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Posted by つくばちゃんねるブログ at

2015年01月14日

海岸通りのデュラスへ~いくたび嵐に打ち墜とされて翼を折りながら、なおも風をまって求め続ける飛翔についての物語~




ちょうどいまから1年ほど前に、あるところへエッセイを出す必要があってまとめたもの。
内容的には、仏蘭西紀2012 および 仏蘭西紀2012その2 の背景、という感じ。
おもに自分の備忘として。

       *

その朝私はパリにいて、胸を突く思いに襲われたのだった。
・・・ああ、私はどうしてもここで暮らしたい。この街に住んで、移り変わる景色をこの目で見て、肌で感じたい。
新しい季節をここで、この手でつかみたい。・・・
サン・マルタンの近く、短い滞在のあいだにすでになじみのカフェとなった<シェ・ジャン>のテーブル。
通りを行き交う人々を眺め、歩道のわきにはもう落ち葉が舞う。
次の飛行機で日本へ帰らなくてはならない。
2012年夏のおわりだった。

この国は私にとって、昔からとても大切な国のひとつ。
さいしょの出会いのひとつは、作家を志した10歳くらいのころ、プロヴァンスの作家アンリ・ボスコ。
一時期彼は私のすべてだった。その紡ぐ少年時代のドラマティックな冒険物語、その自然や人間へ注ぐ繊細なまなざし。アクセサリのような<・・・>の使い方のくせは、いまだ私自身の文章に残響をとどめている。ピーター・メイルが本を出して、プロヴァンスをすっかり有名にしてしまう以前のことだ。・・・

それから大きくなるにつれ、愛読するフランス人作家のリストに名を連ねたのは、アルフォンス・ドーデ、ジョルジュ・サンド、コレット、サガン、デュラス、カミュ、アンドレ・ブルトン、エトセトラ、エトセトラ。
絵画では印象派よりアンリ・ルソーが好き。建築ではヴェルサイユより郵便配達夫シュヴァルの築いた<シュヴァルの城>が。
はじめは人の理解や支持を得られなくても自分の情熱を貫き、ほかの誰にもできないすばらしい世界をつくり上げた人たち、そういう人たちに惹かれる。
そしてどんなにすばらしいフランス映画がたくさんあるにしても、私にとって今も昔も不動の地位を占めるのはロベール・アンリコの<冒険者たち>だ。

フランス語は独学で高校生の頃から。大学では授業もとった。もっとも、ラテン語や古典ギリシャ語も含めて7ヶ国語ほどやっていたから、あまり集中できなかった。
社会に出てから、作家になろうと奮闘して実を結ばなかった数年間ののち、おのれの源流を辿る旅に出た。イングランド、ウェールズ、アイルランドとそのあとブルターニュへ渡る予定だった。

でもそこで彼らに出会ってしまったから、フランスまで辿り着けなかった。
2004年夏。ウェールズとアイルランド、ケルトの地とよばれるかの地で、それまで経験したことのない、強烈で圧倒的なインスピレーションがやってきた。
行く先々で大地の霊が私に語りかけてきて、5千年前、1万年前にその土地で起こった物語を聞かせてくれる。荒野の空いっぱいに広がったスクリーンに、物語が次々とものすごいスピードで、映画のように映し出されてゆく。・・・あまりに圧倒的で怖くなった。
けれどもそのとき知った、・・・これがそれなのだ、いつか自分が書くように定められていたもの、そのために自分が生まれてきた使命なのだと。

それから日本へ戻って以来、かの地で渡された物語群を書きつづけた。アイルランド篇とウェールズ篇とあわせて30篇ほど。すべて書き上げるのに2010年までかかった。
2008年から、それらの物語を舞台にかけるために<劇団バリリー座>を立ち上げた。
劇団名はアイルランドの国民的詩人W.B.イェイツの住んだ、ゴロウェイ州のトーア・バリリーより。彼はそこで詩や本、戯曲を書き、自らアイリッシュ・ナショナル・シアター・ソサエティという劇団を立ちあげて、ダブリンのアビー・シアターで上演した。
私もその足跡に倣ったのだ。町じゅうに張り紙をして団員を集め、物語を脚本に書き改め、演出、大道具小道具、背景や衣裳、会場探しからPR、舞台音楽の作曲・レコーディングからダンスの振り付けまですべてこなし、自らステージにも立った。
初演作品は、アイルランド西部クレア州の州都エニスを舞台とした<エニスの修道士>。千年前、この国にキリスト教が入ってまもないころの、若き修道士と水の精の悲恋の物語だった。
だいたい年に1作品のペースで、つくば市を中心に時々は都内でも、年に平均5,6回ほど上演した。5年後にダブリン公演、というのが目標だった。
劇団の設立と同時に、地元つくば市で毎年3月にやるセントパトリックス・フェスの企画も立ち上げた。パレード、音楽ライヴや、ほかにいろいろな団体と組んで催しを行ない、そのなかで劇団の新作をやるという流れをつくった。これは劇団の宣伝のためでもあり、また大使館をはじめとした中央とのパイプづくりという意味もあった。ものすごく骨が折れたが、2012年まで5年間つづいた。

