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2014年01月29日

夢想集ムーア・イーフォック 目次


<夢想集ムーア・イーフォックについて>
これは私がおもに16から19歳くらいのハイティーンの頃に書きためた小品のうち、ちょっと不気味で深淵に触れるような感じのを中心に。
ムーア・イーフォックはディケンズのエピソードから。あるときコーヒー・ルームのガラス戸を開けて入ろうとしたら、ガラスの文字が左右逆に映ったMOOR EEFFOC という文字が目に飛び込んできて、その瞬間まざまざと、荒涼としたイーフォック荒野の情景が広がったのだという。
日常のふとした瞬間に突如出会う異界の感覚。

目次

1.眺めのいい岩場

2.ムーア・イーフォック

3.名残りの薔薇

4.救出作戦!

5.卑弥呼

6.メーテル

7.アップル&ティース

8.ホッツェンプロッツの星

9.ネリー

10.マエストーソ氏の気象学講義




  

2014年01月29日

眺めのいい岩場

何度か夢のなかで行ったことのある場所。

     夢想集ムーア・イーフォック 1
      眺めのいい岩場


 ここからずっとずっと遠くに、そう、岩山をのぼっていく途中のところに、とてもすてきな岩場があって、私は三回くらい、そこへ行ったことがある。私一人のときもあったし、ヴィクトールが一緒のときもあった。
 そこの岩山は、缶詰をたくさん積み上げてつくったみたいな地形をしていて、岩肌はなめらかだし、自然の山というよりはむしろ、巨大な建造物の廃墟に似ている。実際、その辺に彫刻をほどこされた大昔の柱の一部がうずもれているのを見たこともある。だから、根気さえあれば、ふもとから始めて自分の足でのぼってきてもいい。ずっとのぼってくると、そのうち左はしにスフィンクスの石の翼の片方が見えてきて、それが目印だ。けれど、何しろここはとんでもなく高いところにあるし、岩壁がすごくけわしくて足場を探すのが大変だから、できるなら空を飛んできた方がいい。自分で飛べないのなら、空飛ぶ自転車とか、空飛ぶ藁ぼうきとか、何か飛ぶものに乗って。そして、岩場のふちにのりものを横づけしたら、けっとばしたいきおいでのりものと岩場との間に大きなすきまができないように、注意深く気をつけて足場を移す。
 ここは一見ごくふつうの岩場に見えるけれど、ほんとにすてきなところだ。階段の踊り場と、劇場の二階席のテラスを合わせたような形をしていて、すぐ後ろから岩の根っこがのびているので、柱の台座みたいでもある。あんまり広くはない。むしろ、ちょっと狭いくらい。だから、うっかり眠りこむと、転げ落ちるかもしれない。
 できるだけちぢこまって、下界を見おろす。ここから見おろすと、世界はいつもうっすらと霧がかかっている。女王さまの馬車が岩の間にひっかかっているのが見えることもあるし、向こうのはしから人が歩いてきて、あんまり考えごとに夢中になっているので、こっちのはしから別の人が歩いてくるのに気がつかないで、うっかりぶつかったりするのを見ることもある。ここから見おろすと、万華鏡みたいに、世界中のあらゆるものが見える。望遠鏡で見るように、見たいものを何でも、すぐ近くで見ることができる。モンマルトルの暗い石造りの通りも見えるし、ノートルダムの屋根の上の怪物たちを一匹ずつ、手をのばせばさわれるくらい近くで見ることもできる。私がここを好きなのは、ここにいると世界から超然と孤絶しているという感じと、世界のすべての部分とすごく密接につながっているという感じとを、同時に持つことができるからだ。
 最初にここへ来たのは、飛び方を覚えて間もないころで、はじめて遠出したときのことだった。はじめて遠出するときというのは、はじめてハイウェイに乗るときと同じで、少し緊張するし、少しどきどきする。明け方に出発して、しずかな通りを抜け、黒く広がる森をこえ、岩山の上をずっと飛びつづけて、さいごにここへたどりついた。あのときも石の翼を目印にしたっけ。こんなに長いこと飛んだあとだから、うまく着地できるかどうかちょっと心配だったけど、大丈夫だった。ああ、思い出すなあ! あのときの、わくわくした感じ。もしかしたらヴィクトールも一緒だったかもしれない。でも、もう覚えていない。
 それからも、危険が迫ったときや、追手から逃れる必要があるときにはちょいちょいここへ来たものだ。そうそう、ヴィクトールと一緒に、竜を助け出したとき。この竜は、もともと詩人だったのだが、無韻詩を書いたというので告発され、市の当局によって聖ゲオルグの城に幽閉されてしまったのだ。かわいそうに。それで、ヴィクトールとかわりばんこに、裏庭に面した側の窓のかんぬきを根気よく鉄やすりで切り落としたのはいいが、竜が窓から脱出するとき、うっかりしっぽで壁の一部をこわしてしまったので、すぐさま奴らに気づかれてしまった。あのときは、竜はさっさと自分の国へ飛んで帰ってしまったのでよかったけれど、私たちの方は奴らにさんざん追っかけまわされたあげく、間一髪でここへ這いのぼって、やっと振り切ることができたのだった。あれから数回めのクリスマスまで、竜は毎年きれいなクリスマスカードを送ってきた。今もますます円熟の境に入りつつ、詩作に励んでいるらしい。
 それから、さいころのかたちをした迷路に迷いこんでしまったとき。あのときは、ほんとにうんざりした! あれこそ全然だれの役にも立たない、むだな苦労だった。一生ここから出られないんじゃないかと思ったものだ。それは数学の公式みたいに幾何学的な迷路で、赤、青、黄の三色に塗られていた。ところどころに巨大なトライアングルがあって、カーンとならして、その振動がとまらないうちに中をくぐり抜けなければならなかった。教授と、その一行と一緒に、やっとそこを抜け出したあと、やれやれと言ってみんなでここへ来てコーヒーを飲んだものだ。でも、あれだけいやな目にあったあとでここへたどりつける嬉しさは、また格別だった。
 もう長いこと、あそこへは行っていない。行こうと思って行けるものではないみたいだ。今朝がた、夢の中でスフィンクスの翼がはばたくのを見た。だから、あそこが近いっていうのは分かったが、もう一度たどりつくことはできなかった。

 (1999)






  

2014年01月29日

ムーア・イーフォック

ある日見た夢の記録。目が覚めたあと、あれがムーア・イーフォックだったに違いないと思った。

      夢想集ムーア・イーフォック 2
        ムーア・イーフォック


 コーヒールームのガラス戸の向こうに突然ムーア・イーフォックの出現を見て、瞬間「血管を衝撃が走る」のを覚える若き日のディケンズ。・・・無理もない。イーフォック荒野は恐ろしいところだ。私も一度だけ、行ったことがある。二度と行きたいとは思わない。そこは駝鳥やジャッカルが住み、やぎの形をした悪霊がはねまわる、呪われた地なのだ。ヒースやとげだらけの灌木が人の背丈ほどにものび、からみあい、立ち枯れて、そこを行こうとする者を妨げる。空は晴れたためしがなくて、いつも不吉な鉛色に垂れこめている。そこに一日いると気が滅入り、三日いると我慢できなくなり、一週間いると発狂する。
 特に始末が悪いのは、あのやぎだ。夜の闇のように真っ黒くて、水牛よりばかでかくて、暗い目をした、狂暴なやぎ。あれは、もちろん本当のやぎじゃない。その証拠に、よく見るといつでもはしの方が少しぼやけて、後ろにあるものが透けて見える。やつは<悪>のメタファーだった。やつを見ると、だれもがぞっとして凍りついた。その頃、イーフォックにはナチの黒幕の残党たちも亡命してきていたが--ちびとのっぽと合わせても四、五人といったところだったろう--そいつらでさえ、あの黒やぎの前には全くちっぽけな存在に見えたものだ。
 悪には悪意が関係していると考えるのはまちがいで、悪というのはもっと容赦なく非人格的な力だ。それは盲の狂人のようなもので、何の予告もなく、全くふいに、我々のもとから愛する友を奪ってゆく。けれど、フェルディナンドがしょっちゅう我々に言っていたように、やつの存在を知っていることは大切だが、必要以上にやつのことを考え続けてはいけない。他のことが何も考えられないまでにやつに対する恐れが自分の頭の中を占領するのを許してしまったら、それこそやつの思うつぼだ。やつはつけあがり、ますますいい気になってふくれあがり、君に襲いかかろうと近づいてくる。
 その頃、イーフォックにはナチの残党を追ってやってきた追手たちも来ていて、そこですさまじい追跡劇を繰り広げていた。我々もあやうくそれに巻きこまれそうになって大変だった。どっちに出くわしてもまずかった。だれもナチの残党なんかに出くわしたくないし、かと言って血に飢えた追手たちに出くわしたら、こっちまで八つ裂きにされかねない。さらにその上、あのやぎと鉢合わせしないように、細心の注意を払う必要があった。でも、何しろ茎や根っこがどうしようもなくからみあっていて、一フィート先に敵がいても分からないのだ。我々はいつなんどき敵に出くわすかと、進んでいく間じゅう、ひやひやし通しだった。
 明け方ごろ、我々はヒースの茂みのかげに身をひそめ、息を殺して、例のやぎが気が狂ったように飛び跳ねていくのをやり過ごした。背骨のように節くれだった長い角はあらゆるものを蹴散らし、かき砕き、天をも突かんばかりだ。長い毛はくっつきあって、ぶざまに垂れ下がっている。その黒々とした姿は周りを威圧し、どんどん膨脹して、あらゆるものを飲み込んでゆく。
 我々はその姿を見て、あらためてぞっとする。それは狂暴で、絶望的なまでに孤独な姿だった。

 (1999?)





