2008年09月10日
能について(3) ・・・舞台装置、舞台、結び、参考資料
能について、長くなってしまいすみません。この記事でさいごです。
○舞台装置
能の舞台装置は至ってシンプル。
檜舞台の背景にはふつう、でっかい松の木の絵がどーんとひとつ描かれているだけで、場面転換いっさいなし。
地謡の描写ひとつでそこが野外になったり室内になったり、観客の想像力を引き出してさまざまに演じ分けられます。
これもまた確信犯的ミニマリズムなわけです。
多くの場合、そこに道具立てをひとつかふたつ。
<作リ物>といいます。これがすごく効果的で、面白い。
演目によって決まっていて、ほとんどが竹とか紙でできている、シンプルでシンボリックなもの。
それが床の上にポコンと唐突に置かれて、独特な存在感を放つのです。
いっぱいあって、どれも忘れがたい・・・
<井筒 いづつ>の井戸はただの四角い木の枠に、お約束でススキがひと束。
<半蔀 はじとみ>など、家がなくて半蔀門だけがある。
蔀っていうのは鎧戸みたいなもので、この演目は源氏の<夕顔>を本説としているので、そこに夕顔のつるが這わせてあります。
<通盛 みちもり>の舟になると、浅い四角い箱の、前と後ろにそれぞれへさきと船尾をあらわす楕円形の竹枠がぺろんとついているだけ。
それが舞台の上にぺたんと置かれ、前にきらびやかな装束の女が乗りこみ、後ろに老人が立って櫂を操って海を渡ってゆくのです。
能のこういうところに私はすごく惹かれるのです。
豪華な衣装や装身具でイメージをかきたてる一方、同時にてきとうにスカッと抜けて、想像力を遊ばせる余地がある。
こういう発想って、なんかほんとに子供の遊びみたいな・・・
子供のころ、ごっこ遊びをしていて、「はい、これ舟ね」とか「はい、ここおうちね」ということにすると、ほんとにそうなったでしょう。
そんな、自由でのびやかな。
人間の想像力には、本来、それだけの力があったはずなのです。
能の道具立ての発想は、そういうことを思い出させてくれる。
こういうシンボリズムに、イェイツも惹かれたんですね。
<鷹の井戸>では、泉をあらわすのに「青い四角い布」を用いるようにとの指示が詞書に記されています。
作リ物は、ほかにもいろいろ。・・・
<熊野 ゆや>の車。
<隅田川>の塚。
<野宮 ののみや>の「火宅の門」。・・・
あとは、一畳台の上に柱と屋根だけで家や宮殿をあらわしたり。
<楊貴妃>の蓬莱宮(ほうらいきゅう)の作リ物では、流派によっては前述の鬘帯(かつらおび)がずらりと吊り下げられて玉簾の絢爛さを表現します。
別に、それ用の装飾をつければいい話なのだけれど、あえてここに鬘帯を使うのです。
それは使いまわしてるとか経済性とかみみっちいとかそういうことではなく。
鬘帯は女性役の装飾品ですから、ここでは女官の存在を暗示するのです。
あえてこの鬘帯をもってくることにより、そこにいるのはいま楊貴妃ひとりであるにもかかわらず、おおぜいの美しい女官たちにかしずかれているようすを幻のように想起させるのです。
これぞ象徴美の極み!
