2013年11月30日

創造的な不幸-24-

創造的な不幸-愛・罪・自然、および芸術・宗教・政治についての極論的エッセイ-
この作品について   目次

-24- 沈みかけた船・エリオット論


 そしてまさにこれが、形而上学的問題を事とする「キリスト教文化圏の」文学に親しめば親しむほどに、Aがどうしても払拭できなかった違和感の由来なのだ。
 すなわち、おしなべて彼らの文章には、この世に腰を据えて勝負していこうという姿勢が明らかなのである。しかし、神の側に立ちながら尚この世に腰を据えて勝負するなんてことは、きわめて反キリスト教的な仮定--つまり、所詮終末なんてやって来はしないのだという仮定のもとにしかできはしないではないか。正統的な、つまり終末論的なキリスト教にあっては、文学をやることそのものが、内容どうこうではなく、文学それ自体がすでに罪なのである。なぜか? なぜなら、それは時間を取るからだ。
 キリスト教にあっては、黙示録の巨人が断言したように、「もはや時間はない!」のだ。時間は、つまり、この世が存続を許されている時間、あと幾人かでも救い出して神の側に導くことのできる時間は、常に尽きようとしているのである。キリスト教にあっては、この世は常に、今にも沈みかけている巨大な船の如くである。たとえそれが過去二千年間沈みかけ続けているとしても、それは今でもやはり沈みかけているのだ。
 そういうときになすべき人の務めとは、言うまでもなく、乗客全員のドアを片っ端からガンガン叩いてまわって事情を説明し、ともかくも救命ボートにひっぱりこんでやることである。悠長にカッサンドラの詩集を取り出して現代風にアレンジしてやろうなんて考えるのは、気違い沙汰だ。しかるに、「キリスト教文学」がやろうとしてきたのは、まさにそれである。
 そう、ともかく危機が迫っていて、たくさんの人々の命が危険に曝されているのだ。ここは文学によってキリスト教理念を敷衍しようと呑気に構えている場合ではない。それゆえ終末論は物書きに対しても、詩だの批評だのにかかずらっているより、さっさと出掛けていって神の王国を宣べ伝えるべきことを指し示す。従って、もし文学なるものの役割が一国の文化を支えることにあるとすれば、キリスト教徒にとってそんなものはほとんど存在意義を持たないことになる。なぜなら、真のキリスト教徒はただ神の意志がなされることにのみ心を傾けるのであって、いかなる国家の存亡にも、いかなる文化のあり方にも、いかなる文学的価値にもさしたる注意を払わないからだ。実にこの恐るべき無関心こそが、キリスト教徒たちが国家に対して何ら実質的な危害を加えなかったにもかかわらず、ローマが彼らを弾圧したもっともな理由であった。エレミヤの時代に、神が書記官バルクに忠告したように--
「視よ われ我建てしところの者を毀ち 我植えしところの者を抜かん 是この全地なり 汝己の為に大なる事を求むるか これを求むる勿れ 視よ われ災をすべての民に降さん 然ど汝の生命は我汝のゆかん諸の處にて汝の掠物(ぶんどりもの)とならしめん」--Je45:4,5

 そう、神は忠実な者に生命の救いを約束する。ただ生命の救いだけであって、我々がそれに劣らず(ひょっとしたら、それ以上に)重要なものと考えるかもしれないあらゆる文化や文学や芸術については、何の保証もなされていない。結局のところ我々すべては--キリスト教文化圏の人間であれ、非キリスト教文化圏の人間であれ--言わば文化的真空の中で神を求めなければならない。それは困難で、つらい生き方である。そもそも人間にそんなことができるのか? それでも尚、それが真実なのだ。
「汝ら 是はエホバの殿(みや=神殿)なり エホバの殿なり エホバの殿なりと云ふ偽りの言をたのむ勿れ」--Je7:4
 それは古代イスラエルの時代に真実であったと同じく、今日においても尚真実なのだ。それがパウロの言葉--「見ゆるものは暫時(しばらく)にして、見えぬものは永遠(とこしへ)に至るなり」の意味するところである。--1Co4:18

           *            *

 後期のエリオットには、この世に腰を据えて勝負していこうという姿勢が特に顕著である。それはもちろん、国教会的な<体制>についての彼の見方から来ているのだ。
 エリオットは偉大なもの書きである--Aは彼から大いに学んできたし、偉大すぎて学び取れなかったことはもっとたくさんある。Aが文学だと思っていたものが<日の下における新しいもの>を創り出す冒瀆的な企てであったのに対し、彼なんかのそれが神に対していたく従順であり、それゆえに建設的であるのに、Aは感銘を受けたものだ。それでも尚、彼のキリスト教が終末論の教義を欠いていたために、その論理は避けがたくいくつかの重大な問題を抱えているのである。