  

2014年01月29日

名残りの薔薇

当時のある日見た夢。

          夢想集ムーア・イーフォック 3
             名残りの薔薇


 このあたりでも、時々上空を戦闘機が飛んでゆくのを見ることはあったが、全体としては、まだ十分のどかで、平穏だった。
 こちらに移ってきてまだまもないある夏の日のこと、ジェニーは照りつける太陽の下、一人で探検に出掛けていった。ぼうぼうに生い茂る広い草地を一つ越えてずっと進んでいって、しまいに一軒の廃屋を見つけた。打ちっぱなしのコンクリートの、ひどく殺風景な四角い建物だった。その周りには、もとは庭園だったのだろう、ばらや菩提樹やリンゴの木なんかがひとかたまりになって植わっていたが、もうだいぶ前から打ち捨てられ、周囲の草地とのさかいめが分からなくなっている。その光景を見て、ジェニーは不思議に心を動かされた。そして、トマス・ムアが<名残りの薔薇>を書いたとき、心の中に思い描いていたのはきっとこういう場所だったに違いないと考えた。
 扉を開けて中に入ると、中は物置きみたいに、こわれた家具や色んながらくたがいっぱい押し込んであった。大きな窓から陽が差し込んで、けっこう明るかった。二階に通じる古い木の階段を用心深くのぼってゆくと、ちょうど上から誰かがおりてくるのに出会った。それは小さな男の子だった。七才くらいの少年で、金色の巻き毛と小生意気ないきいきした瞳を持ち、子供用に仕立てた水平服を着ている。そして、もったいぶったかっこうで大きな木製のトレイを下げていたが、その上には小型の消火器が置かれ、その首のところに細い鎖が巻きつけられていて、鎖のはしはトレイの取っ手のところに結びつけてあった。
「こいつが逃げ出さないようにね」
と、少年は説明した。
「ここへ連れてこられると、みんな隙をうかがって、逃げ出そうとするんだ。そうすると、そいつらを捕まえて、銃殺しなくちゃならなくなる。それじゃ、かわいそうだろ? 実際、少なからぬ連中が、そういう目に遭ってるんだ。ランプとか、こうもりがさとか、水門のハンドルなんかがさ。裏庭に行ってみれば分かるだろうけど」
と言って、少年はあごで指し示した。
「十字架がいっぱい立ってるんだよ・・・そいつらのお墓なんだ。雨の日なんか、見てるとちょっと惨めな気分になるぜ。十字架は地面から突き出た白い骨みたいだし、窓ガラスの雨粒はあいつらの涙みたいでさ」
「でも、その連中は、何のためにここへ連れてこられるの?」
とジェニーは息を詰めて聞いた。
「何のためにって? もちろん、映画の役を演ずるためにさ。役者が脱走しちまったら、映画が成立しないだろ?」
 それから、少年とジェニーは砂だらけの階段の、陽の当たるいちばん下の段に座って、ちょっと話をした。
 しばらくしてジェニーは街へ帰り、学校に戻った。その後奨学金を得てアメリカに渡り、結局、残りの生涯をそこで過ごすことになった。けれど、彼女は大人になってもその日のできごとを忘れなかった。
 一方、戦争の終わった次の年の夏、この廃屋はドゥルーズ監督の戦後第一作の映画の撮影場所として使われることになった。その映画のタイトルは<名残りの薔薇>だった。

 (1999)





  

2014年01月29日

救出作戦!

当日のある日見た夢。


        夢想集ムーア・イーフォック 4
             救出作戦!


 Aはまだ暗いうちに電話のベルでたたき起こされた。ねぼけまなこで受話器をひっつかみ、耳に押しあてると、指令本部からの電話だった。7時57分の環状線に乗って、反対方向から来るKと電車の中で落ち合うようにとの指令だ。反対方向から来るKと、どうやって電車の中で落ち合うのか見当がつかなかったが、考えても仕方ないので言われるとおりに乗りこむことにした。熱いお茶をすすり、薄明かりの中でセーターを頭からかぶって、駅まで自転車をすっとばしていく。
 動き出した列車の窓から見ていると、やがて向こうから別の列車がやって来た。そして、こっちの列車とすれ違うとき、窓の一つからKがさっと飛び出して、こっちの窓にひらりと飛び移り、乗り込んできた。
 KはAの向かいの席に腰を下ろすと、ネクタイの曲がりをちょっと直し、「さて、と」と言って書類かばんを取り出した。Kによると、どこそこの屋敷にもう一人のKという人物が捕われの身となっていて、Aの使命はこの人物を助け出してくることなのだった。Kは手帳のはしにこの屋敷の住所を書き記し、そこのページを破り取ってAに渡した。それから別の紙に、屋敷の見取り図を書きながら説明し始めた。
「東門の近くのこの辺に」
と言いながら、Kはシャープペンで紙面をこつこつたたいた。
「ハリエニシダの植え込みがあって、その根もとに、排水口の鉄製のふたが埋まっている。我々救出部隊はすでに、屋敷の塀の外側からこの排水口に通じるトンネルをこっそり切り掘って、入り口のところで待機している。だから君は、Kを探し出したら、このハリエニシダのところまで連れてきて、いっしょにトンネルをくぐり抜けてくるんだ」
 Aに手順を説明し終えると、Kはまた書類かばんを下げて、あたふたと電車の窓から飛び出していった。
 Aはそれからさらに電車を何本も乗り継いで、指示された場所へ赴いた。
 正面の門の扉は固く閉ざされていて、ベルをならしてもガンガンたたいても誰も出てきてくれない。仕方がないから梯子を持ち出して塀をのりこえ、広い果樹園を抜けて、台所の窓から屋敷に侵入した。ぴかぴかに磨きあげられたあめ色の木の食卓が並ぶ、だだっ広い食堂をつっきったが、そこにもだれもいなかった。扉を開けると、となりは赤いビロード張りの劇場になっていた。そこもがらんとして、だれもいなかった。
 廊下を出て、階段をぐるぐる上がったり下がったりして、また別の扉を開けると、そこはエメラルドグリーンの調度で統一された図書室だった。ここにはちらほら人がいて、立ち読みしたり、しずかに言葉を交わしたりしている。Aはちょっと迷ったが、本棚の後ろにKが閉じこめられているかもしれないと考えた。そこで、滑車つきの台をひっぱってきて、いちばん上の段から順々に本をひっぱり出しては、裏側の壁を調べはじめた。
 すると、人々も、これは危ないぞと感づいたらしく、やたらとAの周りにまとわりついてきて邪魔しだした。はっきりと攻撃的というのではないのだが、不気味な笑いを浮かべては、ただ気持ち悪くまとわりついてくるのだ。Aはとうとうそいつらを振りきって逃げ出した。ところが、その頃にはもう、屋敷じゅうに情報が伝わっていて、そこらじゅう、敵でいっぱいだった。どこへ行っても敵にぶつかる。きりがないのでピストルを持つことにして、まとわりついてくる奴を片っぱしから撃っていく。そして、屋敷じゅうをかけまわって、扉という扉を開けてまわったが、どこにもKはいなかった。
 さいごに追ってくる奴をふり向きざま撃ち殺し、中庭を抜けて、人が鈴なりになった非常階段を押し分けながら降りてゆくと、いちばん下の段のところにKがいた。腰を下ろし、五線譜と鉛筆を手にウォークマンを聞いていて、けんめいに音を聞き取ろうとしている。その姿を見て、Aは、Kが自分のギターの先生であることに気づく。Aが近づいてゆくと、Kはまるで後ろに目がついているみたいに、Aの方を見もしないで言う、
「ごめん、ちょっとまだ、完全にコピーし終わってないんだ」
 Aはあきれ返る。おいおい、こっちは命がけで戦っているというのに、曲なんかコピーしている場合かよ。
「だって、君、来週までに絶対コピーしておけって、言っただろ?」
と、Kは言う。
 ともかく、Kをひっぱって、ハリエニシダの植え込みのところまで息を切らして走り、それから排水口のふたを力まかせにひっぱり開けて、Kといっしょにもぐりこむ。暗いトンネルを、モグラみたいに這って進み、ようやく救出部隊の仲間たちが待っている向こう側へたどりつく。そこではじめて力が抜けた。Aはほっとして腕で顔を拭い、ほおに泥がついているのもかまわず、みんなと手を取り合って笑って、「作戦成功!」と宣言した。

 (1999)





  

