2021年10月03日
狼の女王(普及版)
愛蘭土物語(あいるらんどものがたり) ゴロウェイ篇8
狼の女王 The Queen of Wolves (普及版)
フィークルの物語
2006 by 中島 迂生 Ussay Nakajima
(こちらは、物語部分だけをシンプルにまとめたバージョンです。もっと長い<完全版>は下の記事をどうぞ)
みんなおいで、私たちはゆくのだよ、
つまらぬごたごたに煩わされることのない、もっと広やかな土地へ、北の地へ・・・
ゲルマ、ハガル、シグ、シロク・・・
いけない、いけない、そっとしておきなさい・・・
彼らにかまってはいけない、このままそっと、我々は立ち去るのだ・・・
***
旅の終わりはフィークルであった。
フィークル、東クレア、人知れずひっそりと時の流れに身を沈め、のどけくうつくしい、牧歌そのものの風景のどこまでも広がる、なだらかな丘陵地帯である・・・
この村には一週間、いや十日ばかりいただろうか。
来る日も来る日も夢のような景色のなかを、我を忘れて彷徨いながら、私はさいごの物語がゆっくりとやってきて、やがて形を整えてゆくのを待っていた。
いや、それはもうすでに訪れていた。
あの日、この村にやってくる途中、丘を左手に曲がったところで、私はそのひとの幻を空のなかに見たのだった。
蒼く沈んだトウヒの林はそのひとの髪のいろで、灰色と黄と空色の入りまじった雲むらは、そのひとのマントの色だった。
そのひとは長いマントのすそをひるがえしてしずかに立ち去っていった。
青ざめたけだかい横顔は、ひどく悲しそうだった。
あれは誰なのだろう、何をそんなに悲しんでいるのだろうと、そのとき私は思ったのだった。
まっ赤に色づいたさんざしの実は、そのひとの一滴のあたたかい血のいろだった。・・・
私は感じていた。
そのひとが去って今はもう久しいにもかかわらず、いまもなお、大地の様相にまごうかたなくとどめられたその刻印を。・・・
その日、私は夕べの散歩から戻ってくるところだった・・・
村の北側の道から、木立に挟まれた道をやってくるうち、日は沈んで、しだい夕闇が訪れつつあった、逆光に沈んで、その梢は黄色い薄あかるみのなかに鈍い銀色とオリーブ色に浮かびあがって、さながらコローの絵である・・・
心打たれて、私はじっと見入った。・・・
そのわずかな間に、薄明の魔法で時ははるか遠くさかのぼったようだった。・・・
と、腰までのびた乾いた草むらをさあっと風が渡ってゆき、そのあいだを縫って、いくつもいくつも、狼たちの蒼い影が音もなく駆け去ってゆくのが見えた。そう、彼らだ・・・
私はさいしょの晩、我々を追ってきた獰猛な犬どものことを思い出した。
一万年前の昔には、あれは狼たちだったに違いなかった・・・
それは太古のむかし、この地を駆け巡っていた、彼ら狼たちの幻なのだった。・・・
そのころ、この土地のありさまは今とはまるで違っていた。そしてそのころ・・・
***
そのころ、このゆたかな山岳地方の全体は、すみからすみまですっかり広大な森に覆われていた。
針葉樹林ばかりではなかった、樫やブナの巨木がどっしりと枝を広げ、ありとあらゆる鳥や動物たちが糧を得て住み暮らしていた。
果てしなく深い森また森、それが一万年前のこの土地の姿だった・・・
このあたり一帯をあまねく総べていたのは、かの名高い<狼の女王>だった。
はかりしれない昔から、彼女はこの土地のあるじだった。
だれもその姿を見たものはない。ただ話に聞くだけだ・・・
彼女はたいへん背の高い、堂々とした女で、異界に属する者たちの女王だった。
つねに自分の狼の群れを従えて、森のあちらからこちらへと巡り、誰でもよそから侵入してくる者があると、たちまちのうちにその狼どもに引き裂かれてしまう。
