2010年09月06日

石垣の花嫁(普及版)

愛蘭土物語 クレア篇4
石垣の花嫁 The Bride of Stonewall 劇団第3作作品 普及版
いにしえのアイルランドの物語
2005 by 中島迂生 Ussay Nakajima



 森の娘キーナ わがよろこび
 かがやくひとみに ばら色のほお
 
 鹿のごと駆ける みどりのくに
 ふるさとあとに発つ うるわしの花嫁

 なれにすべてささげ 心尽くす我を
 なれは憎み滅ぼす 深き水のなか

 わが悲しみの歌は とわに流れ
 去りゆきしその名を いまも呼びつづける


 アイルランドの石垣。・・・
 あふれるような緑のなかに、あるいは荒涼とした荒れ野のなかに、国じゅう至るところ、網の目のように巡らされた灰色の石垣の列、それはこの国の田園風景を特徴づけるもののひとつといっていい。

 多くの場合、それらは羊を囲うため、牧草地を区切って築かれている。
 くずれかけた石垣には、しばしばブランブルという、とげのあるブラックベリーの茂みがからみつく。
 夏になると、それらはいたるところいっせいに、びっしりと花を咲かせる。
 淡いピンクがかったその白い花むらが、メドウを吹き渡る風にゆれるさま、それはほんとうに、夢のような美しさだ。
 やがて花が散って秋の日が過ぎゆくほど、その青い実はだんだんにルビーのような赤色へ、そして葡萄酒のような深い、甘い黒色に熟してゆく・・・

 アイルランドじゅう、どこまでも旅をつづけても、ゆけどもゆけども目にするのはその同じ風景だ。いつしかそれはまるでくり返される呪文、あるいは、何かの歌のリフレインのようにも思えてくる・・・
 これは、そんなどこにでもある景色に秘められた、ドラマティックな起源の物語。・・・

 遠い昔、霊力が万物のあいだに宿り、動物たちが言葉を解し、神々が人のかたちをとって山河を歩きまわっていた頃のこと・・・
 この国でもっとも大きな力をもっていたのは石の神であった。
その力は今よりずっと強く、その口から発する詩の言葉をもって彼はその王国をどこまでも張り広げ、その口ずさむ調べをもって大空を支えていた・・・
 国ぜんたいは草一本も生えない、ただ青灰色の堅い岩盤ばかりがどこまでもうちつづく荒野であった、けれども石の神は力ある建国者で、その都は精緻で美しい、石造りの強固な都市であった・・・

 そのころ森の神は新参者にすぎなかった、森はまだこの国を覆っておらず、その領土はわずかなものだった、けれども彼にはキーナという美しい一人娘があって、そしてその民のすべては彼を慕っていたので、彼らすべては楽しく、つつがなく暮らしていた。
 石の神の都はアイルランドの西の端に、森の神の都はその東の端にあった。

 あるとき、石の神と森の神とがチェスを指して、それぞれ己れのもっているうちでもっとも価値あるものを賭けようということになった。
「私は自分の支配下にあるこの広大な領土のすべてを賭けよう」と石の神が言った。
「それでは私も自分のもつ領土のすべてを賭けよう」と森の神が言った。
すると石の神は笑って答えた、
「お前のもつちっぽけな領土が何だというのか、そんなものは賭けるほどにも値しない。だがお前の娘キーナは若く、美しい。私はお前がお前の娘に、自分の王国全体よりも高い価値を見出していることを知っている。お前の娘を賭けるがよい」
「それでは私は自分の娘を賭けよう」と森の神は言った。

 そこで彼らは勝負に及んで、石の神が勝った。
「それではお前の娘を渡しなさい。彼女は私のただひとりの妻となり、私は命の日の限り、心を尽くしてこれを大切にするだろう」と、石の神は言った。

 そこで森の神の娘キーナの一行は彼らのすむ森をあとにして、石の国の広大な領土を、都めざして何日もかけて旅していった。

旅の途中で、彼らは石の穴居にすむひとりの老婆に出会った。
「お前は森の神の娘キーナか」と老婆は尋ねた。
「私はそうだ」とキーナは答えた。
「私は大地の母マグアである」と老婆は言った。
「聞きなさい。この国は今は石の神の支配下にあるが、遠からずお前たち森の民のものになる。時を待ちなさい。お前は石の神を打ち倒す者となるだろう」
 そして彼女はキーナに、しなびた木の実と、空色をした小さい鳥の卵と、白い、まるい貝殻とを与えた。

 一行が都に着くと、石の神はキーナを妻として迎え、彼女に石造りのりっぱな城を与えて住まわせた。
千人もの召使にかしづかれ、何不自由ない暮らしであった。
しかし、城の門には厳重に鍵がかけられ、とくに選ばれた屈強な兵士たちが昼夜見張りにあたっていた。
 こうして何年かが過ぎた。

 あるとき石の神は神々の集まりに出かけて都を留守にした。すると、キーナは門の見張りにあたっていた兵士の若者に近づいて、こう言った。
「あなたの仕える主人の栄光は尽きようとしています。この国は遠からず私たち森の民のものとなる定めにあるのです。
いま、私の側について、私が逃げるのを助け、石の神を打ち倒すのに力を貸すなら、私の父はやがて全土にわたるその王国でお前に高い地位を与え、また私をも与えるでしょう」
 そこで若者はキーナを助けることに同意した。

 キーナと若者が城を逃げ出して、森の国めざして急いでいると、戻ってきた石の神が気づいて、彼らふたりを追いかけてきた。
そのゆえに大地は揺れ、激動し、いくつもの山が割れて地中深く裂け目が走った。

