PR

本広告は、一定期間更新の無いブログにのみ表示されます。
ブログ更新が行われると本広告は非表示となります。

  
Posted by つくばちゃんねるブログ at

2009年04月23日

石垣の花嫁(完全版)

愛蘭土物語(あいるらんどものがたり) クレア篇4
石垣の花嫁 The Bride of Stonewall 劇団第3作作品 完全版
いにしえのアイルランドの物語
2005 by 中島迂生 Ussay Nakajima



1. アイルランドの石垣と野ばら
2. 物語<石垣の花嫁>
3. <石垣の花嫁>をめぐって~新興の民の勝利

**********************************************

1. アイルランドの石垣と野ばら

美しい娘キーナ、お前は私を裏切った。
私はお前にすべてを与え、心を尽くして大切にしたのに
お前は私を憎んで、滅ぼした。

私の悲しみの歌はとこしえに流れ、私が滅んでなお流れ
天地にあまねく流れわたって 去っていったお前を探し求め
お前の名を呼びつづける。・・・


 アイルランドの石垣を、いちどこの目で見てみたいと、私はずっと願っていた。
この国の代名詞とも言うべき、国じゅうの至るところに見られるというその石垣を。・・・
 なぜなら、国の魂は決して大きな都市や、人々の忙しく行き交う街道筋には宿らない。
それは地方の奥まった田舎に、喧騒を逃れでた細道にこそ宿るからだ・・・

こうしてぽっかりと開けた田舎の、森閑として時折農夫が通るだけの道、
ひとり物思いに沈みながら、だれに急かされることもなく望むだけの時間をかけてゆっくりぶらつける小道、
歩を進めるほどに己れのなかで風景とひびきあって詩や音楽の生まれてくる道・・・ 
できることならおだやかな曇りの日の午後、大地と語らうのに何らの武装も必要ない、そういう道をこそ私は愛したのだ・・・
 とりわけアイルランドを旅するあいだ、ほんとうにどこへ行っても目にしたその情景を、くずれかけた石垣にいばらの茂みがびっしりと絡まって、分かちがたく一体となったその情景を・・・

 ブランブル、それは学問的な名称ではなく、棘があって石垣に絡みつく植物全般をいう総称らしいのだが・・・ 多くはそれは正確にはばらではなく、野生のブラックベリーである・・・ 赤紫のがっしりと太い茎に丈夫なとげをいっぱいつけ、夏になるといっせいに花を咲かせる・・・ 一重咲きの白もあるが、だいたいはごく可憐な淡いピンクの花だ、それらが惜しげもなく、びっしりといっぱいに咲き乱れる、至るところで、それはまるで無雑作に、とほうもない美しさだ・・・

 時折はほんとうのいばら、当地では犬薔薇(dogrose)というひどい名で呼ばれている野生のばらを見かけることもある。
色はブラックベリーの花そっくりの淡いピンクだが、花びらはさらに豪奢な八重で、まるでパーティーに出かけるために着飾った女の子たちのようだ・・・ それが溢れんばかり、花の重みのために低くしなだれた枝に咲きこぼれるようす、それは感嘆のうちに人の足をとめさせずにはおかない・・・ 私はぜひともこの花に、その姿にふさわしい名を与えたいと思う、ヴェロニカとか、エスメラルダとか、なにかそういった高貴な感じの乙女の名を。・・・ こうして華やかな花かんむりをいただいたその石垣の、摩滅してぶっきらぼうな石のひとつひとつには、多く白い苔の斑点がまだらに散っていて、その白が花の薄桃色とまた実によく映るのだった。

 いばらの棘と、積み上げただけで固めていない石垣と、それは一見不安定で頼りない印象を与えるが、それがかえって、取っ掛かりをつけてよじ登ろうとすると簡単に動いて崩れてしまい、乗り越えるのは容易でない・・・ さらに、多く石垣に沿って家畜が逃げ出さないように溝が掘ってあって、掘った溝には泥炭質の土壌から滲み出した水がたまり、かくてそれらはがっちりと強靭な共同戦線を張っているのだ・・・
 こうしてあちこちで崩れ、風化し、苔むしている、このどこまでもつづく石垣と、なだらかに広がる牧草地にごつごつと顔をのぞかせる岩々と・・・ それがアイルランドであった。

 それは溢れるばかり、至るところゆたかにあった、なおも今ここにあるもの、その石目、その積み上げられた石の刻むリズム、その絡まりあった枝々の描くライン、それらはだれにも決して造りだすことができない、再現しえない、永久に、今ここにしかない、それゆえに、立ちどまって、それらひとつひとつの紡ぎ出す物語に耳を傾ける価値があるのだ・・・

 こうして崩れかけた石垣に、どんなふうにのばらが絡まっているか、その薄桃色の花びらをびっしりとつけた枝が、どんなふうに風にそよいでいるか・・・
 屋根の落ちた家々の石壁の、風雨にさらされてどんな色あいを、どんな手触りをしているか、むきだしのその破風からどんなふうに草が伸びているか、ひっそりと閂を閉ざしたその扉が、どんなふうに棘草の茂みにうずもれているか・・・
 その道が両の石垣に沿ってさまざまの夏草とりまぜて風にそよぎ、うねうねとどんなふうにどこまでもつづいているか、その荒いペイヴの、まん中にひとすじの草の列がどこまでもつづくその道のどんなふうに丘をまわり、古い干上がった石の橋をわたって低灌木のびっしり生えた谷へと下ってゆくか・・・
 私はそのようすを眺めるためにやってきていたのだった・・・

 あちこちに咲きはじめたヒースの花、花房の、先へゆくにつれ小さな蕾、それは小さな真珠つぶのように半透明にくぐもり光って、涙のつぶのようでもある・・・ 遠目に見ると紫色のおぼろなミスト、それが日を重ね、旅を続けるほどに日々に花開き、やがて荒野の一面を赤むらさきの夢幻に染め上げるのだ・・・

 夏の日の過ぎゆくほど、華麗に咲き誇るブランブルの花びらはやがてはらはらと舞い散って、あとに硬い、青い実がのこる。
それらがやがてゆっくり膨らみ、少しずつ赤みを帯びて、いつかルビイのような美しい真紅から、葡萄酒がかった深い黒色に熟してゆく・・・

かくて日に日に旅をつづけ、みどりゆたかな丘陵地帯をぬけて海岸線へと至り、ミルトン・マルベイからリスカノール、ラヒンチをすぎ、モハーの断崖を過ぎてさらに海沿いに北上しても・・・
 いくえにも花びらを広げた大きな花のようなかたちしたゴロウェイ湾に沿ってぐるりをめぐり、コネマラの広大な荒野をわたって、雲の群れむれの下でゆらめくようなシルエットの山々のあいだを来る日も来る日も旅をつづけても・・・
 百の島の浮かぶコリブ湖をわたり、ふたたび木立と牧草地のどこまでも広がる内陸の道をとり、ついには北部のもの淋しい不毛の荒野に至っても・・・
 どこへ行っても目にしたのは、その同じ石垣とブランブルであった・・・

 草木のなかなか育たない場所では石垣がしぜんだし、風景にもあう。
ふしぎなのは肥沃な地方で、いくらでも生垣をつくれるし、むしろその方が容易ではないかと思われるような場所においてさえ、やはり石垣なのだった。あふれるようなみどりのなかに、石垣の白い列がどこまでもつづく。
それは昔のなにかの名残りのようだ・・・ 同じ石垣がどこまでも、ぐねぐねと波打ちながら こまかい、波打つ網目模様となって連々とつづいて・・・ くり返しくり返し目にするうち、それは何か同じ歌のリフレインか、たえまなく唱えられてこの国の全土を覆う呪文のように思われてくる・・・
 そう、きっとそれは誰かの悲しみの歌なのだ、遥かな昔、この国のどこかで非業の死を遂げた、偉大な魔法使いか、神がいたのだ、・・・あふれ逆まく水の中でさいごを遂げた石の神が。・・・ そしてそれは太古の昔からなおも今にひびく、その悲しみの調べなのだ・・・
 どういうわけで彼は滅びに至ったのか、そこにはどんな物語があったのか?・・・

 荒漠としたバレンの広がりに身をおいて、私ははっきりと感じた、ここがそれに違いない、ここがその石垣の呪文の発する磁場、その中心なのに違いない・・・
 アイルランドじゅうの石垣はみなここから出ていったのだ、そう、それは人の手になる建築物というよりもむしろ何か生き物のように見えた、それらはなだらかな土地の起伏につれて少しずつ、長いあいだをかけて出ていったのだ、夜のうちにこっそり、四方へ向けてぞろぞろと出ていったのだ・・・ 少なくともそのイデーはここから発しているのに違いない、たぶん昔はアイルランドじゅうがこんなふうだったのだ、そういう感じを、私は抱いた。昔は国ぜんたいが、こんなふうな石の荒野だったのだ・・・ それが今ではこの限られた地域に縮小してしまっているのだが、それでも今なお何らかの力をここから発しているのだ・・・ でなければ説明がつかないではないか、こんなふうに、今も国じゅうに石垣の目が張りめぐらされていることの。・・・
 ゆく先ざきでその情景のなかをゆきめぐり、私は遠く思いを至した、飽かず眺め、うち眺めては耳を澄ませて、その伝えんとする物語を聴き取ろうとした・・・

     ***

2. 物語<石垣の花嫁>

 遠い昔、霊力が万物のあいだに宿り、動物たちが言葉を解し、神々が人のかたちをとって山河を歩きまわっていた頃のこと・・・
 この国でもっとも大きな力をもっていたのは石の神であった。
その力は今よりずっと強く、その口から発する詩の言葉をもって彼はその王国をどこまでも張り広げ、その口ずさむ調べをもって大空を支えていた・・・
 国ぜんたいは草一本も生えない、ただ青灰色の堅い岩盤ばかりがどこまでもうちつづく荒野であった、けれども石の神は力ある建国者で、その都は精緻で美しい、石造りの強固な都市であった・・・

 そのころ森の神は新参者にすぎなかった、森はまだこの国を覆っておらず、その領土はわずかなものだった、けれども彼にはキーナという美しい一人娘があって、そしてその民のすべては彼を慕っていたので、彼らすべては楽しく、つつがなく暮らしていた。
 石の神の都はアイルランドの西の端に、森の神の都はその東の端にあった。

 あるとき、石の神と森の神とがチェスを指して、それぞれ己れのもっているうちでもっとも価値あるものを賭けようということになった。
「私は自分の支配下にあるこの広大な領土のすべてを賭けよう」と石の神が言った。
「それでは私も自分のもつ領土のすべてを賭けよう」と森の神が言った。
すると石の神は笑って答えた、
「お前のもつちっぽけな領土が何だというのか、そんなものは賭けるほどにも値しない。だがお前の娘キーナは若く、美しい。私はお前がお前の娘に、自分の王国全体よりも高い価値を見出していることを知っている。お前の娘を賭けるがよい」
「それでは私は自分の娘を賭けよう」と森の神は言った。

 そこで彼らは勝負に及んで、石の神が勝った。
「それではお前の娘を渡しなさい。彼女は私のただひとりの妻となり、私は命の日の限り、心を尽くしてこれを大切にするだろう」と、石の神は言った。

 そこで森の神の娘キーナの一行は彼らのすむ森をあとにして、石の国の広大な領土を、都めざして何日もかけて旅していった。

旅の途中で、彼らは石の穴居にすむひとりの老婆に出会った。
「お前は森の神の娘キーナか」と老婆は尋ねた。
「私はそうだ」とキーナは答えた。
「私は大地の母マグアである」と老婆は言った。
「聞きなさい。この国は今は石の神の支配下にあるが、遠からずお前たち森の民のものになる。時を待ちなさい。お前は石の神を打ち倒す者となるだろう」
 そして彼女はキーナに、しなびた木の実と、空色をした小さい鳥の卵と、白い、まるい貝殻とを与えた。

 一行が都に着くと、石の神はキーナを妻として迎え、彼女に石造りのりっぱな城を与えて住まわせた。
千人もの召使にかしづかれ、何不自由ない暮らしであった。
しかし、城の門には厳重に鍵がかけられ、とくに選ばれた屈強な兵士たちが昼夜見張りにあたっていた。
 こうして何年かが過ぎた。

 あるとき石の神は神々の集まりに出かけて都を留守にした。すると、キーナは門の見張りにあたっていた兵士の若者に近づいて、こう言った。
「あなたの仕える主人の栄光は尽きようとしています。この国は遠からず私たち森の民のものとなる定めにあるのです。
いま、私の側について、私が逃げるのを助け、石の神を打ち倒すのに力を貸すなら、私の父はやがて全土にわたるその王国でお前に高い地位を与え、また私をも与えるでしょう」
 そこで若者はキーナを助けることに同意した。

 キーナと若者が城を逃げ出して、森の国めざして急いでいると、戻ってきた石の神が気づいて、彼らふたりを追いかけてきた。
そのゆえに大地は揺れ、激動し、いくつもの山が割れて地中深く裂け目が走った。