彼女は冷酷無情だった。その名を聞いただけで、人びとは震えあがった。・・・
そのころ、羊飼いゴメルとその民の者たちが東のほうからやってきて、森を開墾し始めた。
彼らは長いあいだ、東にあった自分たちの国で羊を飼っていたのだが、海の向こうから別な強い民がやってきて彼らを追い立てたので、追い立てられて、やむなく移ってきたのだった。
このあたり一帯の土地がすべからく<狼の女王>のものであることを、もちろん彼らも知っていた。
「しかし、ほかに我々に何ができようか?」と彼らは言ったのだった。
「我々は生きてゆかなければならない。我々は自分の家の者たちと、羊たちとを養わなくてはならない」
そうして彼らは岩をとりのけ、灌木を引き倒し、羊たちのために土地を平らにした。
彼らは枝を組み、石を積み上げて粗末な小屋をつくり、日夜開墾して牧草地を広げていった。
女王は彼らのことで怒り、日夜狼たちを送って彼らを悩ませた。
羊飼いたちは交代で夜通し見張りにあたり、羊たちを守ろうとした。
けれども、あとからあとから狼たちは襲ってきて、羊を殺し、羊飼いたちを殺し、その妻や幼い者たちをも容赦なく噛み殺した。
「しかし、先祖からの土地を奪われた我々に、ほかに一体何ができようか」と彼らは言った、
「我々はこの土地を切り開き、羊たちの牧草地を生みつづけるよりほかにどうしようもない。我々は狼たちと、体を張って戦いつづけるしかないのだ」
そこで彼らは弓矢や石投げ器で狼たちに立ち向かった。
多くの狼たちが彼らに殺されて死んだ。するとさらにいっそうたくさんの狼たちが、やってきては猛り狂って彼らを噛み殺すのだった。・・・
ついに羊飼いの頭ゴメルは言った、「こうしたことが、これ以上続いていってはいけない。
私は<狼の女王>と話をつけなくてはならない」・・・
そこで彼は各家族ごとに、その群れの中から一頭ずつ、生贄として差し出すための羊を供させた。
彼は民の中から十人を選んで引き連れ、これらの羊たちを携えて、森の奥深くへと分け入っていった。
彼らは森の中を一日じゅう進んで、すっかり疲れ果ててしまった。
ついにゴメルは大声で呼ばわって言った、
「女王よ、狼の女王よ、あなたはどこにおられるのか。
我々はあなたに話したいことがある」
すると、どこからか音もなく影のような狼たちの姿が現れて、彼らのまわりを取り囲んだ。
狼たちは唸り声をあげ、ただその眼の光ばかりが闇の中にぎらぎら光った。
そのとき、暗い梢のあいだから声が響いて、<狼の女王>が姿を見せずに彼らに向かって話して言った、
「お前たちはなぜ私の森を根こぎにし、私の土地を損ないつづけるのか。
この土地から出てゆきなさい。
お前たちはこの土地に対して何の権利も持っていない」
「我々とても、そのことはよく承知している」とゴメルは答えた。
「ほかにゆくところがあるのなら、我々とてもそなたを煩わせはしない。
しかし、我々は自分たちの土地を奪われて、かろうじてここまで逃げのびてきたのだ。
我々にはほかにゆくところがないのだ。
だからどうか、この贈り物の羊たちを受け取って、我々が森を開くのを許してほしい。
どうかこれ以上、狼を送って我々を殺すことがないようにしてほしい」
すると、女王は怒りに燃えた。
「お前たちの羊を携えて、この場所から出てゆきなさい。
お前たちは何者だというのでこの私と取引しようとするのか。
私はその気になれば、お前たちのすべてをこの場でたちどころに殺すこともできるのだ」
すると狼たちはいっせいに牙を剥いてゴメルたちに襲いかかったので、彼らは退いて、自分の民のもとへ戻っていった。
そののちも、彼らは森を開きつづけた。
すると狼たちもまたやってきて、羊を襲い、民を殺すのだった。
彼らは狼たちに立ち向かい、こうしてまた多くの者が死んでいった。
