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Posted by つくばちゃんねるブログ at

2010年06月17日

サングラスをかけたライオン

   サングラスをかけたライオン by中島 迂生 Ussay Nakajima



 その女の子は、たしかにまだそんなに大きくなかった。八つにはなっていなかっただろう。名前は、トザエモと言った。つまり、ほんとうの名前はトザエモレンスカなのだけれど、みんなは、縮めてトザエモと呼んでいた。
 私は今でもありありと思い出す--あの子がたった一人で住んでいた、沼のほとりの大きな気持ちよい家の佇まいを。それは切り倒した丸太を組んで建てられた家で、その木肌はすみずみまでていねいに鉋をかけられ、その色あいも年経るごとに落ち着いて、家の中にはいつだって、かぐわしい木の香りが満ちていた。

 夏のはじめのその朝のこと、トザエモは例によって、鳥たちの鳴き交わす時間に目を覚ました--つる草や動物のもようを彫りつけた、お気に入りのベッドの上で。最高に、気持ちのいい朝だ。トザエモはベッドからとびおりると、寝室の窓をいっぱいに開け放った。涼しい風が、森の香りをのせて流れこんでくる。
 トザエモは引き出しを開けて木のくしを取り出し、窓枠に腰かけてゆっくりと髪をすいた。トザエモの髪は、一夏のうちでいちばん大きく実ったオレンジのような、輝くようなオレンジ色をしている。一つかみ持ちあげてくしを通すと、朝の風を含んでぱらぱらと肩に落ちる。そんなことを心ゆくまで何度もくり返して楽しんでから、トザエモは床にとびおり、はしごを伝って一階におりて、それから外へ出ていった。急に、水浴びがしたくなったのだった。

 ところが、外に出ようとして、トザエモは、扉の外側に一枚の紙が鋲でとめられているのを見つけた。それが、事件の発端だったのだ。彼女は、しばらくその紙を見つめてから、
「こんなことをするのは、母さん以外に考えられないな」
とつぶやいた。貼り紙には、こうあった。

 地下室を入ってすぐの左側にあるたんす、上から二番目の引き出し

「これはかなり重要なことかもしれないよ」
と、トザエモは独り言を言った。
「ひょっとして、象十頭分くらい重要なことかも。何たって、あたしの母さんときたら、あたしが二才のときに家出したっきり、今の今まで何の音沙汰もないんだもんね。--それにしても、このことば、一体どういう意味だろう」
 トザエモは、考えに沈みながら茂みの間を歩いていった。
 家のまわりには深い森が続き、すぐ横手には浅い沼地があって、霧に包まれた茶色い水がなめらかに広がっている。そして、足もとには、昔父さんがつくった小さな桟橋がある。ここから、いつだって好きなときにドブンととびこんでひと泳ぎできるように。

 沼地の向こうでは、大きな灰色のアルヌマーニクがのんびりと木の葉をほおばっている。トザエモは魚のように泳ぎまわって、ときどきアルヌマーニクに向かってしぶきをはねちらかしたりする、けれど、アルヌマーニクは全然気にしない。
 水から上がると、トザエモは鋭く口笛をならしてアルヌマーニクを呼ぶ。すると、アルヌマーニクはめんどうくさそうに、若枝を鼻で折り取ってむしゃむしゃやりながら茂みの中から出てくる。
「母さんが、貼り紙をおいていったんだけど。あんた、この意味分かる?」
 トザエモは、その紙を扉からはがしてひらひらさせて見せた。けれど、アルヌマーニクには分からなかった。
「誰かに聞けば、分かるかもしれないわね。よし、それじゃ、行こう」
 トザエモが横腹を軽く叩くと、アルヌマーニクはできるだけ身を屈めて主人がよじ登りやすいようにする。トザエモはその背骨のいちばん高いところにまたがって、細い素足をぶらぶらさせる。

 アルヌマーニクは、父さんからの贈り物だった。むかし父さんが、群れの仲間とはぐれて森をさまよっていた、その頃はほんの赤ちゃん象だったアルヌマーニクを見つけてきて、それをトザエモにプレゼントしてくれたのだ。
 朝、風はまだ涼しい。空はちょうど鳩の翼の色、沼地の灌木が静かにそよいでいる。幾つかの鳥影が水面すれすれに渡ってゆく。
 アルヌマーニクは浅い沼地をゆっくりと進んでいった。けれど、本当はやわらかい泥の中に寝そべりたいのを我慢している。
 つい二、三日前、アルヌマーニクはひとりで出歩いて、肩に傷をつけて帰ってきた。何の傷なのか、トザエモには分からない。かなり痛そうだ。けれど、小さなトザエモには、冷たい水で洗って古布をあてがってやることくらいしかできない。

 沼地を越えて少し行ったところに、ミス・ラフレシアの家はある。草深い庭に埋もれて、まるで何かの動物を思わせる。ミス・ラフレシアは家中にありとあらゆる珍しい植物の鉢を並べていて、朝から晩までその世話にかけずりまわっている。
 トザエモは家の前に着くとアルヌマーニクの背から飛び降り、からみあった草を踏み越えて、丸太を組んだ階段をかけのぼった。そして大声で、
「ミス・ラフレシア!」
と叫んだ。窓が開き、緑色の髪を垂らした丸顔がのぞく。
「そんなに大声出さなくたって聞こえるよ。うるさい子だね」
 ミス・ラフレシアは頭の上に小さな赤紫色の花を咲かせていた。彼女が言うには、それは学名をプランテシオース・何とかという珍しい花で、寒さと乾燥に特別弱いので、人の頭の上でなければ育てることができないそうだ。
 貼り紙の話を聞くと、おばさんは真剣な顔つきになった。
「それは確かに重大なことだわね。それでお前さん、地下室を探してみた?」
「いいえ、まだなの。誰かと一緒の方が心強いでしょう。アルヌマーニクじゃ入れないし。ミス・ラフレシア、来てくれない?」
「あたしゃ、だめだよ」
と、ミス・ラフレシアは断った。
「何しろ、あたしの子供たちの世話をするのに忙しくて(彼女は自分の鉢植えをそう呼んでいた)、一時も家から離れられないんだからね。足指亭にでも行ってみることさね」
「うん、そうするわ」
と言って、トザエモはアルヌマーニクのところへ駆け戻る。
「でも、お忘れでないよ、」
と、後ろからミス・ラフレシアが呼びかける。
「あんたのお母さんがいつだってあんたのことを心配してるってことをね。例え、今どこにいるか分からないとしてもさ」
「分かってるわ」
と、トザエモは答える。

 ミス・ラフレシアの家を後にしてずっと進んでいくと、やがて森が少しずつ開けてくる。あちこちに、丸太で建てた家が何軒かずつかたまっている。このあたりが、ビッテムロシュナだ。開拓者たちの安息の地。かつて大いなる希望と夢を抱いてこの地にやって来た開拓者たちの末裔と、あたり前の暮らしを捨てた流れ者たちとが、住みついている。そう、今しもちらほら人の姿が見え、喋ったり、馬の世話をしたり、柵によりかかって空模様を眺めたりしている。あるいは畑に出ているものもある。多くの人は家のそばに小さな菜園を持っていて、そこでとうもろこしだの豆だのを作っているのだ。
 村の中央には噴水があって、そのまわりを巨大なパイナップルの缶詰みたいな黄色い輪が、絶えず形を変えながらぐるぐるまわっている。それは奇術師カデンツァがビッテムロシュナを訪れたときの記念の品で、この辺では一つの伝説になっている--固形リンと油絵具と液体カルシウムと、奇術師の偉大な想像力とでできている。それは夏には速く、冬にはゆっくりとまわり、夜になるとぼうっと光って道行く者を照らすのだった。

 その程近くに、虹の足指亭はある。ビッテムロシュナ唯一の食堂兼酒場で、ひまな連中のたまり場であり、休息と音楽の場だ。外側の壁に、人の背くらいもあるはだしの足あとが極彩色のペンキでいくつも描きなぐってあって、それが店の名の由来だった。そのすきまには小さなひまわりの花だとか歌の文句なんかがいっぱいはねまわっている。
 扉には、木製のサラダサーバーだったナイフとフォークがぶっちがいに打ちつけてあって、そこを開けて中に入ると、中は暗くて、がらんとしている。人の姿はあるが、みんなほとんど喋らずに、テーブルに肘をついたり開け放した窓の枠にもたれてジョッキを傾けたりしている。すみの方では誰かが静かにギターをつまびいている。

 トザエモが入ってきたのを見て、幾人かが「おはよう」と声をかける。トザエモは、
「夜警とのんべえはいつ会ってもおはよう!」
とまぜっかえし、ぴょんとはずみをつけてカウンター席に腰掛ける。それから奥に向かって、
「フルーツ・ジュースをちょうだい!」
とどなった。すると、奥のすだれが跳ね上がって、海賊みたいに頭にバンダナを巻いた男が出てくる。
「おっ、こんな時間にくるなんて珍しいじゃないか。一体何が起こったね?」
「母さんが、貼り紙をおいていったの」
「五年前に家出したって言う母ちゃんが」
「そうよ」
 白髪の女主人がジュースを持ってきて口をはさむ。
「何がどうしたって?」
「トザエモの母ちゃんが連絡をよこしたらしいぜ」
と、海賊が答える。これが親子なのだ。
 女主人はトザエモから事の次第を聞かされたが、どう考えていいか分からなかったので、「おやおや、そうかい」と言って首を振った。
 トザエモは身をのばしてかごの中から果物を一つ取ると、窓のところへ行ってそれを差し出した。すぐにしわくちゃの鼻が伸びてきて器用にそれを受け取った。

「あなたのお母さん、今どこにいるのかしらね」
と、痩せぎすのレンカが話しかけてきた。レンカは、トザエモがもっと小さかった頃、よくお話を作って聞かせてくれたひとだ。トザエモは肩をすくめた。
「分かんない」
「そう」と引き取って、レンカは微笑んだ。
「私にはお話をしてあげることしかできないけど、まあ、お聞きなさいな。今、ちょうど思い出したお話があるわ」
 彼女は脚をくみ直し、煙草の先に火をつけて、話しはじめた。

「まだほんの小さい頃、母親を大統領に殺されたライオンがいたんだって。大統領は家来と一緒に狩りに来て、お母さんライオンを殺したのよ。そのライオンは三週間の間泣き通して、それから心に誓ったんだって。自分はきっと母親の分まで生き続けて、成功してお金持ちになって、人から尊敬される人物になってやろう。そして、あの大統領を裁判にかけてやろうって。それから彼は、涙のあとが見えないように黒いサングラスをかけて、広い世間へ出ていったの。
 やがてライオンは銀行家として成功し、国じゅうで大統領の次にお金持ちになったんだって。
 ところが、いざ訴訟を起こす段になって、裁判所へ行く道の途中で、当の大統領が馬に乗り、家来を引き連れて来るのに出会ってしまったの。ライオンの胸に、幼き日の怒りと絶望とがむらむらとこみあげてきた。ふと気がついたら、ライオンは日頃の礼節も忘れ、うなり声とともに大統領めがけて飛びかかっていたの。でも、大統領の方が速かった。第六感で、何か感づいていたのね。一瞬先に銃を取り、ライオンに向かって発砲した。バーン! それで、何もかも終わってしまったの。
 幸い命は免れたものの、それ以来ライオンは気が狂ってしまって、地位も名誉も捨ててひとり淋しく荒野をさまよってるっていうはなしよ」

 部屋の隅で、誰かが鼻を鳴らした。
「ふん、ライオンの銀行家か」
と、そいつは馬鹿にしたように言った。
「いるんなら会ってみたいもんだね」
「あんた誰だい?--あんまり見かけない顔だが」
 海賊が、たった今その男に気づいたというふうに、訝しげに尋ねた。
「俺かい? なに、別に名乗るほどの者でもないさ。そうさな、どうしても名前が必要なら、旅がらすとでも呼んでくれよ」
 男は帽子を取って指でくるくる回した。黒髪に、日にやけた赤銅色の肌をしている。
 トザエモは彼を横目で見て、「とにかく、」と断言した。
「あたしの母さんはまだ死んでやしないわ。それにあたしだって、銀行家になる予定なんかないし」
「あんたのことじゃないんだから」
 と、女主人が注意した。
「へんに深読みしなさんなよ」

 部屋のもう一方の端で歌が始まった。誰かが歌い、ギター弾きのツインギーがそれに合わせている。ちらほら手拍子が混じり、その場がちょっと活気づいた。
「君も歌えよ」
 海賊がトザエモに声をかける。彼女はちょっと自慢できるくらい、歌がうまいのだ。ここへ来る者はみんな、彼女の歌を聞きたがった。その声には独特の響きがあったし、その調子や微妙な間の取り方なんかもすごく魅力的だった。持って生まれた才能だろう。
 女主人が古めかしいアコーディオンを持ち出してきて、トザエモの歌が始まった。その声は楽器と溶け合い、荒削りの木の床に差す陽光と溶け合って部屋を満たしていく。みんなは盛り上がって、拍手喝采し、それが終わるとまたがやがや喋りだした。
「それにしても、あの大統領が狩り気違いだってのは確からしいね」
と、誰かが言った。
「何でも、ついこないだもお屋敷からわざわざこの辺りまで遠征しにきたってはなしじゃないか」
「へえ、知らないね」
 海賊が眉をひそめた。
「そうともさ。栗色の純血種にまたがって、金ボタンつきの上着を着込んで、ぴかぴか光る鉄砲をかついでさ。珍しい動物がいたとくりゃ、手当たり次第にバン! バン! ていうわけさ」
「どうしようもない人間だよ」
 女主人が怒って言った。
「よく来るの? この近くにも?」
 トザエモが尋ねると、彼はうなずいた。
「たぶんね。今頃またこの辺に来てるかも知れん」
 みんなはちょっとの間口をつぐんだ。トザエモはアルヌマーニクの肩の傷のことを考えていた。いつだったか、彼が出歩いていた霧深い夜、遠くで銃撃のような音を聞いたのではなかったか? ・・・

 だしぬけに入り口の扉が勢いよく開いて、だれもがぎくりとして飛び上がった。けれども入ってきたのは鉄砲を持った大統領なんかではなくて、気の良さそうな背の高い若者だった。
「ああ、びっくりした」
 海賊が言った。
「たった今、こわい大統領の話をしていたところなんだ」
「へえ、そいつは興味深いな」
と、その若者はのんびりと言って、くわえていた空のパイプを口から離した。
「ぼくは私立探偵なんだ」
「おや、ちょうどいいじゃないか」
 女主人が言った。
「トザエモ、あんたの件を依頼したらどう?」
「なに、さっそく事件?」
 若者はくるっと目を回して、トザエモの方へ面白そうな目を向けた。トザエモは批判的な目つきで、若者をじろじろ観察した。二人の目が合った。トザエモはちょっと首をかしげた。それから、おもむろに貼り紙を取り出して若者に渡すと、これこれしかじかと説明しはじめた。
「ふうむ、なるほど」
 若者はパイプの先を噛みながら熱心に聞いていたが、だんだんその目が輝いてきた。
「一つ尋ねるがね。君のお母さん、どういうわけでこんなに幼い娘をおいて家出しちまったんだい?」
「あたしにもよく分かんないの」
 トザエモは肩をすくめて、女主人の方を見た。
「あなたは知らない?」
「そうさね、ずいぶん昔のことだからね」
 女主人は目を細めて記憶をたぐった。
「あの頃は私らももうちょっと若かったね。あんたはほんの赤ちゃんだったし--あんたのお母さんは、働き者のきれいな人だったっけ。確か、その頃には父さんももういなかっただろう。だから、私らはよくあんたたちのところへ食事を届けたりなんかして、色々と世話を焼いたもんだよ。そうそう、大風であんたんとこの家畜小屋の屋根が飛ばされちまって、みんなで直しにいったときのことを覚えてるよ。そんなこんなで、まあ、たいして苦しい生活じゃなかったと思うがね・・・」
「でも、母さん、きっと何かのことで苦しんでいたんだわ--そうに違いないわ」
 トザエモがふいに言った。
「普段は馬のように強くて、すごく陽気な人だったのに。ときどき、夜中に一人で泣いてたことがあったのよ」
「何だって! そんな小さい頃のことを覚えてるのかい?」
「覚えてるわ。かわいそうだから、気づかないふりをしてたけど。ええ、忘れようったってできないわ。母さんが家出したとき、あたしに一緒に来るかどうかって聞いたの。あたしここが好きだったから行かないって答えたわ。母さん、それじゃがんばってねって」
「興味深いな、実に興味深い」
 私立探偵は考え込むように言った。
「君はぼくの最初の依頼人なんだ。しかし、きっとうまくやってみせるよ」
「へえ!」
 海賊が呆れて呟いた。
「あんた、一体いつから探偵やってるのさ?」
「さっき、やぶの間を歩いていたときからさ。ここはいいねえ。何もかも自然のままだし、うるさいこと聞くやつもいないし。だが、そんなことは関係ないと。--依頼人に質問する」
 私立探偵はにわかに職業的口調になって言った。
「これは大切な点なんだが、君はなぜ貼り紙をお母さんが書いたと断言できるんだね?」
「分かるものは分かるのよ。あたし、母さんの娘だもの」
「やれやれ、それじゃ証拠にならないよ。事件の解決に当たっては--よろしい、それを書いたのはお母さんだと仮定しよう。するとだな、本人は今どこにいるのかが問題になってくる。貼り紙が前の日になかったというのは確かだね?」
「そうよ」
「ふむ。ほんの一晩のうちに(あるいは明け方かもしれないが)扉にそれを張りつけることのできる距離--となると、必然的に、君んちのかなり近くということになるな」
「そんなこと、絶対にないわ!」
と、トザエモは異議を唱えた。
「家出した人が家のそばで暮らすと思う? 第一、もし近くにいるんなら見かけるはずじゃない。それが、今までに母さんの影ぼうし一つ見ないんだから」
「ぼくが言うことにいちいち逆らわないでくれ。頭がごちゃごちゃになるじゃないか」
 私立探偵がいらいらして声を荒らげた。
「誰のことだと思ってるのよ!」
 トザエモは黙るどころか、逆に腹を立ててどなった。
「あたしの母さんなんだから。他人に命令される筋合いはないわ!」
「おいおい、つまらん口げんかはよせよ」
 海賊がうんざりして言った。
「ビッテムロシュナに歌と休息以外のものがあっちゃいかん。いやしくも大地と向き合って暮らしてきた偉大な開拓者たちの・・・」
「偉大な開拓者たちが、あたしの母さんと何の関係があるっていうの?」
と、トザエモはぶつぶつ言った。
 私立探偵は空咳を一つした。
「よし、では--よろしい。--大いによろしい。それは後に回すとして--次なる点は、だ。貼り紙それ自体について、この伝言が何を意味しているのかを知る必要がある。それには、まず地下室の入り口の左側にあるたんす、これを調査することだ」
「そうとも、そうとも」
 女主人があいづちを打った。
「あんたたち、それを始めにしなきゃいけないよ--ほんとに、そうすべきだよ」
「もっとも、この言葉がもっと深い意味を持っているってことも考えられるな。何かの暗号とか・・・」
「ばか言ってら。あんた、推理小説を読みすぎて、頭がおかしくなっちまったんだ。ここはビッテムロシュナだぜ、ニューヨークの殺人街じゃないんだ。親が七歳の娘に秘密文書のありかを暗号で書き残すなんてことがあるもんか」
「まあ、とにかく行ってみよう。トザエモ君、といったね・・・君の家まで案内してくれないかい?」
 トザエモは苦い顔になった。
「ほんとに来るつもりなの? 別に構わないけど・・・あんたみたいのと一緒に地下室を探すことになるなんて、全く考えもしなかったわ」
 それでも彼女は、すっかりぬるくなったジュースを飲み干すと椅子から飛び下りた。
「一つお尋ねするがね」
 それまで黙っていた、赤銅色の肌をしたさっきの旅がらすが、突然後ろから声をかけた。
「あんたの母さんて、ちょうどあんたみたいなオレンジ色の髪をしていたのかい?」
 トザエモはちょっとびっくりして振り向くと、彼の顔をじっと見て、「そうよ」と答えた。

 既に日は高く昇り、大地は熱気と強烈な日差しに包まれていた。トザエモは口笛をならしてアルヌマーニクを呼んだ。
「ひゃっ、何だい! 君は、象を飼っているのか?」
 アルヌマーニクがのっそりやって来るのを見ると、私立探偵は肝をつぶした。
 トザエモは憐れむような顔つきで彼の方を見て、
「アルヌマーニクよ」
と言った。それから、
「あたしの相棒なの」
と付け加えた。私立探偵は、てっきりアルヌマーニクというのはオウムか何かだと思っていた、とか何とか、口の中でぶつぶつ言った。
 それから、彼らは黙りこくって森の中を進んでいった。
「君、こんな森の奥に、たった一人で住んでるのかい?」
と、しばらくして、私立探偵が言った。
「淋しくない?」
「一人じゃないわ。アルヌマーニクがいるもの」
と、トザエモは答えた。
「あんた、さっきから質問ばかりしてるのね。自分は一体、どこから来たのさ?」
「どこから来たって!」
 私立探偵はとたんに不機嫌になって、言い捨てた。
「およそ思いつく中で、いちばんひどいところからさ。あんなとこの話は、もう二度としないでくれ!」
 それから、彼らは再び黙って歩き続けた。沼岸に来ると、私立探偵が言った。
「何だい、橋もないのか! 靴がぬれちまうじゃないか」
「靴なんか、必要ないわ。捨てちゃいなさいよ」
と、トザエモは親切に助言したが、私立探偵はそれを脱ぐと、捨てないで、片方ずつ灌木の枝にぶらさげた。

 うちに着くと、トザエモは私立探偵を後ろに従えて、こわごわ地下室へ下りていった。
「うわっ、クモの巣がいっぱい張ってるよ・・・気をつけて」
 二人して渾身の力を込めてうんうん言いながら押すと、重たい扉はギイッと音をたててようやく開いた。地下室の中は真っ暗で、埃とかびの匂いが鼻を突く。
「入って左っ側にたんすがあるはずなんだけど・・・何しろここへ来たのは、ずっと前、かくれんぼをしたとき以来だから・・・」
 トザエモはどうやら、埃に埋もれた小さい藤だんすを見つけることができた。
 引き出しの中を探ってみたが、色んなものがごちゃごちゃ入っていて訳が分からない。仕方がないから引き出しごと抜き取って、ひとまず地上へ戻ることにした。
 陽の光のまぶしさに顔をしかめながら検証にかかる。
 ぜんまいの部品。栓抜き。麻ひもの束。ドライバー。きれいな絵のついた紅茶の缶から。・・・一個ずつ確かめながら草の上に放り出していく。
 そのうちにトザエモは、何か中身の詰まった丸い缶を発見する。固いふたを苦労して開けてみると、中には黄色いどろっとしたものがいっぱい入っている。用心深く匂いを嗅いでみて、「あっ、これは軟膏だ」と彼女は気づく。薬草のツンと来る匂い。そう、これに違いない。

「これは一体、どういう意味だい?」
 私立探偵は、それを見ると、当惑して言った。けれど、トザエモの目には、今やすべてが全く明瞭だった。
「これ、アルヌマーニクにつけてやれってことよ!」
と言うなり、ぱっと立ち上がって外へとびだしていった。
「さて、事態がこみ入ってきたぞ」
 私立探偵は独り言を言って考えこんだ。
「あの象がけがをしたことを、あの子の母親が知っていた--ということは、何を意味するのだろう?」
 けれども、結論に至ることができなかったので、彼はあきらめて、とりあえず手に入る資料をあたってみることにした。

 トザエモが戻ってみると、私立探偵は本棚から中のものを手当たり次第にひっぱり出しているところだった。
「ひとのうちのものを勝手に散らかさないでよ!」
と、トザエモが文句をつけると、私立探偵は弁解した。
「証拠物件を調査しているんだよ。何か手がかりが見つかるかもしれないと思ってさ」
 トザエモは黙って本棚を眺めていたが、つと進み出て、一冊の本を手に取った。<シャーロック・ホームズ全集1 緋色の研究>とあった。
「今まで全然気をつけて見たことなかったけど、こんな本あったのね。きっと父さんが読んでたんだわ」
「君のお父さんはどうしてるんだい?」
と、私立探偵が尋ねた。
「父さんも家出したの。私が生まれてすぐくらい、だから顔は覚えてないけど。母さんが言うには、孤独と自由を愛する人だったんだって。結婚して次の春を迎えるともう我慢できなくなって、つばめのあとを追っかけて飛び出していってしまったんだって」
「なるほど」
「この本を読んだら、父さんや母さんが今どうしてるか、分かると思う?」
 私立探偵はうなずいた。
「もしかしたらね」
「じゃ、そうしてみるわ」
 トザエモはそう言うと、<緋色の研究>を抱えて二階へ昇っていった。床にあぐらをかいてすわり、声を出して熱心に読み始めたが、正直なところ、難しくて何の話なのやら、さっぱり分からなかった。
 アフガン戦線。ロンドンの大学だか、研究室だかで、変な実験をやって喜んでいる男の話。
 こんなのが、今の自分の問題と一体どんな関係があるんだろう? こんなのをがんばって読んでみたところで、本当に何か分かるんだろうか?