2014年01月29日

卑弥呼

これも、当時のある日見た夢そのまま。

        夢想集ムーア・イーフォック 5        
              卑弥呼


 ろうそくの光で明るく照らし出された広い洞窟の中を、群衆が・・・押しつ押されつ、ざわめきながら流されてゆく・・・
 そのいちばん外側のはじを、しかし誰にも劣らない心の高まりをもって運ばれてゆく私には、遠くかすかに、なおも冷たい鋭さをもって感ぜられた・・・彼の敵意が、群衆のどのあたりに紛れているともしれない彼の敵意が、はりつめた糸のように四方へ発せられるのが。
 ざわめく群衆の中心にはあの人がいて、いつもながらまっすぐに顔を上げ、わずかに伏目がちにして、赤い額帯を締め、真っ黒な髪を流し、ひきずるほど長い白装束に身を包んでしずしずと進んでゆく。
 私はいつもいつもあの人を見ていた、他には何も目に入らなかった。いつもいつもあの人を見ていた、ただし遠くから、なぜならあの人のまわりにはいつもいつも群衆がいて、押しの強くない私には、とても近づける状態ではなかったから。
 そんな調子でずっときて、どれほどの歳月が流れただろう。どういう巡り合わせなのか、私にも分からない。ただ、あの人といっしょの舟に乗って行くことになったということの他には。

 あの人と、私と、それから私の黄金丸と。
 けれど、それだけではなかった、心の底では私だって、ひそかに予感していたし怖れてもいたのだ、彼もまたいっしょに行くということを。
 しかしながら、どういうわけか、彼のまわりの空気は私たちのと変わらなかった。彼がおそろしい敵意を抱いているというのは、あれは私の勝手な思いこみだったのだろうか? 私には分からない、しかし、あれが思いこみにすぎないのならその方がいいに決まっている、そしてどうやら実際そうらしい・・・断言はできないけれど・・・
 こうして舟は出発する・・・水晶の岸辺をはなれて、北の海へ・・・
 夜あけ、あたりはまだ薄暗く人影もない。

 ああ! どうしてよりによって彼が、私たちと同じ舟に乗る巡り合わせになったのだろう。彼はいつでも平然として、超然と振る舞い、影のように存在感すら感じさせない。彼はあの人に対しては常にうやうやしく接し、ふだんはめったに口をきくこともなく、そして私に対しても、ことさら敵意も軽蔑も示さない・・・一体これはどういうことなのか?
 それからあの獣だ。全く、あいつはどうしてああも黄金丸に似ているのか? まるできょうだいだ、合わせ鏡だ、遠くから見たら見分けもつきやしない。一体どういうわけで、黄金丸のイメージを増幅し、ぼやけさせることで、黄金丸を貶め、そのアイデンティティーを打ち砕こうとするのか? しかも、悪気などみじんもないような顔をして!
 なお悪いことには、あいつ、ほんとに悪気などみじんもないのだ。ほんとにそうなのだ。礼儀正しく、丁寧で、いつも愛想がよくて・・・しかも、黄金丸より美しい! 毛並みはいいし、ほんとにきれいだ、あの獣は。だれだって、好きにならずにはいられない・・・
 あるとき、私はあいつと二人きりで話したことがある。自分の心がこわかった、黄金丸よりあいつの方がもっと好きになりそうで・・・
 黄金丸は、以前とちっとも変わらない。あいつが現れて自分の影が薄れても、何の気負うところもなく、黄金丸以外の何物でもない。目に入らないと、時々忘れちまうんだ、黄金丸のことを。
 それから、あの人だ・・・あの人のことが、私にはいちばん分からない。無数の崇拝者にとりまかれ、かしずかれていたあの人が、どうして私なんかといっしょにこの舟に乗り込んだのか?
 あの人は袖を合わせて船首にたたずみ、彼方へとじっと目を注いでいる。そばにいても、めったに言葉を交わすこともないのは同じだけれど・・・それでもやはり、遠くから眺めているのと、そばにいるのとでは違うのだ。心の届く半径内にいるのだ、あの人が。そう。そばにいる、それでもなお、天の星のような孤高な輝きを持ち続けて。

 私たちの舟・・・みんなが乗り込んだら身動きもとれないような小さな舟は、今日もそそりたつ氷塊のあいだをぬって進んでゆく・・・目につくものはと言えば氷塊と、鏡のように滑らかな、黒い水面と、うすずみ色に広がる空だけだ。こんな小さな舟、しかし、互いに遠く隔てられた五つの心を乗せて、舟は今日も漂いつづける・・・

 (1996)






  

2014年01月29日

メーテル

4歳のときから、よく理解できないままに強烈に惹かれて見入った<999>へ捧げる愛。

         夢想集ムーア・イーフォック 6
             メーテル


 あのひとはいつでも僕の前にいた。
 僕と向かい合って座り、窓の外を星屑が飛び去ってゆくのをじっと見つめていた。
 来る日も、来る日も--
 そうやって、僕たちは旅しつづけた。
 この果てしない暗黒の宇宙を。

 あのひとのことを、僕は知らない。
 あのひとの生い立ち、あのひとの故郷、あのひとの経歴、
 あのひとが何を愛し、何に苦しみ、何のためにこの旅を続けているのか、
 僕は何一つ知らない。

 あのひとは謎。あのひとは月の裏側。
 あのひとは鍵のかかった扉。

 あのひとの愁わしげな大きな瞳。あのひとの長いまつ毛。
 金の夕陽に照らされたひとすじの滝のような、あのひとの美しい髪。
 あのひとの横顔。
 膝の上で重ね合わされたあのひとの手。
 秋の夕暮れの影法師のような、あのひとの後ろ姿。
 凍える夜には僕を包んでくれた、濃紺のベルベットのあのひとのマント。
 光をあてると紫がかっても見えた、濃紺のベルベットの--
 そう、ちょうどこの宇宙の闇のような。

 窓の外を眺めながら、あのひとはゆっくりと髪を梳く。
 床まで届く長い髪を、くりかえし、くりかえし、あのひとはくしけずる。
「ビーチ・コウマーっていう言葉を知ってる?」
 あのひとがいつか話してくれたのを、僕は思い出す。
「波を梳く人っていう意味よ。浜辺に住んで、浜辺に打ち上げられたものを拾って生活する人のことを、そう呼ぶの。来る日も来る日も海を眺めて暮らすって、どんな感じがするかしら。きっと、自分が海と同化してゆくような気持ちになるでしょうね。海が浜辺を洗い流してゆくように、心をも洗い流してゆくような・・・」
 まどろみの中で、あのひとの髪を梳くやわらかい音が、いつしか浜辺に打ち寄せる波の音に変わってゆく。

 底なしの闇の中を、列車は走り続ける。
 すべて、見慣れぬもの、不可解なもの、恐ろしいものに満ちみちた、この暗黒の宇宙を、列車はひたすらに走り続ける。

 あのひとの瞳に宿る星の光。
 窓ガラスに映るあのひとの横顔。
 あのひとの本当の姿--僕は知らない。
 あのひとの本当の名前--僕は知らない。
 あのとき、透き通る氷の上に膝をついてあのひとが見つめていた、あのひとの捨ててしまった本当のあのひと。

 あのひとは永遠。あのひとは渡り鳥。
 あのひとは終着駅のない列車。

 僕は知っている。
 あのひとは行ってしまう。
 僕の知っていることに、僕は耐えることができない。
 沈黙が--すすり泣く。

 僕と向かい合って座り、
 窓の外を星屑が飛び去ってゆくのを見つめている
 あのひとのまなざし。

 ・・・そして扉が閉まり、ゆっくりと、列車は動きだす。
 ひびきわたる汽笛をならし、もくもくと煙を吐き出して。
 僕は歩きはじめ、やがて走り出す。
 あのひとの顔がだんだんに遠ざかって、ついに見えなくなるまで、
 僕はせいいっぱいの速さで走り続ける。
 やがて列車は地上を離れ、
 空いっぱいに広がった夕焼け空のかなたへ消え去ってゆく。

 ひとりぼっちのプラットフォーム。
 ビルの谷間を吹き抜けてくる、生あたたかい夕暮れの風。
 あのひとは行ってしまった。
 あのひとはもういない。
 またいつか、会えるかもしれない。
 その時には、別の姿をしているとしても。
 僕は必ず探し出してみせる。
 さようなら、メーテル。  

 (1993?)





  

2014年01月29日

アップル&ティース

これは当時NYハーレムあたりのドキュメンタリー番組をたまたま見て、ほぼそのままに書き留めたもの。

          
          夢想集ムーア・イーフォック 7
          アップル・アンド・ティース


 ネオンのきらめく雑踏の一隅に、安食堂兼酒場の<アップル・アンド・ティース>はある。歯医者の歯型みたいながっちりした歯が、大口あけてリンゴを一かじりしようとしている図のサインがかかげられている。都会の喧騒のあいまを縫って、いっときの憩いを求める者たちがここへやってくる。

「・・・戻ってきたら、金を預けた奴の姿が消えていた」
 数日前のできごとを、静かな調子でジョンは語る。
「焦って、どうしようもなくてね、一時間ばかり、この店で粘っていたんだ。そしたら、奴は戻ってきたよ、『君の金は腹ぺこのヒッチハイカーにあげちゃったよ』って言うのさ」
 少しブラックの血が混じった、端正な顔だち。
 彼は穏やかに続けた。
「僕は金や何かを盗られても、あまり怒らないようにしてるんだ。『僕より必要だから盗るんだ』って考えることにしている」
 しゃべり終えると、彼はおもむろに具をはさんだうす焼きのパンケーキをほおった。一口一口、ゆっくりと噛む。