ふたたび羊飼いの頭ゴメルは言った。
「これ以上、こうしたことがつづいてはいけない。私は<狼の女王>と話をつけなくては」
そこで彼は再び各家族ごとに一頭ずつの羊を供させようとした。
ところが彼らは言うのだった、
「我々はもう、我々の羊の中から女王のための生贄を差し出したくない。
ひとたび我々は生贄を差し出したのに、事態はよくなるどころか、かえって狼たちの凶暴さはひどくなるばかりだ。
我々の嘆願をきいてくれない<狼の女王>のために、なぜこれ以上の生贄が必要なのか」
「お前たちは正しく物事を見ていない」とゴメルは言った、
「この土地において、我々は闖入者なのだ。
かつて我々の土地に強大な民がやってきて、我々からそれを奪った、その民と同じことを、いま我々はしているのだ。
女王が我々を憎んで殺すのも当然ではないか」
そこでこのたびは、ゴメルは民の中から生贄を求めず、自分自身の愛する羊の群れの中から十頭を取って、携えていった。
こうしてゴメルはふたたび森の奥へ分け入り、<狼の女王>と話をしようとした。
そしてまた、同じことが起こった。
「何度お前はあやまちを繰り返すのか。
私はお前の手から何も受け取らない。
私と取引しようとするのをやめて、この土地から出てゆきなさい」
女王はそう言って、聞き入れようとしなかった。
ゴメルが嘆願しようとすると、再び狼たちが放たれて、彼と羊たちとを打ち払った。
そののちもまた、状況は変わらなかった。
開墾はつづいてゆき、戦いと略奪と殺害とが日夜繰り返された。
ゴメルは深く悩み沈んだ。
ついに彼はみたび言った、
「こうしたことがつづいてはいけない。
私は<狼の女王>と話をつけるのだ」
このたびは、ゴメルは羊も携えず、ほかの誰をも従えず、ただひとりで森の中へと入っていった。
するとまた、同じ仕方で<狼の女王>が彼に出会って言った。
「お前はまだ死なずにいるのか。
お前はなおも私の森を損ないつづけるのか。
今晩、私はお前を殺してやろう」
するとゴメルは言うのだった。
「私の命を奪うことであなたの気が済むのなら、どうかそうしてほしい。
私を殺したらあなたの気がおさまって、これ以上、私の民と羊たちを殺すことをやめてくれるだろうか」
すると女王は言った、
「この期に及んで、お前はなおも、私と取引しようとするのか」
ゴメルは答えた、
「ほかのすべてを奪われた人間が、それでも彼の民と羊とを守らなくてはならない場合、絶望的な取引よりほかに道が残されていないとしたら、ほかにいったい何ができるだろうか」
こうして彼はその民のもとへ帰った。
その晩遅く、<狼の女王>は闇にまぎれてゴメルの眠っている石積みの小屋に彼を訪ね、その姿を見出すと、その胸に短剣を突き立ててこれを殺そうとした。
しかし、彼女はそのかわりに小屋の石壁にその青銅の剣を突き立てて立ち去った。
夜明け近く、白みそめたうすあかりの中でゴメルは目を覚まし、石壁に突き立てられた短剣を見出したのである。・・・
夜が明ける前に、この地一帯のあまたの狼どもを引き連れて、<狼の女王>はこの地を去った。・・・
さあ往くのだ、もっとよき地へ、私たちは移り住むのだ・・・つまらぬごたごたに煩わされることのない、もっと広やかな土地へ、北の地へ・・・
みんなおいで、私たちはゆくのだよ、ゲルマ、ハガル、シグ、シロク・・・
狼たちは幻のように走り去った、暗い木立をぬけて、薄明のうす青い霧のなかを、音もなく駆けていった、何頭かが立ちどまり、振り返って牙を剥きだす、未練がましく低いうなり声をあげる・・・
いけない、いけない、そっとしておきなさい・・・彼らにかまってはいけない、このままそっと、我々は立ち去るのだ・・・
こうして、この地は彼ら羊飼いたちのものとなった。
