棚をにらんだまま、
「わーけわかんない」
と言った。
 返事がないのでますます頭にきて、それでもようやく頭を上げて女主人の方へ顔を向けると、再び、
「わーけわかんない」
と言った。
「何が?」
「何もかも。ぜんぶ」
 女主人は鍋つかみで鍋をつかみ、奥へ運んでいった。
「そうかい」
と、戻ってきながら言った。
「何でそう、何もかもわけがわかっていないと気がすまないのかね?」
「だって、今までずっと、何だってちゃんと分かってたもん」
「おやおや、そうなのかい」
 女主人は、壁の釘からふきんを外しながら言った。
「そりゃあ、大変だね」
 トザエモは目の前に置かれたジュースのきれいな色をながめ、汗をかきはじめたグラスの表面にてのひらをあてて、その冷たい感触を楽しんだ。結局のところ、それはいつもの居心地よい足指亭だった。ただ、この胸のもやもやさえ何とかなってくれたら!
 そうやってしばらくくさっていて、トザエモはまた、一人でとぼとぼ歩いて帰った。
 途中でちょっと立ちどまって、道の上に落ちた、まっ黒なやせっぽっちの影を眺めた。ためしに両腕を水平に持ち上げてみると、小さな影も同じようにした。
 それから手旗信号みたいに、二本の腕を色んな向きに動かしてみた。次には両脚をだんだんに開いていって、限界までいき、さいごにぴょんと一跳びしてもとの姿勢に戻った。
 そのとたん、道の向こうからだれかが、
「よう!」
と声をかけてきた。
 まぶしさに顔をしかめながらよくよく見ると、浅黒い人影が手を振っている。いつか足指亭で居合わせた、あの見慣れない旅がらすだった。
 彼は少々不躾に思えるほど、ひとなつこく笑いかけた。
「よう、母ちゃん、見つかったか?」
 トザエモはふくれっ面をして、答えなかった。
「そのうち、見つけるさ。大丈夫、心配ない」
「何であんたにそんなこと言えるの?」
 旅がらすは、ただ笑って、黙っていた。
 他人なんて、大して助けにならないな、と、トザエモは考えた。

 その間、トザエモの心にひっかかっていたもう一つ別の問題があった。あの日、レンカが聞かせてくれたライオンの話だ。自分とは何の関係もないはずなのに、何でこんなにひっかかるのだろう。トザエモは自分でもふしぎだった。でもきっと、何かがあるんだ、何かが。
 あるときなにげなくアルヌマーニクを眺めていて、トザエモははっと気がついた。アルヌマーニクは銃で撃たれたが、トザエモはその傷を治す薬を持っていた。だとすれば、同じ銃で撃たれたあのライオンを、その同じ薬で治してやることはできないだろうか。
 それはまた、ずいぶん無謀な思いつきだった。危険で、そのうえ雲をつかむようなはなしだった。だいたい、あのライオンが撃たれたのがどれだけ前のことなのか、今もまだ生きているのかどうか、生きているとすればどこにいるのかも、分からないのだ。
 けれど、トザエモには、奇妙な確信があった。あいつが、きっとあそこにいるにちがいないという。傷を負って気の狂ったライオンが、いかにも身を隠していそうな場所を、あたしは知ってる。ここからずっと西の方、とげのある草しか生えないあの砂漠。あそここそ、まさに荒野だ--いるとすれば、きっとあそこだ。
 母さんはあのライオンのことを知っていたのかな、と、トザエモは考えた。
 うん、きっと知ってた。知らなかったはずがない。国じゅうで大統領の次に金持ちだなんて、そうそういるもんじゃない。
 ふと思った。母さんも、ひょっとしてそれを望んでいたんじゃないだろうか。自分があの薬で、アルヌマーニクだけじゃなく、あのライオンの傷をも治してやることを。もちろん、口に出しては言わなかっただろうけど。もし彼女が自分からやると言ったとしても、きっと危ないからと止めただろうけど。でも、心の底では。
「いいえ、母さん、あたしやってみせるわ」
 トザエモは、ひとり呟いた。勇気と誇りが、胸にわきあがってくるのを感じた。この計画は、決して誰にも言うまいと、トザエモは心に決めた。私立探偵にも、ほかのみんなにも。みんな、心配してやめさせようとするもの。これは一人ですべきことだ。そう、アルヌマーニクさえ連れてゆくまい。だれをも危険に巻きこむわけにはいかない。