 石の神が追いついてきたのを見ると、キーナは懐からしなびた木の実を取り出して投げつけた。
すると木の実は割れて、そこからありとあらゆる種類の草木が生じ、びっしりとからまりあった森となって石の神のゆく手を阻んだ。
彼が手こずっているあいだにふたりは遠くへ逃げおおせた。

 森を抜け出した石の神がふたたび追いついてくるのを見ると、キーナは懐から空色の小さい卵を取り出して投げつけた。
すると卵は割れて、そこからありとあらゆる種類の鳥の大群が現れ、その幾千という翼が激しい風あらしを巻きおこして、石の神のゆく手を阻んだ。そのあいだにふたりはさらに遠くへ逃げおおせた。

 石の神がみたび追いついてくるのを見ると、キーナは懐から白い、まるい貝殻を取り出して投げつけた。
すると貝殻は割れて、そこから大量の水が流れ出し、深く大きな湖となって石の神のゆく手を阻んだ。
石の神は渡りきろうとしたが、湖はあまりに深く、激しくうずまく水の流れにのみこまれてどうすることもできなかった。

 自分が滅びようとしていることを知って、石の神はキーナに言った。
「私はお前にどんな間違ったことをしたか」
「何も」と、キーナは答えた。
「では、お前はなぜ私を憎んで、殺そうとするのか」と石の神は言った。
「お前は冷たく、年老いていて、醜い」とキーナは答えた。
「私が冷たく、年老いていて、醜いというので、お前は私を殺そうとするのか」
「そうだ」とキーナは答えた。
「このゆえに」と石の神は言った。「私は滅びゆくであろう。けれどもお前を探し求める私の心が滅びることはない・・・
 それは全土をゆきめぐり、この国が森の神のものとなってなお、すみずみにまでのびた石垣となって、とこしえに嘆きつづけるであろう」

 こうして石の神とその王国は滅び、残党は西の果てにまで追いやられた。
アイルランドぜんたいは森の神の領土となった。

 父王は盛装してキーナを出迎え、自ら娘の前に膝まづいて許しを乞うた。
「私の犯した愚かなあやまちを、どうか悪く思わないでくれるように」
「私の命はあなたのもの、私の命の日々もまたあなたのものです。わが主よ、どうしてあなたのことを悪く思ったりするでしょうか」

 みどりの森の うつくしきかな
 その力もて その偉大なる力もて
 汝のおもて あめつちにみち
 そのとこしえに 栄えあらん

そのときから大地には草木の芽が生じ、みどりの森がゆたかに茂った。
森の神はキーナと共に帰った若者にその王国の中で高い地位を与え、またその娘キーナをも与えた。森の国は富み栄えた。

 それでもなお、去っていった石の神の悲しみの歌が消えることはなかった、それは全土をゆきめぐり、とこしえに嘆きつづける定めにあった・・・ 
このゆえに、今なお、もっともみどりゆたかな土地にまでくまなくのびた石垣が、その悲しみの調べを奏でつづけているのだ・・・

 アイルランドの全土を覆う石垣の網目、それは滅び去っていった石の神の、今もうごめく指先なのだ。その牧歌的な風景が、どこかに不気味な暗さを感じさせるのはそのためなのだ。
 夏の日の午後、青黒い雲むらが湧き上がってはざあっと打ちつける、はげしい雨風のまたたくまにゆきすぎて、ふたたび日の光にかがやきわたる野へ、出ていってみるがよい・・・ 足の向くまま、四方に広がるメドウを見わたすとき、かなしくゆらめいてどこまでもつづくその石垣のえがくリズムにのせて、遠くかすかに、たえまなくひびくその調べを、ひとは今もその耳にはっきりと聴くだろう・・・
 美しい娘キーナ、お前は私を裏切った・・・私の歌はとこしえに流れ・・・去っていったお前を求め・・・お前の名を呼びつづける・・・ 





















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2009年04月23日

石垣の花嫁(完全版)

愛蘭土物語(あいるらんどものがたり) クレア篇4
石垣の花嫁 The Bride of Stonewall 劇団第3作作品 完全版
いにしえのアイルランドの物語
2005 by 中島迂生 Ussay Nakajima



1. アイルランドの石垣と野ばら
2. 物語<石垣の花嫁>
3. <石垣の花嫁>をめぐって~新興の民の勝利

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1. アイルランドの石垣と野ばら

美しい娘キーナ、お前は私を裏切った。
私はお前にすべてを与え、心を尽くして大切にしたのに
お前は私を憎んで、滅ぼした。

私の悲しみの歌はとこしえに流れ、私が滅んでなお流れ
天地にあまねく流れわたって 去っていったお前を探し求め
お前の名を呼びつづける。・・・


 アイルランドの石垣を、いちどこの目で見てみたいと、私はずっと願っていた。
この国の代名詞とも言うべき、国じゅうの至るところに見られるというその石垣を。・・・
 なぜなら、国の魂は決して大きな都市や、人々の忙しく行き交う街道筋には宿らない。
それは地方の奥まった田舎に、喧騒を逃れでた細道にこそ宿るからだ・・・

こうしてぽっかりと開けた田舎の、森閑として時折農夫が通るだけの道、
ひとり物思いに沈みながら、だれに急かされることもなく望むだけの時間をかけてゆっくりぶらつける小道、
歩を進めるほどに己れのなかで風景とひびきあって詩や音楽の生まれてくる道・・・ 
できることならおだやかな曇りの日の午後、大地と語らうのに何らの武装も必要ない、そういう道をこそ私は愛したのだ・・・
 とりわけアイルランドを旅するあいだ、ほんとうにどこへ行っても目にしたその情景を、くずれかけた石垣にいばらの茂みがびっしりと絡まって、分かちがたく一体となったその情景を・・・

