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2014年01月30日

随想集Down to Earth ―わが心 大地にあり― 目次

<随想集Down to Earth-わが心 大地にあり->について
 2001年ころから2004年6月までの、ある恋の記録。


 随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 目次

<散文編>

1.主題

2.虚空

3.オリオン

4.樹木

5.セイレーン

6.灯籠流し

7.孤独

8.情交


<詩編>

1.

2.微風

3.

4.Down to Earth

5.漂泊

6.おくりもの

7.コスモス

8.夜曲

9.風になれない

10.






  

2014年01月30日

主題


   随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 散文編1

      主題


 あなた自身が詩だったのだ、私はただそれを羊皮紙に写し取ったにすぎない・・・

 そしてそれらの日々のあいだ、あなたは奏でつづけ、歌いつづけた。
 そのことばの私のうちに結ぶイメージはそのひとつひとつが一篇ずつの詩であり、その音色のひとつひとつは一枚ずつのガラス絵であった。
 それらは限りなく私の心に降りつもっていった、
 それらは限りなく美しかったので、私は何とかしてその姿をこの世界に刻みつけたいと願った。
 けれども私は長いあいだ、その方法が分からなかった・・・

 そしてそれらの日々のあいだ、あなたはずっと私の近くにいた、
 と同時にその心のままに、世界のあちらこちらを経めぐっていった。
 私の瞳に映ったその魂、そのたえまなく漂泊する魂は、男のものとも女のものともしれず、この世のものとも異界のものとも思われなかった。
 その不可思議な多様さが、私を惹きつけてやまなかった。
 おそらくそれだけ多くの声が、あなたの音色を通して語っていたのだ・・・
 いつの頃から、私はただあなたの音色ばかりでなく、それを通してうたっているほかのさまざまな音色、
 遠い過去のなかからそのおぼろげな姿を見せる、互いに異なったほかのさまざまな音色、
 それらにもまた耳を傾けるようになっていた。
 私はできればそのすべてを、汲み取ってかたちにしたいと願った。
 けれどもずっと長いあいだ、私はそれらにふさわしい器を、肉体を与えることができなかった・・・

 とはいえこれらの日々のあいだ、私はまったく気にかけなかった、
 なぜなら詩情は私の窓辺に満ちていて、
 それらはきらめく無数の泡つぶとなって、私の暁を浸していたのだから。・・・
 とめどなく流れゆく水の流れを追って、どこまでも駆けてゆく幼な子のように、
 私はただ夢中になってその音色を追いかけた、
 私はなんにも考えず、私はとても幸福だった・・・

 けれどもしだいに陽は中天からその場所を移し、
 やがてゆっくりと傾いていった、
 川おもての水泡の色が、梢に差しこむ金色の光がそのことを告げていた。
 私はそれに気づかなかった、
 群れとぶ鳥たちがねぐらをさして還りゆくのにも、
 西の空を染めあげた壮麗な夕映えにもまったく心を払わなかった・・・

 夕つ風をうす青み、その冷たさに、私ははじめて立ちどまった、
 川のおもては暗く銀色に澄み、葦の葉がさやさやとなっていた。
 そのとき私はようやく知った、なべての事物はいかに悠久に映ろうと、また刻一刻ととどめがたく変わりゆくことを。・・・
 季節はゆっくりとめぐって次の季節に場所をゆずろうとしていた、
 あなたの音色は少しずつ変わりつつあった、
 そうして私自身もまた。・・・

 私ははるかに思い見て、身ぶるいした、
 今はつと手をのばせば触れることのできる、この鮮やかな感覚が、
 いつかしだいにくすみはじめ、この河の水泡にのせて流れゆく黄昏の色のように、その紅とばらの色とが薄れゆくようにいつかしだいに薄らいで、
 やがては遠く、彼方へ運び去られてしまう日のことを。・・・
 ゆえにたしかに私は知った、今こそその姿を、その輪郭と色彩とを、はっきりと刻み残さなくてはならないと。
 そうして私には、ただペンを用いてするよりほかになかった。・・・だが、いったいどうやって?・・・

 そのとき私は流れゆく川の岸をはなれ、己れ自身の中深く降りていった。
 そこではもはや月の光も届かず、
 星々ものび広がった薄墨の雲がおし隠してしまった。
 そこではもはや誰も私を導いてはくれず、
 頼みになるものはといえばただ、一心に耳をすませたときにかすかに聴こえてくる、かの詩魔のよび声ばかり。
 ・・・しかもその声の、なんと遠く聴きとりがたいことか!・・・

 かくして長いあいだ、私は何も見えず、何もきこえなかった。
 私は手探りで暗闇の中を歩きまわり、狂気の淵をさまよった。
 私は耐えきれなくなって、闇の中に大声で呼ばわった・・・

 言葉はどこからかやってきた、私の底のどこか知らない場所から。
 それはその光り輝く指をもって、私の中に降りつもったあまたの旋律やイメージを、そのひとつひとつを拾いあげ、
 磨きあげては、ビーズ玉のように糸に通して織りなしていった、
 色あいがより美しくなるようにと、自在にその配列を変えながら。

 しだいにそれはそれ自身の調子をもって力強く語りはじめ、
 その色調はたがいに溶けあいながらいよいよさやけく、その響きはうち響いていよいよ高らかに冴えわたった・・・
 しだいに私は知るようになった、
 その言葉は私の中に降りつもった、あなたの音色そのものによって織り上げられたのだった、
 私のあとにしてきたあなたの音色が姿を変えて、こんどは私の中から流れ出したのだ・・・

 それはついにあふれ出てきて、みるまに私を呑みこんでしまった、
 私にはもう手の打ちようもなかった、
 それはそれ自身の欲するままに、私の全身を七色に染めあげ、奔流となって、 豊かな河の拡がりとなって流れていった・・・

 かくして私はあなたをひとつのエクリチュールとなしてしまった、
 おそらく人の道を少し踏み越えて、あるがままのあなたとして見るよりもより多く、あなたをひとつの主題として見るようになってしまった・・・

 できることなら、どうかこれらすべてのことで、あなたが気を悪くしたりすることのないようにと願う。
 そしてもしもこのささやかな詩篇の中に、あなたがかくありたいと願うあなた自身のイメージを、もしもその片鱗をでも見いだしていただけることがあるなら、私にとってそれにまさる幸いはない。

 ともかくももうこれ以上、私には抱えきれない、ひきとどめおくことができない。言葉はいま私の両腕を越えてあふれ出し、堰を切ってこの現象世界に流れこんでゆく・・・
                                                                     2003.Jan.

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2014年01月30日

虚空


   随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 散文編2

      虚空


 それはつい昨日のこと、それは千年前のこと、
 暗くかがやいて尾を引く彗星が、夜空をえぐって残した傷あとのように、
 私の中にいつまでも残って消えない痛み、
 その痛みゆえいまだ忘れない、きっといつまでも忘れない、
 あなたのその音色が私の中に描き出した、ひとつの鮮烈なイメージがあった。
 あなたの音色をさいしょに聴いた日にその像を結んだ、
 今も心にとりついて離れない ひとつのイメージが。

 それはひとりの乙女だった、
 雅歌にうたわれた かのうるわしの乙女、
 その鳩の瞳、その象牙のうなじ、ゆたかに波うつ亜麻色の髪よ、
 シャロンの野の花、ヘルモンのいただきに下る露よ。
 その姿は大地のようにいきいきとして力に満ち、
 なおも天穹のように限りなく心優しい。・・・

 ・・・だがいまその額には憂いがあった、
 その面差しはやつれ蒼ざめて、その眼はいま、何ということか、白い布帯をもって目隠しをされていた・・・
 彼女はいま目隠しされて粗布をまとい、裸足で人々のあいだを歩きまわっていた、
 燭台の灯りのわずかにもれる、石造りの回廊のあいだを、
 砂まじりの乾いた夜風の吹きさらす、素焼きの煉瓦の家並のあいだを。
 兵士たちは彼女を打った、子供らは嘲りの言葉をあびせて走り去った、彼女は足をとめなかった。
 その面影はつかのまの幻、ほとんどこの目にはっきりと見えた・・・

 彼女は手探りで歩み進んだ、
 精霊のように人々のあいだをすり抜けてゆき、
 手をのべては何かを、誰かを探しているようだった。
 その指先は試すように空(くう)を泳ぎ、
 その細長い、半ば透き通るような指先は、目に見えぬ空気のうごきを感じ取ろうとして心をはり詰めながら
 ゆれる蝋燭のあいだを、緑色に濁った酒瓶のあいだを
 ひれのある魚のようにゆらゆらとさまよっていった。

 ヴィオロンはすすり泣いていた、その唇には常ならぬ訴えが、
 ただならぬ思い、切々たる強い叫びがあった。
 その心のうちに慎み深く秘め隠そうとして、
 かえってそれはどうしようもなく はしばしからあふれ出た。

 それを耳にしたとき、私の心はずきりと鋭い痛みを覚えた、
 私の心は言いようもなくかきむしられ、引き裂かれて、
 いても立ってもいられなかった。
 ・・・何とかしなくては、でもどうしたらいいのだろう?
 それほどまっすぐに私の底まで刺し貫いた、それほど激しくゆさぶった、
 あんなふうに声高に語る音色を、私はかつて知らなかった。

 何にもまして不可解だったのは、人々の目にその姿も入らず、その叫びも聞こえないかのようにふるまっていたこと。・・・
 酒場の騒々しい暗がりのなかで、彼らは大声で笑い興じ、平然と杯を傾けた。
 互いのことを、ただ互いのことばかりを喋りつづけて、全く耳を貸そうとしなかった。
 どうしてそんなことができたのだろう、あんなふうに叫んでいるのに?・・・ 私は目を見開いて、その奇怪な光景を見つめていた。・・・

 かくてその叫びは誰も受け取る者のないままに、虚空の中を流れていった。
 あとからあとから流れきては、ゆるやかな渦巻模様を描いてゆっくりと解きほぐれていった、
 淡い銀色をおびた広大な虚空に沁みとおり、やがて滲んでは消えていった、
 なおもうちふるえるその響きだけ残して。・・・