 翌朝早く起きて、トザエモは出発した。裂いた布と軟膏の缶と、水を詰めたびんとを持って。茂みをかき分けてゆくと、服は露にぬれた。ビッテムロシュナとはすっかり反対の方角で、行くあてもないから、道もない。道なき道を強引に進んでゆくうち、たちまち、顔も腕も枝のひっかき傷だらけになる。
 砂漠に着いたのは、真昼近くだった。黄色い砂の表面は燃えるように熱い。あざみや、タンポポのお化けみたいな異様な植物が、そこらじゅうに根を張っている。砂に埋もれているのは、動物の骨や、引き裂かれた旗や、宇宙船の残骸なんかだ。暑くてたまらなかった。からからの空気が、かくそばから汗を奪ってゆくので、塩分だけ残された皮膚はひりひりと痛い。
 空にはぜんぜん、雲がない。こんな荒れ果てた風景で、こんなに空が青いと、なんだか、どうしようもなく恐ろしくなってくる。こんな遠くまで来たのははじめてだった。いや、距離的な問題じゃない。この地に息づくあらゆる感覚が、これまで慣れ親しんできた世界から、遠くかけ離れているのだ。
 トザエモは、ライオンの姿を求めて灼けつく砂漠を二時間近く、むなしく歩き回った。それから疲れ果て、何とか自分を覆ってくれそうな小さな陰を見つけると、ごつごつした岩の間にくずおれるようにしゃがみこんだ。水はとっくに底をつき、のどはからからで、はりつくようだった。
「でも、せっかくここまで来たことが、おろかな気まぐれだったなんて考えないよ」
と、トザエモは考えた。
「昼間はあんまり暑いから、どこかで寝ているのかもしれないし。それにしたって、ひとがせっかく来たのに、出迎えようともしないなんて、失礼な奴だよ」

 そのときだった、背後のとげとげしたやぶが、突然かきわけられたのは。
 トザエモははじかれたように立ち上がって、ふり向いた。
 金色のたてがみに囲まれた、恐ろしい顔があった。荒い鼻息が、すぐそばで聞こえる。トザエモは、どくどく波打つ自分の心臓の鼓動を聞いた。
 ライオンは、ゆっくりとやぶの間から出てきて、その全身を現した。見上げるばかりの、実に巨大なライオンだった。しかし、その昔はりっぱであっただろう毛皮も、ぼろ毛布か何かのようにすりきれ、その体は、あばら骨がはっきり見分けられるほどにやせ衰えていた。そしてその右の胸にはどす黒い血のかたまりが、見おとしようもなく、べっとりとこびりついていた。
 トザエモは一瞬圧倒されてしまったが、すぐに気をとり直して姿勢を正し、ライオンの目をまっすぐに見つめて、話しかけた。
「やっぱり、ここにいたんだね」
 ライオンの目には、何の表情も宿っていない。
「・・・あんたのために、薬を持ってきてあげたんだよ--母さんが教えてくれた薬を」
 太陽が、二人の上にじりじりと照りつけた。トザエモは相手の答えを待ったが、やはり、何の反応もない。
「これをぬれば、ぜったい楽になるんだよ。アルヌマーニクで証明ずみなんだから」
と、トザエモは続けた。
「もし、じっとしてるって約束するなら、あたしが塗ってあげる。いい? 分かったね?」
 トザエモは、一歩ライオンに近づいた。
 ライオンが、のどの奥で低くうなった。
 トザエモはちょっと立ちどまり、それからなおも二歩、三歩近づいた。
 だしぬけに恐ろしいうなり声があがったかと思うと、ライオンの体が跳躍した。とびのいた瞬間、トザエモの左のももに、鋭い痛みが走っていた。
 地に降り立ったライオンは、向きを変えて彼女をふり返ると、その凶暴な牙を剥き出しにした。
 しかし、今やはるかに怒り狂っているのはトザエモの方だった。
「このばか! 大ばかもの!」
と、トザエモはライオンに向かってどなった。
「お前は自分から命の見込みを捨てたんだぞ! それが、分からないのか? そこまで何もかも奪われて、悔しいと思わないのか?」
 ライオンは彼女の剣幕に一瞬ひるんだが、ちょっとの間、前足をひっこめると、やがて頭を下げ、第二の攻撃の態勢に入った。