 石の神が追いついてきたのを見ると、キーナは懐からしなびた木の実を取り出して投げつけた。
すると木の実は割れて、そこからありとあらゆる種類の草木が生じ、びっしりとからまりあった森となって石の神のゆく手を阻んだ。
彼が手こずっているあいだにふたりは遠くへ逃げおおせた。

 森を抜け出した石の神がふたたび追いついてくるのを見ると、キーナは懐から空色の小さい卵を取り出して投げつけた。
すると卵は割れて、そこからありとあらゆる種類の鳥の大群が現れ、その幾千という翼が激しい風あらしを巻きおこして、石の神のゆく手を阻んだ。そのあいだにふたりはさらに遠くへ逃げおおせた。

 石の神がみたび追いついてくるのを見ると、キーナは懐から白い、まるい貝殻を取り出して投げつけた。
すると貝殻は割れて、そこから大量の水が流れ出し、深く大きな湖となって石の神のゆく手を阻んだ。
石の神は渡りきろうとしたが、湖はあまりに深く、激しくうずまく水の流れにのみこまれてどうすることもできなかった。

 自分が滅びようとしていることを知って、石の神はキーナに言った。
「私はお前にどんな間違ったことをしたか」
「何も」と、キーナは答えた。
「では、お前はなぜ私を憎んで、殺そうとするのか」と石の神は言った。
「お前は冷たく、年老いていて、醜い」とキーナは答えた。
「私が冷たく、年老いていて、醜いというので、お前は私を殺そうとするのか」
「そうだ」とキーナは答えた。
「このゆえに」と石の神は言った。「私は滅びゆくであろう。けれどもお前を探し求める私の心が滅びることはない・・・
 それは全土をゆきめぐり、この国が森の神のものとなってなお、すみずみにまでのびた石垣となって、とこしえに嘆きつづけるであろう」

 こうして石の神とその王国は滅び、残党は西の果てにまで追いやられた。
アイルランドぜんたいは森の神の領土となった。
そのときから大地には草木の芽が生じ、みどりの森がゆたかに茂った。
森の神はキーナと共に帰った若者にその王国の中で高い地位を与え、またその娘キーナをも与えた。
 それでもなお、去っていった石の神の悲しみの歌が消えることはなかった、それは全土をゆきめぐり、とこしえに嘆きつづける定めにあった・・・ 
このゆえに、今なお、もっともみどりゆたかな土地にまでくまなくのびた石垣が、その悲しみの調べを奏でつづけているのだ・・・

     ***

3. <石垣の花嫁>をめぐって~新興の民の勝利

 人を打つのはその雄大さ、スケールの大きさである・・・ いかにも神話の時代、王が同時に神でもあった太古の時代の、言葉の力、ことほぎの力。そのかみ統治者は同時にまた魔法使いでもあり、偉大な詩人でもあった、彼らが「光あれ」と命ずる、すると光があるようになったのだ・・・ 彼らが世界を創造したのは実にその言葉によって、その口から出る詩の言葉によってであった・・・ それによって彼らは石を積み上げて天にまで届く城や城壁や都市を築き、そこに美しい飾りや彫刻を施した、それによって大地には草芽が生じ、みどりの森がゆたかに生えいでた、それによって彼らは大空を張り広げ、大地を支えていたのだ・・・

 そこに際だつのはまた、いにしえの王者たる誇りや尊大の意味するところ、ある種の余裕、常識はずれなまでの鷹揚さ。・・・たかだかチェスのひと試合に彼らは己れのもつ富のすべてを平気で賭ける、負けたからといって顔いろひとつ変えるでもない、無念の悔しさも、痛々しいばかりの悲しみも、すべては無表情の仮面の下に隠しておかれる。
「よろしい」と彼は言ったに違いない、少しも調子を変えることなく・・・「それでは私の娘を取るがよい・・・」

 たかだかチェスのひと試合である、けれども私はここで、チェスという遊びのもつ歴史の古さに思いを至さないではいられない・・・ それが今あるようなかたちに整ったのはそう昔のことではないだろう、もちろん。けれども、その原型となった遊びの有様を創造してみるのは容易である、チェス盤の代わりに地面に棒でひっかいてマス目を描くことができただろうし、駒の代わりには小石や木の実が使えただろう・・・ じっさい、同じような発想のゲームはヨーロッパのみならず世界じゅうに見られるのだ、そこには人間の本能に深く呼応するものがあるのだろう、縄張りと、征服欲、・・・戦を繰り返してはおのが領土を広げるということが人の習いとなった実にその当初から、それは彼らの手すさびの遊びとなってきたに違いない・・・

 彼らふたりがしたチェスはどんなものだっただろう? ・・・もちろんこまかい部分は今のそれとは違っていただろう、けれども大方は今のそれとほぼ変わりなかったのではあるまいか、・・・チェス盤も駒ももちろん使われたに違いない、それも大変美しい工芸品が。・・・ それはどんなものだっただろう?・・・

 のちにコネマラを旅したとき、リーサス、地方随一の品揃えを誇るという、とある老舗の工芸品店にさしかかったのだった。往きに一度、そして海沿いにぐるりをめぐって、帰りにもう一度通ったのだ。
元来私はそうしたものにさしたる関心もなかったのでさいしょのときは素通りしたのだが、二度目のときちょうどこの話に出てくるチェス盤のことを考えていて、何かここでヒントが得られるかもしれないと思ったのだった。・・・というのは、当地にコネマラ・マーブルと称する、えんどう豆のスープのようなやわらかい色あいの、うつくしいみどり色の大理石を産することを知ったのだが、ああいうものでチェスの駒など彫ったらすばらしかろうと思われたのだ。

じっさい、それらの店で売られている、コネマラ・マーブルを彫ってつくられた多種多様の小物や装飾品の出来ばえは見事なものだった。そして、くだんの店に入って私がさいしょに目にしたのは、ガラスのショウウィンドウに大きく見せびらかすように飾られた、コネマラ・マーブルのひと揃いのチェス盤であった・・・ みどり色と、沈んだ黒に近い濃いねず色との、二色のマーブルを交互に嵌めこんでつくられていた。ひと揃いの精巧な駒も共に・・・
 じっさいのところ、大して驚きはしなかった。そこでそういものに出くわすだろうと、私は半ば知っていたと言ってもいい。かの地を旅するあいだには、これよりもっとふしぎなことに、しばしば出くわしたのだ。・・・


 森の娘キーナ、うるわしい花嫁。・・・彼女はきつく、冷酷で、強引で破壊的で、実にりっぱな女だった・・・
 父親の犯したあやまちに説明を求めることも、何ひとつなじることもなく、不毛な悲嘆に暮れることもなかった、ただ黙って己れの定めを受け入れて、嫁入り仕度を整え、敢然と異国の地へ乗りこんでゆく・・・
 彼女は定石どおりのケルト的人間だった、ところがそれでは終わらない、彼女は意志の人だった・・・ 自分は決して、ただ苛酷な運命に弄ばれるだけでは終わらない、必ずこの手で活路を切り拓いてみせる、父の名誉と自分の誇りとを、誓ってこの手に取り戻して見せる・・・
 かくて不本意な門出をしたその当初から、彼女はそういう決意を心に秘めていた、そういう、新興の民族特有のハングリー精神といったものを、私は取り澄ました彼女の横顔に感じるのだ、というのは彼らもまた、征服者となった彼らもまた、かつては新参者であり、新興の民だった。昔のギリシャ人に対するローマ人のように、彼らもまた自らの<アエネイス>を必要としていたのだ・・・

 私は彼らの、気の滅入るような花嫁行列の旅に思いを馳せる・・・
アイルランドの端から端まで、当時の足で少なくも4,5日、あるいは一週間・・・ 

今のバレンといってもたいていは、道沿いに木立あり、生垣やヒースの藪あり、あるいはいくつもの澄んだ湖や、斜めに縞模様の入ったゆるやかな丘陵が広がって変化をつけている。
石ころだらけの荒野にもそれなりの美しさがある・・・とりわけ夕暮れや、霧や雨の時にはそうだ。

けれどもそのほんとうにどまん中のあたりでは、ほんとうに岩盤の果てしなく広がるばかり、草一本生えず、生き物の気配の全くない、ただ沈んだねずみ色一色の世界なのだ。その不毛たるや、目にするだけでぞっとして、心が寒々としてくるほどである。そしてはっきりと感じるのだ、ここは人の子の住むところではない・・・ 石の神の都もこんなところではなかったか、ちょうどこのあたりではなかったか?・・・

 まして至るところ生命の息づく、ゆたかに茂ったみどりの森に生まれ育ったキーナである、その目にかの地はいかばかりに映ったことか、それはまるっきり死んだ土地、吸うことのできる空気すらない、全くのところ、それは月に嫁入りに行くようなものだった・・・ どちらを向いても岩ばかり、来る日も来る日もそんな光景を目にするうち、さすがのキーナも心が萎え、くずおれそうになるのを感じただろう・・・

 けれども、ここに強力な支持が寄せられる、大地の母マグアである・・・ それは何日めかのある朝早く、一行が岩山の陰に張った宿営をたたみ、旅をつづけようと出発しかけたそのときのこと、岩々が青紫色に沈み、地平の果てがかすむような淡いすもも色に染まった冷たい夜明けのこと・・・ 岩山の陰から急に人が現れてこちらにやってくるので、一行はぎょっとする。それは奇妙な老婆であった、しかも彼らのことをよく知っている。彼女はキーナに、彼女の数奇な運命を予言する。心配するには及ばない。さいごにはきっとうまくいく・・・

 そう、だいじょうぶ、私のすることはうまくいく。その言葉が、その確信が、どんなに彼女を力づけたことだろう、その後長きに渡って彼女を強め、支えただろう・・・

 <大地の母>までが新興の民に味方するとは。・・・それは単に、彼ら森の民の側から語られる物語だからというばかりのことなのだろうか、民が去り、あらたな民がやってきて、土地に対する対し方を変えると、それにつれて土地そのものの様相も変わってくる、それは必然のことなのか、正否を問うても意味はないのか?・・・ 彼女もまた、潮の変わり目を予感していたのか、岩肌のごとく深くしわの刻まれたその面ざしの、鋭い目で地平のかなたを睨みながら、キーナの嫁入り行列が西の国へ向かったその時点で、これから起こるべき大転換をすでに感じ取っていたのだろうか?・・・

 石の神は彼ら一行を丁重に迎え、その父親に約束したとおりキーナを大切に扱う、彼女のために国じゅうでもっともりっぱで壮麗な石造りの城が築かれる、その美しさは比類もなく、選りぬきの職人の業の髄を極めたその精巧なることは、人の手になるとは思えぬほど、その内側にも外側にも、一面の凝った飾り模様が彫りこまれている・・・

 キーナが住んだのはその最上階、塔のいちばんてっぺんの、都じゅうでもっとも見晴らしのすばらしいところだった。
だが、いかな見晴らしがいいとて、見わたす限りの石の荒野、彼女にとっては気も滅入るばかり、そのうえ城門には鍵かけられた囚われの身であった・・・

 目下のところキーナは孤独である、ずいぶん退屈な毎日だったに違いない、何をして過ごしていたのだろう? ・・・侍女たちといっしょに、夫のための衣を織ったりしていたのだろうか? ・・・全く柄に合わぬことだ!・・・かつては野生の鹿のように心赴くまま、父親の治めるみどりの森を駆けめぐった彼女であったのに。・・・その記憶はしだい遠くなってゆく、来る日も閉じこめられて、気が狂いそうになることもあっただろう、己れをとりまいて、形づくってきた環境の力というものがどれほど大きいかを、それらすべてを一切なしでやってゆくということがどれほどの強さを意味するかを、男たちは決して知ることがないだろう・・・

 キーナは我慢づよく時を待ちつづける、考える時間はたっぷりある。手すさびの業が無意味であればあるほど、それだけ考えごとにじっくり打ちこめるというもの、どんな方法がありうるか、いかな準備をなすべきか、起こりうる事態をあれこれと想定しつつ、ひそやかに着々と、彼女は策を練りはじめる・・・

 やがて千載一遇の機会が訪れる、彼女はそれを逃さずつかむ。ドラマは突如静から動へ、ダイナミックな展開をみせる・・・ 息づまる逃亡と追跡、魔法の力でたちどころに出現する深い森や鳥の大群、巻き起こる大嵐と、わきおこる羽音のとどろき・・・
 さいごの瞬間、あふれ渦巻く大水の中から、石の神は必死に腕をのばし、岸の大岩にとりつこうとする、指が届く、その細長い、ごつごつと老いさばらえて血の気のない指が、今しもやっと岩の端をつかもうとする・・・ 彼の目はキーナを見つめている、そのうちに怒りや憎しみはない、そこにあるのはただ、必死の面持ち、心からの驚き、己れの受けた仕打ちが信じられずに呆然として、そして切なる哀願とである・・・ キーナは冷たく見返す、その瞳に湛えられた思いを汲もうともしない、彼女が見たのはただ、その指が岩の端に届いた、その乾いた事実のみである・・・
 彼女はその大岩のもとへと歩み寄る、
「この岩を転がし落とすのを手伝ってください」と、傍らの若き兵士に告げる、彼は言われたとおりにする。二人は力をあわせてその大岩を、石の神もろともさかまく大水のなかへ転がし落とす・・・ とどろく激しい水音と・・・ 絶望の叫びが長く長く尾を引いて、こだましながら響きわたる、いつまでも、うつろな石の荒野にひびきつづける・・・
 
