2009年10月15日
異界の丘
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瑛瑠洲物語(うぇーるずものがたり) オグウェン篇6
異界の丘 Halloween in Nant-y-Benglog
2007 by 中島 迂生 Ussay Nakajima

1. 物語<異界の丘>
2. 妖精フィールドガイド
3. 万聖節イヴの日のできごと
4. 向こう側へ
5. いにしえの力の前に
6. 結び
***************************************
1. 物語<異界の丘>

さいごの物語がやってきたのは、ここバングログ谷での二度目の滞在、この地へ向かう途中でいちど死にかけて、グウェン・ガフ・イーサフという谷あいの農家で静養していたときのことだった。
回復の日々は丘々のあいだで、ゆっくりとたゆたい過ぎていった。・・・
私は日夜、日のあるときには曇天の谷底や丘の斜面を歩きまわり、夜には石壁の外で、雨風がごうごうと唸りたてるのを聞いて過ごした。・・・
さいごの物語は、かの日、私がイーサフの井戸のそばの岩に腰を下ろして、かなたのはるかな丘々を眺めていたときにやってきた。
それは、私が移りゆく光のなかに帝国の盛衰を見たあの丘々、光のさし方が奇妙に歪んで、別の世界との境界を示していたあの丘々だ・・・
氷河に削られてできた、積み重なったプディングがどろどろに溶けたような、異様なシルエット。
その姿を眺めていたときに、私の傍らにひとりの老人が、というよりも老人の霊がやってきて、それを私に語り聞かせてくれたのだ。・・・
それはチェシャ州に移り住んだエーハフのジョンではなかった。
けれども明らかに同じような境遇にあって、同じような苦労を重ねてきた北ウェールズの男で、このバングログ谷の出身だった。
彼は私のとなりに、あの丘々を見て腰かけ、すぐさま口を開いて話し始めた。
私に彼の姿は見えなかったが、彼の存在が感じられた・・・彼の声は私の中から、私の内側からひびいてきた。・・・
* *

万聖節の前の晩には、この世のものでない、別の世界のものたちが出てきて・・・あらゆる悪いものたちがこちらの世界に出てきて百鬼夜行すると、
だから決して、その晩は野外で明かしてはいけない、さもないと彼らに魂をさらわれてしまうと、
・・・そういう言い伝えは、いまも奥深い田舎の地方に残っている。
老人たちはいまでも炉端の夜語りに語る。・・・
私が小さな少年だったころ、そういう話はいまよりずっと大きな力をもっていた。
だれもが疑いもしなかった・・・
私はきつく言いつけられていた、その晩には、おもてへ出るなどもってのほか、窓から外を見てさえいけないと。
その晩、早くから、母親は家じゅうの鎧戸をきっちり閉ざし、中からは厚いカーテンをかけて、子供たちにロザリオを握らせ、主の祈りを唱えさせた。
おもての暗やみの中で何が起こっているか、想像するのも怖いほどだった・・・
だからあの日、ケフィンが今年の万聖節イヴの晩は寝ないで過ごすつもりだと、窓から外へ出ていって、すっかり見てやるつもりだと、こっそり私に打ち明けたとき、どれほど驚いたか分かってもらえるだろうか。・・・

結局のところ、ケフィンと私は兄弟のように育った・・・いや、兄弟以上のきずなで結ばれていたといっていいだろう。
・・・バングログ谷にぽつりぽつりと点在する、昔からある農家の末っ子に生まれて、私にはたくさんの実の兄弟がいたけれども、みんな年が離れていて、いちばん近いのがケフィンだった・・・彼の方が十ヶ月上だった。
仕事の手が空くと、さっそくケフィンと遊びに半マイルの坂道を登っていったし、学校に行けるときには必ず一緒に行ったものだ。
っていうのはね、わしら農家の子どもにとっては、勉強はいちばん大事なもんじゃなかった。
いつだってすぐに片づけなくてはならない仕事がどっさりあって、乳絞りとか、羊を追ったり、薪を割ったり、水を汲んだり・・・そういう方がよっぽど大事だったのさ。
わしらのうちでは、どうしたってケフィンの方がリーダー格だった。
色んなことを知っていたし、次から次へと、尽きることなく新しい遊びを考え出したものだ。
顔だちはお母さんそっくりで、まぎれもなく一族の血を引いていたけれども、ケフィンにはどこか変わったところがあった・・・おそらくあの目だ。
びっくりするほど大きな目をしていて、片方ずつ色が違った。
右の目は濃い青色をしていたが、左の目は、何というか、鏡のような・・・ほとんど白に近いような、淡い銀色をしていた。
ケフィンが生まれたとき、家ではさいしょ目が見えないんじゃないかと心配されたそうだ。
だが、ケフィンは目が見えないどころじゃなかった。
私はしばしば思ったものだ・・・彼には人に見えないものが見え、人に聞こえないものが聞こえるんじゃないかとね。・・・

その日、羊の群れを追っていく帰り道だったと思う・・・十月のおわりで、曇りがちの空だと、夕方になる前にもう暗かった。
風が強くて、寒かった・・・私は鼻をすすり上げてセーターの袖でこすった。・・・
・・・今年の万聖節イヴはおもてに出てすごすつもりだよ。
彼がそう言い出したとき、私は縮み上がった。
おしっこをもらしそうになるくらい恐ろしかったが、何かしら、彼の無謀な勇敢さへの尊敬のようなものを禁じえなかった。
禁忌を踏み越えるという考えは、いつの時代にもどこか人の心に訴えるものがあるのだと思う。・・・
・・・だめだよ、そんなこと。
そういう私の顔を覗きこんだケフィンの目はニヤッと笑って、なにか恐ろしいような光を湛えていたが、同時にいきいきと輝いていた。
彼は私にこう言った・・・
みんな、向こうの世界のものたちは悪もので恐ろしいって言ってるけど、ほんとはそんなことないんだ。
ほんとはとってもすばらしいんだ・・・ただ、みんなは知らないから恐ろしがっているだけなんだ。・・・
そして、彼は向こうの丘の方を指さした。
・・・そら・・・今ここからも見える、あの、積み上げたプディングがどろどろに溶けたみたいな、あの丘のあたりだ。
あの丘の陵線は、こっちの世界と向こうの世界との境界なんだ。
あの丘より向こうには、ふしぎな姿をしたものたちが住んでいる・・・そして万聖節イヴの晩になると、丘を越えてこっりの世界へやってくるのだ。
その姿がぼくたちに見えるのは、その晩だけなのだ。・・・
そして彼は私に語って聞かせた、そのようすを、いきいきと手に取るように・・・
いったいどうしてそんなことを知っているのか、私にはとんと分からなかった・・・
銀色の体をした巨大なかたつむり、炎の目をして駆けまわる小鬼たち、花びらの羽をつけた妖精たち・・・
それはすばらしいサーカスの一団のようであるらしかった、
翼をもった馬たち、火の色をした獣たち、ピンクや縞模様の、奇妙なシルエットの動物たち・・・
空豆のみどり色をした、竜のようにばかでかい芋虫が、ゆっくりと体をもたげて這って歩く・・・
それから、こちらの世界のだれも見たことのないようなすばらしい馬車が、しゃりんしゃりんと鈴の音たてて通ってゆく、その中にはひとりの女王が乗っているが、その姿はあまりにもこの世ならぬ美しさであるので、だれでもひと目見たものは死んでしまう・・・
そういうかずかずの異形の者たちが、その晩、時計が十二時を打つといっせいに向こうの丘から現れて、ゆっくり列をなして下ってくる、あるいは重々しく、あるいは楽しげに、三々五々、流れるようにふもとの家々の外を通り過ぎて・・・閉ざされた窓の外を通り過ぎてゆくのだ、彼は私にそう語った。
その情景を、私はほんとにこの目で見たかのように、今もあざやかに脳裡に浮かべるのだ・・・
いや、ほとんどこの目で見たと、言ってもいい・・・ケフィンの語り口は独特で、人を幻視のなかに引きずりこむのだ。・・・
ごらん、こちらの世界を、と彼は言った。
急に夢から覚めたように、私は周りを見まわした。
・・・そこには茶色と灰色の、さびしい谷の平原がどこまでも広がっているばかりだった・・・侘しく、もの淋しく、寒々として。・・・

ぼくはもう、こっちの世界には飽きてしまったよ。
そう彼は言った。
いつでも同じつまらない景色、いつでも同じ丘と岩ころと羊たちがいるだけだ。・・・
そう言われると私もそんな気がしてきた。
・・・でも、たぶん、大きくなったらもっとすばらしい、別の場所へ行けるよ。
そう言ってみた。
すると、ケフィンは訳知り顔にニヤリと笑った。
・・・君は知らないんだ。大きくなったら、別の場所へ行くのは難しくなるばかりだよ。・・・
そして彼はこう言った。
・・・今晩、丘の向こうのものたちに会ったら、ぼくは、一緒に連れていってくれないか頼んでみるつもりだ。
・・・そうなったら、万聖節イヴの晩だけじゃなくて、一年中、彼らと楽しく遊べるんだ。・・・
その年の万聖節イヴは、私にとってはいつもとすっかり同じだった。
うちでは鎧戸をきっちり閉め、分厚いカーテンをかけて、魔よけのロザリオを握らされ、お祈りのあと、耳まできっちりふとんにくるまれて眠りについた・・・
それ以上何かを企てることなど不可能だった。・・・
次の朝、私は待ちかねてケフィンの家へ飛んでいった。
夜のあいだに何を見たか、すっかり話して聞かせてもらうつもりだった。
ところが私はケフィンに会えないと言われた。
ケフィンは病気だった。
彼のお母さんはひどく心配して、気も動転していた。
彼が、昨夜の危険な企てについて、何も話していないのは明らかだった。
私は舌の先まで出かかった言葉をのみこんだ。・・・
それから三日とたたぬうちにケフィンは死んだ。
十一歳にひと月足りなかった。
彼はカペル・キュリグにある教会の墓地に葬られた。
一張羅を着せられ、帽子に黒いリボンをつけられて、私も葬儀に参列した。
まわりの大人たちの誰もが私に同情を寄せた。
・・・かわいそうにねぇ、ウィリーは。あの子とは無二の親友だったのに。・・・
だが、ふしぎに悲しいという気持ちはしなかった。
それはもしかしたら、私があまりにも幼くて、ものごとの重大さをあまり分かっていなかったせいかもしれない。
私はただ、こう思った・・・それでは彼は成功したのだ。
・・・彼はあの晩、異形のものたちに会って、彼らといっしょに丘の向こう側へ連れていってくれるように頼んで、聞き入れてもらったのだ。・・・
ただ、どうしようもない淋しさだけが残った。
見捨てられたという疎外感。
・・・彼はひとりで行ってしまった。
ぼくを置き去りにして。・・・

