2020年07月20日

高校の話~11 聖職者たち~

高校の話~11  聖職者たち~
画像:K先生

人の本質を現すものって何だろう。
何が好きか、何にやりがいを感じるか…。
たしかにそう。
でも、それだけでなく。
何がこわいかってこともまた、もしかしたらそれ以上に、人の本質を現すものかもしれない。
我々は、何がこわいだろうか。
心の奥底で、何をほんとは恐れている?…

もう、おととしの夏になる。
卒業して以来、数十年ぶりに英語のK先生に会いにいったときのこと。
おととしのことはこのブログにずいぶん書いたけれども、あのとき書かなかったことはいくらもある。
これはそのひとつ。

話は当然ながら、昔の当時のことになるわけですが
アルバムを眺めながら、先生、
「あの頃はメガネでかかったな。…髪もいっぱいあったし。
30代ってまだ、こわいこともないからな。
じゃあ40になったらいいのかっていうと、そういうことでもないんだけど…」って。

先生にとって「こわいこと」って何なんだろう?
なんか気になって聞いてみたら。

「うん… うちの近所の町医者で、ガンを患いながらずっと診療を続けていた人がいてね。
急に亡くなってしまって、その医院もなくなってしまったんだけどね。
自分がもしそんな状況だったとして、自分だったら、そんなふうに自分の仕事を貫くだけの覚悟は、もしかしたらないんじゃないだろうか、と思って」

?!…
えっ、そういうことで落ち込むんですか、この人は。
めちゃめちゃ衝撃で、私、とっさに何も言えなかった。

ガンになることがこわいのではなく。
その状況で、自分だったらそこまで仕事を貫けないかもしれないことがこわい。
…なんと、そんな高いところを見て生きてるんだー!! 

しかも、当時、何十年もブランクがあってほぼ他人同然の私に
衒いなくそんなことを話してくれるって。
私だったら、相当の親友にでもなければ話せない。
…でもやっぱり、すごく先生らしいな。変わってないな。

「…本を読んで、答えを探したりします?」って聞くと、
「いや、そういうことでは本は読まない。
どんどんネガティヴになってくるし、その人のワールドに引き込まれていくのが不愉快なんだよね。…
それよりは自分にできることをやって、目の前の子どもたちに向き合ってる」って。

その話はそこで終わったけれど、なんか聞きっぱなしではいけないような気がして、
頭の片隅でずっとそのことを考えていた。

思い出したのは、当時、日本史の先生が言ってた言葉。
「聖職者とは何か?」って話になって、「学校の先生も、聖職者なんだよ」って。
当時はそれが、なんかぴんとこなかった。
当時の自分のなかでは、聖職者とそうでない人っていうのは、
形而上の事柄にかかわるか、形而下のことにかかわるか、っていう区分だった。
つまり、英文法とか、古典の知識とか、数式とかっていうのは、直接、
「人はどう生きるべきか」っていうのとはあんまり関係がないでしょう。
聖職者っていうのは、直接そういうことにかかわる人、牧師とか神父さんとかお坊さんとか、
あるいは半分宗教家になっちゃってるようなある種の心理学者とか、を言うのかと思っていた。

だからといって、聖職者が偉くてそうでない人が偉くない、ってことではない、もちろん。
キリスト教の家庭に育って、クソみたいな聖職者をいっぱい見てきてますから。
もちろん、りっぱな人もたくさんいましたよ。
でも、いい歳こいたジジイが、神の権威を振りかざして女性や十代の若者を精神的に追い詰め、
自殺にまで追いやるのだって見てきた。
だからそれはほんとに、公務員とか自営業とかみたいに、単なる区分の話。
当時から、自分の知ってる竜一の先生たちのほうが、よほど良識があって尊敬できる人たちだわ、って思っていた。

でもやっぱり、いま、K先生のあの話を聞いたら、
「学校の先生って、ほんとに聖職者なんだな」って思わざるをえない。
…その状況で、自分だったらそこまで自分の仕事を貫けないかもしれないことがこわい。
…それって、聖人の悩みだ。
なんか魂のレベルが違う。

だってそのお医者さんほどの、そこまでの覚悟など、地上の誰に求める権利などあるだろうか。
…いやいや!
それってほぼ「殉職」です。あまりに要求が過ぎる…

なにも、こんな誠実にお仕事されてる先生が、そういうことで悩まなくていいのに。
少しはそういうことで悩んだほうがよさそうな人、ほかにいっぱいいるだろう。
もとよりお医者さんや教員の人たちの大変さは社会問題になってるのに。

…うーん。でも、考えてるうちに、思えてきた。
先生が考えていたのは、きっともっと根元的な問題なのかも。

仕事か否かに関わらず、そしてたぶん病気だけではなくて、
戦争とか大災害とか、アウシュヴィッツに送られるとか色々ありうるけれど…
とにかくそういう極限状況におかれたときに、人として倫理的に<よき選択>ができるか、ということなのかも。

「我々は問われている」的な。
「我々は問われている」っていうのは、ヴィクトール・フランクルが<夜と霧>のなかで書いてる考えだけど、
そういう状況にあっても光をかかげる側であれるか。
自分の中に火を絶やさず、絶望に打ちのめされてしまわずに
主体的にふるまうことができるか。
人に親切にしたりとか 建設的な存在でありつづけられるか…

そしてきっと先生の目にそのお医者さんの生き方は
そういう問いに対してりっぱに答えたと映ったのかも。

…でも考えてみると、別に極限状況じゃなくても生きてる限り 
我々が「問われている」ことに変わりはない。
どのように生きるのか、何を成そうとして生きてるのか…

日々、日常生活のなかでちゃんと答えられずに、
極限状況になって答えるのは難しそうだ。
そんな状況下でりっぱに答えることができたとしたら、
きっとそれは、ふだんからちゃんと答えていたから。

ぐるっとひと回りしてきて、あらためて先生のコトバを見出す。
「自分にできることをやって、目の前の子供たちに向き合っている」…
そうか。…きっとそれ自体が、最良の答えなのだ。
そんなふうにして先生はこれまでずっとりっぱに答えてきたのだし、いまも答えつづけている。
日々、淡々と。…
あたりまえのように。…






















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Posted by 中島迂生 at 06:00│Comments(0)高校の話 2020
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