 おぼつかぬ足取りで歩を進め、やがて乙女はこちらへ近づいてきた、
 もう少しで私の前を通りすぎる、そう、まさに今・・・
 けれどもそのとき、ああ、私はその手を取ることができなかった、
 私はとつぜん恐怖感に駆られて身を引いた、
 後じさりして、あなたをそのままに行かせてしまった・・・
 私は怖れたのだった、へたにあなたに手を触れて、その魂の端のところをうっかり壊してしまいでもせぬかと。

 なぜなら私は知っていた、私はさいしょから知っていた、
 あなたがそんなにも切実に求めて、探していることを、
 それなのにあなたの探しているものを、私は持っていないのだと。
 私はまた知っていた、あなたはそんなにも心優しいので、
 あなたがあんまり私に近づいたら、私はきっとあなたのことを傷つけてしまうだろうと。

 私は心から願ったのだ、どんなにかそう願ったことだろう、
 私がそれを持っていたら、私がその人だったらよかったのに。
 けれども私はあなたのように強くもなく、純粋でもなく、心優しくもなかった。
 ただ無力感が私を打ちのめし、私の心はどうしようもない悲しみに沈んだ、
 ゆえに私は心の中であなたに告げた、
 私のそばへ来てはいけない、どうぞ私から離れなさい、
 いまだ二人が出会わぬうち、私があなたを損なわぬうちに。・・・

 夜明け前、その音色は満たされぬ空虚を抱えたまま
 城壁の外へさまよいいで、
 露にぬれた青銅色のオリーヴの園を抜けていった。
 軽やかなひずめをもったけもののように、
 青草の上にその細いあしあとだけ残して。
 ・・・ほかにいったいどうすればよかったのだろう、
 私はただそこに立って、心をかき乱されながら見ているしかなかった、
 あなたがひとり、冷たい荒野の中へ踏み出してゆくのを、
 茫漠とうち広がった、石ころだらけの不毛な荒野へと分け入ってゆくのを。
 私はそこに立ち尽くし、耳もとで風がひゅうひゅう鳴る音をきいた。
 風は遠ざかりゆくあなたの衣をはためかせ、その裾をひるがえした。
 あなたのその亜麻色の髪が、吹き上げられて四方に散った。
 朝の灰色の翼がゆっくりと広がりはじめ、石版でできた空にさしそめる石榴の血のひとすじ、沈黙をことさらに際だたす、岩山のガゼルの呼び声、
 そしておそらく自分でも気づかぬうちに、私は一歩を踏み出していた、
 あなたの姿を追って、同じ荒野の中へ踏み出していた・・・

 そしておそらくその日からだった、
 その音色のとりことなってしまったのは。

                        2001.Oct.

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2014年01月30日

オリオン


   随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 散文編3

      オリオン

 かくしてここは自分の場所ではないと、自分の生は彼方にあると、まだ見ぬ北の地の青くうねりゆく丘陵や、広大な小麦畑で鎌ふるう農夫たちの姿をはるかに思い見ていた少年の日のあなたのもとに、ある夜その夢は届けられたのだった・・・いくとせの霜を重ねても色あせることのない、眼前でぼうと光りかがやいたオリオンの三つ星、人が地上でのぞみうるところをとおく越えて、信じがたくあかるく輝いたかの星々の。・・・おそらくその夜、あなたは暗い翼に包まれて、白い層をなした大気圏をもつき抜け、天界と接するガラスの丸天井の近くにまで運ばれたのだった・・・
 あなたは目を見開いて見た、その光景は一生忘れえぬ強い印象をもって、あなたの瞳深くに刻まれた・・・
 あなたは言った、そして目覚めたとき、何ともことばに言い表しがたく、胸のうちに澄みきった清々しさを覚えたのだと。・・・何かいいことの前兆だったのだろうか、そのあと何も、いいことなどなかったけれど。
 そう言ってあなたは笑った、いったい誰がそんなことを言えようか、かくまでに妙なる音色を、天使たちの嘆きと歓びの歌を、そのまま紡ぎとったかのようなその音色を生み出しえたというのに。・・・そう私は言おうとして言えなかった、そのときはまだ。
 かくして心の住まうべき場所を求め、彼方にある生を求めて、ある朝港から出る船に乗りこんで、大きくなったあなたは出かけていった、そうして長いこと戻ってくることはなかった。経めぐった国また国の旅空のもと、あなたはどんな風景の中に身を置いたのだろう、どんな人々に出会ったのだろう。・・・かの地では光の質感も違っていた、空の色も見たことがなかった。さえぎるものとてない広大な荒野を、あなたはひとりさまよい歩いた、なだらかな起伏をえがいてどこまでも連なりゆく、風の吹きすぎるヒースの丘を、草深く生い茂った谷あいの小道を、ただどこまでも辿っていった。晩には安宿の炉端に集い、踊る火影を眺めては、ざらざらした床の上でとりとめもなくあれやこれや語りあった、つれづれに語りあかした幾つもの夜を重ね、幾多の出会いがあなたを変えていった。・・・なおもいづちへ赴こうと、守りの星はたえず船首にかがやいて羅針盤の針となり、あなたの航路を導いた・・・
 とかくはるかな道をゆくうち、よけいなものはみなあなたから剥がれ落ちてしまった、この国に暮らすうち知らぬまにとりついた、垢や汚れや、石灰質の殻のかたまりは。・・・それらはぼろ布のきれはしのようにこなごなに砕け、ちぎり飛ばされてなくなってしまった。吹きさらす風は生の本質を剥き出しにして見せ、あなたは今や、ほんとうに大切なもの、いちばん大切なものしか心に掛けなくなってしまった。・・・
 けれどもある日とうとう一つの声が、オリオンのかがやける星が、打ち棄てられた過去の情景の中からあなたの名を呼んだ。思いもかけぬ呼びかけだった、戻ってゆくのはひどい難儀だった・・・ 道のりははるかに遠く、砕け散る荒波は高かった。けれどもあなたはどうしても、その声に従わぬわけにいかなかったのだ、かなたから呼びかけていたのはあなたの血、もうひとりのあなた自身だったのだから。・・・ こうしてあなたは還っていった、こうして今やあなたは知った、かつてそこから逃れ出たいと激しく願った、属したことのなかったはずのその場所が、たしかにあなたのいしずえを築いたことを。
 あなたは語る、ふいと甦った幼き日の記憶、傍らできいた祖母の声のひびきを、手を引かれて歩いた川べりの土手のことを。あなたは思い出す、長屋の立ち並ぶうす暗い裏通りや、どぶ川の淀んだ流れのことを。あなたは今や己れのうちに感じ取る、親や先祖の歴々のうちを流れ、川の支流のように脈々と流れつどってきたその不可思議な血の力を、それが今ある自分を動かしているのだということを。・・・ それゆえあなたはそれを肯った、それよりほかに道は残されていなかった・・・ ここにおいてなおも旅路ははてず、ゆくべき道のりにはおわりがないと、知ってはいても。
 かくしてあなたの経てきたものすべて、そのはるかな出奔と回帰との道のりが、抵抗と葛藤の激しさが、いまあなたの音色に あふれるほどに豊かな深みを与えた。かくも痛ましい分裂を、かくも埋めがたい断絶を、うつくしい華はその糧として求めたのだ・・・
 かくしてかの夢は約束をたがわなかった、あなたはまばゆくうち光るオリオンの、予示したものをまさしく享けた、そのすべてを、そしてなおも歩みつづける限り、さらに多くを。・・・ さは一日にして成るローマにあらず、願いの叶う魔法のランプにあらず、さらによきもの、価値あるもの、この世でただひとり、あなたにしか生み出しえなかったその音色を。かく長い年月をかけ、苦しみながら生み出されたもの、日の下における新しきもの、それよりほかに、およそよきものなど たえてあろうか?・・・ かくてそのような人と、あなたは私の目に映るのだった、幸運の星のもとに生まれ、そのことばを自ら成就してゆく人と。・・・
 ゆえにいま、心より願わくは、
 なおも届かぬ高みを仰ぎ、おわらない旅の途上にあるあなたの上に、
 かの星のかがやける光が ひきつづきとどまるようにと。・・・

                        2002.Apr.

