PR

本広告は、一定期間更新の無いブログにのみ表示されます。
ブログ更新が行われると本広告は非表示となります。

  
Posted by つくばちゃんねるブログ at

2009年11月11日

風神の砦(普及版)

愛蘭土物語 クレア篇5
風神の砦 The Fort of Aengus / Doon Aengusa
モハーの崖とアラン諸島の物語(普及版)
2009 by 中島 迂生 Ussay Nakajima


 そは 風の神エインガスの嘆きのごと
 たかくひくく とどろきわたる 波のまにまに

 今なお響けるは かの調べ
 とわに守り通すと誓いし愛に

 吹きわたる風のなか いまもひびく
 砕かれし契りを嘆く声

 われを赦せ 海の乙女
 わがもとへ還れ わたつみの乙女


 遠く遠く西の果てアイルランド、そのまた西のさい果てに、<モハーの崖>という有名な崖がある。
 200メートルにも及ぶまっすぐな絶壁が、ぎざぎざに入り組んで何マイルにもわたってつづいている、まさに絶景だ。・・・
 切りたった岩壁に砕け散って、永遠に寄せては返す波のひびき、かもめの鳴き交わす 細く甲高い声のひびき、想像を絶するような、荒涼とした風景。・・・

 そのはるか沖合いには、イニシュモア、イニシュマーン、イニシーア、通称アラン諸島とよばれる三つの島が浮かんでいる。
 いずれも本土のモハーの崖と同じ、切りたった崖にかこまれた 岩ばかりの荒れ果てたところだ。
 吹きすさぶ風にさらされて高い木は一本も生えず、ひとたび海が荒れると何週間と知れず孤立しつづける。・・・

 それでも、はるか昔からここには人が暮らしてきた。
 ながい時をかけて少しずつ、石を積み上げては石垣を築いて、わずかな作物や家畜を育ててきたのだ。
 今ではその石垣が網目模様のように、島ぜんたいを覆っている。

 それだけではない。
 これらの島々には、いつとも分からぬ有史以前に築かれた、いくつものふしぎな遺跡がある。
 ひたすら石を積み上げてつくられた巨大な砦で、うたがいもなく、強大な国家の存在を物語るものだ。・・・

 なかでもとりわけ有名で、強い印象を与えるのは、イニシュモア、いちばん大きな島の崖ふちに、三重の塁壁にまもられて忽然とそびえる ドゥーン・エインガサ、エインガスの砦だ。
 半円形をしているのだが、崖に面していきなりすっぱりと海へ切れ落ちているのだ。
 まるで、もとは完全な円形をしていたのが、突然なにかの天変地異が起こってまっぷたつに裂け、もう半分を島ごと海に飲みこまれてしまったかのよう。
 いや、明らかにそのように見える。・・・

 実は、この地方には昔から、ひとつの伝説が伝わっている。
 ハイ=ブラジル、はるか昔に海の底へ沈んでしまった島、もしくはひとつづきの土地。
 それは人のあらゆる想像を超えて、かつて知られたすべてのものにまさってすばらしく、美しいものにみちていたという国なのだ。
 いまもその姿を目にすることがある、と彼らは言う。
 いまも七年に一度、その陸影のまぼろしを、人は海のかなたに望むのだと。・・・

 これは、遠い遠い神代の昔、そのハイ=ブラジルがまだモハーの崖とつながっていた頃の話、そして、なぜその国が、海の底深く飲みこまれてしまったのかについての物語。・・・

             *
  
 当時、この国を治めていたのは風の神エインガスだった。
 優れた文明の栄えた、ゆたかに潤った美しい国だった。
 その広大な領土のあちこちを、彼はただ心のおもむくまま、その青く透き通った衣のすそをはためかせて駆け巡っていたのだ。

 ところで、彼の女好きなことは、知らぬ者がなかった。
 神々の乙女たちであろうが、精霊の女たちであろうが、はたまた人間の娘たちだろうと、手あたりしだい、女と見ると放っておかない。
 何しろ、信じがたいほど美しい顔だちをしていたし、そのうえ心をとろかすような甘い言葉で囁きかけるので、女たちはだれもいやとは言えなかった。

 若い娘をもつ親たちはみな、エインガスを恐れた。
 彼がやってくると見ると娘たちを戸のうちに呼びいれ、しっかりと錠を差し、そして厳重に言い渡すのだった、あいつが通り過ぎるまで、一言も口をきいてはいけない、音を立ててもいけない、ただもうひっそりと、誰もいないようなふうをしておいで。・・・

 ある日のこと、彼は虫の居所が悪かったのか、その日のあいだずっと、ただもうむちゃくちゃに、海のおもてを駆けまわっていたのだった。
 そのため海は大荒れに荒れて濁り、空には暗い雲がうずまいて、ごうごうと轟いた。

 そのとき、波が深く分かたれた拍子に、彼はひとりの美しい娘を垣間見てしまったのだ。
 それは海の神エントロポスが海底深くに隠しておいた、ひとり娘ユーナの姿だった。

 彼女の姿を目にしたとたん、エインガスはすべてを忘れてしまった。
 彼は激しく恋い焦がれ、何とかその姿をもういちど見られないものかと、来る日も来る日も海の上を彷徨っては吹き散らしたが、それは叶わなかった。

 そこで彼は浜辺へおりていって、海神エントロポスに向かって大声で呼びかけた。
エントロポスはエインガスのことを好いていなかったので、はじめは黙して答えようとしなかった。

けれどもエインガスがいつまでもしつこく呼びつづけるので、ついに姿を現して、
「エインガスよ、何の用だ」と尋ねた。
「お前の娘ユーナを私に与えてほしい」とエインガスは言った。

「お前が何者であるか、知らない者があろうか」とエントロポスは言った。
「私と私自身の言葉にかけて、私は自分の娘をお前のような浮気者に与えはしない」
 そうして彼は姿を消してしまった。

