2022年08月06日

HEXANFT始めました



HEXANFT始めました
<サングラスをかけたライオン>という文筆作品のために描いた挿絵シリーズ 全17点出品中
https://nft.hexanft.com/users/xC4L17zhvYijRm?collection=%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%92%E3%81%8B%E3%81%91%E3%81%9F%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3

<サングラスをかけたライオン>は私のオリジナル文筆作品です
象といっしょにジャングルの中の一軒家に住んでいる女の子の物語
こちらから読めます
http://ballylee.tsukuba.ch/c6554.html

Twitter アカウント
https://twitter.com/NakajimaUssay














  

Posted by 中島迂生 at 05:10Comments(0)アート一般

2011年12月28日

先駆者たち

今回の初演の準備してるあいだ、疲れて息がつまってくると、息抜きにキーボードを叩いていたりしてた。
さいきん毎日のように弾いてたのは、X JAPAN の Silent Jealousy。
X JAPAN は世代のはずなんだけど、ピークだったころは正直よく知らなかったし、それほど興味もなかった。
ただ、この1曲だけはなぜだか昔から偏愛してる。
中学生くらいのときから?
一日、リピートでずーっと聞いてたこともある。
裏打ちドラムがとにかくすごくて、聞くたびにほれぼれとする。
しかも、同時に切ないバラードでもあって。
ロックの曲ってざっくりいって、ビートのきいた激しい曲と美メロのバラードくらいに分けられると思うのだけど、その両方の要素が奇蹟の融合を遂げた1曲。

ずっと好きだったけど、これをひとりで弾き語りなんてできるわけないと思ってたし、私がエックスバンドをやるっていうのもちょっと想像できなかったから、自分でやることはまぁないだろうと思ってた。
でも、夏ころかな、アコースティックしか許されてなかったライヴバーでどうしてもレディー・ガガの Judas をやりたくて、その一心でキーボでアレンジしてみたらけっこう面白いものができたんだ。
そのあたりから、もしかしたらキーボって自分が思っていた以上の可能性をもっているのかも、という展望が開けてきた。
で、ほかにも今までできっこないと思ってた曲のなかで、やりたかった曲ってなかったっけ? って考えたときに、さいしょに浮かんだのがこの曲。

<湖底の都>の制作と並行してアレンジを始めたのだけど、なんか違和感なかった。
歌詞の世界が、妙にロンデナントちっくで。
神々への嫉妬、運命へのジェラシー、みたいな。
弾きながら、舞台のイメージが増幅したりした。
毎日のように弾いてるうちになんとなく曲の魂のようなものが自分のなかにしみこんできて、こんなすごい曲をつくったのっていったいどういう人たちなんだろうって気になってきた。
X の曲はそれまでも何曲かコピーしてはいたんだけど、考えてみたら全然知らなかったんだ。
そこで、公演の2日前くらいに、しみじみとwiki で X JAPAN の項目をずーっと読んでみた。
いろいろととても感動した。
いろんなドラマや挫折や失敗や、ぜんぶひっくるめて私はこの人たちがとても好きだと思った。
そのあと、いろんなライヴ映像や、過去のテレビのトーク番組や、ユーチューブに上がってるいろんな動画を片っ端から見始めて、爆笑したり号泣したりしながら、少しずつ全体像がつながっていった。
1週間くらい、1冊の書物にどっぷり浸かるように、X JAPAN という物語に浸りきっていた。
この数年、劇団を立ち上げてひっぱってきたあとだからこそ共感することがたくさんあった。
私のなかで舞台と音楽のあいだにあまり境はなくて、バンドだって劇団の一形態みたいなものだと思ってるし、and vice versa.

初期の映像で、木造アパートに住んでる設定にして「アフリカに行って象にヘビメタを聞かせたい」と語ってるYOSHIKIとか。
伝説のやしろ食堂ライヴ。
デトロイトメタルシティをとっくに地で行ってた人たちがいたんだ! みたいな。
閉じた輪の中で独自な世界を創出するのもいいけれど、外の風に曝されることを恐れてはいけないよね。
というか、彼ら自身のなかにものすごい冷静な客観性とともにユーモアの精神があって、ああいうシュールな対比から生まれる面白さを自ら楽しめる人たちだったのだと思う。