もはや何ものにも煩わされることなく、彼らは森をひらき、石垣を積み、羊たちのためにゆたかな牧草地を広げていった、滴るようなエメラルドの、かがやくみどりの牧草地を次々と、やがてそうした風景が、青くかすむ森とともに、この地の基調をなすまでに。・・・
けれども、どこであってもさんざしの木があると、彼らはそれを伐らずに残しておいた。
なぜならさんざしは<狼の女王>の木だからだ。
遠い昔からそういうことになっていて、誰もがそのことを知っていた。
時が流れ、人びとが彼女の名を忘れてしまってなお、おぼろな記憶は禁忌のなかに留められたのである・・・
さんざしの枝には魔法の力が宿ると言われている。
また、うっかりその木の下で眠りこむと、魂を異界へさらわれてしまうと言われている。
これらはみな、去っていった<狼の女王>の面影の名残りであり、人びとのあいだに伝えられる、彼女への畏敬のあらわれなのだ・・・
あらたに森をすっかり拓いて牧草地にしてしまっても、さんざしの木だけは、彼らは伐らずに残しておく。
彼らは、自分たちの住むゆたかな土地が、<狼の女王>から奪ったものであることを忘れてはいないからだ・・・
そのことについて今さらどういう言っても仕方ないが、ただいつまでも記憶にとどめておくために、彼らはそれを残しておくのだ。・・・
秋も深く、葉もすっかり落ちて、ただ棘のある裸の枝々ばかりがさむざむとした曇り空の下に晒されるころ、まっかに熟するその実の色は、<狼の女王>の血の色である。・・・
冷酷無情であった女王をしてその心を動かしめた一滴のあたたかい血の色であり、かつそれが自ら選んだ敗北につながった、悲しみの色である。・・・
季節がめぐり、さんざしの実が赤く熟するたび、我々は彼女の誇りを、その悲しみを思い返すのだ・・・
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狼の女王 The Queen of Wolves (普及版)
フィークルの物語
2006 by 中島 迂生 Ussay Nakajima
(こちらは、物語部分だけをシンプルにまとめたバージョンです。もっと長い<完全版>は下の記事をどうぞ)
みんなおいで、私たちはゆくのだよ、
つまらぬごたごたに煩わされることのない、もっと広やかな土地へ、北の地へ・・・
ゲルマ、ハガル、シグ、シロク・・・
いけない、いけない、そっとしておきなさい・・・
彼らにかまってはいけない、このままそっと、我々は立ち去るのだ・・・
***
旅の終わりはフィークルであった。
フィークル、東クレア、人知れずひっそりと時の流れに身を沈め、のどけくうつくしい、牧歌そのものの風景のどこまでも広がる、なだらかな丘陵地帯である・・・
この村には一週間、いや十日ばかりいただろうか。
来る日も来る日も夢のような景色のなかを、我を忘れて彷徨いながら、私はさいごの物語がゆっくりとやってきて、やがて形を整えてゆくのを待っていた。
いや、それはもうすでに訪れていた。
あの日、この村にやってくる途中、丘を左手に曲がったところで、私はそのひとの幻を空のなかに見たのだった。
蒼く沈んだトウヒの林はそのひとの髪のいろで、灰色と黄と空色の入りまじった雲むらは、そのひとのマントの色だった。
そのひとは長いマントのすそをひるがえしてしずかに立ち去っていった。
青ざめたけだかい横顔は、ひどく悲しそうだった。
あれは誰なのだろう、何をそんなに悲しんでいるのだろうと、そのとき私は思ったのだった。
まっ赤に色づいたさんざしの実は、そのひとの一滴のあたたかい血のいろだった。・・・
私は感じていた。
そのひとが去って今はもう久しいにもかかわらず、いまもなお、大地の様相にまごうかたなくとどめられたその刻印を。・・・
