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Posted by つくばちゃんねるブログ at

2008年09月10日

高校演劇

 おもに団員の方々向けの記事です。


 皆さまこんにちは。
 このカテゴリでは、いわゆる一般的な演劇というものについて少しお送りしたく。
 
 今回は、高校演劇について。


○原体験

 自分にとって、演劇というとまず高校演劇なんですね。
 高校演劇、好きです。
 若い子たちが一生懸命になってる姿ってステキ。

 私が高校2年のとき、同級生の女の子が演劇部を立ち上げたのです。それまではなかった。
 すごくブレイヴだなぁと思って、感嘆して見ていました。
 実は自分も、入らない? と誘ってもらって、内心すごく入りたかったのですが、ちょっと事情があってそのときは入れなかったのです。

 初演は文化祭で、<銀河鉄道の夜>だった。
 とってもとっても感動して、あれが自分のなかで<演劇>の原点になってると言ってもいいくらい。
 さそり座の赤いライト、闇に響く「カムパネルラ!」という絶望の叫び、今でもあの暗幕を垂らした教室の椅子に座っているかのように、ありありとよみがえります。
 その子たちは、のちには野田秀樹の<半神>だの、そういったえらく難しいのをやることになるのですが、自分的にいちばん印象的だったのは初演。
 とにかくその世界に完全に引き込まれて、我を忘れて見入りました。

 なんかそういうのが、演劇というものの原点じゃないかなぁ、という気がします。
 いかに見る側を引き込み、いわば魔法をかけて、我を忘れさせることができるか。・・・

 カタルシスといふコトバ、もとはギリシャ悲劇の演劇用語から来ているんだそうですね。
 いつもいつでもつねに自分であり続けるってことは退屈だし、疲れます。
 日常の自分をいっとき忘れ去って舞台の上の別の人生に完全に同化し、ともに泣き笑い、感情を燃やし尽くすことでスカッとする、いちど己れを無の状態にリセットする・・・ そういう精神衛生上の浄化作用。
 元来はそれをカタルシスといったらしい。
 それはほんとにひとつの魔法・・・ 芸術の魔法です。
 わが劇団も、最終的にはそういうところを目指したい。
 我々の物語は、それだけの力をもっているはずだから。


○文化祭
 
 ここ数か月で、思いがけなくいくつかの高校演劇を見る機会がありました。
 6月には、何のシンクロニシティか、生徒さんのひとりが文化祭の出し物で演劇をやることになり、つくば市内の某高校にお邪魔してきました。
 リア王、しかも英語劇。
 練習、たいへんだったみたいだけれど、その成果が出てよくまとまっていました。
 ほかにも、バンドとかファッションショーとかいろいろ、若い力が炸裂してる感じですばらしかった。
 自分で演劇をつくりあげるさいにインスピレーションをもらえるのは、同じ演劇からだけじゃないと思うのです。
 ステージでやることってある意味ぜんぶ演劇だと思うのです、ドラマだという点ではね。
 そういう意味では、私はせまい意味での演劇経験はないに等しいけれど、いままで色んな別のところからたくさんのインスピレーションをもらってきてるんじゃないかという気がします。


○高校演劇祭

 そこでたまたま教えていただいて、7月の末には県南高校演劇祭にお邪魔してきました。演劇部の県南大会みたいなもので、知らなかったのですけど、一般公開してるんですね。
 二日間かけて、色んなタイプの舞台を見ました。
 ものすごく長くて凝ったのもあって、高校生でここまでやるのはすごいなぁと。・・・

 でも幸か不幸か、自分自身が高校生だったときのように我を忘れて引き込まれるところまでいったのは・・・ うーん、正直、あまりなかったかも。・・・
 それは、へんに客観的に見てしまったせいかもしれないし。
 あの頃はあまり免疫がなかったせいもあるのかもしれないし。
 いまの自分は少し大きくなりすぎてしまったのかもしれないし。

 でも、これから我々の舞台を見てくれる人たちで、やっぱり大きくなりすぎてしまった人たちというのはたくさんいるはずだ。
 我々はそういう人たちをも動かせるような舞台を目指さなくては。・・・

 などと、いろいろ考えさせられたことでした。


○その講評

 この日なんといってもいちばん興味深かったのは、さいごの講評だったのです。
 講評担当の先生がふたりいらして、総括的なアドバイスから、ひとつひとつの舞台に至るまで、すごく細かい講評をされていました。
 それがほんとに聴いてて勉強になって。