 例えば、<キリスト教社会の理念>。
 それは今読んでも十分価値のある優れた文章である--エリオットの存在によって、そして特にあの時代にエリオットが存在したことによって、イギリス文化は計り知れない恩恵を受けたと思う。そもそも、もう二十世紀も半ばにきていたというのに、国家はキリスト教の上に築かれねばならないという主張が本気でなされ、しかもその主張が意味をなし得たというのはイギリス文化の驚くべき事実である。
 しかしながら、ここで彼は少しく人間的な見方に傾いている。彼は終末を考えに含めない--それゆえ我々は、神の世ならぬこの世界がずっと続いていくことを前提に、何とか少しでも神に近づく努力を続けていくしかないのであり、いつまでたっても神が支配してくれないのであれば、結局は人間の支配とかかわらざるを得なくなるのだ。そして、彼の主張--国民の魂だとか品位だとか創造的活動力だとかを保つためにはキリスト教を選び取るしかない--は、一体キリスト教の方としてはそういうもののために選び取られることを許しているのかという問題を、ほとんど考えていない。しかし、神の第一の関心はすべての人間が一致して神を崇拝するということにあって、民族とか国家のアイデンティティーとかいう問題ではないではないか。
 そして、こうして正確に神の見地から論じていないということから来る、さらに具体的な問題点がある。それは他でもない、自分の国が戦争をする段になったとき人はどうすべきか、という問題である。
「戦争はいかなる場合にも間違っていると主張する人は、何らかの意味で社会に対する義務を放棄していると私は信じざるを得ない。そしてその社会がキリスト教社会である限りその義務は一段と重要だ。・・・社会責任の観念--自分の属する社会の罪に対して各個人が責任を持つという考えは、もっとしっかりと把握する必要のある考えだ。<平和>のときに社会の罪に対して私にも責任があるとするならば、戦争のときに共同の行動から身を引くことによってその責任を免れることがどうしてできるのか私には分からない。」
 ここで彼は主として自分がその理想として描写してきた<キリスト教社会>について語っているのだ。ところが、彼自ら認めるように、
「国家が非キリスト教的行動から暗々裡に非キリスト教的原則に基づく行動へと進み、ついで明白に非キリスト教的原則に基づく行動へと進んでいく傾向に対して我々は安全弁を持っていない。我々はキリスト教の純粋性を保つための安全弁を持っていないのだ」
 となれば、今戦争を始めようとしており、自分がそれに参加するか否かの決断を迫られている自分の国が、そのために戦う価値があるほどにキリスト教的であるかどうかを、一体誰が判断するのであろうか? あるいは彼は、ある社会の中で生活して、その恩恵を受けている以上、その正当性いかんに関わりなく共同の行動に参加する義務があると考えているのかもしれない。しかしそれでは、正当なるものを支持し、間違ったものを退けるという神に対する道徳的義務はどうなるのであろうか?
 これが、神とカエサルを混同することから生じてくるディレンマである。

 一方、終末論を奉じるキリスト教徒の場合はどうか。彼らもまた、戦争はいかなる場合にも間違っているとは主張しない。彼らは神による戦争--ハルマゲドン--を支持する。しかし人間による戦争は支持しない。つまり彼らは良心的兵役拒否の立場を取る。そうすることによって彼らはもちろん社会的責任を放棄しているのだ。彼らは神を受け入れるために自分の文化や伝統すら放棄したのだ、どうしてその社会的責任までを放棄しないことがあろう。しかし彼らはカエサルによって実現することの決してない神の正義を支持しており、そのためにどんな犠牲をもいとわない覚悟ができているのだから、道徳的責任を放棄していることにはならないわけだ。
 一体に、神の僕のこの世に対する態度というものはかくの如くである。常にそうだった--結局のところこの世はエデンの外において始まったのであり、そもそもの始まりからして神から疎外されているのだ。それで彼らはバビロンにとどまってその罪に対して責任を持つようにとは命ぜられず、却って、「彼女の罪に預かることを望まず、彼女と共に滅ぼされることを望まないなら、彼女から出よ」と命ぜられているのである。<キリスト教国家>において、事情は多少とも異なっただろうか? 彼らはエルサレムからも逃れよと命ぜられたのだ。
 そして、神の裁きが人間の起こす戦争よりも寛容であるとはとても言いがたい--それは「老人も、若者も、処女も、小さな子供も、女たちも」食らい尽くす容赦ない剣なのであり、「エホバに打ち殺される者はその日、地の一方の果てから他方の果てにまで及ぶ」のだ。--Ez9,Je25:33
 こうして明らかに神もまた、社会に対してその罪の責任を問うのである--カナンの日にそうであったように。