 夕方近く、巣に帰る鳥たちの声が聞こえる頃になって、おもてで、
「トザエモ!」
と呼ぶ声がした。急いで下りていくと、戸口にミス・ラフレシアが立っていた。
「取り込んでるだろうと思って、夕飯を作ってきたよ」
と言って、ほうろうびきの小鍋をトザエモの手に押しつけた。
「わあ、ありがとう。でもおばさん、忙しいんじゃなかったの?」
「忙しいとも。だからさっさと帰らせてもらうよ」
 ミス・ラフレシアが手を振って、帰りかけると、
「コナン・ドイルって知ってる?」
と、トザエモが唐突に尋ねた。
「コナン何だって?」
「シャーロック・ホームズを書いた人よ。絶対、読んでみるといいわ」
 ミス・ラフレシアは面食らって、首をふりふり、口の中で何かつぶやいた。それから、頭に咲かせた花を揺らしながら、スカートをつまんで沼をじゃぶじゃぶ渡って帰っていった。
 トザエモが家に入って、
「となりのおばさんが夕飯を持ってきてくれたんだけど、いらない?」
と尋ねると、私立探偵は、
「今、熱中しててそれどころじゃないんだ」
と言って断った。
 トザエモは小鍋にじかにさじをつっこんで、ひきわり小麦のお粥を少し食べ、台所に行って、ベーコンの塊から一切れ切り取って食べた。それからまた二階へ戻ると、<緋色の研究>の続きに読みふけった。
 日が暮れるとまた階下に降りていって、私立探偵に、今晩自分の家に泊まるかどうか尋ねた。
「いや、足指亭に泊めてもらうよ。ありがとう」
と、私立探偵は答えた。
「それより、ごらんよ。君のお母さんが書いた日記を見つけたんだ。このかちっとした文体といい、文字の大きさといい、貼り紙の字にそっくりじゃないか。これで、確かにあれを書いたのはお母さんだということを証明できる」
「そんなこと、前から言ってるじゃないの。私は見た瞬間に分かったわ。何たって、私のお母さんなんですもの」

 彼が「参考資料」として例の貼り紙と、本棚で見つけた二、三冊の書物を携え、送っていくという申し出を断って、月明かりの沼地を渡って帰ってしまってから、トザエモはランプにあかりを灯した。そして、発見された埃だらけの日記帳を手に取り、つくづくと眺めた。「19××年8月16日-」とだけ、表紙には書かれていた。
「プライバシーは尊重しなくちゃいけないからな。僕は一ページめの最初のところを少し見ただけだ」
と私立探偵は言っていた。
「これを読めば、事の真相がすっかり分かるはずね」
とトザエモは思った。
「でも、やっぱりプライバシーは守ってあげなきゃ。読みたいけど、謎がすっかり解けるまで、我慢するわ」
 トザエモは、日記帳を本棚に大切に戻した。それからランプを下げて二階に昇ってゆき、<緋色の研究>を読み続けた。ロンドンで起こった殺人事件。ホームズの調査と推理、ショパンのバイオリン・ソロについての話。ページの余白に、らんぼうな走り書きで、「ショパンがバイオリンだなんて、そんなばかな!」とあるのを見て、トザエモはどきどきした。父さんの字だ。トザエモのほとんど知らない父さんの姿を、彼女はその文字ごしに想像してみようとした。ショパンて何だろう? 楽器の名前かな?
 ずいぶん遅くなってからようやくベッドに入ったが、しばらく眠れなかった。色んな場面が次々に頭に浮かんだ。<緋色の研究>を読んでいる父さん。そのわきで、一心に日記帳に何かを書きつけている母さん。異境の地をさすらっている父さん。トザエモの寝ている間にそっとドアに貼り紙している母さん。それから、いつの日か母さんとめぐり会う場面まで。・・・
 彼女の記憶の中では、母さんはいつもその見事なオレンジ色の髪をよく梳いて、後ろにまっすぐ伸ばしていた。日光を受けるとそれは美しく輝いて、見とれてしまうくらいだった。笑うととてもすてきな顔になった。トザエモの髪も母さん譲りのオレンジだが、あれほどすばらしくはない。
 トザエモは夜中に起き上がって、窓から濃い色をした夜空を眺めた。遠くで夜の鳥たちがうるさく鳴き交わしていた。密林がざわめいていた。時折、何かのうなり声が低く伝わってきた。
「あのライオンかもしれない。涙のあとが見えないようにサングラスをかけてたっていう・・・」
と思った。
 ぞくっと身震いを覚えて、トザエモは思わず身をのり出し、相棒がいつもの場所で寝ているかどうかを確かめた。相棒はちゃんとそこで寝ていた。大きな岩山みたいにうずくまって、弓なりに伸びた牙だけが闇に浮き出ていた。
 トザエモは安心して再びベッドにもぐりこんだ。しばらく落ちつかなげに寝返りを打っていたが、やがて浅い眠りに落ちた。

 翌朝、トザエモは私立探偵に会うために再び足指亭に向かった。けれど、その前にちょっと寄り道して、土手の洞穴に住んでいるマーレーのところに寄った。
 マーレーは女薬剤師だ。一体いくつくらいになるのか、想像もつかないほど年をとっている。洞穴の壁をくりぬいた棚には、ありとあらゆる種類の薬のびん、干した薬草、木の皮なんかがぎっしり詰まっている。
 トザエモは、あの軟膏がここで調合されたものかどうか知りたいと思ったのだ。それはすごい効き目だった。傷は傷には違いなかったが、痛々しく裂けた肉のところは一晩でほとんどくっついていた。
 マーレーは、トザエモの持ってきた軟膏をよくよく調べて言った。
「主な原料は、銀色パイプの草の根っこ、レポミアの葉、その辺だね。色々入っているが、あたしのところでこんなのを作った覚えはないねえ」
 トザエモはちょっとがっかりして、マーレーのところを後にした。

 足指亭には、今日もひまな連中が集まって、談笑したり一杯やったりしている。そんな中で、私立探偵はひとり離れて座り、何か一心に考え事をしているようすだった。
「何ぼんやりしているのよ。パイプでもなくしたの?」
 目の前でトザエモに元気よくどなられて、私立探偵はやっと我に返った。かと思うと、いきなり、
「すまないが、君の象くんをちょっと見せてくれないか」
と言い出した。
「探偵やめて、動物学者でも始めたの?」
 トザエモが冷やかすと、私立探偵は首を振った。
「重大なことなんだ。ひょっとしたら、貴重な手がかりが得られるかもしれない」
 私立探偵はアルヌマーニクの傷をよくよく調べてから、唐突にチョッキのポケットから鋭いナイフを取り出した。そしてそれをブランデーでさっと一ふきすると、トザエモがとめる間もなく、閉じかけた傷口に突き立てた。
 そのとたん、アルヌマーニクは壊れたラッパみたいな、とてつもない悲鳴を上げた。
「よしよし、すぐ終わるからな。ちょっと待ってろよ・・・そら!」
 私立探偵はなだめつつ、傷口の奥の方から何かをかき出した。黒い、かたいかけらのようなものだった。彼はそれを手のひらに乗せて、トザエモに見せた。
「何だか分かるかい?」
 トザエモは戸惑いながら首を振った。
「鉄砲のたまだよ! もうちょっとしていたら、中に入り込んで取れなくなるところだった」
 私立探偵はすっかり興奮していた。
「アルヌマーニクは・・・鉄砲で撃たれたの?」
 トザエモが恐る恐る聞くと、私立探偵はまじめな顔でうなずいた。
「これで分かってきたぞ。考えてみろよ、君が今までに知っている人のうちで、鉄砲を持ってる奴と言ったら誰だ? それに、最近この辺りに狩りをしに来たのは?」
「大統領・・・ね?」
「そうとも。それがたった今確証された一つの点だ。それに、もう一つある」
 私立探偵は、ポケットから例の貼り紙をひっぱり出した。
「きのうの晩、これを詳しく調べたんだ。この紙をよく見てごらん。非常に薄くて、なめらかだろう。普通の店では、こんな紙は売っていない。決定的な証拠は、これだ」
 私立探偵は、紙を陽にかざした。下の右はじに、ある形がくっきりと浮き出て見えた--四つの翼を持ったトーテム・ポール。
「これが何だか、知ってるだろ?」
 トザエモはうなずいた。これこそは誉れある国家の紋章だった。
「この紋章を使うことを許されているのは、国じゅうでたったの二人だけだ。つまり、王様と大統領だ。以上の二つのことから、何が言えるか?」
 私立探偵は、トザエモの顔をじっと見ながら続けた。
「君のお母さんは、大統領と何らかの関係があるに違いない、ということだ。だからこそ大統領が君の象を撃ったのを知ることができたし、その対処の仕方を君に知らせるのに、--自分で意識していたかどうかはともかく--手近にあった、国家の紋章入りの上質紙を使うことができたんだ。・・・とすると、お母さんが近くにいるという当初の見解は、間違っていたことになるぞ。何しろ、大統領の家は、遠くだからな」
 私立探偵は考えに沈んだ。

 トザエモの頭に、とびぬけてりっぱなお屋敷が立ち並ぶ大きな通りの景色が浮かんできた。そこが、大統領の住む町だ。
 その町のことは、うわさに聞いて知っていた。ここから東へ向かってずっと行ったところに深い谷間が口を開けていて、そこから先は密林また密林、道なき道を三日三晩も歩き続けて、ようやくそれがとぎれたところに、あの名高い都が始まっているのだった。トザエモの想像の中で、大統領の家は青と緑の瀬戸物でできていて、窓枠とベランダの手すりには金がかぶせてあった。・・・そんな人と、母さん、何の関係があるんだろう?
「聞き込み調査をしたら、何か分かるかもしれないな」
と、私立探偵は言った。
「明日また来てくれよ。何事も時間をかけることが大切だからね」

 足指亭を出たあと、トザエモはゲシー老人のところにぶらっと寄った。彼はヤシの葉でふいた小さな小屋に住んでいる。トザエモが行くと、彼は例の貼り紙の話を知っていた。不思議なことじゃない。この辺りは朝から晩まで暑くって誰も働く気がしないから、うわさ話ばかりしているのだ。
「何だかよく分からなくなっちゃった」
と、膝を抱えて座り込みながら、トザエモはぼやいた。
「本当に母さんのこと、知りたいんだかどうか」
「お前さん、それでもお母さんのいどころが分かったら、どうするね?」
と、ゲシー老人は尋ねた。
「もちろん、連れ戻しに行くわ」
「なぜだね?」
「なぜって・・・あんまり、無責任じゃない。子供を放ったらかして、勝手気ままな暮らしをしているなんてさ。ふつう、家出したら、後悔して帰ってくるもんなのにさ。そうでしょ?」
「勝手気ままか--なるほどな。勝手気ままか」
 ゲシーは口の中でつぶやき、長いすの上で目を閉じる。
 そう言われると、確信がゆらいでくる。何とはなしに、自分がまちがっているような気がしてくる。一体、母さんが本当に勝手気ままに暮らしてきたってほんとうだろうか。実は、トザエモが勝手にそう思い込んできただけだとしたら?
 実際には、帰るに帰れなくて大変な苦労をしているのだとしたら? 母さんが勝手だと思ってきたから、トザエモは自分も好きなように暮らしてきた。けれど、--もしそうじゃないとしたら?

 カデンツァの噴水に立ち寄ると、先客が来ていた。
 やせて背の高い旅人がひとり、腰をおろして休んでいる。
 よそ人がこの辺に立ち寄ったり流れついたりするのは珍しいことじゃないから、トザエモも慣れたものだ。近くまで行って、しげしげと観察する。傍らに、ぼろ布で縛って中身がとびださないようにしてある、年季の入った絵の具箱。
「絵を描くの?」
と、トザエモは聞いてみた。
 旅人は、そこではじめてトザエモの方へ目をやって、返事したものかどうか迷っているふうだった。が、やっと答えた。
「ああ、--昔はな」
「今は、描かないの?」
「描けなくなったんだ」
「どうして、描けなくなったの?」
と聞くと、彼はちょっと首をかしげて、
「言っても、分からんよ。苦労を知らない子供には」
と言った。
「あたしが苦労を知らないって、どうして分かるの」
 トザエモは気を悪くして、言い返した。
「あたし、父さんも母さんも家出しちゃって、ずっとこいつと二人きりで暮らしてるのよ」
と言って、アルヌマーニクの足を軽くたたいた。
 旅人は、それを聞いてちょっと考えていたが、
「でも、やっぱり、分からんよ」
と言った。
「そんなら、もう絵も描けないくせに、どうしてその絵の具を捨ててしまわないの?」
と、腹を立てて、トザエモが言うと、旅人は、肩をすくめて黙りこくってしまい、それ以上、もう何を言っても返事しようとしなかった。

「さて、私はこれからどうしたもんだろうな」
 トザエモはアルヌマーニクの背の上に戻ると、独り言を言った。するとアルヌマーニクは、訴えるように高々と鼻を上げてみせた。
「よしよし、分かったよ。今日はいろいろと、疲れたよね。うちへ帰ってひと眠りすることにしよう」
 二人はそれから家に帰ると、夕方までぐっすり眠った。
 けれど、トザエモは月の出るころに起き出して、何か一口つまむものを探しに台所へ降りてゆき、それからまた例の<緋色の研究>を読み進めるのだった。
 相変わらず難しくてよく分からなかったが、一つだけ、トザエモの目を引いたところがあった。
「人生という無色の糸かせには、殺人という真っ赤な糸がまざって巻きこまれている。それを解きほぐして分離し、端から端まで一インチ刻みに明るみへさらけ出してみせるのが、我々の任務なんだ」
「なるほど、これがキーワードなんだな」
と、トザエモは考えた。
「キーワードって、だいたいいつも、本筋とは関係のないところにあるんだ。人生の中にまざって巻きこまれた赤い糸・・・とすると、あたしが抱えている謎のキーワードって、何だろう?」

 さらにいくつかのナイチンゲールのささやく夜と、いくつかの太陽の照りつける昼とがやってきた。
 謎の解明は遅々として進まず、足指亭の私立探偵はひたすら聞き込み調査と沈思黙考とに明け暮れていた。
 大地は光をあび、雨を吸いこんで、果てしもなく成長と衰退とをくり返す。みんなは歌をうたい、ジョッキをかたむけ、それぞれ、心のままに生きている。
 一つの、さらにもう一つの情報が入った。トザエモによく似たオレンジ色の髪の女性が、あの日の朝早く村に入るのを見かけたというのと、もう一つは最近この辺にやってきた旅人から聞いたことで、都にある大統領のお屋敷の庭で、やはりオレンジ色の髪の女が彼の猟犬の世話をしているのを見かけたというものだった。総合的に考えて、それが両方ともトザエモの母さんであることはほぼまちがいない。しかし、彼女がなぜ、よりによって大統領の召し使いなんかになったのが、それは依然として謎のままだった。

 一人でもやもやを抱え込んでいるのに嫌気がさすと、トザエモはかんかん日の照りつける中を、てくてく足指亭まで歩いていった。足指亭の午後は、まるで時間が止まったように、ひっそりと静かだ。青い木陰の中にいるようで、暗く、涼しく、気持ちいい。外があんまりまぶしいので、急に入っていくと、目が暗がりに慣れるまでにしばらくかかる。
 ドアを乱暴にバタンと閉めて、トザエモは不機嫌なようすでカウンターの上に両ひじをつき、組んだ腕の上にあごをのせた。
「おや、トザエモ。元気だったかい?」
 白髪の女主人がやってきて、トザエモの前に果物のジュースを置く。トザエモはそれには答えず、カウンターの奥の棚をにらんだまま、
「わーけわかんない」
と言った。
 返事がないのでますます頭にきて、それでもようやく頭を上げて女主人の方へ顔を向けると、再び、
「わーけわかんない」
と言った。
「何が?」
「何もかも。ぜんぶ」
 女主人は鍋つかみで鍋をつかみ、奥へ運んでいった。
「そうかい」
と、戻ってきながら言った。
「何でそう、何もかもわけがわかっていないと気がすまないのかね?」
「だって、今までずっと、何だってちゃんと分かってたもん」
「おやおや、そうなのかい」
 女主人は、壁の釘からふきんを外しながら言った。
「そりゃあ、大変だね」
 トザエモは目の前に置かれたジュースのきれいな色をながめ、汗をかきはじめたグラスの表面にてのひらをあてて、その冷たい感触を楽しんだ。結局のところ、それはいつもの居心地よい足指亭だった。ただ、この胸のもやもやさえ何とかなってくれたら!
 そうやってしばらくくさっていて、トザエモはまた、一人でとぼとぼ歩いて帰った。
 途中でちょっと立ちどまって、道の上に落ちた、まっ黒なやせっぽっちの影を眺めた。ためしに両腕を水平に持ち上げてみると、小さな影も同じようにした。
 それから手旗信号みたいに、二本の腕を色んな向きに動かしてみた。次には両脚をだんだんに開いていって、限界までいき、さいごにぴょんと一跳びしてもとの姿勢に戻った。
 そのとたん、道の向こうからだれかが、
「よう!」
と声をかけてきた。
 まぶしさに顔をしかめながらよくよく見ると、浅黒い人影が手を振っている。いつか足指亭で居合わせた、あの見慣れない旅がらすだった。
 彼は少々不躾に思えるほど、ひとなつこく笑いかけた。
「よう、母ちゃん、見つかったか?」
 トザエモはふくれっ面をして、答えなかった。
「そのうち、見つけるさ。大丈夫、心配ない」
「何であんたにそんなこと言えるの?」
 旅がらすは、ただ笑って、黙っていた。
 他人なんて、大して助けにならないな、と、トザエモは考えた。

 その間、トザエモの心にひっかかっていたもう一つ別の問題があった。あの日、レンカが聞かせてくれたライオンの話だ。自分とは何の関係もないはずなのに、何でこんなにひっかかるのだろう。トザエモは自分でもふしぎだった。でもきっと、何かがあるんだ、何かが。
 あるときなにげなくアルヌマーニクを眺めていて、トザエモははっと気がついた。アルヌマーニクは銃で撃たれたが、トザエモはその傷を治す薬を持っていた。だとすれば、同じ銃で撃たれたあのライオンを、その同じ薬で治してやることはできないだろうか。
 それはまた、ずいぶん無謀な思いつきだった。危険で、そのうえ雲をつかむようなはなしだった。だいたい、あのライオンが撃たれたのがどれだけ前のことなのか、今もまだ生きているのかどうか、生きているとすればどこにいるのかも、分からないのだ。
 けれど、トザエモには、奇妙な確信があった。あいつが、きっとあそこにいるにちがいないという。傷を負って気の狂ったライオンが、いかにも身を隠していそうな場所を、あたしは知ってる。ここからずっと西の方、とげのある草しか生えないあの砂漠。あそここそ、まさに荒野だ--いるとすれば、きっとあそこだ。
 母さんはあのライオンのことを知っていたのかな、と、トザエモは考えた。
 うん、きっと知ってた。知らなかったはずがない。国じゅうで大統領の次に金持ちだなんて、そうそういるもんじゃない。
 ふと思った。母さんも、ひょっとしてそれを望んでいたんじゃないだろうか。自分があの薬で、アルヌマーニクだけじゃなく、あのライオンの傷をも治してやることを。もちろん、口に出しては言わなかっただろうけど。もし彼女が自分からやると言ったとしても、きっと危ないからと止めただろうけど。でも、心の底では。
「いいえ、母さん、あたしやってみせるわ」
 トザエモは、ひとり呟いた。勇気と誇りが、胸にわきあがってくるのを感じた。この計画は、決して誰にも言うまいと、トザエモは心に決めた。私立探偵にも、ほかのみんなにも。みんな、心配してやめさせようとするもの。これは一人ですべきことだ。そう、アルヌマーニクさえ連れてゆくまい。だれをも危険に巻きこむわけにはいかない。

 翌朝早く起きて、トザエモは出発した。裂いた布と軟膏の缶と、水を詰めたびんとを持って。茂みをかき分けてゆくと、服は露にぬれた。ビッテムロシュナとはすっかり反対の方角で、行くあてもないから、道もない。道なき道を強引に進んでゆくうち、たちまち、顔も腕も枝のひっかき傷だらけになる。
 砂漠に着いたのは、真昼近くだった。黄色い砂の表面は燃えるように熱い。あざみや、タンポポのお化けみたいな異様な植物が、そこらじゅうに根を張っている。砂に埋もれているのは、動物の骨や、引き裂かれた旗や、宇宙船の残骸なんかだ。暑くてたまらなかった。からからの空気が、かくそばから汗を奪ってゆくので、塩分だけ残された皮膚はひりひりと痛い。
 空にはぜんぜん、雲がない。こんな荒れ果てた風景で、こんなに空が青いと、なんだか、どうしようもなく恐ろしくなってくる。こんな遠くまで来たのははじめてだった。いや、距離的な問題じゃない。この地に息づくあらゆる感覚が、これまで慣れ親しんできた世界から、遠くかけ離れているのだ。
 トザエモは、ライオンの姿を求めて灼けつく砂漠を二時間近く、むなしく歩き回った。それから疲れ果て、何とか自分を覆ってくれそうな小さな陰を見つけると、ごつごつした岩の間にくずおれるようにしゃがみこんだ。水はとっくに底をつき、のどはからからで、はりつくようだった。
「でも、せっかくここまで来たことが、おろかな気まぐれだったなんて考えないよ」
と、トザエモは考えた。
「昼間はあんまり暑いから、どこかで寝ているのかもしれないし。それにしたって、ひとがせっかく来たのに、出迎えようともしないなんて、失礼な奴だよ」

 そのときだった、背後のとげとげしたやぶが、突然かきわけられたのは。
 トザエモははじかれたように立ち上がって、ふり向いた。
 金色のたてがみに囲まれた、恐ろしい顔があった。荒い鼻息が、すぐそばで聞こえる。トザエモは、どくどく波打つ自分の心臓の鼓動を聞いた。
 ライオンは、ゆっくりとやぶの間から出てきて、その全身を現した。見上げるばかりの、実に巨大なライオンだった。しかし、その昔はりっぱであっただろう毛皮も、ぼろ毛布か何かのようにすりきれ、その体は、あばら骨がはっきり見分けられるほどにやせ衰えていた。そしてその右の胸にはどす黒い血のかたまりが、見おとしようもなく、べっとりとこびりついていた。
 トザエモは一瞬圧倒されてしまったが、すぐに気をとり直して姿勢を正し、ライオンの目をまっすぐに見つめて、話しかけた。
「やっぱり、ここにいたんだね」
 ライオンの目には、何の表情も宿っていない。
「・・・あんたのために、薬を持ってきてあげたんだよ--母さんが教えてくれた薬を」
 太陽が、二人の上にじりじりと照りつけた。トザエモは相手の答えを待ったが、やはり、何の反応もない。
「これをぬれば、ぜったい楽になるんだよ。アルヌマーニクで証明ずみなんだから」
と、トザエモは続けた。
「もし、じっとしてるって約束するなら、あたしが塗ってあげる。いい? 分かったね?」
 トザエモは、一歩ライオンに近づいた。
 ライオンが、のどの奥で低くうなった。
 トザエモはちょっと立ちどまり、それからなおも二歩、三歩近づいた。
 だしぬけに恐ろしいうなり声があがったかと思うと、ライオンの体が跳躍した。とびのいた瞬間、トザエモの左のももに、鋭い痛みが走っていた。
 地に降り立ったライオンは、向きを変えて彼女をふり返ると、その凶暴な牙を剥き出しにした。
 しかし、今やはるかに怒り狂っているのはトザエモの方だった。
「このばか! 大ばかもの!」
と、トザエモはライオンに向かってどなった。
「お前は自分から命の見込みを捨てたんだぞ! それが、分からないのか? そこまで何もかも奪われて、悔しいと思わないのか?」
 ライオンは彼女の剣幕に一瞬ひるんだが、ちょっとの間、前足をひっこめると、やがて頭を下げ、第二の攻撃の態勢に入った。

 と、そのとき、二人の耳に、何かの振動しているような、かすかなブーンという音がひびいてきたのだ。ライオンは体をこわばらせ、耳をぴくつかせた。トザエモも音のする方へ目をやった。
 音はどんどん近づいてきた。やがて遠くに、一台の深緑色のジープが姿を現した。
「人間がやってくる」
 トザエモは呟いた。そしてライオンの方を見ると、彼は落ちつかないようすで、その炎の房のふいたむちのようなしっぽをふり回していた。しばらくの間そうしていたが、やがてゆっくり、やぶの方へ歩み退いた。
「お前、逃げるのか?」
 そのことばを無視して、ライオンは岩山をかけのぼり、とげだらけのやぶの間に姿を消してしまった。
 トザエモの胸に、再び怒りが、むらむらとこみあげてきた。怒りと、それから言いようのない悔しさとが。
「この大ばかもの! 勝手にしろ!」
 トザエモは声を限りに叫び、それから地面に座りこんで、激しく泣き出した。甲高いブレーキとともに、ジープがそばにとまったのも気づかずに。
 ドアがバコンと開いて、シャツの袖をまくったひげもじゃの男が飛びおりてきた。
「俺の目の錯覚じゃなけりゃ、今ここを登っていったのはライオン--しかも、恐ろしくばかでかいライオンだったんじゃ--」
 男は言いながら近づいてきて、急にぎょっとして立ちどまった。
「おい、お前さん、大丈夫か? ひでえ、大けがだ」
 言われてはじめて、トザエモは、自分の足のつけ根から、だらだら血が流れているのに気がついた。流れた血が、足もとの砂地に黒くしみこんでいた。
 それからあとのことは、ぼんやりとしか、覚えていない。
 男がトザエモを抱えあげようとして、彼女の持っていた荷物に気づき、
「何だお前さん、救急用具をちゃんと一式、自分で持ってるじゃないか。いったい何しに、こんな砂漠のど真ん中に・・・」
と、がみがみ言いながら、裂いた布をひったくって傷口にぎゅうぎゅう巻きはじめた。トザエモはそれを聞いて、ズキッと胸が痛んだ。
「ちがうの・・・」
 言いかけたが、ことばが出てこなくて、ただ激しく泣きじゃくるばかりだった。男は勘ちがいして、
「よしよし、分かった、泣くんじゃない。すぐ医者を呼んでやるからな」
と、なだめながら、トザエモを運んでいって、ジープの後ろの座席に横たえた。
 それからものすごいスピードで発車させながら、
「家はどこだ?」
と、どなった。
「ビッテムロシュナの近く・・・ずっと東の、沼地のそば・・・」
 やっとそれだけ言うと、トザエモはぐっと息を詰めた。今ごろになって、激しい痛みが襲ってきたのだ。

 大ゆれにゆられて、人々のざわめきやあわただしい物音を夢うつつに聞き、気がついたら、自分のうちのベッドの上だった。知った顔が、まわりをとり囲んでいる。さっきの男、私立探偵、ミス・ラフレシア、それから足指亭の常連たち。
 トザエモが目を開けると、安堵のため息が、みんなの口からもれた。
「さあ、どいたどいた」
と、声がして、白衣を着こんだはげ頭の医者が近づいてきた。
「こっちは忙しいんだからな。たった一人のために、丸一日割いているわけにはいかん」
 医者はトザエモのようすをちらっと見ると、
「脱水症状を起こしている。すぐに水を与えなさい」
と命じ、それから、傷口に巻かれた布をすばやく解いて、アルコールで消毒した。とびあがるほどの痛みにトザエモが耐えている間に、彼は例の軟膏を手に取り、ちょっと中身を吟味すると、何食わぬ顔でそれを傷口にすりこんだ。ふっと痛みがやわらいでゆくのに、トザエモはびっくりだ。医者はその上から新しい布を巻きつけると、
「当分の間、安静にしてなきゃいかん。命には別状ない。わしはもう来ないからな」
と言い残し、救急箱のふたをしめ、助手を従えてさっさと帰っていった。

 トザエモはもちろん、どうしてこんなことになったのか、みんなに説明しなければならなかった。そして当然のことながら、さんざんの非難をあび、口々に説教される次第となった。ただ、私立探偵だけは何も言わないで、すみの方で一人、悲しそうな顔をしていた。
 トザエモをうちまで送り届けてくれた男は、みんながひきとめたのを断って、再びジープに乗りこんで行ってしまった。何でも、月に一度、要るものを調達しに、遠く離れた店まで出掛けていく途中だったということだった。
「暗くなるまでに着かないと、まずいんだ。道が分からなくなるから」
「ほんとに、どうもありがとう。あなたが通りかかってくれて、全く幸いでした」
と、トザエモが言うと、彼は、
「うん、俺もほんとに、そう思うよ」
と言って、同意した。
 みんなが帰ってから、トザエモは、ちょっと自信を失くして考えた。自分がしたことは、そんなに途方もなくばかげたことだったのかな? けれど、考えても分からないので、そのうちめんどうくさくなって、やめてしまった。
「どっちにしろ、お前だけは認めてくれるでしょ? あたしが例え目的を遂げられなかったにしても、ともかくやるだけはやったってことを・・・」
と、トザエモは、アルヌマーニクに言った。
「それにしても、近所の人たちって、ときによってはうるさく思えることもあるのよね」