 演劇部の先生方って、ご自分でも脚本書いてる方がけっこういらっしゃるんですね。
 しかもかなり長年やってらっしゃる方が多い。
 それは勉強になるはずです。
 ・・・すぐにそれらを自分の舞台に適用するかどうかはともかくですね。

 自分、このあと授業のため途中で抜けてしまったので、さいごまで聴けなかったのがほんとに残念だったのですが、走り書きしたメモが手元に残っているので、以下、お話の内容を少し挙げてみます。甚だ不完全な再現ですが。

「プロットだけだと点。
 肉づけ、つくりこみしてゆく過程で点を線につなげていかないといけない。

 そしてやはり芸術性・・・ 含みがあること。
 うしろに深い世界が広がっていることを感じさせるような。」

「今回は全体として、すごくオーソドックスで一般的な・・・ 行っちゃえばお行儀のいいテーマが多かった気がするけど。
 不安定な人間のぐちゃぐちゃな内面を放り出してそのまま、みたいな そういうのがあってもいい。」

「暗転、曲、ほんとうに必要か?
 ぜひとも必要な場面以外では使わないこと。」

「暗転中はセリフなし。
 セリフにおっかぶせて音楽入れない方がいい。
 舞台だと音楽はセリフの邪魔をする。」
 
「自分で名シーンだと思うところはほとんどカットして間違いなし。」
 (名言だ!)

「オープニングは大切。
 ちゃんと人がついて作りこんだ方がいい。
 そこでぐわーっと人を引き込めるかどうかが決まるから。」

「音楽とか蝉の声とかは、場面切り替わる前から。」

「舞台装置や背景が単純な場合、そのシーンの具体的なイメージを、役者間で話し合って共有する作業が必要。」
 (これはすごく参考になりました。ほんとにその通りだと思う。)

「つねに動きっぱなしじゃなく、いったん動作をとめて、見る人をぐーっと引き入れる。
 歌舞伎でいう<見栄を切る>ってやつ。
 日本のアニメーション、アメリカなんかのとどこが違うか分かる?
 日本のアニメには、動きをとめる場面っていうのがあるんです。歌舞伎の感覚が引き継がれてるのね。
 アメリカのアニメは、つねに動きっぱなしなんです。」
 (これも、なるほど! と。) 


 なかにひとつ、ものすごく陰惨なのがあったんですね。
 学園ものなんだけど、生徒が次々と殺されていって、さいごにはみんな死んじゃう、みたいな。
 それの講評が、自分が聴けた中ではいちばん印象的でした。

「少し前までは高校生がこういうの上演すると批判されたもんなんですが・・・ いまやほんとにこんな事件が身近で起きるようになっちゃいましたからねぇ。

 でもね、陰惨なら陰惨でいいんですよ、殺し合いなら殺し合いでいい。
 ただ、さいごになにかポーンとつきぬける感じ、あれもあれでいいよな、と納得させるだけの説得力があれば。

 今回のは、そういう点でちょっと・・・ やってる側にまだ迷いがある、縛られてる。
 だから見ている側になんだか煮え切らない思いが残るんですね。

 ・・・やるんならやっちゃえば。
 中途半端はいけません。」
 
 ・・・こういうの聴いてて、高校演劇も変わったなぁ、というか高校の先生たちも変わったなぁ、と思う一方、たぶん自分はこのひとが言わんとしていることの具体的なイメージを完全には掴めていないのだけれど、こういうことが言えるのってなんかすごくかっこいいなぁ、と思ったことでした。

(ボイスレコーダーとか持ってたわけではないので、じっさいその場でおっしゃってたのとは多少表現が違うかもしれません。その旨お断りしておきます。)

 
○サプライズ

 ここから先は演劇とは直接関係ないのですが、実はこの日、さらにおまけでうれしいことが。
 高校のとき、現代文を教わっていた先生にばったり再会したのです。(別の高校に転任されていました。)
 私の方はすぐ分かったのですが、先生の方は私の担任でもなかったし、担当の学年さえ違った気がする。なので覚えてらっしゃるわけがないと思って、改めて自己紹介しようとしたら・・・