 さて、<キリスト教社会の理念>において素描されているようなキリスト教と社会との関係の特色は、言わばモンテーニュ的な中庸と寛容と生ぬるさである。感動的な率直さをもってキリスト教が前面に押し出されたかと思うと、それがいよいよ力を発揮すべきところでは奇妙にも骨抜きにされてしまっている。こういう特色は、彼の文学観にも共通しているのである。
 だが、先走りするのはやめて、その文学論を少し丁寧にたどってみよう。
 キリスト教文化圏の非キリスト教的世界に向かって書かれた彼の説得は、確かに感動的である。

 例えば彼の比較的短い文学論の一つ、<批評の機能>。
 ここで彼が問題としているのは、価値、基準、正義である--「人それぞれに明確な態度を取るべきこと、そしてときには実際に一つのものを捨てて他のものを取らねばならない場合のあること」についてである。
 ここで彼はミドゥルトン・マリーを引き合いに出す--「マリー氏が教えているのは、文学に対しても、またはその他のすべての事柄に対しても、少なくとも二つの態度があるが、我々はその両方を採るわけにはいかないということなのである」
 そしてこの二つの態度というのは、我々は我々の外部にある権威に従うべきか、それとも我々自身の心内の声に耳を傾けるべきかということである。前者はキリスト教の本質であり、後者は別名を汎神論ないしは内なる神の教説という。それはつまり、我々は我々とは別個の何者かに従うべきか、あるいは自分の好き勝手にして構わないかという問題なのである。
 エリオットはもちろん前者を採って、そして後者を痛烈に皮肉っている。我々自身は後者を採るのも自由であるし、そしてそれを貫くのは必ずしも容易ではないゆえに場合によってはりっぱなことであるとすら考えるかもしれない、ただ我々は、それでは神に受け入れられないということを知っておかなければならない。この点についての誤解から、内と外との悪しき混同が引き起こされてきたのである。
 これに関してはチェスタトンも全く同意見であって、クエーカー教徒やストア派を批判したくだりで彼はこう書いている。
「心を照らすどんな光を想像してみたところで、こういう連中の言う『内なる光』なるものほど悪しきものはありえない。どんな宗教が恐ろしいと言ったところで、内なる神の崇拝ほど恐ろしい宗教は他にない。いやしくも人間を知っているほどの人ならば、これがどれほど恐ろしいものなのかも知っているはずだ。・・・誰かが内なる神を崇拝するということは、結局のところその誰かが誰か自身を信ずるということに終わるのだ。そんなものを信ずるくらいなら、すべからく太陽でも月でも崇拝すべきである。・・・猫でもワニでも、自分の家の近所にいるならば、そいつをつかまえて崇拝するがよい。ただ内なる神だけはよしたほうがよい。キリスト教がこの世に現れた第一の目的は、まさしくこのことを強烈に主張することに他ならなかったのだ。人間は、単に内を省みるばかりでなく、外を仰ぎ見、・・・神の軍隊と神の隊長の姿を見つめなければならぬのだ。・・・人間は厳然として外の光に目覚めたのだ。その光は太陽のようにうるわしく、月のごとく明らかで、軍規を押し立てて疾走する軍団にもまして恐るべき光であったのだ」--<正統とは何か>

 そして、エリオットもまた(宗派は違うにせよ)同じくキリスト教徒だったのだから、彼の場合にも外の光、外部の権威とはキリスト教を意味したと考えてよいだろう。内なる神の信奉者たちを代弁して、彼はこんなふうに皮肉っている--
「もし何かが好きになったら、ただその事実だけで十分であり、・・・我々は好きになりたいと思っているものなら何でも好きになれるだけでなく、どういう勝手な理由で好きになっても構わないのである」
 しかし、エリオットに言わせればこういう見方はもちろん間違っているのであり、それゆえ彼ははっきりと宣言する、
「・・・問題は・・・どういう態度が我々にとって自然であるとか、または容易であるとかいうことではなくて、どちらが正しいかということである。どちらか一方の態度の方が他方よりも望ましいか、さもなければどうでもよいかのどちらかである。しかし、かような選択がどうでもよいなどと、どうして言えるであろうか」