 一転して、ふたたび静、あかるく、おだやかで、透明な光にみちた静である、こもれびのまだらになって降りそそぐ、みどりの水の底のような森のなかの情景。それは喜びの凱旋行列であった、森の民は寄り集って、歓呼の叫びをあげる、花輪を編んでは二人にかけ、誰も彼も花々や、みどりの枝で身を飾る・・・ 花かんむりの下でキーナの頬は上気していきいきとかがやき、傍らの兵士はそのようすに感嘆して眺めやる、そして民のすべてもまた。・・・

 父王は盛装して出迎え、自ら娘の前に膝まづいて許しを乞う。・・・
「私の犯した愚かなあやまちを、どうか悪く思わないでくれるように」
「私の命はあなたのもの、私の命の日々もまたあなたのものです。わが主よ、どうしてあなたのことを悪く思ったりするでしょうか」
 こうして、顔色ひとつ変えずにその敵を死に追いやったこの女はまた、一点の曇りなく晴れやかな心でその父を許す。もはやそのあやまちを、二度と思い出しもしないだろう・・・ かくて豪胆と鷹揚さを併せもつ、彼女の魂もまた神話の時代に属していた・・・

 そののちのことは語るにも及ばない、幾晩にもわたってつづく盛大な祝宴と、笑いさざめき、歌と踊り、酒杯と森の幸の食卓と・・・
 かくて夏の日の火照りも涼み、うすずみの雲のながくたなびく夕暮れどき、森の神とその娘、彼らふたりはまた昔のように連れだってその領土をゆきめぐるだろう、風にさざめく木立の影をぬい、かなたを遠望するあの丘の上まで・・・ 金色の西日の斜めにさして、うすもやにかすみ、すべては半ば夢の如く、王者の衣が長く裾をひいてさらさらとひだを立て、そのながい影が草の上に落ちる・・・ ふたりは言葉もなく、四方の果てにまで広がる樹海を眺めわたす、これが彼らの国、そよぐこずえ、かぐわしい香り、久しく望んでついに得た故郷の土である・・・

 やがて父王は口を開き、朗々と吟じはじめる、ほめうたを、ことほぎの歌を、娘もそれに和する、すべての民もそれに和する、すべての鳥たち、枝々に鈴なりになったありとあらゆる姿かたちの鳥たちもそれに和する、すべての森の生き物たちも共に。・・・ その調べの流れいづるにつれ大地には精気あふれ、森は枝をのばし、葉を広げて、さらにさらに拡がりゆきて、ついには石の荒野をすっかり飲み尽くすに至るのだ・・・ 

 みどりの森の うつくしきかな
 その力もて その偉大なる力もて
 汝のおもて あめつちにみち
 そのとこしえに 栄えあらん

 森の娘キーナ、彼女はドラマの人であった、大きな犠牲を払いながら、ひとつの目的を持って終始強い意志でのぞみ、長いあいだ辛抱強く待ったあと、ここぞというところで思いきりよく飛んで、みごとな成功を収めた。そのきっぱりとしたやり方、成功しないかもしれないなどと想像もしない、そしてじっさい、よしその企てが失敗に終わったとしてもなお、さいごまで彼女はその誇りを捨てなかっただろう・・・

 そしてこの物語の語るのは、じっさいのところそういうことではなかろうか、古きもの、よきもの、正しきものは破れ去り、追いやられゆくかもしれない、けれども、彼らを追いやったその勝者の方にもまた、・・・よし正義はないとしても、彼らなりの論理が、それなりのせっぱつまった事情があり、大きな苦難のときが、そして勇気と美徳とがあったのだということが。・・・

 王女キーナ、彼女はドラマの人であった、勇敢な女であり、名誉を重んじる野心家であったが、決してロマンティストではなかった。どちらかといえばなりふり構わず、目的さえ遂げられるなら、その手段となる男など誰でもかまわなかった・・・ その傍らにはいま、城の門衛であった例の若者もいることだろう、いかにも影の薄い、添え物的存在の。・・・  
 キーナが異国で味わったのと同じ孤立を、これから身をもって知るのであろう、気の毒に!・・・ 彼はいわば脇役にすぎない、そのためらいや、心の葛藤、その心がひるがえって、敵の側について走り出した瞬間、そうしたものが物語のなかで語られることはない・・・

 石の神の末期はまったくあわれである、彼はなぜかくも痛ましい最期を遂げなければならなかったのか、それは彼の犯したとがの当然の報いだったのか?・・・ チェスの試合の賭け品として彼女を要求したのは、なにか道徳的に間違ったことだったろうか、彼は相手の弱みにつけこんで、それを不正に騙し取ったといえるのか?

 ・・・いな、それは正々堂々たる勝負であった、彼は何もごまかしたりしなかった。彼はキーナに対しても、礼節と思いやりを尽くしてあたった、彼女の方がそれをさっぱりありがたがらなかったとしても、そのことに変わりはない・・・ 全アイルランドの最高支配者としてのその奢りゆえに、その尊大と高慢のゆえに、彼は罰せられたのか、老いの身に、その懐をあたためる処女を欲したことが、それほどの罪だったのか?・・・

 いな、思うにたぶん、そこには何らの道徳的な因果関係もないのだ、・・・咲き誇る花は枯れ、富み栄える王国は滅び、権力は世々移りゆく、生々流転の世の中である、個人のありようとはあまり関係のないところで、もっと大きな流れのうねりにつれて、世界はゆらゆらとゆれながらゆっくりと動いてゆく、それは誰にもどうしようもない・・・
 彼のしたことに何か間違ったことがあったとしても、それはきっかけにすぎなかった、ひとたび絶頂期をすぎたその王国が、ただ必然に崩れゆく、ちょうどそのときにあたっていたにすぎない・・・ その時にあたって流れは変わり、いままでその水面にきらきらと光踊っていた浜辺では灰色の暗雲が日ざしを遮り、・・・他方、闇に閉ざされていた入り江には、突如光が、溢れんばかりに降り注ぎはじめ・・・ その時にあたって風景は劇的な変容を遂げるのである、・・・たえず無数の雲塊が頭上を流れすぎては 大地の色をさまざまに染め変える当地の空模様のごとく、それはたえず移り変わり、永久に変貌を繰り返すのだ・・・

 それはたかだかチェスのひと試合にすぎなかった・・・
 こんにち、「チェスの歩兵のひとつ」といえば、自らは何らの力ももたず、何かもっと大きな別のものの道具として動くことしかできない、そういう卑小な存在を指す。だが、ここでは彼ら神々ですら、結局のところそうしたものにすぎなかったのだ・・・ さらに大きな運命の力に翻弄され、富み栄えては滅びゆくのだ・・・ してみると結局のところ、この物語そのものが、全アイルランドをひとつの巨大なチェス盤として戦われた、ひとつの試合であったようにも思われてくる。みどり色と濃ねず色とのチェス盤である・・・ そしてはじめの時とはちがい、さいごに勝つのはみどり色の方だ。しかし、指していたのは誰だったのだろう?・・・

 なおも、その圧倒的な運命の力を前にして、彼は全くの無力ではなかった。滅び往きてなお神である、いまわのその言葉は力をもつ、その哀歌はとこしえにひびいてこの国の全土をめぐる、いまなお残る石垣の網目模様となって。・・・もはや天まで届く塔を築きはすまい、代わりにたてよこに織りなした歌をもって、私は宿ろう、かつて私のものであり、これからのちはお前たちのものとなるこの国のすみずみにまで、お前がどこにいても、そのもとにこの歌が届くように。・・・

 言葉のもつ力が万物を創造するという、太古の信仰がここで再び意味をもってくる。言葉は物質を現出させる、我々の世代ではもはやたいがいが精神の領域でしか起こらなくなってしまったこの奇蹟が、この偉大な魔法が、かつては文字通り世界を動かしていたのだ・・・ かくてその名残りを目にするとき、遠い昔、ゆらめきわたる詩のことばが世界を生み出したその時代のことを、我々ははるかな記憶のなかに、おぼろげに思い起こすのだ・・・

 今なおアイルランドの全土を覆う石垣の網目、それは無念の石神のうごめく指先である・・・ その牧歌的風景が、オブセッションの不気味な暗さを底に秘めるのはいかんともしがたく、さしものキーナもその勝ち誇った晴れやかさのうちにかすかな影が忍びこむのを感じたことだろう・・・

 青黒い雲むらのくろぐろと湧き上がってはざあっと打ちつける、はげしい風雨のまたたくまにゆきすぎて、ふたたび日の光にかがやきわたる野へいでゆき、・・・足の向くまま、四方に広がる地平を見わたしてはさまよい歩く夏の日の午後、かなしくゆらめいてどこまでもつづくかの石垣のえがくリズムにのせて、遠くかすかに、たえまなくうちひびくその調べを、私は今もこの耳にはっきりと聴くのである・・・

 美しい娘キーナ、お前は私を裏切った・・・私の歌はとこしえに流れ・・・
去っていったお前を求め・・・お前の名を呼びつづける・・・





















***************************************************


  

2009年04月21日

哀しみの大岩 

愛蘭土物語(あいるらんどものがたり) クレア篇6
哀しみの大岩 Poulnabrone the Rock of Sorrow
プルナブローンの物語
2006 by 中島迂生 Ussay Nakajima

1. プルナブローンを訪ねて
2. 物語<哀しみの大岩>
3. 銀の時代から鉄の時代へ
4. 流謫の王女
5. マルダとログナン
6. さいごの小姓
7. ケルト文化の記憶

**********************************************

1. プルナブローンを訪ねて

愛されし者よ
私の涙は流れ下って 大地の草木(そうもく)をのみ尽くし
私の悲しみは天空を暗く覆って この大岩よりもなお重い


 石ころとヒースばかりの四方幾マイルにもわたってうちつづく、ぽっかりと何もないバレンのまん中に、プルナブローンの大岩はある・・・
 正しく言えば石卓である、どっしりとしたいくつかの立石の上に、十トンばかりも目方のある、さらに大きな厚板状の巨石が寝かせてのっかっていて、そのようすは巨人のテーブルか、あるいはひつぎの箱のようだ・・・ アイルランドじゅうで、いやたぶん世界のうちでももっとも印象ぶかく有名な、先史時代の遺跡のひとつである。

 その造られた目的はいまだに不明のままだということになっているが、私には、ほぼ間違いないように思われる、それが誰か、非常に愛された者の墓標であるであろうことは。はじめて古い旅行案内の銅版画でその姿を見たとき、私はその形が、どうにも癒しようのない、途方もない悲しみをあらわしているように思われた。それは深淵のように底なしの、圧倒的な悲しみで、そのとき私は心打たれ、息もつけないほどだった。・・・

 プルナブローンは、アイルランド語で<哀しみの溜め池>を意味する。プルとはすなはちプールである。ナは英語のオヴにあたる。こうしたことを、私はあとになってから知ったのだけれども、たぶんそんなふうな意味には違いないと思っていた。言葉のひびきからしていかにもそうではないか?・・・ その名前がいつごろ、誰によってつけられたのか、私はいまだに知らないけれども。・・・

 この遺跡をぜひ訪ねたいと、私はかねてから願っていた。それも、ほかに誰も人のいないところで、ひとりきりで対したかった・・・ そうでなければ、たぶんほんとうに見ることはできないだろうし、それが私に語りかけてくる言葉を聴きとることもできないだろうと、知っていたからだった。そこで、そこから数マイルばかりの村に滞在したとき、よい日を選んで、世の明ける三時間ばかり前に宿を出て、杖を手に、地図を片手に、まっくらな街道を、誰にも会わずに抜けていった。

 時折ふくろうが鳴き交わすばかりのひっそりと淋しい道を歩きながら私は考えた・・・ そこに葬られた愛されし者とはいったい誰だったのだろう?・・・ その生と死をめぐってどんなドラマが、かつてこの場所で展開されたのだろう? ・・・夜明け前の空気は厳粛な冷たさだった、私は身震いして衣の前を合わせた、そこへ至る道のりはまるで巡礼のようだった・・・ 歩を進め、規則正しい自分の足音に耳を傾けながら、私は自分の思いがしだいしずかな水のように澄んでゆき、今やそれをめぐる物語の訪れに備えてふさわしく整えられてゆくのを感じた・・・

 夜明け前の空の青は、夕暮れどきのそれとはまた異質な青だ、私はいつでもその独特な青の色を愛してやまなかった。しかし、あの朝、言葉もなく荒茫とした荒野のただなかで見たあの青色、あの青色を、私はのちのちまでくり返し、夢の中に思い出すのである・・・ そこへ着いたのは折りしもこの時刻、青の色が空全体を染めて、地上の事物におぼろげな色彩を与えはじめる、あの夜と昼とのあわいの時間だった・・・