 そこでエインガスは再び浜辺に立って、エントロポスがまた姿を現すまで大声で呼びつづけた。
エントロポスは再び現れると、「エインガスよ、何の用だ」と尋ねた。
「お前の娘ユーナを私に与えてほしい」とエインガスは言った。

「お前が何者であるか、知らない者があろうか」とエントロポスは言った。
「私と私自身の魂にかけて、私は彼女をお前のような恥知らずに与えはしない」

 こうしたことが七たびつづいた。

ついにエントロポスは疲れてしまい、根負けして、言った、
「お前が天と地にかけて誓い、今後はほかの女を追いまわすことを一切やめて、生涯私の娘だけを愛すると約束するなら、私はユーナをお前に与えよう。
 しかし、少しでもあれに辛い目を見せるようなことがあったらすぐに、私はあれを手元に取り戻し、そして二度とお前に会わせることはしない」

 するとエインガスは言った、「それでよい」と。
 こうして海神の娘ユーナはエインガスの妻となった。

 ユーナが、ふるさとの海をいつもそばに見ていたいと言ったので、エインガスは海を見下ろす高い丘の上に館を築き、塔をたて、三重の石壁でそのぐるりをめぐらして、彼女がその窓からいつでも海を眺められるようにした。
 これが世に聞こえたドゥーン・エインガサ、エインガスの砦だ。・・・

 さて、しばらくはエインガスはユーナに夢中になって、大切にもてなし、心を尽くして彼女を愛した。
 しかし、少しすると飽きがきて、また以前のように、心のままに領土のうちのあちらこちらを駆けめぐるようになった。
 するとまた、あまたの若い女たちが彼の目にとまったが、海神エントロポスとの約束を思い出して、強いて目をそらすようにつとめるのだった。

しかし、大地の娘マノアが灌木の茂みのあいだから身を乗り出して、思わせぶりな仕草で髪を梳きながら、彼に向かってあでやかに笑いかけた。
 と、たちまち彼は我を忘れ、鷲のように舞い降りて、そのあらわな肌を抱きすくめた。

 そのとき、海の神エントロポスの怒りが燃えた。
 大地は激動して張り裂けた。
 海の神の底知れぬ力が、娘ユーナをその館ごと、その手に奪い返そうとして地を揺るがしたのだ。

 そのとき、エインガスの砦、彼がユーナのためにきづいたうるわしい塔と館とは、そのまん中のところでまっぷたつに裂け、とどろきとともに崩れおちて沈んでいった。
 大地からもぎ離され、さかまく水の中へのまれて消えた。
 こうして海の娘ユーナはそのふるさとへ、海の底深くへと帰っていったのだ。

 そのとき、風の神エインガスの領土、ハイ=ブラジル、みどりゆたかな露くだるそのうまし国は、地うなりとともに、泡だちうずまく波の中にのまれて沈んでいったのだった。
 その地に住むすべての者たち、人も動物も精霊たちもみな もろともに。・・・

 このときぱっくりと生々しい傷口をあけた大地のへり、その部分が今日モハーの崖として知られているのだ。
 また、このとき生じた恐るべき衝撃のために、砕かれた大地のかけらが三つの島となって残った。
 それが今のアラン、・・・イニシーア、イニシュマーン、そしてイニシュモアだ。・・・

 我に返ったエインガスは、おのれの犯したあやまちが、取り返しのつかない事態を招いたのを見た。
 たちまち はやてのごとく、彼は大地の上を渡ってゆき、崖のふちを蹴って海原の上へ飛び出した。
 ついで三つの島を飛び石のように次々ととんで、ついにそのいちばん端のところへ至り、そこで変わり果てた砦の姿を、その空っぽの残骸を見たのだ。

 突然の大変動に、空はもうもうたる土けむりに暗くけぶって息もつけない。
 海は掻き立てられて不吉に濁り、おどろおどろしい色をして、すべては混沌と破壊と激怒のすさまじい様相だ。

 エインガスはそこに立って、大声で叫んだ。
 悲しみのあまり胸も張り裂けんばかり、長い髪をかきむしって号泣し、そしてそれこそ声が涸れはてるまで、妻ユーナの名を呼びつづけたが、こんどというこんどはむだだった。
 二度とふたたび海の中から答えが返ってくることはなかった・・・怒りに沈黙したまま、不吉に濁ったその海からは。・・・

 遥か遠く、掻き曇った空と海のまざるところまで、その叫びがいくえにもこだまして響きわたった・・・すべてを失って独りぼっちになったエインガスの、その絶望の叫びが。・・・ 

 これらすべては遥か昔の物語、エインガスもほかの者たちも、みなすでに神々の地へ去って久しく、この地を歩きまわってみても今はただ、虚ろな風の吠え叫ぶばかり。 
海と大地とはついに互いの心を知ることなく、そしてこれらの断崖はあのとき裂かれて分かたれたまま、今も海原に立ち尽くしている。・・・

 ドゥーン・エインガサ、エインガスの砦、それもいま見るとおり、張り裂かれて本土から断たれたまま、アランのいちばん端、大海に面して三重の石塁にかこまれた、ただその半分だけが残っている。 
 それは海の神エントロポスの怒りの手を、からくも逃れたほうの半分なのだ。・・・

こうして無残にも引き裂かれた約束の遠い記憶を刻まれた、これら断崖の上を歩くとき、
 暗い海のとどろくなか、吠え叫ぶ風のまにまに、今も我々はその悲しみの叫びをきくのだ・・・
 ・・・我を許せ! 我を許せ! ・・・戻って来い! と。・・・

   

2009年04月18日

風神の砦


愛蘭土物語 クレア篇 5
風神の砦  モハーの崖とアラン諸島の物語
The Fort of Aengus / Doon Aengusa
2005 by 中島 迂生 Ussay Nakajima