その日、私は夕べの散歩から戻ってくるところだった・・・
村の北側の道から、木立に挟まれた道をやってくるうち、日は沈んで、しだい夕闇が訪れつつあった、逆光に沈んで、その梢は黄色い薄あかるみのなかに鈍い銀色とオリーブ色に浮かびあがって、さながらコローの絵である・・・
心打たれて、私はじっと見入った。・・・
そのわずかな間に、薄明の魔法で時ははるか遠くさかのぼったようだった。・・・
と、腰までのびた乾いた草むらをさあっと風が渡ってゆき、そのあいだを縫って、いくつもいくつも、狼たちの蒼い影が音もなく駆け去ってゆくのが見えた。そう、彼らだ・・・
私はさいしょの晩、我々を追ってきた獰猛な犬どものことを思い出した。
一万年前の昔には、あれは狼たちだったに違いなかった・・・
それは太古のむかし、この地を駆け巡っていた、彼ら狼たちの幻なのだった。・・・
そのころ、この土地のありさまは今とはまるで違っていた。そしてそのころ・・・
***
そのころ、このゆたかな山岳地方の全体は、すみからすみまですっかり広大な森に覆われていた。
針葉樹林ばかりではなかった、樫やブナの巨木がどっしりと枝を広げ、ありとあらゆる鳥や動物たちが糧を得て住み暮らしていた。
果てしなく深い森また森、それが一万年前のこの土地の姿だった・・・
このあたり一帯をあまねく総べていたのは、かの名高い<狼の女王>だった。
はかりしれない昔から、彼女はこの土地のあるじだった。
だれもその姿を見たものはない。ただ話に聞くだけだ・・・
彼女はたいへん背の高い、堂々とした女で、異界に属する者たちの女王だった。
つねに自分の狼の群れを従えて、森のあちらからこちらへと巡り、誰でもよそから侵入してくる者があると、たちまちのうちにその狼どもに引き裂かれてしまう。
彼女は冷酷無情だった。その名を聞いただけで、人びとは震えあがった。・・・
そのころ、羊飼いゴメルとその民の者たちが東のほうからやってきて、森を開墾し始めた。
彼らは長いあいだ、東にあった自分たちの国で羊を飼っていたのだが、海の向こうから別な強い民がやってきて彼らを追い立てたので、追い立てられて、やむなく移ってきたのだった。
このあたり一帯の土地がすべからく<狼の女王>のものであることを、もちろん彼らも知っていた。
「しかし、ほかに我々に何ができようか?」と彼らは言ったのだった。
「我々は生きてゆかなければならない。我々は自分の家の者たちと、羊たちとを養わなくてはならない」
そうして彼らは岩をとりのけ、灌木を引き倒し、羊たちのために土地を平らにした。
彼らは枝を組み、石を積み上げて粗末な小屋をつくり、日夜開墾して牧草地を広げていった。
女王は彼らのことで怒り、日夜狼たちを送って彼らを悩ませた。
羊飼いたちは交代で夜通し見張りにあたり、羊たちを守ろうとした。
けれども、あとからあとから狼たちは襲ってきて、羊を殺し、羊飼いたちを殺し、その妻や幼い者たちをも容赦なく噛み殺した。
「しかし、先祖からの土地を奪われた我々に、ほかに一体何ができようか」と彼らは言った、
「我々はこの土地を切り開き、羊たちの牧草地を生みつづけるよりほかにどうしようもない。我々は狼たちと、体を張って戦いつづけるしかないのだ」
そこで彼らは弓矢や石投げ器で狼たちに立ち向かった。
多くの狼たちが彼らに殺されて死んだ。するとさらにいっそうたくさんの狼たちが、やってきては猛り狂って彼らを噛み殺すのだった。・・・
ついに羊飼いの頭ゴメルは言った、「こうしたことが、これ以上続いていってはいけない。
私は<狼の女王>と話をつけなくてはならない」・・・
そこで彼は各家族ごとに、その群れの中から一頭ずつ、生贄として差し出すための羊を供させた。