 それからずいぶん長いこと、トザエモは、ベッドの上でじっとしていなければならなかった。何もすることがないので、しばらく放っておいた<緋色の研究>を、再び読みはじめた。
 読み進むペースはごくゆっくりだったけれど、それでも、ロンドンが舞台の第一部はもう読み終えていた。ここまでで、犯人は捕まって、事件は一応の解決を見ている。だけど、状況は、あまりにも不可解すぎた。要するに、これが今現在の状況だった。もっと深いところを理解するためには、第二部へ進んでゆかなければならない。トザエモは居ずまいを正して、第二部のページを開いた。
 ここへ来て、舞台はいきなりユタの砂漠にとび、さっきとは全然関係ない話が始まった。砂漠の真ん中で迷い、飢えと渇きとで死にかけた老人と小さな娘は、約束の地を求めて旅する一群の人々に助けられ、彼らと行動を共にする。数々の苦難を経て、ついにたどりついた約束の地。そこで二人は幸せな生活を送り、娘は美しく成長して、恋人もできる。しかし、やがて約束の地に息づくこの組織の恐るべき内幕が明らかになる--暗黙の掟と圧力、密かに行われる異端者の抹殺。娘と他の若者との結婚を強制されるに及んで、老人と娘とその恋人とは、ついにこの地からの脱出を図る・・・。
 こうして、物語はだんだんに、現実に近づいてきていた。ロンドンは母さんや大統領のいるところで、トザエモはまだ行ったことがないが、この砂漠なら知っている。ここにはあそこのイメージが忠実に再現されている。見捨てられ打ち捨てられた、なおかつ奇妙な情熱を帯びたあのイメージが。

 一日じゅううちにいると、知り合いがひっきりなしに訪ねてくる。道々花をつんできて、トザエモの具合をたずね、自分の状況についてしゃべり、じゃあがんばれよと言って帰っていく。
 はじめのうちは、まだよかった。そのうち部屋じゅうが花でいっぱいになって、身動きがとれなくなった。こっちも、何度となく同じことを言わされるのが苦痛になってきた。そこでうんざりして、もう来ないでくれと頼むと、みんなは戸口のところまでだけやって来て、やっぱり、花をどっさり置いていく。トザエモはいじらしく思い、悪いことしたな、と考える。かと
言って、いちいち応対してたらきりがないしなあ--みんな、あたしがだいじょうぶだって知ってるなら、放っといてくれればいいのに。
 そこまできて、ふっと思った--家出したときの母さんも、こんな気持ちだったのじゃないかな。みんなの親切が、母さんにしてみれば、かえって苦痛だったのだ。がまんしてがまんして、とうとう家出を決意せざるをえなかったほどに。

 傷の手あてをしてくれた医者は、それからもいくどかやってきて、トザエモのようすを診察した。そして、帰り際にはきまっていつも、ぶすっとした顔で「わしはもう来ないからな」と言って帰っていった。
 ひまになるとよくライオンのことを考えた。かわいそうなあのライオン。あまりにもひどい目にあわされて、良識さえも失ってしまったんだ、あいつは。サングラスは、どこになくしてきたんだろう。涙のあとが、人に分かってしまうじゃないの。--ライオンのサングラス。失われてしまったもの。ライオンのサングラス。--ひょっとして、これがこの事件のキーワードなのかな?
「直接関係ないこと、か」
 もう一度会ってみたい気がした。でもたぶん会えないだろうと思った。

 さらに夜と昼とがめぐってきた。ハンモックの上で陽ざしをあびながら外を眺めるのも、いいかげん、退屈だった。むしょうに出歩きたくてたまらなかった。
 <緋色の研究>も、ほとんど読み終えた。老人が殺され、娘はさらわれる。復讐を誓ったその恋人は、敵を追い続けてアメリカからヨーロッパへ渡り、長い年月を経てついにその敵をロンドンで殺す--。
 何十年も昔の悲劇の結末が、ホームズの遭遇した事件の正体だったのだ。
 トザエモは考えぶかげに読み、さいごの十ページくらいのところで本を閉じた。物語の糸は解けた。ここから先は、自分で考えなければならない。

 その日は、この季節には珍しい雨模様だった。天から降りそそぐ水の粒が沼のおもてに穴を穿ち、何千という木の葉を打ちたたくひそやかな調べが、そこらじゅうをすっかり満たしている。
「とにかく、でかけるって言ったら、でかけるんだから。あんただって、あんまりだらだらしてたら、そのうちひとを乗せることも忘れちゃうよ」
 トザエモはきっぱりと言って、アルヌマーニクの背によじのぼった。治りかけの足を、まだ少し、かばうようにしながらだったけれど。
「・・・それに、あたしだってこうも長いこととじこもってたら、きのこなんか、生えてこないとも限らないし」
 アルヌマーニクは、彼女を背に乗せてゆっくりと森の中へ入っていった。

 久しぶりに見上げる空だった。雲が広がって灰色に垂れこめ、ゆっくりと南の方へ動いていく。顔に落ちる雨のしずくが心地よかった。木の葉はざわめき、白く翻る・・・森のみどりの濃厚な香りが漂っている・・・。
 トザエモは深呼吸して、このかぐわしい空気を全身に吸いこんだ。この大地の生み出した清浄な空気が、わずらいごとをすっかり運び去ってくれるようだった。
「そうだね、あたしは母さんに会いに行こう--ひとりであれこれ考えるより、実際に会って話した方がよっぽどいいよ」
と、トザエモは決意した。
「もいちどいっしょに住んでくれるなら、連れて帰るし、大統領のところにいたいというなら、別にそれでもいいじゃないの。自由がほしいと思ったら、ひとの自由も認めなくちゃね。例え相手が母さんだっても」
 今や、自分の行くべき道がはっきり分かったのだ。手のひらで、アルヌマーニクのかたい皮膚に触れた。その下で脈々と胎動する命を感じた。そしてアルヌマーニクの方もまた、女主人の決意を感じ取ったのだ。
「こんどは、お前もいっしょに行ってくれるね」
 トザエモが言うと、アルヌマーニクはその全身で、力強く答えを返した。

 けれど、いざ出発するとなると、いろいろ準備が必要だった。
「まず、このうちを、すっかり掃除しなきゃ。母さんがいつも言ってた、たつ鳥あとをにごさず、って」
 たしかに、トザエモのうちは、すっかり掃除する必要があった。何といってもトザエモは生まれてこのかた掃除なんかしたためしがないのだし、ことに最近ときたらみんなの持ちこんだ花が枯れてそこらじゅうをうずめていたのだ。全く、このうちをちょっとでもきれいにするものがあると言ったら、壁のすきまから吹きこんでくる雨風くらいなものだった。
 ところが、地下室を探しまわってみて分かったのだが、このうちには、大掃除に必要なものが、ぜんぜん、ないのだ。古ボウキくらいあるかと思ったら、それもない。仕方がないから、家のまわりに生えている棕櫚の葉を切り取ってきて、束ねて枝にしばりつけて自分でホウキをつくった。それでもって、まず二階から一階へごみを掃き落とし、次に一階から地下室へ掃きおとして、さいごに地下室にたまったごみをすっかり掃き集めて、ぜんぶいっしょに外で燃やした。それから粗布を割いてぬらし、壁から床から家具から、みんなきれいに、磨いてまわった。

 すっかり終わるころには、空に星が瞬きはじめていた。トザエモはさすがにくたびれて、木の間に腰を下ろした。雨はやんでいた。
 こんどの旅のことも、みんなに言うわけにはいかなかった。ライオンの一件のあとだ。彼女の出発を、まず許してくれまい。けれど、そんなに心配してくれるのに、黙って出てゆくのも気が引ける。そうだ、あした、足指亭に行こう。久しぶりに顔を見せて、元気になりましたって、みんなに伝えよう。それから彼らの好きな歌を歌ってこよう。
 けれど、あの人にだけは、ほんとうのことを言わないわけにいかない。あの私立探偵には。そこまで考えて、そう言えば最近あの人に会ってないな、と気がついた。考えてみれば、ジープに乗せてもらって帰ってきた、あの日以来だ。たぶん、何か会いたくない理由でもあるのだろう。それでも、発つ日までには、何とか会わなくては。

 夜空にくっきりと浮かびあがったオレンジの木の影が、ゆれていた。たわわに大粒の果実をつけて。オレンジの実のなる季節だった。
 それを眺めていて、トザエモは、ずっと昔のことを思い出した。母さんといっしょに住んでいたとき、よくこのオレンジを煮てジャムにしたことを。陽のあたるテーブルの上にまるいガラス瓶をならべて、きらきら光る透明な金色のジャムを次々に詰めていく。みつばちの、眠たげにブンブンいう音。幸福なひととき、ゆったりとまどろんで流れる時間--。
 そう。今、もいちどあれをつくるべきなんだな。トザエモはひとり考えた。大統領のうちは、ずっとずっと遠くだ。いつ帰ってこられるかも分からない。これまでのお礼に、みんなに一瓶ずつ進呈しよう・・・そうだ、母さんのところへも、一瓶持っていってあげよう。ずいぶん、久しぶりなことだろう。娘のあたしが、一人でジャムを煮られるようになったことを知ったら、きっと喜んでくれるよ。

 その晩、トザエモはしばらくしまいこんでいた<緋色の研究>を出してきて、さいごの十ページを読んだ。そこの場面で、犯人が心臓の病気で死んでしまうのだった。想像もしない結末だった。泣きはらした目をあげたとき、森の上を大きなオレンジ色の月がゆっくりと渡って、西の空へ沈んでいった。
 次の朝、トザエモとアルヌマーニクは、ジャムのためのガラス瓶をどっさり仕入れるために遠出をした。いつだったか、ジープの男が教えてくれた店まで出掛けていったのだ。
 その店の名は、ピムシュクといった。低い灌木の生える荒地の真ん中にぽつんとたっていて、その姿はまるで突き出た岩山か、鼻づらをまっすぐ天へ向けて遠吠えするオオカミみたいだった。
「あのひと、こんなところまで、何を買いにくるんだろ」
 トザエモは意外に思ってひとりごち、中へ入っていく。店の中はほとんど真っ暗で、わずかにひどく凝ったデザインのランプシェードから、ぼんやり、黄色い光がもれていた。よくは分からないが、やたらごたごたとものが置かれている感じだ。

 だいぶちゅうちょしたあげく、とうとうトザエモは大声を出した。
「誰かいませんか?」
 長いこと間があった。それから、だしぬけに頭の上から、
「はいはい、今行きますよ」
という声が降ってきた。
「今行くから、ちょっと待って」
 その声はこだまのように頭の上をぐるぐる回りながら、とっとっと目に見えないらせん階段を小走りにかけおりて、下まで降りてくる。
 すぐそばに置かれていたランプが持ちあがり、深くしわの刻まれた老人の顔をやっと照らし出した。
「ガラス瓶がほしいんです」
と、トザエモは言った。
「ガラス瓶、ガラス瓶と・・・さあ、いろんなのがありますよ。まるいの、四角いの、三角の、六角形、花のかたち、鳥のかたち、動物のかたち、取っ手つきもあります。色も豊富です。七月の夜明けの空の色、アマリリスのつぼみの色、日曜の午後の湖水の色、真夏の夜に見る夢の色。材質も、クリスタル、くもりガラス、ひび入り、透かし模様、網細工・・・」
 大きな棚の中から、美しいガラス瓶が次々に光の中へ取り出された。まるで魔法の手によって、たった今、つくり出されてくるみたいだ。トザエモは目を見開き、息をのんで見つめていたが、ようやく思いきってさえぎった。
「すみません、たしかにみんな、きれいなんですけど、あたしがほしいのは、ごく普通のガラス瓶なんです。ジャムを入れる、コルクのふたのついた、ただのまるい瓶なんです」
 老人の声が、ふっと途切れた。それから、
「おお、これぞ美の究極--もっとも単純なかたちの中にこそ、あらゆる美が集約されている。もちろん、ある。こちらへおいで」
 ランプが再び持ちあがって、動いていく。
 トザエモはそのあとを追いかけていきながら、尋ねた。
「ここ、どうしてこんなに真っ暗なんですか?」
「なぜ真っ暗なのか? 闇の中にすべての光が宿るからだ」
と、老人は答えた。
「何でもそういうものだ。夢の中にこそ真実がある。死に脅かされて命は光り輝く。失ってはじめて、得ることができる。--ところで、わしの方も一つ聞こう」
 老人のランプがちょっと立ち止まった。
「お前さん、前にも一度ここへ来たことがなかったかね?」
「あたしが?」
 ランプがゆっくり後戻りして、その光がトザエモの顔を照らし出した。
「おやおや・・・ふむ、よく似た別人なんだな」
と、老人はひとりごちた。
「お前さんにそっくりな、オレンジ色の髪をした女が、こないだもここへ来おったじゃ」
 トザエモは胸をドキドキさせた。
「それ、あたしの母さんです! たぶん」
「ずいぶん前のことだが。ここへ来て、空虚の穴をふさぐ妄想を、きっちり十ポンド量って買っていった」
「母さんが、妄想なんかを買うわけないわ」
「いや、自分のためじゃないんだ」
と、老人は言った。
「いつもは、別の人間が来るのじゃ。毎月毎月、きちょうめんにやってくる。この危険な妄想を買いに、りっぱな馬具をつけた馬に乗り、上着には四枚の翼を持ったトーテム・ポールを刺しゅうした使者が。お前の母さんは、その代理だったのじゃ」
「ふうん、そうか」
と、トザエモは言った。
 トザエモは二つの大きなかごにうす緑色のジャム瓶をいっぱいつめこみ、それをアルヌマーニクの背中の両側から下げて帰った。

 午後の陽もだいぶ傾いて森にさしかかったところで、向こうからやってくる私立探偵に出会った。私立探偵の方も、ちょうどトザエモのところへ出向いてきたところだった。
 あいかわらず、上から下まで緑づくめで、口の端にパイプをくわえ、ひょろひょろした体を持て余すように歩いていた。そして、トザエモが手を振ると、困ったように笑った。
「一体今までどうしてたのよ。ずいぶん長いことごぶさたしてたわね」
 トザエモが言うと、私立探偵は答えた。
「うん、そうだけど、さいごのところは、やっぱり自分で解決しなきゃいけないのさ--この種の事件の場合はね」
「その通りよ。あたし、解決したわ。あす、出発するの」
「でかした!」
 それを聞いて、私立探偵は顔を輝かせた。
「都へ、母さんに会いに行くわ。それからあの軟膏も持っていって、ばかな大統領の頭につめこんでやるわ。そして、あいつの銃にも」
「ばかだな。奴のことだから、銃なんか山ほど持ってるに違いないぜ」
「あんた、あたしの本当の力を知らないのね」
 トザエモは、頼もしく言って、笑った。
「分かったよ」
と、私立探偵は言った。
「がんばれよ。君の力を信じてるよ」
「ありがとう。あんた、確かにシャーロック・ホームズの素質があるわ」

 うちに着くと、トザエモは納屋から長梯子を持ち出してきてオレンジの木に掛けた。はだしの足の裏で枝の感触を確かめながら器用に登ってゆき、茂った葉の中に輝くその実を、端っぱしからもいでゆく。それが終わるとこんどは大鍋を見つけ出してきて、その前に座りこみ、ナイフで皮をむいてはどんどん放りこんでいった。
 その間、私立探偵は窓に腰かけて陽をあびながら、<緋色の研究>や、本棚で見つけた他の本をぱらぱらめくって読んでいた。
 トザエモがひと休みしに台所へ入っていくと、私立探偵は読みかけの本から目を上げて、言った。
「最近、自分の生まれた町のことを思い出したよ」
「何で急に?」
 トザエモは、彼の方を横目で見やって聞く。
「何でって? まあ、聞いてくれよ。ぼくは、海ぞいの工業地帯にある小さな町で生まれたのさ。ひどいところだったよ、息がつまりそうだった。工場では毎日、きっちり同じ型の部品がどんどんつくられてはベルトコンベアにのって流れていくんだ。君、ベルトコンベアって知ってるかい、どんなものだか? それでもって、通りには高さもはばも同じ四角い家が、どこまでも同じ間隔で立ち並んでいるのさ。町全体に、ガソリンと機械油の匂いがたちこめていた。へいに腰掛けて--こんなふうに--部品の山を眺めていると、うるさい連中がやってきて、うるさいことを言うんだ。労働の義務とか、社会秩序だとかさ。
 そんなのが、本物の暮らしであるわけないだろ? それでぼくは心に誓ったのさ、いつかはここを出ていって、本物の暮らしを手に入れてやるって。ビッテムロシュナのことを聞いたとき、ああ、これだ、と思ったんだ。でも、実際こっちで暮らし始めてみると、全部が全部、思ったようじゃなかったな。こっちに来ても変わらない問題があることにも気づいたし」
 そこで私立探偵がふっと黙りこんでしまったので、トザエモは先をうながした。
「それで?」
「でもさ、ともかくそういうことだって、実際やってみなきゃ知らずじまいだったんだし--それに今だって、だんぜん、ここが好きだな、うん」

 日が暮れるころ、アルヌマーニクの背にジャム瓶のかごをのせ、トザエモと私立探偵は虹の足指亭に向かった。もう遠くから、アコーディオンの音色と笑いさざめく声とが聞こえていた。誰かが先回りして、伝わっていたらしく、トザエモが戸を開けるなり、
「おーい、お出ましだぞ!」
という声があがって、その場が沸いた。
 顔見知りが、ほとんど全員そろっていた。みんなは、トザエモの回復を祝して乾杯し、トザエモの首に花の首飾りをかけた。
 トロピカル・ジュースとパンケーキが回され、ビールを注いだ大ジョッキがぶつかりあう。楽しい晩だった。騒がしいお喋りはいつ果てるともなく続き、トザエモは声が涸れるまで、知っている歌を次々に歌いまくった。おもてには、紺の空に星がきらめき、木の葉をそよがせる風の涼しさはもう、かすかな秋の気配だ。
「この次、ここに来るときには・・・」
と、トザエモは、半ば郷愁にも似た気持ちで思う。

 トザエモと私立探偵は四つ辻のところで別れた。
「明日の夜明けよ。村の入り口で」
と、トザエモが言うと、私立探偵は答える。
「うん、分かった」
「誰にも言わないでね」
「もちろんさ」
 家路につく前に、カデンツァの噴水に寄ってみた。パイナップルの輪はいつものように、明るい光を放ちながら水のまわりをぐるぐる回っている。
 噴水の外側の壁に、強烈な色づかいで動物や風景の絵が描かれているのに気がついた。いつかここで出会った旅人が描いたのだ。彼は再び自分自身を見つけ出したのだった。

 向こうから、ほっそりした黒い人影が近づいてくる。顔は見えなくても背格好で分かる。愛すべき、やせぎすのレンカだ。
「こんばんは」
と、声をかけると、トザエモの方を見て、微笑んだ。
「こんばんは。いいお晩ね」
 少しの間、二人は黙って噴水の水をながめている。時々、レンカのつけている銀色の三日月形の耳飾りが、月あかりにきらりと光る。
「・・・ねえ、」
と、だしぬけに、トザエモは言う。
「覚えてる、いつだったか、サングラスをかけたライオンの話をしてくれたことがあったでしょ? ねえ、もしよ、ほんとにもし、そのライオンがまだ生きていたとして--そして、もし誰かがそいつの傷を治してやれる薬を持っていたとして--そしてある日、実際にそのライオンを探しに行って、治してやろうとしたとしたら。そうしたら、そのライオンは、どうしたと思う?」
 レンカは、ちょっと首をかしげて、考えていた。
「どうかな。素直にそれを受け入れるかしら。分からないわ。あまりにも深い悲しみを経験してしまった者の心には、時として奇妙な自己憐憫の気持ちが育つものよ。それは逆に回復を憎んだり、するかもしれない」
「そうなのかな」
と、トザエモは言い、考えに沈んだ。

 トザエモは家に帰ったが、眠る気にはなれなかった。窓にもたれて、夜明けまでずっと、空の色がゆっくり変わっていくのを眺めていた。旅の支度はもうできていた。
 東の空が白みはじめ、鳥たちがめざめて歌いはじめたころ、トザエモは窓のそばから立ち上がった。それから外へ出ていって、少しばかりぼうっとした頭に、冷たい沼の水を勢いよくぶっかけた。そうしてあざやかなオレンジ色の髪からぽたぽた雫を滴らせながら家の中へ入ってくると、小さな荷物を持って再び外へ出た。森を吹き抜けてくる朝風に向かって大きくのびをして、それから鋭く口笛を吹いて、アルヌマーニクを呼んだ。
「さあ、都へ行くんだ」
 なじみ深いざらざらしたアルヌマーニクの背に手のひらをのせ、トザエモは宣言する。今や主人のいなくなった家は、がらんとして淋しげに見えた。そして、風にゆれるオレンジの木も。

 まだ暗い森の中を進んでゆくと、ライムの木の下に、紺色のマントを着た人影が立っている。黒ぶちの丸めがねをかけ、つる草のような髪が肩までのびて、年はぜんぜん、見当もつかない。目を閉じて、天に向かって腕をのべ、まるで大地と一体になったようにじっと立ちつくしている。けれど、トザエモには一目で分かった、それは奇術師カデンツァだった。
「お久しぶりですね」
 トザエモはそっと言う。
「ようこそおいでくださいました」
「本当に久しぶりだ」
 奇術師は、静かに答えた。
「しかし、みんなは変わっていないことだろうな。あいかわらず歌を歌い、ジョッキを傾けながら、楽しくやっていることだろう。どうか、カデンツァがやって来たことを、もうしばらく秘密にしておいてくれ」
「もちろんです」
と、トザエモは言った。そして、まだ誰も知らない秘密に胸をわくわくさせながら、静かなビッテムロシュナを横切っていった。

 村はずれには、二つの人影があった。私立探偵と、もう一人はいつぞや足指亭で会った旅がらすだった。
「なんだ、誰にも言わないでって言ったのに」
 トザエモがふくれて言うと、私立探偵は困ったように隣りを見やった。
「ぼくは何も言ってないんだけど」
「そうとも、この人はなんも言っちゃいない」
と、旅がらすは平気な顔で言ってのけた。
「ただ、俺があの子は今日発つのかねって聞いたら、うなずいただけさ」
「ともかく、事件は一応の解決を見たね」
と、私立探偵が言った。
「そうね、たぶん」
 トザエモは、荷物の中から<緋色の研究>を取り出して、彼に渡した。
「今まで、ありがとう。これ、あげるわ」
「あんたの母ちゃんに、よろしく言ってくれよ」
と、旅がらすが口をはさんだ。
「あんたなんかからよろしく言ってどうすんのよ?」
「いいから、伝えておくれよ」
「分かったわ」
 トザエモはアルヌマーニクの腹を軽く蹴って、前へ進み出させた。それからちょっと振り返って二人に向かって手を振り、
「ごきげんよう!」
と言った。
 まぶしい朝日の光が、大地を染めはじめていた。大地はいつでも大いなる未知と希望とを孕んでいる。恐れることなくそこを進みゆく、全ての者の前に。


































  