 問題は、どちらが正しいかということである! 実に正論ではないか。
 正否と好き嫌いの相克は、普遍にして永遠の問題である。Aはのちのち、文学とは関係のない文脈においてもこのあたりのエリオットの言葉をたびたび思い出したものだ。A自身は最終的に、チェスタトンとエリオットを向こうに回して正しいものを捨て、好きなものを取ったが、そうすることが正しいなどと考えはしなかった。
 そう、正しいものと好きなものが一致すること--それはAもまた自身において試みて、ついに成し遂げられなかった難題である。<宗教と文学>という別の文章で、エリオットはさらにこの問題を取り上げている。
「文学評価のためには、我々は二つのこと、すなわち『我々は何を好むか』及び『我々は何を好むべきであるか』ということを、同時にはっきり知っておく必要がある。この両方を心得ているほど誠実な人はほとんどいない。第一の命題は我々が現に感じていることが何であるかを知ることである・・・。また第二の命題には、自分の及ばざるところを知るということも含まれている。なぜなら、我々はどうして好むべきなのかという理由を知っていなければ、何を好むべきかということが本当に分かるはずはないし、また好むべき理由を知るということは、同時に、我々が現在まだそれを好むようになっていない理由を知ることにもなるからである。・・・
「我々が現在何を好んでいるかということを知るのは、文章を読む者としての我々のつとめである。そして我々が何を好むべきであるかということを知るのは、文学の読者であると同時にキリスト教徒としての我々のつとめである。現に好んでいるものはすべて好むべきものと一致していると考えたりしないことが、誠意ある人間としての我々のつとめである。また、我々は好むべきものを実際今好んでいるなどと言わないようにすることが、誠意あるキリスト教徒としての我々のつとめである」
 そう、キリスト教の最大の掟からしてそもそも(あなたは神を愛さなければならない、隣人を愛さなければならない)第一に、正しいことと我々の好むこととが(つまり、「愛する」と「なければならない」とが)一致する必要性、我々が正しいことを好むようになるべきことを強調しているのだ。それゆえ、この精神はすべての分野に敷衍されてしかるべきなのである。

 しかしながら、こと文学に関して言えば、彼の意見は注意深く検討される必要がある。例えば、年代は前後するが<伝統と個人の才能>。ここにおいて、彼は注目すべき価値変換を試みている--
「我々はある詩人を称賛するにあたって、その作品のうちで、他の詩人に尤も似ていない面を強調しようとする傾向がある。詩人の作品におけるかような面あるいは部分に、個性的なもの、その詩人特有の本質があるように思い込むのである。・・・ところが、我々がかような偏見を持たずに詩人に近づきさえすれば、作品の最も優れた部分だけではなく、最も個性的な部分でさえも、往々にして彼の祖先たる過去の詩人たちがその不滅性を最も強く発揮している箇所に他ならないということが分かるであろう」
 次いで彼は、<伝統>という言葉によって自分の意味するところを説明する--
「それは相続することのできないものであり、もし欲しければ、非常な努力をして獲得しなければならないものである。それはまず第一に歴史的意識を必要とするが、かような意識は、二十五才をすぎてもなお詩人でありたいと思う者にはほとんど欠くべからざるものであると言えよう。そしてこの歴史的意識は、過去せるものとしての過去の認識ではなく、過去が現在に生きているという認識を含んでいる。そしてそれは、人が創作するとき、単に自分が骨の髄まで現代人であるというだけでなく、ホーマー以来のヨーロッパ文学全体、及びその中に含まれる彼自身の国の文学全体が同時的に存在し、同時的な秩序を形成しているということを感じさせずにはおかないものなのである。かかる歴史的意識は時間的なものに対する意識であるとともに、時間を越えたものに対する意識であり、また時間的なものと時間を越えたものとを同時にとらえる意識でもあって、それが作家を伝統的にするのである。そしてそれは同時に、作家をして彼が時間の中で占める位置と、彼自身の属している時代を極めて鋭く意識せしめるものなのである」
「・・・詩人は、ヨーロッパの精神及び彼自身の国の精神--それが自分一人の精神よりもはるかに重要なものであることを彼はいつか学ぶであろうが--は、常に変化する精神であり、そしてかかる変化はその途上において何ものをも遺棄しない発展であるということ--言い換えれば、シェイクスピアもホーマーも、旧石器時代最後の画家が岩の壁面に描いた絵画も、朽ち果てさせないような発展であるということも知っていなければならない」
「・・・シェイクスピアは、大抵の人が大英博物館全体から得ることのできるのよりも、さらに本質的な歴史の知識をプルタークから学び取った。・・・強調すべきは、詩人は過去に対する意識を育成ないしは獲得し、生涯を通じてこの意識をたえず発達させなければならないということである。
「そうすることによって、詩人はその瞬間におけるあるがままの自己を、たえず自分より価値のあるものに委ねていることになるのである。芸術家の進歩とはまさにたえざる自己犠牲、すなわち常に個性を滅却することを指すのである」