 と、そのとき、二人の耳に、何かの振動しているような、かすかなブーンという音がひびいてきたのだ。ライオンは体をこわばらせ、耳をぴくつかせた。トザエモも音のする方へ目をやった。
 音はどんどん近づいてきた。やがて遠くに、一台の深緑色のジープが姿を現した。
「人間がやってくる」
 トザエモは呟いた。そしてライオンの方を見ると、彼は落ちつかないようすで、その炎の房のふいたむちのようなしっぽをふり回していた。しばらくの間そうしていたが、やがてゆっくり、やぶの方へ歩み退いた。
「お前、逃げるのか?」
 そのことばを無視して、ライオンは岩山をかけのぼり、とげだらけのやぶの間に姿を消してしまった。
 トザエモの胸に、再び怒りが、むらむらとこみあげてきた。怒りと、それから言いようのない悔しさとが。
「この大ばかもの! 勝手にしろ!」
 トザエモは声を限りに叫び、それから地面に座りこんで、激しく泣き出した。甲高いブレーキとともに、ジープがそばにとまったのも気づかずに。
 ドアがバコンと開いて、シャツの袖をまくったひげもじゃの男が飛びおりてきた。
「俺の目の錯覚じゃなけりゃ、今ここを登っていったのはライオン--しかも、恐ろしくばかでかいライオンだったんじゃ--」
 男は言いながら近づいてきて、急にぎょっとして立ちどまった。
「おい、お前さん、大丈夫か? ひでえ、大けがだ」
 言われてはじめて、トザエモは、自分の足のつけ根から、だらだら血が流れているのに気がついた。流れた血が、足もとの砂地に黒くしみこんでいた。
 それからあとのことは、ぼんやりとしか、覚えていない。
 男がトザエモを抱えあげようとして、彼女の持っていた荷物に気づき、
「何だお前さん、救急用具をちゃんと一式、自分で持ってるじゃないか。いったい何しに、こんな砂漠のど真ん中に・・・」
と、がみがみ言いながら、裂いた布をひったくって傷口にぎゅうぎゅう巻きはじめた。トザエモはそれを聞いて、ズキッと胸が痛んだ。
「ちがうの・・・」
 言いかけたが、ことばが出てこなくて、ただ激しく泣きじゃくるばかりだった。男は勘ちがいして、
「よしよし、分かった、泣くんじゃない。すぐ医者を呼んでやるからな」
と、なだめながら、トザエモを運んでいって、ジープの後ろの座席に横たえた。
 それからものすごいスピードで発車させながら、
「家はどこだ?」
と、どなった。
「ビッテムロシュナの近く・・・ずっと東の、沼地のそば・・・」
 やっとそれだけ言うと、トザエモはぐっと息を詰めた。今ごろになって、激しい痛みが襲ってきたのだ。

 大ゆれにゆられて、人々のざわめきやあわただしい物音を夢うつつに聞き、気がついたら、自分のうちのベッドの上だった。知った顔が、まわりをとり囲んでいる。さっきの男、私立探偵、ミス・ラフレシア、それから足指亭の常連たち。
 トザエモが目を開けると、安堵のため息が、みんなの口からもれた。
「さあ、どいたどいた」
と、声がして、白衣を着こんだはげ頭の医者が近づいてきた。
「こっちは忙しいんだからな。たった一人のために、丸一日割いているわけにはいかん」
 医者はトザエモのようすをちらっと見ると、
「脱水症状を起こしている。すぐに水を与えなさい」
と命じ、それから、傷口に巻かれた布をすばやく解いて、アルコールで消毒した。とびあがるほどの痛みにトザエモが耐えている間に、彼は例の軟膏を手に取り、ちょっと中身を吟味すると、何食わぬ顔でそれを傷口にすりこんだ。ふっと痛みがやわらいでゆくのに、トザエモはびっくりだ。医者はその上から新しい布を巻きつけると、
「当分の間、安静にしてなきゃいかん。命には別状ない。わしはもう来ないからな」
と言い残し、救急箱のふたをしめ、助手を従えてさっさと帰っていった。

 トザエモはもちろん、どうしてこんなことになったのか、みんなに説明しなければならなかった。そして当然のことながら、さんざんの非難をあび、口々に説教される次第となった。ただ、私立探偵だけは何も言わないで、すみの方で一人、悲しそうな顔をしていた。
 トザエモをうちまで送り届けてくれた男は、みんながひきとめたのを断って、再びジープに乗りこんで行ってしまった。何でも、月に一度、要るものを調達しに、遠く離れた店まで出掛けていく途中だったということだった。
「暗くなるまでに着かないと、まずいんだ。道が分からなくなるから」
「ほんとに、どうもありがとう。あなたが通りかかってくれて、全く幸いでした」
と、トザエモが言うと、彼は、
「うん、俺もほんとに、そう思うよ」
と言って、同意した。
 みんなが帰ってから、トザエモは、ちょっと自信を失くして考えた。自分がしたことは、そんなに途方もなくばかげたことだったのかな? けれど、考えても分からないので、そのうちめんどうくさくなって、やめてしまった。
「どっちにしろ、お前だけは認めてくれるでしょ? あたしが例え目的を遂げられなかったにしても、ともかくやるだけはやったってことを・・・」
と、トザエモは、アルヌマーニクに言った。
「それにしても、近所の人たちって、ときによってはうるさく思えることもあるのよね」