2010年06月17日

じゅずかけばと

じゅずかけばと
 ウィリアム・ヘンリ・ハドソンに捧ぐ    2001 by中島 迂生  


 もうずっと昔から、あのはとのことは知っていた。その瞳に奇妙な光を宿したはと、半ば幻と思われるほど軽やかな、影のような翼を持ったはと・・・それは確かに普通のはとではなかった。姿は見せないけれども、ボルビーゲルが生まれたそのときから、ひょっとするとそれよりも前から、それは彼の生活をひそやかに見守り続けてきたのだった。
 ボルビーゲルの家族は、北緯28度のあたりに茫漠と広がる、深い森の中に住んでいた。背の高いドイツトウヒがどこまでも枝を広げ、そのこずえをはりめぐらす、昼なお暗い森の中、そこには彼らの他にも、無数の生きものが住み暮らしていた。
 森は尽きることのない様々な秘密を取り出しては、ボルビーゲルに広げて見せた。窓の上で枝々がざわめくとき、それは一つの言葉だった。赤い尾羽を持った美しい鳥が幹のあいだをかすめるとき、それもまた言葉だった。あるかなしかの風にゆれる草、水を吸っておばけのように膨れ上がった緑色のこけ、すべてには隠された、特別な意味があった。
 彼が生まれる少し前に、彼の父親はこの森を切り開いて家を建てた。小さいけれども気持ちのいい家で、心持ち横に長く、屋根は茶色、壁は水色に塗られていた。その隣には家畜小屋があって、八頭の灰色ロングイヤー・ゴート種のやぎが飼われていた。
 彼の父親はたいへん背の高い人だった。あんまりのっぽだから、帽子なんかかぶったら戸口につかえてしまう、と言って妻は笑ったものだ。その人はまた開拓者に似つかわしくなく、大変な読書家だった。家のいちばん西側にある書斎には手造りの本棚がいくつもあって、町へ行く用事がある度に少しずつ買い集めてきた本がぎっしり詰まっていた。特にどの分野に興味があるというわけでもないらしく、言ってみれば雑多な寄せ集めだったが、どうやら読むこと自体を楽しんでいたようだ。
 ボルビーゲルが幼かった頃、彼はよく、一日の仕事を終えると書斎から長椅子を外へ運び出して、愛用のパイプで煙草をふかしながら読書にふけった。思えばそれは彼にとって、最も幸福なひとときであったに違いない。そのほっとしたようす、楽しげな気分はボルビーゲルにも伝わってきて、自分まで何だかうきうきしてしまったものだ。父親が長椅子を運び出すと、ボルビーゲルは決まって仔犬のように飛んできて、そのとなりに腰掛ける。そして、足をぶらぶらさせながら得意気に彼の顔を見上げるのだ。すると、父親もパイプを口から離して笑い返し、「やあ、いたずら坊主」と言って彼のくしゃくしゃ頭を軽くこづく。それがまたうれしくて、いたずら坊主は白い歯を見せてにこっと笑うのだった。
 父親はいつも、活字が見えないほど暗くなるまで本を放さなかった。それからようやく読みかけのページに指をはさむと、息子の肩に腕をまわして家に入った。たいていその頃には窓に灯りもともり、まだ若かった母親は食卓をととのえてエプロンを外しているのだった。母親はその頃からあまり陽気な方ではなかったが、機嫌がいいときにはときどき歌をうたった。その声はどちらかというと低い方で、いぶし銀のような独特な響きを持っていた。
 少し大きくなると、八頭のやぎの世話をするのがボルビーゲルの仕事になった。その前からやぎは彼の遊び相手だったから、やぎのことなら何でもよく知っていた。けれども彼は、どのやぎに対しても心から親しみを覚えたことがなかった。
 やぎは孤独な動物で、独立主義だった。じっと立っておとなしく乳をしぼらせるし、命令に従うことはいちおう従うのだが、決して盲目的にそうしているのではなかった。自分たちの方で冷静な判断をもって、そうすると決めたからそうしているのだった。彼らがほんとうは何を考えているのか、誰も知らなかった。その黄色く澄んだ目には何の表情もなく、ただ憑かれたように何かを求めて、ボルビーゲルの知らないどこか遠いところを見つめていた。
 やぎは森の精のような灰色の毛皮で覆われていた。雨の日にはうすもやに溶けこみ、周りの景色と全く見わけがつかなくなってしまう。だからボルビーゲルは彼らを呼び集めるのに森じゅうを駆けまわらなくてはならなかった。ところが晴れた日になると、その毛並みはくもの巣のような、白に近い銀色に見えるのだった。
 やぎは長く垂れた耳と、軽やかなひずめとを持っていた。彼らはドイツトウヒの間を、ぬれた草の上を、首をおとして彷徨うように歩いた。ボルビーゲルはその群れの真ん中にいても、知らぬまにどれかの姿が消えたりはすまいかといつでも不安になるのだが、彼らは自分たちの行くべき道をよく知っていた。彼らは意地悪なわけではなかった、けれども彼らとボルビーゲルとの間には、いつも一定の距離があった。やぎたちは彼を受け入れようとしなかったし、彼が彼らを理解しようとしても拒まれるのだった。彼はそんなやぎたちに対して、一時期言いようのない苛だちを感じたこともあった。しかし時たつうちにだんだんと、諦めとともに知ったのだ、自分たちがただ、家畜とその主人という以上の関係にはなれないことを。
 ボルビーゲルが七つのとき、父親が死んだ。その年の夏、彼ははじめてあのはとを見た。
 父親が死んでから、彼は淋しくなるとそっと書斎に忍びこんで、その蔵書に読みふけることを覚えた。まだ字もきちんと習っていなかったから、はじめのうちは何もかも難解なばかりでさっぱり分からなかった、けれどもじきに、その茶色く変色した書物のコレクションは、すっかり彼をとりこにしてしまった。
 父の書斎はがらんとして、もう掃除されることもなく、どこにもかしこにも埃がつもっていた。そこは異質な空間だった。本棚と本のほかにあるものと言えば、例の手造りの長椅子だけ。そして床には、たしかインド製といっていた、果物や動物のふしぎな絵柄が織りこまれた麻の敷物。このほか、余計なものは一切なかった。その部屋を満たしている空気は、かつてそのあるじだった人の面影を今だとどめていた。
 朝に夕に、ボルビーゲルは、母親の目を盗んではここへやって来た。そして、目につく本を片っぱしからひっぱり出しては床に寝そべって、外の世界を忘れて読みふけるのだった。実に様々な本があった・・・パリ街景に見るフランス史。相対性理論。ゲーテ詩集。紫色のオウムと元陸軍少佐に関する一哲学的洞察。知らない言葉はかまわずにすっ飛ばし、ひたすら先へ先へ読み進んだ。
 中でも最も気に入っていたのは、緑色の表紙の世界文学全集だった。これは比較的平易な言葉づかいで書かれていたので、小さなボルビーゲルでも何とか話についていくことができた。危険に満ちた勇壮な冒険物語はいつでも彼の心をゆさぶり、激しい憧れをかきたてた。空想はふくらみ、彼は物語の世界にどっぷりと浸って、ほんとうに主人公となって色んなできごとを体験するのだった。
 彼はそれらの本を、屋根裏の自分のベッドの中にも持ちこんだ。しばしば読みながらいつのまにか眠りこんでしまい、はっと気がつくと蝋燭は机の上で、もうほとんど燃え尽きているのだった。片道半時間ほどの小さな学校へ通うようになると、そこへも持っていった。実際、学校に上がる頃には、ほとんどどんな言葉でも知っていた。特に好きな本は、ページがすり切れるほど何度も読み返した。その一冊一冊に、彼は今まで知らなかった父を発見した。かつて父の読んだ本を今自分が読んでいる、と考えると誇らしかった。本は、古い紙と、なつかしい煙草のやにのにおいがした。
 そんな日々を送るうち、ボルビーゲルの心のうちに、いつからか一つの願いが宿るようになった。途方もなく現実離れした、ばかばかしい願いだったかもしれない。だからこそ、彼はそれを注意深く秘め、心の奥深くそっとしまっておいた。その願いとは・・・英雄になること。英雄とは、偉大な冒険をやってのけた人のことだ。物語の中の英雄は、知恵と勇気と強い意志とを持ち合わせ、危険な旅に出、竜と戦い、捕らわれびとを救い出し、人々から感嘆のまなざしを受けた。そのような人は彼にとって、あらゆる人間の中で最も遠い存在に思えた。あらゆる人間の中で最も遠い存在に、いったいどうやって近づくことができよう?
 全くの夢物語だった、手の届かない星だった。けれども彼はそれを忘れなかった。ずっとずっと長い間。
 そんなひそやかな願いでさえ、あのはとは知っていたに違いない。いったい、ボルビーゲルの傍らに、いつも影のようにつきまとっていたあのふしぎな視線を、どのように説明したらいいのだろう? たしかにその視線は、やぎを連れているときも、食卓についているときも、本を読んでいるときも、常に彼の上に注がれていた。
 あのはとなのだ・・・
 激しい風のふく夜などは、見られているという感じがことさら強まり、森のざわめきに心を乱されて、幼い頃はよく泣いた。けれども家族は彼の不安を理解できず、ただ肩をちょっとたたいて慰めてくれるだけだった・・・ほら、もう泣くのをおやめ。何も怖いことなんかありはしないよ。彼らには分からなかったのだ、彼がただ怖くて泣いていたのではないということが。それは何かしらもっと深遠な感情だった、何かしら己れを越えたもの、聖なるものに対する思いだったのだ。
 けれどもそれは、いつでも必ずしも彼を怯えさせたわけではない。時にそれは好奇心を抱かせたし、ほんとうに淋しいときには、一種の親しみすら覚えさせた。
 それが身をひそめているのは、からみあったやぶだとか、暗いトウヒのこずえとか、いずれにせよボルビーゲルの家から遠くないところだった。たまにもっと森の奥深くに姿を消すこともあるが、それはしばらくの間、その視線が薄れることで分かるのだった。森でやぎに草を食ませているとき、陽光のこぼれる木々の間でじっと動かずにいると、確かにそれがすぐ近くにいるのを感じることができた。じっとしていて、それからふいにぱっと後ろを振り向くと、かすかな羽音をたてて慌てたように飛び去る影を見たように思ったこともある。けれどもそれはいつも影だけで、こずえに落ちる光と影のまだら模様にまぎれ、ほんとうなのか幻なのか分からなかった。
 その姿をはじめてきちんと見たのが、忘れもせぬあの暑い夏の日だった。やぎたちはあまりの暑さに草を口にする元気もなく、あちこちの木陰で膝を折ってまどろんでいた。ボルビーゲルは落ちつかない気持ちで、むち代わりの枝をふりまわしながら、草の上をはだしでぶらぶら歩きまわっていた。
 強烈な日射しだった。辺りには何の物音もない。黒いドイツトウヒのこずえはあまりきらきら光っているし、空はトルコ桔梗のようにまっ青だった。どうやら普通でないことが起こりそうな気配だった。
 ふいに遠くで口笛が鳴ったのだ。人間の唇から出た音とは思えなかった。少しして、もう一度聞こえた。
 来い。口笛ははっきりとそう告げていた。
 ためらわなかったわけではない。けれども、抵抗できる相手ではなかった。森の向こうで呼んでいるのは、もう一人の自分だった。ボルビーゲルは一心に耳をすまし、ついで夢遊病者のように、ふらふらと音の聞こえた方へ歩み出した。
 暗い木々の間を長いことさまよい、気がつくと知らない場所に来ていた。まわりに生えたドイツトウヒの背の高さときたら、家の近くで見るよりも三倍も高かった。おまけに大枝が垂れ下がって、地面につくほど濃く生い茂っていた。
 空が一瞬、さあっと暗くなった。雲が太陽を隠すと、そのすそはかすかな青とオレンジに染まった。幾すじかの光のすじが、そのすきまからまっすぐに差しこんだ。
 今目を上げれば、それを見ることができる。ボルビーゲルはそう思った。
 それから彼は目を上げた。
 それは、彼のすぐ前のこずえにとまっていた。見たところは普通のはとと変わらなかった。軽く焼いたマフィンのようなうす茶色をして、肩には素朴な黒い紋章をつけている。教会の鐘楼や、広場の水飲み場などでよく会うことのできる、心優しいじゅずかけばと。けれども、それは確かに普通のはとではなかった、その目には、燃える紅玉の炎が宿っていた。それははとの魂そのものだった。
 はとはボルビーゲルを見つめた。その光は彼の体を突きぬけて、心の奥底にまで達した。これが遠い昔から、いつの日も自分の近くにあったものの正体なのだと、そのときボルビーゲルは知ったのだ。
 はとと少年とは、長い間身動きもせずにじっと互いを見つめつづけた。しだいに時間が薄れていった。しだいに境界がくずれ、熱い流れの中に溶けて消え去った。
「お前の目は海の色だ」
と、はとは言った。言葉ではなかった、それは彼自身の内側から、そのもっとも深いところから響いてきた。
「お前はいつか、見知らぬ土地を旅するだろう。長い旅だ・・・それからお前は英雄になる」
 その響きはボルビーゲルの胸に、幾重にもこだました。
 あっと思ったとき、はとはもう飛び去っていた。入れ替わるように、真夏の太陽が再び姿を現した。その光で森を満たした。はとのとまっていたトウヒの枝が、まだかすかに揺れていた。
 はじめてボルビーゲルの心に恐ろしさが押し寄せた。彼は、何ごとか囁きかけてくる木々の間を走りに走った。しまいには泣きながら走りつづけた。
 結局、その日の夜遅く、ボルビーゲルは家から遠く離れてとある木の根元に眠りこんでいたところを、カンテラを下げて探しにきたおじに発見された。このおじは、甥っ子がいなくなったと聞いて、わざわざ町からやって来たのだった。ボルビーゲルはやぎを放ったらかしにしたことでひどく叱られた。しかし、母親の叱り口がどことなくぎこちないのを彼は感じた。彼はすぐベッドに押しこまれたが、下では母親とおじが長いこと声をひそめて話しあっていた。はっきりとは分からないが、おじらしい声がこんなふうに言うのが聞こえてきた・・・あの子の目はどうにも奇妙だったよ。何か、とてつもなく異様な体験をした人の目のようだった。
 このことの後、ボルビーゲルははとの言った言葉の意味をしばしば考えた。けれども答えは見つからなかった。未来は今だ霧の彼方にあった。
 彼はますます読書にのめりこんだ。そして没頭すればするほどに、現実の生活が億劫になった。そして億劫になればなるほど、またそれを疎かにするようになった。ひょっとしたら物語の世界の方がほんとうで、自分のまわりのつまらないごたごたなど、束の間の夢にすぎないのかもしれなかった。少年の日々はボルビーゲルの外側を、霧が流れるように流れていった。ふしぎな視線は相変わらず消えなかった。けれども今や彼はその正体を知っているのだ。時にはその姿をちらっと目にすることもあった。もう何かを言うことはなかったが、それにも次第に驚かなくなっていた。
 そしてとうとう、すべての始まりとなった、あの忘れられない日が来たのだ。
 ボルビーゲルは十三になっていた。その朝、森には雨がとめどなく降りしきり、早春のしんしんとした寒さが何もかもを包んでいた。
 屋根裏のベッドのふくらみが、ごそごそっと動いた。しばらくして、またごそごそ。ためらうようにちょっと静かになってから、やおらくしゃくしゃ頭がおもてへ突き出した。
「ぶるぶるっ! ・・・何て寒いんだ」
 ボルビーゲルはがたがた震えながらベッドから這い出し、大急ぎで服を着こんだ。そして、窓を開けると窓枠に足をかけて屋根の上に出た。
 まだ薄暗かった。と言っても、こんな天気では昼になってもそう明るくはなるまい。上を見上げると冷たい雫が次から次へと顔に落ちてきた。屋根はぬれて滑りやすくなっていた。ボルビーゲルはそろそろと斜面を降り、縁までくると隣の家畜小屋の屋根に飛び下りた。わざわざ家の中を通っていくより、この方がよっぽど早い。それから彼は小屋の中に入り、やぎの乳を一頭ずつしぼって、その壺を入り口近くに並べた。これらで母親はチーズやバターを作り、ボルビーゲルが学校に行ったあと、毎日手押し車にのせて市場へ売りにいく。父親が亡くなって以来、それがこの家の唯一の収入源だった。
 ボルビーゲルは自分もカップに一杯ミルクを飲むと、やぎたちを外へ連れ出した。彼らはその毛皮のおかげで、彼ほど寒くはないらしい。
 いつもの小径を、追い立ててゆく。やぎの首につけた鈴がカランコロンと音をたてる。休みない雨音が森を満たし、もやのせいで遠くにある木々の輪郭がぼやけて見える。ときたま小鳥が枝をかすめて、細い声で仲間を呼んでいる。
 少し開けたいつもの草地に着くと、やぎたちはてんでに散って朝の食事を始める。ボルビーゲルは立ちどまったまま、少しの間そのようすを目で追った。
 昔から世話してきたやぎたち。もしもこのやぎたちを見るのが、今日でさいごだとしたらどうだろう。ふとそんな考えが浮かんだ。明日のこの時間には、どこか遠い、全然知らない場所にいるとしたら?
 けれども、すぐにそんな空想を打ち払い、彼は来た道を引き返した。今日は学校でラテン語の授業があるのだ。ラテン語は苦手だったが、今回は特別力を入れて宿題をやったのだった。
 家に入ると、食料棚からパンを一つ取ってまず頬張った。それからチーズの塊を取り出し、ナイフを探してきて一切れ切り取った。ドアが開いて、壺を手にした母親が忙しそうに入ってきた。彼の姿を見るなり、
「何なの、その泥だらけの足は! 入る前にちゃんと拭いて、床を汚さないようにしてよ!」
と、小言を言った。ボルビーゲルはチーズに集中したまま、
「うん」
と生返事をし、別の一切れを切り取って母親に差し出した。
「要りませんよ、私は今忙しいんだから。自分のことだけすればいいの。早くしないとまた学校に遅れるわよ」
「またって、いつ遅れたっていうのさ?」
「シュペルグ先生が言ってらしたじゃないの。口答えはいいからさっさと支度なさい」
 ボルビーゲルはふくれっ面でカーキ色の学校の上着を着こんだ。それから靴をはき、通学用のかばんを持って家を出た。
「傘!」
 後ろから母親の声が追っかけてくる。
「いらない、大丈夫!」
と叫び返し、かばんを頭にのせて走り出した。ほんとうに、急がないと遅刻しそうだった。実はこの三日間というもの、つづけざまに遅れていたのだ。おまけに担任のシュペルグ先生からは、「今度遅れたら教室に入れないぞ!」という言葉までもらっていた。どういうわけで時間どおりに入れないのか、彼は自分でも分からなかった・・・ 家が遠いからというばかりではないのだ、ちゃんと時計を見て、間にあうように支度しているつもりなのだ、が、どうしたわけか、何がそんなに手間取ったのか、家を出るころにはもう、いつだって全速力で駆けつけないと間にあわない時間になっているのだった。
 ボルビーゲルはいつもの道を、はあはあ息をはずませて走った。うっすら霧がかった森の、濃厚なにおい・・・トウヒの葉、しだ、コケ、木の皮や、ぬれたキノコ、色んなものの入りまじったにおいだ。
 ボルビーゲルの通っている学校は、彼の家から、さらに北へ少し行ったところにあった。やはり森の中にぽっつりと建った、こけら板葺きの小さい粗末な建物だ。というのも、こんな土地では子供の数は多くないし、それに親たちの方だって、教育のために余分な投資ができるほど、豊かではなかったからだ。それでも屋根の上にはちゃんと鐘がついていたし、それも昔ながらの、ひもをひっぱってならすやつで、いつだってきちんと時間どおりにならされた、たとえその音を聞くのが、子供たちのほか、栗鼠やきつつきくらいなものだったとしても。
 そのまわりは少し開けて、ちょっとした運動場になっており、子供らはここでボール遊びをしたり、色んな体操をしたりすることができた。また、この近くをふつう<大きな川>と呼ばれる、幅広くて流れの穏やかな川が通っていて、それは遠く丘陵地方からはるばる旅をしてここまでやって来たのが、そのあたりで大きく迂回して、再び森の奥深くへと消えているのだった。
 この学校で教えている、たった一人の先生がシュペルグ氏だ。彼は一人で全部の教科を教えていた。痩せて背が高く、どんなときでもきちんとカラーをつけ、カフスまではめている。このへんで普段からそんな格好をしているのは、この先生くらいなものだった。人柄もその通り、まじめで職務に忠実なあまり、しばしばおそろしく杓子定規で融通のきかないところがある。だが教育にかける熱意は本物だった、ラテン語では<アエネイス>をやっていた。彼は自分の教えている鼻たれ小僧どもがヴェルギリウスを理解できるとはあまり信じていないように見えたが、だからといって手を抜いたりしなかった。こと人の道に関しては独自の固い信念を持っていて、それに外れるような振る舞いに及ぶ者があれば、忽ち血相を変えていきり立ち、誰彼かまわずどなり散らし、その剣幕の激しさでもって相手をねじふせてしまう。だから子供たちからは恐れられていた。けれどもボルビーゲルは、心の底では先生のそういうところを軽蔑していた。生徒ってものは、脅せばいいってもんじゃないんだ・・・と思っていた。相手の方でも彼のことをよくは思っていなかった。彼は理解しがたい生徒だったのだ。何をきいてもろくに答えないし、勉強は書き取り以外からきしだめ。内気で、ひまさえあれば本に顔をくっつけている。
 彼は級友たちからものけ者にされていた。彼らにとって、ボルビーゲルはやりにくい相手だった。ぼーっとして、何を考えているのか分からないし、だいいち、こっちのペースについてこない。だったら何を、お情けをかけてやる必要があろう。彼の方でも、それで別にかまわないと思っていた。のけ者にされて、もちろんうれしいわけがない。けれど、それを遺憾に思ったりする前に、まずこちらからお近づきになりたいと思うような連中ではなかったのだ・・・ 取り巻きを従えたガキ大将のパウルに、ちびのリヒャルト、計算ができるのを鼻にかけているルートヴィヒに、いつも袖口の汚れたシャツを着たアンドレ。女の子たちだって似たりよったりだ、ばかみたいにくすくす笑ってばかりいるエラ、むっつり口をへの字に曲げたテレーズ、おそろしく耳ざとくて、うわさのまき散らし屋のアンナ・・・ あんな連中とつきあって何が楽しいものか、こっちの方がごめんこうむる。けれど、ともかくも、あんな奴らの前でシュペルグにつまみ出されて、笑い物になってはたまらなかった。今日こそは、何としても時間どおりに着かなくては・・・ ボルビーゲルはかばんをかたかたいわせ、ますます急いで、必死になって走った。
 と、そのときだった、突然、彼は自分がまたあの視線にとらえられているのを感じたのだ。彼はびくっとして足をとめた。あの視線、まちがいなかった。しかも、びっくりするほど近くだった。
 彼の心を、強いおののきがとらえた。おののきと、そして、ふいに思いがけない幸福感とが。なぜなら、そのときはじめて、彼は確かに知ったからだ、その心奥深く、彼自身も気づかぬままに、実はもうずっとずっと長いこと、今このときを待ちつづけてきたのだということを。そして、今が、今こそが、待ち望んできたそのときに他ならないのだということを。・・・彼はうっとりと目を閉じた、快い陶酔感に身を委ねた・・・
 心のどこかで、理性の声がささやいた、今はそんなこと、していていい場合じゃない! 早く行かないと学校に遅れるぞ!
 と、低く、かすかに、でもはっきりと、口笛が彼を呼んだ。それは甘くささやきかける蜜のような言葉だった、と同時に、有無を言わさぬ命令だったのだ。彼はもう、何も考えられなくなった。その声の命ずるまま、道をそれて森へ這いこみ、さらに奥へ奥へと進んでいった・・・
 はとは先に立って彼を導いていた。姿は見えないが気配で分かった。時折羽音がきこえ、時折つばさの影がこずえの間からちらりと見えた。森はどんどん暗くまた深くなり、敵意を抱いてボルビーゲルの行く手を阻むようであった。ひょっとしていつかのように、見知らぬ場所にまた一人置き去りにされ、寒さとひもじさを抱えてさまようことになるのではあるまいか・・・けれども彼は、そんなことを気にかけはしなかった、はとの姿を思いに描き、ただひたすらに進んでいった。
 そうやって、どれくらい歩いただろう、ふいに森が途切れて、ぱっと目の前が開けたのだ。しかもそれは彼の知っている場所だった。彼の行く手には学校が見えていた。ただしそれは、今までそんなふうにして眺めたことのない側からであった。彼は大まわりをして、いつも来るのとは反対の方向からそこへやって来ていたのだ。
 しかし彼ははじめ、そのことには気づかなかった。というのは今眼前に見るものに、すっかり心奪われていたからだ。
 それは川だった。<大きな川>が彼の前を、激しい水音をたてて流れていた。彼が出たのはちょうど、それが大きく湾曲してこちらへ近づく辺りだったのだ。しかも何と速い流れだ、折しも雪どけの水がどっと大量に流れ下り、茶色くさかまくにごり水となって、ごうごうと吠えたけりながら、危険なほど川幅いっぱいに広がって流れている・・・ ふだんなら、こんなことは決してなかった、<大きな川>が溢れるなんて、誰もきいたためしがなかったのだ。けれども今、げんにもう少しで水は岸辺の土手をのりこえそうだ、そして学校の建っているささやかな草地は、それよりさらに数段低いのだ。溢れ出したがさいご、ひとたまりもなくやられてしまう、またたくまに、飢えたおおかみのような濁流に飲みこまれてしまう・・・。
 ボルビーゲルは岸辺に立って、息を飲んだ。先生は、学校のみんなは気づいていないのだろうか? もっと高いところへ避難しないと危ない、それも今すぐに! 彼はまたもや遅刻したこともすっかり忘れ、土手の斜面を転がるように駆け下って、鉄砲玉のような勢いで教室にとびこんだ。
 みんなはとっくに席に着いて、ラテン語の授業が始まっていた。シュペルグ先生は眼鏡を鼻の上までずりあげ、片方の手に教科書を、もう片方を後ろにまわし、教壇の前をゆっくり行ったり来たりしながら、指名した生徒が本を読み上げるのを聞いている。まるでこの世に川と名のつくものなど、かつて一度も存在したことがないかのように落ちつき払って。
 ぬれねずみでぜいぜい息を切らして、いきなりとびこんできたボルビーゲルの姿を見て、教室の後ろの方からくすくす笑いが漏れた。それももっともなことだった、何しろ深い森を抜けてきたために、手足はまっくろ、靴は泥だらけ、頬には枝のすり傷をつけ、服や髪には葉っぱやくもの巣、というありさまだったからだ。だが、先生の方はというと、これはもう笑うどころの騒ぎではなかった。彼の姿を認めるなり、唖然としてあやうく教科書を取り落としそうになり、ついで怒りのあまり、ぶるぶると肩を震わせだした。・・・来るぞ! と子供たちが身構えて首をすくめたとたん、割れ鐘のような第一声がとんだ、
「一体何を考えとるんだ、えっ、君は! ・・・何というざまだ、何たる恥さらしだ!・・・」
 つかつかと歩み寄ってくるシュペルグ先生の恐ろしさに思わず後ずさりしながら、ボルビーゲルは必死に抗弁した、
「先生、どうか聞いて下さい・・・」
 しかし、先生の方ではもはやなんにも聞くつもりなどなかった、
「覚えているね、この次遅刻したらどうなると言ったか!」
と言いながら、ボルビーゲルのえり首をつかんでぐいぐい引き立てていき、それから彼を、もとの冷たい雨の中へ放り出したのだ。
 彼はそれでも諦めなかった。自分のことなんかどうでもよかった、ただこの危険を、恐るべき危機を、何とかして知らせなければと焦っていたのだ。そこですぐさま窓の方へまわると、ガラス越しにもう一度、
「先生!」
と叫んだ。二、三人がこちらをふり向いた。するとシュペルグ先生が手を差し上げて、彼らの好奇心を制するのが見えた。
 分かっちゃいないんだ、ことの重大性が・・・ボルビーゲルは死に物狂いになった。ありったけの勇気を奮い起こすと、入り口のドアから三たび頭をつっこんだ。こうしてなおものこのこやって来られるのを見て、先生はついに我慢の限界に達したようだった。だしぬけに、校舎のガラスがびりびり震え上がったほどの勢いでわめきだし、ののしり、どなり散らし、あげくにボルビーゲルの鼻先で、ぴしゃんとドアを閉めてしまったのだ。そのあと、中からがちゃりと錠を下ろすのが聞こえた。
 彼は呆然としてドアを見つめた、ぬれそぼって、恐ろしさにがくがくとうちふるえながら・・・
 と、そのとき、かすかな口笛を聞いたのだ。彼は顔をほころばせてふり返った。はとは地面に降りたって、素知らぬふうで何かついばんでいた。
 あなたはあなたの義務を果たしたんですよ。
 あとは何が起ころうと、あなたの責任ではないのです。
 だからもう、あんな愚かな連中のことは放っておきなさい!
 そう言っているようだった。やがてはとは、その軽やかな翼をさっと広げて飛び立った。ボルビーゲルも、思わずそのあとを追って駆け出していた。はとのあとに従って、どんどんどこまでも駆けた。風を切って駆けゆくうち、まるでかかとにはとと同じ翼が生えいでたかのようだった、駆けていること自体が喜びとなり、肺にはかぐわしい森の香気が、足にはあたらしい力がみなぎってきて、もうそのうちに、恥ずかしかったことやみじめだったことも忘れてしまった。
 いつしか雨はあがり、ボルビーゲルの着物も乾いてきて、ようやくはとが地上に舞い降りて翼を休めたので、走るのをやめてふと気がつくと、彼は大きな大きな丘の中腹の斜面にいるのだった。あたり一面みどりの草が広がっており、ついさっきまで降っていた雨の雫がきらきらと光って、はるかはるか下のかなた、広大な森のほんの少し開けているところに、彼のちっちゃな学校が豆つぶのように見えていた。まるでつまらない、どうでもいいものみたいだった。
 ボルビーゲルは声を上げて笑いだした。今朝がた感じたあの幸福感が、再びその胸をいっぱいにして戻ってきたのだ。
 それから彼は、畏敬と感嘆の念をこめて、じっとはとに目を注いだ。
 こんなに近くで、しかもこんなにはっきりと見るのははじめてだった。
 美しいはとだった・・・とてもおぼろな、くすんだ色あいをしているのに、並はずれて高貴で、神秘的なようすをして・・・彼は思わず手をのばして、はとに触れようとした、するとはとはわずかに身をかわし、ふわりと飛びたった、メレンゲでできた天使のように、そしてちょうど、あたたかい日の光がまぶしく輝いて、見上げたボルビーゲルの目にまともに入り、思わずぎゅっと瞼を閉じたその一瞬の隙に、はとの姿はお日様の光に溶け入るように消えてしまった・・・
 ボルビーゲルは少しの間悲しみに沈んだが、そう長いことではなかった。それより彼は、あのはとが消え去ったあたり、彼を手招きするかのようにうっすらと青味を帯びた、大きな丘のすその向こう側へ、熱心な目を向けはじめた。あっちの方にはいったい、何があるんだろう・・・?
 それから彼はゆっくりと立ち上がり、もう学校のことも、うちのことも、小屋の中で彼の帰りを待っているやぎたちのことも忘れてしまって、ただ一心に丘を登りはじめた。遠くを見つめる目、その目にはもう、憑かれたような、夢見るような、そう、ちょうどあのはとと同じ色の光を宿しながら。