 たえざる自己犠牲と個性の滅却!
 ここにおいて我々は、なぜ彼が文学という手段によっても人は神に仕え得ると考えたかを知るのである。そして、もちろんこういう主張は、我々は我々の内なる神ではなくて外部にある権威に規範を求めるべきであるという先の主張に関連している。それから、<批評の機能>において彼はその考えを要約して繰り返すのだが--
「私は・・・文学すなわち世界文学、ヨーロッパ文学、一国の文学というものを、個々の作家の書いた作品の寄せ集めとしてではなく、言わば『有機的全体』として、つまり個々の文学作品ならびに個々の芸術家の作品がそれとの関係において、しかもそれとの関係においてのみ、各自の意義を有するような一つの体系として考えていた。従って、芸術家の外部に彼が忠実に奉仕すべきなにものかが存在するわけであり、それは芸術家が彼独自の地位を獲得し確保するために自らを従わせ犠牲に供すべき神聖な義務なのである」

 このあたりにきて、我々ははたと首を傾げ、この時点で彼が自分を本当にキリスト教的なもの書きと考えていたのかどうかを疑いはじめる。なぜなら、キリスト教徒がどうして「彼独自の地位を獲得し確保する」ことなんかを目的としてよいであろうか。それはキリスト教徒であることを踏み越えてしまった芸術家がすることではないのか。さらに--
「・・・たしかに芸術はそれ自身を越えた目的に奉仕するものであると言えるかもしれないが、芸術自体はそれらの目的を意識している必要はない。事実、芸術は、もろもろの価値理論によってその職務をどのように定義されるにしても、それを遂行するためには、かような目的に対して無関心である方がはるかによいのである」

 ここに至って我々の疑いは決定的となる。仮にも芸術家であってしかも同時にキリスト教徒でありたいと望むなら、もちろん彼は自分の目的を強烈に意識していなければならないはずである。神の側を選び取ったり、罪と戦ったりするには、神や罪をまず意識していなければならない。キリスト教に欠かすべからざるは意識である。このことを無視すると、芸術はそれ自身を超越した神に奉仕する代わりに、それ自身を超越した悪魔に奉仕することになりかねない。現にそういうことはたびたび起こってきたのではなかったか。
 どうもエリオットにはそういうところがある。<宗教と文学>においてもそうだが、彼は、必ずしも神の基準に従わない文学全般に対して、それ自体の存在意義というようなものを認めているのである。この寛容さが、エリオットが己れの教理体系の中に終末論を有していなかったことの必然的な結果であるわけだが--それにしても、それは「エホバと張り合う関係を一切認めない」と公言したエヒウの態度とは明らかに異なっているのである。
 もっとも、気持ちは分かるという気がする。文筆業をなりわいとしていて、しかもそれに誇りを持っている場合、文学それ自身の存在意義というようなものを信じないでは、とてもやってゆけたものではない。モンテーニュ的な中庸は、彼のアイデンティティーが立ち往くための必要悪だったのかもしれない。

           *            *

 そう、多くのキリスト教文化圏の文学が、キリスト教的であることを妨げている最大の問題とは、実にそれがキリスト教文化圏の中で生み出されてきたという事実そのものなのである。それは多くの場合、書き手のキリスト教についての意識がその属する文化の中で形成されてきたことを意味する。彼らのうちの実に多くは、世俗の抱く信仰をそのまま己れの信仰としてきた。例えば、シェイクスピアだってそうだった。
 彼の作品はエリザベス朝の時代精神を、キリスト教とヒューマニズムが混ざり合って併存していた当時の文化状況をよく反映している--というのはよく言われる話だ。それゆえそれは当たり前のようにキリスト教の世界観を前提としていると同時にまた、人間の偉大さを称賛してもいる。迷信やギリシャ哲学やローマ神話なんかもたっぷりと取り込まれている。どこからどこまでが何なのか、よく分からない。だとしたら、キリスト教徒たるもの、それが確かにいくぶんキリスト教的であるからというので、あるいは単に、ヨーロッパ文学が今までに成し遂げたうちで最も偉大な仕事の一つだからというので、無批判にそれを受け入れてしまっていいものだろうか? 「汝らわが条例を守るべし 汝の家畜をして異類と交らしむべからず 異類の種をまぜて汝の田野に播くべからず 麻と毛をまじへたる衣服を身につくべからず」--Le19:19
 いや、シェイクスピアくらいならまだよかったかもしれない。時代の神学をそのまま受け入れる精神は、十九世紀に至って世界が神を失ったとき、世界と一緒に信仰の暗礁に乗り上げてしまったのである。キルケゴールやチェスタトンが信仰を持ち続けることに成功し、少なくともその精神性においてはほぼ完璧にキリスト教的であることができたのは、彼らが、彼ら自身の信仰を確固として持っていたからであり、己れと世界とをはっきり区別すべきことを知っていたからである。そうすることを選ばないで、誠実にものを考え続けた人々は、結局のところ、十分にキリスト教的であり続けることができなかった。