悪夢のような騒ぎがもちあがったのは、それからあとのことだった。
ケフィンが葬られてしばらくのち、突然、妙なうわさが広まった・・・ケフィンは<取り替え子>だったというのだ。
だれがはじめに言い出したのか知らない。
・・・あれはどうも妙な子だった、しかもあんなに若くして死んでしまった。
こいつはどうも怪しいぞ。
みんなはそううわさした。・・・
<取り替え子>だったかどうか、はっきりさせるただ一つの方法を、誰もが知っていた。
知ってるかい、あんた?
それは、そいつの墓を暴いてみることさ。
<取り替え子>だった場合、そこに遺体はなくなっていて、代わりにただの木片か、焼けぼっくいか、そんなものが転がっているきりだというのさ。
あのころ、物事は中世のころと少しも変わらなかった。
野蛮のまかりとおる、奥深い山のなかの話さ。
うわさは不安を掻きたて、不安は恐怖を呼んだ。
村の誰もが、自分たちのところに<取り替え子>がいたなどと考えるのをいやがった。
みんなは、もう少しで墓を暴くところだったんだ。
その日、じっさいつるはしやスコップをもって、教会のバックヤードへ押しかけたのだ。
ケフィンのお母さんは、泣いて泣いて、気も狂わんばかりだった。
けれども、ひとたび猜疑心にかられた村人たちは、ケフィンの家族の嘆願にも耳を傾けようとしなかった。
すんでのところでみんなをとめたのは、カペル・キュリグの司祭だった。
彼はとてもりっぱな人だった。
心が広くて、情け深くて、我々子どもたちみんな、彼のことが大好きだった。
彼はそのうえ、とても勇敢だった。
このときも、まったく断固としていた。
・・・我々は仮にもキリスト教徒ではありませんか、と彼は言った。
我々はみな兄弟です。
主は私たちすべてのために死なれました。
私たちの小さな兄弟、ケフィンもまた同じです。主は彼のためにも死なれたのです。
私たちは主の愛によって、古い迷信の恐怖から自由にされたのではありませんか?
いったいどういう根拠があって、みなさんは彼が人間の子でなかったなどと考えるのでしょうか。
主のみ名にかけて、わたくしははっきり申し上げます。
主の愛したもうた兄弟の魂を、かき乱すようなことをしてはなりません。
もしも遺体が残っているなら・・・そうであることを私は少しも疑いませんが・・・我々は兄弟の墓どろぼう、もっとも下劣で野蛮な行ないをする者となります。
そのようなことをするなら、私たちは決して主のみ前に立つことを許されないでしょう。
彼はケフィンの墓の前に立ちふさがって、おだやかに、しかしきっぱりとして話した。
群衆は、不満げなようすをしながらも、渋々として立ち去った。
ケフィンの死そのものよりも私の心に深い爪あとを残したのは、むしろこのできごとの方だった。
物心ついたときから見ている村人たちの、なじみぶかい顔の向こうに、こんなにもどす黒い狂気がひそんでいることを、私はまざまざと知ったのだ。
ケフィンの言っていたことはほんとうだ、と私は思った。
向こうの世界のものたちが恐ろしいんじゃない。
それよりもっと悪くて、恐ろしいのは、こちらの世界の我々、人間たちの方なのだ。
私はショックのあまり、しばらくのあいだ口がきけなくなった。
もしもカペル・キュリグの司祭がいなかったら、私は心を閉ざし、人を信じることができなくなってしまっていただろうと思う。・・・

村に平穏な日々が戻って、ケフィンのことは次第に忘れられていった。・・・
それからのちの日々を、私はほとんどひとりきりで、大体おもてですごした。
以前と同じく、羊を追い、薪を割り、水を汲んでは、家まわりの仕事に精を出した。・・・
遊ぶときもひとりきりだった。
ほかに仲間がほしいとは思わなかった。
ケフィンの存在は私にとってあまりにも大きかったので、ほかのだれも代わりになることなどできなかった。
以前ほど淋しいとは思わなくなった。
それほど淋しくはないけれども、ただぽっかりと虚ろだった。
それでいて、それを何かで埋めようという気はなくて、むしろその空虚さを、どこか快く思うようにさえなっていたのだった。・・・
私は傍目には以前よりも無口でぼうっとしているようになった。
そして、何も考えずにひとりで谷の平原を歩きまわった・・・ケフィンと一緒だったとき、いつも何かの遊びやゲームで夢中になっていたときには気づかなかったものに、色々気づくようになった。
時間をかけて岩の色あいや雲のようすを観察し、それから谷に生える色んな草花や、鳥たちに心を寄せるようになった。
私はそうしたものにとりまかれていることに安らぎを覚えた・・・ひとりで空の下を歩きまわっているとき、私はとても穏やかな気持ちになり、・・・それはほとんど幸福感に近かった。・・・
何年かがすぎた。・・・
だれもが経験する不安定で危なっかしい波のなかを私もくぐり抜けて、そのなかに少年時代大切だった色んなものを忘れていった。
ケフィンの思いでもまたそうだった。
あんなにも大切だった親友の思い出も。
私は大人になろうとしていた。・・・
私はこの谷を離れて、マンチェスターにある大きな造船所で働くことになっていた。
この辺りには働き口がない。
山の中に育った若者の多くはふるさとを離れ、遠くへ働きに出ていった。・・・
ところが、そこへあの戦争が始まったのだ。・・・
マンチェスター行きの話は取りやめになり、私は代わりに召集されて、連隊のなかで訓練を受けることになった。
軍隊での生活はもちろんきつかったが、若かったから、どうにかやっていくことができた。
同世代の色んな若者たちと知り合えたのが、むしろとても刺激的だった・・・
町から来た連中は実に色んなことを知っていた。
この国のことだけでなく、ヨーロッパ全体の情勢や、それからアメリカのことなんかをな。
それまで全く谷を出たことがなかったから、私にとっては丘の陵線が世界の終わりだったんだ。
それが急に全世界に向かって開かれたんだ。
ガーンと頭を殴られたようだった。
何と狭いすみっこで、自分は今まで育ってきたんだろう!・・・
けれども、わしらみたいな田舎出の連中も、ほかにはたくさんいたな。
互いに故郷のことを、いろいろと語り合うのは楽しかった。
そう、はじめのうちは、戦争なんて感じじゃなかったな、何か変わった楽しいお祭りみたいなもんだった。・・・
けれども、しだいに事態は厳しくなっていった。
連隊はどんどん送り出され、遠い海の向こうから戦報が伝えられるたびに、わしらはみんな身のひきしまる思いだった。
ついに我々の番が来た・・・そしてあの東部戦線の日々だ。
冬の寒い日々だった。
じめじめした塹壕のなかで、連隊のほとんど全員が腸チフスにやられて苦しんだ。
私も危うく命を落とすところだったのだ。
あの日、私はすでに意識を失って、生死の境を彷徨っていた・・・
急に連なる銃声も、どかんと打ち鳴らされる大砲のひびきも遠のいて、奇妙な静寂のなかに私はいた。
・・・いや、私はもう塹壕のなかにはいなかった。
私はただ、ごつごつと岩の突き出た丘の斜面を、しゃにむに這いのぼって進んでゆくところだった。
暗かったから、夜だったんだな。
あるいは、夕方かな。
丘の向こうから、吹雪が横殴りに吹きつけてきて、顔が痛かった。
目に入る雪をぬぐいながら、私は必死に進んでいった・・・

ここはどこなんだろう、しばらく分からなかった。
それからはたと気がついた。
それは遠い昔、・・・万聖節イヴの晩にはあの向こうからこの世ならぬものたちがやってくるとケフィンが言った、あのふるさとの丘々なのだった。・・・
そのとき、丘の向こう側から彼らがあらわれたのだ・・・
暗くて視界もよくなかったが、私には分かった、少年時代の感覚が、急にはっきりと戻ってきた、
あの日ケフィンがいきいきと話してくれたものたちを、私はいま眼前に見ていた、
小鬼や、巨人たちや、ピンクの馬や、それから巨大な芋虫の化け物を。・・・
そしてその中に私は見た、とても毛足の長い、山羊のような鹿のような何ともいえない姿をした獣の、堂々と銀色に巻き上がった角のあいだに腰かけてやってくる、子供時代そのままのケフィンの姿を。・・・
「ケフィン!・・・ケフィン!・・・」
私は叫んだ、ありったけ大声で叫んだのに、自分の耳にはこもったようにしか聞こえなかった。
けれどもケフィンは気づいていた。
彼はゆっくり近づいてきた。彼は微笑んでいた・・・
「やあ、ウィリー。元気だったかい?」
彼はそう言った。
「ぼくは丘の向こう側で、とても楽しく暮らしているよ。
君にはぼくのことが見えないけれど、ぼくのところからはいつでも君のところが見える。
いつでも気にかけてるよ。
君もぼくたちのところへ来るかい?
ぼくたちのところはとても素敵だよ。
・・・でもね、いちどこちら側へ渡ってしまうと、君らのところへ戻るのはちょっと難しいんだ。
見たところ、君にはまだ、そちらの世界でやるべきことがあるようだ。
今はもう、戻った方がいいと思うよ」
彼はそう言うと、乗っていた獣の向きを変え、やってきた方へ立ち去っていこうとした。
彼といっしょに、ほかのものたちもみんなぞろぞろと向きを変えて行ってしまおうとするのだ。
・・・私は置いていかれてしまうという恐ろしい思いにとらわれて、半分泣きながら必死に叫んだ、
「ケフィン、待ってくれ!・・・」
そのとき、私はいきなり頬をぴしゃっと叩かれたかと思うと・・・長い道のりをものすごい速さで戻ってゆくような、目も眩む感じがして・・・気がつくと、ふたたび戦線の、塹壕のなかにいた。
仲間のひとりが心配そうに私の顔を覗きこんでいた。
「気がついたか・・・よかった、危ないところだった」と彼は言った。
「しっかりしろ、いま医者が到着したぞ」・・・
私は助かって、残りの日々を病院で過ごした。
戦争が終わると、くにへ帰って、測量技師になるための勉強をはじめた。・・・
私は技師として経験を積んだ。
そしてウェールズとイングランドのあちこちの町に移り住んだ。・・・
そのうちに、結婚して子供ができた。
働き手として、父親として、忙しい日々だったよ。・・・
さいごに町に住んだのが・・・そうさな、彼これ十四年前になるかな。
そのころまでに、女房は亡くなっていたし、子供たちはみんな大きくなって独立していた。
私を町にひきとめるものがなくなって、つらつらと、ふるさとの谷へ帰ろうかと、考え始めるようになったのさ。・・・