「賭け事はあんまり得意じゃないんだ。あれは、それほど上等な趣味とは言えんと思うがね」
 灰色の口ひげをたくわえた、恰幅のいいベンジャミンは、カネロニの皿を前にむしゃむしゃやりながら意見を述べる。
「わしは釣りをやるんだ。あれはいいよ--人生に通じるんだ。一つ、やっかいなのは仕事に時間を取られることだが・・・まあ、釣りをやる金を稼ぐためだと割りきってやってるよ」
 彼はいかにもおいしそうに食べ、むしゃむしゃやるたびに口ひげが上がったり下がったりする。

 エドワードはカウンターに座ってスープとコカ・コーラを注文する。
「二人の男に、バーン! って殴られてさ。一瞬、意識がなくなったよ」
 自分のほおを殴るまねをしながら、エドワードは語る。
「時計と、全財産を奪われた。このバッグだけは無事だったよ。うん、中身は服だったんだ。この人が、スープをおごってくれた」
 そう言って、彼はバーテンのトマスを指し示す。
「全く、ぶっそうなご時世だよ。毎日、どっかしらでこの手のごたごたがあるんだ」
 ヒスパニック系の顔に愛想のよい笑いを浮かべて、トマスは言った。
「彼の場合はほんとに大変だったみたいだな。嘘をつく奴もいるが、だいたい分かるんだ、話し方やなんかでね。でも、食事とお金はあげるよ、真実は分からないからな」
 大きなコップにジャーッとコーラを注ぎ、カウンターの上に置く。
「で、今はどうやって暮らしてるの?」
と、私はたずねてみた。
「その日暮らしさ」
 エドワードは言った。
「大家が同情してくれて、幸い、アパートは追い出さないでくれてるんだ。警察にも、一応盗難届けを出したけど、まあ・・・彼らも忙しいからな」
 しゃべる合間に、忙しくスープを口に運ぶ。
 食事を終えると、彼は金を払い、小太りの背中に古ぼけたショルダーバッグをしょいあげて、バーテンと私に
「じゃあ」
と言って出ていった。ガラス戸を押し開けて、通りへ出ていく後ろ姿を私たちは見送った。

 しだいに客は少なくなった。からっぽの椅子に囲まれて、私はスコッチをもう一杯注文し、トマスとひとしきり世間話をした。
 そろそろ腰を上げようかと思ったころだった。けさ、ここで朝飯を流しこんでいたピーターが、息せききって店に飛び込んできた。
「きいてくれ、仕事が見つかったんだ」
「おめでとう!」
 トマスが、すかさず応じる。
 ピーターは手近の椅子を引き寄せて腰かけると、喜びに我を忘れ、
「幸せだ・・・とても幸せだ・・・」
とくり返した。
 トマスは彼にマティーニをごちそうしてやる。
「長かったよ」
と言って、ピーターは笑った。
「でも、それももうおしまいさ。今度のは、建設会社の仕事だ。トラクターの操縦で、時給十ドル。悪くないだろう?」
「うん。いつから始めるの?」
「明日からさ」
 カウンターの周辺はにわかにお祭り気分に包まれた。
 店に残っていた全員からお祝いの言葉を浴びせられてピーターが帰ってゆくと、私もそろそろ引き上げることにした。
「朝は何時から店を開けるんだい?」
「七時だ」
「七時! ・・・いくらも寝るひまがないじゃないか」
 トマスは笑った。
「ここらじゃ、腹がへる時間も、一休みしたい時間も、みんなまちまちだからな。大丈夫さ、心配すんなって」

 夜が更けてゆく・・・グラスの底にわずかに残ったスコッチの、琥珀色のきらめき。心にしみ入るトランペットのひびき。
 なりやまぬざわめき。行き交う車のヘッドライト。
 街の灯にふちどられた、うすむらさき色の空。
 夜が更けてゆく・・・

 (1992-3?)





  

2014年01月29日

ホッツェンプロッツの星



           夢想集ムーア・イーフォック 8
           ホッツェンプロッツの星


 小さい頃、夢の中でホッツェンプッツと友だちになった。ホッツェンプロッツは、他のみんなと一緒にホッツェンプロッツの星に住んで、楽しくやっていた。 私はそこに招待されて行ったのだった。あんまり楽しかったので帰りたくなくなった。また平凡な生活に戻り、毎日学校へ行かなくてはならないのかと思うとどうしようもなく気が滅入った。
 帰りたくなくて、だだをこねて泣いていると、それを見たホッツェンプロッツは一枚のぼろ布をくれて、言った。ここへ来たくなったら、いつでもこの布を壁にあてるといい。この布を壁にあてると、その向こうにトンネルができて、そこを通ってくるとここへ来られるようになってるんだ。
 また、ここへ来られるんだ! 嬉しさに悲しみはふっとんで、私は何度もホッツェンプロッツにお礼を言った。
 それからというもの、私の生活には秘密の喜びができた。悲しいとき、退屈なとき、ぼろ布を壁にあてさえすれば、いつでもまたあの星へ戻ってゆかれる。
 そういう日々がしばらく続いて、それから私は目を覚まし、いつものように枕元に手をやってあのぼろ布を探した。ところがそれはなくなってしまっていた。それに気がついてはじめて、そうだ、今までのことはほんとじゃなかったんだと分かった。それが分かったとき、私はどうしようもない悲しみと喪失感に襲われてしまい、それから立ち直るのにしばらくかかった。

 おとなになって、恋人ができて、あるとき恋人とけんかして、三週間会わなかった。(「いますぐ出ていけ、二度とここへ来るな!」)
 こっちはこっちで忙しい、はずだった。けれどあるとき、夢の中で私はまた恋人といっしょにいた。何てことはないふつうの日で、いつもやっているようにいっしょに寝そべって足をからめながら、めいめい勝手に雑誌のページをめくっている、ただそれだけのことだった。なのに、目が覚めて傍らからそのぬくもりが消えているのに気づいたとき、深い悲しみと喪失感に襲われた。そしてそのとき、ずっと昔に見たホッツェンプロッツの星の夢を思い出した。
 けれど、今はもう違う。私は目を覚ましても、ホッツェンプロッツの星へ行く道を知っているのだ。私ははねおきて、電話台に走り寄り、受話器を取り上げてダイヤルを回す。

 (1999)





  

2014年01月29日

ネリー

*これは、90年代の日本の不良の女の子的な気分を描いてみようとした。

        夢想集ムーア・イーフォック 9
          ネリー


 ネリーというのは彼がつけた呼び名だった。
「君はネリーって感じがする」と彼は言った。
 その日から、彼女はネリーになった。

 大理石模様の化粧板の上に、彼女は銀ラメのハンドバッグを投げ出した。
 鏡を見ると、顔がひどいことになっている。
 つい、昔の話なんかやりだしたのがいけなかった。
 彼女は蛇口をいっぱいに開いて、涙のあとをすっかり洗い流す。
 それからコンパクトをとり出して、念入りに化粧をし直した。
 やかましい音楽と人のどなり声が、こっちまで聞こえてくる。
 カウンターの上の灰皿には、吸いさしの煙草が彼女を待っているはずだったし、ついさっきはじめて会った、あの何とかいう少年も彼女の戻ってくるのを待っているはずだった。
 彼女はコンパクトをしまい、鏡に映る自分の顔をじっと見つめる。
 と、急に、また向こうへ戻るのが耐えきれないことに思えてきた。
 ううん、急にじゃない。彼女はつぶやく。もうさっきからずっと、すっかりうんざりしてたんだ。
 裏口のドアを押し開けようとすると、すぐ外側がゴミバケツでふさがっていて、ほんのちょっとしか開かない。
 そこを強引に押し開け、ガタガタの非常階段を、用心しながらゆっくり降りてゆく。

 ぎらぎら、どぎついサインにあふれた、夜のネオン街。
 あてもなくさまよっていると、やがて自分が空気の中に溶けこんでゆくように、何もかもどうでもよくなってくる。
 彼女はその気分が嫌いじゃない。憂いも悲しみもない空気の一部。

 歩き疲れて幾分の心地よさを感じながら、彼女は行きずりの店に入る。
 前に一度だけ、来たことがあった。
 さっきのところよりさびれていて、全然しずかだ。
 彼女は窓ぎわの席に座って煙草をくわえ、頬づえついて外を眺めやる。
 マリブコークをひとつ。
 いや、別のにすればよかった。ただでさえからからなのに、あんな甘ったるいのを飲んだらよけい喉が渇く。
 やっぱりちょっと隙があったかもしれない。やな奴がやってきてからみはじめた。
 もうちょっとゆっくりしたかったのに、仕方ない。彼女はその手に煙草の火を押しつけて店を出る。

 夜はうっすらと白みかけている。彼女は再びさまよい歩く。
 夜が白んでゆくこの時間、消えてゆく街灯の光、ゴミ箱をあさる野良犬、人影の絶えた通り--心が、淋しさに耐えられない。
 ほとんど無意識のうちに、彼女はこの橋のところへやってくる。
 ペンキのはげた冷たい欄干にもたれ、汚れた水の深みを見下ろす彼女の、うしろを時々何台かの車が走りすぎる。
 この橋の上で、彼女の愛していた男が死んだ。オートバイの無免許運転で事故死。あれから一年近くになる。
 彫像のように美しくて、移り気で、自分のことしか頭になかった彼。
「死ぬときは一緒だ」って誓いあったっけ。
 橋の下から一群れの鳩が、暗い水の上に翼を広げる。
 どれも灰色な中に、一羽だけ、白と栗色のまだらのがまじっている。
 組んだ手の上にのせた横顔の骨ばったライン。
 三日月形の金のピアス。
 マスカラを塗りたくったまつげの下のうつろなひとみ。
 足もとに転がった煙草のすいがら。
 ひんやりした夜明けの微風に、路上の新聞紙がカサカサと音をたてる。