そは風神エインガスの嘆息のごとく、
たかくひくく とどろきわたる波のまにまに
今なおひびくは かの調べ。・・・
   


 この地方に伝わる古い曲のひとつに、<モハーの崖>というのがある、三拍子のもとは舞踊のためにつくられた曲である・・・ 導入部で、旋律はいきなり切りたった絶壁の岩肌に沿って駆けくだる、一挙に数千フィートの高みを、はるか下の海のおもてまで、めくるめく、わが身は風に舞うひとひらの白片、ふきちぎる潮しぶきのまにまにくだりゆく一孤鴎の翼である・・・ 波のおもてにつく瞬間にさっと身を翻して飛びかすめ、また羽ばたいて空を駆けめぐる、それが二度ばかり繰り返されて、フラッシュバック、そして展開部は黒く沈んだ岩壁に間断なく打ち寄せる波の情景である・・・ 永遠に寄せては返す、絶海の岩壁にひびく、胸を突く寂涼のひびき、砕け散る波音と、かもめの鳴き交わす細い甲高い声ばかり、淋しいといえばあまりに淋しい・・・

 私はこの曲を、名にし負ふかのモハーの崖のふもと、ドゥーリンという小さな村ではじめて聞いたのだった、夜更けの酒場、人も閑散とするころ、居合わせた旅芸人の笛吹きがいて、「崖を見たかね?・・・」と話しかけてきた。私が頷くと、あの崖の名をつけた小曲があるのだ、といってやおら笛をあて、聞かせてくれたのだ・・・ しずかな酒場の薄暗がりの中に細い笛の音が沁みるようにひびき、はっきりと言葉でもって語るかのように、私の脳裡には、その日の午後歩いたばかりの崖のようすが、まざまざと甦ってきたのだった。・・・

 モハーの崖はクレア名物で、これを見るためにわざわざ訪れる人も多い。じっさい、海へと切れ落ちる崖は多くあれど、これほどのものはそうそうあるまい・・・ 垂直に切り立つ目も眩むばかりの断崖絶壁が、ぎざぎざに入り組んで何マイルにもわたってつづき、下は荒海、上は見渡す限り一面の荒野である・・・ そのいちばん高い地点には古い石塔があって、ここに立つと幾重にも連なった崖はだの海へ切れこむさまを一望のもとに望むことができる、いやもっと遥か遠くまで、晴れた日には遠くコネマラの山々からケリーに至るまで見渡すことができる・・・

 けれども、この場所がもっともその本来の様相を得るのはむしろそういう日ではなく、それは例えば少し肌寒く、うっすら霧のかかった日の、水平線も定かには見えず、朧ろな黄色にかすむたそがれどき、あるいは夜明け、淡いモオヴと青むらさきの、薄明のあわいに幻のごとく、じっと黒ずんだ岩壁のシルエットばかりが浮かびあがる、そんな時分だ、地霊たちがやってきて語りはじめるのもそういうときである・・・

 重苦しい曇りぞらのつづいたミルトン・マルベイの日々とはうって変わって、出発の日は雲ひとつない晴天であった・・・ 左官屋から借り受けた騾馬を使っての初の移動である、・・・これは幸先がいい、あかるい光、かがやきわたる眩しい夏の光を全身に浴びて、町をあとにし、何度も歩きまわった海ぞいの街道筋をゆく、湾岸の港町をいくつも通り過ぎてゆく、ラヒンチ、リスカノール・・・これら町の名を舌の上に転がすと、今も陽光にあふれた町並、きらきらと光をうかべたしずかな海のおもてが目に浮かぶようである・・・ ここらあたりは保養地として、さいきんでは大陸からやってくる旅行者も多い、とくに夏は。・・・ゆく道すがら、何台もの乗合馬車にすれ違う、よそゆきの恰好をした紳士淑女の御面々だ・・・ リスカノールの郊外、海を望む茫漠とした草の丘の上には石造りの城館の廃墟がある。窓が縦に五つばかりも連なり、堂々たる面構えである、いつの時代のものだろう、今では壁の一面だけが残っているが。・・・

 これら港町の活気にあふれた光景は心楽しいものであったが、町並が尽きて、街道が海岸線をはなれて少し内陸に折れあがり、ゆるやかな坂道が折り重なるようにゆけどもゆけどもつづくようになる頃には、焼けつくような日射しがしだい辛く感じられてきた、見わたす限りなだらかな丘々が広がるばかり、道ぞいに多少の木立や茂みは尽きぬものの、日射しをさえぎってくれるほどではない、騾馬がまだ慣れていなくて、きつい上りになると機嫌を損ねて進みたがらないので仕方なく、上り坂のたびに降りて手綱をとって一緒に歩いてやる、まったく手間がかかる・・・

 聖ブリジットの泉をすぎ、モハーの崖の上にさしかかるころには、目に映るはただ一面の茶色になって、荒野に生えるスゲの茶色がけざやかな曲線を描いて地平線まで連なるばかり、焼けつくような乾いた光景だ、ゴースのきつい黄色が目にうるさく、よけい暑さをますような、ああ、耐えがたい暑さ、空の青いことといったら、そのいちばん深いところはほとんど黒に近いほどである・・・

 てっぺんの石塔が見えてきて、あそこまで行ってみようか、・・・けれども乗合馬車が何台も連ねてずらりととめられているのを見て気が変わり、素通りしてしまう、今日はいい、またいつか別の日に来よう・・・

 つらい道中であった、しかし、とうとうそのいちばん高いところを過ぎ、あとはゆるやかな坂に従って下ってゆくばかりとなったころ、そのとき急にぱっと目の前が開けて、まっさおな海が眼下に広がったのだ、あんな青を私はそれまで見たことがなかった、はっと息を呑み、おのれの目が信じられずに立ち尽くした・・・

 浅瀬のあたりは瑪瑙のようにさまざまな色あいが入りまじって、・・・水色や、エメラルドや、ターコイズ・ブルーや・・・ それから沖の方へいくにつれて、これぞブルーとしかいいようのないような澄みきったブルーとなり、イニシーア、イニシュマーン、それからイニシュモア、彼方にうかぶアランの島々の姿をくっきりと見せて、はるか空につながるところまで広がっているのだった・・・ じっさい、この雲の多いクレア地方で、こんなふうな日の海を見た者は多くないのではあるまいか、この海を見たことで、私はここに至るまでの苦労のすべてがいちどきに吹きとぶような思いだった。・・・