(と私は思っています・・・ もっとも、それにはまず、鬘帯が何かということを知っていなきゃならないわけですが。)
一方、すごくリアルで凝ったのもあります。
その代表例が<道成寺>の鐘と<殺生石 せっしょうせき>の岩、かな。

道成寺は歌舞伎の演目にもなってるらしいけど、そっちは詳しく知りません。
能のものは、じっさい上から落ちてきて、人がその中にすっぽり入らないといけないのでかなりのでっかさ、珍しくリアリズムですね。
殺生石の岩は、使わない流派もあるようですが、出すところでは、まっぷたつに割れて、中から狐の霊が現れることになるので、こちらもばかでかく、強烈なインパクトです。
こういうのもたまに出すからインパクト大なわけだし、背景も舞台立てもほかに何もないからこそ映えるわけですね。
○舞台
いわゆる能楽堂の能舞台というのはかなり最近になって生まれた空間であって、昔は長らく野外で演じられてきたそうです。
だから薪能などがもっとも原初のかたちに近いのでしょうね。
薪能、見たことないのです。
いつか見たいなあと思ってるのですけど。
あとはおそらく、今でいう盆踊りのやぐらみたいなのの上で演じられてきたに違いない。で、見る人はまわりに集まって三方くらいから見ていたのでしょう。
今の能舞台のかたちは明らかに、その名残りをとどめている。
能舞台って面白い造形なのです。左右対称じゃない。
向かって左手に橋掛リといって渡り廊下みたいのがあって、そっちから役者が出てくるわけですが、左手だけで右にはなくて、しかも微妙に斜めの角度でついている。
舞台はそれゆえ真ん中より右手にあって、正方形をして客席にせり出ている。
で、観客は前からだけじゃなく、タテヨコナナメから見るようになる。
これ、かなりぶっとんだ発想です。
・・・そうだよなぁ、なにも横に広がったステージを、前から見るだけが舞台じゃないんだよなぁ、と考えさせられる。
昔のコロセウムとかだって、円形劇場だったわけだし。
でも、能舞台の平面図をながめていると、なんだかこういうところケルト的だよなぁ、と思えてくるのです。
ケルト的なものの考え方にも、どこがどうとは言いにくいのですが、すごく左右非対称なところがある。
○ 結び
能についてはこの辺にしようと思います。
ながながお附き合いいただきありがとうございます。
能というものの全体像を客観的に知りたい方は、どうぞご自分でいろいろ資料にあたってみてください。
ここに書いたのはあくまで極私的、偏愛的にまとめたものにすぎません。
しかも、自分の場合、能のなかでもとくにこういう部分が好き! というのがあって、そういう意味でもすごく偏っておりますので。
だからたぶん能の側からすれば、かなりはた迷惑な愛し方なのですが。
とにかく私としては、こういう芸術形態がこの国に生まれてきて、現在に至るまで失われることなく引き継がれてきてくれたことにほんとに感謝しているのです。
あの優雅なスタイル、音楽性、視覚に訴える美。
一方では幽遠なシンボリズム、他方では衣装や装飾のきらびやかさ、
象徴性と即物性とのあの驚くべき・・・ バランス感覚というかアンバランス感覚というか、押すところと引くところとのあの絶妙な感覚。
私は能のそういうところがほんとに大好きなんです。
こういうものを生み出しえたのはいったいどういう精神性なんだろう!
観阿弥、世阿弥、ほんとにすごい人たちです。
ああいう人たちを生み出しえた室町時代もすごい!