5年後にアイルランド公演という目標をにらみ、3年目くらいから、アイルランドと英国の芸術振興を目指す団体をいろいろと探してコンタクトを試みた。
だがどれも、支援するのは自国のアーティストのみだった。地霊は異邦人に伝言を託したのに、その地の人々は聞く気がなかった。
アイルランド大使館も、あれほど地元セントパトリックス・フェスの企画を頑張ったのに全く何の協力もしてくれなかった。自国のアーティストを日本へ呼ぶことばかりに熱心で、その逆には興味がないようだった。
時期も悪かった。アイルランドじたい実質的に経済破綻し、首相も退陣を余儀なくされる引き潮のときにあたっていた。

アイルランドのアートシーンに貢献することをここでこんなに一生懸命やっているのに。
ほとんどひとりで駆け回って劇団の仕事のあれやこれやをこなし、つづけていく苦労、想像を絶する。
こんなに走りつづけ、生み出しつづけているのに、こんなにも反響がないなんて。
こんなにも偉大な物語の数々を語りつづけているのに、世界はまだそれを知らないのだ。
疲れ果てて頭にきて思う日もあった。
あぁもう! 今日一日くらい、誰か一人くらい、私のために買い物袋を持ってくれて、私のために料理してくれてもいいのに。
何もかもひとりでやるのも限界がある。いい加減にしてほしい。

私の失望につれて、モチベーションの低迷が何となく伝わっていったのか、団員も減っていった。
アイルランド公演を果たすはずだった5年目、劇団は活動停止に至る。
悲しさと虚しさだけだった。もう自分にはあとがない、これに賭けるしかない!と思ったもの。
ぜったい自分にしかできないことをやっているという確信があったし、これが今まで色んな方面で積み上げてきた自分の仕事の集大成であり完成形となるであろうと信じていた。
だが、どんなにユニークで、私にしかできないことでも、同時代の人々がいいと思ってくれないのでは何もならないのだ。つくづくと思い知らされた。
がっかりしていたし、怒っていたし、何より疲れ果てていた。
誰かのもとで休みたかった。

その頃現れた彼は、まるでその頃の私の思いが生み出したかに思えた。
2012年のはじめ。年下ではじめてつきあった男の子で、十も下だった。
愛というものに久しぶりに触れた気がした。感覚的に通じあうものがあったし、心底私に惚れこんでいて、騎士のように恭しく、どこでも黙ってついてきてくれた。
さいしょの頃は用心していた。けれどもどう考えても私を傷つけうる状況など想像できなくて、いつしか全身の力を抜いて寄りかかってしまった。永遠を約束されたような気でいたけれど、そのときには崖っぷちまで来ていたのだ。私は何も知らされていなかった。

突然連絡が途絶えがちになり、やがて「当分会えません」と宣告された。当然ながら私は執拗に説明を求め、半ば力づくで引き出した。このところ身内に立てつづけに不幸が起こったこと。
「こないだ会っていたとき、電話がかかってきて、親父だって言ったでしょ? あのとき、実は病院からで、母親が二度めの発作を起こしたって・・・で、あのあとすぐ病院に行って」
母親の治療費の大部分を肩代わりしなければならなくなり、時を同じくして父親が不祥事を起こして、その後始末にも奔走しなければならなくなったこと。ほかにもできれば隠しておきたかったであろう内情のいくつかをも。
「しばらく寝てないんです」と言った声は憔悴しきっていた。「これは俺がやらなくちゃいけないこと」「あなたを巻き込みたくなかった」「会えるようになったらまた連絡します」・・・