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2014年01月30日

樹木


   随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 散文編4

      樹木

 それらの遠い日々にあなたの見たもの、あなたの目の中に棲みついた光景、あなたの指先に触れた魂、それらと同じものを結局のところ私もまた見ていたのだろう・・・ というのは、彼らの血は我々の血、彼らのかたちをもって我々は深く刻印を身に受けているのであり、それゆえに我々なべてはひとりひとり、そのイメージを己れのうちに宿しているからだ・・・
 私は知らなかった、なぜにあなたのその調べが まだらに降りそそぐ日の光を、灌木や葦むらを浸してたゆとう川のおもてを思い出させるのか、そしてとりわけ、複雑でこまやかなパターンを織りなした 冬の梢のイメージを、私の心に呼び起こすのか。
 そのイメージは呪文のように執拗だった、その枝々のかわいた質感を、ざらざらとしたチャコールグレイの色あいを、白い冬空の冷たさを、私はほとんどこの手のうちに感じとった。そのほそやかな指先は 微かにうちふるえた、いくえにも果てしなく枝分かれしながら伸びひろがって、しまいに天空を、私の心をすっかり覆い尽くしてしまった・・・
 私は知らなかった、それらの遠い日々に、おぼろな光のなかを踏みいだしては、驚異と賛嘆の念にみちて彼らの姿に注がれたあなたのまなざしを、こうしてあなたの瞳の底に焼きつけられたその面影を。彼らはあなたを愛して、幼いあなたの耳に秘密の言葉をそっと囁き入れた。・・・
 我もまたアルカディアにありき、あのころ梢を飾った木の葉の一枚一枚、その小枝の描くラインの一本一本には、みな隠された深遠な意味があって、何とかその淵をのぞきこもうとはかっては、その姿をあかず見つめつづけたものだった。・・・
 それから私はそのもとを去った、ひとたび離れていたあいだ、私は激しく恋い焦がれた・・・ 彼らの住まうその広やかな地、翼の端をどこへもぶつけずに羽ばたくことのできる土地に、かなたからそのよび声のひびく、大枝を張り拡げたみどりの森に。私は心を解き放ちたかった、私は平衡感覚を失い、どっちが北だか分からなくなっていた、見ることも聴くこともできず、息をすることもできなかった・・・
 帰りたい、帰らなくては、どうあっても帰らなくては・・・
 雨まじりのはげしい風の吹きすさぶなか、押し戻し、打ちつけようとするその力にあらがって、私ははばたき、力いっぱい翼をひろげて飛びつづけた。いくどもなぶられ、流されながら、けれども私はおそれず、不安に思いもしなかった。なぜならその風はすでに生あたたかく、木の芽の香りのする風だった・・・
 戻り来たのは卯月はじめ、小雨に煙る原野をどこまでも歩いていった、かの忘れえぬ朝のこと。・・・ものみなすべてが芽吹きうるおい、大地はかつてなく美しかった、足もとには野の花が咲き乱れ、かしこには羊たちが草を食んでいた・・・ ゆたかな空の広がりの下で、私ははじめて息をついた、思いははじめて戒めを解かれ、放たれて四方のかなたにまで散じていった・・・ 私の心は湧き上がる喜びをおぼえた、私は知らなかった、かつてあなたもこの道を通っていったことを、そうして同じ喜びを抱いたことを。・・・
 樹木たち、その寡黙な美、その不動の力、そのとほうもない忍耐づよさよ。彼らの何と我々のうちに生命の光りかがやく液を注ぎこみ、我々の力を回復させてくれることだろう・・・ 彼らは我々よりも高貴な種族なのだ、神々の子孫たちなのだ。・・・
 けれども同時にまた、彼らは我々とよく似ていた、時として我々をも凌ぐほどに饒舌で、ゆたかな感情をもっていた、色あざやかな情熱と歓喜とに、荒々しい怒りと苦悩とにみちていた・・・ きのう私はダフニスとクロエの傍らを往きすぎた、抱擁せんとするその瞬間にその姿を変えられた、彼ら恋人たちの姿は凍りついた無言劇だった。・・・
 彼らの梢は我々の四肢、彼らの樹皮は我々の肌、彼らの樹液は我々の血だ、それらは何ら変わりない・・・ うたがいもなくはるかな昔、木と人間とは一つの種族だったのだ、いまとなっては悲しいかな、いかに遠く隔たってしまったにせよ。
 かくてこれらの日々、彼らのうちに身を沈め、彼らのそばで長いときを過ごすうち、私の目は再び開かれた、私の耳は再び彼らの言葉を聴きとることができるようになった。彼らはかくも私に語った、いのちについて、愛について、日の光と移り変わる雲のうごきについて。彼らはまたかくも語った、戦いについて、死について、天空と大地との壮大な回転について、そしてそれらすべてを語り継ぎゆく詩歌について。・・・ 私は知らなかった、かつてあなたもこの場所に宿り、同じ言葉に耳を傾けたことを。
 いくつもの季節が通りすぎてゆくあいだ、彼らはいつでもそこにいた、いつでもそこにいて教えてくれた、私が出ていって学ぼうとするたびに、ただひとときも たゆむことなく。彼らほど完璧な詩はかつて書かれたことがなかった、彼らは身をもって教えてくれた、詩とはかく書かれうべしと、その梢の描き出すリズムとパターンを、その葉の一葉一葉のひびかせる韻律と文体を、調和の中にいきいきとした躍動を、統一の中に尽きせぬ変化を、穏やかなこころよさの中に汲み果てえぬ深さを・・・ なべてよきものはかくのごとし、汝かく綴るべしと、さらばそは不滅ならんと。
 これらの言葉をきいた日に、私はようやく知ったのだった、かつてあなたも彼らから学んだことを、彼らから楽器の奏で方を習いおぼえたに違いないことを。あなたの中に重ねたくわえられた風景の記憶が、今あなたを動かしてその音色をつくり出しているのだということを。・・・
 欲望や残骸やコンクリートをごたごたと積みあげた町のかたすみで、私たちはとめどもなくグラスを傾け、語りあった。そうしながら私たちはいつも、互いの目の中に棲みついた風景を見ていた、互いの中に広がった空や原野をながめ、互いの中で梢がざわめき、風が吹きすぎてゆく音をきいていた。・・・
 あなたは語った、少年の日、はじめてひとりで列車にのって訪ねていった山々について、そのあいだを彷徨い歩いた樹々について、それからのちも旅してまわった、世界じゅうの土地について。 ・・・あなたは語った、アイルランドのオークの木について、多くの詩人たちがその姿を讃えてうたった、そのあまりに巨大なために何かしら異様な感じを与える、何かしら不気味でおどろおどろしく、それでいて神々しいようすについて、それをまだ見たことのない私のために、そのイメージを描き出そうとして言葉を探した。 ・・・あなたは語った、かなしい最期を遂げた桜の古老たちについて、彼らが去っていった今はもう、この地にとどまる理由はないと、あなたの心に感じさせた者たちについて。 ・・・あなたはまた語った、いつか住みたいと願っている、その心に思い描いた土地について。・・・
 そうしてあなたは私に言った、この場所の暗がりから、この町の景色の中からあなたを出したくなった、あなたを広い草原へ、金色に波うつ小麦畑へ連れてゆこう、あるいはみどりの苔をまとうた巨木のそびえ立つ、ほんものの森の中へ。・・・
 あなたがそう言った瞬間に、私はもうその場所にいた、その森の奥深く、滴るばかりのみどりの色にその空気までが浸された、はるかな太古の静寂の中に。あたりは鳥の羽ばたきのほかひっそりとしずかだった、梢に漉された日の光がまだらになって降りそそいだ、私はあなたの瞳の底を歩いていた・・・
 そうしてそんなことができたのだろう、何らふしぎはなかったのだ、我々のうちには彼らと同じ血が流れており、我々のうちには彼らのかたちが深く刻みこまれているのだから。 ・・・なべてその言葉に耳を傾ける者たちに、彼らはいつの世も同じ歌をもって語りかける、ゆえに幾千マイルの時空をへだてても、彼らは同じ親しい面影を宿して我々の瞳の底に住まい、ゆえにそのなかの景色もまた、水と雲とによってうずまいて流れてゆく、その端に端を連ねて、いつしか重なりあってつながってゆく。・・・

                        2003.Jan.

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2014年01月30日

セイレーン


   随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 散文編5

      セイレーン

 知っていたのに、よく知っていたはずだった、
 白壁のまぶしく照り映えるあの港町で、
 アポロの特別な恩寵を受けたかの都市で、
 老人たちは私に告げた、かの呪われた海峡を通り往かんと、
 旅の途にあって、舟路を進める者はみな、
 すべからく己が身を固く 帆柱にくくりつけおくべしと。・・・
 さもなくばその魔性の歌が彼を惑わして、
 ついには水底(みなぞこ)深くひきずりこむだろうと、
 そこでその骸は魚どもに食いちぎられ、その身はただ白い骨の数片となって、
 永久にその歌を聴きつづけることになるのだと。・・・
 そしてすでに多くの若人が、ある日この港を出ていったきり、消息を絶って久しいのだと。・・・
 知っていたのに、固く心に決めていたのに、
 いったい何をうっかりしていたのだろう、取り返しのつかない過ちを犯してしまった、
 つとその響きを耳にして 気づいたときにはすでに遅かった、
 あなたの調べは セイレーンの歌。・・・

 波のまにまに彼方からひびいてくる、切なく訴えるようなその調べ、
 たえまなく 高く低く流れつづけるその調べ、              
 それは瞬時にして私を魔法の輪の中にとらえた、
 船べりにしがみついて耳を傾け、激しく心かき乱されながら、
 これ以上聴きつづけたら壊れてしまう、知っていながら
 なおも聴かないではいられなかった、
 舵をもつ手はなおざりにされた、へさきは航路をそれて漂いだした・・・

 突然巻き起こった風の一陣が 水のおもてをくまなくわたってゆき、
 四方に荒波をかきたてた、
 不吉なむら雲が空を覆い、ほどなくたたきつけるような豪雨を、
 吠えたける大嵐をもたらした・・・
 とどろく雷鳴、ひらめく稲妻、神々の大いなる怒りの中で、
 船は木片のように翻弄された、
 帆布はひきちぎられ、舵はもぎとられた、
 めくらめっぽう海原を突っ走ったあげく、ついに波間に牙剥いた岩礁にぶちあげた、
 私は船が悲鳴をあげる声をきいた、そして粉々に打ち砕かれるのを。・・・

 渦まき、逆まく水の流れにとらえられ、
 私はどこまでも深くひきずりこまれていった、
 このままいったいどこまで運ばれていくのか、
 すでに岸からどれほど遠く引き離されてしまったのか、
 まるで見当もつかぬままに。・・・

 色んなものが耳のそばを通りすぎていった、
 船の残骸や、海草のきれはし、記憶や骨や貝殻のかけら、・・・
 大気のゆらめく光や、ごぼごぼいう水泡(みなわ)のひびきが。・・・
 色んなものが心のそばを流れすぎていった、
 にじみゆく映像や、夢の中で見た風景の断片や、・・・
 きらめくうろこをひるがえした 魚たちの群れが。・・・
 そしてそれらすべての向こうから 尚もとぎれとぎれにきこえていた、
 あなたの歌のかすかなひびきが。・・・
 その冷たさと苦しさとに、私はもう何も分からなくなった、
 やがてすべてがごっちゃに入り混じってぐるぐるまわりはじめた、
 もはや意識のない私の体を 波はその心のままに引きまわし、
 さいごの一撃で暗い水底(みなぞこ)に叩きつけた。・・・

 かくて私は横たわった、しずかに淀んだ岩のあいだ。・・・
 変化はそのとき起こりはじめた、
 そのとき私の体から銀色にゆらめくひれが生えいで、
 私の髪は藻のようなみどり色に変じていった。
 しゅうしゅうと音たてるこまかなつぶを身にまとい、
 そして私はその場所で、ふっと目覚めて見いだしたのだ
 今や自由に息つける己れを。・・・