 やがてさしそめた光に、水面はきらきらと踊りはじめる。
 歩道の敷石の上に、彼女の影がうっすらと長くのびる。
 空がすっかり明るくなるまで、彼女はそこに佇んでいる。
 それからふっと行き交う人々にまじり、駅に向かって流されてゆく。

 静かな住宅街の朝。
 ひっそりとして主人の帰りを待っている彼女の部屋。
 どぎついピンクのベッドカバー。
 壁にかけられたロックバンドのポスター。
 脱ぎ散らかした洋服類。
 透明のプラスチックの引き出しには、こちゃこちゃしたアクセサリー類--
 模造真珠のネックレス、リボンの髪飾り、色ガラスをはめこんだおもちゃの指輪。
 彼女の宝物は、小さいときと変わっていない。

 ときどき、洗面所のところでパパに会うことがある。
 パパはひげをそっていたり、コンタクトを入れていたりする。
 そして、ネリーの姿を見ると、手をとめて何か言おうとする。
 そういうときは、そのわきをできるだけさっさと通り抜けて、二階へ上がってゆく。

 暗い廊下がどこまでも続くコンクリの校舎。
 毎朝校門に立ち並ぶ、ものさしを手にした教師たち。
 連立方程式。関係代名詞。指定外のコート並びにレインコートについては、学年主任に相談のこと。

 ネリーはみんながいなくなってからようやくベッドから這い出してきて、テレビをつけ、たっぷり時間をかけてシャワーを浴びる。
 そして、紅茶の一杯くらい飲むかもしれない。
 ネリーは制服を手直しし、髪を金色に染め、ブランド物の腕時計をはめて、昼頃になってからゆるゆると自転車をひっぱってやって来る。

 クラスメートたちとの間の、目に見えない壁。
 好奇心と哀れみと冷淡さと、それから幾分の憧れと。
 やめる頃には、口をきく友だちなんか一人もいなかった。
 いや、一人くらいは、いたかもしれない。

 そのときのことを、ネリーは今でも鮮やかに思い出す。
 あの子のことばをはっきりと無視したときの心のうずき。
 古い木製の靴箱の、砂でざらざらした感じ。
 ペンキのわれめが川の地図みたいに走っていた、体育館のクリーム色の壁。
 窓の外でゆれていたこずえの、不自然なくらい明るい緑。

 先生たちという人種は、どうもよく分からない。
 みんな眼鏡をかけて、みんな同じ顔をしているから、区別がつかない。
 でも、ほんのときたま、かわいいなと思えるときもある。
 たとえば彼らが、自分のやっていることのばかばかしさを分かっていることを、意に反してさらけ出してしまうようなとき。

 ネリーがベランダの手すりにもたれて煙草を吸っていると、英語の先生がやってきて肩に手をのせる。
「元気?」
「うん、元気だよ。あんたは?」
「うん、まあ」彼はやや不意をつかれたようすで言う。「ちょっと胃の調子が--」
 ネリーは煙草の吸いさしを手すりに押しつけてもみ消しながら、決めつける。「疲れてんだ」
 彼はそれには答えず、肩をすくめるだけだ。
 それから少しの間そこに立っているが、やがて「じゃ」と言って立ち去っていく。
 そのときのこと。肩に手をおかれたときの感触--ざらざらしたコンクリートの手すりのふち--雨のあとが黒いすじになっていた壁の感じ。
 そのときの場面を、ネリーがどんなに悲しいほど鮮明に覚えているか、彼はきっと想像だにしない。
 英語の先生とは、ちょっとだけ友だちだった。
 学校じゅうで、バカ話をして笑いあうことのできた唯一の人間だったかもしれない。

 担任は、やっぱり眼鏡をかけていて、その他にはこれといった特徴はない。
 悪い人ではないが、一度つかまるとひどくやっかいだ。
 その日、ネリーは生徒指導室に呼び出され、一時間ばかりその説教を聞かされていた。
 みんながきちんとできていることが、どうして君にはできないのかね。
 ネリーはすっかりうんざりしていた。
 話が四度目くらいに将来のことに及んだとき、ネリーは席を立ってそこから出ていこうとした。
「どこへ行くんだ」と、先生が目をむいた。
「帰るの」
 先生は立ち上がり、走り寄ってきて彼女の腕をつかんだ。それから、力まかせに頭を殴りつけた。
 一瞬意識が遠のいて、あまりの痛さに涙が出てきた。
 先生は彼女を強引にいすに座らせると、また一から同じ話を始めた。
 再び、彼女は立ち上がった。
「どこへ行く」
「帰るの」
 今度は先生も何も言わなかった。
 教室を出るとき、ひざがぶるぶるふるえていた。
 棚の上に、枯れた花を挿した花瓶があるのが目についた。
 一瞬、それを先生の顔めがけて投げつけてやろうかと思った。
 今でもときどき、あのときそれを実行していたらどんなにすかっとしたことだろうと思う。
 それから一度も学校には行っていない。

 安キャバレーやスナックがごたごたたてこんだ無法地帯の一角、関井ビルの地下にあるトメさんの事務所。
 傷のついたでっかい革ばりのソファがでんと居座って部屋をほぼ占領し、煙草の煙で向こう側の壁も見えない。
 合板の低いテーブルは、重たいガラスの灰皿や、缶コーヒーや、スポーツ新聞や、その他もろもろであふれかえって、それ以上ものを乗せたらなだれを起こす。

 ここに出入りするようになったのも、もとはと言えばケイコと知り合ったのがきっかけだった。
 いつだってはでな恰好で人目を引くケイコ。
 ケイコは意味もなくころころ男を変えた。
 けれど、本当の目標はトメさんの彼女になることなのだと言っていた。

 そういうわけで、ネリーは全く困ったことになってしまったのだ。
 ケイコへの遠慮だけじゃない。実はそのとき、生まれてはじめて恋をしていた。
 しかもその相手というのが、なお悪いことに同じ事務所に出入りするジュンだった。
 ネリーはそれで一週間悩んだ。
 けれど、自分の気持ちにうそはつけない。
 結局トメさんを断って、ジュンとつきあい始めた。六月のことだ。

 トメさんは、ほんとにいい人だった。
「そうか、分かった」としずかな声で言っただけだったので、ネリーは申し訳なさに心が痛んだ。

 それはまるで世界じゅうを敵に回したようなものだった。
 トメさんの女になれるなんて、めったにある栄誉じゃないのだ。
 ケイコはてのひらを返したように離れていった。
 女の子たちがやっかんで、中傷したので、ジュンとの関係はトメさんの知るところとなった。
 そういうわけで二人は事務所に顔を出せなくなり、トメさんを中心とした人の輪からはじき出されてしまった。

 けれど、ネリーは平気だった。
 人を好きになるとこんなにも強くなれるものか。
 ジュンさえいればなんにもいらなかった。
 ジュンのアパートにいりびたり、何でもコンビニで買ってきて、パックやら空き缶やらがその辺にふきだまるに任せ、完璧に幸福だった。
 強く激しい輝きの前に、世界は霧とかすんでゆく。
 これが愛というものだった。

 ときどき胸をしめつける不安、おののきにふるえる心。
 ネリーは彼の目の動きを追い、動作の一つ一つを読もうとする。

 彼に突然捨てられて、ネリーは翼を失った。
 虚空の中をはてしもなく落ちてゆき、しまいに冷たいコンクリートの上にたたきつけられて目が覚めた。

 一日じゅううちに閉じこもり、泣き疲れて眠りに落ちて、またふっと目をさます午後のめざめ。
 暗い部屋の中で、何もかもが灰色に見える。
 見上げた窓ごしに見えるのは、雨樋と電線と、しずかな曇り空ばかり。

 彼の面影を求めて街をさまよう。
 歩道橋の手すりにもたれて通りを見下ろせば、きれめない車の列が、クラクションを鳴らしながら流れすぎてゆく。
 ずらりと列をつくってバスにのりこむ人々。

 一人で、耐えられるところまでは耐えた。
 雨の夜、小一時間もぐずぐずと、意味もなく歩き回って、
 それからやっと心を決め、ネリーは傘をすぼめて電話ボックスの扉を押す。
 ルルルルル、ルルルルル。もしもし。
 電話口に出たのは、トメさん本人だった。
「やあ、ネリー。また声が聞けてうれしいね」
 本心から、言っているのだった。
 ネリーは返事ができなかった。
「今どこにいるの? ・・・本当? 今、誰もいないんだ。ちょっと顔出しに来ない?」

 事務所の中は、石油ストーブをガンガンたいていてあったかかった。
 トメさんはだまって自らコーヒーを入れはじめ、見ていると泣けてきて、ネリーは必死で唇を噛んだ。
 でも、だめだった。
 トメさんの胸で、涙が涸れるまで泣き続けた。