 あの年の大洪水を、森の住人たちは決して忘れることがないだろう。かつて誰にも、どんな害も及ぼしたことのなかった、あのおだやかなおとなしい川が、あの日、どんな猛々しさをもって、志篤いりっぱな先生と、三十五人の善良な子供たちとを呑み尽くしたかを。小さな校舎はあとかたもなくすっかり押し流されてしまい、水がひいたあとも、人々は、石の土台だけが辛うじて流れずに残っていたので、それがもと建っていた場所を知ったほどであった。

 さて一方のボルビーゲルは、そんなことはちっとも知らず、見えない糸にたぐられるようにどんどん先へ先へと進んでゆき、ついに一つの地方を別の地方から隔てていた、あの目も眩むような険しい丘陵地帯をこえた。
 そこはボルビーゲルの生まれ育った、どこまでも続く深い森とはまるでちがった。そこはのどかな、美しい田園地方だった・・・小麦、大麦、豆の畑に、さまざまな野菜の畑。畑はどれも少しずつ色あいがちがい、大地全体はよく耕されて豊かにうるおい、ゆるやかな起伏を描いてどこまでも広がっている。煉瓦造りや石造りの家々のまわりには生け垣が、小径では、やぶや茂みに小鳥が鳴き交わし、しずかな池のおもてには睡蓮にボート、陽気な小川の流れには水車が回っている。ボルビーゲルは生まれてはじめて見る景色に我を忘れ、驚きと喜びでいっぱいになった。見るもの聞くもの、すべてがあたらしかった。彼は踊るような足取りで、口笛を吹きながら進んでいった。実際には、体はもうくたくたに疲れていたし、お腹もすいてひもじかったのだ。おまけにポケットには一銭も入っていなかった。けれどもこのたのしい気持ちを曇らせたくなくて、大した心配もせず、足の向くままにただてくてくと歩きつづけた。
 やがてとっぷり日も暮れる頃、彼は街道筋の一軒の旅籠屋にさしかかった。半開きになった扉からは、ぱちぱちと勢いよく燃える火、そのそばで寝そべっている犬、酒をくみかわし、いい気分で声高くしゃべり、下手くそな歌をがなっている男たちの姿が見え、杯どうしがぶつかる音、食器のかちゃかちゃいう音、それにシチューやソーセージや、こんがり焼いたベーコンのにおいが通りにまでただよい出し、まるでさあどうぞ、お入りなさい! と言わんばかりだ。ボルビーゲルは思わず空っぽの胃をおさえながら、それからそっと中庭にまわってみた。馬やろばがつながれて、こちらも黙々と飼い葉桶から食べている。納屋には干し草があふれるほどに積み上げられ、壁ぎわにはフォークやくまでがきちんと一列に並べて立てかけてあった。
 彼は少しためらったのち、ふっかりした干し草の山の中にもぐりこんで、犬のように体を丸めた。首すじがちくちくして妙な感じだった。が、何しろずっと歩きどおしで疲れきっていたので、目をつむるかつむらないかのうちに、すぐさまぐっすりと眠りこんでしまった。
 翌朝早く、彼はぶっといがらがら声にどやしつけられて目を覚ました。酒樽のようにでっぷり太った、年取った男が、彼の耳もとで、ひどく腹を立ててどなっていた。
「出ていけ!」
と、男は言った、
「とっとと出ていけ、このごろつきめ! ここは宿なしのたまり場でも、家出坊主のための慈善施設でもねえんだぞ! 分かってんのか、てめえみてえのに居座られたら、まともな客が寄りつかなくなる、冗談じゃねえ」
 男はだんごっ鼻にめくれあがった唇をして、醜い上に怒っているので全く恐ろしい形相だった。けれども全くふしぎなことに、ボルビーゲルは、その顔を一目見たとたん、自分がしばらくはこの家にとどまらなくてはならないことを悟ったのだ。
「どうか、ここに置いてください」
と、彼は一生けんめいに頼みこんだ、
「ぼく、働きますから・・・何でもします、使い走りでも、家畜の世話でも、水汲みでも」
「何だと、養う口なら間にあってらあ! これでもまだ足りねえっていうのかよ、めっそうもねえこの大ばかやろう」
 相手は相当頭に来たらしく、ありったけの言葉を並べてぽんぽん毒づいた。
 そこへ、一人の若い娘がやって来て、言った、
「置いておやりになったらいかがですの、旦那さま。これであの子の代わりになりますわ」
 それが、この店に奉公に来ていた、主人の親戚の娘のマルガレーテだった。
「なに、こいつがレオンハルトの代わりになるものか。何の役にも立たんガキだ、ほくちのほの字も知っちゃいねえ」
「わたくしが教えますわ」
 こうしてその日から、彼はマルガレーテに色々教えてもらいながら、この店で身を粉にして働く身となった。店の名は赤ライオン亭といって、近所の農夫たちや、街道筋を行く御者や商人たちがそのおもなお客だった。あとから知ったことだが、彼がやって来る少し前まで、ここで使い走りをしていた少年が、父親の後を継ぐというのでちょうどくにへ帰ってしまったところだったのだ。だからどのみち、たしかに人手を必要としていたわけだった。
 彼はあらゆるはした仕事を言いつけられた。腰かけの上に立って何時間もぶっ通しで皿を洗い、馬に飼い葉を与え、それから近所のお得意さんのところへ、昼食とビールを届けに行く。どっしりとしたせともののジョッキは重たくて、こぼさないように運ぶのは大変な難儀だった。
 主人のクラウスからは毎日どなられた。何かというと「出ていけ!」とどなるのが口ぐせだった。
 陽気で騒がしいお客たちはボルビーゲルをからかい、卑猥な文句を浴びせ、しょっちゅうふざけてそのくしゃくしゃ頭をこづきまわした。連中のつもりでは冗談半分なのだが、何しろ腕っぷしの強い大人たちのことだ、やられるこっちの身にはずいぶんとこたえた。
 ただ一人、マルガレーテだけはいつも親切だった。彼女はとび色の髪に大きな灰色の瞳をした、心優しい少女だった。年の頃は十六くらい、幼くして弟を一人亡くしたこともあり、ボルビーゲルのことをたいへんかわいがってくれた。彼が夜遅くまで働いていたり、主人にひどく殴られたりしたようなときには、しばしば何かおいしいものを一切れ、こっそりと差し入れてくれるのだった。
 そのうちにやがて、馬車を駆って主人の代わりに市場へ食料を仕入れに行くのも彼の仕事になった。そこで彼ははじめて町を見た。たくさんの建物が立ち並んでいるようすや、にぎやかな表通り、辻音楽師や大道芸人たち。彼にはすべてがもの珍しかった。手綱をひいては、そこらのものにいちいち眺め入ってしまい、そうすると、戻るのが遅いといってはまたどなられた。
 最初の一年は早く過ぎた。仕事には終わりがなく、来る日も来る日も、時計の上で踊る人形のように、ひたすらせっせと働きつづけた。全く息つくひまもなかった。最初の一年は、食わせてもらえるだけで満足するように言われ、食べ物と寝る場所の他には何ももらえなかった。それからようやく、雀の涙ほどの小銭を渡してよこすようになった。彼はそれをできるだけ使わずに取っておくようにしたが、町で芸人や物乞いなどを見かけると、ついやってしまうのだった。そんなわけで、いつも手もとにはほとんど残らなかった。
 それでも、たっぷりのジャガイモとベーコンと、途方もない重労働のおかげで、いつしかずいぶん肉もつき、背ものびた。そしてもっといいことには、いつしか肝っ玉の方も太くなって、ちょっとやそっとのことではへこたれないボルビーゲルになっていた。
 幾度めかの春が来た。その頃までにマルガレーテはお嫁に行ってしまい、残っているのは彼と主人の二人だけだった。そして、今や仕事の大部分は彼に任されるようになっていた。けれども、少し考える余裕ができるとすぐ、彼はつらつらと考えはじめた・・・それはもっともな問いかけだった・・・一体自分はどういうわけで、ここでこんなことをやっているのだろう?
 それからまた、いつか日の光にふっとかき消えていなくなってしまった、あのはとのことを考えるようになった。晩にはよく夢を見た。といってもそれは、明け方のまどろみの中で見る、かすかなイメージの断片にすぎなかった・・・さしこむ薄明かり、おぼろな影、その低いつぶやき、やわらかな羽毛にくちばしをうずめ、ふっくらとして優しいすがた、まるで光そのものでできているかのように、たえず色あいを変えるそのつばさ・・・覚めても、消えゆかんとする夢のきれはしを取り戻そうとして、ぼんやりと物思いにふけることが多くなった。そして、つまらないへまばかりやらかしては、またまた主人にどなられた。
 ある晩、彼はクラウスが大切にしていた白い磁器の大皿を、うっかり落として割ってしまった。それは繊細な唐草もようを浮き出した、とても高価な品ものだった。
「この大ぼけ! くそ坊主!」
と、クラウスはどなった。
「今度こそ出ていけ! 貴様のつらなんざ、こんりんざい見たくもねえ!」
 そして、彼のことをあざができるほど殴りつけた。
 ボルビーゲルは、だまってかけらを拾い集めた。今出てゆかれたら、困るのは主人の方であることを、彼はよく知っていた。
 その晩、彼はかつてなくくっきりと、驚くばかりあざやかな夢を見た。
 朝露にぬれる若いプラムのような、みずみずしい青色のつばさ、
 やぶの中でもどかしげに羽ばたき、うちふるえ、それから突然、ぱっと羽音をたてて飛び立った・・・
 その瞬間、ボルビーゲルは驚いて目を覚ました。
 夢の中で、あの口笛を聞いたのだ。たしかにそうだった。うたがいようもなかった。
 彼はしばらくの間大きく目を見開いて、そのままじっと動かずにいた。それからゆっくりと、寝台から身を起こし、外のようすを伺った。
 夜明けだった。往来はひっそりと静まり返っていた。
 彼は向き直ると、煉瓦を一つ取って、壁の中にしまってあったかくしを取り出した。そして、それをいくつかの身のまわりの品といっしょに小さく包みこみ、そっと厨房を抜けて、外へ出た。彼の手によって毎日ぴかぴかになるまで磨きたてられ、なめらかな銅色を呈した鍋釜の類が、ずらりと壁に並んでその姿を見送った。すりへった暖炉のそばから老犬が立ち上がって、悲しげにくんくん鼻をならしながら戸口のところまでついてきた。
 門を出て少し行ったところで、得意先の旦那の一人が、らばに荷を引かせてやって来るのに出会くわした。
「よう、早えな、坊主。お遣いか?」
「ええ」
と、彼は答えた。そして、足早に歩き出した。
 ふり返りもせずにどんどん歩いて、赤ライオン亭が見えなくなる頃にはもう、彼の目にはあの憑かれたような、奇妙な光が戻っていた。
 彼はどこまでも行き進んだ。村また村をすぎ、町また町をこえていった。多くの場合は通りすがりの民家に一晩の宿を乞うた・・・その頃、田舎の方ではまだ、見知らぬ人を客としてもてなす習慣が残っていたのだ。それができないときには、手持ちのわずかな金をくずして旅籠屋に泊まった。
 しかし、尚も進みゆくうち、しだいによくうるおった田園は姿を消し、その代わりに淋しい荒野や生い茂ったやぶが多く目につきはじめた。人の住まない地方にさしかかったのだった。
 彼はさらに幾日も旅をつづけた。食料のたずさえが尽きると、歩きながら野性の大麦の穂をちぎって噛みくだし、一つかみの木の実と野いちごで飢えをしのいだ。夜になると近くの茂みの中に身をうずくめて眠った。日の出とともに起き出してはまた歩きつづけた。
 ある日、彼は吹きつける風の中に、ほのかな潮の香をかいだ。今までかいだことのない匂いだった。やがてその耳に、ざっざーっという耳慣れない響きが届くようになった。いつか遠い昔、夢の中で、これと同じ音をきいたことがあったのを、彼はぼんやりと思い出した。
 そしてついに彼はその目に見た、海べりの地に出たのだった。
 空は冷たく白く世界を覆い、その下に空と同じ無色の海が、その境も定かならず茫々として広がっていた。眼下には背の低いマーゼルの群生する低木地が、見渡す限りずっと海岸線までつづいている。それらはどれも、内陸の方を向いて斜めに生えていた。たえず吹きつける風にさらされては、そろって従順に、吹かれた方向に向かって身をのばしていた。
 ・・・あの向こうに、親しい者がいる。ボルビーゲルははっきりとそう感じた。そして、もしかしたらそれは・・・。彼は崖を下ってゆき、密に茂った低木林の中へ分け入った。もしかしたら・・・。彼は期待に胸を高鳴らせ、いよいよ足を速めた。茂みの間につけられた、とぎれとぎれの細道をたどってゆくと、やがて両のやぶかげがとだえて海岸に出た。
 彼がそこに見い出したものは、しかし予想とは全く違った。それは人間の姿だった。彼と同じくらいの年格好の二人の子供で、一人は女の子、もう一人は男の子だ。彼らは岸辺にしゃがみこんで何かやっていたところが、ボルビーゲルの気配に気づいてこちらをふり返った。
 二人はまるで兄弟のようによく似ていた。女の子の方はやわらかい亜麻色の髪に、ガラス玉のようにあかるく澄んだ空色の瞳。男の子の方は、髪の色はもう少し暗い、栗毛がかった金色だったが、眼は女の子と同じようにあかるかった。彼の知らない者たちではあった、だがそれにしても、ここ数日の間ではじめて目にした、あたたかい血の通う者たちには違いなかった。
 見知らぬ者同士は互いにしばらく見つめあった。
 ついに、女の子の方が口を開いて言った、
「わたしたち、あなたのことを待っていたのよ」
「そう、ずっとね」
と、男の子。
 それを聞いて、ボルビーゲルは少なからず驚き、またうろたえた。
「ぼくのことを待っていたって! どうしてそんなことがあるんだい? 君たちはぼくを知らないし、ぼくも君たちを知らないのに」
 すると、女の子はまじめな顔で言った。
「知らないの、古い歌にあるのを?