 私はゆっくりと起き上がり、耳をすませた・・・
 あなたの歌はすでに遠く、そのひびきを私は見失ってしまった。
 私はそれを探しにいかなければならなかった。

 それから私は発って出掛け、水底のかなたこなたを経めぐっていった、
 多くの場所を訪ねては さまざまな生き物たちに出会った。
 岩棚の上で陽をあびて、珊瑚の櫛をふきならす人魚たち、
 沖の波間で法螺貝をひびかせる海獣たち、
 海草の森の中で 銀の竪琴をかきならす水の精たちの調べ、
 宮廷のサロンでは日夜宴が催され、
 その壁と柱とは ヒトデや巻き貝や真珠貝で飾りつけられて
 贅を尽くした調度に 趣向をこらした出し物が供されては、
 王や貴婦人たちを楽しませていた・・・
 その財宝は難破船から持ち出されたのかもしれず、
 その杯は犠牲者たちの骨で彫られたものかもしれなかった、
 だがそれが何だというのだろう?
 まばゆい発光魚たちの往きめぐるなかで、
 彼らは笑いさざめき、酒を酌み交わし、ステップを踏んで輪舞しつづけた、
 その姿はどれも美しく、その調べはどれも耳に快かった、
 けれどもそのどれ一つとして、あなたの歌のようではなかった。

 その足どりは辿りがたかった、
 あなたはどの場所にも縛られることを欲しなかった、
 心の赴くまま、極彩色の花々の群れ咲く山脈をこえ、
 海へびや深海魚のひそむ奈落の淵を抜けていった・・・
 心惑わすその歌を歌いながら、
 まさに驚異であり、不可思議であるところのその歌を歌いながら。・・・
 いったいどういうわけで、こんなにも揺さぶられるのだろう、
 私には訳が分からなかった、ただその歌しか聴こえなかった。
 ただひたすらにその歌を、あちらこちらと漂いゆくその調べを追いかけた、
 どんなに走っても決して追いつけはしないだろうと、
 知ってはいても ただほかにどうしようもなく。・・・

 うずまく波はあなたの衣、吹きわたる大風はあなたのマントだ、
 よじれながら降り注ぐ雹の玉ひもを束ねて腰帯とし、
 目をくらませる薄紫の稲光でその額を飾り、
 あなたは潮流の群れを従えて疾駆する、
 私の知らないどこか別の場所へたどりつこうとして、
 憑かれたように走りつづける、
 その月色の長い髪をなびかせ、白いうすぎぬのすそをゆらめかせながら。・・・

 けれどもなお私は知っていた、
 あなたのその悲しげな面ざし、うち沈んだその瞳を、
 あなたの深く思い悩み、その心の孤独のうちに、
 己れのもつ恐るべき魔の力に 少しも気づいていないことを。・・・

 あなたの心には あなた自身の憂いがあった、
 迷いと悩みとにみちた その暗く混沌とした魂が、
 あなたのそのどうしようもない孤独が 私の心に痛かった。
 ゆえに私は心から願った、
 私がそれを、その答えをもっていたらよかったのに、かくも悪意なきセイレーンよ、
 そうしてあなたの心を 抱きしめてあげられたらよかったのに。
 けれどもいま 私には何の力もなかった、
 私はあなたに 何もしてあげることができなかった。・・・

 ゆえにいま 我はわれにてひとり往かん、
 やがてここかしこで足をとめ、
 私はあなたが残していった旋律のかけらを拾い集めるようになった。
 それらをたなごころに繋ぎあわせては、何とか自分でもその通り歌ってみようとした、
 そうすれば私をとらえて放さないこの謎の中へ
 いくらかでも分け入ることができるかもしれないと。・・・

 こうしてその日から、私は波の間をさまよっては、
 あなたが歌っていたその同じ歌を歌うようになった。
 うねり逆まく大波も、激しい雷雨や大嵐も、もはや私を脅かさない、
 なぜなら私は今や彼らの一部、私の体は彼らと同じエレメントから成っているのだから。・・・
 私は風で身を装い、波がしらをそのふち飾りとする、
 かつてあなたがそうしたように。・・・
 陸のことは忘れてしまった、彼らの警告も無に帰した、
 かつて知っていた場所も、愛した人々のことも、いつしか心を去ってしまった・・・
 誉れ高きアポロンの都市よ、お前のもとにはもう戻らない!・・・
 何でそんな必要があろう、もはや何の用事もないというのに。

 けれどもただひとつ、私の底にあって尚もとどまりつづける名前がある、
 私はそれを忘れていない、
 さいしょに目指したこの旅の目的地、きっと往き着こうと願った場所を。・・・
 なぜなら私は知っているからだ、
 おとぎ話の中で語られる掟は、詩人たちには少しちがった仕方であてはまることを、
 我々はただひとたびだけ生きるのではなく、
 翼をもった鳥となり、うろこの光る魚となり、
 あるいはゆれる波や吹きすぎる風となって、
 さまざまに姿を変えながら またいくたびも生きゆくことを、
 それゆえ人のたどりゆく このはるかな道にあって、
 きっとあなたのその歌もまた めぐりめぐっていつの日か、
 かの金羊毛の島へと至る しるべのひとつに違いないことを。

 ゆえにまた かくもはるかな時を経て、
 私はきっと驚かないだろう、
 いつの日か つとかえりみて あなたの姿を
 自分の隣りに見いだしたとしても。・・・

                        2002.July

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2014年01月30日

灯籠流し


   随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 散文編6

      灯籠流し

     青梅の花火を見にいったときに。

 ・・・そのうす青やみの川べりの道を、せせらぎわたる木立の道を、私たちは連れだって歩いた、忘れえぬ かの 夏の日の夕べ。葦の根洗う川のおもては白く照り映え、耳の底さらさらと たえまなく流れゆく調べ、蜻蛉が羽を休める川原の石は淡い柿色、なめらかな茜色、あるいは白いすじもように波のかたちを刻まれた青むらさき・・・ 小ぶりなのをひとつ、拾いあげて横ざまにつと飛ばせば、水のうねあいに波ひとつたて 岩間の川蝉をおどろかす、まるで光るトルコ石のつぶが、水面(みなも)かすめて飛びすさりゆく・・・
 その宵方の土手の道を、山里とほき浅茅生の道を、私たちは手を取ってそぞろ歩いた、たぐひなく澄める かの おだやかな夕べ。みどりにうち重なった梢は蝉の声を降らせてますます色濃く、琥珀の精のすがしい蜜を、その芳しく野性の香気を地に充たし・・・ 木の葉のひとひら、なかば黄に、なかばみどりに、七宝のこまかなまだらを打ちながら、色あざやかに移りゆく そのみごとさに打ち捨ておけず、それをあなたに手渡した、苔むした小暗い道、羊歯の株、せりだした木の根、黒土の築地に守られたその細道よ。・・・
 いでや、木下闇をうちいでて、流るる瀬のうえ、踏みゆくほどにぎしぎしときしみなる橋の上へ、弧を描いてせりあがったあの橋のうえへ登りゆこう・・・ 木肌なめらかに、すり減った欄干に手を突いて眺めやれば、ごらん、谷あいのこの広がり、眼前にぽっかりとうち開けた、山並みの悠々たるこの連なりよ。・・・ 川のいろいまだほのかなミルク色をたたえ、水の音ひびかせて流れゆく、両の木立はゆきひろがって山を包み、みどりから藍に、藍からあさぎに、かなたへかなたへ、山肌のうち重なってしだいに青くかすみゆく、そのあわいから 昼のあいだの火照りをゆっくりと逃がしてゆく・・・
 空のいろは貝殻の裏がわの にぶい光宿したグラデエション、山ぎわに残るクリイム色のあかるみ、のみこんでのび広がりゆく 淡むらさきから菫色。・・・ その空の高いところを羽ばたいて、鳥たちがねぐらに還ってゆく、うかびあがる白鷺の白き翼、まぎれ沈む青鷺の暗き翼、・・・煤をまき散らしたように乱れとぶ燕たち、・・・烏や椋鳥たちよ。・・・ かくて佇みゆくほどに ゆっくりと宵闇の下りきて、川原の石の色あいもしだいに見分けがたく、両岸の木立のいろも暗く沈み、水のいろ空のいろも、やがてようよう沈みゆく・・・
 かくて民べのつどい来る、橋のたもとへ、川原のもとへ、ぽつりぽつりとつどい来て、橋をわたって下りゆく、幻のごとく、影絵のごとく 私たちのうしろを通りすぎて、腰の折れまがった老婆に手をひかれ、薄地の帯かざり 金魚のひれのようにゆらめかしたわらは女(め)ども、ますらおの羊羹色の甚平や、紅おしろいの若い娘たちが。・・・ そのざわめきのなかに、華やいださざめきのなかに、そこはかとなく湛えられた愁ひの色は、あるいはこの時分、この風の涼みゆえのそら目なりしか、行き交ふ民のはざま、ふり向いたあなたのその象牙色の肌に、そのつややかなる黒髪に、まといつき、漂いながらほぐれていった、湯上がりの石鹸の残り香よ。・・・
 日が沈んでしばらくしたあとの空のいろ、日が沈んでしばらくしたあとの河のいろ、その何ともうち言はれず 深み湛えたふしぎなブルー、ほのかに光宿せる幻惑のブルー、このいろをあなたに着せよう、ちぎれただよう雲の片はし、ゆらめく波の網目もようをも添えて、このいろを浴衣に仕立て、あなたの肩に着せかけよう・・・ 帯にはあの月のいろ、やはらかな乳白色に淡い金で、やや大ぶりの葦の柄を織りこんで、ふるえるように、ためらひがちに、灯の入ったばかりのランプみたいに、山あいからたったいま昇ったあの月のいろを配して。・・・
 ゆく夏のおわり、灯籠流し。・・・ 今宵人びとはつどい来て、せせらぎひびく川のほとり、とりどりに美しく染めつけられ、叶えられた祈り、遂げられた願い、もたらされた日の光と雨と刈り入れのときとに礼して 篤心のことば書きつけられたる紙灯籠を、川の神に手向けて流す・・・ 思い思い、川原に下りては水の瀬に置かんとて身をかがむ、その姿は祈るひとのそれにも似て 静謐な叙情をたたえ。・・・ ぽっつりとやわらかな光を放つ灯籠がその手からはなたれ、今しもひとつ、ふたつ、流れにのって流されてゆく・・・ 子供らは声をあげ、飛沫をけちらして瀬のなかへ走りこむ、岸づたひに並んで走ってゆく、そのよび声が川風にのってかすかに届く・・・
 闇のまさりゆくほど、しだいしだいに灯籠の数はふえ、あるいはたゆたいつ、あるいは流れにのって、川はばいっぱいに広がって流れゆく・・・ あるいはけざやにうち光り、あるいは心ぼそげにふるえつつ、そこの赤いの、向こうの青いの、手前の桔梗色、橙色、・・・檸曚色。 ・・・その光が水のおもてにうつってちろちろゆれる、どれもこれも、きっとあかるく灯しつづけよ、ゆめ その途上にやみ果てるなよ。・・・
 とおく川上から しじまを渡ってくる笛太鼓の調べ、いくえに連ねた赤いぼんぼりを背に、ゆるやかに踊るシルエット、えいえいと伝えられてきた流儀、はるかな昔から変わることのない 山あいのひそやかな祭り。・・・ 山のかたちの移ることなく、月の満ち欠けのたゆむことのないように、彼らの暦もまた同じ、悠久の相をたたえてつづいてゆく。・・・
 この村を私たちはゆき過ぎた、この山並みを私たちは宿した、数知れずふりつもった景色の底に。せまい山里に肩寄せあって暮らし、草深き通ひ路、そだの束 うず高く積みあげては往き来し、・・・鉈で打ち割る井戸の氷、うち傾いたわらぶきの屋根、わずかに切り開かれた花豆の畑。・・・
今も瞼によみがえる、柳の魚籠を腰に下げ、きらめくしぶきの間で釣り糸ひいた遠い夏の日、その光、いくたび通った草いきれの土手の道。・・・ 少年の日の私がよこぎって走りすぎたそのあとを、幼いあなたは自転車の荷台に揺られ、木もれ陽あびて揺られていった・・・ 月が大地をめぐるように、川の支流が出会うように、はるかな道のりを経めぐって いまひとたび、私たちはめぐりあった。・・・
 ゆく河の流れ、灯籠流し。・・・ 生々流転の営みのなかで、混沌と青くうずまく銀河のなかで、いまひとたび めぐりあったことの奇蹟よ。・・・ どんな宿世の契りが結ばれたので、つひにあやまたず、ゆきたがふこともなく、かく互いの腕のなかへ辿り着くことができたのだろう・・・ 己れのうちに宿せる火を私たちは守りぬいた、その紅きほむらを葦風に吹き散らすこともなく、さかまく滝壺に呑みこまれてしまうこともなかった。・・・
 ひと夏に燃えあがった恋を彩って花火があがる、いくつもいくつも大ぶりの菊が、そのやはらかな白金の花びらを夜空にひらき、すうと絵筆を走らせて 谷いっぱい、のびやかなその花びらを 藍染めの夜ぞらにひらき、・・・あとからあとから、それらはやがて天穹をおおふ枝垂れ柳となり、降りそそぎ流れくだる黄金色の驟雨となって、つひにはなごりの星のいくつぶとなりはてるまで、きらきらと 漂いながら、うち光りながら、その裾をひいて やがてしずかに消えてゆく・・・
 橋の下をかいくぐって灯籠が流れ、私たちの恋が流れる、この川の瀬にうかべて流れゆく、あなたはいちばんあざやかに、皓々と光を放つあの灯籠だ、いかな巡りあわせからかその速水をそれて ひととき淀みのなかにとどまった、私はあの小さな葦の入り江だ・・・ 欄干に佇んであなたの背を抱き、そのあたたかみをこの肌に感じ・・・ 願はくは、あな 往かずもがな、ゆかずもがな、今宵もあすも、願はくは あたうかぎり長きにわたっていつの日までも、この比類なきともしびがきっと この腕のうちにとどまるようにと。・・・