愛とは掛け心地のよいソファのようなものであるべきだと思っていた。デザインは多少どうあれ、ゆっくり休めることが第一だ。
私が少しのあいだ体を休めたいと思ったこのソファは最悪で、身を沈めたとたんに底が抜けたのだ。
あんなに疲れ果てたあとで、あんなに失望したあとで、なおもこれほどまでに苦しむことができるなんて。
こんなに働きつづけたあとでは休みを得る正当な権利がある、自分はそれに値すると思っていたからよけいだった。
悲しみのせいで体がおかしくなった。痛い。苦しい。息ができない。・・・
喪失という病だった。・・・

苦しみからただ逃れたくて、プールに通ってはひたすら泳ぎつづけた。
無心に泳ぎつづけるうち、彼の顔や肉体はしだいに透明になって私から剥れ去ってゆき、愛のイデーそのものと向き合いはじめた。
底ゆくにつれて深まる水の青みと、光の描くゆらゆらとした波模様を眺めて考えた。
至上の愛のかたちについて、生涯のさいごに欲しい愛の物語について。
そして新しい痛切さをもって、デュラスについて。

リアルな人生のなかで、愛のイデーというものをもっとも体現しているのは、私にとってつねにマルグリット・デュラスとヤン・アンドレアだった。
ヤンはデュラスより38歳年下の、彼女のさいごの愛人で、1980年から1996年、彼女が81歳で亡くなるときまで彼女と暮らし、公私にわたって支えつづけた。かの<ラマン>もその中で生まれた。
それが事実だ。そのあいだ、すべてが完璧ではなかったとしても。

愛するということを知っている女は数多くいる。だがほんとうにそれを知っている男はめったにいない。
私にとってヤンはそういう男の稀有な例だった。地上にあのような愛が存在しえたということが、星であり奇蹟だった。

そろそろ連休の予定を考えなければならない季節になっていた。そして彼なしで過ごさなければならないのは決定のようだった。この街に残るなんて、考えただけでぞっとする。
そうだ、今こそ何もひきとめるものがないのだから、あの旅のつづきを辿ろう。
愛の源流を求めて。

思い立ってから発つまでの1ヶ月、カフェに通って、昔のフランス語のテキストをさらった。
同時にフランスの交通事情について調べ直し、ルートを考え、予定を立て、宿を手配した。
はじめてのパリで、宿したのはサン・マルタン運河の近くのジュール・フェリー。
それはデュラスの生きた時間を遡る旅となった。
オペラ座前から95番バスに乗り、白とピンクのマロニエが花盛りのサンジェルマン・デ・プレへ。
そのすぐ裏、サン・ブノワ通りにデュラスが亡くなるまで住んでいたアパルトマンがある。
見上げると、映画で見たと同じ屋根が連なり、同じ雲の浮かぶ澄んだ空。
みんな楽しそうにカフェで談笑しているなか、思わず涙がこみあげてきた。

パリではそれから、子供の頃からの夢をぜんぶ叶えた。
セーヌの岸を歩き、宝石箱のようなノートルダムを眺め、塔に登って、有名なグルゴイユを1匹ずつ見てまわる。
バトビュスに乗り、セーヌを航行し、アレクサンドルⅢ世橋を渡る。
モンマルトルを散歩する。ギュスターヴ・モロー美術館へ行く・・・
すばらしい経験だった。文字通り新しい地平が開けたのだった。
甲板で風に吹かれて、飛沫を上げる航跡と流れゆく両岸の景色を眺めていると、新しい印象と光にすべてを忘れた。
風通しのよい、大陸の雰囲気に触れられたのもよかった。
イングランドやアイルランドの美しく重厚だが少し内向的な感じとは明らかに違う。
人がよく言うのもなるほどと分かった。

パリで数日を過ごしたのち、北部ノルマンディーへ。
サン・ラザール駅から揺られること2時間、北端の港町トゥルーヴィルに到着する。
ふしぎなパステルカラーの海。潮風に吹きなぶられながらどこまでも歩いた。雲の移りゆくにつれて光の調子が万華鏡のように変わる。
ここにデュラスが長く住んでいたロッシュ・ノワールがある。
「2日間海辺で過ごすならトゥルーヴィルがいい。」ここに滞在したことがあるプルーストの言葉だ。

