2021年10月03日

白い雌牛の島(普及版)

愛蘭土物語(あいるらんどものがたり) ゴロウェイ篇7
白い雌牛の島 The White Cow Island (普及版)
イニシュボフィンの物語
2010 by 中島 迂生 Ussay Nakajima

白い雌牛の島(普及版)

(こちらは、物語部分だけをシンプルにまとめたバージョンです。もっと長い<完全版>は下の記事をどうぞ)

 This was a spectral, floating island until fishermen landed on it in a fog, and by bringing fire ashore dispelled the enchantment; then they saw an old woman driving a white cow, which turned into a rock when she struck it. The cow occasionally revisits Loch Bo Finne.
- Connemara, Tim Robinson, Folding Landscapes 1990

 この島はかつて幽霊にとり憑かれた、海原の上をさまよう浮き島だった。
 あるとき霧に迷った漁師たちが上陸し、浜辺で火を焚いた。それによって、ながらくこの島にかけられていた呪いが解かれたのだ。
 このとき、彼らは白い雌牛にまたがって疾駆するひとりの老婆を見た。彼女が雌牛を打つと、それは岩になってしまった。
 その雌牛は、今でもときどきボフィン湖に姿をあらわすという。
 - <コネマラ>、ティム・ロビンスン、1990(中島迂生訳)
 
         *

 イニシュボフィンは、アランの少し北に位置する荒涼とした小さい島だ。
 コネマラの西端、クレガン・ベイからフェリーで15分。
 大西洋をわたる風につねに吹きさらされて、背中を丸めた動物のようだ。
 険しい丘陵もあるが、大部分はくすんだ色あいのなだらかな地形で、木はあまり生えない。
 アランが地質学的にバレンに属するのに対し、イニシュボフィンはコネマラに属し、島の景色もコネマラに似ている。
 3マイル四方もあるかどうか。島民は、せいぜい百人。
 イニシュボフィンは<白い雌牛の島>を意味する。

 この島は、旅をつづけるうちに何となく行く手に見えてきたので足を向ける気になったもので、さいしょからとくに目的としていたわけではなかった。
 けれども、西の果てに向かって旅をするということは、たぶん人の本能のひとつなのだ。
 さいごの物語は西の果てにあるはずだ、昔の力ある人々がなべてティルナノーグへ渡っていったのであれば、西の果ての島に、おそらくはそのまた西のさい果てに。・・・

          *

 うら若き乙女フィオナ。・・・
 私の心の目によみがえる彼女の面影、その雪のような白い肌、波打つ髪のプラチナブロンド。
 あかるい青い瞳、しなやかな四肢、銀の鈴を振るような笑い声。・・・
 
 その昔、はるかはるか遠い昔、西海の果て、いまのアランやイニシュボフィンよりもさらに西の、
 伝説の地、常若の国ティルナノーグ。
 そこに暮らしていたのは、いまの我々とはちがった種族の人びと、いまで知られているところの妖精たち、昔の力ある人びとだった。
 これはその国の片ほとり、とある海沿いの地方で起こった物語だ。・・・

 その地の突端、アイルランドの側の海をのぞんで、女主人マレナの館はあった。
 広い庭園に囲まれた、堂々たる壮麗な館で、大勢の召使いに囲まれて彼女は暮らしていた。
 それは肥沃な美しい土地で、作物がゆたかに実った。
 彼女はまたたくさんの家畜をもっていて、それらを世話する者たちも大勢いた。

 乙女フィオナはその館の牛飼い頭の娘だった。
 女主人のみごとな牛たちを任された父親の下で、朝に夕に心をつくして世話にあたっていた。
 とりわけ彼女自身の分身のような、まっ白い若い雌牛を。・・・
 毎日、彼女は牛たちを畜舎から出して、湖のほとりへ放しにいった。

 女主人マレナにはオーウィンという恋人があって、ある日、彼女のもとを訪ねてくる。
 夏のはじめの美しい日のことだった。
 彼は途中で道に迷ってしまい、牛に草を食ませているフィオナの姿を見かけて、近づいてゆく。
 湖のほとり、木陰のもとで休んでいたフィオナが顔をあげて彼を見たとき、オーウィンは一瞬ことばを失ってしまう。
 木漏れびにかがやく銀色の髪、底知れぬ海のブルーの瞳、大理石の白い肌、その姿はひとつの完璧な絵だった。
 それはどんな女にも一度は訪れる、人生のなかでもっとも美しい瞬間のひとつだったのだ。

「乙女よ。あなたはもっとも美しい」・・・
 我知らず、そんな言葉がオーウィンの口を突いて出た。・・・

 突然目の前に現れたりっぱな若者の姿に、フィオナはむしろ困惑している。
 その身なりは異国の人のようで、この地方のものではなかった。

「・・・何の御用?」・・・
 問われてはじめて、オーウィンは我に返る。
「マレナの館は?」・・・
 乙女が道を指し示したのを見て、オーウィンはうなづき、「ありがとう」と言って去ってゆく。
 そこではじめて、フィオナは彼が女主人の恋人であることに気がつくのだ。・・・