仮にもアイルランド演劇をやるからには、もちろん外観はまったく違ってくるでしょうけれども。
とにかくここに羅針盤の針を合わせておけば間違いなかろう、という直観的な確信があります。
世阿弥やそういう人たちと、七百年にわたるその伝統と、それから彼らにインスピレーションを与えてきたミューズたちへの、かぎりないリスペクトをこめて。
参考文献
いい解説書が山ほど出ているはずなんですけど、とりあえず手元にあるのは・・・
○能楽鑑賞百一番 金子直樹 著 岩田アキラ 写真 淡交社 2001
能についてのこのシリーズはだいたい上記を参考にして書きました。
写真が豊富で説明も丁寧で、全体像をつかむのにいい本です。
あとは、古文の辞書の巻末付録、百科事典、と桐原の十年前の<最新国語便覧>。
謡曲にあたるには、<日本古典文学体系>を。(図書館の後ろの方に埃をかぶっています。)
白洲正子とか、林望とかも能について書いていた気がする。
解説書については、また調べて追記します。
じっさい上演予定をチェックするには、<能楽タイムズ>っていうのが出てるらしい。
あとは各団体サイト、ぴあなど。
中島 迂生
○舞台装置
能の舞台装置は至ってシンプル。
檜舞台の背景にはふつう、でっかい松の木の絵がどーんとひとつ描かれているだけで、場面転換いっさいなし。
地謡の描写ひとつでそこが野外になったり室内になったり、観客の想像力を引き出してさまざまに演じ分けられます。
これもまた確信犯的ミニマリズムなわけです。
多くの場合、そこに道具立てをひとつかふたつ。
<作リ物>といいます。これがすごく効果的で、面白い。
演目によって決まっていて、ほとんどが竹とか紙でできている、シンプルでシンボリックなもの。
それが床の上にポコンと唐突に置かれて、独特な存在感を放つのです。
いっぱいあって、どれも忘れがたい・・・
<井筒 いづつ>の井戸はただの四角い木の枠に、お約束でススキがひと束。
<半蔀 はじとみ>など、家がなくて半蔀門だけがある。
蔀っていうのは鎧戸みたいなもので、この演目は源氏の<夕顔>を本説としているので、そこに夕顔のつるが這わせてあります。
<通盛 みちもり>の舟になると、浅い四角い箱の、前と後ろにそれぞれへさきと船尾をあらわす楕円形の竹枠がぺろんとついているだけ。
それが舞台の上にぺたんと置かれ、前にきらびやかな装束の女が乗りこみ、後ろに老人が立って櫂を操って海を渡ってゆくのです。
能のこういうところに私はすごく惹かれるのです。
豪華な衣装や装身具でイメージをかきたてる一方、同時にてきとうにスカッと抜けて、想像力を遊ばせる余地がある。
こういう発想って、なんかほんとに子供の遊びみたいな・・・
子供のころ、ごっこ遊びをしていて、「はい、これ舟ね」とか「はい、ここおうちね」ということにすると、ほんとにそうなったでしょう。
そんな、自由でのびやかな。
人間の想像力には、本来、それだけの力があったはずなのです。
能の道具立ての発想は、そういうことを思い出させてくれる。
こういうシンボリズムに、イェイツも惹かれたんですね。
<鷹の井戸>では、泉をあらわすのに「青い四角い布」を用いるようにとの指示が詞書に記されています。
作リ物は、ほかにもいろいろ。・・・
<熊野 ゆや>の車。
<隅田川>の塚。
<野宮 ののみや>の「火宅の門」。・・・
あとは、一畳台の上に柱と屋根だけで家や宮殿をあらわしたり。
<楊貴妃>の蓬莱宮(ほうらいきゅう)の作リ物では、流派によっては前述の鬘帯(かつらおび)がずらりと吊り下げられて玉簾の絢爛さを表現します。
別に、それ用の装飾をつければいい話なのだけれど、あえてここに鬘帯を使うのです。
それは使いまわしてるとか経済性とかみみっちいとかそういうことではなく。
鬘帯は女性役の装飾品ですから、ここでは女官の存在を暗示するのです。
あえてこの鬘帯をもってくることにより、そこにいるのはいま楊貴妃ひとりであるにもかかわらず、おおぜいの美しい女官たちにかしずかれているようすを幻のように想起させるのです。
これぞ象徴美の極み!