浜辺を歩きながら二人の歴史を想った。
ヤンがはじめてデュラスの本に出会ってから、当時彼が住んでいたカーンの映画館で彼女の映画が上映されることになって、彼女がゲストに呼ばれ、そこではじめて二人が会うまでにすでに数年間。
当時ヤンは大学生、デュラスはすでに60歳だ。
それからさらに5年間、ヤンは彼女に手紙を書きつづける。毎日のように。決して返事が来ないのに。
そして1980年夏のその日、死を覚悟したヤンがデュラスの住んでいたトゥルーヴィルのロッシュ・ノワールへ乗り込んでゆく。
「死ぬ前にあなたにお会いしたかったのです」
それから16年間、彼女の死まで、彼はそのもとを立ち去らなかった。

歩くうち、風が冷たくなってきた。
町へ戻って、観光パンフで見つけたお店でノルマンディー風ガレットとシードル。
灯りのまたたきだすハイ・ストリイト。
夕闇迫る海辺へもういちど降りてみた。かなたのオンフルール、クリスタルの輝き。

朝の海辺をまた歩いた。
曇りの朝の裏通り。港町のフィッシュマーケット。

この日はドーヴィルからバスに乗ってカーンへ。
ヤン・アンドレアがバスに乗ってデュラスに会いに来た道を、逆から辿ってみた。
1時間ほどの道のり、海沿いの道や麦畑を抜け、カブール、ウルガットを過ぎてカーンへ。

市電に乗ってカーンの町なかを往く。ヤンはこの町で大学院生だった。
カーンを歩くならここで降りるのがいい、と乗り合わせたイタリア人が教えてくれた。
町のまん中の城址と教会とハイ・ストリート。
大学の構内や、住宅地のショッピングモールも少し歩いてみた。

歩きながら、ヤンの愛について考えた。彼女のあらゆる気まぐれ、暴言、独裁と専制に耐え、アル中での入院、錯乱、死に至るまで支えつづけたその愛について。
彼が持ちこたえられたのはなぜだろう。
考えるほど、あの二人の愛を築いてきた時間の厚みに想いをはせる。
彼女への愛がすぐに受け入れられていたら、さいしょの喧嘩で彼女を去ってしまっていたかもしれない。
自ら選びとって費やしてきた月日と、かけてきたエネルギーの大きさのゆえに彼は踏みとどまったのではないか。彼女のもとに辿り着くまでの長い旅のなかで、彼女の存在は彼の中で、生きることと同義なまでに深化したのだ。・・・

強固なものを築くには時間がかかる。
関係を築くために時間を惜しんではいけないのだ。
体は年老い 死に近づいてゆくとしても。

5月の旅はここまで。
あまりに鮮やかな印象が、日本へ戻ったのちも私をとらえて放さない・・・
夜中の2時か3時にはっと目を覚まし、その瞬間、窓の向こうの暗闇にはプラタナスと、レピュブリックの鋭角の街並がつづいている・・・
夜のカフェに入ればガラスの向こうにサクレ・クールのシルエットが遠く浮かびあがるような幻覚に襲われるし、街灯のつづく大通り 走りつづけたらこのままセーヌに行けそう。・・・

旅のつづきは8月。
このときは早朝に着く便で、パリの夜景をはじめて空の上から見た。ほんとに綺麗、宝石箱をぶちまけたよう。

通りを抜けて、セーヌへ。水のおもてもまだしずか。
差しそめた朝日にばら色に染まるコンシェルジェリ、懐かしい。
河岸ぞいをぶらぶら歩き、ノートルダムへ。やっぱりさいしょにここに来なくてはと思う。
いつも人で溢れかえってる広場も、この時間はしずか。

再びサン・ラザール駅へ。ここから、ノルマンディーの旅のつづき。
今回はシェルブール近郊を少しまわったのち、ずっと前から行きたかったブルターニュへ。
リゾン、ドル・ド・ブルターニュで乗り換えてディナン、サン・マロ、ブレスト、カンペール、コンカルノー、ポンテヴァン、レンヌ・・・ 駆け足だがぐるりと大きくまわった。

なかでも、ぜひとも訪ねたかったのが、ギャンガン。
デュラスを辿る旅のつづき、この町でヤン・アンドレアが生まれた。
至高の愛の物語。そのかけらをさいしょに紡ぎ出した町が、ブルターニュの懐深くにひっそりと息づく。
土曜の朝の市、ドラゴンに支えられた広場の噴水。
色とりどりの野菜や果物や、コアフをつけたおばあちゃんたちの絵葉書。
摩天楼を築くより、月に行くよりずっと偉大なこと、愛するということを成し遂げた、ここがその男の生まれた町だ。