 ドゥーリンの村にさしかかる手前、海を見下ろす高台のところに、またひとつ城砦の廃墟がある、円筒形の塔が崩れかけてつたやいばらに覆われている、このあたりにも昔から人が住んでいたのだろう・・・

 宿を探しあて、騾馬をつなぎ、荷物をおろして、井戸から冷たく透きとおった水を汲み上げて、私も、騾馬も、長々と飲んだ。・・・しばらくはもう、動きたくない、ここでゆっくり休んでいたい・・・

 けれども夕暮れ近く、涼しく澄んだ風とおだやかに沈んだ野の色調とに誘われて、ふたたびおもてへさまよい出る、ああ、何と気持ちよい夕方だ! ・・・牧草地のみどりの色の何と目に快よく、石垣や木立の茂みのなつかしく映ることか! ・・・昼間とはがらりと表情を変えて、ものみなすべてが限りなくのどけく優しい、長い夏の日の夕べである・・・

 ゆったりとうち重なって広がる野の、みどりや茶色やくすんだ若草や、それから灌木とヒース、そのあいだに点々とちらばった薄茶やクリイム色の牛たち、道ゆくうちにところどころ、ごつごつごした岩ころが草の間に顔を見せはじめる、バレンが近いのである・・・限りなく澄んでどこまでも広い、淡い葡萄色と水色とのグラデエションの空である・・・

 すがしさに道ゆくまま、とうとうリズドンヴァルナまで至ってしまった、引き返すころにはさしも長き日もしだい暮れ往きて、ようようと宵闇が、野辺をひっそりと浸しはじめるのである・・・

 ドゥーリンには一週間ほどいた、ドゥーリン、思い出すのはさいしょに着いた日、陽をあびた埃っぽい砂利道、あるいはまた別の日、どしゃ降りの雨の中で、庭先にずらりとロープに掛けられて風に吹きまくられてばたばたとはためいている洗濯物。・・・

 朝まだき、曇り、つめたい空気、時々ななめに朝日のうすあかり・・・橋の上の眺め、小さい橋のこちら側は両岸に野の花のふち飾り、かなたの丘から流れてくる・・・

 だれもいないしずかな通り、ただとても早く発つ旅人たちだけ、あの感じをいつまでも覚えていたい、牧草地をつっきってヘッジの茂みがどんなふうにざわめいていたか、なだらかな弧を描いて丘々がどんなふうに連なっていたか・・・ 窓に板の打ちつけられた廃屋の漆喰塗りの石壁に、ブランブルの花がどんなふうに咲いていたか・・・ 白に淡いピンクがよく映った、微風にふるえるブランブルの薄紅の花むら、ペンキの剥げ落ちた納屋のとびら、汚れた窓ガラス、薔薇で埋めつくされた白いレースのカーテンの窓辺。・・・

 左手に盛り上がった丘々の、半分ばかりはゴースの茂みに覆われて、牧草地を飾る若枝の、冠のように幾すじも、斜面にそって走る心たのしい生垣の群れ、そちこちに転がしてあるヘイロール・・・ 昔ながらのヘイロール、あれを見るとほっとする、あんまりきちんと巻いていなくて、へりのところから藁がいっぱい突き出しているようなのもいい、ただの積み藁もいい・・・

 ドゥーリン、淋しい漁村である、家々とてわずかに十数件があるばかり、それらが身を寄せあって、茫々たる野の片ほとり、崖のふもとの海沿いに、ひっそりとかたまっている・・・ 木組みに布を張り、タールを塗っただけの軽い、粗末な小舟にのってどんなに波の高い日でも彼らは平気で海へ漕ぎだしてゆく、そのようすはよそ者には命知らずと映るばかりである・・・

 晩には魚をありあわせのものと煮こんだ鍋を囲み、いつ果てるともなく語りあう、歌を歌ったりもする、それはとなりの島の親戚からきいた色々のうわさ話であったり、彼らが嵐の晩に出会った魔物の話であったり、はたまた遠い沖あいにいて、妖しい歌で人を惑わす人魚の話であったりする、数百年、数千年の昔から変わらぬ暮らしがここにある・・・

 ここからは目と鼻の先のアラン島へ、人々はよく往き来する、家畜や泥炭を船荷として携えゆくのである・・・ ドゥーリンも淋しいところだが、アランの光景ときたら人の想像を絶している、当地と比ぶればドゥーリンなど、乳と蜜の流れる地といっても差し支えないほどだ・・・

 あらゆる穏やかなもの、快よいものから遠く隔てられて、荒れ狂う海、吹きすさぶ風、神々の怒りのただなかに踏みとどまって、はるかそのかみより立ちつづける平たい岩盤の島、それがアランの謂ひである・・・ これら島々はバレンの砕け散ったかけらである、石卓のごときその風貌、切りたった崖にとりまかれ、上陸できる場所とて無きに等しい、ひとたび海が荒れると幾週間ともしれず孤立しつづける・・・ さいはての地、高い木は一本もない、わずかに地表を這うヒースと棘だらけの灌木と・・・

 こんなところに人が暮らしていることがそもそも驚異である、ところがそうなのだ、実際のところ はるか昔から人々はこの地に暮らしてきた、長いときをかけて少しずつ築かれてきて、今なほこの島のおもてをくまなく覆う石垣の網目模様、それがその証である、それでもってあるいは横なぐりに吹きつける風からわずかな土を守り、あるいはその中に家畜を囲い・・・ その間に海草を広げて彼らはわずかな土をこしらえ、そこに作物を育てるのだ、その貴重な土が容赦ない風に飛ばされぬよう、吹き散らされぬよう、えいえいたる戦いの、いぢましいような努力の積み重ねがこの光景である・・・