彼は民の中から十人を選んで引き連れ、これらの羊たちを携えて、森の奥深くへと分け入っていった。
彼らは森の中を一日じゅう進んで、すっかり疲れ果ててしまった。
ついにゴメルは大声で呼ばわって言った、
「女王よ、狼の女王よ、あなたはどこにおられるのか。
我々はあなたに話したいことがある」
すると、どこからか音もなく影のような狼たちの姿が現れて、彼らのまわりを取り囲んだ。
狼たちは唸り声をあげ、ただその眼の光ばかりが闇の中にぎらぎら光った。
そのとき、暗い梢のあいだから声が響いて、<狼の女王>が姿を見せずに彼らに向かって話して言った、
「お前たちはなぜ私の森を根こぎにし、私の土地を損ないつづけるのか。
この土地から出てゆきなさい。
お前たちはこの土地に対して何の権利も持っていない」
「我々とても、そのことはよく承知している」とゴメルは答えた。
「ほかにゆくところがあるのなら、我々とてもそなたを煩わせはしない。
しかし、我々は自分たちの土地を奪われて、かろうじてここまで逃げのびてきたのだ。
我々にはほかにゆくところがないのだ。
だからどうか、この贈り物の羊たちを受け取って、我々が森を開くのを許してほしい。
どうかこれ以上、狼を送って我々を殺すことがないようにしてほしい」
すると、女王は怒りに燃えた。
「お前たちの羊を携えて、この場所から出てゆきなさい。
お前たちは何者だというのでこの私と取引しようとするのか。
私はその気になれば、お前たちのすべてをこの場でたちどころに殺すこともできるのだ」
すると狼たちはいっせいに牙を剥いてゴメルたちに襲いかかったので、彼らは退いて、自分の民のもとへ戻っていった。
そののちも、彼らは森を開きつづけた。
すると狼たちもまたやってきて、羊を襲い、民を殺すのだった。
彼らは狼たちに立ち向かい、こうしてまた多くの者が死んでいった。
ふたたび羊飼いの頭ゴメルは言った。
「これ以上、こうしたことがつづいてはいけない。私は<狼の女王>と話をつけなくては」
そこで彼は再び各家族ごとに一頭ずつの羊を供させようとした。
ところが彼らは言うのだった、
「我々はもう、我々の羊の中から女王のための生贄を差し出したくない。
ひとたび我々は生贄を差し出したのに、事態はよくなるどころか、かえって狼たちの凶暴さはひどくなるばかりだ。
我々の嘆願をきいてくれない<狼の女王>のために、なぜこれ以上の生贄が必要なのか」
「お前たちは正しく物事を見ていない」とゴメルは言った、
「この土地において、我々は闖入者なのだ。
かつて我々の土地に強大な民がやってきて、我々からそれを奪った、その民と同じことを、いま我々はしているのだ。
女王が我々を憎んで殺すのも当然ではないか」
そこでこのたびは、ゴメルは民の中から生贄を求めず、自分自身の愛する羊の群れの中から十頭を取って、携えていった。
こうしてゴメルはふたたび森の奥へ分け入り、<狼の女王>と話をしようとした。
そしてまた、同じことが起こった。
「何度お前はあやまちを繰り返すのか。
私はお前の手から何も受け取らない。
私と取引しようとするのをやめて、この土地から出てゆきなさい」
女王はそう言って、聞き入れようとしなかった。
ゴメルが嘆願しようとすると、再び狼たちが放たれて、彼と羊たちとを打ち払った。
そののちもまた、状況は変わらなかった。
開墾はつづいてゆき、戦いと略奪と殺害とが日夜繰り返された。
ゴメルは深く悩み沈んだ。
ついに彼はみたび言った、
「こうしたことがつづいてはいけない。
私は<狼の女王>と話をつけるのだ」
このたびは、ゴメルは羊も携えず、ほかの誰をも従えず、ただひとりで森の中へと入っていった。
するとまた、同じ仕方で<狼の女王>が彼に出会って言った。
「お前はまだ死なずにいるのか。