谷へ戻ったさいしょの頃は、何だか変な感じだった。・・・
ふるさとは昔と変わらないのに、私の方がずいぶん変わってしまっていたんだな。
よけいなフジツボが、いっぱいくっついているような感じだった。
私は毎日、谷を歩きまわった・・・
平原を眺め、岩を眺め、雲を眺めた。
風のひびきに耳を澄ませた・・・少年の頃していたように。
・・・そのうちにまた、だんだんと、感覚が戻ってきた。
うん、それからずっと私はここにいて、昔のように羊を追っているよ。・・・
戻ってからこのかた、私はまた、ケフィンのことを考えるようになった・・・とくに万聖節イヴの晩が近づくとね。
それからまた、私の母親が、どんなに厳重に戸閉まりをしてまわったか、どんなに真剣にわしら子供たちに説いて聞かせたか、きのうのことのように思い出すんだ・・・いきいきと、まさにきのうのことのようにね。・・・
今ではもう、人々はそんな古い迷信のことなんか気にかけやしない。
万聖節イヴの晩だろうが何だろうが、平気でおもてを歩きまわるよ。とくに町の連中はそうだ。
色んなことがすっかり変わってしまった・・・それは私も同じだ。
以前ほどあの連中のこと、向こう側の者たちのことを怖がらなくなった。
万聖節イヴの晩には、鎧戸をきっちり閉めたりしない・・・そうして、夜中になるとこっそり窓を開けて、おもてを覗いてみるんだ。
そういうときには、やっぱり子供の時分のどきどきする感覚が、戻ってくるよ。
でも、もちろん暗やみの中に、もう何も見えやしない・・・それはたぶん、私が大人になってしまったからだろうな。
ケフィンの言ってたとおりだ・・・大人になってしまうと、向こう側の者たちを見るのは難しくなるんだ。
けれども、彼らが通ってゆくのは感じるのだ・・・そう言って老人はしずかに微笑んだ。
・・・五フィート先とて見えない、霧に包まれた暗やみの中を、何か人でも羊でもないものが通り過ぎてゆくのを、・・・人間には聞こえない声で、何か叫んだり笑ったり飛び跳ねたりしながら窓の外を通ってゆく気配を感じるのだ・・・そういうときには思うんだ、ああ、連中が通ってゆくな。・・・昔と変わらずにあの丘の向こうからあらわれて、斜面を下ってゆくのだな、と。・・・
あれからケフィンの姿は見てないが、もう淋しいとは感じない・・・昼間、こうして戸口に立って、あの丘の陵線を眺めると、あの向こうに奴がいるんだな、連中といっしょに楽しく暮らしているんだな、と思うんだ。
ほんのすぐそばじゃないか・・・ケフィンの言ってた通りだ。この谷は、向こうの世界との境界にいちばん近い場所なんだ。・・・
そして、私には彼らの姿を見ることはできないが、ケフィンには私の姿が見える・・・いつでもどうしているか、知っていてくれる。
そう思うと、ちっとも淋しくないのさ。・・・
ケフィンのこと、わしらの子供時代のこと。・・・
年をとると過去の中に生きるようになるって話だがね。
それはきっと、私がこちらの世界でなすべきことを大体果たし終えて、未来のことであんまり煩わされないようになったからだと思う。
環がひとまわりして、もとへ戻ったんだ。
・・・もう墓場に片足つっこんでるようなもんだからな、ハッハッハ。・・・
悪くない人生だったよ!・・・
だが、もう一度繰り返そうという気はないね。・・・
人は死んだら天国へ行く、と彼らは言う。
・・・オーライ、天国も素敵なところみたいだね。
・・・私は思うんだが、天国は雲の上にあるんだから、そこからはこっちの世界と向こうの世界と、両方いっぺんに見下ろすことができるんじゃないかな。
結局、どちらの側にも捨てがたい魅力があるからね。
・・・そして、もし神様がわしらの頃のあのカペル・キュリグの司祭のように心のひろいお方だったら、たぶん、私がときどき向こう側へ、ケフィンに会いに行くのを許してくださるんじゃないかと思うんだ。
・・・けれども、もしそうじゃなかったら・・・Well, 私はむしろケフィンといっしょになることの方を選ぶね。
だってそうじゃないか、そっちの方がよっぽど楽しそうだ・・・もしも天国がそんなにも窮屈で、つまらない場所だったとしたら。・・・

* *
2. 妖精フィールドガイド
この谷へ戻るまえ、アイルランドで手に入れた本のひとつに<妖精フィールドガイド>というのがあった。
章ごとにそれぞれの妖精の種族について、その習性や外見や、どの地方のどんな場所に多く生息しているか、こまごまと詳しくまとめられてあった。
じっさいに見たり、彼らと関わった人々の報告もたくさん載せられて、民俗資料的な面白さもある。
そのなかの多くは、もちろん、小さい頃に読んだ民話集やなにか、どこかしらですでに知っているものだった。
金銀財宝を地中に隠しもっているレプラコーンや、トロルにゴブリン、人の死を予告するバンシイ・・・
それに<取り替え子> changeling というのもあった。
妖精たちが子供を産んだときに、その子供に何かぐあいのわるいところがあったりすると、彼らは人間たちの炉端のところへやってきて、母親が目を離したすきに、ゆりかごに寝ている人間の赤ん坊とこっそり取り替えてしまう。
そうして取り替えられた赤ん坊というのは、たいていどこか普通でないところがあって、ひどく醜かったり、声がしわがれていたり、奇妙に色んなことを知ってたりして、気味悪がられる。
<取り替え子>を見分けて我が子を奪い返す方法としては、卵の殻の酒をつくるというのが、おとぎ話のなかでは有名なところだ。
<取り替え子>が成長したとしても、大人になるまで生きつづけることはまれで、たいてい十になるかならないかくらいのうちに死んでしまう。
けれども、結局のところ彼らは妖精であるから、死んでも天国へは行かず、妖精の国のまた別の生へと移ってゆくだけなのだ。
それで、葬られてしばらくしてからその棺を開けてみると、そこには死体の代わりに何か木片の端きれか、焼け焦げた杭か何かが転がっているばかりだという。・・・
また、こんなことも書いてあった。
万聖節イヴ(ハロウィーン)の晩には、野外で眠ってはいけない。
妖精たちに魂をさらわれてしまう恐れがある。
じっさいに魂をさらわれて、ふぬけのようになってしまった人の話も書いてあった。
その人は、それから一年とたたぬうちに死んでしまった。
その本は、アイルランドを発つときにほかの荷物といっしょに船便でくにへ送ってしまった。
けれども、この谷へ戻ってきたとき、その印象はまだいきいきと頭に残っていた。
3. 万聖節イヴの日のできごと