 それを見たとき、私は自分のまわりで時空がぐらりと揺らぐのを感じた、突如として、ひきつけを起こしたように喉元に塊がこみあげた、どうしようもなかった・・・ 私はただ立ち尽くした、悠久のときを経たその巨石を前に。・・・その乾いた岩肌は夜明けの空をそのまま映して紫を帯びた青色だった、そしてその岩の表面にはっきりと文字で刻みつけでもしたかのように、私はその言葉をはっきりと・・・ 「私の悲しみはこの大岩よりもなお重い」というその言葉を聴いたのだ・・・

 あの日、あれからどのように一日の残りを過ごしたのか、私には記憶がない・・・ すでにその魔法によってすっかり運び去られてしまって、時空を超えてどこか別の場所にいたのだと思う。そのとき私の姿がふっと掻き消えるのを見た人があるとしても私は驚かない。・・・

 東の空が白みそめるにいたり、たちまち光は明るさをまして、あかつきの憂愁のかげをすっかり追い払ってしまう・・・ そのわずかなあいだにやってくる光のように、物語はその朝、ほんのひとときのうちに訪れた。これほど完全なディテールをそっくり備えたかたちで、いちどきにやってきたのはほかにない。・・・

     ***

2. 物語<哀しみの大岩>

 プルナブローン・・・美しいがどこかものがなしい響き。妖精たちのすすり泣きのようだ・・・
 プルナブローン・・・はじめはしくしくとすすり泣き、あとから恨みと怒りのこもった唸りのよう。 ・・・そのひびきは荒野を吹く風にちぎれてかなたへと運ばれゆく・・・

・・・その昔、かの地を治めていた王の名はディアハーンといった。彼ら王たちの一族には、妖精の血が混じっていたといわれる・・・ 姿においても気質においても優美な者たちであった、彼らは詩芸を好み、歌を吟じ、透かし彫りを施した銀のハープをつまびいた。・・・

 ディアハーンはすでに六人の妻をもち、息子や娘たちをもっていたが、ぜひとも妖精の女を妻に迎えたいと願っていた。そこで遠く西の海の向こうから、妖精の王の娘を七番目の妻に迎えた。彼女の名をシーア・リーといった。

 王はシーア・リーを深く愛し、彼女もまた王を慕った。しかし、異境の習慣の違いや先妻たちからの嫉妬のために彼女は幸せではなかった。日に日にやせ細り、透きとおるばかりに青白くなったが、それがかえってそのこの世ならぬ美しさを際立たせた。彼女はふるさとを思い出しては望郷の思いをたぐいまれな詩に託して歌ったが、王はそれをこっそり壁の向こうで聴きとっては書きとどめようとするのであった。その美しさのゆえに、またとりわけその悲しみのために、王は彼女を愛してやまなかった。

 王が彼女を愛すればするほどに、まわりの者たちは彼女を疎ましく思った。とりわけ王の二番目の妻で、彼の長子ログナンの母親であったマルダはことのほか彼女を憎み、謀略をもちいて彼女を亡きものにしようとはかった。

 毎年夏の盛りに国を挙げて催される祭りがあり、国じゅうから勇猛な雄牛が集められて、互い同士戦わされるのであった。王とその家の者たちも毎年見にゆく習わしだった。

 その年の祭りのとき、王妃マルダはとりわけ荒々しくて凶暴な雄牛の持ち主にひそかに命じて、王の七番目の妻が七番目の車に乗って祭りの会場へ入るとき、この雄牛をわざと放たせた。そこで雄牛は七番目の車を突き倒し、シーア・リーと、ともに乗っていたおつきの者たちが死んだ。

 そこで、王は彼女を手厚く葬るために、巨大な石の墳墓をつくらせた。これが世にいうプルナブローンの大岩である・・・ この中に王は彼女の棺を、ガラスと金と宝石でつくられた棺をおさめ、「私の悲しみはこの大岩よりもなお重い」と言った。

 そののち、王は布告を出して、国じゅうのすべての雄牛を殺すように命じた。民のあいだに悲嘆の叫びがあがった。雌牛たちの腿は衰えて、民は窮状に陥った。ある者たちは雄牛をひそかに隠して、王の剣の刃を逃れさせようとするのであった。

 民の窮状が甚だしいのを見て、王の長子ログナンの怒りが燃えた。そこで彼は民の側に立って、王に対して叛乱を起こし、王の側についた者たちと、王子の側についた者たちとがともに戦った。そして、ついにログナンの勢が勝って、王をプルナブローンの大岩のところまで追い詰めた。王の軍勢は敗走し、その日、王のもとに残ったのは若い小姓ただひとりであった。

 まさに王を殺さんとするに及んで、ログナンは王に向かい、
「お前のさいごの望みは何か」と尋ねた。すると王は、
「私の亡骸をこの大岩のもとに、私の愛するシーア・リーのもとに葬ってほしい」と答えた。するとログナンは、
「それがお前のさいごの望みだというのか。天と地にかけて、私はお前の望みを聞き届けることはない」と言った。

 その日、彼はこの大岩のもとで、自分の父親である王ディアハーンを打ち殺した。そして、「ただ己れの心のままに治めて、民のために治めようとしない者は、このようにされる」と言った。それから彼らは王の亡骸をひきずっていって、遠く離れた淋しい沼地に投げ捨てた。

 そののち、王の長子ログナンは王位に就いて治めはじめた。民のあいだで雄牛が隠されていたので牛はふたたび増え、豊かな作物を生み出すようになって、国は栄えた。民の暮らし向きは以前よりはるかによくなった。けれども、二度とふたたびこの国で、かつてのように優美で繊細なわざが、詩芸や音楽が営まれることはなかった。・・・

 プルナブローン・・・ 目に見えぬ嘆きのうたは空をわたって、夕暮れのヒースの原をざわめかせる。帰ってこい、帰ってこい・・・ 西の海のかなたから、異国に果てた愛されし乙女をよぶ声が今もひびく・・・ 汝がもとへ、汝がもとへ・・・ 今はもう、とうの昔にからからの岩盤ばかりに干上がってしまった遠い沼地から、王の悲恋のうめきが今もこの地を彷徨いすぎる・・・ あかつきに、たそがれに、あるいは聴くことがあるかもしれない、大地にめぐる雲のように、とこしえにゆきめぐるそのおぼろな響き、プルナブローン、その遥かなかなしみの調べを。・・・

     ***

3. 銀の時代から鉄の時代へ

 それから再び訪ねてゆくことはなかった、私はかの大岩を。・・・さいしょに見たときの鮮やかな印象を、別な印象でもって濁したくなかったのだ・・・ ただ、地つづきの同じ荒野を幾日かかけて歩きまわり、ぽっかりとひらけたその天空に、幻がうち広がり展開するのを見つづけたのだった。 ・・・それはあまりにドラマティックなので、たったひとりで抱えこんでいるのが苦しく恐ろしいばかりであった・・・ 今となってはこのすべてを、私のほかには誰ひとり知らないのだ!・・・

 私は石板の空に、船首を高くもたげた優美な銀の舟が風を突いて走り、妖精の王の娘を迎えるために かなたの海へわたってゆくその姿をまざまざと見た・・・ 焼けつく日ざしのもと、舞いあがる土ぼこり、牛祭りの群衆の騒々しい叫びとざわめきとをはるかに聞いた・・・ 大岩のところでログナンの剣が王ディアハーンを刺し貫いたとき、失意と絶望に打ちひしがれた王の顔を、そのやいばが肉体にふりおろされる生々しい感触を、飛び散る鮮血の緋の色を思い見て、私は身震いし、顔をそむけた・・・ そして、そのあまりにあざやかな幻のなかでさまよっていたあいだじゅうずっと、遠く低く、荒野の空を生きもののようにゆきつ戻りつ、絶えまなくうちひびく嘆きの調べを聞いていたのである・・・


 じっさいのところ、どこにおいても等しくそうであるように思われる・・・ ディアハーンとログナンの生き方に象徴されるものの対比、詩的なもの、優美で繊細なもの、するどい感覚をもち、憧れをもって別のもうひとつの世界と交感するもの(この物語のなかではそれが、西の海のかなたから妖精の娘を迎えたことに象徴される)、それが、力あるもの、それも、単に強いだけの力、プラクティカルで効率的で、世俗の実利ばかりを重んじるもの、もうひとつの世界をかえりみないもの、そういうものに打ち破られて滅んできた歴史・・・ 全く、どこに於ても等しくそうであるように思われる。

彼らは詩の価値など問題にしなかった、詩が飢えを満たせるか、犂を引いて耕すことができるか・・・ それでもなお、一片の詩が人を死の淵から救い出し、荒野の道すじを進みつづける力を与えるということもたしかにあったのだ・・・ それゆえに、無用の美、それはほんとうには無用でなくて、さいごには魂の本質的な部分に、欠かすことのできない糧を与えるものなのだが・・・ 

美しく、とらえがたく、奥深くあればあるほど、それは実益から離れ、多くの人々の理解の及ばないところとなって、やがて駆逐せられ忘れ去られてゆく。世界の多くの場所で、文化は今あるよりもかつての方がもっと複雑で偉大であった。それはじっさいに考古学や民俗学の示すところである。文化は時とともに発達するのではなく、むしろ退化し、単純化してゆくのだ。おのおのの文化を特徴づける装飾文様にしてもそうだし、言語体系にしてもそう、建築技術にしても同じことだ・・・ プルナブローンのような巨大な建造物は、その後久しく造られえない。あとからやって来た人々にはできなかったのだ、過去の方が、より偉大なのである。こんにち、詩人たちが等しく遠い昔をうたうのも、何らふしぎはない!・・・ 彼らの魂は、なべてそれら偉大な過去の時代に属しているのだ・・・

 銀の時代から鉄の時代へ・・・ それら移行せるふたつの時代の、この物語はその分水嶺である。モチーフとなっている牛は、鉄の時代、プラクティカルな実益の時代の象徴である。それは民に属する動物だった、力は強いが、鈍重で、こまやかな機微をわきまえるとは見えず、優美とはいえぬそれは、とうから王にはたいした意味をもたなかったことだろう、その力が民の力となり、それがあわさってとどのつまりは宮廷をも富ませていたのだが、わざわざそんなことを考えたこともなかっただろう。牛祭りにしてもほんとうのところは、野蛮な庶民の楽しみくらいにしか思っていなかった、それが習わしだからというので赴いたにすぎなかった。・・・ 王はたぶん、馬のほうをずっと好んだに違いない、見た目にも美しく、すらりとして気品のある馬のほうを。・・・

 こんどのことで、王の牛に対する憎しみは決定的になった、まるで自ら滅びを招くようなものだのに、彼ら、美を解し繊細な感覚をもつ者の、この世を生くるすべに関して宿命的に背負った不器用さ。・・・ 民、この理解しがたい、やっかいな存在、手に負えぬ海の波のように、ひとたび荒らぎだつとすさまじい破壊力をもつ者たち。・・・ 王にはまったくそのように見えた、まるで牛みたいに、彼の大いなる悲しみを共有しようとしないなんて、いったいどういう考えをしているのだろう?・・・

 全土から上がる苦悶と非難の叫びは王を苛立たせ、煩わせただけだった、夜ごと夢に現れる、彼の嫌悪した、あの目を背けたくなるばかり愚鈍な顔つきの雌牛たち・・・ もはや精を得て身ごもることもなく、やがて老いてなすすべもなく死んでゆく・・・ その姿が、目を閉じるたびまぶたに浮かんで王を悩ませた、眠りは王から去り、昼には身の置き所もなく、孤立して、しだい包囲の輪を縮められ、そしてとどめをさすように、わが子ログナンの叛乱の知らせ。・・・

 ログナン、そのやり方はもう一方の極端だった。
彼らの、策略や力に訴えるやり方が、まったく非情で乱暴であるにしても、私は彼らを責める気になれない、見ていて我慢できなかったに違いない・・・
 ある日突然布告が下される、兵士たちが次々と都市や村々に踏み入っては雄牛という雄牛を引き出し、片っぱしから剣の刃にかけてゆく、嘆願の叫びにも、憐れみを乞う涙にも耳を貸そうとしない・・・ その肉や皮を利用することさえ民には許されなかった、何にせよ許されざる罪に汚れた動物から、誰かが何かの恩恵を受けることなど、王にとっては耐えられなかったのだ・・・ 雄牛の死骸は都市の外に積み上げられ、火を放たれた、炎が渦巻いてのぼり、もうもうたる煙がたちこめて、さながらぞっとする地獄絵である・・・

 民はただ途方に暮れるしかなかった、明日から誰が犂を引いて耕すのか、誰が荷車を運ぶのか・・・ 肉もミルクもバターももうない、なめす皮もなく、刻む角もない・・・ 王を呪う声が国じゅうから上がり、その叫びは天に達した・・・ 自分がこの時代の市井にあったら、と私は想像した・・・ やはり我慢できなかっただろう、とてもとても、冗談ではない、やっていられたものではない・・・

