2011年10月23日

先週の稽古風景など

   

次の公演 11月5日(土)3:00pm@JR牛久駅東口ロータリー
<石垣の花嫁 いにしえのアイルランドの物語> 観覧無料

おなじみの駅前イベントに一参加団体として参加させていただきます
おひまな方はぜひ♪

先週は夏に逆戻りして、死ぬほど暑くて参りました・・・
練習場所の公民館では、地域の輪投げ大会で大盛り上がり。
子どもからお年寄りまで楽しんでいて、楽しそう。
輪投げ大会でこんなに盛り上がるものなんだ・・・とびっくり。
この日は練習後お昼を交えて、次の作品の衣装やら演出やらについていろいろ話し合いました。
12月公演予定です。ほんとに、間に合わせなくては・・・ 焦))
下は衣裳デザインやら使用検討中の衣裳や小道具など

  
  

Posted by 中島迂生 at 19:58Comments(2)第4作 湖底の都 備忘

2011年10月20日

制作メモ Oct2011 その3

先週くらいのメモ。
努力ということについて考える

次の舞台で使う曲があと2曲くらい いまだに完成しなくて
焦りながら 疲れ果ててベッドに倒れこんでは起きてまた取りかかって
音入れと編集作業をずっとつづけて
もしかしたら使わないかもしれないもののために時間とエネルギーを注ぎつづけて

つづけていく中でやってみてはじめて分かることもそのたびにあって
重ねるトラックも入れてみてはじめて別のアレンジのほうがよいことがわかったり
やっぱり何事もバランスが大切で あまり凝ったアレンジにしてみたら、別のトラックと合わせたときにもっとシンプルなほうが生きるなってわかったり

時間とエネルギーを注いだだけ 最終的にいいものはできると思うんだけど
結局捨てたもののために費やしてきたものも大きいし
あちこち瑕疵はあるけどやっぱりこのトラックを使いたい となると
またあちこち少しずつ削ったり修復したり

なんか際限がない どこまでやるのかって話になってくる
しかもこれだけ仕上げればいいってわけじゃないし
あれこれいろいろやりすぎだってはわかってるけど

演奏もダンスも演技もなにも、一年の決まった時期にしか集中して取り組んでる余裕がないから
何年やってもあんまり進歩してない気もしてくるな

まずあたしががんばって全体の構成を仕上げないことには何も始まらないんだからしっかりしなきゃ って思うんだけど
愚痴ってるひまがあったらだまって努力しろって話なんだけど

「努力するってことは、並の努力をすることじゃない、ふつうの10倍くらいの努力をすることなんだ」
って こないだ職場の飲み会で聞いたコトバ
すごく印象的だった
紙に書いて洗面台の上に画鋲で留めてあるんだ

でも これまでの無名時代、ずっと考えつづけてきたのは
・・・どこからそのエネルギーを得るんだ?

努力して努力して努力して それでも手ごたえがなにもなかったときに
疲れ果ててあきらめてしまったりしないように

努力の仕方を考えて工夫したほうがいいような気がするな
どこでどれだけどんなふうに努力するか
っていうのもセンスであり才能であるんだろう
  

Posted by 中島迂生 at 13:30Comments(0)第4作 湖底の都 備忘

2011年10月20日

制作メモ Oct2011 その2

連休のあとのメモ

三連休、いかがお過ごしでしたか。
私は、11月公演のイベント会場を見に行くのと稽古のほかには、ただもうひたすら新作のための制作に打ち込んでおりました。
いつもの舞台音楽制作と、あと何枚かの絵に色付けを。

なんかもう最近、ひとさまのやってるイベントとか見に行ってる余裕がないですね。
紅茶やビスケットをありえない勢いで消費しながら作業をつづけ、時々疲れると元気づけてくれるような本を読み、
朝起きて気が向くとたまにひとりでカフェに出かけてごはんを食べて、ついでに公園を散歩して芝生に寝っ転がってぼうっとしたりしてた。
誰もいない芝生でも、さいしょに誰かが入っていって寝っ転がってると、そのうち色んな人が来てわいわいバドミントンとか始めるんです。
そういうのなんとなく聞いてるの気持ちいい。
屋外の風に頬をさらして、木のにおいを吸いながらぼうっとしてる時間ってたまには必要ですね。
忘れないようにしなくちゃと思います。

毎回、あたらしい舞台の制作にかかるたびに、なにかあたらしい試みをします。
華やかな舞台にしたい。
見に来てくれた人が楽しいと思える舞台にしたい。
初回作の<エニスの修道士>では背景幕をがんばってつくりました。
次作の<エインガスの砦>では早着替えをがんばりました。
第3作の<石垣の花嫁>では道具製作に凝って毎回の運搬に死にそうな思いをしています。