 しかしなおもそれがすべてではない、そこには何か、さらに言葉にしえぬものがある、何かしら人を落ち着かない気持ちにさせるものがある・・・ そこには例えば、そこに住む人々によって今も語り継がれる、ハイ=ブラジルについての言い伝えがある・・・ ハイ=ブラジル、はるか昔に海の底へ沈んでしまった島、もしくはひとつづきの土地、人のあらゆる想像を超えて、何かしら今までかつて知られたすべてのものにまさってすばらしく、美しいものにみちていたというその国についての。・・・

 かつてはあった、今はもうない、すべては海の底に沈んでしまった・・・ けれどもその記憶は今も彼らのあいだに脈々と息づいて、奇妙なほどの力強さをもちながら、なおもその核心に近づくほどに、霧にまかれたようにぼやけてしまう・・・

 例えば彼らは言う、今でもその姿を人は目にすることがある、そう、七年に一度、我々は海のかなたに、その陸影の幻を見るのだという、・・・げんにそれを見た者がいくたりもある、例えばマクメナンのところのじいさんがそうだ、今では少し気が変になっちまったがな、訪ねていって、きいてみるがいい、その話になると途端に生気づいて、力いっぱい喋り出すだ、いつでも同じ話をするだ、目に浮かぶようにいきいきと、それがどんなようすをしていたか、そのときどんな気持ちがしたか・・・ そのようすときたらこっちが気圧されるくれえだ・・・

 八日ほどの間行方不明だったのち、岸辺に打ち上げられて気を失っていた男の話もある。彼は懸命な看護のおかげで息を吹き返したが、それまでハイ=ブラジルの地に<取り去られ>て、そこの人々と話を交わしていたのだと語った。彼が少し呆けたようなようすをして、目ばかり異様にぎらぎらさせていたので、もう長くないだろうと考える者もあった。この男はやがて自分の故郷に帰り、そこで死んだ。

 あるいはこういう記録もある、あるときコネマラの沖あいに出た漁船が嵐に遭って、吹き流されて三日三晩帰れなくなったことがあった。そのときに彼らはとある大きな島のそばを通過したが、だれもそんな島をそれまでに見たことがなかったし、海図にも記されていなかった。彼らはその非常に近くを通ったので、島の斜面で草を食んでいる羊の姿を見ることができたほどだった。彼らは恐れてそこに上陸せず、そのままに立ち去った。それがもしかしたら伝説のハイ=ブラジルで、足を踏み入れたら魔法をかけられてしまうかもしれないと考えたのである。

 別の漁船がやはり嵐に吹き流されて、今まで見たことのない土地にたどり着いた。この人々はそこに上陸した。するとすぐに見知らぬ人がやってきて、立ち去るようにと彼らに告げたので、彼らは立ち去った。しかし、その人は彼らが立ち去るときに、そのうちでいちばん年の若かった者に、一冊の書物を与えた。それはラテン語だか、昔のアイルランド語だかで書かれた医学と物理の本で、それを与えられた若者は、それまでついぞ学問などしたこともなかったのに、突如めきめきと才能を現し、ついにその道の偉い博士になったのだという。・・・

 かつてはあった、今はもうない、すべては海の底に沈んでしまった・・・
 すべてはばかげた作り事だ、荒唐無稽なおとぎ話だ、曖昧模糊としておぼろげな言い伝えだ・・・

 そうかもしれない、しかし我々はどう考えようか、何と説明をつけようか、これら島のそこここに、今なお残るとほうもない遺跡のかずかずを・・・ それらはたいがいが円形の石砦である、いずれもモルタルを使わずに、打ち割った石をひたすら積み上げて造られている・・・ どれほど昔のものか見当もつかない、あるいは有史以前、太古の昔・・・
 それだのにみな非常な規模の大きさと、不可解なまでに精密な設計構造とを併せ持ち、うたがいもなく強大な国家の存在を物語る・・・ いったいだれがこんなさいはての地に、これほど堅固な城砦をいくつも必要としたのか、かくも荒れ果てて、何もないに等しい土地で、何をそんなに守る必要があったのだろう?・・・

 なかでもとりわけ有名で、強い印象を与えるのは、イニシュモア、いちばん大きな島の南端の崖ふちに、三重の石塁にまもられて忽然とそびえる ドゥーン・エインガサ、エインガスの砦である・・・ 半円形にとりまかれて、石塁の途切れるところで それなりすっぱりと海へ切れ落ちている・・・ 異様な風体である・・・ いやじっさいにはそれは円砦であったのだ、もちろん、それが築かれた当時には。その後なにか言葉に尽くしがたい大変動が起こって、大地はここですっぱりと切り断たれ、それとともにかつてあった方の半分もまた、海底深く没してしまったのだ・・・ それはじっさい目にすれば誰しもが理解するだろう、人は、崖っぺりに面していきなり砦の半分だけを造ったりするものではない、・・・そんなことはあり得ない、狂気の沙汰だ、まるで我と我が身を包囲して攻め落とさんとするに等しいではないか?・・・

 こうしたことのすべてが人を不安にさせる、こんなふうに、理性と秩序のゆき渡ったおだやかな文明世界を遠く離れて、原始の荒々しい力、その混沌、その狂気にひとたび触れるや・・・ 人はなにか危険な感覚をおぼえる、その力があまりに激しいので、なすすべもなく、たちまちその中へひきずりこまれてゆきそうな・・・ 今やゆらりと時空がゆがみ、波打ってひるがえるように、眩暈のするようなコペルニクス的転回の感覚、そう、彼ら今もこの地に住む人々は、ひょっとしたらさいはての地に辛うじて命をつなぐ、無知蒙昧な民などではなくて、あるいは富み栄えた王族や賢者たちの子孫なのかもしれない、もしかしたらかつては逆に、此地こそヨーロッパ文明の中心地だったのかもしれない、いまだ人が知ったことのない、きわめてすぐれた文明が、じっさいここで華開いたのかもしれない・・・ 誰が知ろう?・・・

 かくて我々が今ここに得る情景、それはただそればかりならず、また過ぎ去った昔をひも解く手がかりともなるのだ、それはちょうど、かつてこの地でくり広げられた壮大なスペクタクルの、ひとたび幕が降り、役者たちが去って、舞台装置が注意深く片づけられてなお、よく見ればここにひとつ、あそこにひとつ、アリバイとして雄弁な証拠が残されていて、耳を傾ける者さえあればすかさず語りはじめんとして待ち設けているかのごとくである・・・