 トメさんとつきあい出してから、ネリーはまた事務所に戻った。
 他の連中が、それをよく思うはずがない。
 ケイコは次長格のイタチとつるんで、ありとあらゆる嫌がらせを仕掛けてきた。
 ここにいていい人間じゃない。
 そんなこと分かってる。だけど、他にどこに行けって言うんだろう。

 一人でいると、電話がなる。
 受話器の向こうから、あまりにも恋い焦がれた声が言う。
「ネリー? 俺だよ」
 その瞬間、ネリーのひざはぶるぶるふるえはじめ、彼の声を再び聞いた嬉しさに、恨みも苦しみもどこかへふっとんでいく。
「近くに来てるんだ。どっかで会わないか」

 二人は<アイリス>の二階で落ち合う。
 ジュンはトメさんになびいたネリーをやさしくなじり、彼女が耐えきれずに涙を浮かべると許してくれて、その髪を耳の後ろにかきあげる。
「あいつは君を、かわいいペットとしか思っちゃいないんだぜ」
と、ジュンは言う。
「そんなんでいいのか、お前? 一生あいつの女で終わるつもりか?」
「二人で高とびしよう」
 ジュンはささやいた。
「今夜」

 それからあとは一瞬のうちに過ぎ去った、鮮烈な夢のようだ。
 真夜中のガレージ、腰に回された腕、黒塗りのオートバイを引き出すときのカラカラいう音。
 猛烈な爆音と耳を切る夜風--信じられないくらいわくわくした気持ちとすごい解放感。
「どこまで行くの」
 ジュンの背中にしがみつきながらどなると、彼は叫び返した--
「どこまでだって行くさ! お望みならば地獄までだって!」

 一瞬の暗転--耳をつんざくブレーキの悲鳴、それから意識がとぎれ--
 砕け散るガラス、アスファルトにほとばしる黒い血、かすかに救急車のサイレン--まわりでがやがやいう人の声--

 ジュンは死んだ。頭を打って即死だった。
 ネリーも全身を打って動けない。でも、命は助かった。
 ほぼ回復するまで彼女はずっと病院ですごした。
 みんな、すごく親切だった。
 新聞の片すみには、その夜のできごとがごく小さく載っていた--
 二人乗りオートバイ、スピードの出しすぎで横転事故・・・一人は死亡、一人は全治二ヵ月のケガ。
 どうってことはない。交通事故なんて、毎日掃いて捨てるほど起きているのだ。

 そして再びネリーはトメさんの事務所のドアに立つ。
 できればもう永久に、トメさんの顔を見たくなかった。
 けれど、それは許されないことだ。
 ネリーは目を閉じて一度深く息を吸い、それから一気にドアを開ける。
 中に一人でいたイタチがはっと息を呑み、たちまち激しい憎しみが、その顔いっぱいに湧きあがる。
「きさま、どういうつもりでぬけぬけと・・・」
 言いながら手を伸ばして拳銃をつかみ、ネリーの方へ向ける。
「撃てよ」
 ネリーはイタチの目をまっすぐ見て、傲然と言う。
「さっさと撃てよ。そうされて当然なんだよ。そのために来たんだよ」
 イタチはたじろいでいる。
 --一秒、二秒。
 そのときカチリと音がして奥のドアが開いて、トメさんが入ってくる。
 ずきん。ネリーの心臓がふるえた。
 トメさんはさっと目を走らせ、それからイタチの方へ歩み寄って、突然猛烈な勢いではりとばした。
 それからネリーの方へやってくる。
 ネリーはあとじさりした。
 トメさんはネリーの前に立ち、その頬にそっと、指をすべらせる。
 そして言う。帰ってきてくれた。

 トメさんの前では、うそはつけない。
 トメさんのシャツが、ネリーの涙でみるみるくしゃくしゃになっていく。
 涙の合間からネリーは訴える。
 あなたに抱かれて死にたかった。あなたに殺してほしかった。
 殺して--どうぞ私を殺して--今すぐに。
 いや、そんなことさせるもんか。トメさんは言う。君には誰だって、指一本触れさせない。そういう奴がどんな目にあうか、今見ただろ?
 泣きじゃくるネリーをそのままずっと抱きしめていてくれて、それからトメさんはその頭を離し、彼女の目をじっとのぞきこむ。
 そして言う、これからはまた、ずっとそばにいてくれる?
 --胸が痛い。でも、言わなきゃ。ありったけの力をふりしぼってでも。
 いえ、それはできない。どうしても。--自分のことが、許せない。
 トメさんはじっと見つめ、分かってくれて、しずかにネリーの額に口づける。さよなら、ぼくのネリー。
 それが、トメさんを見た最後だった。
 どこをどうやってたどり着いたか、どうしても思い出せない。
 自分の部屋に入るとネリーはうしろ手にドアを閉め、次の瞬間、ベッドの上にくずおれる。

 覚悟はしていたつもりだった。
 けれど、本当には知らなかった、孤独というものが、こんなにひどいとは。
 ずっと長いこと、ネリーは自分の部屋から一歩も出なかった。
 食べ物も受けつけなかった。電気もつけなかった。窓を開けることもしなかった。すべては時間の問題だった。
 こうしてその晩、ネリーのママは枕元に空っぽの睡眠薬のビンを発見する。
 あと一時間遅れていたら、間に合わなかった。

「まず外へ出なさい」
と、先生はネリーに忠告する。
「どこでもいいから。家に閉じこもってちゃだめですよ」
 そんなこと分かってる。だが、どこへ行けばいいっていうんだろう?
 この世界とのあいだに持っていた最後のつながりを、ネリーは自ら断ち切ったのだ。
 あとには何も残らなかった。

 ネリーのママはひどく取り乱して、こっちの方が気の毒になるくらいだ。
 こんなふうになるまで、自分の娘がどこまで追いつめられていたか、ママはなんにも知らなかった。
 だけど、今ごろ騒いだってもう遅い。
 ネリーの方は、いくぶん落ちついてきたようだ。
 少しずつ、体重も増えていった。放心したように、ボーッとしていることが多かったけれど。
 落ちついてきたと、言えば言えるかもしれない。
 もはや死ぬだけのエネルギーもなくなってしまったと、言えば言えるかもしれない。

 回復は、ゆっくりとやってくる。
 たとえば、午後二時のテレビ。ママのもらってくる卒業証書。
 ガソリンスタンドの待合室。
 マネージャーは仕事の手順を説明し終え、引き出しに履歴書をしまう。

 日曜はからすが森公園へでかける日だ。
 午前中は少し雨が降っているが、ネリーは早めに出て、近所のデパートをぶらぶらする。
 日用品を買いこむ家族連れ、駆け回る子供たち。
 空々しい音楽、ききすぎの暖房、奇妙に明るい、虚構の空間。

 ベタベタとポスターの張られた映画館の壁にそって歩きながら、ネリーはここで<ロミオとジュリエット>を見たときのことを思い出す。
 何の行事だったか、学校の連中と一緒だった。
 涙のとまらないネリーのこと、見て見ぬふりをしてたっけ。
 何万年も前の話だ。
 でも、ニーノ・ロータのあのメロディーを聞くと今でも涙が出る。

 バスにのると、ネリーはぬれた髪をかきあげて曇ったガラスを眺め、指ででたらめな模様をかく。
 と、ずっと昔、小さい頃、やはりバスの窓一面に落書きをしたときの感覚がよみがえってくる。
 何かのお招ばれだったのだろう--結婚式だったかもしれない--ネリーは赤いベルベットのワンピースを着せられて、ママのひざの上に抱かれていた。
 あの頃、世界ってどんな感じだったのだろう。

 公園に着くころ、雨は上がっている。
 いっぱいにしずくをしたたらせた木々の、目にも鮮やかな緑。
 森を一つ抜け、広場に向かって降りてゆく幅の広い石段の上に立って、ネリーはにぶい真珠色の雲のすきまから、日の光がうっすら銀色のすじになってさしこんでくるのを眺める。
 石段の端に腰かけて、ウォークマンのイヤホンを外す。
 ほどなくしずかな足音が、上からゆっくりと降りてくる。
 かすかな影が、石段の上にのびる。
「こんにちは」
と、影が言う。
「こんにちは」
と、微笑んで、ネリーは言う。

 (1996?)