 ブランブル、それは学問的な名称ではなく、棘があって石垣に絡みつく植物全般をいう総称らしいのだが・・・ 多くはそれは正確にはばらではなく、野生のブラックベリーである・・・ 赤紫のがっしりと太い茎に丈夫なとげをいっぱいつけ、夏になるといっせいに花を咲かせる・・・ 一重咲きの白もあるが、だいたいはごく可憐な淡いピンクの花だ、それらが惜しげもなく、びっしりといっぱいに咲き乱れる、至るところで、それはまるで無雑作に、とほうもない美しさだ・・・

 時折はほんとうのいばら、当地では犬薔薇(dogrose)というひどい名で呼ばれている野生のばらを見かけることもある。
色はブラックベリーの花そっくりの淡いピンクだが、花びらはさらに豪奢な八重で、まるでパーティーに出かけるために着飾った女の子たちのようだ・・・ それが溢れんばかり、花の重みのために低くしなだれた枝に咲きこぼれるようす、それは感嘆のうちに人の足をとめさせずにはおかない・・・ 私はぜひともこの花に、その姿にふさわしい名を与えたいと思う、ヴェロニカとか、エスメラルダとか、なにかそういった高貴な感じの乙女の名を。・・・ こうして華やかな花かんむりをいただいたその石垣の、摩滅してぶっきらぼうな石のひとつひとつには、多く白い苔の斑点がまだらに散っていて、その白が花の薄桃色とまた実によく映るのだった。

 いばらの棘と、積み上げただけで固めていない石垣と、それは一見不安定で頼りない印象を与えるが、それがかえって、取っ掛かりをつけてよじ登ろうとすると簡単に動いて崩れてしまい、乗り越えるのは容易でない・・・ さらに、多く石垣に沿って家畜が逃げ出さないように溝が掘ってあって、掘った溝には泥炭質の土壌から滲み出した水がたまり、かくてそれらはがっちりと強靭な共同戦線を張っているのだ・・・
 こうしてあちこちで崩れ、風化し、苔むしている、このどこまでもつづく石垣と、なだらかに広がる牧草地にごつごつと顔をのぞかせる岩々と・・・ それがアイルランドであった。

 それは溢れるばかり、至るところゆたかにあった、なおも今ここにあるもの、その石目、その積み上げられた石の刻むリズム、その絡まりあった枝々の描くライン、それらはだれにも決して造りだすことができない、再現しえない、永久に、今ここにしかない、それゆえに、立ちどまって、それらひとつひとつの紡ぎ出す物語に耳を傾ける価値があるのだ・・・

 こうして崩れかけた石垣に、どんなふうにのばらが絡まっているか、その薄桃色の花びらをびっしりとつけた枝が、どんなふうに風にそよいでいるか・・・
 屋根の落ちた家々の石壁の、風雨にさらされてどんな色あいを、どんな手触りをしているか、むきだしのその破風からどんなふうに草が伸びているか、ひっそりと閂を閉ざしたその扉が、どんなふうに棘草の茂みにうずもれているか・・・
 その道が両の石垣に沿ってさまざまの夏草とりまぜて風にそよぎ、うねうねとどんなふうにどこまでもつづいているか、その荒いペイヴの、まん中にひとすじの草の列がどこまでもつづくその道のどんなふうに丘をまわり、古い干上がった石の橋をわたって低灌木のびっしり生えた谷へと下ってゆくか・・・
 私はそのようすを眺めるためにやってきていたのだった・・・

 あちこちに咲きはじめたヒースの花、花房の、先へゆくにつれ小さな蕾、それは小さな真珠つぶのように半透明にくぐもり光って、涙のつぶのようでもある・・・ 遠目に見ると紫色のおぼろなミスト、それが日を重ね、旅を続けるほどに日々に花開き、やがて荒野の一面を赤むらさきの夢幻に染め上げるのだ・・・

 夏の日の過ぎゆくほど、華麗に咲き誇るブランブルの花びらはやがてはらはらと舞い散って、あとに硬い、青い実がのこる。
それらがやがてゆっくり膨らみ、少しずつ赤みを帯びて、いつかルビイのような美しい真紅から、葡萄酒がかった深い黒色に熟してゆく・・・

かくて日に日に旅をつづけ、みどりゆたかな丘陵地帯をぬけて海岸線へと至り、ミルトン・マルベイからリスカノール、ラヒンチをすぎ、モハーの断崖を過ぎてさらに海沿いに北上しても・・・
 いくえにも花びらを広げた大きな花のようなかたちしたゴロウェイ湾に沿ってぐるりをめぐり、コネマラの広大な荒野をわたって、雲の群れむれの下でゆらめくようなシルエットの山々のあいだを来る日も来る日も旅をつづけても・・・
 百の島の浮かぶコリブ湖をわたり、ふたたび木立と牧草地のどこまでも広がる内陸の道をとり、ついには北部のもの淋しい不毛の荒野に至っても・・・
 どこへ行っても目にしたのは、その同じ石垣とブランブルであった・・・

 草木のなかなか育たない場所では石垣がしぜんだし、風景にもあう。
ふしぎなのは肥沃な地方で、いくらでも生垣をつくれるし、むしろその方が容易ではないかと思われるような場所においてさえ、やはり石垣なのだった。あふれるようなみどりのなかに、石垣の白い列がどこまでもつづく。
それは昔のなにかの名残りのようだ・・・ 同じ石垣がどこまでも、ぐねぐねと波打ちながら こまかい、波打つ網目模様となって連々とつづいて・・・ くり返しくり返し目にするうち、それは何か同じ歌のリフレインか、たえまなく唱えられてこの国の全土を覆う呪文のように思われてくる・・・
 そう、きっとそれは誰かの悲しみの歌なのだ、遥かな昔、この国のどこかで非業の死を遂げた、偉大な魔法使いか、神がいたのだ、・・・あふれ逆まく水の中でさいごを遂げた石の神が。・・・ そしてそれは太古の昔からなおも今にひびく、その悲しみの調べなのだ・・・
 どういうわけで彼は滅びに至ったのか、そこにはどんな物語があったのか?・・・