それは十月の終わりのことで、万聖節は近づいていた・・・こんな辺境の地に暮らしていると、中世の恐怖はすぐそばにあった。
そのころ私はじっさい、週日のあいだはイーサフの納屋に寝起きし、週末になると追い出されてテントを張るという暮らしを送っていたから、もし万聖節イヴが週末にかかったら、その晩を戸外で過ごさなくてはならない可能性が充分にあったわけだ。
それで私は少し心配していた・・・ 私はきちんとした暦をもっていなかったので、今日が何日か、はっきり分からずに過ごしていたのだ。
それまでは、それで別段困りもしなかった・・・ 町や村にいれば、たいてい誰かが教えてくれたし、そもそも今日が何月の何日であろうが、旅の身にたいした違いはなかった。
だが、こと万聖節イヴの晩となると話がちがってくる。
その朝、それはおだやかな曇り空の、風もなく、気持ちのよい朝だった。
だが、日曜だったので、料理部屋はほかの滞在客に占領されて、のんびり卵を料理できるような状態ではなかった。
そこで、テントから這い出すと、そのままフットパスを抜けて、オグウェン湖のほうへぶらぶら、散歩に出かけてしまった。
湖のこちら側からイドワルの白いコテッジが、二つの山を背にしてたっているさまが、すばらしく絵になる。
ゆっくり自分の足で歩きながら、それをもういちど眺めたかったのだ。
バンゴールで倒れたあと、久しく静養して、以来はじめての遠出といってよかった。
先週までは、一マイル先にすぎないエーハフへの道なかばで力尽きて引き返さねばならなかった。
それが、この日は苦もなく歩きとおすことができた。
それだけでも、そのときの私にとっては、たいへんな回復といってよかった。
常ならまずないことなのだが、体力が戻っていなかったので、荷を軽くするために水を持っていかなかった。
歩くうちに喉が渇いてきた。
エーハフの井戸から飲ませてもらおうか。
だが、エーハフの人びとにあったら説明しなくてはならない、ちょっとした事情があって、それが面倒だったので、結局寄らずに素通りしてしまった。
フットパスは、わずかに差しそめた朝日を受けて切りたつトロヴァーンの前でぐるりと流れに沿って街道へ出る。
そこからはまだ人通りもないしずかな道を、湖のおもてをのぞみながら歩いた。・・・
<憶いの岩>のところで例によって足をとめ、岩山のてっぺんまで登ってしばらくのあいだ腰を下ろした。
・・・そのころはまだ、そういう名で呼んではいなかったけれども。・・・
イドワルまで、倒れずにたどり着けたのは奇蹟だった。
二マイル半、歩きとおせたのだ!・・・
人間の回復力には感嘆すべきものがある。・・・
一日の運動量としては、充分だ。帰りはバスをつかまえて帰ろう。
ちょうどイドワルの前が停車場になっていた。
私は十時のバスを待って時間を過ごした。
夏のあいだコーヒーやコーニッシュペストリーを売っていた売店は鎧戸を閉めてしまい、閑散としていた。
いくらか登山客の姿はあった。
裏手のイドワル湖や、トロヴァーンをめあてにやってきた人々だ。・・・
十時をすぎてしばらくたち、不安になってきた。
バスが来ないのだ。
病み上がりの身でまた二マイル半、歩いて帰らなくてはならないのだろうか?・・・ しかも結局イドワルでも水を飲めずに、水分不足の状態で?・・・
けれども仕方ない、ゆっくりゆっくり、歩いて帰った。
その頃には日も高く昇り、まともに顔に射してまぶしかった。
結局五マイル、水なしで歩きとおしてしまった・・・
その日は残り一日、できるだけ体を動かさずにテントの中でおとなしく過ごした。
そのせいか、恐れていた症状もなくてすんだ。
夕方にはテントをたたんで、人のいなくなった納屋に戻った。
晩には時間をかけて野菜のシチューをつくった。・・・
まあ、そんなわけで幸いにも、万聖節イヴの晩を戸外で過ごさずにすんだわけだ。
・・・とはいっても、じっさいには、この物語に出てくるケフィンのように、妖精たちといっしょに丘の向こう側へ行ってみたらどうだろうという気持ちも少しあった。
この谷のように、精霊たちの力を近しく感じられる場所というのは私にとってかくも貴重だったのだ。
かくも文明に踏み荒らされてしまったこの世界にあって。
4. 向こう側へ

妖精に魂をさらわれることが、この世における死を意味していたとしても、私が恐れていたのは死そのものではなかった。
私が恐れていたのは途上の死、つまり、それによって今生の生が完結したひとつの環となるよりも前の死であり、私が彼らから受けた使命を果たせないで終わってしまうことだった。
私はそのときまでに、アイルランドやウェールズの地霊たちからたくさんの物語を、人々に伝えるべく手渡されていて、それはこの生において果たされるべきつとめだった。
もし私がここで魂をさらわれて<向こう側>へ行ってしまったとしたら、そこでの暮らしも悪くはないかもしれないかもしれないが、たぶんもういちどこちら側へ戻ってきて、人間の言葉でこれらの事柄をきちんと書き上げるのは難しくなるだろう。・・・
あのときもそうだった、そう、この谷へ途中で力尽きて倒れたときも。
・・・死ぬことじたいがいやなのではなかった。
じっさい、どちらかといえば、たまたま生を享けたにすぎない自分の生まれ故郷で死ぬよりも、彼らが呼んでくれたこの国で死ぬことの方を私は選んだだろう・・・
それでもなお、私には、まだ書き記さなくてはならない事柄があったから。
・・・そのゆえに、あそこで終わってしまうわけにはいかなかった・・・それがただひとつの理由だった・・・
ただ、じっさいのところはどうだったか分からない。
・・・つまり、ほんとうにあの日が万聖節イヴだったのかどうか。・・・
イドワルからフットパスを抜けて戻る途中、なぜか街道をゆくバスの姿を見た覚えがあるのだ。
どうして今頃来ているのだろう・・・と、そのときはふしぎに思ったのだった。
たぶん自分の時計が狂っていたのだろうと考えるしかなかった。
だが、今になってみると、十一月で夏時間から切り換わって一時間ずれるのだから、あの日がすでに十一月のあたま、万聖節だったのかもしれない。
とすると、ちょうどイヴの晩を、私は戸外で過ごしたことになる。
もしかすると、私はその晩、知らぬまにさらわれて<向こう側>へ行っていたのかもしれない。
まともな暦を持たずに旅することには、こういう危険がある。
こうした自分の愚かさ、無鉄砲さを考えるにつけ、我ながら呆れ返るばかりだ。
それでもなお。
あのような日々を、人はめったに持てるものではない。
それは文明の枠組みから離れ、野生動物のように自由で純粋な・・・そう、まさに精霊たちのように自由で純粋な、かがやける生のあり方だった。
あれらの日々の心のあり方は、同胞の人間たちよりもむしろ彼らの方に近かっただろう。
恐らくそのゆえに、彼らの語ってくれる物語を受け取りやすい状態でもあったのだろう。
5. いにしえの力の前に

この物語のクライマックスを書き記していた晩・・・それはあのがらんとした、イーサフの大きい方の納屋でのことだった・・・
老人の声はよどみなく穏やかに私の内にひびきつづけて、私はただ、口述筆記をする書記のように、その言葉を次々と紙の上に置いてゆくだけでよかった。
この土地で享けた物語のすべてがそうであるように、楽々と、すいすいと、少しもつかえることなくそれはやってきた。
私は白熱の感動のうちに己れを没し去り、石壁の外では風あらしがごうごうと吠えたけっていた。・・・
私はその晩、ずいぶん遅くまで書きつづけた、途中でペンを置けなかった。・・・
そしてこの物語の印象で頭をいっぱいにしたまま、そのままの精神状態で眠りについてしまった。
それはかなり危険なことだと分かってはいながら・・・
夢の中で、もはや語ることと生きることのあいだに区別はなかった。
私は語り手の老人の若き日にあった、私は若い兵士だった。・・・
私は地肌に沿って吹きつける吹雪に顔を打たれながら、暗やみのなか、冷たさのなか、半ば目を閉じ、半ば手探りで、しゃにむに丘を這いのぼっていった。・・・
凍える寒さが全身に滲みとおり、ほとんど感覚がなくなっていた、私は力が尽きかけるのを感じ、言い知れぬ絶望に襲われて、さいごの力を振り絞って叫んだ・・・ケフィン! ケフィン!・・・
そう叫ぶ自分の声で、私は目を覚ましたのだった。
目を見開いてなおもしばらく、私は幻視のうちに、吹きつける吹雪の白いすじを暗やみのなかに見た。・・・
そのとき、私は生まれてはじめて金縛りにあった。
全身が、頭のてっぺんからつま先まで、痺れたようになって動けなかった。
・・・これが金縛りというやつか。・・・
私は暗やみのなかでひとり横たわっていた、あれは危険な真似だったと、すぐに思い返しながら・・・
その瞬間、私は裸で、何ももたず、かつてトロヴァーンをつくったと同じ、いにしえの巨大な力の前に立っていた。・・・
怖ろしかったが、それは病的な恐怖ではなかった。
それはアイルランドの<白い雌牛の島>で私が出会ったのと同じものであり、いつか自分がそれに殺されることが分かっている相手であった。
だが、鍵が鍵穴のためにつくられるのと同じように、私はこのために生まれてきたのだ。
ゆえに、このために死ぬのでなかったら、私の死は意味を持たないであろう。・・・
私は目を見開いて、しずかに横たわっていた。
・・・やがて、ゆっくりと体がほどけてゆき、手足を動かせるようになった。
・・・私が成し遂げようとして戦いつづけているこれらの事柄は、こうして自分より大きな力のもとからやってくるので、その力によって私はそれらを成し遂げることができるだろう・・・そういう力強い、しずかな平安がやってきて私を包みこんだ。・・・
私は立ち上がって灯りをつけ、やかんの残り湯でお茶をわかした。
そうして少しのあいだ座って、風のひびきに耳を傾けた。・・・
それからまた寝台に戻って、夢ひとつ見ない眠りに落ちていった。・・・
6. 結び

自分の魂が属する場所をあとにするというのは、悲しいよりも先にまず、何ともいえず奇妙な感じがする。
違和感・・・ ここを出て、どこかへ行く理由なんてないのに。・・・なぜ私は発とうとしているのか?・・・
いや、分かっている。
旅の日程もあるし、査証の問題もあるし、体力的な限界もある。
そんなことは分かっている。それでもなお。・・・
今晩はバンゴールに泊まって、明日はロンドンだ。
もちろん分かっている。
・・・分かっていても、それでもなお。・・・
自分の属するものからもぎ離されていく感じ。・・・
列車の窓を流れすぎる海岸の景色、田園風景、実感のないままに雨の流れ下るように、流れ下る涙、・・・
それでも実感が湧かない・・・
いや。・・・
知っていた、この旅はまだ終わらないと。
まだこの旅は終わらない、私がすっかり書き上げるまでは。・・・
私が託されたこれらの物語を、ひとつの書物にまとめ上げるまでは。・・・
あとはこの瞳に刻みつけた風景の記憶と、ノートとスケッチと写真のフィルムと・・・
それらがこの仕事を仕上げるための素材となるだろう。・・・
かの地で得たあふれんばかりの印象をすべて、やってきた物語とともに織り上げてひとつの錦となし、すべて書きあげてまとめるまで、私の旅は終わらない。
いま私は去ってゆくけれども、私の心はまだあの谷にあって、こののちもながくとどまるだろう。
だからそれほど悲しむことはないのだ・・・
窓の外の景色がやたらとにじむのは、駅のこの独特の旅情とこの汽笛のひびきとのなせるわざにすぎない・・・
私の魂はなおもこの谷にとどまって、この谷に生きる、それまでのあいだ。・・・
どんなに遠く離れても。・・・
どれほどの時を経ても。・・・