それはまったくの奇蹟だった。
ヤンが不思議なくらい手ぶらで、フリーで、何も背負っていなくて、完璧にデュラスのためだけに生きることができたのは。
彼の母親はパートナーと幸せにやっていて、肝心なときに倒れて彼を煩わせたりしなかった。まわりのほかの誰も。
彼をその愛から妨げたのは、せいぜいほんの少しのプライドにすぎなかった。

誰かを愛するということは、その人のために生きて、死ぬということだ
それ以外のすべて、親兄弟、友だちも全部捨てる覚悟をもつということだ。
「親にも妹にも電話することないわ、だって私がいるのだし」・・・
デュラスは平気で究極を体現する。人里離れたトゥルーヴィルの館に彼を閉じこめ、彼のすべてを独占する。
ヤンは屈した。
屈することができるというのもひとつの力だ。
束縛も嫉妬もすべて受け入れることのできる強さを彼はもっていた。

それが愛というものだと、当然のことと思ってきた。
だからひとたび家族に事が起こるや、これは俺がやらなくちゃいけないことだと、迷いなく去っていった彼にびっくりした。
私を愛したということは、これから生きる人生のすべてを私に捧げたということなのだ。
もう君の命は、君だけのものじゃない。
何を勝手に、私以外のものに捧げようとしているの?
それは私から奪うことだというのが分からないのだろうか?

絶望の淵で、考えつづけた。どうしたらよかったのだろう、君は。
あんな状況にあって、それでも私を愛しつづけるためには、どうしたらよかったのだろう。・・・
ああ、そうか・・・デュラスもかつて、似たような状況を経験していたっけ。
人種や階級の違いのために引き裂かれることになった、<ラマン>のあの華僑の青年、あのときがそうだった。
でもやっぱり、君と同じ・・・彼が愛を貫けなかったのは周囲のせいだけでなく、彼自身の弱さでもあって、だから結局どうにもならなかったのだ。

もしかしたらデュラスも、あの愛人との関係を邪魔もののない状態で再現できたら・・・とずっと心の底で願っていて、ヤンはその途方もない夢の具現だったのかも。
<ラマン>の青年と出会ったときのデュラスは15歳、ヤンと暮らし始めたのは65歳。そして、デュラスに出会ったときの二人の年齢はどちらも27歳なのだ。
半世紀のときを経て、彼女は若き日の夢を完全な形で取り戻したのかもしれない。
そんな途方もないことがどうやって可能だったのだろう?
考えて、今さらのように気づく。彼女はただ仕事しつづけたのだ、ひたすら自分を表現しつづけた。作家として、また映画作家として。
それはオンフルールの灯台の発する光のように暗い海に向かって孤独な信号を発しつづけ、半世紀のちのある日、ひとりのソウルメイトの心に届く。・・・

完璧な愛を手に入れることが目的だったのではない。
それは結果に過ぎなかった。
自分の魂の面倒は自分で見なくてはいけないのだ。
誰にも開け渡したりしてはいけない。
とっくに分かっていたはずなのに、この5年間、走りつづけてきて、あまりに疲れ果てて忘れていた。
私も自分の仕事を再開しなくては。・・・

6日目の夕方、パリに戻ってきた。
ブルターニュからのTGVはモンパルナス駅。まだ明るかったので、セーヌへ向かってゆっくり歩いてみた。
宵空のサンジェルマン・デ・プレ。
界隈のカフェに灯りがまたたきだす。独特の華やぎ、立ち去りがたい思いにさせる。
セーヌは夜。誰も彼もがそぞろ歩き、光の洪水のなか、川面をすべりゆく甲板から手を振って、歓声を上げる。
この町は1年中、毎日がお祭り。

75番バスを待つ。
さいごの夜、オベルカンフの近くの居心地のいい小さな店でミント水を飲みながら、愛されるということを想った。
愛されるということは、シャネルよりダイヤモンドよりさらに得がたい。
デュラスはそれを得た女だった。
時間をかけすぎるほどかけて、ともに暮らすようになってからもどこかで距離をおいていた。なかなか心を許そうとはしなかった。それまでの月日が彼女に教えたのだろう。結局さいごまでいてくれる相手なのだから、そんなムダなエネルギーを使うこともなかったのにと思ってたけれど。