 荒漠としたバレンの広がりに身をおいて、私ははっきりと感じた、ここがそれに違いない、ここがその石垣の呪文の発する磁場、その中心なのに違いない・・・
 アイルランドじゅうの石垣はみなここから出ていったのだ、そう、それは人の手になる建築物というよりもむしろ何か生き物のように見えた、それらはなだらかな土地の起伏につれて少しずつ、長いあいだをかけて出ていったのだ、夜のうちにこっそり、四方へ向けてぞろぞろと出ていったのだ・・・ 少なくともそのイデーはここから発しているのに違いない、たぶん昔はアイルランドじゅうがこんなふうだったのだ、そういう感じを、私は抱いた。昔は国ぜんたいが、こんなふうな石の荒野だったのだ・・・ それが今ではこの限られた地域に縮小してしまっているのだが、それでも今なお何らかの力をここから発しているのだ・・・ でなければ説明がつかないではないか、こんなふうに、今も国じゅうに石垣の目が張りめぐらされていることの。・・・
 ゆく先ざきでその情景のなかをゆきめぐり、私は遠く思いを至した、飽かず眺め、うち眺めては耳を澄ませて、その伝えんとする物語を聴き取ろうとした・・・

     ***

2. 物語<石垣の花嫁>

 遠い昔、霊力が万物のあいだに宿り、動物たちが言葉を解し、神々が人のかたちをとって山河を歩きまわっていた頃のこと・・・
 この国でもっとも大きな力をもっていたのは石の神であった。
その力は今よりずっと強く、その口から発する詩の言葉をもって彼はその王国をどこまでも張り広げ、その口ずさむ調べをもって大空を支えていた・・・
 国ぜんたいは草一本も生えない、ただ青灰色の堅い岩盤ばかりがどこまでもうちつづく荒野であった、けれども石の神は力ある建国者で、その都は精緻で美しい、石造りの強固な都市であった・・・

 そのころ森の神は新参者にすぎなかった、森はまだこの国を覆っておらず、その領土はわずかなものだった、けれども彼にはキーナという美しい一人娘があって、そしてその民のすべては彼を慕っていたので、彼らすべては楽しく、つつがなく暮らしていた。
 石の神の都はアイルランドの西の端に、森の神の都はその東の端にあった。

 あるとき、石の神と森の神とがチェスを指して、それぞれ己れのもっているうちでもっとも価値あるものを賭けようということになった。
「私は自分の支配下にあるこの広大な領土のすべてを賭けよう」と石の神が言った。
「それでは私も自分のもつ領土のすべてを賭けよう」と森の神が言った。
すると石の神は笑って答えた、
「お前のもつちっぽけな領土が何だというのか、そんなものは賭けるほどにも値しない。だがお前の娘キーナは若く、美しい。私はお前がお前の娘に、自分の王国全体よりも高い価値を見出していることを知っている。お前の娘を賭けるがよい」
「それでは私は自分の娘を賭けよう」と森の神は言った。

 そこで彼らは勝負に及んで、石の神が勝った。
「それではお前の娘を渡しなさい。彼女は私のただひとりの妻となり、私は命の日の限り、心を尽くしてこれを大切にするだろう」と、石の神は言った。

 そこで森の神の娘キーナの一行は彼らのすむ森をあとにして、石の国の広大な領土を、都めざして何日もかけて旅していった。

旅の途中で、彼らは石の穴居にすむひとりの老婆に出会った。
「お前は森の神の娘キーナか」と老婆は尋ねた。
「私はそうだ」とキーナは答えた。
「私は大地の母マグアである」と老婆は言った。
「聞きなさい。この国は今は石の神の支配下にあるが、遠からずお前たち森の民のものになる。時を待ちなさい。お前は石の神を打ち倒す者となるだろう」
 そして彼女はキーナに、しなびた木の実と、空色をした小さい鳥の卵と、白い、まるい貝殻とを与えた。

 一行が都に着くと、石の神はキーナを妻として迎え、彼女に石造りのりっぱな城を与えて住まわせた。
千人もの召使にかしづかれ、何不自由ない暮らしであった。
しかし、城の門には厳重に鍵がかけられ、とくに選ばれた屈強な兵士たちが昼夜見張りにあたっていた。
 こうして何年かが過ぎた。

 あるとき石の神は神々の集まりに出かけて都を留守にした。すると、キーナは門の見張りにあたっていた兵士の若者に近づいて、こう言った。
「あなたの仕える主人の栄光は尽きようとしています。この国は遠からず私たち森の民のものとなる定めにあるのです。
いま、私の側について、私が逃げるのを助け、石の神を打ち倒すのに力を貸すなら、私の父はやがて全土にわたるその王国でお前に高い地位を与え、また私をも与えるでしょう」
 そこで若者はキーナを助けることに同意した。

 キーナと若者が城を逃げ出して、森の国めざして急いでいると、戻ってきた石の神が気づいて、彼らふたりを追いかけてきた。
そのゆえに大地は揺れ、激動し、いくつもの山が割れて地中深く裂け目が走った。