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瑛瑠洲物語(うぇーるずものがたり) オグウェン篇6
異界の丘 Halloween in Nant-y-Benglog
2007 by 中島 迂生 Ussay Nakajima

1. 物語<異界の丘>
2. 妖精フィールドガイド
3. 万聖節イヴの日のできごと
4. 向こう側へ
5. いにしえの力の前に
6. 結び
***************************************
1. 物語<異界の丘>

さいごの物語がやってきたのは、ここバングログ谷での二度目の滞在、この地へ向かう途中でいちど死にかけて、グウェン・ガフ・イーサフという谷あいの農家で静養していたときのことだった。
回復の日々は丘々のあいだで、ゆっくりとたゆたい過ぎていった。・・・
私は日夜、日のあるときには曇天の谷底や丘の斜面を歩きまわり、夜には石壁の外で、雨風がごうごうと唸りたてるのを聞いて過ごした。・・・
さいごの物語は、かの日、私がイーサフの井戸のそばの岩に腰を下ろして、かなたのはるかな丘々を眺めていたときにやってきた。
それは、私が移りゆく光のなかに帝国の盛衰を見たあの丘々、光のさし方が奇妙に歪んで、別の世界との境界を示していたあの丘々だ・・・
氷河に削られてできた、積み重なったプディングがどろどろに溶けたような、異様なシルエット。
その姿を眺めていたときに、私の傍らにひとりの老人が、というよりも老人の霊がやってきて、それを私に語り聞かせてくれたのだ。・・・
それはチェシャ州に移り住んだエーハフのジョンではなかった。
けれども明らかに同じような境遇にあって、同じような苦労を重ねてきた北ウェールズの男で、このバングログ谷の出身だった。
彼は私のとなりに、あの丘々を見て腰かけ、すぐさま口を開いて話し始めた。
私に彼の姿は見えなかったが、彼の存在が感じられた・・・彼の声は私の中から、私の内側からひびいてきた。・・・
* *

万聖節の前の晩には、この世のものでない、別の世界のものたちが出てきて・・・あらゆる悪いものたちがこちらの世界に出てきて百鬼夜行すると、
だから決して、その晩は野外で明かしてはいけない、さもないと彼らに魂をさらわれてしまうと、
・・・そういう言い伝えは、いまも奥深い田舎の地方に残っている。
老人たちはいまでも炉端の夜語りに語る。・・・
私が小さな少年だったころ、そういう話はいまよりずっと大きな力をもっていた。
だれもが疑いもしなかった・・・
私はきつく言いつけられていた、その晩には、おもてへ出るなどもってのほか、窓から外を見てさえいけないと。
その晩、早くから、母親は家じゅうの鎧戸をきっちり閉ざし、中からは厚いカーテンをかけて、子供たちにロザリオを握らせ、主の祈りを唱えさせた。
おもての暗やみの中で何が起こっているか、想像するのも怖いほどだった・・・
だからあの日、ケフィンが今年の万聖節イヴの晩は寝ないで過ごすつもりだと、窓から外へ出ていって、すっかり見てやるつもりだと、こっそり私に打ち明けたとき、どれほど驚いたか分かってもらえるだろうか。・・・

結局のところ、ケフィンと私は兄弟のように育った・・・いや、兄弟以上のきずなで結ばれていたといっていいだろう。
・・・バングログ谷にぽつりぽつりと点在する、昔からある農家の末っ子に生まれて、私にはたくさんの実の兄弟がいたけれども、みんな年が離れていて、いちばん近いのがケフィンだった・・・彼の方が十ヶ月上だった。
仕事の手が空くと、さっそくケフィンと遊びに半マイルの坂道を登っていったし、学校に行けるときには必ず一緒に行ったものだ。
っていうのはね、わしら農家の子どもにとっては、勉強はいちばん大事なもんじゃなかった。
いつだってすぐに片づけなくてはならない仕事がどっさりあって、乳絞りとか、羊を追ったり、薪を割ったり、水を汲んだり・・・そういう方がよっぽど大事だったのさ。
わしらのうちでは、どうしたってケフィンの方がリーダー格だった。
色んなことを知っていたし、次から次へと、尽きることなく新しい遊びを考え出したものだ。
顔だちはお母さんそっくりで、まぎれもなく一族の血を引いていたけれども、ケフィンにはどこか変わったところがあった・・・おそらくあの目だ。
びっくりするほど大きな目をしていて、片方ずつ色が違った。
右の目は濃い青色をしていたが、左の目は、何というか、鏡のような・・・ほとんど白に近いような、淡い銀色をしていた。
ケフィンが生まれたとき、家ではさいしょ目が見えないんじゃないかと心配されたそうだ。
だが、ケフィンは目が見えないどころじゃなかった。
私はしばしば思ったものだ・・・彼には人に見えないものが見え、人に聞こえないものが聞こえるんじゃないかとね。・・・

その日、羊の群れを追っていく帰り道だったと思う・・・十月のおわりで、曇りがちの空だと、夕方になる前にもう暗かった。
風が強くて、寒かった・・・私は鼻をすすり上げてセーターの袖でこすった。・・・
・・・今年の万聖節イヴはおもてに出てすごすつもりだよ。
彼がそう言い出したとき、私は縮み上がった。
おしっこをもらしそうになるくらい恐ろしかったが、何かしら、彼の無謀な勇敢さへの尊敬のようなものを禁じえなかった。
禁忌を踏み越えるという考えは、いつの時代にもどこか人の心に訴えるものがあるのだと思う。・・・
・・・だめだよ、そんなこと。
そういう私の顔を覗きこんだケフィンの目はニヤッと笑って、なにか恐ろしいような光を湛えていたが、同時にいきいきと輝いていた。
彼は私にこう言った・・・
みんな、向こうの世界のものたちは悪もので恐ろしいって言ってるけど、ほんとはそんなことないんだ。
ほんとはとってもすばらしいんだ・・・ただ、みんなは知らないから恐ろしがっているだけなんだ。・・・
そして、彼は向こうの丘の方を指さした。
・・・そら・・・今ここからも見える、あの、積み上げたプディングがどろどろに溶けたみたいな、あの丘のあたりだ。
あの丘の陵線は、こっちの世界と向こうの世界との境界なんだ。
あの丘より向こうには、ふしぎな姿をしたものたちが住んでいる・・・そして万聖節イヴの晩になると、丘を越えてこっりの世界へやってくるのだ。
その姿がぼくたちに見えるのは、その晩だけなのだ。・・・
そして彼は私に語って聞かせた、そのようすを、いきいきと手に取るように・・・
いったいどうしてそんなことを知っているのか、私にはとんと分からなかった・・・
銀色の体をした巨大なかたつむり、炎の目をして駆けまわる小鬼たち、花びらの羽をつけた妖精たち・・・
それはすばらしいサーカスの一団のようであるらしかった、
翼をもった馬たち、火の色をした獣たち、ピンクや縞模様の、奇妙なシルエットの動物たち・・・
空豆のみどり色をした、竜のようにばかでかい芋虫が、ゆっくりと体をもたげて這って歩く・・・
それから、こちらの世界のだれも見たことのないようなすばらしい馬車が、しゃりんしゃりんと鈴の音たてて通ってゆく、その中にはひとりの女王が乗っているが、その姿はあまりにもこの世ならぬ美しさであるので、だれでもひと目見たものは死んでしまう・・・
そういうかずかずの異形の者たちが、その晩、時計が十二時を打つといっせいに向こうの丘から現れて、ゆっくり列をなして下ってくる、あるいは重々しく、あるいは楽しげに、三々五々、流れるようにふもとの家々の外を通り過ぎて・・・閉ざされた窓の外を通り過ぎてゆくのだ、彼は私にそう語った。
その情景を、私はほんとにこの目で見たかのように、今もあざやかに脳裡に浮かべるのだ・・・
いや、ほとんどこの目で見たと、言ってもいい・・・ケフィンの語り口は独特で、人を幻視のなかに引きずりこむのだ。・・・
ごらん、こちらの世界を、と彼は言った。
急に夢から覚めたように、私は周りを見まわした。
・・・そこには茶色と灰色の、さびしい谷の平原がどこまでも広がっているばかりだった・・・侘しく、もの淋しく、寒々として。・・・

ぼくはもう、こっちの世界には飽きてしまったよ。
そう彼は言った。
いつでも同じつまらない景色、いつでも同じ丘と岩ころと羊たちがいるだけだ。・・・
そう言われると私もそんな気がしてきた。
・・・でも、たぶん、大きくなったらもっとすばらしい、別の場所へ行けるよ。
そう言ってみた。
すると、ケフィンは訳知り顔にニヤリと笑った。
・・・君は知らないんだ。大きくなったら、別の場所へ行くのは難しくなるばかりだよ。・・・
そして彼はこう言った。
・・・今晩、丘の向こうのものたちに会ったら、ぼくは、一緒に連れていってくれないか頼んでみるつもりだ。
・・・そうなったら、万聖節イヴの晩だけじゃなくて、一年中、彼らと楽しく遊べるんだ。・・・
その年の万聖節イヴは、私にとってはいつもとすっかり同じだった。
うちでは鎧戸をきっちり閉め、分厚いカーテンをかけて、魔よけのロザリオを握らされ、お祈りのあと、耳まできっちりふとんにくるまれて眠りについた・・・
それ以上何かを企てることなど不可能だった。・・・
次の朝、私は待ちかねてケフィンの家へ飛んでいった。
夜のあいだに何を見たか、すっかり話して聞かせてもらうつもりだった。
ところが私はケフィンに会えないと言われた。
ケフィンは病気だった。
彼のお母さんはひどく心配して、気も動転していた。
彼が、昨夜の危険な企てについて、何も話していないのは明らかだった。
私は舌の先まで出かかった言葉をのみこんだ。・・・
それから三日とたたぬうちにケフィンは死んだ。
十一歳にひと月足りなかった。
彼はカペル・キュリグにある教会の墓地に葬られた。
一張羅を着せられ、帽子に黒いリボンをつけられて、私も葬儀に参列した。
まわりの大人たちの誰もが私に同情を寄せた。
・・・かわいそうにねぇ、ウィリーは。あの子とは無二の親友だったのに。・・・
だが、ふしぎに悲しいという気持ちはしなかった。
それはもしかしたら、私があまりにも幼くて、ものごとの重大さをあまり分かっていなかったせいかもしれない。
私はただ、こう思った・・・それでは彼は成功したのだ。
・・・彼はあの晩、異形のものたちに会って、彼らといっしょに丘の向こう側へ連れていってくれるように頼んで、聞き入れてもらったのだ。・・・
ただ、どうしようもない淋しさだけが残った。
見捨てられたという疎外感。
・・・彼はひとりで行ってしまった。
ぼくを置き去りにして。・・・