 それからずいぶん長いこと、トザエモは、ベッドの上でじっとしていなければならなかった。何もすることがないので、しばらく放っておいた<緋色の研究>を、再び読みはじめた。
 読み進むペースはごくゆっくりだったけれど、それでも、ロンドンが舞台の第一部はもう読み終えていた。ここまでで、犯人は捕まって、事件は一応の解決を見ている。だけど、状況は、あまりにも不可解すぎた。要するに、これが今現在の状況だった。もっと深いところを理解するためには、第二部へ進んでゆかなければならない。トザエモは居ずまいを正して、第二部のページを開いた。
 ここへ来て、舞台はいきなりユタの砂漠にとび、さっきとは全然関係ない話が始まった。砂漠の真ん中で迷い、飢えと渇きとで死にかけた老人と小さな娘は、約束の地を求めて旅する一群の人々に助けられ、彼らと行動を共にする。数々の苦難を経て、ついにたどりついた約束の地。そこで二人は幸せな生活を送り、娘は美しく成長して、恋人もできる。しかし、やがて約束の地に息づくこの組織の恐るべき内幕が明らかになる--暗黙の掟と圧力、密かに行われる異端者の抹殺。娘と他の若者との結婚を強制されるに及んで、老人と娘とその恋人とは、ついにこの地からの脱出を図る・・・。
 こうして、物語はだんだんに、現実に近づいてきていた。ロンドンは母さんや大統領のいるところで、トザエモはまだ行ったことがないが、この砂漠なら知っている。ここにはあそこのイメージが忠実に再現されている。見捨てられ打ち捨てられた、なおかつ奇妙な情熱を帯びたあのイメージが。

 一日じゅううちにいると、知り合いがひっきりなしに訪ねてくる。道々花をつんできて、トザエモの具合をたずね、自分の状況についてしゃべり、じゃあがんばれよと言って帰っていく。
 はじめのうちは、まだよかった。そのうち部屋じゅうが花でいっぱいになって、身動きがとれなくなった。こっちも、何度となく同じことを言わされるのが苦痛になってきた。そこでうんざりして、もう来ないでくれと頼むと、みんなは戸口のところまでだけやって来て、やっぱり、花をどっさり置いていく。トザエモはいじらしく思い、悪いことしたな、と考える。かと
言って、いちいち応対してたらきりがないしなあ--みんな、あたしがだいじょうぶだって知ってるなら、放っといてくれればいいのに。
 そこまできて、ふっと思った--家出したときの母さんも、こんな気持ちだったのじゃないかな。みんなの親切が、母さんにしてみれば、かえって苦痛だったのだ。がまんしてがまんして、とうとう家出を決意せざるをえなかったほどに。

 傷の手あてをしてくれた医者は、それからもいくどかやってきて、トザエモのようすを診察した。そして、帰り際にはきまっていつも、ぶすっとした顔で「わしはもう来ないからな」と言って帰っていった。
 ひまになるとよくライオンのことを考えた。かわいそうなあのライオン。あまりにもひどい目にあわされて、良識さえも失ってしまったんだ、あいつは。サングラスは、どこになくしてきたんだろう。涙のあとが、人に分かってしまうじゃないの。--ライオンのサングラス。失われてしまったもの。ライオンのサングラス。--ひょっとして、これがこの事件のキーワードなのかな?
「直接関係ないこと、か」
 もう一度会ってみたい気がした。でもたぶん会えないだろうと思った。

 さらに夜と昼とがめぐってきた。ハンモックの上で陽ざしをあびながら外を眺めるのも、いいかげん、退屈だった。むしょうに出歩きたくてたまらなかった。
 <緋色の研究>も、ほとんど読み終えた。老人が殺され、娘はさらわれる。復讐を誓ったその恋人は、敵を追い続けてアメリカからヨーロッパへ渡り、長い年月を経てついにその敵をロンドンで殺す--。
 何十年も昔の悲劇の結末が、ホームズの遭遇した事件の正体だったのだ。
 トザエモは考えぶかげに読み、さいごの十ページくらいのところで本を閉じた。物語の糸は解けた。ここから先は、自分で考えなければならない。

 その日は、この季節には珍しい雨模様だった。天から降りそそぐ水の粒が沼のおもてに穴を穿ち、何千という木の葉を打ちたたくひそやかな調べが、そこらじゅうをすっかり満たしている。
「とにかく、でかけるって言ったら、でかけるんだから。あんただって、あんまりだらだらしてたら、そのうちひとを乗せることも忘れちゃうよ」
 トザエモはきっぱりと言って、アルヌマーニクの背によじのぼった。治りかけの足を、まだ少し、かばうようにしながらだったけれど。
「・・・それに、あたしだってこうも長いこととじこもってたら、きのこなんか、生えてこないとも限らないし」
 アルヌマーニクは、彼女を背に乗せてゆっくりと森の中へ入っていった。