 オーウィンとフィオナが言葉を交わしたのはほとんどこのとききりだった。
 オーウィンのほうにまったく悪気はなかったし、その言葉に偽りはなかったとしても、それはただ、路傍に見いだされた美しい花へ向けて、何気なく発せられたものにすぎなかった。
 それから何かの折に顔を合わせ、微笑みを交わしたとしても、彼の方は彼女のことを、あのときの乙女と覚えていたかどうか。

 けれども、この日オーウィンが彼女にささげた最上級の賛辞、それはいつしかゆっくりと彼女の心に沁み、やがて少しずつ、彼女の心を狂わせていった・・・
 彼に出会う日まで、どんなふうに生きていたのか、思い出せない。
 彼とマレナとが寄り添って庭園を歩いているのを目にするたび、身を焼かれるような苦しみにさいなまれた。

 この種の苦しみに対して、フィオナの心は無防備だった。
 どうしていいか、分からなかった。
 いつまでつづくかも、分からなかった。
 恋の激情は報われぬまま、心はやがてすり減って疲れ果て、烈風のなかで翻って色を変える木の葉のように、それがいつしか苦い怨恨の情に、憎悪の念に変わってゆくのをとめるすべもなかった。・・・

 やがてふたりの婚礼の日が近づいてくる。
 その日、それはよく晴れた美しい秋の日のことで、館には国じゅうから多くの客が招かれ、大がかりな宴が設けられ、喜びが、笑い声が溢れた。
 ばら色の衣に身を包んだマレナ、星のように輝く瞳に夜のように暗い髪、その美しさには太陽も嫉妬した。
 牛飼いの娘は祝いの席に招かれさえせず、そっと遠くの物陰から、そのようすを見守るばかりだった。・・・

 その日、夜になって急に雲が出てきて、夜半には吠えたける不吉な嵐となった。
 部屋着に着替えたマレナは花嫁の褥に横たわり、不安な面もちでごうごうと叫ぶ風の音を聞いている。
 そのとき、扉の開くかすかな音に、向き直って呼びかける、オーウィン?・・・
 ところが、入ってきたのはオーウィンではなかった、それは髪を振り乱し、狂乱の瞳をぎらつかせたひとりの若い女であった、
 手にはナイフを握りしめ、魔物のように彼女めがけて飛びかかってくる・・・
 マレナは叫び声をあげる、もみあいの果て、その胸ふかく刃が突き立てられ、花嫁は初夜の床を血に染めて息絶えた。
 叫び声をきいて部屋に駆けこんできたオーウィン、彼もまた運命の手を逃れることはできない・・・
 恋に狂った手弱女の、どこにそんな力があったのだろう、
 彼は後ろから首をふさがれて崩おれた。
 かくてその日もっとも幸福だったふたり、彼らはともに亡骸となって横たわった。・・・

 牛飼いの娘はティルナノーグの法廷にかけられて、永久追放を言い渡される。
 罪によって呪われたその土地は本土から切り断たれ、彼女をのせたまま彷徨える島となって沖へ流されるのだ・・・
 ティルナノーグの人々は、ふつう、死なない。
 けれども、かくもいとわしい罪を犯したものが、犯された土地が、もはやこの国の一部としてとどまることは許されなかった。
 流されたその島は、霧のうちに閉じこめられ、人の目から隠されて海の上を千年さまよい、
 いつか誰かが足を踏み入れて、この島の上で火を燃やす日まで、その霧が晴れることはないだろう・・・

 その日、人々はやってきて、一部始終を見届けた。
 彼女はうつろな眼を見開いて、女主人の庭園の門のところに、茫然とした面持ちで立っている。
 その手に残されたものはただひとつ、彼女が手塩にかけて世話を尽くした、一頭の白い雌牛である・・・
 向き合って立った彼らのあいだにひとすじの亀裂が走り、フィオナの立っている方の側がひとたび大きく揺らぐとともに、やがて亀裂のなかに海水が溢れこんでくる・・・
 その地が切り離されてゆっくりと沖へ流されてゆくまで、彼女は立って、彼らを見つめていた。
 島はしだいに本土から遠ざかり、やがて霧に隠されて見えなくなった。
 それ以来、ティルナノーグで彼女を見た者は誰もいない。・・・
 
 それからどれほどの間、島は海上をさまよったことだろう。
 混沌の霧のなかで、フィオナは来る日も来る日もひとりだった。
 薄明のたそがれどきには雌牛にまたがって、湖沿いの砂利浜を駆け抜ける、
 そのたびあの日の激情がよみがえって、われ知らずしかと雌牛を打ちすえる・・・
 それはもはや、己れへの怒りなのか、己れの殺めた者たちへのなおも尽きぬ憎しみなのか、
 あるいはそれらすべてを引き起こした、なにか名づけえぬものに突き動かされてのことなのか、自分でももう分らなかった・・・
 
