2018年05月11日

おしゃまさんの水浴び小屋




<ムーミン谷の冬>に出てくる、おしゃまさんの住んでる水浴び小屋。
これは桟橋の突端に、水の上に作られたとんがり屋根のほんとに小さな小屋。
どんなに狭いんだ・・・ ププッと笑ってしまう。
けど、子供のころ、ほんとに本気で住みたいと思っていたのはこれ。



ほんとはここ、ムーミン家のものなのだけどね。
冬の間はおしゃまさんが勝手に住み着いているのです。
おしゃまさんて、原文ではトゥティッキっていうらしいです。
ヤンソンさんの親友がモデルらしい。



この小屋には、ボート用品や水着、浮き輪なんかがしまってあります。
なかなかりっぱなストーヴがあって、スープをつくったりもできる。
おもてを氷姫さまが通っていくあいだ、3人で避難してるスペースもあります。
衣裳だんすには、ご先祖様が住んでいたような。
(詳しくは、トーベ・ヤンソン<ムーミン谷の冬>を参照。)

ムーミン屋敷は、共同生活だからやっぱりちょっとめんどくさい。
ときどき気が向いたら顔を出すくらいでいい。
谷より、やっぱり水のそばがよい。
こうやって自分で手入れして住んで、ちょっとした修理なんかも自分でして・・・
って、本気であこがれていた。

いちばんあこがれていたのは、14才のとき。
ものすごく、切実に、外国でひとり暮らしがしたかった。
やればぜったいできるに違いない、という確信があった。
あのころは内面が統一されて、揺るぎなかった。
あのころやればできてただろうと、今の私でも思うわ。

生まれてきて14年もたつと、なんか子供の倦怠期というか、
なんかもう、養われてるだけの身分はいやだな、もう充分、
家を出たい、独り立ちしたい・・・
そういう衝動ではち切れそうで、でもそんな受け皿が社会にないことは分かってたから、
結局ひたすらものを書くことに、そのエネルギーを振り替えていたな。

今の私でも思う。18まででは、ちょっと長すぎる。
14くらいでもう、家を出ていいんじゃないかしら?
そういう社会になってもいいんじゃない?
じっさい、日本でも外国でも、昔はそうだったのだし。
グランマ・モーゼスとか、12で家を出て女中さんやってたりね。

私も11才くらいのときから、そうじ、洗濯、ふとん干しとか、
身の周りのことは自分でやっていたし、家具も自分で作っていたし、
生活能力はあったと思うの。
食事も自分のペースで作りたかった・・・

夕食に呼ばれて、でもこちらはこちらでなにか作業をしているわけで、
呼ばれたからってそんなすぐには行かれない。
そうすると、ものすごくガタガタ怒るので、うるさくてイヤだった。
なんでこの人、自分の作る料理のほうが、私がいまやってる作業より重要だと
一点の疑いもなく信じてるんだろう?・・・

ある日の夕食前のひとコマ、忘れられない。
「卵、どんなふうに料理するか」って聞かれたので、
「あ、ちょっと待って、いま自分でやる・・・」と返事しつつ、
やってた最中の作業をひと段落してから台所へ行ってみると、
もう料理されてしまっていた。
「あんたがぐずぐずしてるから」と言われて、養われてる身では何も言い返せずながら、
強烈に思った・・・卵を好みに料理できる自由がほしい!!・・・

ええ、いまではとっくにそんな自由も手にして、
煮て食おうが焼いて食おうが思いのままです。
じーん・・・ありがたいことだ・・・

わりとさいきん、実家住みの友人から似たような愚痴を聞かされて、
ちょっと笑ってしまった。
家族と住んでると、いつまでたっても同じ問題が起こるものだ。

しかしながら、いざ自分が人につくる側となると、
やはりさっさと食べてくれないのはいらいらする。
自分が作ったばかりの料理が、この世で何より重要であることに、
一点の疑問もなし!!w

結論としては、各々が自分の食事は自分で作る!というのが
やはりいちばんではないかしら。
親切が、いつも相手の都合にかなうとは限らない。
自分が人のために注いだエネルギーと同じだけの感謝を受け取ることなんて、
まずめったにないから。

それとね、私は子どものころ、いちども外国旅行へ連れて行ってもらったことがないのです。
たったの一度も。
まわりには、家族で海外赴任してた子、色んな国を移り住んだ子などがいたし、
私の親自身も折々出張で海外へ行ってたのに。
不公平だ!って、心の中ではすごく怒ってた。ほんとは。
憤慨していた。
けど、口に出しては言わなかったな。
「養ってもらってるだけ、ありがたいと思わなくては」って思ってたから。

子供のころの方ががまんづよかったな。
でもそれは単に、ほかで生きていくすべがないからね。
そこでやっていくしかないから・・・
忍耐というより、諦めていたんだわね。
15になるころには、「こんな調子では、私、一生日本から抜け出せないんじゃないだろうか」
っていうしずかな絶望に飲み込まれはじめていた。

思うに、独り立ちするにもタイミングがある気がする。
18まで待たされるともう間延びしてしまって、今さらって感じで、
喜びも感動もなかった。
それより別の形而上学的問題に悩まされ始めていたし・・・

その頃になるともう、なんか精神に焼き印を押されてしまった気がする。
どうせ奴らの組んだ枠組みからは逃れられない・・・という諦め。

日本の教育とか社会とか、どうもそういうところがある。
小さい頃から何年もかけて、動物を調教するように<諦め>を教え込み、
自由になったあともずーっとその<諦め>のレールの上を滑っていくように
仕向けられてるみたいな。

どんな強大な敵より、諦めほど恐ろしいものはない。
牢獄の鉄格子を破り、足枷を解いてやっても、
諦めてる人間ってそれでも出て行こうとしなかったりするもの。

そういう自覚だけは、かろうじてあるのね。
だから14のころの感覚を、今でもできるだけ忘れないようにしてる。
というか、ふだんはやっぱり忘れているので、折々思い出すようにしてる。

あのころほんとに独り立ちできていたら、どうなっていたかな。
あ、でも考えてみればあのころも、同じこと考えて、そんな話を書いていたのだった。
クラブ雑誌に書いていた。
幸い、私には書くという手段があったから・・・
空想の中ではちゃんとやりたいこと、実現していたのだった。

今でも原稿は手元にあるから、そのうちブログにも載せようかな。・・・










  

Posted by 中島迂生 at 06:24Comments(0)巴里日記2018-5月