 ログナンの叛乱、それは全くのところ、民の側に立った義憤によるものだっただろう。彼は父親の線の細い詩人肌よりも、母親の激烈な熱情と、思いきった行動力とを受け継いでいた。彼はアブサロムではなかった、じっさい彼が王位に就いてからの方が、民にとってはよかったし、民は新しい王を愛しただろう・・・

 彼がただ間違いなく王位を継ぐことだけを考えていたとしたら、民の窮状にさほどの関心を払わなかったかもしれない、それは約束されていたので、奪い取る必要はなかった。とどのつまりは親父が目をつぶるまでのあいだのことにすぎなかった・・・ 民を味方につけて、それを正当に受けるよりも早く手にしたい、という野心が混じっていなかったとはいえまい、恐らく、しかしひとりの人間のなかで、私心のない思いとよこしまな心とを、どこにはっきり線引いて分けられるものだろうか?・・・


4. 流謫の王女

 妖精の娘シーア・リー、そのこの世ならぬ美しさと優雅さとが不可避的にまき散らしてゆく数々の不幸と混乱、悲劇・・・ その存在は物語の中心部にありながらいかにも影が薄く、ただ無力な悲しみばかりがその生涯を彩っているようだ。けれどもはじめからそんなふうだったわけではあるまい、もちろん、というのは悲しみは人間世界にのみ特有の性質であるのだから。・・・

 かつては彼女もいきいきとして幸福な少女だった、はれやかな瞳、ばらの花のほころぶような笑顔、まわりの妖精たちみんなから愛され、かわいがられて、父王にとってもたなごころの宝のようだった・・・ それがどうして野蛮な人間界なんかに送られることになったのだろう? 何か政治的な弱みがあったのだろうか、彼ら妖精たちの力もしだいに小さくなりつつあったから? ・・・それとも、それはひとえに、ディアハーンの願いの真剣さと、彼ら一族に流れると言われた、一滴の妖精の血へのあわれみのゆえだったのだろうか?・・・

 このあたり、今は岩だらけの耕すこともできない荒野だが、一万年とかそれ以上の昔にはきっと、みどりゆたかな土地だったに違いない、多くの人が住み、文明が栄えていた・・・ この地に残る多くの遺跡からすると、そんな感じがする。それも、今よりもっとあたたかくて、今ではずっと南の方に育つようなエキゾティックな植物が育っていたのではないだろうか、真っ赤な舌をもつ蘭だとか、縞もようの幅広い葉をもった低木だとか。 ・・・そうした肥沃な国のまん中、みどり濃い庭園のなかに美しい宮殿があって、王とその一族がよるひる詩をつくったり、ハープを奏でたりして優雅に暮らしていたのだ。

・・・宮廷にいる限り、異国から嫁した妖精の娘もさほどの環境の違いに苦しむことはなかっただろう・・・ ここの人々は詩や音楽を知っている、もちろん父の国のそれよりずっと劣るが、少なくともその値打ちは知っているようだ・・・ しかし、庶民の暮らしとなると、彼女には全く理解の外だった・・・ どういうわけで彼らは絶えずあくせく走りまわって、集めたり、刈り取ったり、耕したりばかりしているんだろう? ・・・妖精の国では、食物はひとりでに木になり、生えいでてくるものであって、誰もそのために手を煩わせたりすることはなかった。ところが、ここの人々ときたら!・・・ まるで、そのために生きているみたいではないか?・・・ 王女は途方に暮れてしまった。

この新たな世界がどんなふうであるかを知るにつれ、しだい日が傾いて斜めの影がのびてくるように、王女の心に悲しみと望郷の念とが忍びこんできた・・・ この国では高貴な人びとですら憎みあい、嫉妬し、策略をめぐらして互いを倒そうとする・・・ なんということだ、考えてもみなかった!・・・ しだいある思いが・・・流謫された! という思いが生じ・・・日に日に否みがたく大きくなっていった・・・ しだい、ばら色の頬は透き通るようにやつれ、その瞳は光を失って、その歌はといえばただ、どうしようもなくふるさとを慕って還りゆくばかりだった・・・

「王はそれをこっそり壁の向こうで聞き取っては、書きとどめておこうとした・・・ 王はその悲しみのために、彼女を愛してやまなかった・・・」それは王の冷酷だったのか、いな、さにあらず、我々がこんにち考えるように、理解することや、支えとなること、あるいは己れを犠牲にして相手に尽くすこと、それが愛というものだとすれば、彼には生まれつき、愛するという能力が欠如していた、ちょうど世心を知るという能力が欠如していたと同じように。・・・ 彼はただ、お気に入りの名馬や、みごとな銀のハープを愛するのと全く同じに彼女を愛した、それが愛でないなどとは考えてもみなかった、そして彼は彼なりに、自分のその愛に関して全く真剣だった・・・ おそらくこういう例は、現代にも事欠かない。・・・

 何か恐ろしいできごとが自分に近づいてくるのを感じて、彼女は怯えたに違いない、彼女はそれを王に訴えただろうか? さあ、分からない・・・ それは自分にも王にも無縁で理解しがたい、なにかどろどろと渦巻く暗い力から発しているもので、自分をそこから遠ざけるために、王には大して何もできない、それを彼女は知っていた、だからなすすべもなく、ただ怯えるだけだった・・・ 故郷を恋ふうたはますます哀切を極めた、彼らふたり、彼らはよるべのない子供のようだった・・・ 災いが、刻一刻とその身に迫るのをはっきりと見ながら、だれも、どうすることもできず、何を言ってやることもできなかった・・・


5. マルダとログナン

 ほかの六人のなかでもとりわけ目立つ存在だった王妃マルダ。
 それが彼女の策謀によるものであったことを、王はついに知ることはなかった・・・ 彼の感覚の鋭さは、現実の物事のためよりも、詩の美しさのためだった、できごとの背後にあるものに対しては盲目だった。・・・

 彼女は目鼻立ちのはっきりとした、堂々たる美人だった、黒髪で、赤のよく似合う。・・・ シーア・リーを亡きものにしたあとも王が悲しみに暮れるばかりで、その愛が自分のもとに戻ってくることもないのを見て、ほとほと愛想が尽きたであろうが、それは予想できたことであった・・・もとより、王は彼女と同じ魂をもつ者ではなかったから。・・・それ以上王に執着することはなかっただろう、今や彼女の情熱は我が子ログナンであった・・・ 牛に関する布告を王が出したとき、すでに、彼女は潮の変わり目が近づいているのを感じただろう・・・ 王の愚挙、その横暴、その犯した致命的なあやまち。・・・ なおも錘(つむ)は屋上の間に隠し通され、幼子は剣の刃を逃れて生き延びるのである・・・

 ログナンが叛乱を企てたとき、彼はそれを早い時点で母親に知らせただろう、母親はよろこんで、あたう限りの援助を与えただろう・・・ もしかすると、それを唆したのは当の母親本人だったかもしれない・・・ 王が敗れ、ログナンが王位に就いてのちは皇太后として大いに権勢をふるったことだろう、彼ら親子の共同戦線は民の支持を得て揺らぐことなく確立されていったであろう・・・ 今やまごうかたなき彼女のときであった・・・

 ログナンはすべての元凶としてシーア・リーを憎み、父王を殺したあと、彼が彼女のためにきずいた墓をあばいたが、金と宝石とでできたその棺のなかに亡骸を見出すことはなく、代わりにただ一輪の可憐な花か、一本の白鳥の羽根、あるいは薄桃色の貝殻の破片・・・なにかそんなふうなものが転がっているばかりだったろう、彼らはいつもそんなふうだから。・・・ 彼はまたプルナブローン、かの大岩そのものをも突き崩そうとしたが、千人の兵士をもってしてもそれを突き崩すことはできなかった、王の悲しみがあまりにも大きく、またそれがあまりにも重かったので。・・・ それゆえログナンはただそれを打ち捨てて、荒れ果てるに任せたのだった、やがては時たつうち、しぜんに崩れ去るものと考えたのだ・・・

 ところが何たる歴史の皮肉であっただろう、彼の見通しとは正反対に、地表の気候が変化し、肥沃な耕作地が荒廃してゆくにつれ、ひとたび栄えたその王国は、何百年か、何千年かのうちにゆっくりと消滅していってついにはあとかたもなくなり、他方ではかの呪われた大岩だけが、かつての繁栄を、強大な王国の名残りを、とりわけ消えることのない王ディアハーンの大いなる悲しみを、今に伝えてとどまりつづけているのだ・・・


6. さいごの小姓

王が愛する妃を葬った大岩のもとでログナンの剣に倒れたとき、ただひとり、さいごまで王の側に立った小姓。 ・・・物語のなかでとくに言及されていることには、なにか大きな意味があるに違いない・・・彼はどんな若者だったのだろう?・・・

 恐らく彼は、花嫁を迎える王の使節として、西の海の向こうの妖精の国へ送られる船に、いっしょに乗っていった若者たちのひとりだったのだろう、おそらく彼がいちばん年少で、ほんの少年にすぎなかった、けれどもかえってその幼さのゆえに、かの国で見聞きしたもののすばらしさはまざまざと、彼の記憶に永久に刻まれたことだろう、そこで見たものが、のちの彼の生きてゆくしるべとなった。・・・

 あとになってふり返ると、それはまるで信じがたい別世界であった・・・ かの地では国ぜんたいが宮廷のようだった、人びとはだれもが王族のようで、国土はすみずみまで庭園のようだった、かの地ではすべてが美しく、優雅で、高潔だった、悪意や、愚かさや、苦しみ、そんなものを彼らは知りもしなかった、かの地では人びとの営みも季節のめぐることも、すべてが詩であり歌であった、これがものごとの、本来のあり方なのだ、そういう強烈な印象を、彼はその幼い心に焼きつけられたことだろう・・・

 西の国の王女が到着し、壮麗な婚礼の式典が催されたときも、彼はものごとの中心のところで働き、そのすばらしさを間近に見ただろう・・・ 彼女が日々詩を吟じ、ハープにあわせて歌うのをそばで聴いたことだろう・・・ 王の愛と、その死に際してのあまりな悲嘆とを、なべて近しく知ったことだろう・・・

 彼も民の窮状は知っていたが、それでもなお、自分がかつて見知ったもののすばらしさを忘れることはできなかった、ひとたびじかに聴いて、そのひびきに心ふるわせられた魂は。・・・ 内戦に至ったときも、なおほんの若者にすぎなかった、とても王を守るほどの力もなく、戦力としてはまあ、いてもいなくて大して変わらないくらいのものだっただろう、彼もまた王の愚かさは知っていた、しかしその側に立つ者がほかに誰もいなくなって、己れの知る美しいものの価値を擁護するものもなくなった今、彼には見捨てることはできなかった、たといさいごのひとりになろうとも。・・・ 彼はその目で見たのだった、彼はその目で見たものを、否むことができなかった・・・

 彼の最期については物語のなかで触れられていないが、おそらく王と同じくログナンの剣に、あるいはだれか、彼らのうちの一人の剣に倒れたのであろう、そしてそのなきがらは、顧みられることもなく打ち捨てておかれたのだろう・・・ 美と幽遠との側に立つ者は、必ずや滅びに至る。けれどもなお、いつの世にも彼のように、ひとつの価値を守り通す名もない人びとはつねにいて、彼らの信念とその勇敢さとによって、よきものの記憶は忘れられることなく、今に至るまで守り通されてきたのだろう・・・ そういうメッセージを、私はここに感じ受けるのだ・・・


7. ケルト文化の記憶

 この国で、しばしば夜の時間に、酒場などで笛やフィドルを用いて演奏される奇妙な音楽、・・・それは多くが繰り返しの多い、単純なメロディーで、子供のための練習曲のようだ。ところがそこに、ときに考えられないような極端な音階の飛躍や、何とも表現のしようのない悲しげな調子が入りまじることがある・・・ はっと胸を突かれ、思わず奏で手のほうを眺めやる、すると何のことはない、そこにいるのは赤ら顔の農夫であったり、武骨な馬丁であったりするのだ。・・・

 あれはいったい何なのだろう? ずっと気になってはいたのだった、彼ら、この国の人びと、彼らのうちに通うその独特な気質、・・・なにかあまりに遠く、あまりに霊妙であるがゆえ、地の人の子には手の届かないもの、過ぎ去って二度とは戻ってこないものを永遠に求めつづけているような悲しみ、それでも抱きつづけている、憑かれたような憧れと・・・ それらをもっと近くからのぞきこんでみたいと、いったいどういうものから発しているのだろうと、ずっとふしぎに思っていた・・・ そしてなにかの歌にたぐられるように、珍しいものを見つけてどこまでも追ってゆく子供のように、けれどもこうして旅をつづけ、さまざまな物語の訪れを受けるうち、全く奇妙なことが起こってきた、それらの音楽が、これらひとつひとつの物語の情景描写のように聞こえ始めたのだ・・・ あるひとつのフレーズが、あるひとつの話の特定の場面を色あざやかによみがえらせ、まるで言葉ではっきりと語るように、そのときの彼あるいは彼女の心のさまを表現する、・・・説明のつかないこうした瞬間を、いくど経験したことか。・・・