 久しぶりに見上げる空だった。雲が広がって灰色に垂れこめ、ゆっくりと南の方へ動いていく。顔に落ちる雨のしずくが心地よかった。木の葉はざわめき、白く翻る・・・森のみどりの濃厚な香りが漂っている・・・。
 トザエモは深呼吸して、このかぐわしい空気を全身に吸いこんだ。この大地の生み出した清浄な空気が、わずらいごとをすっかり運び去ってくれるようだった。
「そうだね、あたしは母さんに会いに行こう--ひとりであれこれ考えるより、実際に会って話した方がよっぽどいいよ」
と、トザエモは決意した。
「もいちどいっしょに住んでくれるなら、連れて帰るし、大統領のところにいたいというなら、別にそれでもいいじゃないの。自由がほしいと思ったら、ひとの自由も認めなくちゃね。例え相手が母さんだっても」
 今や、自分の行くべき道がはっきり分かったのだ。手のひらで、アルヌマーニクのかたい皮膚に触れた。その下で脈々と胎動する命を感じた。そしてアルヌマーニクの方もまた、女主人の決意を感じ取ったのだ。
「こんどは、お前もいっしょに行ってくれるね」
 トザエモが言うと、アルヌマーニクはその全身で、力強く答えを返した。

 けれど、いざ出発するとなると、いろいろ準備が必要だった。
「まず、このうちを、すっかり掃除しなきゃ。母さんがいつも言ってた、たつ鳥あとをにごさず、って」
 たしかに、トザエモのうちは、すっかり掃除する必要があった。何といってもトザエモは生まれてこのかた掃除なんかしたためしがないのだし、ことに最近ときたらみんなの持ちこんだ花が枯れてそこらじゅうをうずめていたのだ。全く、このうちをちょっとでもきれいにするものがあると言ったら、壁のすきまから吹きこんでくる雨風くらいなものだった。
 ところが、地下室を探しまわってみて分かったのだが、このうちには、大掃除に必要なものが、ぜんぜん、ないのだ。古ボウキくらいあるかと思ったら、それもない。仕方がないから、家のまわりに生えている棕櫚の葉を切り取ってきて、束ねて枝にしばりつけて自分でホウキをつくった。それでもって、まず二階から一階へごみを掃き落とし、次に一階から地下室へ掃きおとして、さいごに地下室にたまったごみをすっかり掃き集めて、ぜんぶいっしょに外で燃やした。それから粗布を割いてぬらし、壁から床から家具から、みんなきれいに、磨いてまわった。

 すっかり終わるころには、空に星が瞬きはじめていた。トザエモはさすがにくたびれて、木の間に腰を下ろした。雨はやんでいた。
 こんどの旅のことも、みんなに言うわけにはいかなかった。ライオンの一件のあとだ。彼女の出発を、まず許してくれまい。けれど、そんなに心配してくれるのに、黙って出てゆくのも気が引ける。そうだ、あした、足指亭に行こう。久しぶりに顔を見せて、元気になりましたって、みんなに伝えよう。それから彼らの好きな歌を歌ってこよう。
 けれど、あの人にだけは、ほんとうのことを言わないわけにいかない。あの私立探偵には。そこまで考えて、そう言えば最近あの人に会ってないな、と気がついた。考えてみれば、ジープに乗せてもらって帰ってきた、あの日以来だ。たぶん、何か会いたくない理由でもあるのだろう。それでも、発つ日までには、何とか会わなくては。

 夜空にくっきりと浮かびあがったオレンジの木の影が、ゆれていた。たわわに大粒の果実をつけて。オレンジの実のなる季節だった。
 それを眺めていて、トザエモは、ずっと昔のことを思い出した。母さんといっしょに住んでいたとき、よくこのオレンジを煮てジャムにしたことを。陽のあたるテーブルの上にまるいガラス瓶をならべて、きらきら光る透明な金色のジャムを次々に詰めていく。みつばちの、眠たげにブンブンいう音。幸福なひととき、ゆったりとまどろんで流れる時間--。
 そう。今、もいちどあれをつくるべきなんだな。トザエモはひとり考えた。大統領のうちは、ずっとずっと遠くだ。いつ帰ってこられるかも分からない。これまでのお礼に、みんなに一瓶ずつ進呈しよう・・・そうだ、母さんのところへも、一瓶持っていってあげよう。ずいぶん、久しぶりなことだろう。娘のあたしが、一人でジャムを煮られるようになったことを知ったら、きっと喜んでくれるよ。