  

2014年01月29日

マエストーソ氏の気象学講義

*これは中学生のときに書いたプルムセクラの物語の追記エピソード。

    夢想集ムーア・イーフォック 10
    マエストーソ氏の気象学講義


 どの町にいるときもそうだったが、マエストーソ氏は、日曜日になると広場のベンチに腰かけて新聞を読むのが好きだった。子供が鳩の群れとたわむれていたり、アイスクリーム売りや手回しオルガン弾きが出ていたりすると、まことに日曜日的な気分になるからだ。
 そんなわけで、彼はこの日も町の広場にやって来ていた。
 だいぶ雲が出ていたが、一応陽も照っていて、人々はみんなそのわずかなぬくもりを求め、トカゲのようにじっとベンチにへばりついていた。
 さて、新聞を広げたはいいが、どうも誰かに見られているような気がして落ちつかない。マエストーソ氏がふと目をあげると、目に入ったのは恐ろしくよれよれの、ものものしいスコラーズ・ガウンを着こみ、ワシのような鋭い目にめがねをはめこんだ、背の高い老紳士だった。
 彼はマエストーソ氏の方へつかつかと歩み寄ってくると、
「失礼ですが」
と手を差しのべ、
「<訳わかんない>大学長のグラーヴェと申します」
と名乗った。
「地質学者のマエストーソです」
 マエストーソ氏も、いささかびっくりしながら立ち上がり、挨拶を返した。
「貴殿が本校の講堂上空を空中旅行なさっとるのを拝見いたしましたぞ」
 学長氏はマエストーソ氏のとなりに腰をおろしながら、大変に重々しい調子で言った。
「そりゃ、どうも」
 マエストーソ氏はどういう顔をしたものか決めかねて答えた。
「すみませんでした、無様な格好をさらしてしまって。ですが、あのとき、急いでいたもので・・・」
「大いに結構」
 学長氏はにこりともせずに言った。
「その--何かお気にさわりましたでしょうか? --あの、お宅の講堂って、昔の修道院みたいなあのレンガのたてものですか?」
「さよう、ま、ご静聴くだされ」
 学長氏は、マエストーソ氏の顔をきびしい目つきで見ながらはじめた。
「本校の気象学の講義は、ラルゴ氏なる年配の教授に担当していただいておりますじゃ。頭脳明晰にして人柄温厚、まことに結構なる人物なのですがな。一つ、困った問題がありまして、それというのも、小生が小耳にはさんだところによれば、何でも、彼の講義は退屈だ、いやそれどころかまるで子守歌だ、というのですじゃ。小生は平生より、流言を鵜呑みにせぬことを信条としておりますゆえ、折りを見て、教授が講義なさっとる実験室に顔を出しましたじゃ。しかれば、これがまことに真実であって、ものの五分とたたぬうち、小生は舟上の人となっておったのです。推察せらるるに、かの教授の講義する調子には、何かこう、人をして眠りに陥らしむる特別な波長が存するのではないかと。ともあれ、現状のままであってはならぬ、いずれかの処置をとらねば、本校の築ききたる輝かしい評判に傷がつくことがないとも限らぬと、かくのごとき危惧を抱いたゆえんですじゃ。
「ところが、過日小生が本校講堂の鐘つき部屋より憂いに沈みつつ窓外の風景を概観しておりましたところ、何か珍妙な鳥のごときものが上空を飛行しているのを観察いたしまして--それがつまり貴殿だったわけですな。
「このとき、小生はおのれに申しました、『神にみ栄あれ! 是非ともあの紳士に気象学の特別講義をご依頼つかまつろうではないか。かくのごとく、日頃より上空にて気象現象の有為転変に親んできたる人にこそ、明朗闊達な気象学はのぞむべきもの。熱圏や成層圏に遊びなすったこともあろう、オーロラの下をかいくぐり、ラジオの電波を採取なすったりもしよう、色々の珍しい経験をお持ちであること間違いなし。彼の華々しい講義こそ、必ずや我らがラルゴ教授とその学生たちとの双方に活性化をもたらし、彼らの学究精神を大いに鼓吹するものとなろう』
「以上のようなわけで、小生<訳わかんない>大学長フェルディナンド・フォン・グラーヴェ、ここに<訳わかんない>大学を代表して、つつしんで特別講義の要請に参上したものでありますのじゃ」
 学長氏の長々しい口上が終わるとマエストーソ氏は、いったい自分が何を頼まれたのか分からなくてちょっとの間考えこんでしまったが、それが分かるとすぐさま異議を申し立てた。
「そりゃあ非常に光栄ですが、気象学ですって! あいにくと、私の専門は地質学なんですよ。そんな、急に別の畑で講義しろって言われたって、いくら何でも無茶じゃないですか」
「別の畑へ行けなどとは申しませぬぞ。気象学というのは、名目だけですじゃ。何となれば地質学風気象学でも結構、気象学流地質学でも結構。要は、ともかくも貴殿を本校へご招待したいのじゃ」
「しかし・・・私にも、仕事があります」
「そこを何とか、頼みますじゃ、<訳わかんない>大学の栄光と伝統のために、貴殿の貴重なる一日を、どうか犠牲にしてはくださらぬか」
「参ったな」
 マエストーソ氏は頭をかいた。
「それはいったい、いつの話です?」
「来週の火曜日の午後というのはいかがですかな。場所は、本校講堂に隣接せる実験棟--門を入って左側の、灰褐色の石材建築になる建物ですじゃ」
 マエストーソ氏はため息をついた。
「了解しました、何とかやってみましょう。しかし、言っときますが、もし万が一私の講義で学生さんたちが居眠りしてしまったとしても、責任はとれませんよ--」
 それを聞くと、学長氏は彼の手を固く握りしめ、マクベスでも読み上げるような調子で朗々と言った。
「おお、ありがたや、ありがたや。まことに幸いに存じますじゃ。大学一同、心よりの感謝を申し上げまする」

 翌日の月曜日、マエストーソ氏は七時半の汽車をつかまえ、駅五つばかり離れた、秘密の目的地まで出かけていった。
 行く先はいわくありげに四方を高いレンガ塀で囲われた、とある古ぼけた工場だ。マエストーソ氏は裏口からすたすた入ってゆくと、事務室の窓ガラスをコツコツ叩いて工場長を呼び出した。
 工場長とは前々から親しい間柄にあったとみえ、彼は氏の姿を認めると大喜びで迎え入れて、自らお茶を入れてもてなした。それから彼らは小一時間ばかり近況を報告しあったり、雑談したりしていたが、窓越しにとぎれとぎれに聞こえてくる会話というのは、たとえばこんな感じだった。

「・・・ああ、こっちは、相変わらずさ。仕事の方もはかどってるしね。それで、どうだい、君の方は?」
「うん、こっちも相変わらず、やってるよ・・・細々とね、しかし、困ったことに・・・」
「・・・そりゃ大変だな。でも、その鉱山はまだ閉鎖されてはいないんだね?」「まあ、今のところはね。しかし、明日にでもどうなるか分からんのだよ、君。ほら・・・例の半透明ウサギの原料だってね。幻の原石なんか、今じゃとても少なくなってしまって・・・」

 それがひとしきり終わって、マエストーソ氏はやっと本題に入り、今日こっちへ出向いた訳を打ち明けた。
 そのことで彼らはまたしばらく、ああでもない、こうでもないとやっていたが、やがて工場長が立ち上がり、マエストーソ氏を倉庫へ案内する。
 こうしてためつすがめつやったあと、マエストーソ氏のかばんには何種類かの秘密のサンプルがおさめられ、あとの必要品目は重たくてとても一人では持って帰れないというわけで、直接大学あてにダンボール詰めにして送ってもらう段取りになった。
 さて、マエストーソ氏は満足げな顔して帰ってくると、さっそく受話器を取りあげ、ダイヤルを回してプルムセクラを呼び出した。
 プルムセクラは例によって〆切に追われておおわらわになっているところだった。
「そんな無茶な。ボクはあさってまでに老人福祉法改正についてのデータをかき集めてきて、記事を仕上げなきゃいけないんですよ。後生だから勘弁してくださいよ」
「いや、そこを何とか。私だって仕事の予定が入っていたのに無理して割りこませたんだ。助手の助けがないと困るんだよ。いきなり本番てわけにはいかないから、どうしても予行演習が必要なんだ。どうか老人福祉法はちょっとおいといて、今すぐ私のところに来てくれ」
 というわけで、半時間後にプルムセクラは白衣におさまり、ビーカーやら試験管やらを手に忙しくかけまわっていた。
 暗くなる頃まで、グリーンハイツの一室からは何やら怪しげな光や煙がもれ、時折ドンパチいうのが聞こえてきたが、それもそのうち静かになった。

 かくて当日。
 プルムセクラは実験の段取りを記した台帳を抱え、実験棟の入り口のところに積みあげられた二つのダンボールの上に腰かけて足をぶらぶらさせながら、由緒ある<訳わかんない>講堂の時計台を眺めていた。これぞ世界に名だたる<訳わかんない>大学のシンボルだ。そのすばらしさを伝え聞いてははるか遠くからたくさんの学生たちが、学問を修めにやってくる。
 大学の門戸はだれに対しても開かれていて、空間的に入りきれる限りだれでも好きな授業を聞いていいことになっている。たとえば八百屋のおばさんだって、古代メソポタミア文明に興味があるので学びたいということであれば、だれかに店番を頼んでおいてその授業だけ出ることもできる。中学生なんかも届け出さえ出せば学校を抜け出して、もっと高度な授業を聞きにいってかまわない。ただ、その分虫食いになったところは自分で勉強しなくちゃならないが。
 プルムセクラも前から興味は持っていたのだが、実際に門をくぐるのははじめてだった。新聞記者は忙しいのだ。でも、もうちょっと暇ができたら、学問も悪くはないと思う。
 しばらくしてマエストーソ氏が、朝市で買ってきた新鮮なオレンジのかごを手にしてやってきた。そこで二人はダンボールを中に運び入れ、熱心に準備にとりかかる。お昼になるとプルムセクラが学食で紅茶とサンドウィッチを買ってきて、略式の昼ごはんだ。
「これはほんとは太陽にするんだが」
と言ってマエストーソ氏はオレンジを一つ取りあげた。
「まあ、一つくらいいいだろう」