 音楽ばかりでない、・・・いつの頃からか、あのケルトの唐草もよう、複雑にからみあったあのつる草やうず巻きの文様は、私に向かって語りはじめたのだ・・・ 喜びやかなしみや、愛や憎しみの互いに分かちがたく、からまりあった人の心のありようを、そうして永遠にくり返される呪文のようなうず巻きは、はっきりと言葉をもって、・・・かくのごとく時は流れ、かくのごとく季節はめぐる、昼と夜、夏と冬とはくり返す、草木と花とは栄えては滅びゆく、鳥たちと水の流れはたえずめぐってもといた場所へ還ってゆく、人は生まれては死に、偉大な所業ととり返しのつかない過ちとを永遠にくり返す、と。・・・

 たぶん彼ら、今この地に住んでいる人々は、征服者ログナンの末裔であり、より強大で、策略にたけ、プラクティカルな、新しくやってきたほうの者たちに属するのだろう・・・ いな、征服と敗走とはひとたびならずくり返され、これら物語に語られたような人々はもう永久に去ってしまって・・・ それでもなお、征服者の常であるように、いまこの地に住む彼らもまた、かつて去っていった人びとの血を受け継いでいる、そしてその記憶もともに。・・・

 そして何より色濃く、この地に影を落としているのは、彼らいにしえの亡霊たち、その想いは千歳を経ても色あせるにはあまりに強く、なおもこの地を彷徨いつづける、この土地の気候を特色づける雨や水蒸気のように空気中にあって、今もそこに住む者たちに働きかけ、ある一定の気分といったものを与えている・・・ ゆえに、何千年もの時を経た今このときになって、酒場できく笛の音色に王ディアハーンの悲しみを、王女シーア・リーの郷愁をよみがえらすのだ・・・

 かくてすべてが混然とまじりあい、空気中を充たして、訪れるものを魔法にかける、ふしぎな土地である・・・ ここは地の果て、世界がその一方の端で尽きるところ、ここで時空はゆがみ、ねじれて別の世界につながってゆく・・・
 プルナブローン、妖精たちのすすり泣き。・・・ その哀しみはかくてあめつちを充たし、その嘆きはなおもひびく、夕暮れの荒野の風のなかに。・・・

















*****************************************************


  

Posted by 中島迂生 at 00:45Comments(0)哀しみの大岩

2009年04月18日

風神の砦(完全版)

愛蘭土物語 クレア篇5
風神の砦 The Fort of Aengus / Doon Aengusa 完全版
モハーの崖とアラン諸島の物語
2005 by 中島 迂生 Ussay Nakajima



1. <モハーの崖>の調べ
2. ミルトン・マルベイからモハーの崖、そしてドゥーリンへ
3. ドゥーリン、そしてアラン諸島
4. ハイ=ブラジルの伝説
5. 太古の巨石遺跡
6. 物語<風神の砦>
7. <風神の砦>をめぐって~永遠の断絶

**********************************************

1. <モハーの崖>の調べ

そは風神エインガスの嘆息のごとく、
たかくひくく とどろきわたる波のまにまに
今なおひびくは かの調べ。・・・

 この地方に伝わる古い曲のひとつに、<モハーの崖>というのがある、三拍子のもとは舞踊のためにつくられた曲である・・・ 導入部で、旋律はいきなり切りたった絶壁の岩肌に沿って駆けくだる、一挙に数千フィートの高みを、はるか下の海のおもてまで、めくるめく、わが身は風に舞うひとひらの白片、ふきちぎる潮しぶきのまにまにくだりゆく一孤鴎の翼である・・・ 波のおもてにつく瞬間にさっと身を翻して飛びかすめ、また羽ばたいて空を駆けめぐる、それが二度ばかり繰り返されて、フラッシュバック、そして展開部は黒く沈んだ岩壁に間断なく打ち寄せる波の情景である・・・ 永遠に寄せては返す、絶海の岩壁にひびく、胸を突く寂涼のひびき、砕け散る波音と、かもめの鳴き交わす細い甲高い声ばかり、淋しいといえばあまりに淋しい・・・

 私はこの曲を、名にし負ふかのモハーの崖のふもと、ドゥーリンという小さな村ではじめて聞いたのだった、夜更けの酒場、人も閑散とするころ、居合わせた旅芸人の笛吹きがいて、「崖を見たかね?・・・」と話しかけてきた。私が頷くと、あの崖の名をつけた小曲があるのだ、といってやおら笛をあて、聞かせてくれたのだ・・・ しずかな酒場の薄暗がりの中に細い笛の音が沁みるようにひびき、はっきりと言葉でもって語るかのように、私の脳裡には、その日の午後歩いたばかりの崖のようすが、まざまざと甦ってきたのだった。・・・

 モハーの崖はクレア名物で、これを見るためにわざわざ訪れる人も多い。じっさい、海へと切れ落ちる崖は多くあれど、これほどのものはそうそうあるまい・・・ 垂直に切り立つ目も眩むばかりの断崖絶壁が、ぎざぎざに入り組んで何マイルにもわたってつづき、下は荒海、上は見渡す限り一面の荒野である・・・ そのいちばん高い地点には古い石塔があって、ここに立つと幾重にも連なった崖はだの海へ切れこむさまを一望のもとに望むことができる、いやもっと遥か遠くまで、晴れた日には遠くコネマラの山々からケリーに至るまで見渡すことができる・・・

 けれども、この場所がもっともその本来の様相を得るのはむしろそういう日ではなく、それは例えば少し肌寒く、うっすら霧のかかった日の、水平線も定かには見えず、朧ろな黄色にかすむたそがれどき、あるいは夜明け、淡いモオヴと青むらさきの、薄明のあわいに幻のごとく、じっと黒ずんだ岩壁のシルエットばかりが浮かびあがる、そんな時分だ、地霊たちがやってきて語りはじめるのもそういうときである・・・


2. ミルトン・マルベイからモハーの崖、そしてドゥーリンへ

 重苦しい曇りぞらのつづいたミルトン・マルベイの日々とはうって変わって、出発の日は雲ひとつない晴天であった・・・ 左官屋から借り受けた騾馬を使っての初の移動である、・・・これは幸先がいい、あかるい光、かがやきわたる眩しい夏の光を全身に浴びて、町をあとにし、何度も歩きまわった海ぞいの街道筋をゆく、湾岸の港町をいくつも通り過ぎてゆく、ラヒンチ、リスカノール・・・これら町の名を舌の上に転がすと、今も陽光にあふれた町並、きらきらと光をうかべたしずかな海のおもてが目に浮かぶようである・・・ ここらあたりは保養地として、さいきんでは大陸からやってくる旅行者も多い、とくに夏は。・・・ゆく道すがら、何台もの乗合馬車にすれ違う、よそゆきの恰好をした紳士淑女の御面々だ・・・ リスカノールの郊外、海を望む茫漠とした草の丘の上には石造りの城館の廃墟がある。窓が縦に五つばかりも連なり、堂々たる面構えである、いつの時代のものだろう、今では壁の一面だけが残っているが。・・・

 これら港町の活気にあふれた光景は心楽しいものであったが、町並が尽きて、街道が海岸線をはなれて少し内陸に折れあがり、ゆるやかな坂道が折り重なるようにゆけどもゆけどもつづくようになる頃には、焼けつくような日射しがしだい辛く感じられてきた、見わたす限りなだらかな丘々が広がるばかり、道ぞいに多少の木立や茂みは尽きぬものの、日射しをさえぎってくれるほどではない、騾馬がまだ慣れていなくて、きつい上りになると機嫌を損ねて進みたがらないので仕方なく、上り坂のたびに降りて手綱をとって一緒に歩いてやる、まったく手間がかかる・・・

 聖ブリジットの泉をすぎ、モハーの崖の上にさしかかるころには、目に映るはただ一面の茶色になって、荒野に生えるスゲの茶色がけざやかな曲線を描いて地平線まで連なるばかり、焼けつくような乾いた光景だ、ゴースのきつい黄色が目にうるさく、よけい暑さをますような、ああ、耐えがたい暑さ、空の青いことといったら、そのいちばん深いところはほとんど黒に近いほどである・・・

 てっぺんの石塔が見えてきて、あそこまで行ってみようか、・・・けれども乗合馬車が何台も連ねてずらりととめられているのを見て気が変わり、素通りしてしまう、今日はいい、またいつか別の日に来よう・・・

 つらい道中であった、しかし、とうとうそのいちばん高いところを過ぎ、あとはゆるやかな坂に従って下ってゆくばかりとなったころ、そのとき急にぱっと目の前が開けて、まっさおな海が眼下に広がったのだ、あんな青を私はそれまで見たことがなかった、はっと息を呑み、おのれの目が信じられずに立ち尽くした・・・

 浅瀬のあたりは瑪瑙のようにさまざまな色あいが入りまじって、・・・水色や、エメラルドや、ターコイズ・ブルーや・・・ それから沖の方へいくにつれて、これぞブルーとしかいいようのないような澄みきったブルーとなり、イニシーア、イニシュマーン、それからイニシュモア、彼方にうかぶアランの島々の姿をくっきりと見せて、はるか空につながるところまで広がっているのだった・・・ じっさい、この雲の多いクレア地方で、こんなふうな日の海を見た者は多くないのではあるまいか、この海を見たことで、私はここに至るまでの苦労のすべてがいちどきに吹きとぶような思いだった。・・・

 ドゥーリンの村にさしかかる手前、海を見下ろす高台のところに、またひとつ城砦の廃墟がある、円筒形の塔が崩れかけてつたやいばらに覆われている、このあたりにも昔から人が住んでいたのだろう・・・

 宿を探しあて、騾馬をつなぎ、荷物をおろして、井戸から冷たく透きとおった水を汲み上げて、私も、騾馬も、長々と飲んだ。・・・しばらくはもう、動きたくない、ここでゆっくり休んでいたい・・・

 けれども夕暮れ近く、涼しく澄んだ風とおだやかに沈んだ野の色調とに誘われて、ふたたびおもてへさまよい出る、ああ、何と気持ちよい夕方だ! ・・・牧草地のみどりの色の何と目に快よく、石垣や木立の茂みのなつかしく映ることか! ・・・昼間とはがらりと表情を変えて、ものみなすべてが限りなくのどけく優しい、長い夏の日の夕べである・・・

 ゆったりとうち重なって広がる野の、みどりや茶色やくすんだ若草や、それから灌木とヒース、そのあいだに点々とちらばった薄茶やクリイム色の牛たち、道ゆくうちにところどころ、ごつごつごした岩ころが草の間に顔を見せはじめる、バレンが近いのである・・・限りなく澄んでどこまでも広い、淡い葡萄色と水色とのグラデエションの空である・・・

 すがしさに道ゆくまま、とうとうリズドンヴァルナまで至ってしまった、引き返すころにはさしも長き日もしだい暮れ往きて、ようようと宵闇が、野辺をひっそりと浸しはじめるのである・・・


3. ドゥーリン、そしてアラン諸島

 ドゥーリンには一週間ほどいた、ドゥーリン、思い出すのはさいしょに着いた日、陽をあびた埃っぽい砂利道、あるいはまた別の日、どしゃ降りの雨の中で、庭先にずらりとロープに掛けられて風に吹きまくられてばたばたとはためいている洗濯物。・・・

 朝まだき、曇り、つめたい空気、時々ななめに朝日のうすあかり・・・橋の上の眺め、小さい橋のこちら側は両岸に野の花のふち飾り、かなたの丘から流れてくる・・・

 だれもいないしずかな通り、ただとても早く発つ旅人たちだけ、あの感じをいつまでも覚えていたい、牧草地をつっきってヘッジの茂みがどんなふうにざわめいていたか、なだらかな弧を描いて丘々がどんなふうに連なっていたか・・・ 窓に板の打ちつけられた廃屋の漆喰塗りの石壁に、ブランブルの花がどんなふうに咲いていたか・・・ 白に淡いピンクがよく映った、微風にふるえるブランブルの薄紅の花むら、ペンキの剥げ落ちた納屋のとびら、汚れた窓ガラス、薔薇で埋めつくされた白いレースのカーテンの窓辺。・・・

 左手に盛り上がった丘々の、半分ばかりはゴースの茂みに覆われて、牧草地を飾る若枝の、冠のように幾すじも、斜面にそって走る心たのしい生垣の群れ、そちこちに転がしてあるヘイロール・・・ 昔ながらのヘイロール、あれを見るとほっとする、あんまりきちんと巻いていなくて、へりのところから藁がいっぱい突き出しているようなのもいい、ただの積み藁もいい・・・

 ドゥーリン、淋しい漁村である、家々とてわずかに十数件があるばかり、それらが身を寄せあって、茫々たる野の片ほとり、崖のふもとの海沿いに、ひっそりとかたまっている・・・ 木組みに布を張り、タールを塗っただけの軽い、粗末な小舟にのってどんなに波の高い日でも彼らは平気で海へ漕ぎだしてゆく、そのようすはよそ者には命知らずと映るばかりである・・・