悪夢のような騒ぎがもちあがったのは、それからあとのことだった。
ケフィンが葬られてしばらくのち、突然、妙なうわさが広まった・・・ケフィンは<取り替え子>だったというのだ。
だれがはじめに言い出したのか知らない。
・・・あれはどうも妙な子だった、しかもあんなに若くして死んでしまった。
こいつはどうも怪しいぞ。
みんなはそううわさした。・・・
<取り替え子>だったかどうか、はっきりさせるただ一つの方法を、誰もが知っていた。
知ってるかい、あんた?
それは、そいつの墓を暴いてみることさ。
<取り替え子>だった場合、そこに遺体はなくなっていて、代わりにただの木片か、焼けぼっくいか、そんなものが転がっているきりだというのさ。
あのころ、物事は中世のころと少しも変わらなかった。
野蛮のまかりとおる、奥深い山のなかの話さ。
うわさは不安を掻きたて、不安は恐怖を呼んだ。
村の誰もが、自分たちのところに<取り替え子>がいたなどと考えるのをいやがった。
みんなは、もう少しで墓を暴くところだったんだ。
その日、じっさいつるはしやスコップをもって、教会のバックヤードへ押しかけたのだ。
ケフィンのお母さんは、泣いて泣いて、気も狂わんばかりだった。
けれども、ひとたび猜疑心にかられた村人たちは、ケフィンの家族の嘆願にも耳を傾けようとしなかった。
すんでのところでみんなをとめたのは、カペル・キュリグの司祭だった。
彼はとてもりっぱな人だった。
心が広くて、情け深くて、我々子どもたちみんな、彼のことが大好きだった。
彼はそのうえ、とても勇敢だった。
このときも、まったく断固としていた。
・・・我々は仮にもキリスト教徒ではありませんか、と彼は言った。
我々はみな兄弟です。
主は私たちすべてのために死なれました。
私たちの小さな兄弟、ケフィンもまた同じです。主は彼のためにも死なれたのです。
私たちは主の愛によって、古い迷信の恐怖から自由にされたのではありませんか?
いったいどういう根拠があって、みなさんは彼が人間の子でなかったなどと考えるのでしょうか。
主のみ名にかけて、わたくしははっきり申し上げます。
主の愛したもうた兄弟の魂を、かき乱すようなことをしてはなりません。
もしも遺体が残っているなら・・・そうであることを私は少しも疑いませんが・・・我々は兄弟の墓どろぼう、もっとも下劣で野蛮な行ないをする者となります。
そのようなことをするなら、私たちは決して主のみ前に立つことを許されないでしょう。
彼はケフィンの墓の前に立ちふさがって、おだやかに、しかしきっぱりとして話した。
群衆は、不満げなようすをしながらも、渋々として立ち去った。
ケフィンの死そのものよりも私の心に深い爪あとを残したのは、むしろこのできごとの方だった。
物心ついたときから見ている村人たちの、なじみぶかい顔の向こうに、こんなにもどす黒い狂気がひそんでいることを、私はまざまざと知ったのだ。
ケフィンの言っていたことはほんとうだ、と私は思った。
向こうの世界のものたちが恐ろしいんじゃない。
それよりもっと悪くて、恐ろしいのは、こちらの世界の我々、人間たちの方なのだ。
私はショックのあまり、しばらくのあいだ口がきけなくなった。
もしもカペル・キュリグの司祭がいなかったら、私は心を閉ざし、人を信じることができなくなってしまっていただろうと思う。・・・

村に平穏な日々が戻って、ケフィンのことは次第に忘れられていった。・・・
それからのちの日々を、私はほとんどひとりきりで、大体おもてですごした。
以前と同じく、羊を追い、薪を割り、水を汲んでは、家まわりの仕事に精を出した。・・・
遊ぶときもひとりきりだった。
ほかに仲間がほしいとは思わなかった。
ケフィンの存在は私にとってあまりにも大きかったので、ほかのだれも代わりになることなどできなかった。
以前ほど淋しいとは思わなくなった。
それほど淋しくはないけれども、ただぽっかりと虚ろだった。
それでいて、それを何かで埋めようという気はなくて、むしろその空虚さを、どこか快く思うようにさえなっていたのだった。・・・
私は傍目には以前よりも無口でぼうっとしているようになった。
そして、何も考えずにひとりで谷の平原を歩きまわった・・・ケフィンと一緒だったとき、いつも何かの遊びやゲームで夢中になっていたときには気づかなかったものに、色々気づくようになった。
時間をかけて岩の色あいや雲のようすを観察し、それから谷に生える色んな草花や、鳥たちに心を寄せるようになった。
私はそうしたものにとりまかれていることに安らぎを覚えた・・・ひとりで空の下を歩きまわっているとき、私はとても穏やかな気持ちになり、・・・それはほとんど幸福感に近かった。・・・
何年かがすぎた。・・・
だれもが経験する不安定で危なっかしい波のなかを私もくぐり抜けて、そのなかに少年時代大切だった色んなものを忘れていった。
ケフィンの思いでもまたそうだった。
あんなにも大切だった親友の思い出も。
私は大人になろうとしていた。・・・
私はこの谷を離れて、マンチェスターにある大きな造船所で働くことになっていた。
この辺りには働き口がない。
山の中に育った若者の多くはふるさとを離れ、遠くへ働きに出ていった。・・・
ところが、そこへあの戦争が始まったのだ。・・・
マンチェスター行きの話は取りやめになり、私は代わりに召集されて、連隊のなかで訓練を受けることになった。
軍隊での生活はもちろんきつかったが、若かったから、どうにかやっていくことができた。
同世代の色んな若者たちと知り合えたのが、むしろとても刺激的だった・・・
町から来た連中は実に色んなことを知っていた。
この国のことだけでなく、ヨーロッパ全体の情勢や、それからアメリカのことなんかをな。
それまで全く谷を出たことがなかったから、私にとっては丘の陵線が世界の終わりだったんだ。
それが急に全世界に向かって開かれたんだ。
ガーンと頭を殴られたようだった。
何と狭いすみっこで、自分は今まで育ってきたんだろう!・・・
けれども、わしらみたいな田舎出の連中も、ほかにはたくさんいたな。
互いに故郷のことを、いろいろと語り合うのは楽しかった。
そう、はじめのうちは、戦争なんて感じじゃなかったな、何か変わった楽しいお祭りみたいなもんだった。・・・
けれども、しだいに事態は厳しくなっていった。
連隊はどんどん送り出され、遠い海の向こうから戦報が伝えられるたびに、わしらはみんな身のひきしまる思いだった。
ついに我々の番が来た・・・そしてあの東部戦線の日々だ。
冬の寒い日々だった。
じめじめした塹壕のなかで、連隊のほとんど全員が腸チフスにやられて苦しんだ。
私も危うく命を落とすところだったのだ。
あの日、私はすでに意識を失って、生死の境を彷徨っていた・・・
急に連なる銃声も、どかんと打ち鳴らされる大砲のひびきも遠のいて、奇妙な静寂のなかに私はいた。
・・・いや、私はもう塹壕のなかにはいなかった。
私はただ、ごつごつと岩の突き出た丘の斜面を、しゃにむに這いのぼって進んでゆくところだった。
暗かったから、夜だったんだな。
あるいは、夕方かな。
丘の向こうから、吹雪が横殴りに吹きつけてきて、顔が痛かった。
目に入る雪をぬぐいながら、私は必死に進んでいった・・・

ここはどこなんだろう、しばらく分からなかった。
それからはたと気がついた。
それは遠い昔、・・・万聖節イヴの晩にはあの向こうからこの世ならぬものたちがやってくるとケフィンが言った、あのふるさとの丘々なのだった。・・・
そのとき、丘の向こう側から彼らがあらわれたのだ・・・
暗くて視界もよくなかったが、私には分かった、少年時代の感覚が、急にはっきりと戻ってきた、
あの日ケフィンがいきいきと話してくれたものたちを、私はいま眼前に見ていた、
小鬼や、巨人たちや、ピンクの馬や、それから巨大な芋虫の化け物を。・・・
そしてその中に私は見た、とても毛足の長い、山羊のような鹿のような何ともいえない姿をした獣の、堂々と銀色に巻き上がった角のあいだに腰かけてやってくる、子供時代そのままのケフィンの姿を。・・・
「ケフィン!・・・ケフィン!・・・」
私は叫んだ、ありったけ大声で叫んだのに、自分の耳にはこもったようにしか聞こえなかった。
けれどもケフィンは気づいていた。
彼はゆっくり近づいてきた。彼は微笑んでいた・・・
「やあ、ウィリー。元気だったかい?」
彼はそう言った。
「ぼくは丘の向こう側で、とても楽しく暮らしているよ。
君にはぼくのことが見えないけれど、ぼくのところからはいつでも君のところが見える。
いつでも気にかけてるよ。
君もぼくたちのところへ来るかい?
ぼくたちのところはとても素敵だよ。
・・・でもね、いちどこちら側へ渡ってしまうと、君らのところへ戻るのはちょっと難しいんだ。
見たところ、君にはまだ、そちらの世界でやるべきことがあるようだ。
今はもう、戻った方がいいと思うよ」
彼はそう言うと、乗っていた獣の向きを変え、やってきた方へ立ち去っていこうとした。
彼といっしょに、ほかのものたちもみんなぞろぞろと向きを変えて行ってしまおうとするのだ。
・・・私は置いていかれてしまうという恐ろしい思いにとらわれて、半分泣きながら必死に叫んだ、
「ケフィン、待ってくれ!・・・」
そのとき、私はいきなり頬をぴしゃっと叩かれたかと思うと・・・長い道のりをものすごい速さで戻ってゆくような、目も眩む感じがして・・・気がつくと、ふたたび戦線の、塹壕のなかにいた。
仲間のひとりが心配そうに私の顔を覗きこんでいた。
「気がついたか・・・よかった、危ないところだった」と彼は言った。
「しっかりしろ、いま医者が到着したぞ」・・・
私は助かって、残りの日々を病院で過ごした。
戦争が終わると、くにへ帰って、測量技師になるための勉強をはじめた。・・・
私は技師として経験を積んだ。
そしてウェールズとイングランドのあちこちの町に移り住んだ。・・・
そのうちに、結婚して子供ができた。
働き手として、父親として、忙しい日々だったよ。・・・
さいごに町に住んだのが・・・そうさな、彼これ十四年前になるかな。
そのころまでに、女房は亡くなっていたし、子供たちはみんな大きくなって独立していた。
私を町にひきとめるものがなくなって、つらつらと、ふるさとの谷へ帰ろうかと、考え始めるようになったのさ。・・・