 なんと私のこと、覚えててくださったのです。しかも下の名前まで。
「いやぁ、なんか見たことある人がいるなーと思って。
 実はね、去年くらいに片づけしてたら君の書いたメモみたいのが出てきて、それをいまの生徒たちに見せて話をしてたんだよ。だから覚えてた」

 何を書いたのだか覚えていないけれど、たぶんその頃の自分というのはまだ自分の人生を生きていなくて、ただ生半可な知識を振り回しているにすぎなかったはず。
 そんなの、とっといてくださったなんて。

 そしてなんだか身に余るお褒めの言葉をいただいたのですが、とてもそんなのに値する自分じゃないって分かってるので恐縮で。
 でも、それはそれとして、ともかく自分の書いたものによって覚えていてもらえるというのは、もの書きとして願いうる最高のこと。
 ほんとにほんとにうれしくて、ありがたい。
 
 そしてまたこんなにずっと疎遠だったのに私のこと覚えててくださったことや、気さくにご自身のことをいろいろ話してくださったことがつくづくとうれしく。・・・

「なんでいまになって演劇なの?」と聞かれて(そりゃ、ふつう思いますよね)いろいろお話すると、変な顔もせずに聴いてくださいました。

「こんなふうに、高校で演劇部に入って演劇やるっていうのなら、制度が整っていてやることだから、自然だし、だれもふしぎに思わない。
 だけど、自分でいろいろ模索してゆくなかで演劇にたどりついたというのなら、それがあなたにとっての必然なのだし、あなたにとっての潮どきなのだ。だからまわりを気にしないで、どんどんやったらいい」 
 というようなこと、言ってはげましてくださった。
 こういうような内容をですね。この通りの表現ではないけれど。

 そういうことは、もちろん自分でも思っていたのだけれど。
 ひとさまから言っていただくとほんとに力づけられます。
 そしてつくづくと知るのです。
 自分の無謀な情熱と、思いこみのままに突っ走ってゆくことだ。・・・必ず励ましてくれたり、助けてくれたりする人が現れる。
 いまの自分にとっては、ほかならぬ皆さんが、その、助けてくれている人たちです。
 ほんとに心から感謝しています。
 

 次回は、ここ数ヶ月の間に連絡をとったり見に行ったりした、つくば近辺の演劇関連の団体さん方について少しご報告の予定。

 中島 迂生
  

Posted by 中島迂生 at 01:15Comments(0)演劇一般

2008年09月10日

能について(3) ・・・舞台装置、舞台、結び、参考資料

 能について、長くなってしまいすみません。この記事でさいごです。


○舞台装置

 能の舞台装置は至ってシンプル。
 檜舞台の背景にはふつう、でっかい松の木の絵がどーんとひとつ描かれているだけで、場面転換いっさいなし。
 地謡の描写ひとつでそこが野外になったり室内になったり、観客の想像力を引き出してさまざまに演じ分けられます。
 これもまた確信犯的ミニマリズムなわけです。

 多くの場合、そこに道具立てをひとつかふたつ。
 <作リ物>といいます。これがすごく効果的で、面白い。
 演目によって決まっていて、ほとんどが竹とか紙でできている、シンプルでシンボリックなもの。
 それが床の上にポコンと唐突に置かれて、独特な存在感を放つのです。
 
 いっぱいあって、どれも忘れがたい・・・
 <井筒 いづつ>の井戸はただの四角い木の枠に、お約束でススキがひと束。
 <半蔀 はじとみ>など、家がなくて半蔀門だけがある。
 蔀っていうのは鎧戸みたいなもので、この演目は源氏の<夕顔>を本説としているので、そこに夕顔のつるが這わせてあります。
 <通盛 みちもり>の舟になると、浅い四角い箱の、前と後ろにそれぞれへさきと船尾をあらわす楕円形の竹枠がぺろんとついているだけ。 
 それが舞台の上にぺたんと置かれ、前にきらびやかな装束の女が乗りこみ、後ろに老人が立って櫂を操って海を渡ってゆくのです。

