2014年11月27日

アクアマリンの指環




小さい頃もらったお土産で、きれいにカットしたアクアマリンの石を二つもっている。
大きめのつぶと小さいつぶと二つ。
たしかブラジルのお土産だったかな、九つくらいのときだった。
「アクアマリンは海の石なのよ」と言われた。
きらきら光る水色の小さな石の中に、南洋の波の揺らめきが見える気がした。

「二十歳になったら加工して台をつけてあげるからね」と母親に言われた。
そう言われて、ちょっといやだった。
今のアナタはまだこの石に値しない、と言われたような気がした。
今の私はこの世のほかにどこにもいない、今このときのたった一人の私だのに。

小さい頃は宝石が大好きだった。
たまに母親のささやかなコレクションを見せてもらうのが楽しみで、折り込み広告の宝石の写真など切り抜いて眺めたりしていた。
どれが自分はいちばん好きだろう、ダイヤモンドは無色だからつまんないな。
やっぱり綺麗な色がついているのがいい。
サファイアやエメラルドが好きだわ、と思ったりした。

綺麗な色の小石を集めるのも好きだった。
あるとき、学校の庭でとても綺麗な緑色の小石を見つけて、持って帰って、自分の指にあうように丸めた銅線の輪に接着剤でくっつけて、素敵な指輪をつくった。
それをはめて、得意になっていると、母親に言われた。
「今からこんなじゃ、先が思いやられるわね」・・・
・・・なんだ、こんなに素敵なものをつくったのに、一緒に喜んでくれないんだ。
がっかりして、それから急に宝石への興味をなくしてしまった。
母親の一言というのは思いのほか大きい。

そのうち接着剤がとれてしまい、指輪としては使えなくなった。
でもその緑色の小石はまだ持っている。
だってとても綺麗だもの。

「二十歳になったら」とは言われたものの、子供心に、「そんな先になったら、たぶん忘れられてるよ」と思った。
二十歳になったとき、「思い出してくれるかな」と淡い期待を寄せたが、案の定だった。
その頃には大して執着もなくなっていたので、とくに失望もなかった。

振り返ってみると、やってきたこと、好きだったことはほんとに変わらない。
おとなになってからも、身に着けるアクセサリーがほんとに自分の理想のデザインであってほしい、という思いは変わらず、行き着くところは自作となる。

シルバーのトカゲのデザインの指輪なんかはほんとに欲しかったっけ。
でもお店を回っても自分の好みにストライクというのがなく、彫金を習ってみたかったけれど、当時は近くに教えてくれるところもなかったし、たぶん習えるお金もなかった。
針金細工でトカゲをつくってみもした。
でも彫金の感じは出ない。不満足だった。
でもひとはけっこう褒めてくれて、最終的にはあるお店で買い取ってくれた。

そのうち、きっかけはティファニーのステンドグラスのデザインを見たことだったと思うのだけど、針金や真鍮線をねじったアラベスクにガラスのおはじきをちりばめるという作品をつくり始めた。
そうした材料なら身近にあったから。
そして、いつしかそこで編み出したやり方で、ねじった真鍮線の指輪やブローチをもつくり始めた。
母親にもいくつもプレゼントした。
「デザインがとても素敵」といって喜んで身に着けてくれたが、折毎に「残念ね、これが本物だったらよかったのに」と言うのだった。
母親のいう「本物だったら」というのは、「真鍮なんかじゃなくて金とかの貴金属だったら」という意味だ。

でも、私のつくったアクセサリーはこの世にひとつしかないもの。
真鍮だろうが、金だろうが、材料が何であろうと本物に決まっている。
それを「本物だったら」なんて。まるで私がつくったのは「偽物」みたい。
それは私に対してものすごく失礼な言い方ではないだろうか?