 石の神が追いついてきたのを見ると、キーナは懐からしなびた木の実を取り出して投げつけた。
すると木の実は割れて、そこからありとあらゆる種類の草木が生じ、びっしりとからまりあった森となって石の神のゆく手を阻んだ。
彼が手こずっているあいだにふたりは遠くへ逃げおおせた。

 森を抜け出した石の神がふたたび追いついてくるのを見ると、キーナは懐から空色の小さい卵を取り出して投げつけた。
すると卵は割れて、そこからありとあらゆる種類の鳥の大群が現れ、その幾千という翼が激しい風あらしを巻きおこして、石の神のゆく手を阻んだ。そのあいだにふたりはさらに遠くへ逃げおおせた。

 石の神がみたび追いついてくるのを見ると、キーナは懐から白い、まるい貝殻を取り出して投げつけた。
すると貝殻は割れて、そこから大量の水が流れ出し、深く大きな湖となって石の神のゆく手を阻んだ。
石の神は渡りきろうとしたが、湖はあまりに深く、激しくうずまく水の流れにのみこまれてどうすることもできなかった。

 自分が滅びようとしていることを知って、石の神はキーナに言った。
「私はお前にどんな間違ったことをしたか」
「何も」と、キーナは答えた。
「では、お前はなぜ私を憎んで、殺そうとするのか」と石の神は言った。
「お前は冷たく、年老いていて、醜い」とキーナは答えた。
「私が冷たく、年老いていて、醜いというので、お前は私を殺そうとするのか」
「そうだ」とキーナは答えた。
「このゆえに」と石の神は言った。「私は滅びゆくであろう。けれどもお前を探し求める私の心が滅びることはない・・・
 それは全土をゆきめぐり、この国が森の神のものとなってなお、すみずみにまでのびた石垣となって、とこしえに嘆きつづけるであろう」

 こうして石の神とその王国は滅び、残党は西の果てにまで追いやられた。
アイルランドぜんたいは森の神の領土となった。
そのときから大地には草木の芽が生じ、みどりの森がゆたかに茂った。
森の神はキーナと共に帰った若者にその王国の中で高い地位を与え、またその娘キーナをも与えた。
 それでもなお、去っていった石の神の悲しみの歌が消えることはなかった、それは全土をゆきめぐり、とこしえに嘆きつづける定めにあった・・・ 
このゆえに、今なお、もっともみどりゆたかな土地にまでくまなくのびた石垣が、その悲しみの調べを奏でつづけているのだ・・・

     ***

3. <石垣の花嫁>をめぐって~新興の民の勝利

 人を打つのはその雄大さ、スケールの大きさである・・・ いかにも神話の時代、王が同時に神でもあった太古の時代の、言葉の力、ことほぎの力。そのかみ統治者は同時にまた魔法使いでもあり、偉大な詩人でもあった、彼らが「光あれ」と命ずる、すると光があるようになったのだ・・・ 彼らが世界を創造したのは実にその言葉によって、その口から出る詩の言葉によってであった・・・ それによって彼らは石を積み上げて天にまで届く城や城壁や都市を築き、そこに美しい飾りや彫刻を施した、それによって大地には草芽が生じ、みどりの森がゆたかに生えいでた、それによって彼らは大空を張り広げ、大地を支えていたのだ・・・

 そこに際だつのはまた、いにしえの王者たる誇りや尊大の意味するところ、ある種の余裕、常識はずれなまでの鷹揚さ。・・・たかだかチェスのひと試合に彼らは己れのもつ富のすべてを平気で賭ける、負けたからといって顔いろひとつ変えるでもない、無念の悔しさも、痛々しいばかりの悲しみも、すべては無表情の仮面の下に隠しておかれる。
「よろしい」と彼は言ったに違いない、少しも調子を変えることなく・・・「それでは私の娘を取るがよい・・・」

 たかだかチェスのひと試合である、けれども私はここで、チェスという遊びのもつ歴史の古さに思いを至さないではいられない・・・ それが今あるようなかたちに整ったのはそう昔のことではないだろう、もちろん。けれども、その原型となった遊びの有様を創造してみるのは容易である、チェス盤の代わりに地面に棒でひっかいてマス目を描くことができただろうし、駒の代わりには小石や木の実が使えただろう・・・ じっさい、同じような発想のゲームはヨーロッパのみならず世界じゅうに見られるのだ、そこには人間の本能に深く呼応するものがあるのだろう、縄張りと、征服欲、・・・戦を繰り返してはおのが領土を広げるということが人の習いとなった実にその当初から、それは彼らの手すさびの遊びとなってきたに違いない・・・

 彼らふたりがしたチェスはどんなものだっただろう? ・・・もちろんこまかい部分は今のそれとは違っていただろう、けれども大方は今のそれとほぼ変わりなかったのではあるまいか、・・・チェス盤も駒ももちろん使われたに違いない、それも大変美しい工芸品が。・・・ それはどんなものだっただろう?・・・

 のちにコネマラを旅したとき、リーサス、地方随一の品揃えを誇るという、とある老舗の工芸品店にさしかかったのだった。往きに一度、そして海沿いにぐるりをめぐって、帰りにもう一度通ったのだ。
元来私はそうしたものにさしたる関心もなかったのでさいしょのときは素通りしたのだが、二度目のときちょうどこの話に出てくるチェス盤のことを考えていて、何かここでヒントが得られるかもしれないと思ったのだった。・・・というのは、当地にコネマラ・マーブルと称する、えんどう豆のスープのようなやわらかい色あいの、うつくしいみどり色の大理石を産することを知ったのだが、ああいうものでチェスの駒など彫ったらすばらしかろうと思われたのだ。