 能のこういうところに私はすごく惹かれるのです。
 豪華な衣装や装身具でイメージをかきたてる一方、同時にてきとうにスカッと抜けて、想像力を遊ばせる余地がある。
 こういう発想って、なんかほんとに子供の遊びみたいな・・・
 子供のころ、ごっこ遊びをしていて、「はい、これ舟ね」とか「はい、ここおうちね」ということにすると、ほんとにそうなったでしょう。
 そんな、自由でのびやかな。
 人間の想像力には、本来、それだけの力があったはずなのです。
 能の道具立ての発想は、そういうことを思い出させてくれる。

 こういうシンボリズムに、イェイツも惹かれたんですね。
 <鷹の井戸>では、泉をあらわすのに「青い四角い布」を用いるようにとの指示が詞書に記されています。

 作リ物は、ほかにもいろいろ。・・・
 <熊野 ゆや>の車。
 <隅田川>の塚。
 <野宮 ののみや>の「火宅の門」。・・・
 あとは、一畳台の上に柱と屋根だけで家や宮殿をあらわしたり。

 <楊貴妃>の蓬莱宮(ほうらいきゅう)の作リ物では、流派によっては前述の鬘帯(かつらおび)がずらりと吊り下げられて玉簾の絢爛さを表現します。
 別に、それ用の装飾をつければいい話なのだけれど、あえてここに鬘帯を使うのです。
 それは使いまわしてるとか経済性とかみみっちいとかそういうことではなく。
 鬘帯は女性役の装飾品ですから、ここでは女官の存在を暗示するのです。
 あえてこの鬘帯をもってくることにより、そこにいるのはいま楊貴妃ひとりであるにもかかわらず、おおぜいの美しい女官たちにかしずかれているようすを幻のように想起させるのです。
 これぞ象徴美の極み!
 (と私は思っています・・・ もっとも、それにはまず、鬘帯が何かということを知っていなきゃならないわけですが。)


 一方、すごくリアルで凝ったのもあります。
 その代表例が<道成寺>の鐘と<殺生石 せっしょうせき>の岩、かな。

 道成寺は歌舞伎の演目にもなってるらしいけど、そっちは詳しく知りません。
 能のものは、じっさい上から落ちてきて、人がその中にすっぽり入らないといけないのでかなりのでっかさ、珍しくリアリズムですね。
 殺生石の岩は、使わない流派もあるようですが、出すところでは、まっぷたつに割れて、中から狐の霊が現れることになるので、こちらもばかでかく、強烈なインパクトです。
 こういうのもたまに出すからインパクト大なわけだし、背景も舞台立てもほかに何もないからこそ映えるわけですね。


○舞台

 いわゆる能楽堂の能舞台というのはかなり最近になって生まれた空間であって、昔は長らく野外で演じられてきたそうです。
 だから薪能などがもっとも原初のかたちに近いのでしょうね。
 薪能、見たことないのです。
 いつか見たいなあと思ってるのですけど。

 あとはおそらく、今でいう盆踊りのやぐらみたいなのの上で演じられてきたに違いない。で、見る人はまわりに集まって三方くらいから見ていたのでしょう。
 今の能舞台のかたちは明らかに、その名残りをとどめている。

 能舞台って面白い造形なのです。左右対称じゃない。
 向かって左手に橋掛リといって渡り廊下みたいのがあって、そっちから役者が出てくるわけですが、左手だけで右にはなくて、しかも微妙に斜めの角度でついている。
 舞台はそれゆえ真ん中より右手にあって、正方形をして客席にせり出ている。
 で、観客は前からだけじゃなく、タテヨコナナメから見るようになる。

 これ、かなりぶっとんだ発想です。
 ・・・そうだよなぁ、なにも横に広がったステージを、前から見るだけが舞台じゃないんだよなぁ、と考えさせられる。
 昔のコロセウムとかだって、円形劇場だったわけだし。
 でも、能舞台の平面図をながめていると、なんだかこういうところケルト的だよなぁ、と思えてくるのです。
 ケルト的なものの考え方にも、どこがどうとは言いにくいのですが、すごく左右非対称なところがある。
 

○ 結び

 能についてはこの辺にしようと思います。
 ながながお附き合いいただきありがとうございます。

 能というものの全体像を客観的に知りたい方は、どうぞご自分でいろいろ資料にあたってみてください。
 ここに書いたのはあくまで極私的、偏愛的にまとめたものにすぎません。
 しかも、自分の場合、能のなかでもとくにこういう部分が好き! というのがあって、そういう意味でもすごく偏っておりますので。