 ドストエフスキー。「自分は十九世紀の子供である--疑惑と不信の時代の子供である。信仰への渇望が強ければ強いほど、その反対の証拠が見えてくる」
 そして苦悩の末、彼は「例えキリストが間違っているとしても自分はキリストを取る」と宣言するのだが--実際のところは、その言葉は彼のつもりに反して全く反キリスト教的なのである。
 昔、ドストエフスキーのような、形而上学的苦悩にどっぷりつかった世界をAは遠くから眺めていて、ああいうのこそが世に認められる文学というものなのだと、一応知ってはいた。そして、そういう世界にできるだけ近づかないように用心していた。けれどもあとになって、改めてAは思う--あれほど何の役にも立たない、何の意味もない代物もないものだと。彼らはただ無様に苦しみ続けるばかりで、どこへ向かっても進んでゆかれない。読者を神へ導くことによって神にとって有用な者となることもなければ、芸術そのものの力を神のくびきから解き放してやることもできない。それゆえ、我々がどう生きたらいいのかを示すこともない。そういう文学が評価されているのは確かである。
「第一級の知性の試金石とは、二つの対立する考えを心に宿しながら、しかも尚十分に精神が機能し得るか否かにある」
と、例えばライオネル・トリリングは<リベラル・イマジネーション>の中で書いている。
「文化の本来の有り様は闘争である。あるいは少なくとも論争である。ディアレクティックでなければ文化は何物でもない。そして、いかなる文化においても、ディアレクティックの多くの部分を自らの内部に取り込んでいるある種の芸術家が存在する。彼らの意義と力とは矛盾においてこそ存するのであり、そういう芸術家は自国の文化の本質そのものを内部に宿していると言えよう」
 彼はここで明らかに、そういう人々を、非難するのではなく讃えているのだ。自分の中で、二つの考えが対立し、相争うところのすべての作家たちを讃えている。ところで、そういう作家たちが<キリスト教的>であるなどということがありうるのか? キリスト教の本質とは、二つではなく、一つの考えだけを常に言いつづけることにあったのではないか?
 これだから、キリスト教作家が文化と関わり合いになるとろくなことはないのだ。
 たしかにドストエフスキーは矛盾の作家であった、浴室に女中を閉じ込めて強姦しておきながら、「もし真理を手にするに必要なだけの苦悶の定量を満たすために、子供たちが苦しまねばならないとしたら・・・」といった科白をイヴァン・カラマーゾフに吐かせることもできた。彼が実際に苦悩していたのも本当である。しかし、問題はそういうことではないのだ。そういう苦悩そのものに、どれだけの意味があるかということなのである。それは誰の役に立っているのか?