コアメンバーが同じ5人というところにも何かひびくものがあった。
5人並んで同じ光を目指して同じ心で走っているように見えても、ほんとうはそんなことはありえないのだと。
人が何人かいるところでは、必ずさいしょに立ち上がってこれをやろうと心に決めた人がいて、ぐいぐいひっぱっていく人がいて、ついていく人たちがいて。
ついていき具合にもそれぞれみんな差があって、ビミョーな不満や批判もあって、目立ち具合や注目のされ方にも差があって、温度差もあって。
そのなかでバランスをとっていかないといけない。
高い所を目指していると、仲間にも同じだけの努力を要求してしまって、されたほうが応えられなくて疲れたり、軋轢が生じたり。
ひいてはそれが積もり積もって内部崩壊につながっていったり。

思うのだけど、やるべきことのある人は、周囲に気を遣ったり、遠慮したりしすぎないで、どんどん走っていけばいい。
空気読んで萎縮してても自分のいいところって開拓できないし。
妥協していてもいいものはできないし。
自分でこれはだめだなと思うものは、必ずや人が聞いてもだめなのだ。
どんどん高いものを目指して走っていけばいい。
ただ、一人になってもいい覚悟があるのなら。・・・

YOSHIKIはじっさいほかのメンバー比10倍はいろいろ苦労してるしがんばってると思う。
ほかのメンバーに対して、お前らなんか楽なもんだ、何でこれくらいの要求に応えられないんだ、的な思いを禁じ得ないとしても、それは道理。
けど、ほかのメンバーにとってはそれが必ずしも100%の自己実現というわけではなくて、結局は他人のやりたいこと、目指すところへついていってる、突き詰めれば他人の理想のためにがんばってる立場なのだから、やっぱり同じではないわな。

YOSHIKIとToshlはバンド仲間であると同時に、ゲンズブールとジェーン・バーキンみたいな関係なんだと思う。
プロデューサーと歌手、みたいな。
「Toshlの声を道具のように使っていた」とのちにYOSHIKIは語っているけど、一方ではToshlが自分だけでは見いだせなかったかもしれないよさを引き出したとも言える。
「自分のなかに理想のToshlのボーカルがあるんだ、ここのフレーズではこんなふうに掠れて、というところまで全部あるんだ」と。
「自分はToshl本人よりもToshlの声を分かってると思ってる、なぜならToshlが1時間ボーカル入れをしたとしたら、自分はそのあと10時間かけてそれを編集するのだから」と。

自分が音源編集を手掛けるようになる前だったら、ひたすらToshlのことを気の毒に思ったかも。
でも、同じように人の声を編集してる今だから。
不満があっても、いちいちいろいろ注文付けていやな思いをさせるのは悪いなと思ってそのままにしてしまうと、やっぱり外から批判を受けるんだな。
私自身が編集作業に苦労するのは同じなのに。
そのへんがほんとに難しい。

YOSHIKIって、自分の中に追い求めてゆくべき星がひとつ確としてある感じで、あんまり誰のこともあてにしてないし、人のせいにしないし。
求道者的なところ、そこはスゴイ、見習わなきゃ。

でも、自分のともに行くべき人と定めた相手に対しては、すごい執着だな。
Without You は、書いたときからToshlのボーカルを想定していた。
でも、それから何年もしてやっと世に出すときになってもToshlが歌ってくれなかったから、どうしたかっていうと、インストで、歌詞カードに歌詞だけ印刷して出したのだ。
それからさらに何年もたって、そのあいだに何度も何度も働きかけて、ついにToshlが戻ってきてくれて。
そのあともいろいろあって、さいきんになって本気で再始動して。
そういう物語を知ったあと、二人で奏でる Without You を聞くと、これはどうしたって泣いちゃうよ。

Endless Rain とか Tears でもそうなのだけど・・・
2番のAメロあたりで、Toshlがクリスタルピアノを弾いてるYOSHIKIのとなりに来て、同じ椅子に座って歌うとき、 二人のあいだに流れる空気に、重ねられてきた時間の濃さと重みをものすごく感じる。
あぁ、この人たちは、傷ついたり迷ったりしながらも、彼らにしか生き得ない物語を全力で生きてきた人たちなんだなぁと思うのだ。
あたしもこんなふうに全力で生きてるだろうか?

Love and respect to you, X JAPAN.