 だからたぶん能の側からすれば、かなりはた迷惑な愛し方なのですが。
 とにかく私としては、こういう芸術形態がこの国に生まれてきて、現在に至るまで失われることなく引き継がれてきてくれたことにほんとに感謝しているのです。

 あの優雅なスタイル、音楽性、視覚に訴える美。
 一方では幽遠なシンボリズム、他方では衣装や装飾のきらびやかさ、
 象徴性と即物性とのあの驚くべき・・・ バランス感覚というかアンバランス感覚というか、押すところと引くところとのあの絶妙な感覚。

 私は能のそういうところがほんとに大好きなんです。
 こういうものを生み出しえたのはいったいどういう精神性なんだろう!
 観阿弥、世阿弥、ほんとにすごい人たちです。
 ああいう人たちを生み出しえた室町時代もすごい!

 仮にもアイルランド演劇をやるからには、もちろん外観はまったく違ってくるでしょうけれども。
 とにかくここに羅針盤の針を合わせておけば間違いなかろう、という直観的な確信があります。
 世阿弥やそういう人たちと、七百年にわたるその伝統と、それから彼らにインスピレーションを与えてきたミューズたちへの、かぎりないリスペクトをこめて。



 参考文献

 いい解説書が山ほど出ているはずなんですけど、とりあえず手元にあるのは・・・

○能楽鑑賞百一番  金子直樹 著 岩田アキラ 写真 淡交社 2001

 能についてのこのシリーズはだいたい上記を参考にして書きました。
 写真が豊富で説明も丁寧で、全体像をつかむのにいい本です。

 あとは、古文の辞書の巻末付録、百科事典、と桐原の十年前の<最新国語便覧>。
 謡曲にあたるには、<日本古典文学体系>を。(図書館の後ろの方に埃をかぶっています。)

 白洲正子とか、林望とかも能について書いていた気がする。
 解説書については、また調べて追記します。

 じっさい上演予定をチェックするには、<能楽タイムズ>っていうのが出てるらしい。
 あとは各団体サイト、ぴあなど。

 中島 迂生     

Posted by 中島迂生 at 00:58Comments(0)能について

2008年09月10日

能について(2) ・・・所作、役者、モチーフ、脚本


 初演作品の舞台づくり参考として、ひきつづき能について少し。
 あまり詳しくない方々向けに書いてます。
 ご存じの方は読み飛ばしてくださいませ。


○所作

 次は少し、能の所作について。

 象徴的で控えめなのから、派手で激しいのまで、いろいろ。
 面のところで触れた、ちょっと角度を変えるだけで笑う、泣くを演じ分けたり、数歩前に出たり後ろに下がったりすることで意識のあり方を示したり。
 <葵上>では、もののけがさっと扇を振り下ろすことで葵上をとり殺すのを表したり、なんていうのもあります。
 もっとも、この辺になると型であり、約束事であるので、あらかじめ知っていないと何が起こっているのか分からない、ということもあるのですが。

 かと思うと、ひとりで大立ち回りして、日本中の天狗を引き連れてつむじ風のなか現れたり、激流のなかを押し寄せる三百駒の軍勢と闘ったり。・・・


○役者・音楽隊

 そう、ひとつの演目のなかでの役者の人数は、基本とても少ない。
 シテ、ワキ、アイ、ツレといった呼び名で、一度に舞台に出ているのは多くともせいぜい3人とか4人くらい。
 それ以上はことばで描写されるだけで、観客の想像力を動員して「いることにして」演じられる。

 別に、募集かけたけど人が集まらなかった、とかそういうことじゃない。
 これもやはり、理念あってのミニマリズムなのです。
 こういう片手に収まるようなコンパクトさって、なんか好きです。

 ただし、それに加えてふつう、8人の地謡(じうたい)と4人の囃子方(はやしかた)がいる。
 
 地謡っていうのはいわば地の文担当で、その場面に至るまでの経緯だとか、情景描写だとか、場合によっては登場人物の心中独白なんかを、うたうように語るのです。
 これはちょっと近代演劇にはない独特な役柄。
 だけど、なんかギリシャ悲劇のコロス(コーラスの語源)に似ているなって思います。
 ギリシャ悲劇でも役者とは別にコーラス隊というか地の文係みたいのがいて、これがけっこう大きな存在なのです。
 オイディプスなんかでも、主人公とこのコロスの掛け合いで進行してゆくような場面がある。