お前はなおも私の森を損ないつづけるのか。
今晩、私はお前を殺してやろう」
するとゴメルは言うのだった。
「私の命を奪うことであなたの気が済むのなら、どうかそうしてほしい。
私を殺したらあなたの気がおさまって、これ以上、私の民と羊たちを殺すことをやめてくれるだろうか」
すると女王は言った、
「この期に及んで、お前はなおも、私と取引しようとするのか」
ゴメルは答えた、
「ほかのすべてを奪われた人間が、それでも彼の民と羊とを守らなくてはならない場合、絶望的な取引よりほかに道が残されていないとしたら、ほかにいったい何ができるだろうか」
こうして彼はその民のもとへ帰った。
その晩遅く、<狼の女王>は闇にまぎれてゴメルの眠っている石積みの小屋に彼を訪ね、その姿を見出すと、その胸に短剣を突き立ててこれを殺そうとした。
しかし、彼女はそのかわりに小屋の石壁にその青銅の剣を突き立てて立ち去った。
夜明け近く、白みそめたうすあかりの中でゴメルは目を覚まし、石壁に突き立てられた短剣を見出したのである。・・・
夜が明ける前に、この地一帯のあまたの狼どもを引き連れて、<狼の女王>はこの地を去った。・・・
さあ往くのだ、もっとよき地へ、私たちは移り住むのだ・・・つまらぬごたごたに煩わされることのない、もっと広やかな土地へ、北の地へ・・・
みんなおいで、私たちはゆくのだよ、ゲルマ、ハガル、シグ、シロク・・・
狼たちは幻のように走り去った、暗い木立をぬけて、薄明のうす青い霧のなかを、音もなく駆けていった、何頭かが立ちどまり、振り返って牙を剥きだす、未練がましく低いうなり声をあげる・・・
いけない、いけない、そっとしておきなさい・・・彼らにかまってはいけない、このままそっと、我々は立ち去るのだ・・・
こうして、この地は彼ら羊飼いたちのものとなった。
もはや何ものにも煩わされることなく、彼らは森をひらき、石垣を積み、羊たちのためにゆたかな牧草地を広げていった、滴るようなエメラルドの、かがやくみどりの牧草地を次々と、やがてそうした風景が、青くかすむ森とともに、この地の基調をなすまでに。・・・
けれども、どこであってもさんざしの木があると、彼らはそれを伐らずに残しておいた。
なぜならさんざしは<狼の女王>の木だからだ。
遠い昔からそういうことになっていて、誰もがそのことを知っていた。
時が流れ、人びとが彼女の名を忘れてしまってなお、おぼろな記憶は禁忌のなかに留められたのである・・・
さんざしの枝には魔法の力が宿ると言われている。
また、うっかりその木の下で眠りこむと、魂を異界へさらわれてしまうと言われている。
これらはみな、去っていった<狼の女王>の面影の名残りであり、人びとのあいだに伝えられる、彼女への畏敬のあらわれなのだ・・・
あらたに森をすっかり拓いて牧草地にしてしまっても、さんざしの木だけは、彼らは伐らずに残しておく。
彼らは、自分たちの住むゆたかな土地が、<狼の女王>から奪ったものであることを忘れてはいないからだ・・・
そのことについて今さらどういう言っても仕方ないが、ただいつまでも記憶にとどめておくために、彼らはそれを残しておくのだ。・・・
秋も深く、葉もすっかり落ちて、ただ棘のある裸の枝々ばかりがさむざむとした曇り空の下に晒されるころ、まっかに熟するその実の色は、<狼の女王>の血の色である。・・・
冷酷無情であった女王をしてその心を動かしめた一滴のあたたかい血の色であり、かつそれが自ら選んだ敗北につながった、悲しみの色である。・・・
季節がめぐり、さんざしの実が赤く熟するたび、我々は彼女の誇りを、その悲しみを思い返すのだ・・・
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