                          03.Aug.

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2014年01月30日

孤独


   随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 散文編7

      孤独

     リンドバーグ夫人<海からの贈り物>をテーマに。

 ・・・そしてまたいつもの暗黙の諒解だった、いつもの無言の約束だった、それはあの深夜のカウンター、夜も更けて、人びとが常よりもよけいに打ちとけて己れの心を語る、あの居心地のよい、赤唐辛子色のぼんやりとやわらかな灯り、すり減った厚板のカウンターだった・・・ 組みあわせた両の手の上にあごをのせ、その犯しがたい厳しさを刻まれた横顔のライン まっすぐ前へ向けたまま、あなたはしずかな口調で言った、・・・二つの孤独な魂ですよ。・・・あんまり、べたべたしていてもね・・・ かくも互いに遠く隔たりながら、互いの心を推しはからんとしては 同じ光をもとめてえいえいと語らってきた長きにわたるこれらの日々の、これがその結論だった・・・
 そしてこれらの日々、あなたの心は遠くナンタケットの青い海岸にあった、松林のあいだを潮風の吹きぬける、砂と貝がらと、水と空との果てしない広がりのほかにはただなにもない あのうつくしい浜辺に、あの白くあかるいみぎわに飛んでいた・・・ 季節はまだ早く、おもての夜風はまだ震えあがるほど冷たかったのに。・・・
 かのひとの記したその小さな書物、それはそれほどにまであなたの心を動かしたので、その日あなたはそれを鞄からではなく、上着のポケットから取り出したのだった・・・
 そしてそれらの日々、陽光あふれる浜辺の印象はすっかりあなたの心を奪ってしまった、その心を占拠してしまった、それであなたは松の木陰の小さな仮庵に私の姿を置き、その金褐色の髪が潮風に吹きなぶられ、波にぬれてはまた吹きなぶられるのを、塩気を残しながら吹きなぶられてはまた乾いてゆくさまを思い描いてみたりした、あるいはまた、浜辺の岩のあいだに身をうずめ、その肌に湿った白砂が押しつけられて、身を起こしてはぽろぽろと剥がれ落ちながらなおもくっついているさまを。・・・
 その島で少女は一人だった、ただ飛び交う鴎たち、押し黙って沖を見つめるペリカンたちだけが友だちだった・・・ 茫漠とうち広がった大気のなかで両腕を拡げて踊る、その喜びは誰も知らない、その哀しみは誰にも責めを帰されない・・・ 彼女の日々はその足首に打ち寄せる波のようにあおく澄み、しゅうしゅうと泡たてて砂地にしみこんではまたあたらしく生まれてきた、風のように林を吹きぬけては梢をざわめかせ、その赴く先はだれも知らなかった、そしてあなたのその心もまた。・・・
 孤独は海の貝がらのように、なかが空洞になったそれらはかくも容易に己れのうちに住まわせてしまう、風の音や砂つぶや海藻のかたまり、たまたま近くにいただけの、ほかの無数の小さな生き物たちを。・・・そうしなければいつまでも空っぽで、所在ないとでもいうように、あたかもそのそもそもの性質からして、どうしてもそのままではいられないとでもいうように。・・・
 孤独は鏡のある部屋のように、ものごとのすがたを何倍にも大きくする、妄想はふくれあがって天井にまでのびあがり、音は地下のコンクリのガレージのように反響して すっかり空間を埋めつくしてしまう・・・
 ひとりきりの時間を、ひとりきりの歳月を、あまりにも長いあいだずっとひとりでいたのちに見いだした私だったためだろうか、あなたの部屋の空っぽな椅子に、いつのまにやらどっかりと腰を据えてしまった私の面影、それをあなたはどうすべきだったのだろう?・・・
 ひとりでいること、それは時としてひどく無防備で、危険だ、流砂のように、たちまち飲みこまれてしまう、あっというまもなく侵されてしまう、ひとりでいるときの感覚のすべてを。・・・あなたは揺れ動いていた、あなたは分裂して、矛盾にみちていた、あなたの内面は統合されていなかった・・・ 常に葛藤なのだ、あなたはそう言っていたっけ、そう、恐らくあなたはそういう人だから・・・ 私へと流れ落ちてゆこうとする己れの心を、腹立たしく思う夜もあったに違いない、激しい波のさなかにあって、己れの感情に屈して私の背を抱きしめているあいだ、私はひどく心配して、そう、あなたを揺らさぬよう、あなたを動かさぬよう、あなたがあとで後悔するであろうようなことをあなたにさせまいとして、身うごきひとつせぬままにじっと息をつめ、あなたの心を見守っていたのだった・・・ 私へと傾きかけた心見つめ、あやうい深淵のふちにある己れの心を知って、あの夜の抱擁にどんな意味を与えるべきか、あなた自身深く考えていたのにちがいない・・・
 ・・・二つの孤独な魂ですよ、そしてこれがその結論だった・・・
 こうしてあなたは自分を守りぬいた、ひとたびは軌道をそれた惑星のように奇妙にも近づいたこの二つの道すじは 決して交わることなく、そしてふたたび遠ざかってゆくことだろう・・・ あなたはいっときの迷いを断ち切って、再び己れの道を歩きはじめるだろう・・・ こうしてあなたは正しかった、打ち寄せた波のはば広い、透明でなめらかな層の下でさあっと砂が退いてゆき、みるまに私をあなたから隔て はるか遠くへと運び去ってゆくような、どうしようもない淋しさを たとえ私に感じさせたとしても。・・・
 それゆえ私は行かねばならない、あなたのそばから去らねばならない、あなたを安らかにあらしむために、これ以上かき乱さないために。・・・ なぜならあなたのその孤独は、あなたのうちにぽっかりと居座った空虚は、私の心に滲みて痛いのだ、あなたの孤独のかたちはガラスを透かして見るように、否が応でも生々しく、はっきりと見えてしまう・・・ それとも、こんなにはっきりと見えるのは私だけなのだろうか?・・・ あなたの孤独は、恐らくあなた自身の方がまだ耐えやすいのだろう、あなたはそれをこれまでずっと持ち運んできて、慣れているから。・・・
 ひとりでいること。ふたりではなく。・・・
 時にはふたりで、三人で、あるいはもっと多くの人びとのなかで過ごすとしても、さいごにはまたひとりになること。・・・
 曖昧さに甘んじるということ、変わりやすさに堪えるということ、自分の立っている場所が、浜地の砂のようにたえず動きつづけることに慣れてゆくこと。・・・ 希望しないこと。所有しないこと。・・・ 恐らくそれが正しいあり方なのだ・・・ あなたの日夜通う、さびれた裏通りのごたごたと立てこんだ路地、非常階段の陰や荒れ放題の中庭や、さびついた水道栓のあたりに棲みついている、あのぶちや縞もようの美しい獣たち、その日の食物を手に入れるのも戦いであって、飢えと寒さはいつものことであり、誰もが羨むような自由を手にしながら、明日の命の保証はなく、やにだらけの、眼光鋭い目をして、敏捷で、人になつかず、うす汚れて不ぞろいな毛並みをした あの獣たちのように。・・・
 ひとりでいること。ふたりではなく。・・・
 それで事足りているわけではない、そんなことはありえない・・・ 耐えているのだ、必要なものが手に入らなくても、それで何とかやっていこうとしている・・・その気骨、そのりんとした風情は美しい。・・・ 生きてあること、それはつまり 何かを欠いているということではないのか?・・・ 生きてあること、それはつまり 痛みを感じているということではないのか?・・・ すっかり満たされてしまったとしたら、それはもう死と同じことではないのか?・・・ けれども尚、あるべきものを欠いたまま、痛みを感じつづけたまま ひとは無限にずっとやってゆけはしない、それゆえに、そう・・・ この世のいのちに限りがあるのは、おそらく神々の優しさなのだ・・・
 これからまた 今までのように、夜昼あなたの窓辺を訪れる さまざまな種類の孤独があることだろう、それらは精霊たちのように、よいものもあれば悪いものもある、あるいは人間どうしの面倒なごたごたからあなたを引き離し、あなたの四方を壁で囲ってひとつのことがらに打ちこませる孤独、雲のいろ梢のかたちに心を留めて深く思いを至らせる孤独、あなたの想像力を広げさせて天の高みにまで導く孤独がある・・・ それらの何物にも代えがたい特質のゆえに、あなたはそれを大切に守ってきたのだ、じっさいあなたの成してきた仕事の大部分は、孤独のうちにしか成されえなかっただろう・・・ 無心に遊ぶ子供の孤独、それは孤独というべきだろうか、否、むしろ世界のほかのすべてのものからの自由というべきではないのか?・・・ そんなふうにいい塩梅だったのに、いつしかだんだんと苦い味のまじってくることもあるだろう・・・ 人を毒するたちの悪い孤独もある、しらじらとした午後の曇り空の孤独、雨のざあざあ打ちつける深夜の孤独、びしょぬれの傘、いくつかのつまらない野暮用、何でも自分でやらなくてはならないことの緩慢さ・・・ この世の誰にも待たれていないことの孤独、あなたのフィドルが響いていない間の孤独、それが歌っているときには影をひそめているが、死んでしまったわけではなく、その弓が置かれるや、またゆっくりと地平を覆いはじめるその孤独は。・・・
 それはまた月のようにこの世界のおもてを渡ってゆき、あまたのイメージのかけらを、ちょうどそこへ光があたってきらめいた、いくつもの美しい断片を集めてゆくだろう、かくて再び孤独は鏡のある部屋にそれらを積みあげ、それらの姿を反響さすことだろう・・・ あなたの窓辺に、波はまた寄せては返し、寄せては返して、流木や貝がらのかけらや、あらゆるものを打ち寄せることだろう・・・ あなたの生にあまりにも深くなじんで、ほとんどあなたの一部となってしまった、あなたはあなたのその孤独を、舟にのせて漕ぎ進んでゆくことだろう・・・
 ・・・そしていつか、多くの歳月を重ねてのち、数知れぬ波を数えてのち、あなたの舟がついに辿り着く休息の地がある、もはや誰にもかき乱されることのない安息の地、詩人たちの魂の憩いつどうという かの西の最果てのくに、ひと呼んでトゥアハ・デ・ダナーン、かの地にあっては身にまとうものはただ夕映えの黄色い光のヴェールのみ、頭を飾るものはただ軽やかな蔓草の冠ばかり、人は裸足のままに歩きまわり、草の上にステップを踏み、地上の煩いごとをすべて忘れ去って笑いさざめき、杯を汲み交わすという・・・ かの地にあって私たちは互いの姿をそれと認めるだろうか、私にはあなたのことが分かるだろうか?・・・ きっと分かるだろうと私は思う、そしてそのとき、我々はもはや今ある立場も役割も捨て、何もよけいな飾りをつけない、素のままの魂に向きあうことができるだろう、今はただ慎み深さや、互いへの気遣いすらのゆえに隠されている、ありのままの姿を見ることができ、多くの事柄について、ありのままの言葉で語り合うことができるだろう・・・ きっとそうなるだろうと私は思う、そしてそのとき、二つの孤独な魂は、真に互いを見いだすことになるだろう・・・ その日を遠く思い見て、いま私は、私もまた 同じ孤独を運びゆくのだ・・・