愛というものは、なくてもやっていけるときにはじめて手に入るらしい。
ここに最大のアイロニーが。・・・

死ぬまで16年間。結果的にそうだっただけで、そのあいだは常に不安定で、保証のない関係だった。
悪口雑言を投げ、あらゆる禁句を並べ、我が儘放題に振舞いながらも、彼女は常に覚悟していた。
あれほど時間を積み重ねたにもかかわらず、彼女は常に、ヤンを失うことを覚悟していた。
決して魂のさいごのひとかけらまで、彼に開け渡してしまいはしなかった。さいごの瞬間まで。
だからあんなに強かったのだし、あんなにすべてを手に入れたのだ・・・

私ももうこれ以上、失ったものに執着しない、と心に決めた。
頑張って報われなかったことに執着しない。
次にどうするか考えなくては。次にどの扉を叩くかを。それをこの国で必ず見つけると、心に決めた。
この街へ来てよかった。はるか昔から、いつか来ようと決めていたから。
今までの挫折と苦しみは、この街へ辿り着くためだったのかもしれない。
ほんとうはとっくに行き詰まって、新しい世界を求めてもがいていたのだ。
私のことを後回しにするような愛はいらない。
ケータイを手に取り、電話帳から彼の連絡先のデータを消した。

宿へ帰る道の途中、ステッキをついて歩く百年前のイェイツの亡霊とすれ違った。
彼もまた自国に絶望してパリに移り住んだのだ。そして死ぬまでアイルランドへ戻らなかった。
そうだった。彼もまたここで新しい地平を見出したのだ。移り住んでのち、その作風はさらなる進化と発展を遂げ、次のステージへ入った。パリ時代の後期の随筆など、ブルトンを想起させるほどだ。
私が立ち上げた劇団バリリー座のモデルとなったイェイツ。彼のことなど忘れていたのに、気がついたら同じ街へ来ていた。
この符牒。・・・すべての矢印がこの道を指していたかのようだった。
私もまだ走りつづけなくては。まだこれから切り開くべき、新しい世界があるのだ。

あの夏、<シェ・ジャン>のテーブルで道往く人々を眺め、またこの街へ戻ってくると心に誓った。
これからは、デュラスのように覚悟を決めて、素直に自分の心に従って生きよう。
あのとき、私はフランスへ渡る道を選ぶこともできたのにそれをしなかった!と後悔しないように。

とにかくまず、フランス語をもっと磨かなくては。
そのあと、今の地平に見えているのはこの国で映画制作を学ぶこと。
私にとって、アイルランドが演劇の国なら、映画はフランスだ。何といっても<冒険者たち>のロベール・アンリコを生み出した国だから。次は映像で自分の物語を描きたい。
演劇の次に映画というのは自分のなかで自然な流れだ。
もともと物語が「やってくる」ときは、空に映った巨大なスクリーンに完璧に出来上がった映画のような映像のかたちでやってくる。それをノベライズしているような感じだった。
舞台の背景に映像をプロジェクタで映して使いたいというのも当初から考えていて、さいごの作品ではあるていど実現した。単なる舞台の記録ではなく、映像作品としての鑑賞にも耐えるような撮影のアプローチというのもずっと考えていた。そのつど人を集め会場を手配するところからはじめなければならない演劇に比べ、再現性の高い映画というスタイルには魅力がある。

でも、同時にこれからは、ひとつのスタイルに拘らずにいよう。
今までは、まず自分がこういう形で表現したいと思うものがあって、それを提示して受け入れられずに失敗してきた。
何を表現したいかということそのものをいちど自分から手放して考えよう。私にしかできないことで かつ人々にもすばらしいと思ってもらえるようなことを見つけたい。時代が求めるところ、かつ私のよさを発揮できるようなところを。ルービックキューブを合わせるように、どこかでカチリと合うところがぜったいあるはずだ。努力を惜しまずに、頑張って探さなくては。
いろいろ新しいことに挑戦して、どんどん変えていこう。どこで見つかるか分からないから、自分を広げていろいろなところから探そう。

未来をはっきりと思い描くために、パリで住みたい部屋の条件を細かく書き出してみた。
飛ぶべきところでは飛ばなくては。人生がつづいてゆく限り。
これまで挫折のなかで積み上げてきたものすべて、すべてが意味をなし実を結ぶ、あらたな地平が必ず開けるように。