 晩には魚をありあわせのものと煮こんだ鍋を囲み、いつ果てるともなく語りあう、歌を歌ったりもする、それはとなりの島の親戚からきいた色々のうわさ話であったり、彼らが嵐の晩に出会った魔物の話であったり、はたまた遠い沖あいにいて、妖しい歌で人を惑わす人魚の話であったりする、数百年、数千年の昔から変わらぬ暮らしがここにある・・・

 ここからは目と鼻の先のアラン島へ、人々はよく往き来する、家畜や泥炭を船荷として携えゆくのである・・・ ドゥーリンも淋しいところだが、アランの光景ときたら人の想像を絶している、当地と比ぶればドゥーリンなど、乳と蜜の流れる地といっても差し支えないほどだ・・・

 あらゆる穏やかなもの、快よいものから遠く隔てられて、荒れ狂う海、吹きすさぶ風、神々の怒りのただなかに踏みとどまって、はるかそのかみより立ちつづける平たい岩盤の島、それがアランの謂ひである・・・ これら島々はバレンの砕け散ったかけらである、石卓のごときその風貌、切りたった崖にとりまかれ、上陸できる場所とて無きに等しい、ひとたび海が荒れると幾週間ともしれず孤立しつづける・・・ さいはての地、高い木は一本もない、わずかに地表を這うヒースと棘だらけの灌木と・・・

 こんなところに人が暮らしていることがそもそも驚異である、ところがそうなのだ、実際のところ はるか昔から人々はこの地に暮らしてきた、長いときをかけて少しずつ築かれてきて、今なほこの島のおもてをくまなく覆う石垣の網目模様、それがその証である、それでもってあるいは横なぐりに吹きつける風からわずかな土を守り、あるいはその中に家畜を囲い・・・ その間に海草を広げて彼らはわずかな土をこしらえ、そこに作物を育てるのだ、その貴重な土が容赦ない風に飛ばされぬよう、吹き散らされぬよう、えいえいたる戦いの、いぢましいような努力の積み重ねがこの光景である・・・


4. ハイ=ブラジルの伝説

 しかしなおもそれがすべてではない、そこには何か、さらに言葉にしえぬものがある、何かしら人を落ち着かない気持ちにさせるものがある・・・ そこには例えば、そこに住む人々によって今も語り継がれる、ハイ=ブラジルについての言い伝えがある・・・ ハイ=ブラジル、はるか昔に海の底へ沈んでしまった島、もしくはひとつづきの土地、人のあらゆる想像を超えて、何かしら今までかつて知られたすべてのものにまさってすばらしく、美しいものにみちていたというその国についての。・・・

 かつてはあった、今はもうない、すべては海の底に沈んでしまった・・・ けれどもその記憶は今も彼らのあいだに脈々と息づいて、奇妙なほどの力強さをもちながら、なおもその核心に近づくほどに、霧にまかれたようにぼやけてしまう・・・

 例えば彼らは言う、今でもその姿を人は目にすることがある、そう、七年に一度、我々は海のかなたに、その陸影の幻を見るのだという、・・・げんにそれを見た者がいくたりもある、例えばマクメナンのところのじいさんがそうだ、今では少し気が変になっちまったがな、訪ねていって、きいてみるがいい、その話になると途端に生気づいて、力いっぱい喋り出すだ、いつでも同じ話をするだ、目に浮かぶようにいきいきと、それがどんなようすをしていたか、そのときどんな気持ちがしたか・・・ そのようすときたらこっちが気圧されるくれえだ・・・

 八日ほどの間行方不明だったのち、岸辺に打ち上げられて気を失っていた男の話もある。彼は懸命な看護のおかげで息を吹き返したが、それまでハイ=ブラジルの地に<取り去られ>て、そこの人々と話を交わしていたのだと語った。彼が少し呆けたようなようすをして、目ばかり異様にぎらぎらさせていたので、もう長くないだろうと考える者もあった。この男はやがて自分の故郷に帰り、そこで死んだ。

 あるいはこういう記録もある、あるときコネマラの沖あいに出た漁船が嵐に遭って、吹き流されて三日三晩帰れなくなったことがあった。そのときに彼らはとある大きな島のそばを通過したが、だれもそんな島をそれまでに見たことがなかったし、海図にも記されていなかった。彼らはその非常に近くを通ったので、島の斜面で草を食んでいる羊の姿を見ることができたほどだった。彼らは恐れてそこに上陸せず、そのままに立ち去った。それがもしかしたら伝説のハイ=ブラジルで、足を踏み入れたら魔法をかけられてしまうかもしれないと考えたのである。

 別の漁船がやはり嵐に吹き流されて、今まで見たことのない土地にたどり着いた。この人々はそこに上陸した。するとすぐに見知らぬ人がやってきて、立ち去るようにと彼らに告げたので、彼らは立ち去った。しかし、その人は彼らが立ち去るときに、そのうちでいちばん年の若かった者に、一冊の書物を与えた。それはラテン語だか、昔のアイルランド語だかで書かれた医学と物理の本で、それを与えられた若者は、それまでついぞ学問などしたこともなかったのに、突如めきめきと才能を現し、ついにその道の偉い博士になったのだという。・・・


5. 太古の巨石遺跡

 かつてはあった、今はもうない、すべては海の底に沈んでしまった・・・
 すべてはばかげた作り事だ、荒唐無稽なおとぎ話だ、曖昧模糊としておぼろげな言い伝えだ・・・

 そうかもしれない、しかし我々はどう考えようか、何と説明をつけようか、これら島のそこここに、今なお残るとほうもない遺跡のかずかずを・・・ それらはたいがいが円形の石砦である、いずれもモルタルを使わずに、打ち割った石をひたすら積み上げて造られている・・・ どれほど昔のものか見当もつかない、あるいは有史以前、太古の昔・・・
 それだのにみな非常な規模の大きさと、不可解なまでに精密な設計構造とを併せ持ち、うたがいもなく強大な国家の存在を物語る・・・ いったいだれがこんなさいはての地に、これほど堅固な城砦をいくつも必要としたのか、かくも荒れ果てて、何もないに等しい土地で、何をそんなに守る必要があったのだろう?・・・

 なかでもとりわけ有名で、強い印象を与えるのは、イニシュモア、いちばん大きな島の南端の崖ふちに、三重の石塁にまもられて忽然とそびえる ドゥーン・エインガサ、エインガスの砦である・・・ 半円形にとりまかれて、石塁の途切れるところで それなりすっぱりと海へ切れ落ちている・・・ 異様な風体である・・・ いやじっさいにはそれは円砦であったのだ、もちろん、それが築かれた当時には。その後なにか言葉に尽くしがたい大変動が起こって、大地はここですっぱりと切り断たれ、それとともにかつてあった方の半分もまた、海底深く没してしまったのだ・・・ それはじっさい目にすれば誰しもが理解するだろう、人は、崖っぺりに面していきなり砦の半分だけを造ったりするものではない、・・・そんなことはあり得ない、狂気の沙汰だ、まるで我と我が身を包囲して攻め落とさんとするに等しいではないか?・・・

 こうしたことのすべてが人を不安にさせる、こんなふうに、理性と秩序のゆき渡ったおだやかな文明世界を遠く離れて、原始の荒々しい力、その混沌、その狂気にひとたび触れるや・・・ 人はなにか危険な感覚をおぼえる、その力があまりに激しいので、なすすべもなく、たちまちその中へひきずりこまれてゆきそうな・・・ 今やゆらりと時空がゆがみ、波打ってひるがえるように、眩暈のするようなコペルニクス的転回の感覚、そう、彼ら今もこの地に住む人々は、ひょっとしたらさいはての地に辛うじて命をつなぐ、無知蒙昧な民などではなくて、あるいは富み栄えた王族や賢者たちの子孫なのかもしれない、もしかしたらかつては逆に、此地こそヨーロッパ文明の中心地だったのかもしれない、いまだ人が知ったことのない、きわめてすぐれた文明が、じっさいここで華開いたのかもしれない・・・ 誰が知ろう?・・・

 かくて我々が今ここに得る情景、それはただそればかりならず、また過ぎ去った昔をひも解く手がかりともなるのだ、それはちょうど、かつてこの地でくり広げられた壮大なスペクタクルの、ひとたび幕が降り、役者たちが去って、舞台装置が注意深く片づけられてなお、よく見ればここにひとつ、あそこにひとつ、アリバイとして雄弁な証拠が残されていて、耳を傾ける者さえあればすかさず語りはじめんとして待ち設けているかのごとくである・・・

 それは本土にかえりみても同じこと、かのモハーの崖、茫々として風吹き渡り、人のものさしでは計りがたい光景、この高み、この峻厳、心の近づくことを拒むようなこの超越は何ゆえであろうか、かくも容赦のない、かくも荒々しいばかり、怒りの剣によってひといきに両断せられたかのごときこの断絶は何ゆえであろうか?・・・ それらを前にしては、ただ言葉を失って立ち尽くすよりほかない・・・

 そう、その日はちょうど、すこし肌寒く、うっすらと霧がかかって、あの日下り来た道を再びのぼっていって、広々とした荒野に出ると、一面の白い空、スゲの茶色が霧にけぶって、かすみゆくところまでただ茫漠と広がりわたるばかり、ゴースの黄色もおだやかにやわらいで、そこここにアクセントとして目を引くばかり、連なった岩壁は潮風に黒く沈んで、じっと黙して佇んでいた、あれほど心打たれる光景に、私はそれまで出会ったことがなかった・・・

 それは一体どんな誓約だったのだろう、と私はそのときふしぎに思った。そしていったいどんないきさつで、それは避けるべくもなく破棄せらるるに至ったのかと。・・・ というのははじめて目にしたとき、それは即座にそのまま、引き裂かれた誓約のように私の目には映ったのだった、そういう印象を私は受けた、だれかの一生を賭した真剣な誓約が、ただほんのいっときの心の迷いのゆえに無残にも引き裂かれ、踏みにじられてしまった、そのような記憶を永久に刻まれた風景と、そう私には思われたのだった・・・

 この崖とかの崖と、本土のモハーのそれとアランの島々のそれとは、悲しみと諦めとを湛えたまま、とわに隔てられた互いどうしを眺めやっているように見える、いやそんなはずはない、はじめからこんなふうだったはずはない・・・ もとはすべてがつながっていて、ひとつだったのだ、もちろん。そしてこれらとり残された島々の向こうにはさらに陸地がつづいていて、しかもそれらはよく肥えた、みどりゆたかなうるわしい土地だったのに、何かが起こって、何か衝撃的なできごとが起こって、しかり、今では水中深く没してしまった・・・

 吹きすさぶ風にちぎれ、とぎれとぎれにひびく呼び声、ふきすさぶ風の中に、白く凍てついた虚空のなかに、その日私は風神のふり向いた横顔を見た、冷ややかな無表情の、きりりと整った顔だち、うす青いろの半透明の衣の裾をひるがえしてみるまに天高く駆け去りゆく、 ・・・うつろいゆく海の色、その遠いとどろき、かなたへかなたへ、想像を絶する神代の昔、天の下に遠く広く名を馳せて、そのかみこの地を支配していたのは・・・

     ***

6. 物語<風神の砦>

 風神エインガスは、その好色なことでは並ぶ者がなかった、誰もそれを知らぬ者はなかった・・・ 神々の乙女たちであろうが、精霊の女たちであろうが、はたまた人の子らの娘たちだろうと、手あたりしだい、女と見ると放っておかない、その彫像のごとき、天与の美貌、わずかな折でもすかさずとらえて、心をとろかすような甘い言葉でもって囁きかける、どんなに用心深い、身持ちの堅い娘も、ついうっとりと魔法をかけられたようになって、気づいたときにはすでに意のまま、その手並みのあざやかさはすでに芸術の域である・・・

 若い娘をもつ親たちは恐れて手をもみ絞った、彼がやってくると見ると娘たちを戸のうちに呼びいれ、しっかりと錠を差し、そして厳重に言い渡す、あいつが通り過ぎるまで、一言も口をきいてはいけない、音を立ててもいけない、ただもうひっそりと、誰もいないようなふうをしておいで。・・・

 ところが困ったことには、この地方一帯はなべてこの風神の領分なのであった、だれも彼が好き勝手にゆきめぐることをやめさせることはできず、彼がいつやって来るか、予測するのもままならなかった、広大な西部の海岸地域のあちらこちらを、彼はただ心のおもむくまま、天駆けてはその衣すそをはためかせ、高くひくく吹きすぎゆくのだった・・・

 ある日のこと、ちょうど虫の居所が悪かったのか、その日のあいだずっと、彼はただもうむちゃくちゃに、海のおもてを駆けまわっていた、そのために海は荒らぎだち、底を掻き立ててその色を濁らせた、暗雲のうずまいて暗く、ものみなすべてが風神の激情に和して轟いた・・・ そのとき、あまりに海を荒だてたのでその波が深く分かたれ、海神エントロポスが海底深くに隠しておいた、美しいひとり娘ユーナの姿を垣間見させてしまったのだ・・・ 