 乙女に打ちすえられるたび、雌牛は叫び声を上げて岩に変わる。
 そのおもてからしだい生き物のぬくもりが失われ、冷たく沈んでゆくほどに、ゆっくりと霧は宵闇のなかに這い、夜がやってくる・・・
 ごうごうと吠え猛ぶ夜、狂気と血と殺しの記憶・・・
 けれども一夜明けると何ごともなかったように、雌牛はきまって生ける姿に戻って、湖のほとりで草を食んでいる。
 何ものも奪うことのできない、乙女の永遠の処女性のように。・・・
 
 こうしたドラマが、夜ごと朝ごと繰り返された、はかり知れず長きにわたって。・・・
 はかり知れぬ長きを経て、妖精の乙女も少しずつ年老いた、
 島がティルナノーグから切り断たれ、潮風に吹き寄せられて本土へ、人間界へ近づくにつれて、しだいその不滅の命の力を失ってゆくにつれて。・・・

 うずまく波のなかで果てしなく彷徨いながら、島の一方の端に残された、その昔、女主人マレナの館であったもの、幾棟もつらねて築かれたりっぱな館、・・・それらもまた時を経て、しだい斜めに傾いて崩れ落ち、海水でまっくろになって朽ち果てていった・・・

 そしてとうとう、呪いの解かれる日がやってくる・・・
 その日、二人の漁師を乗せた小舟が、霧のなかをめくらめっぽう彷徨いながら、運命の糸に引かれて少しずつこの島に近づいてくる・・・
 ふいに舟底に砂利の感触を感じたかと思うと、大きくがくっと揺れて、舟は浜にとまった。
 望みを失いかけていた漁師たちは、そのはずみに舟底へ投げ出されてしまう、が、すぐにひとりが身を起こし、舟端を跨ぎこえながら叫ぶ、ありがたや、陸だ!・・・ どこの陸だか知らないが、ともかくあがって火を焚こうぜ。・・・

 その日、浜辺で火の焚かれたたそがれどき、ミルクのように濃い霧が少しずつほどけてゆくのに、老婆は気がついただろうか?・・・
 その日、砂利浜を駆け抜けながら雌牛の背を打ちすえたとき、叫び声を上げたのは牛だけではなかった、
 岩に変じたその背から降り立って、老婆はおぼろな霧の向こうにふたつの人影をみとめる、彼らはぎょっとして度肝を抜かれている・・・
 だが、やがて勇敢なひとりの漁師が近づいてゆく、おい、ひどいことをするじゃないか!・・・ どこの誰だか知らないが、この牛がお前さんに何の悪いことをしたというのだ。・・・
 彼は老婆の手からその杖を奪い取ろうとする、彼女は怒りの叫びをあげて漁師を打ちすえる、と、彼もまたそのままの恰好でぴくりとも動かなくなる、彼もまた岩に変えられてしまった・・・
 傍らにいたもうひとりの漁師はぞっとする、死に物狂いで老婆に組みつくと、もみあいの果てについにその杖を奪い取り、彼女を打つ・・・ こうしてついに彼女自身も岩となり、その果てしのない孤独と苦しみも終わった。・・・
 そのときはじめて、ながきにわたってこの島を包んでいた霧がすっかり晴れ、彼は仰ぎ見て海の向こうに横たわる本土を、南にアランを、そして北にアチル島の姿をみとめたのだ・・・

 そのときはじめて島はようやく海の底にもといを見出し、海図のなかでその位置を定めた。
 それ以来もう、根なし草のように彷徨うことはない、呪いは解かれ、島はいまやアイルランドの一部となった。
 本土から人びとがわたってきて住むようになり、役場や教会も建てられた。・・・

 それでも、かくもながきにわたってひとりの女の苦しみにとりつかれたあとでは、何ごともなかったようにというわけにはいかない。
 姿を変えられた者たち、雌牛と老婆と漁師のひとりとの変じた三つの岩は、それからのちもロッホ・ボフィンのほとりにながく残って近づく者をぞっとさせた。
 殺しのあった<雄鹿岩>の周辺、マレナの館の廃墟のあたりには、今なお彼女の思いが、呪いの雰囲気が色濃くたちこめている。
 波は荒く、岩礁は鋭く、嵐のときにはいまでもときどき溺死者が出る。・・・

 いまでも島に霧のたちこめるたそがれどきには、ロッホ・ボフィンの砂利浜を、幻のように牛に乗って駆ける老婆の姿を、人は目にすることがあるのだという。
 あるいはまた、湖、ロッホ・ボフィンの中から老婆と雌牛が姿を現すこともある、七年にいちど、あるいはまた、何か差し迫った大きな災いの前兆として。・・・

        *























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Posted by 中島迂生 at 03:02│Comments(0)白い雌牛の島
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