                         03.Apr.

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2014年01月30日

情交


   随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 散文編8

      情交

   トマス・ハーディの<リールを弾くフィドラー>からの翻案による。

 そのさいしょの日に、はじめてあなたの音色を耳にしたときに、それはすでに情交だった・・・ 物語は遅れてやってきたにすぎない、ほかの幾千のそれと変わらないその物語は。・・・
 あれはオコンネルの家の収穫の祝いの席だった、溢れんばかりに実った 金色の小麦の香りも新たな暖炉の間、思い思いの楽器を手にして集うた村人たちのその中に、さいしょは目立たぬ暗がりに、荒野を吹き寄せられてきた一枚の枯れ葉のように どこからともなく現れた流れ者のあなたはいた・・・ いつに変わらぬ陽気な宴、弓は舞い跳ね、鼓笛は踊り、老いも若きもこぞって床の上にステップを踏んだ、にぎやかで騒々しいさざめきのうちに酒杯の重ねられ、とぶように時間の過ぎてゆく・・・ かくていつしか夜も更けて 話の種も尽き、音楽もとだえて人びとの散ってゆき、盛大な炎も踊り尽くして ただ灰を透かしてあかくうち光るばかり、すっかり閑散として 祭りのあとの、あのどんよりとしたもの悲しさの淀み沈むころ、・・・問はず語りにしずかに弾き出した そのゆるやかな もの悲しい調べ。・・・ 風吹き渡る荒野の音を そのとき私はこの耳に聞いた、露にぬれたヒースの花の冷たい手ざわりを たしかにこの手に感じ取った、大理石もようの陰影を打ち出した曇り空を まざまざとこの目に見た・・・ あんな音色はかつて今まで聞いたことがなかった。・・・
 ロッホ・ブキャナン、谷あいの小さな村。・・・ 私たちのこの世界で、私たちの代に至るまで 私たちはなべてこんなふうに生きてきた・・・ 父祖の代から これが私たちの生き方だった、その一生を自らこの地に繋ぎ留め、野に出ては鍬を振るい、炉端には糸を紡ぎ、狭い輪の中で愛したり憎んだりして 幾歳月の雨風を肩寄せあってしのぎあい、かくて抜けようもなく その刻印をおのが身に刻んできた・・・ 私たちには私たちの 黒く煤けたパン焼き窯があった、手になじんだつるべと素焼きの壺とが、数知れぬ教えと習わしとが複雑に織りなされてできあがった 生の枠組みがあった・・・
 あなたは違う、私たちの一人ではなかった、あなたはこの囲いのものではない黒い羊、毛色の違ったよそ者だった・・・ 風に吹かれるよもぎぐさ、彼方から此方へと彷徨い歩き、携えるとてはただ わずかな手荷物と一本のフィドル、草の根を枕に 久遠の郷愁を追いゆくもの・・・ 明日の身は知らず、ただ大いなる自由だけを喜びとし そのマントは暁の霧にまぎれ、その足どりは野の獣のごとく、ドアが開いて入ってくるとき、あなたはその身にまとうてみずみずしい樫の木の大枝の、野性の興趣を運んできた・・・
 かくてあなたは私たちの一人ではなかったのに、いったいどういうわけだろう、あんなにも あなたの紡ぎ出す調べに私の弦は共鳴してふるえた、あたかもそれを耳にした瞬間に、ひとすじの黒羊の血が自分の中に、この自分の中にも流れることを知ったかのように。・・・ あなたは目を閉じてずっと弾きつづけ、私には目もくれなかった、それなのに、ちょうど心の中で考えたことを 通りすがりにぴたりと言い当てられたように、私は思いがけなさにどきっとして振り向いた・・・ あたかもずっと気づかずながら、そしてあなたと同じように、自分もまた孤独であったことを、突如として悟ったかのように。・・・ 用意するひまもなく、それは心に入ってきた、私の要塞の閂は引き抜かれ、石の上にかたりと落ちて響きわたった、あっというまもなかった、我に返るひまもなかった。・・・ この突然の侵略に戸惑い、一瞬 口にすることもできないようなイマージュが暗闇のなかに浮かんで消えた、何かやわらかいオレンジ色の光の オーロラのようにからみあうイマージュが。・・・
 その弦の上にあって、なおもあなたのその指は 何と優しかったことだろう、うなじに指をすべらせるように、あなたは弦に指をすべらせる、心のひだに分け入るように、ひとつひとつの音をそんなにも大切に弾く、ただひとつとて決してなおざりにしない、すみずみにまで魂を打ちこめて・・・ その調べは滴り落ちる蜜のように甘く、この世ならぬ美酒のように人を酔い惑わす、それは荒ららぎだつ海をもしずめてあおく澄ませ、島々に魔法をかけて時ならぬ花を咲かせ、石の心をもとろかして思いのままに操っただろう・・・ なおもその内に秘めた思いの激しさは幻獣のように この地上の躯をとおく離れ去って、人知れず 月あかりの岩棚に身をのばす、そのしなやかにのびた背中のたてがみ 浮かびあがらせる逆光の銀色のシルエット、首すじを逆さになであげられるように 思わず身震いさせるほどに 極端に駆け上がりゆくその旋律の、切り立った岩山をひらりひらりと飛び移るように、あなたはそのてっぺんから手を延ばして 星をひとつ取ろうとした。・・・ 
 そのかみ、教会から呪われ、追放されて、陰の身に、流浪の身に甘んじたフィドル弾きたち、酒場の暗がりのなかで心をかき乱す調べを奏でては 敬虔な娘たちをたぶらかし、いつのまにかその心のたがを外し去って熱い衝動のなかへ引きずりこんだ辻音楽師たち、荒野で秘密の修行を積み、悪魔と契約を結んで、人間業を越えた不可解な魔法を手に入れた詩人たち・・・ 伝説に聞く彼らの音色がどんなものだったか、私は今たしかに知った、彼らと同じ血をたしかにあなたも受け継いでいた・・・ 彼らを教会が排斥したのももっともなことだ!・・・ いったい誰があなたに、そんなふうに弾くことを許したのだろう、そんなふうに弾いてもいいと言ったのだろう?・・・ その響きを人々は認めないのか、いったい気がつかないなんてことがあるだろうか、どうして彼らはあなたに自由に弾かせておくのだろう、野放しにしておくのだろう、こんなにも危険で有害な、取り返しのつかない過ちに誘う調べを?・・・
 それでもなお、あなたにはまだ 何か足りないものがあった、私にはそれが分かった、あなたは何かを探していた。・・・ はるか遠くを思い見て 憑かれたように探し求める、それはたぶん 一角獣の角の先についた宝石のように この世にないもの、決して見つかるはずのない愛を 永遠に求めつづけているような、・・・ そして私の中にもうひとつの空虚を見いだして まるで私を、この私を探しているようだった・・・ 何と言い表したらいいのだろう、その 胸をかきむしるように切ない調子を、ひたむきに疾駆するような 暗い森の中を 火の馬にまたがったゴブリンの乗り手、こずえの影ごしに飛びすさる、妖しいゆらめき、ほの光る艶。・・・ とぎれなく 高く低く歌いつづけ、奏でつづける、ときどき掠れがちに、心の高ぶりにつれてますます速度をはやめ、まるで伝えきれぬことばかりが溢れ出て胸を塞ぎ 言葉にならずに、ただその吐息だけが辛うじて思いを伝えようとするかのように ときどき掠れながら、奏でつづけるその旋律がこの胸を突き通し、痛いばかりに刺し貫くとき、それはすでに情交だった・・・ それは私の心を貝がらのように守っていた 私の孤独から私を引き剥がし、もしかしたらもう一つの魂を、もう一つの同じ魂を見いだしたのかと・・・ それは私を打ち落とし、それは私を屈伏させてしまう、それは私を内部から浸蝕し、炎のまわりでみるみる蝋が溶けてアラベスクの浮き彫りをなすように、私はあなたの音色に溶かされて白い半透明のアラベスクとなった、その金色の光をかこんで私の心はいくつにも裂かれ、あなたのまわりを輪舞する・・・
 かくて私は焔の烙印を受けた、この身を焼かれる苦しみを持て余し、あなたの面影に焦がれて何軒の店を梯子したことだろう、幾夜虚しく待ちつづけたことだろう・・・ 窓に灯るやわらかなオレンジのあかり、身内のように気心の通じた村びとたち、心楽しいざわめきがあり、酒杯と陽気な音楽とがあっても、あなたがいなければ ただ何もないに等しかった・・・ 月あかりの五マイルの道 歩いて帰る、夜明けにはまた起きて家の仕事をするために。・・・