 そういう苦悩はホーソンもまた共有している。彼の作品には、この時代の知性が否応なしに背負い込まされたこういうある種のニヒリズムが、埋めようのない深い絶望が陰を落としている。
 彼は進歩の教説や科学万能主義に媚を売らなかった。彼は原罪を、人間のモータリティーを語るのをやめなかった。けれども彼の反キリスト教性は、もっと微妙な、それと判別しにくいかたちで現れている。彼の作品は、その絶望によって生じた虚を突くように、ヒューマニズムやロマンティシズムなどの反キリスト教的な価値がその中へひそかに持ち込まれるのを許しているのだ。というのは、どういうわけで彼は姦婦ヘスタをあれほどすばらしく魅力的に、英雄的なまでに力強く描くことができたのか。いやしくもキリスト教的であろうと努めるなら、書き手は恋の熱情の美しさを語っても、それが「間違った」種類の恋である場合、それを否定しなくてはならないのではないのか。
 多くの書き手はこの問題に直面する--例えばアンナ・カレーニナはヘスタほど立派な女ではなかったかもしれないが、その作品においてトルストイが直面したのも同じ問題だった。そして、そこではプロット的には罪人たちを裁いても、心情的には彼らの側に傾いて語られているので、それはキリスト教的な文学と反キリスト教的なそれとの危うい境界線に立つことになったのである。罪に対する同情と、神の掟へのひそかな疑念--文学に対してその独自の立場なんかを与えてやったがさいご、こうしたものが滑り込んでくるのを、誰もとどめることはできない。
 それはまた、多少事情は違うが、グリーンの<権力と栄光>に出てくる警部の人格者ぶりについても言えることである。
 同じ本の別の文脈で、ウィスキー・プリーストが過去を回想する場面がある。「司祭は、壁に頭をもたせかけて、半ば目を閉じた--彼は昔の聖週のことを思い出していた。そのとき、詰め物をした張り子のユダの人形が鐘楼にぶらさげられ、その人形がゆれてドアから外にはみ出すと、子供たちがブリキ罐やがらがらでやかましい音をたてた。教区の真面目な老人たちは、ときどき、そうしたことはやめたほうがいいと反対した。『わが主の裏切り者』とはいえ、そんな人形にして吊り下げるのは冒瀆だと、彼らは言った。だが、彼はそれには何も答えないで、その習慣を続けさせた--世界の裏切り者が笑い物にされるのはいいことだ、と彼には思えたからだ。それをやめさせたりすると、彼を、神と戦った人--望みのない戦いで崇高な犠牲者となったプロメテウスのごとき人--として理想化することはあまりにも容易だったからだ。」
 人はそれを聞いてびっくりするだろう--ユダがプロメテウスだって? ユダのこそこそした裏切りと、プロメテウスの雄々しい、悲劇的な力強さとに、一体どんな共通点があるというのか? それでも尚、共通点はあったのだ--なぜならば、彼らは共に、神に反逆する者だったのだから。
 ここに文学の問題の根本がある。我々は人がどんなふうに描写されているかということと、彼が実際にどんな人間であるかということを区別しなければならないのだ。
 <緋文字>のアンビギュイティー。この本については今までに膨大な量の注釈が書かれていて、ヘスタに関しても実に様々な立場から、いろんなことが言われている--彼女を悪魔呼ばわりしたD.H.ロレンスから、彼女にマグナ・マテルのアーキタイプを見い出したR.E.トッドまで。しかも、そのどれもがテクストの中に論拠を持っているのだ。想起せよ、ヘスタの精神性を描写するのに、書き手がいかに惜しみなく言葉を費やしたかを、にもかかわらず、結局のところ、ヘスタもディムズデールも架空の人物であり、ダビデやバテシバと違って実際にこの世に生きはしなかったことを。
 キリスト教の大きな特色の一つは、それが人に決断を迫ることである。人は神の前における自分の立場に関して、曖昧なところを残しておくことを許されない。彼は神を取るのか、それとも拒むのか、どちらかにしなくてはならない。問題は、書き手がそのどちらの立場を取って書いているのか、はっきりしない場合なのである。一体彼は、自分の本に出てくる登場人物についてどう思っているのか、彼らを断罪しているのか、それとも賛美しているのか? 書き手には自分の立場を表明する道徳的責任があるのではないか?
 <緋文字>を読みおえた者は、それによって己れの正邪についての感覚が揺らぎ、かき乱され、しかもそこへ何らの新しい秩序も与えられぬままに放っておかれているのを見い出す--精神衛生上、まこと望ましからぬ事態である。あの本が世に出たとき、華々しい賞賛とともに喧々囂々の非難が巻き起こったのはそういうわけなのだ。
 あるいはまた、苦悩の意味をめぐって。
「苦悩はホーソンにおいては中心的で、それは共鳴をおこす手段以上のものである。教育的、懲罰的、因果応報的、償い的である。
『たしかに』と<緋文字>の終わり近くに、ヘスタはアーサーに言う、
『たしかに、私たちは、この悲しみをもって、互いの罪を贖いました』と」
           --R.スチュアート<アメリカ文学とキリスト教>
 しかし、死すべき人間が互いの罪を贖うなんてことが大体可能なのか? アーサーの苦悩が意味を持つのは、それが最後の最後になって、彼に神の側を選ばせるからである。従って、ヘスタもまた痛ましく苦悩したが、神を選ばなかった彼女の苦悩には、何の報酬も、埋め合わせもない。神に仕えんと欲する者の苦悩は、神の目にそれなりの価値を持つ--「あなたへの犠牲は砕かれた霊なのです・・・」--しかし、苦悩はそれだけでは用をなさない。最終的に献身を果たさない限り、それだけでは献身と、それに則った人生との代用にはならないのだ。
 それでも尚、ホーソンはこうしたすべてのことを了解した上で書き続けたのだろう、という気がAにはする--それゆえに、彼の文章はあのような翳りを帯びたのであろうと。
 ハーバート・リードもまた、彼の非宗教性には気づいていた。<緋文字>論の最後のところで引用したリードの注解の続き、有限性と無限性とを表現するための、宗教の必要性について述べた次の部分で彼はこう続けている--「ホーソンは、当然のことながらこの種の支えを欠いていた。それゆえに彼は例の代用物で凌がざるを得なかったのだ。そしてそれは彼の読者のうちの実に多くの者に、その弱点をさらけ出す結果になったのだが--その代用物とは、シンボリズムである。」続けて彼は、<緋文字>をその最も顕著な例として挙げているのだ。
 Hawthorne, of course, lacked this support, and fell back on that substitute which has proved a weariness to so many of his readers--symbolism.