「本物だったら・・・」と言われるたびに当然ながら私のテンションは下がった。
そのうちアクセサリーづくりをやめてしまったのは、単に飽きてほかのことをやりたくなったせいだと思うけれど。。。

アクアマリンのあの石については、その後も、「こんどこそは思い出してくれるかな」と思うことが何度かあった。
そのうち、いつか自分で台をつけようと思い始めた。
それでもやっぱり大した執着もなくて、ずーっとしまいこんだままだった。

けれどこの夏、とうとう腰を上げて、ほんとに台をつけようと思った。
フランスへ行くとき、お守りとしてもっていきたい。
今の自分は、もう充分あの石に値すると思うから。
(ほんとはあのときだって、ちゃんと値したのにね)

指輪にしようか、ペンダントにしようか。
あの石に絵的に似合うのはペンダントだけど、つけているとき自分で見られないのが残念。
万一ちぎれてなくなってしまっても、鏡で見ないと分からない。過去にいちどそういうことがあった。
それに、夏だとうっとうしいし、汗がにじんで痒くなりそうだし。

指輪のいいところは、つけているときも自分で見られるところ。
でも、その場合は、スケートをやるから一年中手袋をはめる機会があるので、手袋にひっかからないようになめらかなデザインでないと。
いちど、飾りの出っぱったデザインの指輪の上から手袋をはめていて、何度かはめ直したときに飾りが根元からもげてしまったことがある。

そうか、二つあるから、指輪とペンダントと両方つくればいい。
海の石だから、できれば控えめにちょっと海のモチーフを入れたい。
貝殻とか。ヒトデ入れたらしつこいかしら。
台は、ふだんにつけるなら銀がいいけれど、あの石にはたぶん金のほうが似合うかな。
それも、あたたかい重厚な感じの金ではなく、涼しく冷たい感じの金のほうが合いそう。

7月に入ってから、地元の宝石店をいくつか調べ、そのうちのひとつに、思い切ってデザインを持ち込み、見積もりをお願いしてみた。
いい経験になったと思う。
とても丁寧に対応していただいた。
でも、ちょっと・・・あまりにも高すぎて、結局じっさいには注文しなかった。
いままでの色んな思いからすると、さらにこのうえ私の側が、そんな額を支払うというのはちょっと違う気がした。

・・・これ、自分でできるんじゃないかな。
そのうち、つらつら、そんなことを考えはじめた。
それまで、「本物の」宝石だからというので遠慮があったんだと思う。
でも、どんな高価な宝石より、持主である私が満足することのほうが重要なはずだ。

さいごにアクセサリをつくってから長いことたっていたので、ちょっと感覚が鈍っていた。
グリグリと真鍮線を押しつけたら傷などつかないか、心配でもあった。
でも、それくらいで傷がつくようなら、所詮それだけの石なのだ。
思いきってそれまでのやり方で、真鍮線で台をつけてみた。
小さい方は結局のところたいして綺麗でもなかったので、大きいほうの粒で指輪をつくった。
思いのほか満足のいく仕上がりになった。
宝石店でつくってもらうより、よかったんじゃないかと思う。

それを嵌めて、何度か人と会ったり、ご飯を食べに行ったりした。
それでもう、私はそのことを生き終えてしまった。
もう、よかった。
別にその指輪に、私を守ってもらう必要などなかった。

それをまだ持っているけれど、嵌めて出掛けることはもうあまりない。
出先で失くしたりしないよう、気をつけてるのもめんどくさいし。

あまりにも長く引き延ばされた約束というのは、結局、忘れられた約束なのだ。
誰にも何の悪気もないのだから。
そこにまだ自分の気持ちが少しでも残っているのなら、自分の手で叶えなければ。
結局、それしかないんだ。
悲しかったこと、がっかりしたことをひとのせいにせず、自分の責任で自分を幸せにしていくこと。
その指輪はいまもひっそりと引き出しの中にあって、そのことを思い出させる。






  

Posted by 中島迂生 at 06:36Comments(0)片づけ2013-2014

2014年11月12日

自作アクセサリなど





指環たち。手前のふたつ以外はすべて自作。真鍮線。



アクアマリンの指環と楕円形アラベスクの指環。

いろいろとアクセサリをつくっていた時期もあったので、それについてもちょっとまとめたい。
ほんとうは彫金をやってみたかったけど、なかなか縁がなく、なんとか身近にあるもので自分でつくりたいと思ううち、真鍮線、針金、ステンレス線などを使った独自のやり方に行き着いた。



これは初期のころ。
ティファニーのステンドグラスに触発されてつくった、針金と、青と緑のおはじきを使ったネックレス。
シャムロックをかたどっている。
・・・壁に飾って見るほうが映えるかも。

 

冠もあって、セットで身につけるとこんな感じ。



母につくったもの。引き出しにひとまとめにしてくれている。

  

細長い三角形の指環。
緑色のガラス片は、河川敷で拾ったビンのかけら。
足もとで、「私を使って、指環をつくって!」って呼ばれてるような気がした。
根気よくやすりがけして滑らかにした。