 それは本土にかえりみても同じこと、かのモハーの崖、茫々として風吹き渡り、人のものさしでは計りがたい光景、この高み、この峻厳、心の近づくことを拒むようなこの超越は何ゆえであろうか、かくも容赦のない、かくも荒々しいばかり、怒りの剣によってひといきに両断せられたかのごときこの断絶は何ゆえであろうか?・・・ それらを前にしては、ただ言葉を失って立ち尽くすよりほかない・・・

 そう、その日はちょうど、すこし肌寒く、うっすらと霧がかかって、あの日下り来た道を再びのぼっていって、広々とした荒野に出ると、一面の白い空、スゲの茶色が霧にけぶって、かすみゆくところまでただ茫漠と広がりわたるばかり、ゴースの黄色もおだやかにやわらいで、そこここにアクセントとして目を引くばかり、連なった岩壁は潮風に黒く沈んで、じっと黙して佇んでいた、あれほど心打たれる光景に、私はそれまで出会ったことがなかった・・・

 それは一体どんな誓約だったのだろう、と私はそのときふしぎに思った。そしていったいどんないきさつで、それは避けるべくもなく破棄せらるるに至ったのかと。・・・ というのははじめて目にしたとき、それは即座にそのまま、引き裂かれた誓約のように私の目には映ったのだった、そういう印象を私は受けた、だれかの一生を賭した真剣な誓約が、ただほんのいっときの心の迷いのゆえに無残にも引き裂かれ、踏みにじられてしまった、そのような記憶を永久に刻まれた風景と、そう私には思われたのだった・・・

 この崖とかの崖と、本土のモハーのそれとアランの島々のそれとは、悲しみと諦めとを湛えたまま、とわに隔てられた互いどうしを眺めやっているように見える、いやそんなはずはない、はじめからこんなふうだったはずはない・・・ もとはすべてがつながっていて、ひとつだったのだ、もちろん。そしてこれらとり残された島々の向こうにはさらに陸地がつづいていて、しかもそれらはよく肥えた、みどりゆたかなうるわしい土地だったのに、何かが起こって、何か衝撃的なできごとが起こって、しかり、今では水中深く没してしまった・・・

 吹きすさぶ風にちぎれ、とぎれとぎれにひびく呼び声、ふきすさぶ風の中に、白く凍てついた虚空のなかに、その日私は風神のふり向いた横顔を見た、冷ややかな無表情の、きりりと整った顔だち、うす青いろの半透明の衣の裾をひるがえしてみるまに天高く駆け去りゆく、 ・・・うつろいゆく海の色、その遠いとどろき、かなたへかなたへ、想像を絶する神代の昔、天の下に遠く広く名を馳せて、そのかみこの地を支配していたのは・・・

  *****************************************************

 風神エインガスは、その好色なことでは並ぶ者がなかった、誰もそれを知らぬ者はなかった・・・ 神々の乙女たちであろうが、精霊の女たちであろうが、はたまた人の子らの娘たちだろうと、手あたりしだい、女と見ると放っておかない、その彫像のごとき、天与の美貌、わずかな折でもすかさずとらえて、心をとろかすような甘い言葉でもって囁きかける、どんなに用心深い、身持ちの堅い娘も、ついうっとりと魔法をかけられたようになって、気づいたときにはすでに意のまま、その手並みのあざやかさはすでに芸術の域である・・・

 若い娘をもつ親たちは恐れて手をもみ絞った、彼がやってくると見ると娘たちを戸のうちに呼びいれ、しっかりと錠を差し、そして厳重に言い渡す、あいつが通り過ぎるまで、一言も口をきいてはいけない、音を立ててもいけない、ただもうひっそりと、誰もいないようなふうをしておいで。・・・

 ところが困ったことには、この地方一帯はなべてこの風神の領分なのであった、だれも彼が好き勝手にゆきめぐることをやめさせることはできず、彼がいつやって来るか、予測するのもままならなかった、広大な西部の海岸地域のあちらこちらを、彼はただ心のおもむくまま、天駆けてはその衣すそをはためかせ、高くひくく吹きすぎゆくのだった・・・

 ある日のこと、ちょうど虫の居所が悪かったのか、その日のあいだずっと、彼はただもうむちゃくちゃに、海のおもてを駆けまわっていた、そのために海は荒らぎだち、底を掻き立ててその色を濁らせた、暗雲のうずまいて暗く、ものみなすべてが風神の激情に和して轟いた・・・ そのとき、あまりに海を荒だてたのでその波が深く分かたれ、海神エントロポスが海底深くに隠しておいた、美しいひとり娘ユーナの姿を垣間見させてしまったのだ・・・ 

 彼女の姿を目にしたとたん、エインガスはほかのすべてを忘れてしまった、彼は激しく恋い焦がれ、そして何とかその姿をもういちど見られないものかと、来る日も来る日も海上を彷徨っては吹き散らした、それでもそれは叶わなかった・・・

 そこで彼は浜辺へおりていって、海神エントロポスに向かって大声で呼びかけた。
 エントロポスはエインガスのことを好いていなかったので、はじめは黙して答えようとしなかった。
 けれどもエインガスがいつまでもしつこく呼びつづけるので、ついに姿を現して、
「エインガスよ、何の用だ」と尋ねた。
「お前の娘ユーナを私に与えてほしい」とエインガスは言った。
「お前が何者であるか、知らない者があろうか」とエントロポスは言った。「私と私自身の言葉にかけて、私は自分の娘をお前のような浮気者に与えはしない」
 そうして彼は姿を消してしまった。

 そこでエインガスは再び浜辺に立って、エントロポスがまた姿を現すまで大声で呼びつづけた。
 エントロポスは再び現れると、「エインガスよ、何の用だ」と尋ねた。
「お前の娘ユーナを私に与えてほしい」とエインガスは言った。
「お前が何者であるか、知らない者があろうか」とエントロポスは言った。「私と私自身の魂にかけて、私は彼女をお前のような恥知らずに与えはしない」