毎回、せいいっぱいやって疲れ果てて、次は何か別のことにしよう、と思います。
努力を惜しんではいけないと思うけど、何とか疲れ果てずに楽しくやれる方法を探っていきたいと思う。
<ファニーとアレクサンデル>を撮り終えたあとの監督みたいに、「もう長編映画は撮らない」とか言いたくない。できれば。
だからやり方はいろいろ考えつづける。

今回の舞台のコロフィンを描いたデッサンはたくさんあって、今回はできればこれらを使って一部、映像を取り入れた舞台にしたいのです。
実はこれはさいしょからやりたかったことで、いままで色々技術的な問題があってできなかったのだけど。

そんなわけで、モノクロのデッサンに何枚も色をつける作業を始めてる。
以前、<愛蘭土情景>という題で画集にまとめ、展示も何度かやったものの一部で、7年前から描きつづけているシリーズです。
デッサン自体は何十枚もあって、でも描くのはとくに苦労しなかった。
文筆作品のシリーズと同じで、ぜんぶ降りてきたというか、オートマティックに描かされている感じでしたね。
ただ、そのなかで色をつけたのは数えるほど。
一枚色をつけるのにものすごく時間と労力を食うので、正直あまりやりたくないんです。
疲れるし、めんどくさい。
自分の目で見たときの印象はいまも強烈に残ってるので、迷うことはそんなにないのですけど。
ものすごい手間がかかって手が疲れるのに、何を描いてもだいたい同じような作風で、苦労してもたいして新しいものが生み出されるわけでもない。
以前モノクロ画の個展をやったときも、「色塗れば?」とか言ってくださる人がけっこういたのだけど、考えただけでげっそりしちゃって、(画集をその場で売っていたので)「一冊買って、自分で塗れば?」とか思っちゃいました。

そんな感じでしたけど、今回、また気を取り直して、映像作品をつくるために色付けを始めてます。
いまの私のスタイルは、モノクロの原画をトナーコピーしてかなり濃いめに打ち出したものに、色鉛筆で少しずつ色を重ねてゆくというもの。
完成した絵をフライヤやポストカードにするとき、ブログに上げるときなどは、スキャンした画像をフォトショップで、自分が出したいと思う色合いや強さが出るまでいろいろ調整を重ねます。

色付けするのをなぜトナーコピーにこだわるかというと、原画はモノクロのままとっておきたいというのもあるし、トナーコピーで濃いめに打ち出すと昔の銅版画のような細かい粒子が浮き出てきて趣のある画風になること、それから、なんといってもあのトナーのラインが鉛筆にない強さ、鋭さがあっていい。
擦れないし、滲まないし。

ただ、ひとつ欠点は、それだとコピー用紙に色をつけるしかないんです。
それがちょっとね。
ほんとはやっぱり、スケッチブックみたいな硬い厚い紙に描いたほうがいいに決まってる。
絵具じゃなくて色鉛筆っていうのもそれが理由。
コピー用紙に絵具で描いたらビロビロで目も当てられなくなりますからね。
色鉛筆のほうがあとから修正がきくっていうのもあるけど。
ただ、手間はとんでもなくかかります。

絵を描くたびに思うのは、絵というものの本質的にもってるモータリティというか、取り換えのきかなさ、これはなんといっても絵がいちばん。
物理的にももろいしね。
文章や音楽のように質を落とさずに際限なく再現するのは難しい。
絵もね、はじめからソフトとかで描いたものなら、データさえとっとけばいくらでも再生産できるけど。

子供のころのトラウマもいまだにあるな。
このブログのどこかでも書いたかもしれないけど。
子供のころの絵って、どんなにがんばって描いても次から次へ、なんとかコンクールとかに召し上げられてしまって、手元に何も残らなかった。
あの虚しさっていったらないよね。
変な賞状なんかくれてもしょうがないって。

まあ、それはいいとしてね。
描き終えたら終えたでまた、原画をちゃんと管理しておかなきゃならないし。
いろいろめんどくさい。
ちょっと、生身の人間みたいなとこがありますね。
すでに何枚か、原画の行方がわからないやつがあるし。
めげずにつづけてゆかないとだめなんだけど。

つくりつづけるための力を、走りつづけるための力をどこから得るか、というのはずーっと課題。
何をもって自分の心を養ってゆくか。
アンネ・フランクの日記の一節を思い出す。
人は子供のころから、いかに周りに育ててもらうかだけじゃなくて、いかに自分を自分で育ててゆくかってことを考えなきゃいけない、って書いてたっけ。
まだ15とかそこらの女の子がそういうことを書き残してるんですよ。
これは考えさせられるよね。
  

Posted by 中島迂生 at 13:27Comments(0)第4作 湖底の都 備忘