2013年11月30日

<創造的な不幸>前書き

創造的な不幸―愛・罪・自然、および芸術・宗教・政治についての極論的エッセイ―

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前書き

本書は早稲田大学第一文学部文学科英文学専修の学部卒業論文として提出されたもの。
ずっとネットに載せていなくて気にかかっていたが、今回部屋の整理をしたのを機にやっと果たせた。

テオドール・W・アドルノが彼のキルケゴール論を発表したのは23才のときだったそうだが、私のこの著作も同じ23才のとき。
そして、同じくらいの価値があると思っている。もっとも、読んで面白いかはまた別の話だけど。
卒論担当として私が指名したのは当時の松原正教授。
彼は論壇では極右に属し、「戦争は無くならない」という本を出したり、自衛隊に乗りこんでいって「お前たちは人殺し集団なのだから、その自覚を持たなくちゃいかん!」と演説をぶったりしていた。
あるとき、教室に入ってくるなり教壇の椅子に座りこんで頭を抱え、「愛が分からん。それから、罪が分からん。神経衰弱になりそうだ」と言った。
そこで私は、自分と同じことに苦しむ魂がそこにあることを知ったのだった。

それから私たちは時どきお茶したり、食事したりしながら、あれこれの問題について語り合うようになった。
(というか、大方は彼がひとりで喋っていた。)
「不思議だなぁ。何で俺が六十過ぎて悩んでいる同じ問題で、ハタチそこそこの君が悩んでいるんだ?」と彼は言ったものだ。

彼の講義は、こんなにまともな話は聞いたことがないと思えるくらい、極論で、しかも正論だった。
けれども、とくに古代イスラエル史に関していくつか不正確な発言が気になった。彼の講義を聞いているほかの学生たちに対して、私は責任を感じた。

そこであるとき私は彼の認識を少し修正する目的で古代イスラエル史を手短にまとめ(それが本書の第15章の前半を成している)、その原稿を手渡した。
ところが彼は、何の考え違いか、それを読んで私の文体を修正してかかろうとするのだった。
「これは私のスタイルなので」と私が説明すると、「それは、言い訳だ。いやならもう見てやらんぞ!」と怒った。
いや、別に見てほしいと頼んでないんだけど。修正してほしいのは私の文章ではなく、あなたの認識のほうで・・・
と、うまく説明することが、当時の私にはできなかった。

いちおう次の年も、同じ講義に出て、聞いていた。
私が気になった(そして渡した原稿の中で指摘した)不正確な部分は、もちろん何ひとつ直っていなかった。

19の夏、旅行先でガラスのネクタイピンをお土産に買ってきた。
彼はときどきそれを着けて講義にやってきた。
いちばん前の席から、私はそれを苛々と眺めた。陽気なマルチカラーのガラスのピンに、タイはいつもほうじ茶のような渋色。
全然合わないどころか、むしろ互いのよさを掻き消しあっているようだった。
あの頃、私たちがいくらか共犯者めいた気分を分かち合っていたとしても、結局はそんなものだった。

私が本書を仕上げたとき、学部生の卒論としてかなり型破りであることは分かっていた。ふつうは一人の作家について、原稿用紙せいぜい百枚くらいでまとめるところを、私のは取り上げた作家が百人くらいいて、ぜんぶで千枚近くにわたっていたからだ。
こんなもの認められんと言われても仕方なかった。そうしたら卒業は諦めて退学しようと思っていた。

提出し終え、ほっとして就活やら車の免許をとったりバタバタしていたところへ電話がかかってきて、彼はややむっつりとした声でこう言った。
「君の卒論を読んだよ。たいへん感心した。さいごまで読むの、大変だったけどな」
それから、<早稲田英文学>という雑誌に君の論文を載せたいという話があるから、体裁を整えろということだった。