 満月の夜に 三人の汚れなき子供たちが
 木靴の舟にのって船出する
 二人の男の子に 一人の女の子
 幾日幾晩 波をさまよい
 神秘の岸辺に たどりつくまで」

 彼女はかわいらしい声で、節をつけて歌った。そうしてさらに言った、
「アルベルトとあたしが、このなかの二人なの。そしてあなたが、残りの一人なの。これでようやく、歌にあるとおり三人の子供たちがそろったのよ。今こそ、やっと船出の用意ができるんだわ」
 そう言われたとたんに、遠い遠い昔のかすかな記憶が、ボルビーゲルの頭によみがえってきた。そうだ、彼もこの歌を知っていた、どこかでたしかに聞いたことがあった。風のように細い声で歌う女の声、いや、女とも鳥ともつかぬ、あのふしぎな調べは・・・あれは誰だったのだろう、どこで聞いたのだった?・・・
 思い出すことは、ついにできなかった。けれども彼はただ知っていた、そして知っているということは、それだけでもう十分なのだった。
 突然、この二人の子供たちに対しても、ずっと昔から知っていたような、ふしぎに懐かしい気持ちがこみあげてきた。彼は女の子のやわらかな髪に、男の子のあかるい目に親しみを覚えた。彼は彼らにほほえみかけた。彼らこそ、自分でもそれと気づかぬまま、今までずっと探しつづけていた、彼のほんとうの仲間だった。
「ぼく、ボルビーゲル」
と言って、彼は手を差し出した。
「ヨハンナよ」
「アルベルトだ」
 三つの小さな手が重なった。この瞬間、彼らを隔てていた壁が、すっと水のように溶け去った。彼らの心は一つだった。
 彼らはマーゼルの茂みに隠された、小さな洞穴を彼に見せた。
 入口には毛布が吊ってあり、外から見えないようになっている。中に入ると、こぎれいにしつらえた棚には、小麦粉の袋、砂糖の袋、バターや干しタマネギなどの食料品が、ひっくり返した木箱の上には、どこから調達してきたのか、錨やコンパスや晴雨計など、航海に必要と思われる様々な品が並べてあった。石を積み上げて造ったかまどのそばには、きちんと巻いたロープの束が置かれていた。
「これだけ揃えるのにずいぶんかかったけど、まだ二、三足りないものがあるんだ」
 アルベルトが慎重なようすで言った。
「長い旅になるからね。ちゃんと用意しておかないと・・・」
 彼らはまた、岩陰のひみつの船着場に連れていって、木靴の舟を彼に見せた。姿かたちはふつうの木靴と寸分違わなかったが、ただ大きさはその百倍もあって、中は子供三人がらくに乗りこめるほどの広さだった。ボルビーゲルはふと、自分がおとぎ話に出てくる親指小僧になったような気がした。それはすばらしい安定性をもち、どっしりと頼もしく水の上に浮かんでいた。
 ボルビーゲルは、これらすべてのものがどうやって用意されたか聞かなかった。それらはただそこにあった、それだけで十分すばらしくて、何も尋ねる必要などなかったのだ。
 日が落ちると、彼らは岩の間で火をたいてスープをつくり、肉をあぶった。そのあと、真っ赤な燠のかたまりをつつきながら、未来の色々な予定や計画を話し合った。
 ヨハンナは、薄桃色のばら模様をふちどった、厚手のシーツを取り出して見せた。織目のしっかりした、とても頑丈な生地だ。それは家にあった中でいちばん上等なシーツで、来客用に取っておかれたものだった。彼女はそれを帆布用に持ってきたのだ。
「ママに気づかれないように、引き出しからこっそり持ち出すの、大変だったわ」
と、彼女は言った。
「でも、帆布はほんとに丈夫でないといけないものね。嵐がやって来ても平気なように」
 アルベルトは、パパの万能ナイフを出して見せた。
「ナイフはどうしたって必要だろう? 枝を切り払ったり、ロープを断ち切ったり、野性のけものと戦ったりするのにさ」
「野性のけものですって?」
 ヨハンナは、恐ろしげに首をすくめた。
「怖いわ」
「大丈夫さ。どんな恐ろしいけものがやって来たって、きっとぼくがやっつけてやる」
 アルベルトはきっぱりと言い、ヨハンナはそれを聞いてすっかり安心したようだった。
 ボルビーゲルだけは何も持っていなかった。そこで彼は言った。
「ぼくには誰にも負けない心がある。ぼくらが道に迷ったとき、ぼくはきっと、みんなを照らすともしびとなろう」
 その翌日から、彼ら三人は船出に先立って、さいごの準備のために忙しく働いた。満月の晩まで、あと一週間しかなかった。
 ヨハンナは石のかまどで、蜂蜜入りの甘いケーキをいくつも焼いた。果物の砂糖漬けもたくさん作った。それらはみな、長いこと取っておくことができた。
 アルベルトは遠くの町まで、必要な釘やひも、それにビスケット、乾肉、塩づけのクルミなどを買いに行った。
 ボルビーゲルは航海に備えて、舟の手入れや舵の取り方などを習った。
 それから二人の少年は協力して森へ行き、まっすぐな木を切り出してきて、それで丈夫なマストをこしらえた。かわるがわるナイフを使って木の皮を削り、釘で打ちつけ、ヨハンナのシーツを張って、いろいろ工夫してみたあげく、ロープ一本で楽に上げ下げできるようにした。
 かくて興奮にうずまいた一週間はすぎてゆき、ついに満月の夜がやって来た。
 夜中だった。空はさえざえと晴れわたった。むらさき色の荘厳な丸天井に、大きなソヴリン金貨のような月が君臨し、あたりをすっかり、昼間のように明るく照らし出していた。
 今こそ出発のときだった。子供らは木靴の舟を、しずかな海へと引き出した。そしてその姿が波間にうかび、潮風がその帆をいっぱいに膨らませるようすを、息をつめて見守った。自分たちを待つ任務の重大さを心にめぐらすと、緊張のあまり身ぶるいするばかりだった。彼らは厳粛な沈黙のうちに、互いにほとんど一言も口をきかなかった。
 今こそ出発のときだった。彼らは岸辺に別れを告げた。足もとに砕け散る波がしら、たわむれるは月のかけら、こうして彼らは船出したのだ、いずくとも知れぬ地の果て、まだ見ぬ神秘の岸辺めざして。
 ああ、それからあとのことは全く夢のようだ! ・・・何という危険、何という冒険に向かって彼らは乗り出していったのだろう、果てない海原、刻一刻と変わりゆくそのすがた、さかまく大波、ゆれる船尾に帆布をまきあげ、交代で必死に乗り切った大嵐・・・ あるいはまた、四方のかなたまで広げられたうす緑色のコーデュロイ、ものうげに歌いながらゆったりとうねるその波のおもて・・・
 満天の星月夜、夜明けの海のうす青やみも見たし、紅と金に染まる夕映えも見た。陸に上がれば、小さな焚き火、ときによってはゆらめく蝋燭の光を囲み、質素な食事をとりながら次の日の旅程をたて、また自分たちを導きゆく運命の、偉大な驚くべき力について語りあう。こうして彼らは日に日にますます親交を深め、結束を固め、ついには岩根のように揺るぎない、不屈の友情を築き上げるに至ったのだ・・・
 かくて多くの土地を彼らは旅していった。みどりの牧草地がどこまでも広がる気持ちいい土地を過ぎた。しずかな村々も通り抜けた。名高い町のかずかずをこの目に見た。どこへ行っても、彼らは自分たちのことを告げて言った、私たちはかの古い歌に歌われている、満月の夜に木靴の舟で海へ漕ぎ出した、三人の汚れなき子供です、と。そしてこのように尋ねるのだった、ここは何という土地ですか、私たちがたどり着くよう定められている神秘の岸辺なのでしょうか。どなたか教えて下さい、私たちはどこへ行くべきか、何をなすべきか、ご存じの方はいらっしゃいませんか・・・
 彼らの対応ぶりの、また何とさまざまだったことだろう。ある場所では国を挙げて迎えられた、別の場所では石を投げつけられた。そのうちに彼らはもう、どんな扱いを受けても驚かなくなった、すべてをそのままに受け入れるようになった・・・
 そしてまた何と多くの、何とさまざまな土地を、彼らは訪れたことだろう。思い返せばそれらの一つ一つが、今もあざやかによみがえる気がする。・・・
 大きな都、てらてらと光るうわぐすりをかけた、赤いかわら屋根の家々が日の光に照り輝き、丘の中腹には王様の宮殿があって、白い石造りの優雅な尖塔がそびえ立つ・・・ そこでは忘れ得ぬ凱旋行列、通りには人々がつめかけ、窓という窓から身を乗り出して、ロバの背に乗ってしずしずと進みゆく三人の若き探究者たちに向かって花咲く枝が振られ、歓声とともに花びらの雨が降り注ぎ、彼らの訪問は俄かに華やかな祭礼へと変じゆくのであった・・・
 船がまた淋しい地方に入り、幾日も人の住まぬ荒野を岸づたいに行ったある日のこと、夜になって、いつものように、どこか適当な上陸地を見つけて船をつなぎ、火を炊いて憩うていたときのことだった、突然背後の森からガサガサッ! と音がして、ちょうどその前に座っていたヨハンナに、あとの二人が「危ない!」と同時に叫び、彼女が退いたそのとき、姿を現したのは、見るもおぞましい怪物であった。二本足で歩く、巨大な猿のような醜い顔をしたやつで、体はわにのうろこで覆われ、前足には鋭い鉤爪を持っていた、そしてそいつを振り上げて、すごい唸り声を発しながら襲ってきたのだ。アルベルトは少しもためらわず、すぐさま腰に下げていたナイフを手に向かっていって、その勇気を証しだてた。武器を持っていなかったボルビーゲルは、熱い燃えさしをつかんでやたらに投げつけた。そのかいあってまもなく怪物は退散したが、またいつ戻ってくるかと思うとおちおち眠られもせず、ただ火を守りながら、その夜はふだんよりいっそううち固まってまんじりともせずに明かしたので、夜明けまでがとてつもなく長く感じられたことであった。
 このことがあってから、ボルビーゲルも武器の必要を認め、枝を削って弓矢をつくり、常にこれをたずさえるようになった。のちにはそれを狩猟に用いて、大いにその腕を上げた。行く先々で、彼は一行に、力を与える肉の食事をもたらした。その獲物は、野うさぎやりすの類、野性のうずら、しぎや雁など、場所によってさまざまだった。時によってはもっと大型の動物、例えば鹿などを仕留めることもあった。
 こうして彼らは旅をつづけた。何から何まで、ただ自分たちでやってゆくことを覚えた。一つところにとどまることなく、やがてそれにも慣れてしまった。
 彼らは常に行動を共にした、決して互いに離れることなく、文字通り一つの魂であった。彼らは肩を並べて歩き、どこへ行っても三つの影法師が、同じ間隔で通りに影を落とすのだった・・・ポンペイ、マドリッド、カスティーリャの王国、パピルスのそよぐナイルの岸、西インド諸島の島々、運河を行く船の旗ざおにひるがえる洗濯物、宝石の飾りをつけた象たち、見たこともない、変わった果物や野菜であふれ返った朝の市場。
 彼らはまた見た、香料やぶどう酒を積んでゆくたくさんの商船や、重々しい装備の軍艦、嘆きの歌をのせてかなたへ去ってゆく奴隷船を。彼らはまたかずかずの危険に遭った、難船、食糧の欠乏、海賊の恐怖・・・。ヨハンナのばら模様のシーツは、何度めかの嵐ではやくもちぎり飛ばされてしまった。ゆるやかな川を漕ぎ下る途中、急に激流に飲みこまれ、舟ごとひっくり返されたこともある。あやうく水底に引きずりこまれそうになりながら、めいめいが必死に岩にとりついて、おのが身ばかり、辛くも救い出したのだ。霧深い海で、いきなり現れた巨大な汽船に、もう少しでぶつけられそうになったこともある。アルベルトのみごとな舵さばきで、間一髪でかわせなかったら、今ごろ舟はみじんに砕け、彼らの冒険物語もまた終わりを告げていたことだろう・・・ それでも彼らは屈しなかった。決して恐れず、諦めることもしなかった。なぜなら彼らは知っていたからだ、彼らはただ、どうしてもたどり着かなくてはならないのであり、それゆえに、間違いなくそこへ行き着くまでは、どうあっても途中で倒れたり、力尽きたりするわけにはいかないのだと。
 それゆえに彼らは進みつづけた・・・
 岩ばかりの荒涼とした土地の、高い高い山の頂きに築かれた都市では、堅固な城壁がぐるりを囲んでそびえ立ち、あたかも鷲の巣のごとく、昂然として外部の者を寄せつけなかった。大変な苦労をしてやっとのことで登りついてみると、門衛は彼らのやって来た目的を厳しく問い質すのであった。その後、しばらく門の内に黙ってひっこみ、彼らを外に待たせていたが、やがて突如、何の説明もなく、剣と盾を手にした屈強な兵士たちが、まるで地の表に降って湧いたかのように打ちかかってきたのである。・・・ 彼らは不意をうたれ、慌てふためいて逃げ出した。ところが道はあまりにも険しかった。どうやら敵の追撃はかわせたものの、途中、わずかなでっぱりを手がかりに岩山を下ろうとして、ヨハンナを庇ったアルベルトが足をくじき、動けなくなってしまったのだ。ボルビーゲルは彼を背負って降りつづけようとした。だが、背負うことはできても、背負ったまま降りるというのはとても無理な話だった。やむなく彼をそこへ残してゆくほかなかった。アルベルトは狭い岩棚の上に横になり、じっと息をひそめた。岩棚の上には一枚岩の壁面が大きくせり出して、ちょうどぐあいよく彼の姿を隠していた。遠くで重い靴音や、金具のすれあう音が聞こえ、兵士たちが引き揚げてゆくのが分かった。
 それから毎日、あとの二人は危険を冒してアルベルトのもとに食糧を届けつづけた。実を言うと、はじめはヨハンナの身を案じたボルビーゲルが、自分一人で行こうとしたのだ。けれども彼女は、置いてゆかれるくらいなら死んだほうがましだと、きっぱり言いきったのだった。彼女はパンと肉を入れた籠を持ち、ボルビーゲルのあとから登ってきたが、突然「いや! いや!」と叫んで、二倍も早く登りはじめた。というのは、アルベルトが身を隠している岩棚のへりに、肩をそびやかしてとまっている、いやな顔つきをした数羽のはげわしを見たからで、行き着くと、彼女は手にした籠を放り出し、上着を脱いで激しく打ち振って、彼らに喰ってかかった。
「あいつら!」
 激しい憎しみをこめて、彼女はつぶやいた。
 すると彼らはゆっくりと余裕を見せて翼を広げ、いったんはその場所を離れるが、しばらくするとまた何食わぬ顔でそこへ戻ってくるのだった。
 彼らは毎日、届けつづけた。アルベルトが回復して、自力で山を下れるようになるまで、一週間とちょうど四日であった。
 こうして再び、彼らは舟を進めた。やがて岸には少しずつ草木が生えいで、しばらくは、ガゼルのはねる大平原が続いた。その後、しだいに地形は変化を見せはじめ、からみあった密林が広がり、目もあやな極楽鳥のこずえをかすめて飛びすさう常夏の地へと差しかかった。うたがいもなく、かの暗黒大陸に入ったのだった。
 かの地の風物の奇怪なことは、音に聞こえし以上であった。そこで彼らは、にじ色のうろこをひるがえした巨大な海竜と戦い、遠くヨーロッパでは空想の産物とされている、人の顔をした大蛇や、一メートルばかりもある顔に、いきなり足が一本だけ生えた人間たちが暮らしている土地も見た。
 かの地をあとにしてからはまた、南太平洋に連綿と連なる、大小さまざまの島も訪れた。この地の住民はおおむね気持ちのよい人々であった。しかし中にはおそろしく敵愾心に満ちた連中もいて、ここでも彼らは苦労することになった。
 ある島に上陸しようとしたときのこと、舟をもやって船べりから一歩足を踏み出したとたんに、青銅の肌を持ち、きらきら光る槍をかまえた男たちが物陰から飛び出して、いっせいに襲いかかってきたことがある。少年たちは何とか逃げきったが、ひとり遅れをとったヨハンナが捕らわれの身となってしまった。彼らは彼女を後ろ手に縛り上げて自分たちの集落まで引き立ててゆき、広場の一隅にある狭い囲いの中に閉じこめた。
 彼らはけものの歯の首飾りをかけ、色あざやかな顔彩をほどこした、見るも恐ろしげな者たちであった。日がとっぷり暮れると、広場の真ん中には大きなかがり火がたかれ、どろどろと腹の底にひびく大太鼓がうち叩かれて、バナナの葉でふいた小屋の向こう、荒々しく足を踏みならし、踊り狂うその姿が、囲いのわずかなすきまからも認められた・・・。
 けれども彼女は、わざわざそんなものを見はしなかった。彼女の目は空に、数えきれぬほどたくさんの星が輝いている大空に向けられていたのだ。囲いは竹の枝を編んで組まれたたいへん背の高いもので、天井はなく、ラッパ形に少し反ったそのてっぺんのところから、ぽっかりとあいた大きな空を眺めることができた。ヨハンナは地面の上に仰向けになって、両腕を組んで頭をのせ、このすばらしい眺めにながめ入った。その目にはまた、風にそよぐヤシのこずえが見えていたし、耳をすませばそのやさしい葉ずれの音までが聞こえるようであった。ああ、自分は今夜にも殺されてしまうかもしれない、と、彼女は思った。けれど、この星の輝きはどうだろう。この眺めを一度も目にすることなく、つづいてゆく命に何の価値があるだろうか?
 しかしながら、岸に残された少年たちはむろんのこと、星空にながめ入って時間をむだにするようなことはしなかった。彼らはひそかに男たちのあとをつけてゆき、彼らがヨハンナをどこに隠したか確かめておいて、暗くなってから、闇にまぎれて彼女をその手に奪い返したのである。
 こうして彼らは再び旅をつづけた、風のまにまに船を進め、陸と海とを行きめぐった。季節は変わりつつあった。たくさんの渡り鳥が、群れをなして渡ってゆくのに行きあった。人魚たちが歌う歌声をきいた。真珠と海草とで飾りつけられた、月あかりの踊り場も見た。
 かなたの地にはさらに多くの、珍しい変わった国々があった。炎の国、エメラルドの国、月びとの国も行き過ぎた。
 炎の国は、国全体が炎に包まれているかのごとく、目にするもののすべてがあかく猛々しく、人々が持つものもまた炉で鍛えられた鉄の心であった。往来を行くうち、あまりの激しさ強烈さに、三人はしだい苦しく感ずるようになった。けれども尚も行くうちに、ついに彼らは悟ったのだ、この国を歩く唯一の方法とは、炎を避けることではなく、彼ら自ら炎となることだと。そこで彼らは互いに手を取って輪をつくり、その心にとなえて言った、己れは一つの炎、あかあかと燃える炎なのだと。するといつしか体に力がみなぎり、呼吸はふっと楽になってゆくのだった。そのすべを得てからはもう苦しくなくなった。のみならず、再び船上に戻ったとき、自分たちの体がほんとうに船を焼き尽くすのではないかと、しんから恐れたほどであった。
 エメラルドの国ではどこにいても、半透明にかがやく緑色の屋根を通して日の光が降り注いだ。それは湖の底に築かれた都市であった。かの地の人々は温和だった。使命を帯びた若者たちを気持ちよく迎え、またやさしく励まして送り出した。
 月びとの国に暮らすのは、昔、月からやってきた人々の子孫であった。彼らは知恵の深く、聡明な民だった。この国の建造物はみな、彼らがやって来るときに持ってきた月の石で造られていた。みがき方によってさまざまな表情を見せるうす青い色の石で、その美しいことは比類がなかった。色あいによっては、オーケストラのように荘重でもあり、重なりあった雲海のように軽やかでもあり、また泣き叫ぶようでもあれば、しずかにささやくようでもあった。彼らはそのようすにあまりに心打たれたので、この地を去って以来、目にするものすべてにいっそう深く心を注ぎ、出会うものすべてを慈しむようになった。ただ不注意に見過ごしていたばかりに気づかずに通りすぎてしまった、どんな美しいものがこれまでにあったかしれなかった。それを思うと実に心痛いほどだった。げに世界は巨大な万華鏡のごとくであった・・・どれほど辛く、困難なことがあってもなお。
 それゆえに、彼らは尚も行き進んだ。鏡の国、水晶の国、黄金の国も訪れた。
 あらゆるものが鏡でできたその国では、町の景観もそれにふさわしく、凝ったデザイン、きらびやかな装飾の建築が多かった。とんがり屋根にいくつもの尖塔、玉飾りのつぶをずらりと吊り下げた破風や、ベランダにバルコン、いろいろな模様のモザイク、鏡の小片だけを連ねてえがかれた、大小さまざまの壁画。町じゅう、あらゆる角度に光が反射するので、目がくらみそうにまぶしかった。
 水晶を彫ってつくられた国は、大規模な地底都市であった。都市全体は、通りに埋めこまれた灯りによって下から照らされていた。その灯りというのは実は一種の昆虫で、そこにはおびただしい数の発光虫が、群れをなして棲んでいたのだ。彼らはその食用とするある種の岩石や鉱物を求めて、たえず移動しながら光を発していた。それで、道路に敷きつめられた、なめらかに磨かれた水晶板を通して虫たちが光を発すると、水晶造りの町並は、ぼんやりと幻想的に照らし出されるのであった。
 黄金の国は、ミダス王が遠征してきて以来、あらゆるものが金に変えられてしまった都市だった。けれども、悲惨な思いをして苦い教訓を学ばされた王とちがって、ここの住民は、ただ黄金だけでりっぱにやってゆくすべを見い出した。それゆえ、この地では今でも黄金の木に黄金のりんごがなり、黄金のブタはほふられて黄金の皿に盛られた。そして、人々は日々祝宴を催しては、黄金の杯から飲むのだった。
 花咲くスペインの都も見た。かの地にあっては闘牛が、人々の情熱であった。ぴかぴかに磨いたボタン、白い手袋、帽子には羽飾りをつけた闘牛士が、競技場のまん中に立って真っ赤な布をひらめかす・・・猛り狂った暴れ牛が、土埃たてて突進する。黒光りするそのからだ、陽光に剣がきらめき、舞う・・・群衆はどよめいて、喝采を送る。
 ここではどちらかが力尽きて倒れるまで競技がつづけられた、人々を酔わせるものはその血であった。名誉の大きさは打ち倒した牛の数によって決まり、もっとも熱狂的な拍手が送られるのは、牛に突き殺されて死んだ者たちに対してであった。
 水上の都、火山の国も行き過ぎた。
 壁面や柱に彫刻を施された典雅な屋敷が立ち並び、町じゅう至るところ縦横に運河が走り、家々ははしけで結ばれて行き来する・・・
 あるいは火を吹く山、大地が唸り、ぐらぐらと揺れ動き、大音響と共に噴き上がる炎の柱、真っ赤な溶岩の流れ下る、恐るべき光景・・・
 はたまためくるめく色彩の乱舞、曲がりくねってうねりながら広がりゆくあやしい調べ、アラブの国で一人のロバ飼いに道を尋ねれば、彼は少年をやって自分の主人に知らせ、主人は奴隷をやって領主に伝え、領主は伝令をやって王に告げさせた。こうして彼らは思いがけなく、王に謁見することになる・・・信じがたく広大な白亜の中庭、厳かな儀式、きらびやかな衣をまとうて立ち並ぶ、何百人もの廷臣たち。そこで王は言うのであった、人はみな、すべからく己れの神秘の岸辺を求めるのだと。そして彼らを祝福し、彼らの代表としてアルベルトに授けた、束にダイヤモンドのはめこまれた、一振りの鋭い小刀を。
 彼らは尚も行き進んだ。何の目的もなく、ただより大きな塔を築くというだけのために、多くの命が費やされている国があった。ひねもすリュートをつまびいて人々の歌っている、こころよい調べに満ちた国もあった。
 昔、神々が住んでいたという国があった。家並の真っ白な壁は光に映え、乾いた丘の斜面にはオリーブが茂り、丘の上には神殿の廃墟が今なおそびえて、はるかな町をのぞんでいる。
「神々はなぜ行ってしまったのですか」
と彼らが尋ねると、人々は悲しげに答えた・・・
「人間たちがあまりにも悪くなってしまったからです。彼らはあまりにも弱く、弱々しくなり、貧弱で、つまらないものになり下がってしまいました・・・」
 彼らの船は行き進んだ。波のまにまに、七つの海を超えていった。
 渡り鳥が戻ってきて、もといた南の地をめざしてゆくのとすれちがった。
 ある日流れ着いた緑豊かな岸辺、谷の間ののどかな家々、淡い紅のばらが咲きこぼれる小道、きらめく陽光、ささやき流れゆく澄んだ小川・・・これらの光景はヨハンナの心に、ふと遠い日の記憶をよびさました。ああ、私が生まれたのはこんな家の一つだった。そこではいつも窓辺に花が咲き、テーブルには真っ白な布が掛けられて、パパとママと小さな妹たちと、幸せに暮らしていたのだ・・・ 心にはりつめた糸がふつりと切れた。その目に、やにわに涙が溢れ出した。それは頬を伝い、とめどもなくしたたり落ちて、やがて彼女はうずくまり、身も世もなく泣きじゃくった。
 アルベルトは何も言わず、その肩をしっかりと抱きしめた。今までずっと我慢して耐えつづけ、無理をして抑えていたその気持ちが、突如堰を切ってあふれたのだ。彼にはその気持ちが分かった。というのも彼自身、浮草のように漂い暮らし、明日はいずことも知れぬ身、飢え渇き、寒さに震え、まことに己れはこの世でもっとも惨めな者と感じて、人知れず涙をこぼす夕べも一度ならずあったからで、それでも尚も進みつづけたのは、運命の導くまま己れを投げ出し、その命ずるところに従ってどこまでも行こうとする、強靱な意志のなせるわざに他ならなかったのだ・・・。愛する人々とのおだやな暮らし、安定した幸福、それらすべてを君は捨ててきたのではないか、それらすべてよりも己れをよぶ声のほうを選び取って来たのではないか、はじめから分かっていたはずではないか?・・・彼は、そう言いはしなかった。そんなことは彼女自身、誰よりもよく分かっていたのだから。
 かくてヨハンナとアルベルトとはなおも一つの魂であった。ところがどうしたわけか、ボルビーゲルばかりは少しちがった。彼はもう、あとに残してきたもののことはすっかり忘れてしまったようだった。思い出して悲しむことも、懐かしむこともなかった。その瞳は決して振り返ることなく、ただ進みゆくべき行く手だけを見つめていた。彼自身はもう忘れてしまっているのかもしれなかったが、昔、彼が飼っていた八頭のやぎによく似ていた。その瞳は異様な輝きを宿し、その輝きのゆえにまた、どんな苦しみも彼には影響を及ぼさないかに思われた。まるですべての労苦を免れているかのよう、ガラスを一枚へだてて世界を見ているかのようであった。
 彼はいかなるときも、いちばん面倒な仕事を進んで引き受けた・・・そして、まるで何でもないふうをして片っぱしからそれらを片づけてゆくのだが、そのようすはまるで、何か魔法の力を授けられているかのごとくであった。それが魔法であるとすれば、それはたぶん、あのはとのかけた魔法だった。はとはあれから一度も彼の前に姿を見せたことはなかった。彼の方でもまた、その存在をほとんど忘れてしまっていた。けれども、彼らがどこへ行っても、あのはとはきっとボルビーゲルのことをどこからかひそかに見守りつづけていて、そのことは彼も、心のもっとも奥深いころでは知りまた感じてもいたのだ。
 しかしながら、そんな彼の瞳を見ているうち、アルベルトはしだいしだい、ひそかにこんな疑念をかきたてられるようになった・・・そこにはすでに、もしやあの神秘の岸辺の姿が映っているのではあるまいか? だからあのような力を得ているのではないか? 彼はただ一人、実はとうの昔にそこへ行き着いているのではないか、その場所を知っているのではないか?
 そんな思いが高じてくると、彼は時としてボルビーゲルの肩をつかんで激しくゆさぶり、「・・・それはどこなのだ? どうか教えてくれ、ぼくたちに隠さないでくれ!」と言って詰め寄りたい衝動に駆られるのであった。しかし、そこでボルビーゲルのいかにも罪のない、無邪気に澄んだ瞳に出会うと、次の瞬間にはもう後悔し、そんな思いは失せてしまい、彼は目を伏せて己れの心を恥じるのだった。
 こうして、少しずつ、ほんの少しずつ、彼らの間には亀裂が、目に見えぬほどの亀裂が生じていった。
 航海は尚もつづいた。何千羽ものしぎが羽を休め、太古の生き物のようなふしぎな姿をした野雁が互いに鳴き交わす、夕暮れの大湿地帯も見た。
 群生する葦の間で怪獣ビヘモトが泥の中に身を沈め、レビヤタンがその恐ろしい口をぱっくり開けている、大きな大きな川も見た。
 幾千の島を連ねたフィヨルドの湾、毛皮を着こみ、橇を走らせるラップ人の姿も見た。
 ただ白い大陸がどこまでもつづく、死んだように静まり返った土地があった。凍てつく海にいくつもの氷塊が浮かび、来る日も来る日も、目にするものといえばわずかな海鳥とあざらしばかり、けれども色もかたちも千変万化する、幻のようなオーロラが、彼らの心を慰めるのであった。
 すっかり氷に閉ざされた、石ころだらけの誰もいない浜辺に、大昔のゾウのようなバクのような、頭の三つある巨大なけものが、ひとりぼっちでうろうろして吠えたけっている姿も見た。
 こうして彼らは行き過ぎた、数知れぬ町々、多くの人々のあいだ、名もなき岬、淋しい入り江、荒れ果てた湾を。
 こうして彼らは行き過ぎた、数知れぬ港、大きな船や小さな船の出入りする停泊地を、岩かげに抱かれたささやかな漁村から、夜にはかがやく灯りが波のおもてに照り映える、にぎやかな港町まで。
 たくさんの国があった、さまざまなできごとがあった。どれほどの年月が流れただろう、いつしかボルビーゲルは、もはやかつてのような、やせっぽっちの少年ではなく、しなやかで強靱な肉体をもった美しい若者となっていた。アルベルトも今やりっぱなますらおだった。小さな少女だったヨハンナは、花も恥じらう清らかな乙女に成長していた。
 それまでに、舟も何度か変わった。もはや子供用にしつらえた、木靴の舟ではなく、今や彼らを運ぶのは、白鳥のように首をもたげた美しい流線形の、堅固な樫材の帆船であった。
 こうしてある日、ついに彼らは西の果ての島へ行き着いた。ヒースの間からごつごつした岩面ののぞく、荒漠とした丘がつづき、ふきすさぶ風、けわしい崖、羊の群れ、低く垂れこめたうす青色の雲、風化してくずれかけた古城や立石群。
 舟をかたどった古代の人々の石墓は、どれもみな西を向いていた。
「なぜ、どの墓もみな西を向いているのですか」
と尋ねると、その国の人々はこう答えた、
「彼らは信じていたのです・・・西の果て入り日のかなたに、苦しみのない国、幸せな人々の住む黄金の国があると。あなた方の探しておられる神秘の岸辺も、あるいはそこに見いだせるかもしれません・・・ どうぞ行ってみて下さい。あなた方に幸あらんことを。」
 そこで彼らは再び出発した。
 もうだいぶ世界の果て近くまで来ていることを彼らは知っていた・・・というのは、いつの頃からか空はこの世ならぬ黄色い光を帯び、少しずつ、海が傾きはじめていたからだ。地のおもてを覆っている水がその果てからあふれ出して、かの名高い滝となって宇宙の底へ流れ落ちるというその場所まで、あとどれだけあるか知れなかった。
「私たち、滝と一緒に、地球のはしから転げ落ちてしまったらどうしましょう!」
と言って、ヨハンナは嘆いた。
「大丈夫さ、神秘の岸辺を見つけるまでは、ぼくらは決して死なないことになっているんだ」
 アルベルトが慰めた。
「それ、たしかね?」
「そうとも」・・・
 こうして航海はつづき、幾日めかのおわりに、彼らはやっとまた、かなたに陸地の影をみとめた。
「あれが神秘の岸辺かしら?」
とヨハンナは言った。おそらく何百回、何千回と繰り返したことばだった。
 近づいてみると、それは深い森に覆われた土地で、午後の陽の金色の光を受けて、淡いむらさき色にかすんで見えた。岸辺全体はしんと静まり返り、生き物の気配も全くなかった。なぜだか近づいたときから、ボルビーゲルは胸さわぎがして、背中が逆毛立つようにぞくぞくするのを感じた。
 彼らは上陸し、アルベルトは舟を引き上げ、ボルビーゲルは弓矢をたずさえて狩りに出かけた。
 彼は、えものを求めて森の奥深くまで分け入っていった。けれどもこの日に限って、行けども行けども鳥影一つ、野うさぎ一匹見つけることができなかった。
 森はまるで死んだように静かだった。彼はなおも歩を進め、ついにはあまり深くまでやって来たので、もと来た道をすっかり見失ってしまった。
 あてもなくさまよううち、やがてぞっとするような深い谷間の入口にさしかかった。この下に降りてゆけば、何か見つかるかもしれない・・・彼はけわしい崖に沿って、そろそろと少しずつ下りはじめた。大変な下りだった。手がかりとてほとんどなく、岩肌は苔むしてつるつると滑った。まるで永久に下までたどりつけないのではないかと思われた。けれどもその断固たる意志と、驚くべき粘り強さとをもって、彼はひたすらに下りつづけた。やがてだんだんに谷底へ近づいてきた。もう少しだった。ところがあとほんの数十フィートばかりというところになって、彼はふいに足場を失い、まっさかさまに転げ落ちてしまったのだ。あっと思ったときにはもう、その体は固い岩盤に打ちつけられていた。鋭い岩の刃がナイフのように皮膚を切り裂いた。
 激しい衝撃に半ば気を失いかけ、彼はそこに横たわったまま身動きもできなかった。もものつけ根からあふれ出た血が岩肌にどす黒く滲んでゆくのを、なすすべもなく、ぼんやりと見つめた。近くに流れはあるだろうか、ともかくもシャツを裂いて・・・そんな考えがちらりとかすめたが、それっきりだった、とてもそんな力はなかった。
 こんな険しい谷を下ろうと企てたのが、そもそも無謀だったのだ。彼にはよく分かっていた。けれども彼は、ただどうしてもえものを手に入れたかった。自分の腕にかけたつまらぬ誇りなどのためではなく、ただ彼の仲間、ふしぎな力によって引き寄せられ、奇蹟のようにめぐりあった仲間たち、長く辛い旅を共にしてきた、彼自身の魂のような仲間たちのために。
 あの二人と別れてから、もうずいぶん長い時間がたっていた。今頃、ひどく心配しているに違いない。彼は知っていた、彼らもただ彼の無事な姿を目にできさえすれば、粗末な食事などまるで意に介さないことを。けれども、ああ! 戻るにしたって、もう一度この崖を登りきるなんてとても無理だ、よし登れたとて、彼らのところまではまた何時間もかかってしまう。それにまた、例え彼らの方が探しに来てくれたとしても、こんなところにいたのではとても見つからないだろう。・・・
 そう思ったとき、彼は急に深い疲れを感じた。疲れと、そして、激しい渇きのような孤独とを。
 長い航海ではじめてのことだった。彼は最初の日に、彼ら三人のともしびとなることを誓った。そしてその約束を、今日に至るまで、あたう限り忠実に守ってきた。いつの日にも彼らを守りまた支え、決してその足手まといとなるようなことはなかったのだ。けれども今、彼は己れの力が枯れてしまったように感じた。彼の心はそのことに深い悲しみを覚えた。
 と、そのとき・・・彼はたしかに聞いたのだ、いつか一度だけ夜明けの夢に現れたきり、もうずっと姿を見せることもなく、彼を呼ぶこともなかったあのはとのよび声を。
 彼は顔を上げ、耳をすませた。うずくように懐かしく、慕わしく、喜ばしい気持ちがこみあげてきて、彼は思わず微笑んだ。それはじわりと広がって豊かに彼を包みこみ、彼は目を閉じて、深い深い吐息をついた・・・ああ、もう何年ぶりになるだろう・・・急にその体に、命の息が吹きこまれたかのようであった・・・。
 ところが、そのとき彼は、自分のうちにもう一つの思いが、もう一つ別のいとわしい思いがかすかにうごめくのを感じて、はっとして目を見開いた。
 それは、激しい苛立ちと・・・怒りだった! なぜなら彼は、今この瞬間に、自分が生まれてこの方、いや生まれるよりももっと前から、その生涯を彩ってきたすべてのできごと、喜びと悲しみ、苦悩と情熱、経めぐってきた土地や、なしとげてきた事柄、出会った人々、すべてがこの小さな存在によってあらかじめ定められ、運命づけられていたことを、かつてなくはっきりと、色あざやかに理解したからであり、それゆえにすべてがその支配に、その恐るべき専制支配のもとに否応なく服従せられていることを、絶望的なまでにまざまざと思い知ったからであった。
 荒れ狂う嵐はたちまちにして、つい今しがたの安らかな思いを跡形もなく流し去ってしまい、気づけば彼はその痛みも忘れて立ち上がり、はとの声を一心に追って駆け出していた。今や燃える怒りを胸に、すっかり別人のようになって。
 はとは昔のように、甘く軽やかに、幻のように誘った。こまかく編まれたレース模様の梢の間から時折かすかな影を見せ、ボルビーゲルの行く手を導きながら。彼ははとの姿を追って、どこまでもどこまでも走りつづけた・・・。
 突然視界が開けて、目の前に広がっていたのは、鏡のようにかぎりなくなめらかな、深いすみれ色の湖であった。ところどころ、藺草と低灌木の群れ生えた湿原の向こう、まるで見渡す限りに、ほとんど対岸の線も見えぬほど雄大な姿を見せている。
 しずかだった。波一つなかった。鳥たちの鳴き交わす声は森の中に忘れ去られてしまい、空はきれめなく天を覆う陶磁器のように憂いを帯びて、陽の光が地上に降りつもる音もなかった。
 岸辺に枝を広げた美しいヤナギの木の一つに舞い降りて、はとは今こそはっきりと、その全身を現した。そしてあのいにしえから変わらぬ、底知れぬ光を宿した紅玉の瞳をまっすぐに向けて、彼の目をじっと見つめた。
 そしてそのとき、何を彼に告げようとしたのか? 今となっては、もう永久に分からない・・・
 怒りに我を忘れたボルビーゲルは、弓の背をむんずとつかみ、一歩、はとの方へ踏み出した。どうするつもりだったのかは自分でも分からない。はとはなおも彼を見つめた。・・・さあ来なさい、わたしはここにいる、まるでそう言っているかのようであった。さあ来なさい、何をぐずぐずしている? お前はわたしを射落としたいのだろう、それがお前の望みなのだろう? わたしにはよく分かっている。早く望みを遂げなさい、そうしたらお前は自由になれるだろう。
 何をしているか分からないまま、彼は手にした弓に矢をつがえ、はとに向けて力いっぱい、ぎりぎりと引き絞った。はとは少しもたじろがず、しずかな目を彼に注いだ。はとがそのとき逃げてくれればいいと、驚いて飛び去ってくれればいいと、彼自身、どんなに願ったかしれなかった・・・そんな相手ではないことくらい、よく分かっていたはずなのに。彼とはととは永遠とも思えるほど長いあいだ、たがいにじっと見つめあった。実際、たしかにそれは一つの永遠だった。
 そのとき、矢は彼の手から放たれてまっすぐに飛んでゆき、正しくはとの心臓を貫いていた。はとは白い花束のように、打ち殺された殉教者のように、追放された天使のように落ちていった。うめきもせず、声もたてず、全く何の未練もなく、さっと翼をひるがえしてその身を投げ出した。そしてそのとき、あの謎のような微笑をちらと浮かべたのを見たように思ったのは、彼の気のせいだったかもしれない。
 その体が地面を打つ、軽いぱさりという音を聞いて、ボルビーゲルはようやく我に返った。そして自分が恐ろしい、取り返しのつかないことをしてしまったのを見た。彼は弾かれたように走り出し、水を割ってヤナギの木の根元へ駆け寄った。
 はとは完全にこと切れていた。ボルビーゲルほどの弓の名手はどこにもいなかったのだ。胸の真ん中を射抜かれてぐにゃりと首を垂れ、ひとすじの血を流して横たわっているその骸を、彼はそっと両てのひらで持ち上げた。それはただ一羽のはとにすぎなかった。全く、それ以上の何物でもなかった。軽く焼いたマフィンのようにきれいな羽色をし、肩には黒い紋章をつけた、どこにでもいるはと、運悪く射手の放った矢にあたって、そのはかない命を散らしてしまった、ごくふつうのじゅずかけばとであった。
 彼は一瞬ぶるっと身ぶるいして、己れの目が信じられずに立ち尽くした。それから愕然として、がっくりと膝をついた。
 魔法は消えたのだ。神秘は暴かれてしまった。まばゆい光も色褪せた。
 こんなに簡単に・・・こんなに簡単に! 地上のものではないはずだった、人の手などにかかるわけがないと思っていた、彼より強いと信じていた、結局ははとの方が勝つのだと知っていたはずだった!・・・
 そのとき、ボルビーゲルの目から光が消えた。彼は今自分の体から、魂の力がみるみる流れ出てゆくのを感じた。なぜなら彼は知ったからだ・・・まことに彼はみずからの手で、己れ自身を殺してしまったのだということを。
 彼がいつまでたっても戻ってこないのを心配したヨハンナとアルベルトが、手に手を取ってからまりあった暗い森を抜け、彼の名を呼びながら長いことさまよい歩いて、ようやくのことで湖岸のヤナギの下にその姿を見い出したのはこのときであった。
「ボルビーゲル!」
 二人は同時に叫んで、駆け出した。アルベルトの方が早かった。
 ヨハンナは途中で足をとられて転び、水のおもてに手をついた。泥水が顔に跳ねかかり、着物のすそと両腕がひじのところまで真っ黒になってしまった。が、すぐまた起き上がって走り出した。
 するとボルビーゲルはふり向いた。けれどもそのあまりの生気のなさに、二人はぞっとして思わず立ちどまった。その瞳はされこうべのそれのようにぽっかりと暗く虚ろで、その目は全く何も映してはいなかった。まるで心ここにあらず、二人の顔さえ分からないかのようであった。
 何が彼をこんなふうにしてしまったのか、彼らには全く見当もつかなかった、けれどもともかくももとの岸辺まで連れ帰ろうと、その両肩をそれぞれ一方ずつ支え、次第に迫る夕闇の中、舟をつないだその場所めざして歩き出した。
 よろめく足取りで森の中を行きながら、彼の意識は朦朧として、感覚もなく、時間も距離も分からなくなった。その心には過去と現在とが交錯し、いつしか彼は、ずっと昔、幼い頃遊んでいた森の中を通って家に帰るところなのだと思った。父親の本がほこりをかぶって山と積まれた、暗い、しめっぽい屋根裏部屋の情景が浮かんできた。そこで読んださまざまな本の、さまざまな場面の一つ一つが色あざやかに甦ってきた。そして、あの頃激しく憧れていたもの、心ひそかな望みをもまた、急にはっきりと思い出した。
 英雄になること! ・・・そう、それだった、彼が夢見てやまなかったのは。まさしくそれだった、はとが彼に約束したこと。信じがたいほど遠い日のできごとだった、果たされぬ約束だった。そして今、夢は夜明けの愛のようにはかなくも消え・・・いや、それはほんとうに消え去ってしまったのか? あるいは彼自身それと気づかぬまま、すでに実現していたのではなかったか?・・・ 苦しい船旅、たくさんの危険、日々のパンにも事欠き、粗布をまとうてさまよい、明日の身の上も知れぬ生活、そんな生活を強いられた幾歳月・・・ 英雄であるとはこういうことだったのか? これが英雄になるということだったのか?
 しだいに彼の体は燃える燠のように熱くなり、支えている二人は自分たちまでめらめらと燃えだすのではないかと思われた。汗が滝のように流れ落ち、そのくせ歯をガチガチならしながら、どうしようもなく震えているのだった。
「ひどい熱だ・・・」
 アルベルトが彼の額に手をあてがってみて言った、
「一刻も早く戻らなくちゃ・・・火のそばに寝かせて、あっためてやるんだ」
 二人はできる限り急ごうとしたが、彼の体の重みはずしりとその肩にかかり、進めば進むほどいっそう重荷に感じられるのであった。そのうちにとっぷりと日も暮れてしまい、枝々には蛇のように垂れ下がった蔓に大きな純白の花々が、魔性のごとき緑色の燐光を発して目を惑わし、彼方ではこの世ならぬ歌声の鳥たちが互いによび交わし、しじゅう、姿を見せずにまわりを走りまわる異形のものたちの気配や、足音、低い口笛、葉ずれの音が、示し合わせたかのようにそろって彼らを脅かし、まるで生きた心地もないほどだった。
 それでもとうとうたどりついた、やっとの思いで彼らは岸辺にたどりつき、すぐに勢いよく火をたいて、乾いた地面の上にボルビーゲルを横たえた。そしてその唇に水を注ぎ、厚い毛布で全身をすっぽりとくるんでやった。
 一晩中、ボルビーゲルは苦しそうにあえぎ、譫言を言い、がたがた震えつづけた。汗でびっしょり濡れたくしゃくしゃの髪を、ヨハンナは自分のハンカチで拭いてやった。二人は夜通し、交代で彼の看護にあたった。けれども心の底では、彼らはもう、知っていたのかもしれなかった。あのときふり向いたボルビーゲルの顔をみとめた瞬間に、すでに分かっていたのかもしれなかった。魂の死の訪れを受けた者は、もはやどんなにしても、生きつづけるすべを持ちえはしないということを。
 明け方、溶かした黄金のようなあけぼのの光が貝紫の雲間にさしそめる頃、勇者ボルビーゲルはしずかに息を引き取った。
 ヨハンナとアルベルトは彼をその岸辺に葬った。幅広い布にすっかり覆われた彼のなきがらを、舟の上からしずかな波の間におろし、それがゆっくりとみどり色の水の深みへ沈んでゆくのを言葉もなく見守った。
「・・・ここが神秘の岸辺だったのね」
と、ヨハンナがそっとささやいた。
 彼らははっきりと感じていた、こうして今、生と死と、あらゆる苦しみや疑いを越えたところで、三つの魂が再び一つに、しっかりと結び合わされたことを。
 それから二人は、悲しみにうちひしがれて沈黙に陥り、もはや鳥の声一つ、葉ずれの音一つ聞こえなくなってしまったかの岸辺を離れ、帆を上げて、桃色の朝雲のいっぱいに広がった銀色の海へと再びこぎ出していった。
 そしていつか・・・ずっとずっとのち、長い長い時を経て、その顔には深くしわが刻まれ、その髪は雪のように白くなって、凍えるような真冬の晩に、ぱちぱちと燃える炉端に腰を下ろし、自分の孫や、ひ孫たちに囲まれながら、炉ばなしに、昔語りに、彼らのうちどちらかでも思い起こすだろうか、若き日の情熱、運命の声の告げるまま、遠き地の果てから果てへとさまよい、自分らの探す、彼ら自身もあずかり知らぬ何ものかを求めて諸国の辻々を行き巡った、あの驚くべき、まるで信じられぬ、夢のような日々のことを? それでもなお、それらの日々はまごうかたなく、厳然としてここにあって、ゆきすぎしものども、今日あるくさぐさ、来たるべき人々なべてのはるかかなた、燦然として、永久に光を放ち、輝きつづけるのである。