 囃子方は音楽隊。おもに笛と太鼓です。
 コンパクトだけど、音楽が生演奏なんですね。
 そうでなくちゃと思います。
 とりわけ能では、セリフ・地の文ともに歌うような調子で語られ(それゆえそれぞれ役謡 やくうたい、地謡と呼ばれるのですが)、音楽とからみあって全体でひとつになっているようなところがあるので、じっさい生演奏でないと息をあわせられないのです。


○モチーフ
 
 能のモチーフは、必ず源氏とか平家物語とか、だれもが知っている古典の中からとられます。本説(ほんぜつ)と呼ばれます。
 その中から短いひとつの場面を切り取って、独自の光をあて、ぐわーっと深化して描く。見る人は全体のあらすじや背景を知っている、演じる側と見る側とにすでに共通認識がある。そこに半透明のすだれを透かして見るような深みと奥ゆきが生まれてくる。

 演目のひとつひとつは読み切りショートショートみたいな、愛すべきコンパクトさ。
 でも姉妹篇とか同じ出典からのネタとか、タテヨコナナメにつながって蜘蛛の巣のように結びあわさり、全体としてみると、日本の古典の物語世界のハイライトをあますところなく網羅した、一大叙事詩みたいになっているのです。
 宇宙の片すみ、でも打てば全体にひびく、みたいな。


○脚本

 能の脚本はふつう謡曲と呼ばれます。

 書きコトバ作品としての謡曲が、私はすごく好きです。
 簡潔でリズミカルで、コトバのひとつひとつが詩的でつややかな美しさを放っていて。
 そしてあのゆたかなイメージ喚起力。

 室町時代ともなると古文といってもわりと今の日本語に近く、文法的にはそれほど深い知識を必要としない。
 源氏みたいに文体がのたくってなくて読みやすい。

 言葉の音楽性ということを、私はけっこう気にします。
 それはふつうに散文作品を書いている時でもそう。
 音楽的なリズムが感じられた方が、黙読する場合にもこころよいと思うから。
 それに結局、さいしょは言葉と音楽というのは不可分なものだったはずで、今みたいに文学と音楽と分けてしまう方が不自然だと思うのです。

 まして今は言葉に出して語られることを前提として書こうというのだから、なおさらこの音楽性、リズム、韻律ということを大切にしていかなければと思っています。
 日本語で韻律というとまず七五調というイメージだと思うのですが、必ずしもそれだけではなくてね。
 記紀歌謡なんか見ると、ほかにもいろんなかたちの魅力的な韻律が溢れているんですよね。
 紀貫之以来、和歌が国文学として称揚されたのはいいけれど、ちょっとあまりにも規格化されすぎてほかの豊かな部分が切り捨てられてきてしまったなという感じがあります・・・。


 それはそうと、正直に言っておかなければと思うのですが、これだけ謡曲のすばらしさを称えておきながら、私はそれらがじっさいに歌われる形態には一般的に、あまり感情移入できないんです。
 それはたぶん、自分がふだん耳にしているものとの乖離が大きすぎるせいだと思うのですが・・・ 正直、退屈だし、眠くなるし、いまどこの場面なんだか途中で分からなくなったりするんですもの。

 けっこう・・・ 大方の人が、そう思っているみたいだけれど。
 だからマイナー視されちゃうんですかね・・・ こんなにすばらしい古典芸能なのに。

 たしかにいきなり見てもあんまりなんだかよく分からなくて、解説が必要になってくる部分は大きい。
 時間の流れ方の感覚にしろ、文学的素養や仏教用語なんかにしろ、室町時代以降おそらく近代くらいまでは演じ手と観客とのあいだに成立していただろう共通認識みたいなものが、今ではあまりなくなってしまっているし。

 観客との乖離 という問題は、我々も古代アイルランドの物語を日本で上演しようとする限り、ひとごとでない課題です。説得力をもって演じようとすると、かなりの工夫と技量と根性が必要になってきますね・・・。
 でも、こうして名乗りを上げてくださった皆さんがいるのですから、力を合わせればできるはず! と信じています。


 では・・・ 乗りかけた舟、もう少し能について。・・・

 中島 迂生  

Posted by 中島迂生 at 00:50Comments(0)能について