 あるいはメルヴィル。彼の場合、絶望はさらに大きかった。
 エルサレムへ旅行したとき、彼は聖地のあまりの荒廃ぶりに衝撃を受ける。彼の目にはその光景が、神を失ったヨーロッパ精神の痛々しい心象のように映るのだ。
「ニーバーやシュトラウスなんかくそくらえだ。彼らは我々から、人生の輝きを奪ったのだ。幻想を覚ましてやると言ったって、何がありがたいものか」
 Heartly wish Niebuhr and Straus to the dogs. They have robbed us of the bloom. If they have undecieved anyone---no thanks to him.

 そのよき友人であったホーソンは彼についてこう描写している--
「・・・どうして彼は・・・単調で陰鬱なこの砂漠を、性懲りもなく彷徨い続けるのだろう。私が彼を知ったとき以来、またそのずっと以前から、彼は彷徨い続けているのだ。彼は信仰を持つこともできず、不信仰に落ちつくこともできない。彼はまた、あまりにも正直で勇気がありすぎるので、どちらか一方に決めることもできないのだ」
 <モービー・ディック>は、ギリシャ悲劇そのものである。どうしてヨーロッパ文学というのは、神に対する信仰を失うとおしなべてギリシャ悲劇的になるのだろう。それはたぶん、もはや傍らに神がいなくて、それでも道徳的に生きようとする場合、取り得るのはそういう生き方しかないからだ。それは、一人でできるから。
 <モービー・ディック>は、はっきりと反キリスト教的である。

「メルヴィルは<モービー・ディック>を書き終えてのち、ホーソンにあてて、『私は罪深い本を(a wicked book)書き終わり、今は小羊のように汚れのない気持ちです』と書き送った。だが、もしもメルヴィルが自分の書いたものを正しいと感じていたなら、なぜ彼は<モービー・ディック>を『罪深い本』と呼んだのだろうか?
「あるいは罪深い主人公の本を書いたためかもしれない。確かに主人公はその罪深い行為のために罰せられる。だが、もし彼が英雄として、あるいは英雄みたいなものとして、同情的に、賛美するように描かれているとしたら? その場合は著者の目から見て『罪深い本』となるのだ。メルヴィルの場合は、『失楽園』のミルトンの場合を思い出させる。その詩のはじめの方ではセイタンが英雄的に見えるからである。事実、メルヴィルのエイハブの描写はしばしばミルトンのセイタンの描写をしのばせるようだ。両方とも堕ちたりといえども大天使のごとく、傷を負い、執念深く、復讐に一念を凝らした超英雄である。第二巻までの『失楽園』は罪深い本だと、ミルトンも考えたのではないだろうか? あの恐ろしい最初の幾つかの場面におけるセイタンの扱い方はあまりに同情的で、キリスト教的敬虔と厳密に一致しないのではないか? たぶんメルヴィルもエイハブの扱い方についてこういう気持ちを持ったであろう。」--<アメリカ文学とキリスト教>
 Melville said to Hawthorne, after the completion of "Moby Dick", "I have written a wicked book, and feel as spotless as the lamb. "If Melville felt justified in what he had written, why did he call "Moby Dick" "a wicked book"?
 Perhaps because he had written a book with a wicked protagonist. The protagonist, to be sure, is punished for his wickedness. Still, what if he is presented sympathetically, admiringly, as a hero, or something of a hero? Then perhaps the book becomes "a wicked book" in the eyes of its author. Melville's case recalls Milton's, in "Paradise Lost", where Satan appears in a heroic light in the early part of the poem. Melville's description of Ahab, in fact, often seems reminiscent of Milton's description of Satan. Both are superheroes, archangelic though fallen, battle-scarred, vindictive, bent on revenge. Might not Milton have thought that "Paradise Lost" through Book Two was a wicked book? Is not the treatment of Satan in those tremendous opening scenes too sympathetic to comport strictly with Christian piety? Possibly Melville felt this about his treatment of Ahab・・・
---R. Stewart, "American Literature And Christian Doctrine"

 そういうギリシャ的精神は、例えば<ピエール>なんかにも共通している。もっとも彼がキリスト教的なものに反逆することはない--彼が戦いを挑むのは、社会的な慣習、虚偽の上に築かれた平安に対してである。
 後にこれを映画化したレオス・カラックスは語っている--
「・・・彼はその重みを背負おうとするが、力がなくて小さいので失墜してしまう。しかし彼が悲劇の英雄になるのは、失墜しても運命を引き受けようとするからなのだ」
 こうしてここにおいても、最も重要な主題は神の栄光なんかではなく、迷い悩みながらも孤独に戦い続ける魂の戦いであり、個人の尊厳である。ヨーロッパ文学の歴史の本質的な部分を成してきたのは実にこのようなテーマなのだ。

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