 その晩、トザエモはしばらくしまいこんでいた<緋色の研究>を出してきて、さいごの十ページを読んだ。そこの場面で、犯人が心臓の病気で死んでしまうのだった。想像もしない結末だった。泣きはらした目をあげたとき、森の上を大きなオレンジ色の月がゆっくりと渡って、西の空へ沈んでいった。
 次の朝、トザエモとアルヌマーニクは、ジャムのためのガラス瓶をどっさり仕入れるために遠出をした。いつだったか、ジープの男が教えてくれた店まで出掛けていったのだ。
 その店の名は、ピムシュクといった。低い灌木の生える荒地の真ん中にぽつんとたっていて、その姿はまるで突き出た岩山か、鼻づらをまっすぐ天へ向けて遠吠えするオオカミみたいだった。
「あのひと、こんなところまで、何を買いにくるんだろ」
 トザエモは意外に思ってひとりごち、中へ入っていく。店の中はほとんど真っ暗で、わずかにひどく凝ったデザインのランプシェードから、ぼんやり、黄色い光がもれていた。よくは分からないが、やたらごたごたとものが置かれている感じだ。

 だいぶちゅうちょしたあげく、とうとうトザエモは大声を出した。
「誰かいませんか?」
 長いこと間があった。それから、だしぬけに頭の上から、
「はいはい、今行きますよ」
という声が降ってきた。
「今行くから、ちょっと待って」
 その声はこだまのように頭の上をぐるぐる回りながら、とっとっと目に見えないらせん階段を小走りにかけおりて、下まで降りてくる。
 すぐそばに置かれていたランプが持ちあがり、深くしわの刻まれた老人の顔をやっと照らし出した。
「ガラス瓶がほしいんです」
と、トザエモは言った。
「ガラス瓶、ガラス瓶と・・・さあ、いろんなのがありますよ。まるいの、四角いの、三角の、六角形、花のかたち、鳥のかたち、動物のかたち、取っ手つきもあります。色も豊富です。七月の夜明けの空の色、アマリリスのつぼみの色、日曜の午後の湖水の色、真夏の夜に見る夢の色。材質も、クリスタル、くもりガラス、ひび入り、透かし模様、網細工・・・」
 大きな棚の中から、美しいガラス瓶が次々に光の中へ取り出された。まるで魔法の手によって、たった今、つくり出されてくるみたいだ。トザエモは目を見開き、息をのんで見つめていたが、ようやく思いきってさえぎった。
「すみません、たしかにみんな、きれいなんですけど、あたしがほしいのは、ごく普通のガラス瓶なんです。ジャムを入れる、コルクのふたのついた、ただのまるい瓶なんです」
 老人の声が、ふっと途切れた。それから、
「おお、これぞ美の究極--もっとも単純なかたちの中にこそ、あらゆる美が集約されている。もちろん、ある。こちらへおいで」
 ランプが再び持ちあがって、動いていく。
 トザエモはそのあとを追いかけていきながら、尋ねた。
「ここ、どうしてこんなに真っ暗なんですか?」
「なぜ真っ暗なのか? 闇の中にすべての光が宿るからだ」
と、老人は答えた。
「何でもそういうものだ。夢の中にこそ真実がある。死に脅かされて命は光り輝く。失ってはじめて、得ることができる。--ところで、わしの方も一つ聞こう」
 老人のランプがちょっと立ち止まった。
「お前さん、前にも一度ここへ来たことがなかったかね?」
「あたしが?」
 ランプがゆっくり後戻りして、その光がトザエモの顔を照らし出した。
「おやおや・・・ふむ、よく似た別人なんだな」
と、老人はひとりごちた。
「お前さんにそっくりな、オレンジ色の髪をした女が、こないだもここへ来おったじゃ」
 トザエモは胸をドキドキさせた。
「それ、あたしの母さんです! たぶん」
「ずいぶん前のことだが。ここへ来て、空虚の穴をふさぐ妄想を、きっちり十ポンド量って買っていった」
「母さんが、妄想なんかを買うわけないわ」
「いや、自分のためじゃないんだ」
と、老人は言った。
「いつもは、別の人間が来るのじゃ。毎月毎月、きちょうめんにやってくる。この危険な妄想を買いに、りっぱな馬具をつけた馬に乗り、上着には四枚の翼を持ったトーテム・ポールを刺しゅうした使者が。お前の母さんは、その代理だったのじゃ」
「ふうん、そうか」
と、トザエモは言った。
 トザエモは二つの大きなかごにうす緑色のジャム瓶をいっぱいつめこみ、それをアルヌマーニクの背中の両側から下げて帰った。