じっさい、それらの店で売られている、コネマラ・マーブルを彫ってつくられた多種多様の小物や装飾品の出来ばえは見事なものだった。そして、くだんの店に入って私がさいしょに目にしたのは、ガラスのショウウィンドウに大きく見せびらかすように飾られた、コネマラ・マーブルのひと揃いのチェス盤であった・・・ みどり色と、沈んだ黒に近い濃いねず色との、二色のマーブルを交互に嵌めこんでつくられていた。ひと揃いの精巧な駒も共に・・・
 じっさいのところ、大して驚きはしなかった。そこでそういものに出くわすだろうと、私は半ば知っていたと言ってもいい。かの地を旅するあいだには、これよりもっとふしぎなことに、しばしば出くわしたのだ。・・・


 森の娘キーナ、うるわしい花嫁。・・・彼女はきつく、冷酷で、強引で破壊的で、実にりっぱな女だった・・・
 父親の犯したあやまちに説明を求めることも、何ひとつなじることもなく、不毛な悲嘆に暮れることもなかった、ただ黙って己れの定めを受け入れて、嫁入り仕度を整え、敢然と異国の地へ乗りこんでゆく・・・
 彼女は定石どおりのケルト的人間だった、ところがそれでは終わらない、彼女は意志の人だった・・・ 自分は決して、ただ苛酷な運命に弄ばれるだけでは終わらない、必ずこの手で活路を切り拓いてみせる、父の名誉と自分の誇りとを、誓ってこの手に取り戻して見せる・・・
 かくて不本意な門出をしたその当初から、彼女はそういう決意を心に秘めていた、そういう、新興の民族特有のハングリー精神といったものを、私は取り澄ました彼女の横顔に感じるのだ、というのは彼らもまた、征服者となった彼らもまた、かつては新参者であり、新興の民だった。昔のギリシャ人に対するローマ人のように、彼らもまた自らの<アエネイス>を必要としていたのだ・・・

 私は彼らの、気の滅入るような花嫁行列の旅に思いを馳せる・・・
アイルランドの端から端まで、当時の足で少なくも4,5日、あるいは一週間・・・ 

今のバレンといってもたいていは、道沿いに木立あり、生垣やヒースの藪あり、あるいはいくつもの澄んだ湖や、斜めに縞模様の入ったゆるやかな丘陵が広がって変化をつけている。
石ころだらけの荒野にもそれなりの美しさがある・・・とりわけ夕暮れや、霧や雨の時にはそうだ。

けれどもそのほんとうにどまん中のあたりでは、ほんとうに岩盤の果てしなく広がるばかり、草一本生えず、生き物の気配の全くない、ただ沈んだねずみ色一色の世界なのだ。その不毛たるや、目にするだけでぞっとして、心が寒々としてくるほどである。そしてはっきりと感じるのだ、ここは人の子の住むところではない・・・ 石の神の都もこんなところではなかったか、ちょうどこのあたりではなかったか?・・・

 まして至るところ生命の息づく、ゆたかに茂ったみどりの森に生まれ育ったキーナである、その目にかの地はいかばかりに映ったことか、それはまるっきり死んだ土地、吸うことのできる空気すらない、全くのところ、それは月に嫁入りに行くようなものだった・・・ どちらを向いても岩ばかり、来る日も来る日もそんな光景を目にするうち、さすがのキーナも心が萎え、くずおれそうになるのを感じただろう・・・

 けれども、ここに強力な支持が寄せられる、大地の母マグアである・・・ それは何日めかのある朝早く、一行が岩山の陰に張った宿営をたたみ、旅をつづけようと出発しかけたそのときのこと、岩々が青紫色に沈み、地平の果てがかすむような淡いすもも色に染まった冷たい夜明けのこと・・・ 岩山の陰から急に人が現れてこちらにやってくるので、一行はぎょっとする。それは奇妙な老婆であった、しかも彼らのことをよく知っている。彼女はキーナに、彼女の数奇な運命を予言する。心配するには及ばない。さいごにはきっとうまくいく・・・

 そう、だいじょうぶ、私のすることはうまくいく。その言葉が、その確信が、どんなに彼女を力づけたことだろう、その後長きに渡って彼女を強め、支えただろう・・・

 <大地の母>までが新興の民に味方するとは。・・・それは単に、彼ら森の民の側から語られる物語だからというばかりのことなのだろうか、民が去り、あらたな民がやってきて、土地に対する対し方を変えると、それにつれて土地そのものの様相も変わってくる、それは必然のことなのか、正否を問うても意味はないのか?・・・ 彼女もまた、潮の変わり目を予感していたのか、岩肌のごとく深くしわの刻まれたその面ざしの、鋭い目で地平のかなたを睨みながら、キーナの嫁入り行列が西の国へ向かったその時点で、これから起こるべき大転換をすでに感じ取っていたのだろうか?・・・

 石の神は彼ら一行を丁重に迎え、その父親に約束したとおりキーナを大切に扱う、彼女のために国じゅうでもっともりっぱで壮麗な石造りの城が築かれる、その美しさは比類もなく、選りぬきの職人の業の髄を極めたその精巧なることは、人の手になるとは思えぬほど、その内側にも外側にも、一面の凝った飾り模様が彫りこまれている・・・

 キーナが住んだのはその最上階、塔のいちばんてっぺんの、都じゅうでもっとも見晴らしのすばらしいところだった。
だが、いかな見晴らしがいいとて、見わたす限りの石の荒野、彼女にとっては気も滅入るばかり、そのうえ城門には鍵かけられた囚われの身であった・・・

