2011年09月05日
<石垣>の次の作品は・・・。
これは今年6月末くらいに考えてたこと。
<石垣>のつぎの作品は、このサイトのなかで<エニス>のつぎの第2章になってる<湖底の都>をやろうと思っています。
そして、これもあくまで団員さんみんなの都合がつけばなんですが、クリスマス公演でできたらいいなと。
というわけで、このたび、あらたに<普及版>をまとめました。
よかったらどうぞ。
これは、震災前から次にやろうと思っていて、震災後しばらく、これはちょっとやめたほうがいいかなと思っていたんですが、6月末ころ、団員さんのひとりとお話していて、再び、次やるならやっぱりこれだなと急に思いました。
これは、都の人びとがそれと知らずに大地に対して犯していた罪を償うために、その国の王女と都全体がそっくり湖の底に沈められてしまうという話なんですね。
で、あの震災と津波と原発事故のあとにこれはまずいだろうと、いちどは思ったんですが・・・
でもいろいろ考えてみると、これこそいまやるべき作品ではないかという気がしてきて。
<石垣>のさいごで出てくる大水というのはただ破壊と滅亡を表現するものですが、<湖底>で都を沈める湖の水は、償いと再生を表すものなのではないか。
津波で亡くなった人々が、現代文明の罪をつぐなうための購いだとかいうつもりはありませんよ。
そこはどうぞ、くれぐれも誤解なきように。
でも、現代文明において、我々すべてがどれだけ故意であるか、意識しているか否かはともかく、大地に対する罪の共同責任を負ってるというのは事実ではないでしょうか。
同意したわけでもないのになんだか知らないうちに政治と原子力産業の癒着の構造のなかに絡め取られてですね。
結局、電気を全く使わずに生きられてる人なんかそういないわけでしょ?
で、こういうかたちで大地から罪を指摘されてはじめてびっくりしたりしてる。
それって、このコロフィンの昔の人たちと何ら変わらないんではないだろうか。
たぶん、この作品が舞台にかけられたあかつきには、物事を深く考える人たちはそういう感慨を抱くのではないだろうか。
私、実は、この作品を書くのがいちばん苦労した。
主人公のミーズの考え方をなんか理解できなくて。
自分の国の人びとぜんぶの罪をひとりで背負って、きれいな盛りに自らいけにえになって死ぬなんて、とてもとても。
私はわがままで、自分勝手で、自己犠牲の精神なんてないし。
彼女となんの共通点もない。
あのシリーズは、私の力で書いてるんじゃなく、「やってきた」ものをそのまま書いてるから、自分の心情と相いれないものを書かなくてはいけないこともあるんです。
だから苦労した。
でも、その団員さんと色々話したあと、自分がかつて打ち込んでた環境保全運動のことを思い出して、それらとこの作品をはじめて結びつけて考えたときにですね。
思い出した。
かつて、たとえば自分ひとりが命をなげうつことで、世界中の人々がこれ以上苦しまないですむようになるのなら、とか、世界中の環境問題がなくなるのなら、とか・・・それなら自分は喜んでそれを差し出すのに、とまじめに考えていたことがあったこと。
そう、それがほんとに約束されるのなら・・・それなら分かるな。
それならいまでも分かる。
結局、この世界では自分が死んでもなんら物事が好転しないわけで、それなら生きてできることを頑張るしかないと思って今があるわけで。
それより前から曲はちょっと書いていたんですが、そのとき、やろうと決めたら急に5,6曲まとめて降ってきて、いまアレンジして練習してるとこです。
例のごとくレコーディングには時間取られそうですが、そこを頑張ればあとはそんなにかからなさそう。
朗読劇に少し役者が動きをつけるていどで、それから次回こそはプロジェクタでスケッチ画を背景に使いたいと思って、そこを何とかしようと考え中。
クリスマス公演では、できれば<石垣>よりはこっちのほうがいいような気がするんですね。
まぁ、例によって、まず私と朗読担当さんで頑張って音源を作り上げて、そこからって感じです・・・。
