2018年05月07日
言語化することの力
やっと明るい、気持ちのいい季節になりました!・・・
北向きの部屋では、おもては眩しいくらいがちょうどいい。
少し前に、ボディ部分にあまり美しくないロゴの入ったワイングラスのことを書きました。
いまの部屋に、越してきたときからもともとあったもの。
そのひとつを流しのところに置いて、水飲んだりうがいするときにも使っていた。
ロゴといってもそこまで目立たないし、気になったらくるっと回して目に入らないようにすればいい。
けれど、ブログに書いたあとまたそのロゴが目に入ったとき、なんか急に、あぁ、もうこれ見疲れた・・・
もうよくない? って思ってしまい。結局、ほどなく手放してしまった。
そこまでの行動に出たことに、自分でもけっこうびっくりした。
あれ書いたときも、そんな重要事項ではなく、ついでに、って感じだった。
書きながら自分でも、そこまで気にするか、と笑ってしまった。
でも、あのとき書いてなかったら、きっとまだ持ってたと思うの。
言語化することの力って、思いのほか、大きい。
それまで何となくモヤモヤっと感じていただけのこと、言葉にしてはっきり自覚してしまうと、
そのとたんに、もうガマンできなくなる。
すでにだいたい固まっている方向へ、ぐいっとひと押しするような力がある。
だからこんな、息抜きにぽろぽろと綴っているだけのブログでも、
ある意味暮らしのあり方を形づくっているところがあるみたい。
片づけを徹底してモノを絞り込むと、自分の好きなものがはっきりする・・・
って、こんまりさんの本で読んだのかしら。
そういう表現だと素敵な感じですが、正直いって好きじゃないものもはっきりするので、
結果、めっちゃわがままになります。少なくとも私はそうだわ。
モノとの関係って、時間の経過のなかでも変わってきますね。
人との関係もそうだけど、その変わり方がとてもゆっくりなので、
言葉にするまで自分でもその変化に気づかなかったりする。
なにか・・・たとえばスウェードのブーツ。
とても気に入っていたはずなのに、何年か履くうち、微妙にいやな点が1個、2個と増えてきて・・・
あるときふと、「・・・これ、もういいかな」ってなる瞬間ってあります。
なんか経営不振に陥って、社員に言いがかりつけてリストラする社長みたいでいやなんだけど
いちおう、手放すときに「お互いよき第二の人生を送りましょう」って言ってる。
すでに何年か使ってると、飽きもあるのかもね。
「いまの彼女、そろそろ飽きたから乗り換えよっかな」みたいでいやな感じですが、
でもはっきり言って、最終的にはそれは仕方ないと思う。
「飽きてしまった」というのは、ことのほか致命的だ。ほとんど「死んでしまった」くらい、どうしようもない。
モノのほうも、飽きられているのに私のところにいても幸せではないだろう。
まぁ、ワイングラスのひとつやふたつ、あってもなくても大して変わりはありませんが・・・
もっと大きなことでもそれは同じ。
そういう言葉の力って、人間、本能的に分かってるもの。
例えばほんとはものすごくイヤなことでも、はっきりそうと自覚してしまうと生活がぶっ壊れてしまうので、
言語化しないよう、意識の表層に昇ってこないよう自分でブロックしてたりもする。
私も昔はそういうことがあった。
それは本能的に言葉の力というものを分かっていての自己防御なのよね。
まぁ、なんにしてもさいごには、生活がぶっ壊れようが何しようが、イヤなものはイヤと、
はっきり言わざるをえなくなるのだけどね。
だから逆に、自分がほんとにやりたいこと、起こってほしいことなんかは、
どんどん言葉にしていくといいのかも。
書いていて思い出したのですが、昔、中野に住んでた友達がいてねー。
うちに遊びに行くと、いつも床がピカピカで、すっきり片づいていてキレイ。
住み心地よさそう~
遊びに来てるだけでも居心地よかった。
頭の回転が速くて、話も面白い人。
パパッと買うし、さっさと捨てるし、モノに執着がない感じで、人生のスピードも速い感じがした。
「私、捨てるの得意だから! 要るものまで捨てちゃうもん」と言ってたっけ。
いや、そこは捨てちゃだめでしょう・・・と突っ込みつつも、
それ、ちょっといいな、とどこかで感じていた。
部屋をキレイにキープできるのってこういう人なんだわって。
当時の自分には、なんか次元がちがう気がしたもの。
ようやく今になって、期せずして、あのレベルにちょっぴり近づいたかも。