 かくてはじめてあなたの音色を聞いた、あの日以来 世界は旋律を奏ではじめた、まるでいっせいに小鳥たちのさえずりはじめる 暁の訪れを受けたように。・・・朝の窓辺にさす光にしばし佇み、あなたを思う、胸にあふれるはかの調べ。・・・ どこにいても、何をしていても、私は世界があなたのフィドルに合わせて歌っているのを聞くようになった。その面影を抱いて村の辻々を往きめぐるとき、荷馬車はあやういところで私をよけて泥水と罵声とを浴びせかけ、乳搾りの娘たちは私をからかった、頭の中に藁くずでも詰まっているようだと、まるであらぬ方を眺めては ぼんやり思いに耽っているといって。・・・
 かくてあの日以来 世界はその色相を変えた、まるで妖精の目薬を この瞳にふりかけられたように、それは突如この目を見開かせた。・・・ 谷間へ下ってゆくとき、燃え上がるような紅や琥珀に色づいた木々の梢の、その葉の一枚一枚はあなたの旋律をひびかせる音色だった、光に透かした葉脈の繊細なラインに至るまで、それらの打ち重なり、まだらに折り重なってまじりあい、豊かにどこまでも拡がってゆく、その息を呑むほどのあざやかさは、溢れんばかりのその豊かさは まるで信じがたいほどに、それは魔法の杖で私を打ち 圧倒する、どうしていいか分からないほどに。・・・ やがて季節の移り過ぎて 木立がしだいに色を失ってくすみ、すっかり葉を落としてさむざむと沈みゆくころに、炉端でまわす糸車のしずかなリズムに再びあなたの旋律が響きはじめた、あたらしい春のために力を蓄えながら眠る大地の歌が、しずかに力強く。・・・
 単調な毎日のつづくこれら長き冬の日々、私たちのところに あなたはひきつづきとどまっていた。なおもこれらの日々、あなたが弾くと聞けば、どんなに遠いところへでも出掛けていった、流れ者のあなたが、私の知らぬまに いつまた別の土地へ去ってしまうだろうかと怖れながら。・・・ あなたが弓をつがえて奏ではじめ、瀟洒な蔓草もようで飾られた そのめくるめく渦巻く旋律のうねりの中に私をとらえ、私の四肢をからめて否応なくひきずりこむとき、それは情交だった・・・ あなたが弾きつづけるかぎり、私はステップを踏み、くるくるとまわりながら踊りつづける、やがて青いボンネットを後ろへはねのけ、木靴を床の上に脱ぎ捨てて、エールの滲みこんだ床板の上で踊りつづける、そのささくれが裸足の指に突き刺さっても まるで感じないほどに我を忘れて。・・・ あの子をごらん、ほら、あんなに頬をあかくほてらせて。どうしちゃったんだろう、まるで魔法にかけられたようだ・・・ ほかの娘たちが踊り疲れてやめてしまっても、あなたは私を休ませてくれない、みんなは私のために場所をあける、私のうしろで、異様な面持ちでひそひそと囁きあう、どうしたんだ、いったいあの子は、私はただ あなたに奏でられるだけの楽器となってしまった。・・・
 かの狂おしく 熱に浮かされた日々のあいだ、どれだけの旋律が私を流れ過ぎていったことだろう、そしてそれらの日々のあいだ、あなたの奏でつづけたその調べは、川面にうかぶ泡つぶほどに数も尽きせぬその調べは つかまえてもつかまえてもたちまち私の指の間からこぼれ落ちていってしまう、けれどもその響きは、私はそれを決して忘れないだろう・・・ あなたの紡ぎだすその繊細な音色に その思い激しさを支えきれず、その音色は同じ流れのなかで不安定にゆれうごいて ふいにぐっと深くなったかと思えばふっと浅瀬になりして 川のように流れのように 尚も途切れることなく、おわることのない物語を綴るようにつづいてゆき、ついにあなたが弓を持つ手をとめた後も 私のなかでたえまなく響きつづける。・・・
 長くつづいた冬のおわりの、あれは聖パトリックのお祭りの日、薄灰色の曇り空はまだ肌寒く、春の兆しはそちこちの梢にわずかに見えるばかり、それでも村には華やぎがみち、うきうきとした喜びにみちていた・・・ 女たちは朝早く起きてお祝いのパンを焼き、子供たちはよそいきを着せられて走り回り、楽隊を連ねて大通りを練り歩くあざやかな装いのパレードに、思い思いの衣装で加わったりした・・・ 綺麗だった、モノトーン一色だった村の情景に、ぱっと彩りが添えられて。通りの上には家々の窓から窓へ、旗を連ねた飾りが渡され、花火やクラッカーが打ち鳴らされた・・・ ああ、春がそこまで、もうそこまで来ている、人々は心かきたてられ、その足どりをいっそう急き立ててやろうと、銘々楽器を持ち出しては、街角のあちこちで奏ではじめた。・・・
 あなたもまた どこかの家で弾いているはずだった、けれどもいったいどこにいるんだろう、シャムロックの女王の仮装のまま、心当たりをたずねてまわったのに、どこにも見つけることはできなかった。・・・ マクガイアの店でついさっきまで弾いていたと、店の主人が教えてくれた、踊り疲れて上気した人々の顔に、居心地のよいざわめきのなかに、あなたの調べのかきたてた熱気がまだ少しとどまっているようだった。・・・ 店を出て通りを歩きまわった、向こうの四つ辻で今しがた見かけたと、ファーガソンの娘が教えてくれた、とんがり帽子をかぶった若者たちも、長い首飾りをかけたおばあちゃんたちも、みんないっしょに踊り回っていたと、あんなふうに踊っているのは見たことがなかったと。・・・ 行き交う人々の間を縫って、あなたの調べの余韻が少しずつほどけながら 漂い流れて消えていった。・・・ そこにもかしこにもあなたはいた、けれどもその姿をつかまえることはできなかった。・・・ それとも私にだけ、その姿は見えなくなってしまったのだろうか?・・・
 あてどもなく彷徨ううち、にぎやかな祭礼の一日はやがてゆっくりと暮れていった、窓辺には灯が灯されて、グラスにはなみなみとビールが注がれ、次から次へと人々のあいだを回されてゆく、音楽はますます熱気を帯びて盛り上がり、開け放たれた扉の向こうから街路へ流れだした、がやがやと歌声と威勢のいい掛け声とが、そしてそれは例によって一晩じゅうつづくのだ・・・
 夜半、しずかに降りだした雨は、しだいに勢いを増して通りの石畳を洗い流した、パレードは引き揚げてしまい、旗飾りはぐしょぬれの惨めな姿になって雫を滴らせた・・・ すっかり閑散とした場末の路地の、さいごの店を虚し手に出てきてガス燈のもとに立ち尽くし、そのあかりが降り注ぐ雨のひとすじひとすじをきらきらと輝かせるのを見上げながら、私はあなたが行ってしまったことを知った。・・・ あなたはあなたの探している星を、この村に見いだすことができなかったのだ、それであなたは失望して、別の土地へ去っていったのだ・・・ あなたは気がついただろうか、ほんの少しでも気づいていただろうか、あなたのそのフィドルの調べが、どれほどこの胸を響かせたかを。・・・ 滴り落ちる雨の雫をちりばめて、緑色のガラスでできたシャムロックの冠は宝石のように光り輝いた、雨はまた私のガウンの一面にビーズ刺繍を縫い取りして、銀ねず色にきらめかせた・・・ 手折られた若枝の、徒らな奢り、一目ともあなたに見てもらえぬまま ただうつくしく飾られながら、なおもその調べの絶えることなく この胸に響きつづけるままに、私は降り注ぐ雨の中に立ち、暗闇の中に目を凝らした、あなたがどっちへ行ったのか知ろうとして、西の街道を下っていったのか、それとも北の荒野へ分け入っていったのかと。・・・
 できることなら、あなたの奏でるそのフィドルになり代わりたかった、ひとたびその響きを耳にしてのち、それまで知っていた喜びの全ては意味を失い、色褪せてしまうと知っていた。・・・ いつか、いつかまた、あなたはやって来るだろうか、いや、そんなことはあてにできないと、私は私の孤独を抱いて、再び自分の生まれた村へ、自分の家の者たちのもとへ還ってゆかなくてはならないのだと、知ってはいても。・・・ 今となってはただ、どこから力を得ることができよう、あなたは行ってしまった、ひとたび情を交わした この世でただひとりのあなたは。・・・ 雨のなかに打ち棄てられて、悲しみのあまり張り裂けたフィドル、ただガス燈の青白い光が照らすばかり、二度と調べを奏でることはない・・・ 雨はやすみなく注ぎつづけ、夜の闇は明けることなく、そしてその日以来、私は虚空の中でただ あなたの音色を探しているのだ・・・