 午後の陽もだいぶ傾いて森にさしかかったところで、向こうからやってくる私立探偵に出会った。私立探偵の方も、ちょうどトザエモのところへ出向いてきたところだった。
 あいかわらず、上から下まで緑づくめで、口の端にパイプをくわえ、ひょろひょろした体を持て余すように歩いていた。そして、トザエモが手を振ると、困ったように笑った。
「一体今までどうしてたのよ。ずいぶん長いことごぶさたしてたわね」
 トザエモが言うと、私立探偵は答えた。
「うん、そうだけど、さいごのところは、やっぱり自分で解決しなきゃいけないのさ--この種の事件の場合はね」
「その通りよ。あたし、解決したわ。あす、出発するの」
「でかした!」
 それを聞いて、私立探偵は顔を輝かせた。
「都へ、母さんに会いに行くわ。それからあの軟膏も持っていって、ばかな大統領の頭につめこんでやるわ。そして、あいつの銃にも」
「ばかだな。奴のことだから、銃なんか山ほど持ってるに違いないぜ」
「あんた、あたしの本当の力を知らないのね」
 トザエモは、頼もしく言って、笑った。
「分かったよ」
と、私立探偵は言った。
「がんばれよ。君の力を信じてるよ」
「ありがとう。あんた、確かにシャーロック・ホームズの素質があるわ」

 うちに着くと、トザエモは納屋から長梯子を持ち出してきてオレンジの木に掛けた。はだしの足の裏で枝の感触を確かめながら器用に登ってゆき、茂った葉の中に輝くその実を、端っぱしからもいでゆく。それが終わるとこんどは大鍋を見つけ出してきて、その前に座りこみ、ナイフで皮をむいてはどんどん放りこんでいった。
 その間、私立探偵は窓に腰かけて陽をあびながら、<緋色の研究>や、本棚で見つけた他の本をぱらぱらめくって読んでいた。
 トザエモがひと休みしに台所へ入っていくと、私立探偵は読みかけの本から目を上げて、言った。
「最近、自分の生まれた町のことを思い出したよ」
「何で急に?」
 トザエモは、彼の方を横目で見やって聞く。
「何でって? まあ、聞いてくれよ。ぼくは、海ぞいの工業地帯にある小さな町で生まれたのさ。ひどいところだったよ、息がつまりそうだった。工場では毎日、きっちり同じ型の部品がどんどんつくられてはベルトコンベアにのって流れていくんだ。君、ベルトコンベアって知ってるかい、どんなものだか? それでもって、通りには高さもはばも同じ四角い家が、どこまでも同じ間隔で立ち並んでいるのさ。町全体に、ガソリンと機械油の匂いがたちこめていた。へいに腰掛けて--こんなふうに--部品の山を眺めていると、うるさい連中がやってきて、うるさいことを言うんだ。労働の義務とか、社会秩序だとかさ。
 そんなのが、本物の暮らしであるわけないだろ? それでぼくは心に誓ったのさ、いつかはここを出ていって、本物の暮らしを手に入れてやるって。ビッテムロシュナのことを聞いたとき、ああ、これだ、と思ったんだ。でも、実際こっちで暮らし始めてみると、全部が全部、思ったようじゃなかったな。こっちに来ても変わらない問題があることにも気づいたし」
 そこで私立探偵がふっと黙りこんでしまったので、トザエモは先をうながした。
「それで?」
「でもさ、ともかくそういうことだって、実際やってみなきゃ知らずじまいだったんだし--それに今だって、だんぜん、ここが好きだな、うん」

 日が暮れるころ、アルヌマーニクの背にジャム瓶のかごをのせ、トザエモと私立探偵は虹の足指亭に向かった。もう遠くから、アコーディオンの音色と笑いさざめく声とが聞こえていた。誰かが先回りして、伝わっていたらしく、トザエモが戸を開けるなり、
「おーい、お出ましだぞ!」
という声があがって、その場が沸いた。
 顔見知りが、ほとんど全員そろっていた。みんなは、トザエモの回復を祝して乾杯し、トザエモの首に花の首飾りをかけた。
 トロピカル・ジュースとパンケーキが回され、ビールを注いだ大ジョッキがぶつかりあう。楽しい晩だった。騒がしいお喋りはいつ果てるともなく続き、トザエモは声が涸れるまで、知っている歌を次々に歌いまくった。おもてには、紺の空に星がきらめき、木の葉をそよがせる風の涼しさはもう、かすかな秋の気配だ。
「この次、ここに来るときには・・・」
と、トザエモは、半ば郷愁にも似た気持ちで思う。

 トザエモと私立探偵は四つ辻のところで別れた。
「明日の夜明けよ。村の入り口で」
と、トザエモが言うと、私立探偵は答える。
「うん、分かった」
「誰にも言わないでね」
「もちろんさ」
 家路につく前に、カデンツァの噴水に寄ってみた。パイナップルの輪はいつものように、明るい光を放ちながら水のまわりをぐるぐる回っている。
 噴水の外側の壁に、強烈な色づかいで動物や風景の絵が描かれているのに気がついた。いつかここで出会った旅人が描いたのだ。彼は再び自分自身を見つけ出したのだった。