そう、アクセサリづくりに凝っていた時期は、河川敷の浄化運動に取り組んでいた時期に重なる。
毎日、黒こげになったビニールのでっかい塊とか、そういう醜悪なものと文字通り泥にまみれて戦っていたから、その反動で美しいものをつくり出さずにいられなかったのだと思う。



同じく、指環。
上からふたつめの写真の、楕円形アラベスクのものとだいたい同じつくりだが、母のリクエストでラピスラズリの粒をひとつ加えた。



母につくったものは、指環よりブローチのほうが圧倒的に多い。
かなり大ぶりな蝶のブローチ。
ちりばめてあるのは、もともと母のものだったけれど使わなくなったイヤリングの片方、など。



ガラスのチューリップ、などのブローチ。
これもいろいろの盛り合わせ。



春になるとつけてくれる、桜の枝のようなブローチ。
真ん中はもともと母がもっていた桜水晶のペンダントトップで、ゆらゆら揺れるようにしてある。
まわりの粒は祖母のネックレスを解体して使用。



もうひとつ、蝶のブローチ。
これは、色んな色のガラス玉のネックレスを絡みつけて固定した。



樫の葉っぱに、ひとつぶ真珠のブローチ。
「こんなふうなブローチが売ってたのよ。素敵だったわ~」と言うので、再現してあげた。
材料は、実はアルミ缶。



色んな色のおはじきのネックレス。
チェーンもステンレス線で輪っかのひとつひとつつくっている。



天然石をちりばめたアラベスク+ハートのブローチ。
「旅行先で、知らない人に褒められた」って言って喜んでた。



もうひとつブローチ。
母の希望のデザインに仕上げたもの。
ちょっとカンディンスキーっぽい?





  

Posted by 中島迂生 at 06:13Comments(0)片づけ2013-2014

2014年11月11日

14のころの絵など


片づけには、子供のころからの自分の作品の分類と整理も。
まだまだ、体系的に完璧に分類できたとは言えないのだけど、とくに愛着のあるものを少しだけご紹介。

14とかその周辺のころの作品って、なんか特別な思い入れがある。
感受性がとくに敏感になって、物事の本質がはっきり見えた時期だからかな。



これは、プラスチックの透明な板に黒チューブで縁取りし、色つきの塗料を流し込んだもの。
13くらいのときの作品。
その前の11とか12のとき、(<指輪物語>の影響を受けて)長々書いてた長編の物語の、舞台となった架空の世界の地図。
川とか山脈とか町とか、ひとつひとつに全部名前がついている。



これはスクラッチボード。14のとき。
曇り空のエルサレムの写真をモノクロコピーして、そこから起こした。
えらい時間かかったっけ。
アルブレヒト・デューラーの銅版画のような空のブツブツしたテクスチャー、今でも気に入っている。



世界一周旅行をして、帰ってきて、そのことを本に書いているしまうまの絵。
これも14のとき。
これは将来こうなりたいなという自画像ww
しまうまの縞が青紫と黄色だったりするところが当時の気分。



これは高校に入ってから。15くらい。
下部の少し黒い、真っ赤なケシの花と、真っ青な矢車菊と、デイジー。
5月が来て原っぱが一面のみずみずしい緑になって、そこにこの花たちが咲くの、ほんとに美しい。



これは木版画の原版。14のとき。
いま思うと、アンドレ・ドーテルの<荒野の太陽>とかの感じだな、これ。
空が灰色だったり、太陽が青かったりするところが反逆の精神。
私の描くネコは、いまでも、色を塗るとたいてい片方の目が緑色、もう片方が黄緑色になる。



<世界という名の列車>という絵本。
14のとき。
なんか当時の夢がぜんぶここにぎゅーっと集約されたような作品だ。
ちょっと英語ヘンだけどww





















あの頃、ほんとに、今思い出しても胸がしめつけられるほど、世界へ出てゆきたかった。
世界中を旅して回りたかった。
おとなになってから、しばらく妙に諦めておとなしくしていたけれど・・・
諦めても、さいごには夢が追いついてくる。
結局、夢には降伏するしかないらしい。

<チャーリーとの旅>のさいしょのところで、シュタインベックが同じこと書いてたね。
いま思い出したけど。・・・






  

Posted by 中島迂生 at 05:42Comments(0)片づけ2013-2014