 こうしたことが七たびつづいた。
  ついにエントロポスは疲れてしまい、根負けして、言った、「お前が天と地にかけて誓い、今後はほかの女を追いまわすことを一切やめて、生涯私の娘だけを愛すると約束するなら、私はユーナをお前に与えよう。しかし、少しでもあれに辛い目を見せるようなことがあったらすぐに、私はあれを手元に取り戻し、そして二度とお前に会わせることはしない」
 するとエインガスは言った、「それでよい」と。こうして海神の娘ユーナはエインガスの妻となった。

 ユーナが、ふるさとの海をいつもそばに見ていたいと言ったので、エインガスは海を見下ろす高い丘の上に館を築き、塔をたて、三重の石壁でそのぐるりをめぐらして、彼女がその窓からいつでも海を眺められるようにした。これが世に聞こえたドゥーン・エインガサ、エインガスの砦である。・・・

 さて、しばらくはエインガスはユーナに夢中になって、大切にもてなし、心を尽くして彼女を愛した。しかし、少しすると飽きがきて、また以前のように、心のままに領土のうちのあちらこちらを駆けめぐるようになった。するとまた、あまたの若い女たちが彼の目にとまったが、海神エントロポスとの約束を思い出して、強いて目をそらすようにつとめるのだった。

  しかし、大地の娘マノアが灌木の茂みのあいだから身を乗り出して、思わせぶりな仕草で髪を梳きながら、彼に向かってあでやかに笑いかけた。と、たちまち彼は我を忘れ、鷲のように舞い降りて、そのあらわな肌を抱きすくめた。

 そのとき、海神エントロポスの怒りが燃えた、大地は激動して張り裂けた、わだつみのその底知れぬ力が、娘ユーナをその館ごと、その手に奪い返そうとして地を揺るがしたので。・・・

 そのとき、エインガスの砦、彼がユーナのためにきづいたうるわしい塔と館とは、その円砦のまん中のところでまっぷたつに裂け、とどろきとともに崩れおちて沈んでいった、大地からもぎ離され、さかまく水の中へのまれて消えた、こうして海神の娘ユーナはそのふるさとへ、海の底深くへと帰っていったのである・・・

 そのとき、風神エインガスの地、みどりゆたかな露くだるそのうまし国は、泡だちうずまく波の中にのまれて沈んでいった、地うなりとともに、その地に住むすべての者たち、人も動物も精霊たちももろともに。・・・ このとき生じた恐るべき衝撃のために、砕かれた大地のかけらが三つの島となって残った、それが今のアラン、・・・イニシーア、イニシュマーン、そしてイニシュモアである・・・

 我に返ったエインガスは、おのれの犯したあやまちが、取り返しのつかない事態を招いたのを見た。たちまち はやてのごとく、彼は大地の上を渡ってゆき、ぱっくりと生々しい傷口をあけた大地のへりを蹴って海原の上へ飛び出した・・・ この部分が今日モハーの崖として知られているのである・・・ ついで三つの島を飛び石のように次々ととんで、ついにそのいちばん端のところへ至り、そこで変わり果てた砦の姿を、その空っぽの残骸を見たのである・・・ 突如たる大変動に空はもうもうたる土けむりに暗くけぶって息もつけぬ、海は掻き立てられて不吉に濁り、おどろおどろしい色調を呈して、すべては混沌と破壊と激怒のすさまじい様相である・・・

 エインガスはそこに立って、大声で叫んだ、悲しみのあまり胸も張り裂けんばかり、長い髪をかきむしって号泣し、そしてそれこそ声が涸れはてるまで、妻ユーナの名を呼びつづけたが、こんどというこんどはむだであった、二度とふたたび海の中から答えが返ってくることはなかった、怒りに沈黙したまま、掻き立てられて不吉に濁ったその海からは。 ・・・遥か遠く、掻き曇った空と海のまざるところまで、その叫びがいくえにもこだまして響きわたった、すべてを失って独りぼっちになったエインガスの、その絶望の叫びが。・・・

 これらすべては遥か昔の物語、エインガスもほかの者たちも、みなすでに神々の地へ去って久しく、当地を歩きまわってみても今はただ、虚ろな風の吠え叫ぶばかり・・・ けれどもこれらの断崖はあのとき裂かれて分かたれたまま、今も海原に立ち尽くして、ドゥーン・エインガサ、風神の砦、張り裂かれて本土から断たれたまま、今もアランの南端、大海に面して三重にめぐらされた石塁の、ただ半分だけが残っている、からくも海神の手を逃れたほうの半分が。・・・

  その怒りの記憶を永遠にとどめるべく、すっぱりと断たれたその裂け目も痛々しく、暗い海のとどろくなかに、吠え叫ぶ風のまにまに、今も我々はその悲しみの叫びをきく、とぎれとぎれに、・・・我を許せ! 我を許せ! ・・・戻って来い! と。・・・
 
 ***************************************

 何て単純な物語だろう、全く、すじを語るのに何分もかかりはしない、ほとんどアダムとイヴの物語と同じくらい単純だ・・・ これがそのいきさつだったというのか、たかだかひとりの女への不実のために、大地は引き裂かれねばならなかったのか、たかだかひとつの裏切りのために、彼らは楽園を追われねばならなかったのか?・・・ こんなふうにも思える、たぶん、もっとも古くてもっとも真実な物語は、いつでももっとも単純なのだ・・・ それはいつでも、同じひとつのことを言っている、同じひとつのこと、すなわち、人間は愚かだということを。・・・ 人間はいつの世にも、どうしようもなく絶対的に愚かであって、何百万年たってもそのことに変わりはないのだ、この強烈なメッセージの前には、大陸のまん中の方で唱えられてきた進歩だの理性だのといった教説が、まるですっかり色褪せてしまう・・・