 向こうから、ほっそりした黒い人影が近づいてくる。顔は見えなくても背格好で分かる。愛すべき、やせぎすのレンカだ。
「こんばんは」
と、声をかけると、トザエモの方を見て、微笑んだ。
「こんばんは。いいお晩ね」
 少しの間、二人は黙って噴水の水をながめている。時々、レンカのつけている銀色の三日月形の耳飾りが、月あかりにきらりと光る。
「・・・ねえ、」
と、だしぬけに、トザエモは言う。
「覚えてる、いつだったか、サングラスをかけたライオンの話をしてくれたことがあったでしょ? ねえ、もしよ、ほんとにもし、そのライオンがまだ生きていたとして--そして、もし誰かがそいつの傷を治してやれる薬を持っていたとして--そしてある日、実際にそのライオンを探しに行って、治してやろうとしたとしたら。そうしたら、そのライオンは、どうしたと思う?」
 レンカは、ちょっと首をかしげて、考えていた。
「どうかな。素直にそれを受け入れるかしら。分からないわ。あまりにも深い悲しみを経験してしまった者の心には、時として奇妙な自己憐憫の気持ちが育つものよ。それは逆に回復を憎んだり、するかもしれない」
「そうなのかな」
と、トザエモは言い、考えに沈んだ。

 トザエモは家に帰ったが、眠る気にはなれなかった。窓にもたれて、夜明けまでずっと、空の色がゆっくり変わっていくのを眺めていた。旅の支度はもうできていた。
 東の空が白みはじめ、鳥たちがめざめて歌いはじめたころ、トザエモは窓のそばから立ち上がった。それから外へ出ていって、少しばかりぼうっとした頭に、冷たい沼の水を勢いよくぶっかけた。そうしてあざやかなオレンジ色の髪からぽたぽた雫を滴らせながら家の中へ入ってくると、小さな荷物を持って再び外へ出た。森を吹き抜けてくる朝風に向かって大きくのびをして、それから鋭く口笛を吹いて、アルヌマーニクを呼んだ。
「さあ、都へ行くんだ」
 なじみ深いざらざらしたアルヌマーニクの背に手のひらをのせ、トザエモは宣言する。今や主人のいなくなった家は、がらんとして淋しげに見えた。そして、風にゆれるオレンジの木も。

 まだ暗い森の中を進んでゆくと、ライムの木の下に、紺色のマントを着た人影が立っている。黒ぶちの丸めがねをかけ、つる草のような髪が肩までのびて、年はぜんぜん、見当もつかない。目を閉じて、天に向かって腕をのべ、まるで大地と一体になったようにじっと立ちつくしている。けれど、トザエモには一目で分かった、それは奇術師カデンツァだった。
「お久しぶりですね」
 トザエモはそっと言う。
「ようこそおいでくださいました」
「本当に久しぶりだ」
 奇術師は、静かに答えた。
「しかし、みんなは変わっていないことだろうな。あいかわらず歌を歌い、ジョッキを傾けながら、楽しくやっていることだろう。どうか、カデンツァがやって来たことを、もうしばらく秘密にしておいてくれ」
「もちろんです」
と、トザエモは言った。そして、まだ誰も知らない秘密に胸をわくわくさせながら、静かなビッテムロシュナを横切っていった。

 村はずれには、二つの人影があった。私立探偵と、もう一人はいつぞや足指亭で会った旅がらすだった。
「なんだ、誰にも言わないでって言ったのに」
 トザエモがふくれて言うと、私立探偵は困ったように隣りを見やった。
「ぼくは何も言ってないんだけど」
「そうとも、この人はなんも言っちゃいない」
と、旅がらすは平気な顔で言ってのけた。
「ただ、俺があの子は今日発つのかねって聞いたら、うなずいただけさ」
「ともかく、事件は一応の解決を見たね」
と、私立探偵が言った。
「そうね、たぶん」
 トザエモは、荷物の中から<緋色の研究>を取り出して、彼に渡した。
「今まで、ありがとう。これ、あげるわ」
「あんたの母ちゃんに、よろしく言ってくれよ」
と、旅がらすが口をはさんだ。
「あんたなんかからよろしく言ってどうすんのよ?」
「いいから、伝えておくれよ」
「分かったわ」
 トザエモはアルヌマーニクの腹を軽く蹴って、前へ進み出させた。それからちょっと振り返って二人に向かって手を振り、
「ごきげんよう!」
と言った。
 まぶしい朝日の光が、大地を染めはじめていた。大地はいつでも大いなる未知と希望とを孕んでいる。恐れることなくそこを進みゆく、全ての者の前に。