谷へ戻ったさいしょの頃は、何だか変な感じだった。・・・
ふるさとは昔と変わらないのに、私の方がずいぶん変わってしまっていたんだな。
よけいなフジツボが、いっぱいくっついているような感じだった。
私は毎日、谷を歩きまわった・・・
平原を眺め、岩を眺め、雲を眺めた。
風のひびきに耳を澄ませた・・・少年の頃していたように。
・・・そのうちにまた、だんだんと、感覚が戻ってきた。
うん、それからずっと私はここにいて、昔のように羊を追っているよ。・・・
戻ってからこのかた、私はまた、ケフィンのことを考えるようになった・・・とくに万聖節イヴの晩が近づくとね。
それからまた、私の母親が、どんなに厳重に戸閉まりをしてまわったか、どんなに真剣にわしら子供たちに説いて聞かせたか、きのうのことのように思い出すんだ・・・いきいきと、まさにきのうのことのようにね。・・・
今ではもう、人々はそんな古い迷信のことなんか気にかけやしない。
万聖節イヴの晩だろうが何だろうが、平気でおもてを歩きまわるよ。とくに町の連中はそうだ。
色んなことがすっかり変わってしまった・・・それは私も同じだ。
以前ほどあの連中のこと、向こう側の者たちのことを怖がらなくなった。
万聖節イヴの晩には、鎧戸をきっちり閉めたりしない・・・そうして、夜中になるとこっそり窓を開けて、おもてを覗いてみるんだ。
そういうときには、やっぱり子供の時分のどきどきする感覚が、戻ってくるよ。
でも、もちろん暗やみの中に、もう何も見えやしない・・・それはたぶん、私が大人になってしまったからだろうな。
ケフィンの言ってたとおりだ・・・大人になってしまうと、向こう側の者たちを見るのは難しくなるんだ。
けれども、彼らが通ってゆくのは感じるのだ・・・そう言って老人はしずかに微笑んだ。
・・・五フィート先とて見えない、霧に包まれた暗やみの中を、何か人でも羊でもないものが通り過ぎてゆくのを、・・・人間には聞こえない声で、何か叫んだり笑ったり飛び跳ねたりしながら窓の外を通ってゆく気配を感じるのだ・・・そういうときには思うんだ、ああ、連中が通ってゆくな。・・・昔と変わらずにあの丘の向こうからあらわれて、斜面を下ってゆくのだな、と。・・・
あれからケフィンの姿は見てないが、もう淋しいとは感じない・・・昼間、こうして戸口に立って、あの丘の陵線を眺めると、あの向こうに奴がいるんだな、連中といっしょに楽しく暮らしているんだな、と思うんだ。
ほんのすぐそばじゃないか・・・ケフィンの言ってた通りだ。この谷は、向こうの世界との境界にいちばん近い場所なんだ。・・・
そして、私には彼らの姿を見ることはできないが、ケフィンには私の姿が見える・・・いつでもどうしているか、知っていてくれる。
そう思うと、ちっとも淋しくないのさ。・・・
ケフィンのこと、わしらの子供時代のこと。・・・
年をとると過去の中に生きるようになるって話だがね。
それはきっと、私がこちらの世界でなすべきことを大体果たし終えて、未来のことであんまり煩わされないようになったからだと思う。
環がひとまわりして、もとへ戻ったんだ。
・・・もう墓場に片足つっこんでるようなもんだからな、ハッハッハ。・・・
悪くない人生だったよ!・・・
だが、もう一度繰り返そうという気はないね。・・・
人は死んだら天国へ行く、と彼らは言う。
・・・オーライ、天国も素敵なところみたいだね。
・・・私は思うんだが、天国は雲の上にあるんだから、そこからはこっちの世界と向こうの世界と、両方いっぺんに見下ろすことができるんじゃないかな。
結局、どちらの側にも捨てがたい魅力があるからね。
・・・そして、もし神様がわしらの頃のあのカペル・キュリグの司祭のように心のひろいお方だったら、たぶん、私がときどき向こう側へ、ケフィンに会いに行くのを許してくださるんじゃないかと思うんだ。
・・・けれども、もしそうじゃなかったら・・・Well, 私はむしろケフィンといっしょになることの方を選ぶね。
だってそうじゃないか、そっちの方がよっぽど楽しそうだ・・・もしも天国がそんなにも窮屈で、つまらない場所だったとしたら。・・・

* *
2. 妖精フィールドガイド
この谷へ戻るまえ、アイルランドで手に入れた本のひとつに<妖精フィールドガイド>というのがあった。
章ごとにそれぞれの妖精の種族について、その習性や外見や、どの地方のどんな場所に多く生息しているか、こまごまと詳しくまとめられてあった。
じっさいに見たり、彼らと関わった人々の報告もたくさん載せられて、民俗資料的な面白さもある。
そのなかの多くは、もちろん、小さい頃に読んだ民話集やなにか、どこかしらですでに知っているものだった。
金銀財宝を地中に隠しもっているレプラコーンや、トロルにゴブリン、人の死を予告するバンシイ・・・
それに<取り替え子> changeling というのもあった。
妖精たちが子供を産んだときに、その子供に何かぐあいのわるいところがあったりすると、彼らは人間たちの炉端のところへやってきて、母親が目を離したすきに、ゆりかごに寝ている人間の赤ん坊とこっそり取り替えてしまう。
そうして取り替えられた赤ん坊というのは、たいていどこか普通でないところがあって、ひどく醜かったり、声がしわがれていたり、奇妙に色んなことを知ってたりして、気味悪がられる。
<取り替え子>を見分けて我が子を奪い返す方法としては、卵の殻の酒をつくるというのが、おとぎ話のなかでは有名なところだ。
<取り替え子>が成長したとしても、大人になるまで生きつづけることはまれで、たいてい十になるかならないかくらいのうちに死んでしまう。
けれども、結局のところ彼らは妖精であるから、死んでも天国へは行かず、妖精の国のまた別の生へと移ってゆくだけなのだ。
それで、葬られてしばらくしてからその棺を開けてみると、そこには死体の代わりに何か木片の端きれか、焼け焦げた杭か何かが転がっているばかりだという。・・・
また、こんなことも書いてあった。
万聖節イヴ(ハロウィーン)の晩には、野外で眠ってはいけない。
妖精たちに魂をさらわれてしまう恐れがある。
じっさいに魂をさらわれて、ふぬけのようになってしまった人の話も書いてあった。
その人は、それから一年とたたぬうちに死んでしまった。
その本は、アイルランドを発つときにほかの荷物といっしょに船便でくにへ送ってしまった。
けれども、この谷へ戻ってきたとき、その印象はまだいきいきと頭に残っていた。
3. 万聖節イヴの日のできごと

