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2014年12月30日

部屋スナップ2013-2014 その4

2013年冬~2014年夏まで、片づけの記録もかねて撮ってきた部屋スナップたち、つづき。

 

7月。
きれいなワンピースはしまわずに飾っておく。
これ、ほんとにきれい。

 

片づけも進んで床の見える面積が広くなってきた。
でもまだ書類の山が。。。だいぶ縮んできたけど。。

 

8月。
このあたりでひとまず最終的なかたち。



花模様のブタは、職場の机に長らく住んでたのが戻ってきた。
ブタもほっとしてる。・・・

 

雑誌類の整理をしたのを機に、心惹かれるページは切り取って壁に飾ることに。
寝室の壁が展示スペース。

 

とくに気に入ってるやつ。

 

左:これは大好きなAZUR by mousie のブックレット。
右:これは10年以上前の雑誌の切り抜き。
窓に流木にカラーエクステ、っていうディスプレイが素敵なサロンの紹介記事。

 

これはつい最近のインテリア雑誌の切り抜きで、パリの小さなアパルトマンに住んでるあるおばあさんの部屋。
彼女はイラストレーターで、隣は旦那ではなく恋人で、別々に住んで35年くらいのおつきあいなんだそうだ。
そういえば子供のころ、そういうのが理想だったっけ。。。

フジコさんが、どこかで書いてたな。
(彼女の部屋も、ほんとに素敵で大好き。)
部屋のインテリアをいろいろコーディネートするのは楽しいけれど、長い時間をかけてやっといい感じに仕上がったころにはたいてい引っ越しだって。
それ、読んだときには、引っ越すあてなどなかったから、ぴんとこなかったけれど、・・・ほんとにその通りだ。。。





  

Posted by う at 10:10Comments(0)片づけ2013-2014

2014年12月30日

部屋スナップ2013-2014 その3


2013年冬~2014年夏まで、片づけの記録もかねて撮ってきた部屋スナップたち、つづき。

 

2014年5月。
左:芍薬? この部屋史上かつてないでっかさに加え、この色のように華やかな強い香り。
右:カンディンスキーのガラス絵の後期のもの。
本類の整理を機に、しまいこんでた画集から拡大コピー。



長らく物置に放置していたもろもろを処分した。
いやー大変だった! けどやり遂げるとほんとすっきり。

 

左:前記事でも書いた、おはじきでつくったオブジェ。
右:ピンクと紫の取り合わせも白に映える。

 

左:ある日の部屋。
そういえば、このテーブルは小学5年のときの作。
右:こちらもだいぶすっきりしてきた水回り。
洗面台と蛇口は自分でホームセンターにて注文したもの。
手前の洗濯機と上の鏡は白く塗った。
鏡に映ってるつくりつけの小さな棚は自作。
左下のゴミ箱も長年のつきあいでなかなか気に入ってる。
ふたは板材を丸く切って、余ってた取っ手を取り付けた。

 

6月。
左:しまいこんでいた昔の作品などをディスプレイ。
アルミ缶でつくった星のオブジェや、その他もろもろ。
右:これもしまいこんでいた子供のころの宝物をディスプレイ。

 

これも子供時代の貝殻や小石たち。
あ・・・このスナップ、何かを思い出す。
・・・リンドバーグの<海からの贈り物>だ。・・・

 

左:窓辺。
右:たまには紫のトルコ桔梗。
白とミントグリーンにあう。

(つづく)




  

Posted by う at 09:09Comments(0)片づけ2013-2014

2014年11月27日

部屋スナップ2013-2014 その2


2013年冬~2014年夏まで、片づけの記録もかねて撮ってきた部屋スナップたち、つづき。

    
  
  
  

2014年2月、つづき。
子供のころから集めているガラスの動物たちなど。
こんまりさんの本を読んでから、しまいこまずに飾ることに。



スケートのレッスンから帰ってきて、ほっとひと息のとある日曜日。

  
  

珍しくアネモネが売ってた。
アネモネのとくに青ってほんとに美しいと思う。
白の薔薇もいい。

  

3月。
本の整理をしていて、久々読み返した一節。
この扉の青い色とデザイン、ほんとに素敵。

  

白のできるだけシンプルな調度に、白熱灯。
片づけが進むにつれ、疲れて帰ってきてもほっと心癒される部屋に。

朝は明るくて気持ちよく、力が湧いてくる。

  

ヤン・ブリューゲルの絵のような、カナリア色の八重のチューリップ。

  

4月。
ある日の作業中。
金魚草は日持ちしないけど、すごく香りがいい。



整理して、手放すことにした本たち。
よき第二の人生を歩んでくれますように。

(つづく)





  

Posted by う at 07:47Comments(0)片づけ2013-2014

2014年11月27日

部屋スナップ2013-2014 その1


2013年冬~2014年夏まで、片づけの記録もかねて撮ってきた部屋スナップたち。

    

部屋の基調は白とミントグリーン。
好きなものだけ残していったら、そうなった。

できるだけいつも花を飾るようにしていた。
花を飾ることのいい点は、見てるとちょっと元気になることと、その美しさに釣り合うよう、まわりをきちんと片づけざるを得なくなること。
白い調度にはピンク系の花が映える。



2013年12月。
年の瀬も迫り、理事長室からいただいてきたお花、友人からのプレゼントの飾り玉など。



いつも飾るガラスのクリスマストゥリーに、ことし送ったクリスマスカードたち。



室内もだいぶ片づいてきたが、この時点ではまだ床に大量の未整理の書類が・・・。
(手前の薄緑色の布をかけてあるもの)

  

2014年1月。
ちょっとしつこい感じのピンクだが、疲れてるときにはこれくらいでいい。
・・・よっぽど疲れてたんだな、私。・・・

右のスプレーバラはスゴイ! なんと2週間以上もった。

  