  

Posted by 中島迂生 at 23:04Comments(0)アート一般

2010年08月27日

この夏の1本♪

 

 <愛しのアクアマリン>
 2007年、アメリカ。配給、フォックス。
 主演、エマ・ロバーツ、”ジョジョ”、サラ・パクストン。
 監督・・・スミマセン、忘れました。

 ちょうど今の季節、あとちょっとで夏も終わりってときの物語。 
 この夏海に行った方、行きそびれてる方もぜひ。終わりの方には花火も出てきます♪

 手に取ったときはあまり考えてなかった。
 自分もちょうど人魚の出てくる話を書いていたときだったので何となく親しみが湧いたのと、サラ・パクストンの人魚がかわいかったので。

 嵐の晩に人間界へやってきた人魚、アクアマリン。
 3日のうちに<愛>を見つけないと、父親に連れ戻されて不本意な結婚をすることに。
 そこで、友だちになった二人の女の子、クレアとヘイリーが彼女を助けるべく奔走する・・・。

 ティーン向けのおバカなラブコメディーって感じのジャケなんですが、予想を裏切る快作。
 って言ったら失礼だけど・・・

 ぶっとんだ設定なのに筋の運びがテンポよく、変化に富んで、すごく説得力がある。
 完全なハッピーエンドじゃないところがリアリスティックです。でも、後味はすがすがしい。
 こういう脚本が書けたら本物だなぁ・・・と思っちゃいました。

「愛なんかなかった・・・」
 意中の彼に誤解されて絶望したアクアが海に帰ろうとするのを、必死にとめるヘイリー。
「諦めないで! 私もほんとは知ってるわけじゃない、雑誌でしか読んだことないけど・・・。
 でも、みんながあんなにまでそれを欲しがるのには、きっとわけがあるんだわ」
「それは何?」
ときかれて、ヘイリーは必死に考える。
「・・・愛っていうのは、魔法にいちばん近いものなの」
 ここのところは、なかなか本質を突いていて名場面です。

 人間模様の描き方がムダなくかつ巧み。
 身勝手で二人をふりまわすアクアですが、二人がそれまで気づけないでいた視点を教えたりもする。
 二人ですら邪険に接していた、変わり者だけど心の優しいレナードに、ただひとり心を開いて接することができるのがアクアだったりもする。
 恋敵で、意地悪グループのリーダーのセシリアも、甘やかされっ子のお嬢さんと思いきや、目的を達するためにはとんでもなく勇敢だったりもする。
 世の中に完全な善も悪もない。
 善人にも欠点があるし、悪者のなかにも美徳がある。
 そういう微妙なところがさりげなくきっちり描かれてます。

 ときにはシュール。
 クレアのうちにあった貝殻に、いきなり海の底から電話がかかって来て(!)、「何をやってるんだ!」とアクアがお父さんに怒られていたり。

 人魚なのに普通に英語をしゃべる。人間界と魚の言葉すべてをしゃべれるそう。
「あなたは何語をしゃべれるの?」ときかれたヘイリーが、
「・・・スペイン語のクラスでCをとった」とマジメに答えるのが面白い。

 でも、もともと海の出身なので、ときどき言葉遣いがちょっと海っぽくなる。
 Bull shit! (クソ喰らえ!)となるべきところが、Bull shark! (サメ喰らえ!)になったり。
 Bastard! (サイテー!)というべきところが Barnacles! (フジツボ)になってたり。
 Holy mackerel! (ひぇーっ!)という場面も。

 音楽も凝ってて、たくさんの曲が使われてる。
 歌詞がいちいち場面に直結してて。この映画のためのオリジナルも。

 アクアの青い髪、素敵です。
 こんど私が青いエクステつけてたら、この映画の影響と思ってください。笑)

 物語の運びのテンポってすごく重要だと思うんです。
 同じ時に古典的名作のサガンの<悲しみよこんにちは>を映画化したやつを見たんですが、原作の雰囲気をきちんと伝えていてよくできた仕上がりだと思ったものの、どうも・・・寸詰まりな印象が。
 前半、原作にない回想場面を入れたりして長々と間延びしてるのに対して、後半の心理戦のくだり、ずいぶんはしょっちゃったなぁ、もう少し丁寧に描けばいいのに、という感じで。
 まぁ、それは編集の問題なのかもしれませんが・・・
 そんな点で本作はすごく構成が、バランスとれててよい感じ。

 脚本書くうえでもすごく勉強になるので、映画はできるだけたくさん見ようと思ってます。
 私のなかで「映画の基本形」は、60年代フランスの<冒険者たち>。
 これを超える作品ってあまりないと思う・・・。
 皆さんの「この夏の一本」は何でしたか??

  

Posted by 中島迂生 at 23:09Comments(0)アート一般