それは十月の終わりのことで、万聖節は近づいていた・・・こんな辺境の地に暮らしていると、中世の恐怖はすぐそばにあった。
そのころ私はじっさい、週日のあいだはイーサフの納屋に寝起きし、週末になると追い出されてテントを張るという暮らしを送っていたから、もし万聖節イヴが週末にかかったら、その晩を戸外で過ごさなくてはならない可能性が充分にあったわけだ。
それで私は少し心配していた・・・ 私はきちんとした暦をもっていなかったので、今日が何日か、はっきり分からずに過ごしていたのだ。
それまでは、それで別段困りもしなかった・・・ 町や村にいれば、たいてい誰かが教えてくれたし、そもそも今日が何月の何日であろうが、旅の身にたいした違いはなかった。
だが、こと万聖節イヴの晩となると話がちがってくる。
その朝、それはおだやかな曇り空の、風もなく、気持ちのよい朝だった。
だが、日曜だったので、料理部屋はほかの滞在客に占領されて、のんびり卵を料理できるような状態ではなかった。
そこで、テントから這い出すと、そのままフットパスを抜けて、オグウェン湖のほうへぶらぶら、散歩に出かけてしまった。
湖のこちら側からイドワルの白いコテッジが、二つの山を背にしてたっているさまが、すばらしく絵になる。
ゆっくり自分の足で歩きながら、それをもういちど眺めたかったのだ。
バンゴールで倒れたあと、久しく静養して、以来はじめての遠出といってよかった。
先週までは、一マイル先にすぎないエーハフへの道なかばで力尽きて引き返さねばならなかった。
それが、この日は苦もなく歩きとおすことができた。
それだけでも、そのときの私にとっては、たいへんな回復といってよかった。
常ならまずないことなのだが、体力が戻っていなかったので、荷を軽くするために水を持っていかなかった。
歩くうちに喉が渇いてきた。
エーハフの井戸から飲ませてもらおうか。
だが、エーハフの人びとにあったら説明しなくてはならない、ちょっとした事情があって、それが面倒だったので、結局寄らずに素通りしてしまった。
フットパスは、わずかに差しそめた朝日を受けて切りたつトロヴァーンの前でぐるりと流れに沿って街道へ出る。
そこからはまだ人通りもないしずかな道を、湖のおもてをのぞみながら歩いた。・・・
<憶いの岩>のところで例によって足をとめ、岩山のてっぺんまで登ってしばらくのあいだ腰を下ろした。
・・・そのころはまだ、そういう名で呼んではいなかったけれども。・・・
イドワルまで、倒れずにたどり着けたのは奇蹟だった。
二マイル半、歩きとおせたのだ!・・・
人間の回復力には感嘆すべきものがある。・・・
一日の運動量としては、充分だ。帰りはバスをつかまえて帰ろう。
ちょうどイドワルの前が停車場になっていた。
私は十時のバスを待って時間を過ごした。
夏のあいだコーヒーやコーニッシュペストリーを売っていた売店は鎧戸を閉めてしまい、閑散としていた。
いくらか登山客の姿はあった。
裏手のイドワル湖や、トロヴァーンをめあてにやってきた人々だ。・・・
十時をすぎてしばらくたち、不安になってきた。
バスが来ないのだ。
病み上がりの身でまた二マイル半、歩いて帰らなくてはならないのだろうか?・・・ しかも結局イドワルでも水を飲めずに、水分不足の状態で?・・・
けれども仕方ない、ゆっくりゆっくり、歩いて帰った。
その頃には日も高く昇り、まともに顔に射してまぶしかった。
結局五マイル、水なしで歩きとおしてしまった・・・
その日は残り一日、できるだけ体を動かさずにテントの中でおとなしく過ごした。
そのせいか、恐れていた症状もなくてすんだ。
夕方にはテントをたたんで、人のいなくなった納屋に戻った。
晩には時間をかけて野菜のシチューをつくった。・・・
まあ、そんなわけで幸いにも、万聖節イヴの晩を戸外で過ごさずにすんだわけだ。
・・・とはいっても、じっさいには、この物語に出てくるケフィンのように、妖精たちといっしょに丘の向こう側へ行ってみたらどうだろうという気持ちも少しあった。
この谷のように、精霊たちの力を近しく感じられる場所というのは私にとってかくも貴重だったのだ。
かくも文明に踏み荒らされてしまったこの世界にあって。
4. 向こう側へ

妖精に魂をさらわれることが、この世における死を意味していたとしても、私が恐れていたのは死そのものではなかった。
私が恐れていたのは途上の死、つまり、それによって今生の生が完結したひとつの環となるよりも前の死であり、私が彼らから受けた使命を果たせないで終わってしまうことだった。
私はそのときまでに、アイルランドやウェールズの地霊たちからたくさんの物語を、人々に伝えるべく手渡されていて、それはこの生において果たされるべきつとめだった。
もし私がここで魂をさらわれて<向こう側>へ行ってしまったとしたら、そこでの暮らしも悪くはないかもしれないかもしれないが、たぶんもういちどこちら側へ戻ってきて、人間の言葉でこれらの事柄をきちんと書き上げるのは難しくなるだろう。・・・
あのときもそうだった、そう、この谷へ途中で力尽きて倒れたときも。
・・・死ぬことじたいがいやなのではなかった。
じっさい、どちらかといえば、たまたま生を享けたにすぎない自分の生まれ故郷で死ぬよりも、彼らが呼んでくれたこの国で死ぬことの方を私は選んだだろう・・・
それでもなお、私には、まだ書き記さなくてはならない事柄があったから。
・・・そのゆえに、あそこで終わってしまうわけにはいかなかった・・・それがただひとつの理由だった・・・
ただ、じっさいのところはどうだったか分からない。
・・・つまり、ほんとうにあの日が万聖節イヴだったのかどうか。・・・
イドワルからフットパスを抜けて戻る途中、なぜか街道をゆくバスの姿を見た覚えがあるのだ。
どうして今頃来ているのだろう・・・と、そのときはふしぎに思ったのだった。
たぶん自分の時計が狂っていたのだろうと考えるしかなかった。
だが、今になってみると、十一月で夏時間から切り換わって一時間ずれるのだから、あの日がすでに十一月のあたま、万聖節だったのかもしれない。
とすると、ちょうどイヴの晩を、私は戸外で過ごしたことになる。
もしかすると、私はその晩、知らぬまにさらわれて<向こう側>へ行っていたのかもしれない。
まともな暦を持たずに旅することには、こういう危険がある。
こうした自分の愚かさ、無鉄砲さを考えるにつけ、我ながら呆れ返るばかりだ。
それでもなお。
あのような日々を、人はめったに持てるものではない。
それは文明の枠組みから離れ、野生動物のように自由で純粋な・・・そう、まさに精霊たちのように自由で純粋な、かがやける生のあり方だった。
あれらの日々の心のあり方は、同胞の人間たちよりもむしろ彼らの方に近かっただろう。
恐らくそのゆえに、彼らの語ってくれる物語を受け取りやすい状態でもあったのだろう。
5. いにしえの力の前に

この物語のクライマックスを書き記していた晩・・・それはあのがらんとした、イーサフの大きい方の納屋でのことだった・・・
老人の声はよどみなく穏やかに私の内にひびきつづけて、私はただ、口述筆記をする書記のように、その言葉を次々と紙の上に置いてゆくだけでよかった。
この土地で享けた物語のすべてがそうであるように、楽々と、すいすいと、少しもつかえることなくそれはやってきた。
私は白熱の感動のうちに己れを没し去り、石壁の外では風あらしがごうごうと吠えたけっていた。・・・
私はその晩、ずいぶん遅くまで書きつづけた、途中でペンを置けなかった。・・・
そしてこの物語の印象で頭をいっぱいにしたまま、そのままの精神状態で眠りについてしまった。
それはかなり危険なことだと分かってはいながら・・・
夢の中で、もはや語ることと生きることのあいだに区別はなかった。
私は語り手の老人の若き日にあった、私は若い兵士だった。・・・
私は地肌に沿って吹きつける吹雪に顔を打たれながら、暗やみのなか、冷たさのなか、半ば目を閉じ、半ば手探りで、しゃにむに丘を這いのぼっていった。・・・
凍える寒さが全身に滲みとおり、ほとんど感覚がなくなっていた、私は力が尽きかけるのを感じ、言い知れぬ絶望に襲われて、さいごの力を振り絞って叫んだ・・・ケフィン! ケフィン!・・・
そう叫ぶ自分の声で、私は目を覚ましたのだった。
目を見開いてなおもしばらく、私は幻視のうちに、吹きつける吹雪の白いすじを暗やみのなかに見た。・・・
そのとき、私は生まれてはじめて金縛りにあった。
全身が、頭のてっぺんからつま先まで、痺れたようになって動けなかった。
・・・これが金縛りというやつか。・・・
私は暗やみのなかでひとり横たわっていた、あれは危険な真似だったと、すぐに思い返しながら・・・
その瞬間、私は裸で、何ももたず、かつてトロヴァーンをつくったと同じ、いにしえの巨大な力の前に立っていた。・・・
怖ろしかったが、それは病的な恐怖ではなかった。
それはアイルランドの<白い雌牛の島>で私が出会ったのと同じものであり、いつか自分がそれに殺されることが分かっている相手であった。
だが、鍵が鍵穴のためにつくられるのと同じように、私はこのために生まれてきたのだ。
ゆえに、このために死ぬのでなかったら、私の死は意味を持たないであろう。・・・
私は目を見開いて、しずかに横たわっていた。
・・・やがて、ゆっくりと体がほどけてゆき、手足を動かせるようになった。
・・・私が成し遂げようとして戦いつづけているこれらの事柄は、こうして自分より大きな力のもとからやってくるので、その力によって私はそれらを成し遂げることができるだろう・・・そういう力強い、しずかな平安がやってきて私を包みこんだ。・・・
私は立ち上がって灯りをつけ、やかんの残り湯でお茶をわかした。
そうして少しのあいだ座って、風のひびきに耳を傾けた。・・・
それからまた寝台に戻って、夢ひとつ見ない眠りに落ちていった。・・・
6. 結び

自分の魂が属する場所をあとにするというのは、悲しいよりも先にまず、何ともいえず奇妙な感じがする。
違和感・・・ ここを出て、どこかへ行く理由なんてないのに。・・・なぜ私は発とうとしているのか?・・・
いや、分かっている。
旅の日程もあるし、査証の問題もあるし、体力的な限界もある。
そんなことは分かっている。それでもなお。・・・
今晩はバンゴールに泊まって、明日はロンドンだ。
もちろん分かっている。
・・・分かっていても、それでもなお。・・・
自分の属するものからもぎ離されていく感じ。・・・
列車の窓を流れすぎる海岸の景色、田園風景、実感のないままに雨の流れ下るように、流れ下る涙、・・・
それでも実感が湧かない・・・
いや。・・・
知っていた、この旅はまだ終わらないと。
まだこの旅は終わらない、私がすっかり書き上げるまでは。・・・
私が託されたこれらの物語を、ひとつの書物にまとめ上げるまでは。・・・
あとはこの瞳に刻みつけた風景の記憶と、ノートとスケッチと写真のフィルムと・・・
それらがこの仕事を仕上げるための素材となるだろう。・・・
かの地で得たあふれんばかりの印象をすべて、やってきた物語とともに織り上げてひとつの錦となし、すべて書きあげてまとめるまで、私の旅は終わらない。
いま私は去ってゆくけれども、私の心はまだあの谷にあって、こののちもながくとどまるだろう。
だからそれほど悲しむことはないのだ・・・
窓の外の景色がやたらとにじむのは、駅のこの独特の旅情とこの汽笛のひびきとのなせるわざにすぎない・・・
私の魂はなおもこの谷にとどまって、この谷に生きる、それまでのあいだ。・・・
どんなに遠く離れても。・・・
どれほどの時を経ても。・・・

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