うわぁ面倒くさいことになったと思った。
結局その後数ヶ月をかけて、大学の図書館にせっせと通って引用文献などの体裁を整えた。その頃にはもう就職していたから、週末に通ったのだ。
もう心がそこにないのに、さいごのひと手間、これがものすごいストレスだ。
さいきん、ウィトゲンシュタインが私と全く同じ問題で大学側とゴタゴタしたのを知って、大いに同情を覚えた。
私はもう興味がないのだ! と言って、<論考>の理解者や崇拝者たちから逃げ回っていたという話にも。

私の論文を学内誌に載せたがっていたのは、村田薫という別の教授だった。
この人が松原教授に話を持ちかけたそうなので、そのとき厳密にどういう表現で言ったのか私は知らない。

しかし、それを私に伝えた松原教授の口ぶりは、どうも何か勘違いしているようだった。
「あの雑誌は教授だってせいぜい十枚しか載せてもらえないんだ。それを学部の学生が百枚だなんて、破格だぞ!」
と、のっけから恩を着せてきた。
「じゃぁな、全体を百枚に要約して、一人称に統一して、ここの口癖は直して・・・」
と、勝手にどんどん話を進めていった。
そこで私がやっと口をはさんで、「先生、一人称には直しません。口癖も、私の文章ですから、変えませんよ」と言うと、
「そうか、じゃ先方にそう言ってやる。言い出したら聞かない女だからな」
ユーモアのつもりか、笑いを含んだ声で言った。
「アナタもね」
と、舌の先まで出かかった。
「・・・それで通るか分からんけどな。それでダメだったら、諦めろ」
と言って、彼はガチャンと電話を切ってしまった。

・・・諦めろって! 呆気にとられた。いやいや別に、こっちから頼んでないんだけど・・・
けれど、ばかばかしくなってそのままにしてしまった。
これが、彼と話を交わしたさいごだ。


うーん。なんかびっくりしたわ。
誰かの作品をどっかに載せたいときってふつう、まず
「載せたいのだけど、どうですか?」って聞きません?
「載せてやるから、こことあそこを直してこい」ってはあんまり言わないような。

いやーそんな…昨日まで存在も知らなかった雑誌に載せてもらえることがどんなに光栄かって、いきなり言われてもね。
日本のアカデミズムの世界って、そんななんですか?
よくそんな揺るぎなく、自分たちのほうが上だと思ってるなー。
…滑稽だわ…。

大学の先生といったって、人間としては全く対等だと思っていた。
というか、私立大なのだから、むしろ自分たちがお客さんで、君らの給料は我々の払う学費から出てるんだぜ、くらいの感覚だった。
正直、今でも間違っていないと思うけどね。

だからこの人に対しても、共感はしていたけど、尊敬はあんまりしてなかったかも。
私にとって、先生と呼びたい人たちはむしろ、高校の先生たちなのです。
教員としても人間としても、ほんとに尊敬できる人たち。

ちょうど同じころ、高校の100周年記念だったかな?
何かに、私が卒業するとき書き残していった文章を載せたいというので、高校のときの先生から連絡があったのです。
そんなわざわざ、とびっくりした。
私としては、そんなのとっくに著作権ごと差し上げたつもりだったので。
(ちなみに、それ、こちらです。
なんて丁寧な人たちだったのでしょうね。
大学の先生たちのやり方とあまりにも対照的で、笑ってしまいましたよ…。

ただ、こちらの論文は、今読み返すと、たしかに読みづらい文体です。
文語体で引用するな! それから、英語で引用するな!と、当時の自分に突っ込みたい。
でも、当時はそういう気分だったのね。

幸いなことに、ブログというツールのおかげで今や<早稲田英文学>の手も、ほかの何ものの手も借りずに本書をここに公開できる。
ということで、興味のある方はどうぞ。
  
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この記事へのコメント
お久しぶり。今、日本にいますか?
久々にブログをのぞいてみたら再開されていて、ものすごい文章が載っているんで、これからじっくり読ませていただきます。

岩崎綾之
Posted by 岩崎綾之岩崎綾之 at 2013年12月04日 05:45
私も、

楽しみにしてました。

全部、理解出来ませんけど、目を通しています。
Posted by 吹雪 at 2013年12月05日 20:41
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