                          03.Mar.

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2014年01月30日


   随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 詩編1

      夢


 幸せな夢を見た・・・


 昨晩もまた あなたに会うことができて
 カウンターで一緒に喋って楽しかったのに


 あなたと過ごす 宝石のようにきらめき放つこの時間を
 また一つ重ねることができて嬉しかったのに


 あなたが口にした その深遠なる想念について
 あとでじっくり 時間をとって考えたいと思っていたのに


 ああ 何ということだろう! それを私は失ってしまった・・・
 その記憶を世界のこちら側へ 持ち帰ることができなかった


 意識と無意識との うねりたゆとう大波のはざま
 霧の海わたって 漕ぎ戻る途中でなくしてしまった・・・


 だからどうぞもう一度聞かせて
 昨夜の私の夢の中で あなたが話してくれたこと。


                       2002.Apr.

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2014年01月30日

微風


   随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 詩編2

      微風


 さざめきとグラスの音と そうぞうしい音楽の中で
 こちらの端に片ひじついて 戸口に背を向けたまま
 魔法をかけられた私の心の鏡には 入ってくるあなたの姿が映るのです


 カウンターの後ろに並んだ 瓶のラベル眺めながら
 あおい水の底にゆられて 百マイル先の波をよむ貝がらのように
 人波の向こう側で腰を下ろす あなたの動きを感じるのです


 やがてあなたがその弓にのせて しずかなフレーズを紡ぎだすとき
 ひそやかな微風が 梢にはりめぐらした蜘蛛の糸をふるわせるように
 そのひびきは天穹を伝わって 私の心をふるわせるのです・・・


                        2002.June.


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2014年01月30日


   随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 詩編3

      楔


 どうぞ そんなに揺らさないでください
 私はあまり強くないのです・・・


 どうぞ そんなに妨げないでください
 行き着かなくてはならぬ 場所があるのです・・・


 どうぞ そんなに苦しめないでください
 これ以上 走りつづけることができません・・・


 それでもなお あなたのくれたこの気もちが
 今に至るまで 私を支えて進みゆかせ


 擦り切れて 疲れ果てたこの感覚を
 どうにかこうにか 生き延びさせて


 あなたみたいな人が この世界にまだいるのだったら
 こうして戦いつづけることも 全く無駄ではないのかと・・・


 私を打ち砕きながら 繋ぎ留める
 この恋は 魂に打ち込まれた楔。


                   2002.July.

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2014年01月30日

Down to Earth


   随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 詩編4

      Down to Earth


 ずっとふしぎに思ってきた


 こうしてコンクリートとアスファルトとにすっかり包囲されて
 都会のどまん中で平然と暮らしてきたはずのあなたの
 なのにその奏でる音色がいったいどうしてこんなにも
 打ち消しがたく 有機的なイメージに充ちているのだろうかと


 とめどなくつづいてゆくそのフレーズが いったいどうしてこんなふうに
 繊細なパターンを織りなして 彼方の空にまで溶けこみゆく
 乾いた灰褐色の 冬の梢の質感を思い出させるのかと


 まわりの空気をびりびりと震わせて ゆたかに広がりゆくその音の響きが
 黒々と 鋤き返されたばかりの田野に立ち昇る
 いのちの力にみちて 香り高い蒸気のあたたかみを


 その弓先の 掠れるように細い歌声は あやとりの綾をえがくように
 遠い夏の日の午後 川面照らす陽の ボートの腹に映し出した
 たえまなくゆれうごく 光と波のこまやかな網目模様を


 あふれ出る思いのように つと指のあいだから流れ落ちるその調べは
 さしそめた曙の うっすら紅さして ふくらみかけた椿のつぼみ
 今にもこぼたんとする露玉の 顔をそむけさすばかりの艶やかさを・・・


 ずっとてっきり思ってきた


 たぶん すべては思い違いなのだろうと
 これらのイメージを愛するあまり 同じく愛したあなたの音色を
 私はきっと 自分のなかで 勝手に結びつけてしまったのだろうと
 ただそれだけのことに すぎないのだろうと


 Down to the earth・・・
 あの日 あなたの口からその言葉を
 あなたがそれを口にするのを聞くまでは。

                     2002.Aug.

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2014年01月30日

漂泊


   随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 詩編5


 漂泊


 あなたは言った
 こうしてフィドルを弾きながら
 こなたかなたを彷徨いめぐってゆくのだと。


 あなたは言った
 私の心はどこに住んでいるのだろう?・・・
 私の心はきっと スコットランドのヒースの平原に住んでいるのだと。


 あなたは言った
 もう ずいぶん遠くまで来たけれど
 行くべき道のりはいまだ尽きず 長い はるかな旅の途上にあるのだと。・・・


                        2002.Aug.

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2014年01月30日

おくりもの


   随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 詩編6

   おくりもの


 日の光が梢を愛するように
 あなたは私を愛してくれた


 泉が小鳥たちに与えるように
 あなたはゆたかに与えてくれた


 入り江が潮を迎えるように
 あなたは私を迎えてくれた


 雨をもたらすむら雲のように
 私の心に 喜びをくれた


         2002.Sept.

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2014年01月30日

コスモス


   随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 詩編7

   コスモス


 そんなにもあなたは繊細なので
 あなたのことを想うときには
 息をするにも気をつかいます
 私の抱く想念のひとつとて
 あなたを汚すことのないように。


 あなたの言葉の ひとかけ ひとひら
 無闇と思い返したりしないで
 大切にしまっているのです
 私の波が 記憶を揺らして
 あなたの像を歪めぬように。


 はるかにあなたは広大なので
 その存在が 私の心の中に
 収まりきるなどと考えません
 かくも小さなひとつぶの星に
 あなたの魂を閉じこめてしまわぬように。


 あなたがそこにいることが
 私にはとても貴重なので
 これ以上知ることを求めません
 あなたの生きてきた物語に
 よけいなディテールを加えぬように。


               2002.Oct.

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2014年01月30日

夜曲


  随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 詩編8

  夜曲


 夜半すぎ
 人気も絶えたテラス
 しんしんと冷えこんだ空気。


 とめどもなく
 優しく溶けあって流れゆく
 アコーディオンとフィドルのひびき。


 まわりの空気
 ふるわせて つたわって
 満たしていた


 波寄すまま
 この身 ゆだねて
 漂ってた


 飲みかけのグラス
 しずかに燃えるストーヴ
 膝の上のあなたのコート。


 なんにもしない
 ただ聴いてる
 ぜいたくな無為。

            2003.Jan.

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2014年01月30日

風になれない


   随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 詩編9

        風になれない



 風になれないのだと あなたは言った
 心をとばして 旅するだけじゃ ほんとの姿はつかめない
 土の匂い 空気の肌あい 光の色に
 じっさいこの手で 触ってみないとだめなんだと


 風になれないのだと あなたは言った
 翼ひろげて 雲にまじって 心愉しく遊べない
 重い鎖で この地上に繋がれて
 一歩一歩 迷いながら ただ這い進んでゆくよりほかないのだと


 そう言ってあなたは去っていった 冬の夕暮れ
 ほの暗い青色と かすかなばら色との移ろいゆく空に
 しずかな旋律のように うかびあがる木立の影つづく
 その中深く分け入って 溶けてまぎれて 見えなくなった


 風になれないのだと あなたは言った
 たとえほんとに風になって 七つの海を越えていっても
 いま あなたが行こうとしているほどに
 遠い場所までは 決して辿り着けないだろう・・・


                      2003.Jan.

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2014年01月30日


     随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 詩編10

            翼

この翼にのせて 私たちは今日旅立つ
朝の雲、銀色の光
真珠の雲のかなたへとうち広がる このもっとも聖なる朝に

この翼にのせて 私たちは今日旅立つ
ヒースの群れ咲く アイルランドの丘々へ
あなたの心の住んでいる スコットランドの平原へゆこう

この翼にのせて 私たちは今日旅立つ
愛という名の何と大胆で
向こう見ずで命知らずなことだろう
それは 白く光りかがやく 地平のかげの嵐など
やがて巻き起こる暗雲の端くれなど 目にとめもしない

この翼にのせて 私たちは今日旅立つ
これまでの日々のすべてを
紡いできた物語を
来たるべき日々の かがやかしい色調を

私たちは今日旅立って
もう帰らない 帰らない
同じ場所には





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