 目下のところキーナは孤独である、ずいぶん退屈な毎日だったに違いない、何をして過ごしていたのだろう? ・・・侍女たちといっしょに、夫のための衣を織ったりしていたのだろうか? ・・・全く柄に合わぬことだ!・・・かつては野生の鹿のように心赴くまま、父親の治めるみどりの森を駆けめぐった彼女であったのに。・・・その記憶はしだい遠くなってゆく、来る日も閉じこめられて、気が狂いそうになることもあっただろう、己れをとりまいて、形づくってきた環境の力というものがどれほど大きいかを、それらすべてを一切なしでやってゆくということがどれほどの強さを意味するかを、男たちは決して知ることがないだろう・・・

 キーナは我慢づよく時を待ちつづける、考える時間はたっぷりある。手すさびの業が無意味であればあるほど、それだけ考えごとにじっくり打ちこめるというもの、どんな方法がありうるか、いかな準備をなすべきか、起こりうる事態をあれこれと想定しつつ、ひそやかに着々と、彼女は策を練りはじめる・・・

 やがて千載一遇の機会が訪れる、彼女はそれを逃さずつかむ。ドラマは突如静から動へ、ダイナミックな展開をみせる・・・ 息づまる逃亡と追跡、魔法の力でたちどころに出現する深い森や鳥の大群、巻き起こる大嵐と、わきおこる羽音のとどろき・・・
 さいごの瞬間、あふれ渦巻く大水の中から、石の神は必死に腕をのばし、岸の大岩にとりつこうとする、指が届く、その細長い、ごつごつと老いさばらえて血の気のない指が、今しもやっと岩の端をつかもうとする・・・ 彼の目はキーナを見つめている、そのうちに怒りや憎しみはない、そこにあるのはただ、必死の面持ち、心からの驚き、己れの受けた仕打ちが信じられずに呆然として、そして切なる哀願とである・・・ キーナは冷たく見返す、その瞳に湛えられた思いを汲もうともしない、彼女が見たのはただ、その指が岩の端に届いた、その乾いた事実のみである・・・
 彼女はその大岩のもとへと歩み寄る、
「この岩を転がし落とすのを手伝ってください」と、傍らの若き兵士に告げる、彼は言われたとおりにする。二人は力をあわせてその大岩を、石の神もろともさかまく大水のなかへ転がし落とす・・・ とどろく激しい水音と・・・ 絶望の叫びが長く長く尾を引いて、こだましながら響きわたる、いつまでも、うつろな石の荒野にひびきつづける・・・
 
 一転して、ふたたび静、あかるく、おだやかで、透明な光にみちた静である、こもれびのまだらになって降りそそぐ、みどりの水の底のような森のなかの情景。それは喜びの凱旋行列であった、森の民は寄り集って、歓呼の叫びをあげる、花輪を編んでは二人にかけ、誰も彼も花々や、みどりの枝で身を飾る・・・ 花かんむりの下でキーナの頬は上気していきいきとかがやき、傍らの兵士はそのようすに感嘆して眺めやる、そして民のすべてもまた。・・・

 父王は盛装して出迎え、自ら娘の前に膝まづいて許しを乞う。・・・
「私の犯した愚かなあやまちを、どうか悪く思わないでくれるように」
「私の命はあなたのもの、私の命の日々もまたあなたのものです。わが主よ、どうしてあなたのことを悪く思ったりするでしょうか」
 こうして、顔色ひとつ変えずにその敵を死に追いやったこの女はまた、一点の曇りなく晴れやかな心でその父を許す。もはやそのあやまちを、二度と思い出しもしないだろう・・・ かくて豪胆と鷹揚さを併せもつ、彼女の魂もまた神話の時代に属していた・・・

 そののちのことは語るにも及ばない、幾晩にもわたってつづく盛大な祝宴と、笑いさざめき、歌と踊り、酒杯と森の幸の食卓と・・・
 かくて夏の日の火照りも涼み、うすずみの雲のながくたなびく夕暮れどき、森の神とその娘、彼らふたりはまた昔のように連れだってその領土をゆきめぐるだろう、風にさざめく木立の影をぬい、かなたを遠望するあの丘の上まで・・・ 金色の西日の斜めにさして、うすもやにかすみ、すべては半ば夢の如く、王者の衣が長く裾をひいてさらさらとひだを立て、そのながい影が草の上に落ちる・・・ ふたりは言葉もなく、四方の果てにまで広がる樹海を眺めわたす、これが彼らの国、そよぐこずえ、かぐわしい香り、久しく望んでついに得た故郷の土である・・・

 やがて父王は口を開き、朗々と吟じはじめる、ほめうたを、ことほぎの歌を、娘もそれに和する、すべての民もそれに和する、すべての鳥たち、枝々に鈴なりになったありとあらゆる姿かたちの鳥たちもそれに和する、すべての森の生き物たちも共に。・・・ その調べの流れいづるにつれ大地には精気あふれ、森は枝をのばし、葉を広げて、さらにさらに拡がりゆきて、ついには石の荒野をすっかり飲み尽くすに至るのだ・・・ 

 みどりの森の うつくしきかな
 その力もて その偉大なる力もて
 汝のおもて あめつちにみち
 そのとこしえに 栄えあらん

 森の娘キーナ、彼女はドラマの人であった、大きな犠牲を払いながら、ひとつの目的を持って終始強い意志でのぞみ、長いあいだ辛抱強く待ったあと、ここぞというところで思いきりよく飛んで、みごとな成功を収めた。そのきっぱりとしたやり方、成功しないかもしれないなどと想像もしない、そしてじっさい、よしその企てが失敗に終わったとしてもなお、さいごまで彼女はその誇りを捨てなかっただろう・・・

 そしてこの物語の語るのは、じっさいのところそういうことではなかろうか、古きもの、よきもの、正しきものは破れ去り、追いやられゆくかもしれない、けれども、彼らを追いやったその勝者の方にもまた、・・・よし正義はないとしても、彼らなりの論理が、それなりのせっぱつまった事情があり、大きな苦難のときが、そして勇気と美徳とがあったのだということが。・・・