<石垣>のつぎの作品は、このサイトのなかで<エニス>のつぎの第2章になってる<湖底の都>をやろうと思っています。
そして、これもあくまで団員さんみんなの都合がつけばなんですが、クリスマス公演でできたらいいなと。
というわけで、このたび、あらたに<普及版>をまとめました。
よかったらどうぞ。
これは、震災前から次にやろうと思っていて、震災後しばらく、これはちょっとやめたほうがいいかなと思っていたんですが、6月末ころ、団員さんのひとりとお話していて、再び、次やるならやっぱりこれだなと急に思いました。
これは、都の人びとがそれと知らずに大地に対して犯していた罪を償うために、その国の王女と都全体がそっくり湖の底に沈められてしまうという話なんですね。
で、あの震災と津波と原発事故のあとにこれはまずいだろうと、いちどは思ったんですが・・・
でもいろいろ考えてみると、これこそいまやるべき作品ではないかという気がしてきて。
<石垣>のさいごで出てくる大水というのはただ破壊と滅亡を表現するものですが、<湖底>で都を沈める湖の水は、償いと再生を表すものなのではないか。
津波で亡くなった人々が、現代文明の罪をつぐなうための購いだとかいうつもりはありませんよ。
そこはどうぞ、くれぐれも誤解なきように。
でも、現代文明において、我々すべてがどれだけ故意であるか、意識しているか否かはともかく、大地に対する罪の共同責任を負ってるというのは事実ではないでしょうか。
同意したわけでもないのになんだか知らないうちに政治と原子力産業の癒着の構造のなかに絡め取られてですね。
結局、電気を全く使わずに生きられてる人なんかそういないわけでしょ?
で、こういうかたちで大地から罪を指摘されてはじめてびっくりしたりしてる。
それって、このコロフィンの昔の人たちと何ら変わらないんではないだろうか。
たぶん、この作品が舞台にかけられたあかつきには、物事を深く考える人たちはそういう感慨を抱くのではないだろうか。
私、実は、この作品を書くのがいちばん苦労した。
主人公のミーズの考え方をなんか理解できなくて。
自分の国の人びとぜんぶの罪をひとりで背負って、きれいな盛りに自らいけにえになって死ぬなんて、とてもとても。
私はわがままで、自分勝手で、自己犠牲の精神なんてないし。
彼女となんの共通点もない。
あのシリーズは、私の力で書いてるんじゃなく、「やってきた」ものをそのまま書いてるから、自分の心情と相いれないものを書かなくてはいけないこともあるんです。
だから苦労した。
でも、その団員さんと色々話したあと、自分がかつて打ち込んでた環境保全運動のことを思い出して、それらとこの作品をはじめて結びつけて考えたときにですね。
思い出した。
かつて、たとえば自分ひとりが命をなげうつことで、世界中の人々がこれ以上苦しまないですむようになるのなら、とか、世界中の環境問題がなくなるのなら、とか・・・それなら自分は喜んでそれを差し出すのに、とまじめに考えていたことがあったこと。
そう、それがほんとに約束されるのなら・・・それなら分かるな。
それならいまでも分かる。
結局、この世界では自分が死んでもなんら物事が好転しないわけで、それなら生きてできることを頑張るしかないと思って今があるわけで。
それより前から曲はちょっと書いていたんですが、そのとき、やろうと決めたら急に5,6曲まとめて降ってきて、いまアレンジして練習してるとこです。
例のごとくレコーディングには時間取られそうですが、そこを頑張ればあとはそんなにかからなさそう。
朗読劇に少し役者が動きをつけるていどで、それから次回こそはプロジェクタでスケッチ画を背景に使いたいと思って、そこを何とかしようと考え中。
クリスマス公演では、できれば<石垣>よりはこっちのほうがいいような気がするんですね。
まぁ、例によって、まず私と朗読担当さんで頑張って音源を作り上げて、そこからって感じです・・・。
Posted by 中島迂生 at 23:29│Comments(0)
│第4作 湖底の都 備忘
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