 彼女の姿を目にしたとたん、エインガスはほかのすべてを忘れてしまった、彼は激しく恋い焦がれ、そして何とかその姿をもういちど見られないものかと、来る日も来る日も海上を彷徨っては吹き散らした、それでもそれは叶わなかった・・・

 そこで彼は浜辺へおりていって、海神エントロポスに向かって大声で呼びかけた。
 エントロポスはエインガスのことを好いていなかったので、はじめは黙して答えようとしなかった。
 けれどもエインガスがいつまでもしつこく呼びつづけるので、ついに姿を現して、
「エインガスよ、何の用だ」と尋ねた。
「お前の娘ユーナを私に与えてほしい」とエインガスは言った。
「お前が何者であるか、知らない者があろうか」とエントロポスは言った。「私と私自身の言葉にかけて、私は自分の娘をお前のような浮気者に与えはしない」
 そうして彼は姿を消してしまった。

 そこでエインガスは再び浜辺に立って、エントロポスがまた姿を現すまで大声で呼びつづけた。
 エントロポスは再び現れると、「エインガスよ、何の用だ」と尋ねた。
「お前の娘ユーナを私に与えてほしい」とエインガスは言った。
「お前が何者であるか、知らない者があろうか」とエントロポスは言った。「私と私自身の魂にかけて、私は彼女をお前のような恥知らずに与えはしない」

 こうしたことが七たびつづいた。
  ついにエントロポスは疲れてしまい、根負けして、言った、「お前が天と地にかけて誓い、今後はほかの女を追いまわすことを一切やめて、生涯私の娘だけを愛すると約束するなら、私はユーナをお前に与えよう。しかし、少しでもあれに辛い目を見せるようなことがあったらすぐに、私はあれを手元に取り戻し、そして二度とお前に会わせることはしない」
 するとエインガスは言った、「それでよい」と。こうして海神の娘ユーナはエインガスの妻となった。

 ユーナが、ふるさとの海をいつもそばに見ていたいと言ったので、エインガスは海を見下ろす高い丘の上に館を築き、塔をたて、三重の石壁でそのぐるりをめぐらして、彼女がその窓からいつでも海を眺められるようにした。これが世に聞こえたドゥーン・エインガサ、エインガスの砦である。・・・

 さて、しばらくはエインガスはユーナに夢中になって、大切にもてなし、心を尽くして彼女を愛した。しかし、少しすると飽きがきて、また以前のように、心のままに領土のうちのあちらこちらを駆けめぐるようになった。するとまた、あまたの若い女たちが彼の目にとまったが、海神エントロポスとの約束を思い出して、強いて目をそらすようにつとめるのだった。

  しかし、大地の娘マノアが灌木の茂みのあいだから身を乗り出して、思わせぶりな仕草で髪を梳きながら、彼に向かってあでやかに笑いかけた。と、たちまち彼は我を忘れ、鷲のように舞い降りて、そのあらわな肌を抱きすくめた。

 そのとき、海神エントロポスの怒りが燃えた、大地は激動して張り裂けた、わだつみのその底知れぬ力が、娘ユーナをその館ごと、その手に奪い返そうとして地を揺るがしたので。・・・

 そのとき、エインガスの砦、彼がユーナのためにきづいたうるわしい塔と館とは、その円砦のまん中のところでまっぷたつに裂け、とどろきとともに崩れおちて沈んでいった、大地からもぎ離され、さかまく水の中へのまれて消えた、こうして海神の娘ユーナはそのふるさとへ、海の底深くへと帰っていったのである・・・

 そのとき、風神エインガスの地、みどりゆたかな露くだるそのうまし国は、泡だちうずまく波の中にのまれて沈んでいった、地うなりとともに、その地に住むすべての者たち、人も動物も精霊たちももろともに。・・・ このとき生じた恐るべき衝撃のために、砕かれた大地のかけらが三つの島となって残った、それが今のアラン、・・・イニシーア、イニシュマーン、そしてイニシュモアである・・・

 我に返ったエインガスは、おのれの犯したあやまちが、取り返しのつかない事態を招いたのを見た。たちまち はやてのごとく、彼は大地の上を渡ってゆき、ぱっくりと生々しい傷口をあけた大地のへりを蹴って海原の上へ飛び出した・・・ この部分が今日モハーの崖として知られているのである・・・ ついで三つの島を飛び石のように次々ととんで、ついにそのいちばん端のところへ至り、そこで変わり果てた砦の姿を、その空っぽの残骸を見たのである・・・ 突如たる大変動に空はもうもうたる土けむりに暗くけぶって息もつけぬ、海は掻き立てられて不吉に濁り、おどろおどろしい色調を呈して、すべては混沌と破壊と激怒のすさまじい様相である・・・

 エインガスはそこに立って、大声で叫んだ、悲しみのあまり胸も張り裂けんばかり、長い髪をかきむしって号泣し、そしてそれこそ声が涸れはてるまで、妻ユーナの名を呼びつづけたが、こんどというこんどはむだであった、二度とふたたび海の中から答えが返ってくることはなかった、怒りに沈黙したまま、掻き立てられて不吉に濁ったその海からは。 ・・・遥か遠く、掻き曇った空と海のまざるところまで、その叫びがいくえにもこだまして響きわたった、すべてを失って独りぼっちになったエインガスの、その絶望の叫びが。・・・

 これらすべては遥か昔の物語、エインガスもほかの者たちも、みなすでに神々の地へ去って久しく、当地を歩きまわってみても今はただ、虚ろな風の吠え叫ぶばかり・・・ けれどもこれらの断崖はあのとき裂かれて分かたれたまま、今も海原に立ち尽くして、ドゥーン・エインガサ、風神の砦、張り裂かれて本土から断たれたまま、今もアランの南端、大海に面して三重にめぐらされた石塁の、ただ半分だけが残っている、からくも海神の手を逃れたほうの半分が。・・・

 その怒りの記憶を永遠にとどめるべく、すっぱりと断たれたその裂け目も痛々しく、暗い海のとどろくなかに、吠え叫ぶ風のまにまに、今も我々はその悲しみの叫びをきく、とぎれとぎれに、・・・我を許せ! 我を許せ! ・・・戻って来い! と。・・・
 
     ***

7. <風神の砦>をめぐって~永遠の断絶

 何て単純な物語だろう、全く、すじを語るのに何分もかかりはしない、ほとんどアダムとイヴの物語と同じくらい単純だ・・・ これがそのいきさつだったというのか、たかだかひとりの女への不実のために、大地は引き裂かれねばならなかったのか、たかだかひとつの裏切りのために、彼らは楽園を追われねばならなかったのか?・・・ こんなふうにも思える、たぶん、もっとも古くてもっとも真実な物語は、いつでももっとも単純なのだ・・・ それはいつでも、同じひとつのことを言っている、同じひとつのこと、すなわち、人間は愚かだということを。・・・ 人間はいつの世にも、どうしようもなく絶対的に愚かであって、何百万年たってもそのことに変わりはないのだ、この強烈なメッセージの前には、大陸のまん中の方で唱えられてきた進歩だの理性だのといった教説が、まるですっかり色褪せてしまう・・・

 ひとりの愚かな男の犯したあやまち、そこにはオセローの誤解も、マクベスの策略もない、ましてハムレットの理念などもうとうない・・・ 人間は、ただあやまちを犯す、ほかに何の理由もなくて、ただ人間であることそのもののゆえに、どうしようもなく、不可避的にあやまちを犯すのだ・・・ それゆえに誓約は破られ、禁忌は犯され、愛は失われ、大地は断絶せられるのだ、そしてだれにも、どうしようもない、このことを食い止めるには。しかして誓約は破らるべく、禁忌は犯せらるべく、愛は失われるべくあって、大地は断絶せられるべく、とうより運命づけられているのだ・・・ それゆえに、すべての歌に、すべての物語に同じ悲しみが宿る、・・・人間であることの悲しみが。・・・

 茫々と吹きすさぶ風のなかを、海べりの崖ふちをさまよいながら、私は霧のなかにきれぎれの幻を見た、・・・あのときこの断崖のところへ、その残響もいまだやまず、裂かれた傷も生々しいこの断崖のところへ、かなたから息せききって駆けつけたエインガス、ひと目見るなりそのふちを蹴ってかなたの海へ、アランへと飛び去ってゆくようす、その力強い足蹴にふたたび大地はとどろいて・・・ 鋭くとがったその岩面は彼の足裏を切り裂いて血を流させたけれども、あまりの感情の強さゆえ、そんなこと気がつきもしなかった。・・・

 あるいはまた、窓敷居に手をついて、ふるさとの海をもの想いに沈んで眺めやる海の娘ユーナ、おおきな碧い瞳、うつくしく澄んだ、あの日私が見た海のような あのような色をした瞳の。・・・ あどけない、まだごく若い娘なのだ、ほんの少女なのだ、ほとんど白に近い、波打つこがねの髪、真珠のつぶと海の泡つぶをちりばめた額飾り、それに独特なデザインの、こまかな透かし模様の一面に施された 象牙色の長い衣をまとって。

 彼女の父の家はどんなだったろう、彼女がその日 あとにしてきた父の家は。・・・ 海底に築かれた壮麗な城、さんごや巻き貝に飾られた・・・ いや、そんなものはなかったのかもしれない、風神エインガスがただその心のままに大地のおもてをゆきめぐっていたのと同じく、彼らもまた海の王国の、あらゆる果てをゆきめぐっていたのかもしれない・・・ 風神の激情のために海が割れ、思いがけずも乙女の姿をかいま見させたその日まで。・・・ 豪壮な海の深み、晴れた日にその暗いおもてを覗きこむと、光と影の強いコントラストのためにその色あいはいっそう強調せられて、ほとんど真っ黒に見えるほどである・・・ ひとたびその怒りを引き起こすや、底知れぬ力をもってすべてを破壊せんとするその激しさを秘めて。・・・

 大地の娘マノア、彼女もまた美しかったことだろう、浅黒い肌、彫りの深い顔だち、ゆたかな黒髪、したたるような芳淳な色気と・・・・ 風神エインガスとむしろ同じ魂をもっていたのは彼女だった、彼らはともに、今日この日の光あふれるかがやきのために生まれてきた子供たちだった、粗野で愚かで、忘れっぽい子供たちではあった、が、同時に生きる喜びに溢れていた。今この瞬間の感覚がすべてで、すべてで、約束だとか誓いだとか、あるいは忠実さであるとか、そういった考えとはどこか根本的にそぐわないところがあった。・・・

 かくて海と大地とはついに互いの心を知ることなく、かの切りたった断崖のごとく、そこには今もなお、永遠なる断絶があるばかりである・・・ アランの島の岩壁をなすのは本土のモハーの崖と同じ、砂岩と頁岩と石灰岩である。これらの島々がもとはクレアの本土とつながっていたことが、今では地質学的に立証されている。私はこのことを、のちになってさる文献で知ったのだが、そういったこともいわば事後報告として知ったに過ぎない。もちろんそうに違いないことを、私はとうより知っていた。当地の精霊たちが私の耳に囁いた物語が、人間の後知恵たる学問的検証とかいうものと食い違うということがどうしてありうるだろうか、間違っているとしたらそれは人間たちの方に違いない、結局のところ、彼らはあとからやってきた者たちにすぎないのだから。・・・ 晴れた日に遠く沖合いまで漕ぎ出してゆき、どこでもいい、島を過ぎたあたりからかえりみて本土の側を眺めやるとき、これら島々の岸壁と、遥か遠く横たわるモハーの陸影とがぴったりと重なって見えるのが分かるだろう・・・

 かくて海と大地とはついに互いの心を知ることなく、そこには今もなお、かの断崖のごとく永遠の断絶が横たわるばかりである・・・ 胸も張り裂けんばかりの激情も、長いときを経るうちにしだいしだい、やがておだやかに鎮まりゆきて、ついにはなおも とわにとりついたしずかな哀しみとなって、心に滲み入るカモメの細い叫び、ゆきずりの身にすぎぬ旅人の、ただせきあふる涙を誘ふばかりである・・・

 切りたった崖の岩肌づたい、吹きなぶられて駆けくだりゆく、我はかもめ、波のおもてに触れる手前でさっと翼をひるがえして潮しぶきにその尾をぬらし・・・ 展開部は暗く沈んだ岸壁に、間断なく打ち寄せる波の砕けるリズムである、あれから耳にとりついて離れない、白い虚空に吹きつける風に身をさらし、褐色の荒野を彷徨ひ歩いたかの遠き日々、この胸によみがえらすたび、今なおひびくはかの調べ、そは風神エインガスの嘆息のごとく、とどろきわたる波のまにまに、たかくひくく・・・

*この章で私がアランおよびその周辺に残る伝説や言い伝えについて記したことのほとんどは、P. A. O Siochain 著 Aran Islands (Kells Publishing Co. Ltd. 1962) によっている。私はこの書物に、当地にほど近いある島の公民館で出会った。そのいきさつについては、後に詳しく記す。
*2 エインガス Aengus は一般的なケルト神話においては風神ではなく、若さと美と愛の神である。
























*****************************************************