(と私は思っています・・・ もっとも、それにはまず、鬘帯が何かということを知っていなきゃならないわけですが。)
一方、すごくリアルで凝ったのもあります。
その代表例が<道成寺>の鐘と<殺生石 せっしょうせき>の岩、かな。
道成寺は歌舞伎の演目にもなってるらしいけど、そっちは詳しく知りません。
能のものは、じっさい上から落ちてきて、人がその中にすっぽり入らないといけないのでかなりのでっかさ、珍しくリアリズムですね。
殺生石の岩は、使わない流派もあるようですが、出すところでは、まっぷたつに割れて、中から狐の霊が現れることになるので、こちらもばかでかく、強烈なインパクトです。
こういうのもたまに出すからインパクト大なわけだし、背景も舞台立てもほかに何もないからこそ映えるわけですね。
○舞台
いわゆる能楽堂の能舞台というのはかなり最近になって生まれた空間であって、昔は長らく野外で演じられてきたそうです。
だから薪能などがもっとも原初のかたちに近いのでしょうね。
薪能、見たことないのです。
いつか見たいなあと思ってるのですけど。
あとはおそらく、今でいう盆踊りのやぐらみたいなのの上で演じられてきたに違いない。で、見る人はまわりに集まって三方くらいから見ていたのでしょう。
今の能舞台のかたちは明らかに、その名残りをとどめている。
能舞台って面白い造形なのです。左右対称じゃない。
向かって左手に橋掛リといって渡り廊下みたいのがあって、そっちから役者が出てくるわけですが、左手だけで右にはなくて、しかも微妙に斜めの角度でついている。
舞台はそれゆえ真ん中より右手にあって、正方形をして客席にせり出ている。
で、観客は前からだけじゃなく、タテヨコナナメから見るようになる。
これ、かなりぶっとんだ発想です。
・・・そうだよなぁ、なにも横に広がったステージを、前から見るだけが舞台じゃないんだよなぁ、と考えさせられる。
昔のコロセウムとかだって、円形劇場だったわけだし。
でも、能舞台の平面図をながめていると、なんだかこういうところケルト的だよなぁ、と思えてくるのです。
ケルト的なものの考え方にも、どこがどうとは言いにくいのですが、すごく左右非対称なところがある。
○ 結び
能についてはこの辺にしようと思います。
ながながお附き合いいただきありがとうございます。
能というものの全体像を客観的に知りたい方は、どうぞご自分でいろいろ資料にあたってみてください。
ここに書いたのはあくまで極私的、偏愛的にまとめたものにすぎません。
しかも、自分の場合、能のなかでもとくにこういう部分が好き! というのがあって、そういう意味でもすごく偏っておりますので。
だからたぶん能の側からすれば、かなりはた迷惑な愛し方なのですが。
とにかく私としては、こういう芸術形態がこの国に生まれてきて、現在に至るまで失われることなく引き継がれてきてくれたことにほんとに感謝しているのです。
あの優雅なスタイル、音楽性、視覚に訴える美。
一方では幽遠なシンボリズム、他方では衣装や装飾のきらびやかさ、
象徴性と即物性とのあの驚くべき・・・ バランス感覚というかアンバランス感覚というか、押すところと引くところとのあの絶妙な感覚。
私は能のそういうところがほんとに大好きなんです。
こういうものを生み出しえたのはいったいどういう精神性なんだろう!
観阿弥、世阿弥、ほんとにすごい人たちです。
ああいう人たちを生み出しえた室町時代もすごい!
仮にもアイルランド演劇をやるからには、もちろん外観はまったく違ってくるでしょうけれども。
とにかくここに羅針盤の針を合わせておけば間違いなかろう、という直観的な確信があります。
世阿弥やそういう人たちと、七百年にわたるその伝統と、それから彼らにインスピレーションを与えてきたミューズたちへの、かぎりないリスペクトをこめて。
参考文献
いい解説書が山ほど出ているはずなんですけど、とりあえず手元にあるのは・・・
○能楽鑑賞百一番 金子直樹 著 岩田アキラ 写真 淡交社 2001
能についてのこのシリーズはだいたい上記を参考にして書きました。
写真が豊富で説明も丁寧で、全体像をつかむのにいい本です。
あとは、古文の辞書の巻末付録、百科事典、と桐原の十年前の<最新国語便覧>。
謡曲にあたるには、<日本古典文学体系>を。(図書館の後ろの方に埃をかぶっています。)
白洲正子とか、林望とかも能について書いていた気がする。
解説書については、また調べて追記します。
じっさい上演予定をチェックするには、<能楽タイムズ>っていうのが出てるらしい。
あとは各団体サイト、ぴあなど。
中島 迂生
Posted by 中島迂生 at 00:58│Comments(0)
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