 午後一時きっかり、実験室は学生でいっぱいになった。後ろの方には学長と数人の教授たち、どうやらラルゴ教授とおぼしき人の姿もあった。
「さてと、みなさん」
と、マエストーソ氏は威厳たっぷり、教壇に立ってやりはじめた。
「この授業は気象学だということですが、困ったことに私の専門は地質学なのです。で、どうしようかと迷いました。まあ、ほんとうは、どっちでも大した違いはないんでしょうがね。このたびは良心的に、気象学をやることにします。ただし、私自身がごく大ざっぱなところしか知らないもんですから、今日やるのはごく初歩的なものですよ」
 盛大な拍手。
「今日やるのはおきまりの気象パターンの小規模な再現、言ってみれば模型のおもちゃです」
 彼は続けた。
「まず第一に、気象について考える上で欠かせない要素は太陽です。すべてはここから始まります。みなさんもご存じのように、太陽は燃え盛る巨大なオレンジです。ですから理論的にはオレンジに火をつければ太陽になるのですがね」
 彼はオレンジのかごを教卓の前の実験テーブルの上にどんとのせた。それから、きらきら光る透明な液体の入った大きな瓶をかかげてみせた。
「これは太陽の光を圧搾して抽出したものです。言わば太陽エッセンスですな」 彼はその中身を洗面器にあけた。そしてオレンジを一つ取ると、その液の中にたっぷりとひたし、ひきあげたそれに火をつけた。
 ボン! とすさまじい音がしてオレンジは燃える炎に包まれ、実験室の天上近くまで上がっていった。
「あ、あんまり高く上がらないで。天井がこげてしまうからね。そうそう、そのへん」
 マエストーソ氏は太陽に向かって言うと、二つめのオレンジにとりかかった。やがて実験室の天井には六つの小さな太陽が明るくかがやいた。
「これが第一段階です。さて、太陽が出ると地表はあたためられ、水分が蒸発して雲ができる。みなさん、流しに水を張っていただけますか」
 そこで、いくつかある学生用実験テーブルの流しにはなみなみと水が張られた。
「これだけでは足りませんから、さっき助手のプルムセクラ君が大変苦労してこの大きな金だらい二つに水を張ってくれました。みなさん感謝してくださいよ。さて、大気圏にはさまざまな気流のうずや気圧の谷なんかがあって、天気や雲のようすに変化を与えます。そりゃもう、万華鏡みたいなもんです」
 言いながらマエストーソ氏は、あちらこちらにポンプとハンドルと目盛りのついた変な器具を配って歩いた。
「これは気圧調節器です。みなさん適当にハンドルをまわしてください」
 するとたちまち四方八方から風が吹きはじめ、羊雲やら入道雲やらうろこ雲やら、実にさまざまな形の雲が姿を現した。そのうちに実験室のすみの方に重っ苦しい感じの雲が吹きだまり、大つぶの雨をふらせはじめた。
「おっと、雨にぬれたくない人は気圧を高くして。はいはい、それでよろしい。--さて、雷のメカニズムについてはまだ完全には解明されていません。しかし簡単に言えば、空と地上とにそれぞれ電極があって、ふだんは大気が絶縁体の役割をしているのですが、これが何かのはずみでその役割を果たせなくなるとき、二つの電極にビリビリと電気が通じあう、とまあこういうわけです。何かのはずみというのはつまり低気圧ですね。低気圧というのは大気がうすっぺらくなるということであって、うすっぺらいと何でも突き破りやすくなるもんです。それで、と」
 マエストーソ氏はぴかぴか光る筒状のものをいくつか床に転がした。
「これはカミナリ電池です。プルムセクラ君、これをいくつか天井にも固定してくれるかね」
「雲がいっぱいあって天井が見えません、先生」
「それでは少し片づけなさい」
 そこでプルムセクラは脚立をたててのぼってゆき、掃除機で雲の一部を吸い取った。それからカミナリ電池を三つ、間隔をおいてネジで固定した。
「それでは、電池の近くにいる人は少し離れて」
 マエストーソ氏が気圧調節器を操作すると、ビリビリビリッ! とすさまじい閃光が走った。
「おっと危ない、避雷針を配るのを忘れてた! プルムセクラ君、大急ぎで配ってくれ」
 たたきつけるような雨がふり始めた。
 ガラガラドッシャーン! と実験室全体がふるえあがった。
 たてつづけに三つばかり雷が落ち、天井からはメリメリと不吉な音がして、見るとカミナリ電池をとりつけた箇所から細かいひびが広がっていた。
「ひゃっ、これはちょっとやりすぎた。ほんとは単三でやるべきだったんだ。ちょっと在庫がなかったもんだから・・・」
 マエストーソ氏は狼狽した。ところが、雲の間を妙な赤っぽい生き物がとびまわっているのに気がつくと、その顔はたちまち幸福でかがやきだした。
「おお!」
 彼はそいつのしっぽをつかまえると注意深くてのひらにのせた。
「お前は雷竜ではないか! 久しくお目にかかってなかったなあ。こんなちっちゃな実験でもできるとは知らなかった」
 彼はそのきゃしゃな生き物をいとおしげにながめた。
「お前、しばらく私といっしょに暮らさないか。色々やってみたい研究があるんだ」
「ええ、いいですよ」
 雷竜は答えて、てのひらの上で丸くなった。
「だが、ちょっと待てよ。お前は二酸化窒素を食べるんじゃなかったかね」
「そうですよ」
「参ったな。あれはあんまり手持ちがないんだ。こんど注文しておくが、届くまでに六ヵ月もかかる。それまでお前を乾燥保存しておいてもいいかね。どうせ水につけておけばもとに戻るんだろ」
「干しシイタケじゃないんだから」
 雷竜はふくれっ面をした。
「水になんかつけたら死んでしまいますよ。私を戻すときには電流につけておくんです」
「おお、そうか。分かった分かった」
 言いながらマエストーソ氏は雷竜をガウンのポケットにつめこみ、講義に戻った。

 とにもかくにもそれは大成功に終わった。
 からっぽになった実験室で、マエストーソ氏とプルムセクラはあと片づけをした。朝早くから忙しく働いていたので、プルムセクラはすっかり疲れていたが、同時に大きな満足を感じていた。マエストーソ氏も同じらしいことが、空気を通して感じられた。とっちらかった実験室じゅうに、何やらほっとした感じと、心地よいけだるさのようなものが満ちていた。
「またやってくれって頼まれたら、今度は何をやるんですか」
と、プルムセクラはたずねてみた。
「そうだなあ」
 マエストーソ氏はのんびりと言った。
「また頼まれたら・・・」
 いつまでたっても返事がないので、プルムセクラが顔をあげると、マエストーソ氏は試験ブラシを手にしたまま、ガラス張りの窓から空を眺めていた。
「見たまえ、プルムセクラ君--鮭の切り身のようだ・・・」
 その通り、窓いっぱいに、目のさめるようなサーモン・ピンクの夕焼け雲が広がっていた。プルムセクラはうっとりと見ほれた。
「見たまえよ--あんな色は、人間には決して真似できないなあ」
 部屋の中はそろそろ薄暗くなりかけていて、このもえたつ雲海のあかるさを一層きわだたせていた。
「--さあ」
 だいぶたってから、マエストーソ氏は我に返ったように言った。
「はやいとこ、片づけてしまおう。そこの試験管立てをとってくれ、プルムセクラ君」
 そのとき、その一瞬の光景に、プルムセクラはふしぎに心打たれるような深い感動を覚えた。
 この美しいピンクの雲海、それを背にしたマエストーソ氏の白衣姿、そして「そこの試験管立てをとってくれ--」ということば。それは映画の中のシーンみたいに、プルムセクラのまぶたにくっきりと焼きついた。
 今この瞬間が、このままずうっと続いたら--
 そんなことを考えているうち、マエストーソ氏はとうとう待ちくたびれたようだ。
「聞こえなかったかい? そこの試験管立てをとってくれるかね、プルムセクラ君」
 マエストーソ氏はおだやかにくりかえした。
 プルムセクラはふっとため息をつくと、ゆっくり試験管立てをとりあげて、彼のところへ持っていった。
 器具をすっかり片づけ、床や実験台なども掃除して、すみの方に泳いでいた雲のきれっぱしなんかをスーツケースの中におしこむと、もう夕闇があたりに迫っていた。プルムセクラがスーツケースを講堂の前まで運び、そこで彼らは別れた。
「今日は本当に助かったよ、どうもありがとう」
「ぼくもいい勉強になりました。また手伝いが必要なときは、何なりと」
「恩に着るよ。じゃ、気をつけてな」
 というわけで、マエストーソ氏とその助手、<訳わかんない>大学長のじきじきの要請に応えてここにりっぱに務めを果たしたわけだが--
 三日ほどしてばったり出くわしたとき、プルムセクラはこんなことを聞かされた。
「ああ、こないだの授業ねえ、本当に助かったって、学長先生に感謝されることしきりだったよ。しかしだね、彼の言うには、本校の実験室は老朽化が激しくして、マグニチュード4.5以上の衝撃に際してはその耐久性が危ぶまれるため、何とぞご考慮ねがいたい、ということだった。要するに、あの雷の実験がまずかったわけだな。で、先生いわく、来年度かそこら、国の予算がおりて、実験棟をたてかえられるようなことでもあれば、また是非とも授業をやっていただきたい、ってさ」

 (1996)