 王女キーナ、彼女はドラマの人であった、勇敢な女であり、名誉を重んじる野心家であったが、決してロマンティストではなかった。どちらかといえばなりふり構わず、目的さえ遂げられるなら、その手段となる男など誰でもかまわなかった・・・ その傍らにはいま、城の門衛であった例の若者もいることだろう、いかにも影の薄い、添え物的存在の。・・・  
 キーナが異国で味わったのと同じ孤立を、これから身をもって知るのであろう、気の毒に!・・・ 彼はいわば脇役にすぎない、そのためらいや、心の葛藤、その心がひるがえって、敵の側について走り出した瞬間、そうしたものが物語のなかで語られることはない・・・

 石の神の末期はまったくあわれである、彼はなぜかくも痛ましい最期を遂げなければならなかったのか、それは彼の犯したとがの当然の報いだったのか?・・・ チェスの試合の賭け品として彼女を要求したのは、なにか道徳的に間違ったことだったろうか、彼は相手の弱みにつけこんで、それを不正に騙し取ったといえるのか?

 ・・・いな、それは正々堂々たる勝負であった、彼は何もごまかしたりしなかった。彼はキーナに対しても、礼節と思いやりを尽くしてあたった、彼女の方がそれをさっぱりありがたがらなかったとしても、そのことに変わりはない・・・ 全アイルランドの最高支配者としてのその奢りゆえに、その尊大と高慢のゆえに、彼は罰せられたのか、老いの身に、その懐をあたためる処女を欲したことが、それほどの罪だったのか?・・・

 いな、思うにたぶん、そこには何らの道徳的な因果関係もないのだ、・・・咲き誇る花は枯れ、富み栄える王国は滅び、権力は世々移りゆく、生々流転の世の中である、個人のありようとはあまり関係のないところで、もっと大きな流れのうねりにつれて、世界はゆらゆらとゆれながらゆっくりと動いてゆく、それは誰にもどうしようもない・・・
 彼のしたことに何か間違ったことがあったとしても、それはきっかけにすぎなかった、ひとたび絶頂期をすぎたその王国が、ただ必然に崩れゆく、ちょうどそのときにあたっていたにすぎない・・・ その時にあたって流れは変わり、いままでその水面にきらきらと光踊っていた浜辺では灰色の暗雲が日ざしを遮り、・・・他方、闇に閉ざされていた入り江には、突如光が、溢れんばかりに降り注ぎはじめ・・・ その時にあたって風景は劇的な変容を遂げるのである、・・・たえず無数の雲塊が頭上を流れすぎては 大地の色をさまざまに染め変える当地の空模様のごとく、それはたえず移り変わり、永久に変貌を繰り返すのだ・・・

 それはたかだかチェスのひと試合にすぎなかった・・・
 こんにち、「チェスの歩兵のひとつ」といえば、自らは何らの力ももたず、何かもっと大きな別のものの道具として動くことしかできない、そういう卑小な存在を指す。だが、ここでは彼ら神々ですら、結局のところそうしたものにすぎなかったのだ・・・ さらに大きな運命の力に翻弄され、富み栄えては滅びゆくのだ・・・ してみると結局のところ、この物語そのものが、全アイルランドをひとつの巨大なチェス盤として戦われた、ひとつの試合であったようにも思われてくる。みどり色と濃ねず色とのチェス盤である・・・ そしてはじめの時とはちがい、さいごに勝つのはみどり色の方だ。しかし、指していたのは誰だったのだろう?・・・

 なおも、その圧倒的な運命の力を前にして、彼は全くの無力ではなかった。滅び往きてなお神である、いまわのその言葉は力をもつ、その哀歌はとこしえにひびいてこの国の全土をめぐる、いまなお残る石垣の網目模様となって。・・・もはや天まで届く塔を築きはすまい、代わりにたてよこに織りなした歌をもって、私は宿ろう、かつて私のものであり、これからのちはお前たちのものとなるこの国のすみずみにまで、お前がどこにいても、そのもとにこの歌が届くように。・・・

 言葉のもつ力が万物を創造するという、太古の信仰がここで再び意味をもってくる。言葉は物質を現出させる、我々の世代ではもはやたいがいが精神の領域でしか起こらなくなってしまったこの奇蹟が、この偉大な魔法が、かつては文字通り世界を動かしていたのだ・・・ かくてその名残りを目にするとき、遠い昔、ゆらめきわたる詩のことばが世界を生み出したその時代のことを、我々ははるかな記憶のなかに、おぼろげに思い起こすのだ・・・

 今なおアイルランドの全土を覆う石垣の網目、それは無念の石神のうごめく指先である・・・ その牧歌的風景が、オブセッションの不気味な暗さを底に秘めるのはいかんともしがたく、さしものキーナもその勝ち誇った晴れやかさのうちにかすかな影が忍びこむのを感じたことだろう・・・

 青黒い雲むらのくろぐろと湧き上がってはざあっと打ちつける、はげしい風雨のまたたくまにゆきすぎて、ふたたび日の光にかがやきわたる野へいでゆき、・・・足の向くまま、四方に広がる地平を見わたしてはさまよい歩く夏の日の午後、かなしくゆらめいてどこまでもつづくかの石垣のえがくリズムにのせて、遠くかすかに、たえまなくうちひびくその調べを、私は今もこの耳にはっきりと聴くのである・・・

 美しい娘キーナ、お前は私を裏切った・・・私の歌はとこしえに流れ・・・
去っていったお前を求め・・・お前の名を呼びつづける・・・





















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