  


Posted by 中島迂生 at 02:15Comments(0)じゅずかけばと

2010年06月13日

狼の女王(完全版)

愛蘭土物語(あいるらんどものがたり) ゴロウェイ篇8
狼の女王 The Queen of Wolves (完全版)
フィークルの物語 
2006 by 中島 迂生 Ussay Nakajima



1. フィークルへ
2. たちの悪い犬たち
3. フィークルにてⅠ
4. フィークルにてⅡ
5. ティンカーたち
6.フィークルにてⅢ
7. 物語<狼の女王>
8. <狼の女王>をめぐって~ケルトの哀しみ

**********************************************

1. フィークルへ

みんなおいで、私たちはゆくのだよ、
つまらぬごたごたに煩わされることのない、もっと広やかな土地へ、北の地へ・・・
ゲルマ、ハガル、シグ、シロク・・・
いけない、いけない、そっとしておきなさい・・・
彼らにかまってはいけない、このままそっと、我々は立ち去るのだ・・・

          ***  

 旅の終わりはフィークルであった。
 フィークル、東クレア、人知れずひっそりと時の流れに身を沈め、のどけくうつくしい、牧歌そのものの風景のどこまでも広がる、なだらかな丘陵地帯である・・・

 かの地にはゆかりの人があったのだが、訪ねてゆくことにそうこだわっていたわけではなかった。
 けれども旅の途に、かの地を訪れたといういふ人にたまたま行きあって話を交はし、かの地がどんなに美しかったか、その星空がどんなにみごとであったか、聴かされるうちに矢も楯もたまらず思いあくがれて、ゴロウェイからエニスへ戻る途中で廻り道して訪れたのだ・・・

 街道はのどかであった、うららかな秋の日、さんさんと照る日の光に包まれて、海のおもてもおだやかに凪ぎ、村々も木立もしずかな満足のうちにたゆたうようである、いくえに重なった花びらのようなゴロウェイ湾のまわりをゆっくりと巡ってゆく、ゆけどもゆけども土地は平坦で、メドウの広がる同じような景色がうちつづくばかりだ・・・

 途中、イェイツの住んでいた塔へ至る道にさしかかる、・・・バラッドに歌われているアトゥンリィへ向かう標識もある、心のなかのアイルランドが道を得てつながってゆく・・・

 空はおだやかで明るいが、やがて雲むらがいくつもいくつも空を渡ってゆき、そのたびにざあっと雨を降らせていった。・・・
 内陸へ向かう道を見当づけるのに少し手間取って、いちど別な道へ入ってしまった・・・またここでよけいな時間を食ってしまう・・・大丈夫明るいうちに辿りつけるだろうかと、少しく不安になってくる・・・
 道ばたで地図を広げてみると、まだ行程の半分も進んでいない。今日は長い移動だのに、ぐずぐずしていて出るのが遅くなったのだ。・・・いけない、いけない、少し急がなくては・・・

 ゴートをすぎて二里ばかりは開けた牧草地のなかに通る街道筋だが、やがて傍らにひとつ湖をすぎ、一本わきへ逸れるとふいに景色が変わる・・・ふいに人を惑わす草深い荒野、急にすれ違うものもない、大地の色あいも違ってくる・・・それまではただみどり一色の牧草地だったのが、いまは針葉樹林のダークグリーンと、灌木のチャコールグレイと、沼地のスゲの淋しい茶色とである・・・ 匂いもちがう、空気の肌ざわりも違ってくる、田舎道に入ったのだ・・・ 森閑として物音もない、ひっそりとしずかだ・・・雲に覆われた空の下で、くずれかけた石垣ごし、葉の落ちたさんざしのこずえが黒々と斜めにのびるようす・・・ その何の変哲もない光景を通りすがりに眺めるだけで、私はこみあげる涙をおさえねばならないほどだった・・・ こうしたものに私の魂は属しているのに、今の今まで、いったいどれほどのあいだ引き離されてきたことだろう・・・

 広がる雲の端のほうから鈍い銀ねずと黄色に染まって、足早に雨が近づいてくるのが分かる・・・さーっとひそやかなつぶやきで野をみたし、やがてしずかに雨がやってくる・・・みるまにさまざまな色あいをやわらかく溶けあわせる・・・ あとになってから、私はいくたびとなく荒野のあの道を記憶のなかでたどり直し、目に焼きついたその情景を思い起こしては繰り返し愛した・・・ そしてすっかり記憶しきれずに通り過ぎてしまった景色を惜しむのだった・・・ できることならいつまでも、ずっと彷徨っていたかった・・・ しかしながら、じっさいにはそういうわけにもいかなかった、雨あしはますます強くなってくるし、暗くなる前に宿を探しあてなくてはならないのに道はまだまだ遠く、しかもそれははじめて行く道だったのだから。・・・

 道のりは遠く、なかなか着かなかった。野ぶかい細道を進みゆくほどに、やがてかなたに幅広く盛りあがった丘がひとつ見えてくる・・・ 青みをおびた針葉樹林と、切り開かれて石垣で区切られた牧草地と半々で、左右にすそを広げ、どっしりと風景のなかに君臨するようだ・・・ 道はやがて、しずかな水をたたえたまるい湖ひとつ、そのまわりにちょっとした集落を抱えたところをぐるりと巡り、左へ折れて、丘の左側へ廻っていた。・・・

 丘の斜面をななめにのぞむ、ちょうど日暮れちかい日の雲ごしのうすあかるみに照り映えて、メドウはほんとうに宝石のようにあざやかなエメラルドグリーンにかがやき、トウヒの林は青く沈む・・・ふりさけ見てかなたの空、雲むらは灰色と黄色とがまじりあい、その晴れ間には澄んだ水色。色づかいの微妙なことは、画家のパレットのようだ・・・ 私は心打たれて佇んだ・・・ 見上げた空にはあおざめた蒼貌が、ふり向いた横顔が、雲のおもてに幻にうかび、長い衣のすそを翻して歩み去りゆくその後ろ姿を空に描いて・・・ この土地のありよう全体が、去っていったひとの面影をとどめているようであった・・・


2. たちの悪い犬たち

仄暗い木立の道をたどりゆく、雨はいっこうに降りやまない。・・・
 峠近くの一軒家、酒場と雑貨屋がひとつになったようなところに行きがかり、食料品を少し買いこんだ。
 まだ開いていてくれて助かった・・・
 ひと休みしてゆきたかったけれども、もう夕闇が迫っている。
 急がなくては、気が急いて、疲れてはいたが、店先でリンゴをひとつ齧っただけでまたすぐ出発した。

 秋のみじかい日はたちまち暮れてしまう、もうとっぷりと暗い。
 梢の下は尚暗い、なおも道のりは遥か・・・
 山のなかにぽつんとひとつ教会があって、あかあかと灯がともり、人びとが集まってきていた。
 夜のミサだろうか、何があるのだろう?・・・
 
 それからまたしばらく行くと、農家の門のうちからひと群れの犬どもが飛び出してきて、けたたましく吠えながら追いかけてきた。
 たちが悪くて、獰猛な奴らだった。
 歯を剥き出して唸り、むきになって追ってくる。
 らばがぶるぶる震えて、いまにも全速力で駆けだそうとするのを、しっかりと手綱を引いて歩調を一定に保ち、断固として犬どもを怒鳴りつけた。
 ところが、なかの一頭が飛びついてきて、私のかかとに噛みついた。
 このときはさすがに頭に来て、考える間もなく力任せに鞭をくれてやった。
 地元の人たちが履くのと同じ、頑丈な長靴を履いていたのは幸いだった。
 そいつは悲鳴をあげて飛びのいたが、あとでいっそう激昂して吠えついてきた。
 まったくたまったものではない・・・いったいどこのバカ農夫が、こんな奴らを野放しにしているのだろう?・・・
 と、そこへカンテラ下げて、一台の荷馬車が通りかかった。
 こいつはありがたい・・・私は犬どもを追い払ってもらおうと思って、道のまん中へ飛び出して大声をあげ、手を振った・・・
 ところが、こいつらは全くずるいのだった。
 荷馬車が私に気づくようすもなく通り過ぎていってしまうまではわきの方へ寄って、こそこそおとなしくしておいて、それが行ってしまった途端にまた悪魔のように吠えついてきた。
 さいごの一匹はしつっこく、ずいぶん遠くまでまといついてきた。
 そいつがようやく追ってくるのをやめて、我々だけになったとき、私ははじめて手綱をゆるめた。
 恐ろしさのあまり気が違いそうになっていたらばは、その途端に尻に火がついたような勢いで泡を吹いて駆けだした。
 どんなに鞭をくれてやったところで、あんなに早くは走らなかっただろう。
 こちらは振り落とされないよう、しがみついているのがせいいっぱいで、夜道を半マイルばかりも行ったところでようやく並み足に戻ったことであった。・・・
 
 星あかりもない、暗い雨の晩である。・・・私もらばも、疲れて気力を失いかけてきた。・・・
 それに、ほんとうにこの道でいいのだろうか? もし間違っていたら?・・・
 でももう、この雨のなかで立ちどまって背嚢を探り、どうかしてろうそくの灯りで地図を広げるだけの力が残っていない・・・

 道沿いに民家が見えた。道を確認しようと、らばをとめて軒先へ寄る・・・
 やはり犬がいて、板塀の内側でけたたましく吠えている。
 けれども、激しくノックしても、叫んでみても、誰も出てこない。
 諦めて道へ戻ったところで、向こうからまた一台、馬車がやってきた。
 私は両腕を振りまわして馬車をとめた。
 フィークルまでは、この道でいいんでしょうか。
 御者はうなづいて、来た先を振り返る。この道をまっすぐ、三マイルだよ。・・・
 それはよかった、ありがとう・・・ 私はほっとして、力も新たに道を急いだ。・・・


3. フィークルにてⅠ

 ようやく村に辿りついたときには、くたびれきって口をきく元気もなく、村もハイ・ストリイトにわずかに灯りが灯っているきりで、何が何やら、分からなかった。
 だから次の朝、起き出してぶらりと通りのところまで出てみると、天国のように美しい景色が広がっていたので、びっくりしてしまったのだった。
 石垣の向こうに一面のメドウが広がり、そこを斜めに突っきって、右手からずっと奥へ、背の高いチェスナットの並木道がのびていた。
 それが彼方の木立に尽きるあたりに、ぽつりと一軒、壁をクリーム色に、ドアを重たい赤色に塗った家がある。
 チェスナットの梢は、はじの方からこがね色に染まりかけていた。
 これが、私がフィークルにいたあいだ、いつも一日のさいしょに目にした景色だった。
 
 ようやく雨が上がっていた、一面の空を雲が覆って、風ひとつない。
 それにしても、なんときりりと澄みきった空気だろう・・・ヘルモンの露の下りしがごと。・・・
 
 メドウの裏手にはさんざしの茂みがあって、赤い実をたわわに実らせていた。
 さんざしの実が色づき始めているのには気づいていたけれども、はじめてとっくりと眺めたのはこちらに来てからだった。
 樫の葉のミニチュアみたいなかたちをした葉はすっかり落ちてしまい、ただ、長い鋭い棘のある裸の枝に、隙間なくぎっしりと実がついているばかりだ。
 その枝々の、かわいた灰色を呈してからまりあい、ねじれよっているさまは、干からびた骨や、老女の節くれだった細長い指などを思わせる。
 そこに、つやつやとまるい、深紅の実の幾千が奇妙なコントラストをなす・・・まるで百才の老女の指にはめられた珊瑚の指環、いや、大粒の、かがやくルビーみたいに。・・・
 もえる炎の色のようでもあり、血の色のようでもある。・・・

 どの生垣にも、たいていさんざしの木がまじっている。
 こんなにどこにも彼処にもあったのかと、驚くほどだ。
 この実の夥しい数の赤いいろが、秋の大地の基調のひとつをなしているのだ。
 牧草地と木立、それに家々・・・そこにそちこちのさんざしの生垣。・・・
 遠くからのぞむとぼうっと赤い色にけぶって、風景に沈んだ赤の調子を加えているのだ。・・・
 この土地の物語にもまた、アクセントとして沈んだ赤の調子を加えているのと同じように。・・・

 かの地では、村の外れにある酒場の裏手にテントを張らせてもらっていた。
 主人はたいへん気持ちのよい人で、何もうるさいことを聞かずに放っておいてくれた。
 中庭にある井戸も自由に使ってよかった。
 けれども、酒場はたいてい昼近くならないと開かないし、それより前に彼らを煩わすのは忍びなかったので、水はたいていここではなく、朝一番に一キロばかり先の、村の教会までぶらぶら散歩して、そこの井戸から汲んでくることにしていた。
 この朝まだき、往来のしずかなうちの散歩が、私にとっては浄福であった。
 村へつづく一本道からのぞむ風景の、比類なくうつくしかったことは。・・・
 道の両側につづく、黄色く色づいた梢と、石垣の列の向こうに、豊かに幾重にも広がる、雨に洗われたエメラルドの牧草地・・・
 生垣のさんざしの赤色・・・
 遠くのなだらかな山なみは青くかすんで、白い大理石の空に遥かに溶けゆく・・・
 左手ずっと向こう、木立になかば隠れて、白壁の、小さい、つましい家々が五軒ばかりかたまっている。
 どれも向いている方角が違う・・・まるで、てんでに違った方向からやってきて、散歩のついでにたまたま行きあったので、そのまま話しこんでくつろいでいる、といったふうで、見ていて楽しかった。

 朝ごとの喜び。・・・
 井戸ポンプの冷たい水で顔を洗い、眠気をすっかり拭ってすっきりとして教会の門を出ると、雲の切れめから差しこんだ日の光が、色づいた路傍の樫の梢を通して、その葉をまぶしいばかり金色に輝かせている。・・・
 そうして、やがて犬が吠えだす、人影が目につく、また新しい一日が始まるのだ・・・


4. フィークルにてⅡ

 そうしてまた、つまるところ、それがこの地方全体のようすでもあった。
 足の向くまま、どこまで行っても、大してそう変わることはない。
 木立のあいだから広がる景色の透けて見えるなだらかな丘陵地帯の、縦横に網の目に広がる細道を、どこで曲がってどんなに行っても、絵巻物を次から次へと繰り出すように、目につくのはどこまでも同じ色調の風景だ。
 ぽつりぽつり、そちこちに家並。・・・
 牧草地の滴るようなエメラルドグリーン・・・
 さんざしのあざやかな紅色・・・
 端正なシルエットのトウヒやからまつ、そしてかなたにかすむ山なみの青色・・・
 それらが汲めども尽きせぬゆたかなディテールの変化をもってどこまでも広がる。
 これらの色の独特な組み合わせ、その印象がこんなにも凛として瞳を打つのは、当地の空気が極めて澄んでいるからだ・・・
 透明な水の底のように澄んで、少しく打ち沈んだ、気品ある色調、これほどの清らかさがまだこの地上に残っていようとは・・・じっと見つめるほどに涙が滲んでくるようだった・・・
 
 どこまでもどこまでも、足の向くまま、幸福感に酔いしれて、来る日も彷徨い歩いた。
 雲むらのやってきては去ってゆき、空の一方の端を重苦しい青黒い色に垂れこめて、時折ざあっと激しい雨を降らせては、また切れ目から光のすじが射しこんで、変化のたえまない空の下である・・・
 クレア州には珍しく、石垣よりも生垣のほうが多い。
 いつか訪れた、これまた美しいことでは比類のないサセックスの丘陵をふと思い出させる・・・地形は違うけれども。・・・
 向こうのはダウンズと呼ばれる、おわん形の丘がいくつも波打っている風景だが、こちらの丘はもっととりとめもなく細長い。
 生垣は、ところによっては並木といった方がよいほどで、梢の色あいも枝ぶりも種々さまざまな木々がリズミカルに立ち並び、丘のうねり具合にあわせて波打ち、ひとつづきのメロディのようにスキップしながら牧草地の斜面を駆け下り駆けあがってゆく・・・
 いまこうして書き連ねても、あの丘々を再びいきいきと思いだし、心弾む・・・

 おだやかに曇った日の午後、ぶらりと村を抜けて、こうした丘の道の一本をたどってゆく、
 はるか向こう、木立にうづもれて道ばたにひっそりとたつ古い家や・・・淡いペパーミントグリーンの、ペンキの剥げた小さい納屋や・・・その前に打ち捨ててある錆びついた耕作機だとか・・・
 犬が庭先から立ちあがって、散歩のお伴のつもりではるか先までついてきたり・・・

 あるいはまた、午後遅くの散歩、じっと動かない、しづかな曇り空のままにゆっくりと夕闇の訪れて、暗くうち沈む梢のフレームにふちどられて彼方に広がるみどりの牧草地、そこで草を食む牛や馬たち、・・・
 それはそのままひとつの絵だった、言葉もなく立ち尽くし、やがて一段と宵闇の濃くなるときまで我を忘れて眺め入るのである・・・

 あるとき、隣り村のトゥーラまで道をたどって往こうとして、・・・
 そう、その日は霧雨のかかる寒い日曜日で、私は昼ごろまで酒場のあたたかい炉ほとりでぐずぐずしていたのだった。
 それでなくとも日の短い秋の日だったから、やっと支度して出掛けてみると、道半ばにしてだんだん薄暗くなってくるし、雨あしは強くなるし、ゆけどもゆけども丘を登っては下るばかりで、しだい心細くなってきた・・・

 と、そのとき、道の向こうから馬に乗ったひとりの男が現れた。
 がっしりとした体格の、背の高い老人であった、土地の人であろう、葦毛の上に上背をまっすぐのばし、威厳にみちたようすで、重々しく歩を進めてきた・・・
 私は彼を呼びとめ、トゥーラまではこの道でよいのかと尋ねた。
 すると彼はおなじ重々しい身のこなしで来た方を振り返り、このまましばらく行くとやがて五つ辻に突きあたる、そしたらそこを左に曲がりなさい、と教えてくれた。

 その暗い色の外套としずかな水色の瞳とをいまでも私は覚えているが、雨にかすむ丘陵の風景のなかに忽然とあらわれたその姿はあまりに幻想的で、あるいはそれは自分の心のなかで作り出した幻ではなかったかと思えるほどだ・・・