 ひとりの愚かな男の犯したあやまち、そこにはオセローの誤解も、マクベスの策略もない、ましてハムレットの理念などもうとうない・・・ 人間は、ただあやまちを犯す、ほかに何の理由もなくて、ただ人間であることそのもののゆえに、どうしようもなく、不可避的にあやまちを犯すのだ・・・ それゆえに誓約は破られ、禁忌は犯され、愛は失われ、大地は断絶せられるのだ、そしてだれにも、どうしようもない、このことを食い止めるには。しかして誓約は破らるべく、禁忌は犯せらるべく、愛は失われるべくあって、大地は断絶せられるべく、とうより運命づけられているのだ・・・ それゆえに、すべての歌に、すべての物語に同じ悲しみが宿る、・・・人間であることの悲しみが。・・・

 茫々と吹きすさぶ風のなかを、海べりの崖ふちをさまよいながら、私は霧のなかにきれぎれの幻を見た、・・・あのときこの断崖のところへ、その残響もいまだやまず、裂かれた傷も生々しいこの断崖のところへ、かなたから息せききって駆けつけたエインガス、ひと目見るなりそのふちを蹴ってかなたの海へ、アランへと飛び去ってゆくようす、その力強い足蹴にふたたび大地はとどろいて・・・ 鋭くとがったその岩面は彼の足裏を切り裂いて血を流させたけれども、あまりの感情の強さゆえ、そんなこと気がつきもしなかった。・・・

 あるいはまた、窓敷居に手をついて、ふるさとの海をもの想いに沈んで眺めやる海の娘ユーナ、おおきな碧い瞳、うつくしく澄んだ、あの日私が見た海のような あのような色をした瞳の。・・・ あどけない、まだごく若い娘なのだ、ほんの少女なのだ、ほとんど白に近い、波打つこがねの髪、真珠のつぶと海の泡つぶをちりばめた額飾り、それに独特なデザインの、こまかな透かし模様の一面に施された 象牙色の長い衣をまとって。

 彼女の父の家はどんなだったろう、彼女がその日 あとにしてきた父の家は。・・・ 海底に築かれた壮麗な城、さんごや巻き貝に飾られた・・・ いや、そんなものはなかったのかもしれない、風神エインガスがただその心のままに大地のおもてをゆきめぐっていたのと同じく、彼らもまた海の王国の、あらゆる果てをゆきめぐっていたのかもしれない・・・ 風神の激情のために海が割れ、思いがけずも乙女の姿をかいま見させたその日まで。・・・ 豪壮な海の深み、晴れた日にその暗いおもてを覗きこむと、光と影の強いコントラストのためにその色あいはいっそう強調せられて、ほとんど真っ黒に見えるほどである・・・ ひとたびその怒りを引き起こすや、底知れぬ力をもってすべてを破壊せんとするその激しさを秘めて。・・・

 大地の娘マノア、彼女もまた美しかったことだろう、浅黒い肌、彫りの深い顔だち、ゆたかな黒髪、したたるような芳淳な色気と・・・・ 風神エインガスとむしろ同じ魂をもっていたのは彼女だった、彼らはともに、今日この日の光あふれるかがやきのために生まれてきた子供たちだった、粗野で愚かで、忘れっぽい子供たちではあった、が、同時に生きる喜びに溢れていた。今この瞬間の感覚がすべてで、すべてで、約束だとか誓いだとか、あるいは忠実さであるとか、そういった考えとはどこか根本的にそぐわないところがあった。・・・

 かくて海と大地とはついに互いの心を知ることなく、かの切りたった断崖のごとく、そこには今もなお、永遠なる断絶があるばかりである・・・ アランの島の岩壁をなすのは本土のモハーの崖と同じ、砂岩と頁岩と石灰岩である。これらの島々がもとはクレアの本土とつながっていたことが、今では地質学的に立証されている。私はこのことを、のちになってさる文献で知ったのだが、そういったこともいわば事後報告として知ったに過ぎない。もちろんそうに違いないことを、私はとうより知っていた。当地の精霊たちが私の耳に囁いた物語が、人間の後知恵たる学問的検証とかいうものと食い違うということがどうしてありうるだろうか、間違っているとしたらそれは人間たちの方に違いない、結局のところ、彼らはあとからやってきた者たちにすぎないのだから。・・・ 晴れた日に遠く沖合いまで漕ぎ出してゆき、どこでもいい、島を過ぎたあたりからかえりみて本土の側を眺めやるとき、これら島々の岸壁と、遥か遠く横たわるモハーの陸影とがぴったりと重なって見えるのが分かるだろう・・・

 かくて海と大地とはついに互いの心を知ることなく、そこには今もなお、かの断崖のごとく永遠の断絶が横たわるばかりである・・・ 胸も張り裂けんばかりの激情も、長いときを経るうちにしだいしだい、やがておだやかに鎮まりゆきて、ついにはなおも とわにとりついたしずかな哀しみとなって、心に滲み入るカモメの細い叫び、ゆきずりの身にすぎぬ旅人の、ただせきあふる涙を誘ふばかりである・・・

 切りたった崖の岩肌づたい、吹きなぶられて駆けくだりゆく、我はかもめ、波のおもてに触れる手前でさっと翼をひるがえして潮しぶきにその尾をぬらし・・・ 展開部は暗く沈んだ岸壁に、間断なく打ち寄せる波の砕けるリズムである、あれから耳にとりついて離れない、白い虚空に吹きつける風に身をさらし、褐色の荒野を彷徨ひ歩いたかの遠き日々、この胸によみがえらすたび、今なおひびくはかの調べ、そは風神エインガスの嘆息のごとく、とどろきわたる波のまにまに、たかくひくく・・・

* この章で私がアランおよびその周辺に残る伝説や言い伝えについて記したことのほとんどは、P. A. O Siochain 著 Aran Islands (Kells Publishing Co. Ltd. 1962) によっている。私はこの書物に、当地にほど近いある島の公民館で出会った。そのいきさつについては、後に詳しく記す。
*2 エインガス Aengus は一般的なケルト神話においては風神ではなく、若さと美と愛の神である。