5. ティンカーたち

 その道すじは、そののちも何度か通った。
 五つ辻より先は丘陵が途切れて平地になる・・・
 その辺りには、道の両側の柵のない湿地帯に、雌牛が何頭も放たれていて、私が通るともぐもぐ草を噛みながらその愚鈍な顔でこちらを眺めやるのだった。
 それらの灰色だったり薄茶色だったりする牛たちの多くは角を矯めていなかった。
 彼女らの鋭い角を眺めながら、その気になればいともやすやすとこちらを突き殺すことができるのだと思うとあまりいい気はしなかった。
 まあ、雌牛だったらふつうはそういうことはない。
 けれども、どこかのいいかげんな農夫がうっかり雄牛をまぜておいたりしたら?・・・

 その道の途中、もういちど左に曲がってフィークルへ戻る方角へ、連綿とつづく気持ちのよい木立にふちどられたまっすぐな道を少し行くと、やがて小さい、しずかな湖に出る。
 人の気配は全くない・・・ただひっそりと湛えられた湖面と、風にそよぐ葦のみどりと・・・それから、遠く対岸にぽつりと白壁のひと棟・・・そしてまたかなたに連なる丘々、それがすべてである・・・
 
 さらに歩を進める、仄暗い木立の道、時折あらわれる民家、犬がけたたましく吠える、それでもなお、人の気配はない・・・ 木立ち越しに湿地帯から、再び丘の斜面が盛り上がってくる・・・

 このあたりからフィークルへ戻る道があったはずなのだが、道しるべを見落としてしまったらしい・・・ それとも、さっき見かけたぬかるんだ細道の分かれ、あれがそうだったのか?・・・
 視界が開けて、ふと見上げると、どうやらあれがフィークルらしい、丘の木立にうづもれて、小さな集落の家々が見える・・・あんなところだったのか・・・さて、どうやって戻ったらいい?・・・

 この日、私はさんざんに歩き回ったあげく、すっかり疲れ果ててしまったのだった。
 道を尋ねる相手もないまま、ひどくぬかるんだ斜面の細道をとぼとぼと登ってゆくと、ふいに思いもかけないふしぎな光景のなかに飛びこんでしまった。

 まず私の目を奪ったのは、工芸品のように美しい馬車だった・・・円筒形の幌馬車で、幌の上部には屋根のふち飾りと同じような飾りがついていて、幌はみどり色、それから、壁の部分と木枠の部分には、赤い地に薄黄色と金色でうつくしい唐草模様が描かれている・・・
 そんな馬車が幾台かとめられ、馬やロバが草をはみ、それから冷たい小雨のなかで火が焚かれて、数人の男女が思い思い・・・なかの一人は枯れ草色の髪に、枯れ草色の上着を着こんでパイプをくゆらし、女のひとりはまとめた髪が少しほつれて、乳飲み子を抱いたままぼんやりと座っている・・・ 小さい子供たちが駆けまわっていたが、私の姿を目に留めてふいにおとなしくなる・・・
 人里離れた牧草地で野営を張っていたのは、ティンカーと呼ばれる流浪の民であった。・・・

「こんにちは」と、彼らのなかへ入っていきながら、くたびれきって私はやっと挨拶した。
「フィークルに戻りたいんですが・・・」
「来た道を戻って、左だ。確実なのはね。
 この道をそのまま行っても戻れるが、かなりぬかるんでるよ」
 枯れ草色の上着を着た男が教えてくれた。
「どっちの道の方が、近いですか?」
「この道をそのままだね。だが、ほんとにぬかるみがひどいぞ」
「ああ、それは大丈夫です。どうもありがとう」
 やれやれと、このたびもほっとして、私は彼らのもとを立ち去った。
 土地の人びとが使うのと同じ、がっしりとしたゴムびきの長靴を履いていたから、ぬかるみを気にする必要はなかった。

 その道はじっさい、じくじくとして、ほんとにひどいぬかるみだった。
 いったん谷の底へ下ってからまた登りになっていたのだ。
 けれども、長いことかかってたどってみると、知っている道に合流した。ああ、ここに出るのか!・・・
 そのうえ、たったいま自分がたどってきたその道は、前に通ったとき、いつかこの先がどうなっているのか探検してやろうと思っていた道だった。
 思わせぶりに人をいざなって木立のあいだに消えてゆく、ほそぼそとうちつづくつつましい道、このあたり一帯、至るところに見出すことのできる、そういう愛すべき道のひとつだったのだ・・・


6.フィークルにてⅢ

 ああ!・・・フィークルの丘々の広がりよ!・・・ 
 光と影はたえず移りゆきてふたつとて同じ瞬間はなく、彷徨い歩いては瞳に映る表情に、ふたつとて同じものはない・・・
 激しい俄か雨が立ち去って、さんざしの生垣から雫を滴らす、振り返って眺めやれば、彼方の陵線ちかく、いくえに生垣をつらねて広がったその景色の尽きるあたり、いまだ雨にけぶってぼうっとかすむそのあたりから、気まぐれな日の光のあかるみがおぼろに射して、大地の一方の端はたちまち眩しい白一色に掻き曇ってしまう・・・

 晩には折々、テントの入口を大きく開け放って十月の冷たい空気をいっぱいに入れ、その両端を柱にくくりつけておいて、寝転がったままみごとな星空を眺めて過ごした。
 ああ、私はいつまでも忘れないだろう・・・ 彼こそは地上においてのぞむことのできるもっとも華麗な眺めのひとつである・・・ どんな貴婦人や姫君の夜会のドレスもこれには及ぶまい・・・ 空にこれほどたくさんの星があったとは・・・ ビーズの光る砂粒をぶちまけたように、びっちりと、ぎっしりと空を埋め尽くし、じっさい空じたいの面積よりも星のぜんぶを合わせた面積の方が大きいほどだ。・・・

 星雲ということばをふだん身近に感じる機会はさほど多くない、それがここではまさに星の雲、星の雲むらであった・・・ 数知れぬ星々からなる雲むらが幾重にもくぐもってけぶり、空のいっぽうの端から他方の端まで、壮大な天の河を成している・・・ あまりに星が多いので、ふだん眺めるときのしるべのようになっているオリオンやカシオペイアなど、おなじみの星座たちなどまるで衆目にうずもれてしまって、どこへ行ってしまったものやら。・・・

 あのとき見たフィークルの星空を、私はいまでも夢に見るのである。・・・
 いくつもいくつも、流れ星が空を横切って走り去った、私は何も願わなかった、私の願いは満たされていたからだった・・・

 フィークルには一週間、いや十日ばかりいただろうか。
 来る日も来る日も夢のような景色のなかを、我を忘れて彷徨いながら、私はさいごの物語がゆっくりとやってきて、やがて形を整えてゆくのを待っていた。
 いや、それはもうすでに訪れていた。
 あの日、この村にやってくる途中、丘を左手に曲がったところで、私はそのひとの幻を空のなかに見たのだった。

 蒼く沈んだトウヒの林はそのひとの髪のいろで、灰色と黄と空色の入りまじった雲むらは、そのひとのマントの色だった。
 そのひとは長いマントのすそをひるがえしてしずかに立ち去っていった。
 青ざめたけだかい横顔は、ひどく悲しそうだった。
 あれは誰なのだろう、何をそんなに悲しんでいるのだろうと、そのとき私は思ったのだった。
 まっ赤に色づいたさんざしの実は、そのひとの一滴のあたたかい血のいろだった。・・・
 私は感じていた。
 そのひとが去って今はもう久しいにもかかわらず、いまもなお、大地の様相にまごうかたなくとどめられたその刻印を。・・・

 その日、私は夕べの散歩から戻ってくるところだった・・・
 村の北側の道から、木立に挟まれた道をやってくるうち、日は沈んで、しだい夕闇が訪れつつあった、逆光に沈んで、その梢は黄色い薄あかるみのなかに鈍い銀色とオリーブ色に浮かびあがって、さながらコローの絵である・・・
 心打たれて、私はじっと見入った。・・・
 そのわずかな間に、薄明の魔法で時ははるか遠くさかのぼったようだった。・・・
 と、腰までのびた乾いた草むらをさあっと風が渡ってゆき、そのあいだを縫って、いくつもいくつも、狼たちの蒼い影が音もなく駆け去ってゆくのが見えた。そう、彼らだ・・・

 私はさいしょの晩、我々を追ってきた獰猛な犬どものことを思い出した。
 一万年前の昔には、あれは狼たちだったに違いなかった・・・
 それは太古のむかし、この地を駆け巡っていた、彼ら狼たちの幻なのだった。・・・
 そのころ、この土地のありさまは今とはまるで違っていた。そしてそのころ・・・

            ***          

7. 物語<狼の女王>

 そのころ、このゆたかな山岳地方の全体は、すみからすみまですっかり広大な森に覆われていた。
 針葉樹林ばかりではなかった、樫やブナの巨木がどっしりと枝を広げ、ありとあらゆる鳥や動物たちが糧を得て住み暮らしていた。
 果てしなく深い森また森、それが一万年前のこの土地の姿だった・・・

 このあたり一帯をあまねく総べていたのは、かの名高い<狼の女王>だった。
 はかりしれない昔から、彼女はこの土地のあるじだった。
 だれもその姿を見たものはない。ただ話に聞くだけだ・・・
 彼女はたいへん背の高い、堂々とした女で、異界に属する者たちの女王だった。
 つねに自分の狼の群れを従えて、森のあちらからこちらへと巡り、誰でもよそから侵入してくる者があると、たちまちのうちにその狼どもに引き裂かれてしまう。
 彼女は冷酷無情だった。その名を聞いただけで、人びとは震えあがった。・・・

 そのころ、羊飼いゴメルとその民の者たちが東のほうからやってきて、森を開墾し始めた。
 彼らは長いあいだ、東にあった自分たちの国で羊を飼っていたのだが、海の向こうから別な強い民がやってきて彼らを追い立てたので、追い立てられて、やむなく移ってきたのだった。

 このあたり一帯の土地がすべからく<狼の女王>のものであることを、もちろん彼らも知っていた。
「しかし、ほかに我々に何ができようか?」と彼らは言ったのだった。
「我々は生きてゆかなければならない。我々は自分の家の者たちと、羊たちとを養わなくてはならない」
 そうして彼らは岩をとりのけ、灌木を引き倒し、羊たちのために土地を平らにした。
 彼らは枝を組み、石を積み上げて粗末な小屋をつくり、日夜開墾して牧草地を広げていった。

 女王は彼らのことで怒り、日夜狼たちを送って彼らを悩ませた。
 羊飼いたちは交代で夜通し見張りにあたり、羊たちを守ろうとした。
 けれども、あとからあとから狼たちは襲ってきて、羊を殺し、羊飼いたちを殺し、その妻や幼い者たちをも容赦なく噛み殺した。
 
「しかし、先祖からの土地を奪われた我々に、ほかに一体何ができようか」と彼らは言った、
「我々はこの土地を切り開き、羊たちの牧草地を生みつづけるよりほかにどうしようもない。我々は狼たちと、体を張って戦いつづけるしかないのだ」
 そこで彼らは弓矢や石投げ器で狼たちに立ち向かった。
 多くの狼たちが彼らに殺されて死んだ。するとさらにいっそうたくさんの狼たちが、やってきては猛り狂って彼らを噛み殺すのだった。・・・

 ついに羊飼いの頭ゴメルは言った、「こうしたことが、これ以上続いていってはいけない。
 私は<狼の女王>と話をつけなくてはならない」・・・
 
 そこで彼は各家族ごとに、その群れの中から一頭ずつ、生贄として差し出すための羊を供させた。
 彼は民の中から十人を選んで引き連れ、これらの羊たちを携えて、森の奥深くへと分け入っていった。
彼らは森の中を一日じゅう進んで、すっかり疲れ果ててしまった。
 ついにゴメルは大声で呼ばわって言った、
「女王よ、狼の女王よ、あなたはどこにおられるのか。
 我々はあなたに話したいことがある」

 すると、どこからか音もなく影のような狼たちの姿が現れて、彼らのまわりを取り囲んだ。
 狼たちは唸り声をあげ、ただその眼の光ばかりが闇の中にぎらぎら光った。
 そのとき、暗い梢のあいだから声が響いて、<狼の女王>が姿を見せずに彼らに向かって話して言った、
「お前たちはなぜ私の森を根こぎにし、私の土地を損ないつづけるのか。
 この土地から出てゆきなさい。
 お前たちはこの土地に対して何の権利も持っていない」

「我々とても、そのことはよく承知している」とゴメルは答えた。
「ほかにゆくところがあるのなら、我々とてもそなたを煩わせはしない。
 しかし、我々は自分たちの土地を奪われて、かろうじてここまで逃げのびてきたのだ。
 我々にはほかにゆくところがないのだ。
 だからどうか、この贈り物の羊たちを受け取って、我々が森を開くのを許してほしい。
 どうかこれ以上、狼を送って我々を殺すことがないようにしてほしい」

 すると、女王は怒りに燃えた。
「お前たちの羊を携えて、この場所から出てゆきなさい。
 お前たちは何者だというのでこの私と取引しようとするのか。
 私はその気になれば、お前たちのすべてをこの場でたちどころに殺すこともできるのだ」
 すると狼たちはいっせいに牙を剥いてゴメルたちに襲いかかったので、彼らは退いて、自分の民のもとへ戻っていった。

 そののちも、彼らは森を開きつづけた。
 すると狼たちもまたやってきて、羊を襲い、民を殺すのだった。
 彼らは狼たちに立ち向かい、こうしてまた多くの者が死んでいった。 
 
 ふたたび羊飼いの頭ゴメルは言った。
「これ以上、こうしたことがつづいてはいけない。私は<狼の女王>と話をつけなくては」

 そこで彼は再び各家族ごとに一頭ずつの羊を供させようとした。
 ところが彼らは言うのだった、
「我々はもう、我々の羊の中から女王のための生贄を差し出したくない。
 ひとたび我々は生贄を差し出したのに、事態はよくなるどころか、かえって狼たちの凶暴さはひどくなるばかりだ。
 我々の嘆願をきいてくれない<狼の女王>のために、なぜこれ以上の生贄が必要なのか」

「お前たちは正しく物事を見ていない」とゴメルは言った、
「この土地において、我々は闖入者なのだ。
 かつて我々の土地に強大な民がやってきて、我々からそれを奪った、その民と同じことを、いま我々はしているのだ。
 女王が我々を憎んで殺すのも当然ではないか」

 そこでこのたびは、ゴメルは民の中から生贄を求めず、自分自身の愛する羊の群れの中から十頭を取って、携えていった。
 こうしてゴメルはふたたび森の奥へ分け入り、<狼の女王>と話をしようとした。
 そしてまた、同じことが起こった。
「何度お前はあやまちを繰り返すのか。
 私はお前の手から何も受け取らない。
 私と取引しようとするのをやめて、この土地から出てゆきなさい」
 女王はそう言って、聞き入れようとしなかった。
 ゴメルが嘆願しようとすると、再び狼たちが放たれて、彼と羊たちとを打ち払った。

 そののちもまた、状況は変わらなかった。
 開墾はつづいてゆき、戦いと略奪と殺害とが一夜繰り返された。
 ゴメルは深く悩み沈んだ。

 ついに彼はみたび言った、
「こうしたことがつづいてはいけない。
 私は<狼の女王>と話をつけるのだ」

 このたびは、ゴメルは羊も携えず、ほかの誰をも従えず、ただひとりで森の中へと入っていった。
 するとまた、同じ仕方で<狼の女王>が彼に出会って言った。
「お前はまだ死なずにいるのか。 
 お前はなおも私の森を損ないつづけるのか。
 今晩、私はお前を殺してやろう」

 するとゴメルは言うのだった。
「私の命を奪うことであなたの気が済むのなら、どうかそうしてほしい。
 私を殺したらあなたの気がおさまって、これ以上、私の民と羊たちを殺すことをやめてくれるだろうか」

 すると女王は言った、
「この期に及んで、お前はなおも、私と取引しようとするのか」

 ゴメルは答えた、
「ほかのすべてを奪われた人間が、それでも彼の民と羊とを守らなくてはならない場合、絶望的な取引よりほかに道が残されていないとしたら、ほかにいったい何ができるだろうか」
 こうして彼はその民のもとへ帰った。

 その晩遅く、<狼の女王>は闇にまぎれてゴメルの眠っている石積みの小屋に彼を訪ね、その姿を見出すと、その胸に短剣を突き立ててこれを殺そうとした。
 しかし、彼女はそのかわりに小屋の石壁にその青銅の剣を突き立てて立ち去った。
 夜明け近く、白みそめたうすあかりの中でゴメルは目を覚まし、石壁に突き立てられた短剣を見出したのである。・・・

 夜が明ける前に、この地一帯のあまたの狼どもを引き連れて、<狼の女王>はこの地を去った。・・・
 さあ往くのだ、もっとよき地へ、私たちは移り住むのだ・・・つまらぬごたごたに煩わされることのない、もっと広やかな土地へ、北の地へ・・・
 みんなおいで、私たちはゆくのだよ、ゲルマ、ハガル、シグ、シロク・・・ 
 狼たちは幻のように走り去った、暗い木立をぬけて、薄明のうす青い霧のなかを、音もなく駆けていった、何頭かが立ちどまり、振り返って牙を剥きだす、未練がましく低いうなり声をあげる・・・
 いけない、いけない、そっとしておきなさい・・・彼らにかまってはいけない、このままそっと、我々は立ち去るのだ・・・

 こうして、この地は彼ら羊飼いたちのものとなった。
 もはや何ものにも煩わされることなく、彼らは森をひらき、石垣を積み、羊たちのためにゆたかな牧草地を広げていった、滴るようなエメラルドの、かがやくみどりの牧草地を次々と、やがてそうした風景が、青くかすむ森とともに、この地の基調をなすまでに。・・・
 
 けれども、どこであってもさんざしの木があると、彼らはそれを伐らずに残しておいた。
 なぜならさんざしは<狼の女王>の木だからだ。
 遠い昔からそういうことになっていて、誰もがそのことを知っていた。
 時が流れ、人びとが彼女の名を忘れてしまってなお、おぼろな記憶は禁忌のなかに留められたのである・・・

 さんざしの枝には魔法の力が宿ると言われている。
 また、うっかりその木の下で眠りこむと、魂を異界へさらわれてしまうと言われている。
 これらはみな、去っていった<狼の女王>の面影の名残りであり、人びとのあいだに伝えられる、彼女への畏敬のあらわれなのだ・・・
 あらたに森をすっかり拓いて牧草地にしてしまっても、さんざしの木だけは、彼らは伐らずに残しておく。
 彼らは、自分たちの住むゆたかな土地が、<狼の女王>から奪ったものであることを忘れてはいないからだ・・・
 そのことについて今さらどういう言っても仕方ないが、ただいつまでも記憶にとどめておくために、彼らはそれを残しておくのだ。・・・

 秋も深く、葉もすっかり落ちて、ただ棘のある裸の枝々ばかりがさむざむとした曇り空の下に晒されるころ、まっかに熟するその実の色は、<狼の女王>の血の色である。・・・
 冷酷無情であった女王をしてその心を動かしめた一滴のあたたかい血の色であり、かつそれが自ら選んだ敗北につながった、悲しみの色である。・・・
 季節がめぐり、さんざしの実が赤く熟するたび、我々は彼女の誇りを、その悲しみを思い返すのだ・・・

        ***         

8. <狼の女王>をめぐって~ケルトの哀しみ

 晩秋の野辺の霧のなかに紡ぎ出された、これがさいごの物語だった。
 私はそれを心に抱き、思いに沈んで野辺を彷徨い歩いた・・・この、美しいがどこか割り切れない思いのいつまでも残る物語を。・・・
 
 割りきれぬ思い、そうではないか、狼の女王、彼女は何で去ってゆかねばならなかったのか?・・・
 結局のところそれは結果論ではないか、それはゴメルの民の側から語られた物語ではなかったか?・・・

 侵略者たちに土地を譲り渡して自ら出てゆく?・・・
 際限なくそれを繰り返していたら、いったいどういうことになる?・・・

 なぜなら、結局のところ、それはただこの地においてばかりでなく、ヨーロッパ全土で起こってきたからだ・・・
 ヨーロッパのあらゆる場所で起こったのだ、この<狼の女王>の物語は。・・・
 それだから、秋になるとほかのどの場所でも、さんざしの実がそろって一斉に赤く熟するのだ。・・・羊を飼う民がやってきて、森を切りひらき、こうしてすっかり様相の変わってしまった大地のおもてに。・・・

 それは彼女の優しさだったのか、それとも弱さだったのか、無力さではなかったのか?・・・
 彼女はほんとうに、自ら放棄したのだったか?・・・

 石屋の入口から斜めに差しこむ細い月の光でかすかに見えたゴメルの顔は、整っていて、美しかった・・・
 彼は誠実で勇敢で、信頼できる男だった。彼は自分の仲間たちやその家族、そして羊たちのために、命を張って闘った。彼はりっぱな男だった・・・
 そういう人格の気高さが、眠っているときでさえその面立ちにあらわれていて、女王はそれを見たことだろう、
 彼女もまた同じ、芯の通ったまっすぐな人間だった、ゆえに敵として出会いながらも、彼を完全に憎みきることはなかっただろう、その行いを憎みはしても、その人柄の気高さは。・・・
 彼らふたりがこんな文脈で出会っていなかったら、気の合った同志、すばらしいチームになっていたかもしれない・・・
 けれどもやはり、そういうことはあり得なかった。彼らはそれぞれが孤高の人であって、女王もひとり、羊飼いの頭もまたひとりだったのだから。・・・

 彼らは互いに己れの道をまっすぐに歩いていって、終わりまでずっとそれを歩きとおした。・・・
 彼の命を容赦したことは、女王にとって敗北を意味した。
 たぶん、彼女は容赦しない方がよかったのだろう、それを容赦しない方が、物事はもとのままにとどまり、大地のありさまも変わることはなかっただろう。・・・

 それでもなお、このさいごの物語において、ぎりぎりのところで決定的な殺しが行なわれずに終わることで、私はなんとなく救われるような気がするのだ・・・
 西の果てのあの島で訪れた、あの物語がさいごの物語となるに違いないと、私は思っていた。
 牛飼いの下女を襲ったあの説明のつかない狂気、いかに陰惨に見えようとも、それはまぎれもなく人間の本質の一部であって、だれもが生きる日の限り、それに支配される危険を抱えている。
 ふだんは慣習や社会規範によって遠ざけられ、あるいはもっと差し迫った別の関心事によって逸らされてはいるが、ふとしたはずみにきっと立ち現われる・・・

 だからそれはまぎれもない真実なのだ、その存在を否定してみても始まらないが、認めたからといって何らの解決になるわけでもない、永久にやっかいな代物である・・・
 しかしながら、それが結論のようにいちばんさいごに置かれると、人間について言い得ることの、これがすべてなのか、と暗澹たる気持ちになる。だからそれで終わりではなかったことが。・・・

 夜明け近く、薄明るみのなかで目を覚ましたゴメルは、その視界の端に石壁の短剣を見出すや、はっとして床に肘をついたままの姿勢で周囲の気配を伺った。
 誰もいないことを確かめてはじめて、そろそろと身を起こす。
 それから用心深く短剣に近づいて、それが固い石のおもてにまっすぐ突き立てられているのを知って驚愕する。
 ついで彼はその束を握りしめ、一気に引き抜こうとするが、剣はびくともしなかった。
 そこではじめて彼は考えに沈み、女王が去っていった入口のほうへ目をやるのである。・・・

 だからそれで終わりではなかったことが。・・・
 ケルトの哀しみ。・・・

 それら侵略者たちの末裔たる人びとの精神世界にもまた、それは色濃く浸みこんでいる・・・
 この土地のあらゆる風物に、抜きがたく浸みこんでいると同じように。・・・
 この土地の丘々と雲、青くけぶった針葉樹の森はあのひとの髪のいろだ、灰色と黄のまじる空はあのひとの衣のいろだ・・・
 雲むらわきいづる夕暮れの空、かなしいほど澄んだみどりの牧草地にも。・・・
 宵闇せまる野の霧のにおいにも。・・・

 しだい混みだした酒場を抜けて、でもすっかり暗くなるまでにはまだ間があったので、ぶらりと足の向くまま歩き始めた・・・
 村のほうへ行こうかと思ったが気を変えて、今まで行ったことのない、横手のチェスナットの並木道へ入ってゆく・・・
 道の先にはぽつんと一軒、クリーム色で、ドアだけ赤く塗った家があって、それがいつも、道に出るとさいしょに眺める景色だったのだ。
 道はその家まで行って終わりだろうかと思ったが、家を通り過ぎて裏手の木立に沿って湾曲して、ずっと先までつづいていた。

 あらゆるものが影となってすっかり黒く沈み、ただ独特の青みをもった空の色しかないこのひとときである。
 石垣の白い斑点だけがぼんやりと夕闇に浮かびあがる。
 道ゆくにつれ、影絵のような情景が・・・暗く沈んだ大地に、ぎざぎざしたトウヒの木立のシルエットが・・・ゆっくりと生きて動いていた。
 赤いドアの家のわきを通りすぎると、窓からやわらかい灯りが漏れていた。
 軒にかけられたカンテラの光が、白いしっくい塗りの壁を照らしていた。
 この美しい土地を故郷として生まれ、ずっとそこに暮らす人びと。・・・どういう感じなのだろう、と思いを馳せてみる・・・

 暗い木立の下に入ると、夕暮れの情景が、垂れ下がった梢のこまかい葉のまだら模様に縁どられて広がっていた。
 ずっと昔、少年だったころ、こんな情景を見たことがあった・・・
 雨にけぶる芝生の庭、葉を落とした木々の黒い影、領事館のマントルピース、小さな手のくくるモノクロの写真集・・・
 そのとき私は思ったのだった、いつかあの土地に、私はじっさいに身を置くのだ・・・そのときにはこの情景は、私が歩を進めるにつれてじっさいに生きて動き、私は夕暮れの冷たさをこの肌に感じ、ひっそりとした野のにおいを嗅ぐだろう・・・
 いま私はじっさいにこの土地に身を置いて、その情景は私が歩を進めるにつれて生きて動き、私は夕暮れの冷たさをこの肌に感じ、野のにおいを嗅いでいた。・・・

 野辺わたる風がさあっと吹きすぎて、暗い梢をざわめかせた。
 いまこのときが幻とうち重なり、一万年の昔とうち重なった。
 闇の中を次々と蒼い影が、狼たちが音もなく走り去った・・・
 私は振り返った。
 葉の落ちた梢のシルエットが、くっきりと浮かびあがっていた。
 石造りの納屋の破風が、ようやくそれと見分けられるほどの接ぎ目を見せて暗く佇んでいた。

 そこにアイルランドがあった・・・
 久しく望みつづけてついに得た、私のアイルランドが。・・・
 


















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Posted by 中島迂生 at 12:01Comments(0)狼の女王