2月。
優しいピンクのトルコ桔梗とチューリップ。

エレピを置いた窓辺。
白い家具に木の床、っていうのが好き。
なのでほとんどすべての家具に自分で白ペンキを塗った。
エレピスタンド、椅子、左手の小型冷蔵庫もそう。窓枠も。

  

これは階段の上のところに飾ってあるものだけど、祖父の描いた絵。
祖父の人柄そのままに、素直で実直。
くちなしの香りが漂ってきそう。

  

これは寝室の壁に飾った、母の友人の絵。
前は祖父母の家にあったものを私が譲り受けた。

  

壁にとめたカレンダーの切り抜きなど。
冬仕様のディスプレイ。



カーネーションも繊細な色調のまま、長持ちしてエライ。

(つづく)




  

Posted by う at 06:38Comments(0)片づけ2013-2014

2014年11月27日

その他のクラフト作品など


この項目はいろいろと多岐にわたるので、今まで整理したところを少しだけ。



ちょっとだけ造花をつくってみた時期もある。
この赤バラは、赤いワンピースの裏生地を、暑いので切り取ってしまって、いらなくなったもので制作。



こちらは、家にたまった買い物袋で制作。
この頃は(エコ主義もあり)新たに材料を買わず、いまうちにあるものだけでどこまでいけるかやってみよう、という時期だった。
ビニールはちょっと扱いづらいけれど、色はきれい。



七色の使用済みライターと流木でつくった、ガラス琴のようなオブジェ。



クリスマスの飾り。
アルミ缶製の星や三日月、金色のスプレーを吹きつけた松ぼっくりなど。



トゥリーに飾りつけるとこんな感じ。



アルミ缶といえば、こんなのもつくったっけ。



これは子供のころの作品。
缶の底面と小さなおもちゃの貝殻でつくったモービル。
この頃からアルミ缶ww 鎖も針金で自作。



おはじきはおとなになってからも、アクセサリ制作などに重宝してたのだけど、
たくさん余ったのでこんなのをつくってみた。
アクリル板の上に透明な接着剤を流して、そこにおはじきを並べて、もう一枚のアクリル板で固定。
窓辺に置くときれい。



とあるお店のディスプレイのためにつくった七夕の飾り。
紙の貝殻なんてつくるの、幼稚園以来だ・・。
これも色紙など使わず、広告やパンフ類のいらなくなったものを使って制作。



飾りつけたところはこんな感じ。



ひとりひとりにハンドメイドのカードなど送っていた時期も。





同じく、カードのデザインなど。
このブログに以前に載せたか忘れてしまったので、いちおう・・・。





  

Posted by う at 06:37Comments(0)片づけ2013-2014

2014年11月27日

アクアマリンの指環




小さい頃もらったお土産で、きれいにカットしたアクアマリンの石を二つもっている。
大きめのつぶと小さいつぶと二つ。
たしかブラジルのお土産だったかな、九つくらいのときだった。
「アクアマリンは海の石なのよ」と言われた。
きらきら光る水色の小さな石の中に、南洋の波の揺らめきが見える気がした。

「二十歳になったら加工して台をつけてあげるからね」と母親に言われた。
そう言われて、ちょっといやだった。
今のアナタはまだこの石に値しない、と言われたような気がした。
今の私はこの世のほかにどこにもいない、今このときのたった一人の私だのに。

小さい頃は宝石が大好きだった。
たまに母親のささやかなコレクションを見せてもらうのが楽しみで、折り込み広告の宝石の写真など切り抜いて眺めたりしていた。
どれが自分はいちばん好きだろう、ダイヤモンドは無色だからつまんないな。
やっぱり綺麗な色がついているのがいい。
サファイアやエメラルドが好きだわ、と思ったりした。

綺麗な色の小石を集めるのも好きだった。
あるとき、学校の庭でとても綺麗な緑色の小石を見つけて、持って帰って、自分の指にあうように丸めた銅線の輪に接着剤でくっつけて、素敵な指輪をつくった。
それをはめて、得意になっていると、母親に言われた。
「今からこんなじゃ、先が思いやられるわね」・・・
・・・なんだ、こんなに素敵なものをつくったのに、一緒に喜んでくれないんだ。
がっかりして、それから急に宝石への興味をなくしてしまった。
母親の一言というのは思いのほか大きい。

そのうち接着剤がとれてしまい、指輪としては使えなくなった。
でもその緑色の小石はまだ持っている。
だってとても綺麗だもの。

「二十歳になったら」とは言われたものの、子供心に、「そんな先になったら、たぶん忘れられてるよ」と思った。
二十歳になったとき、「思い出してくれるかな」と淡い期待を寄せたが、案の定だった。
その頃には大して執着もなくなっていたので、とくに失望もなかった。

振り返ってみると、やってきたこと、好きだったことはほんとに変わらない。
おとなになってからも、身に着けるアクセサリーがほんとに自分の理想のデザインであってほしい、という思いは変わらず、行き着くところは自作となる。

シルバーのトカゲのデザインの指輪なんかはほんとに欲しかったっけ。
でもお店を回っても自分の好みにストライクというのがなく、彫金を習ってみたかったけれど、当時は近くに教えてくれるところもなかったし、たぶん習えるお金もなかった。
針金細工でトカゲをつくってみもした。
でも彫金の感じは出ない。不満足だった。
でもひとはけっこう褒めてくれて、最終的にはあるお店で買い取ってくれた。

そのうち、きっかけはティファニーのステンドグラスのデザインを見たことだったと思うのだけど、針金や真鍮線をねじったアラベスクにガラスのおはじきをちりばめるという作品をつくり始めた。
そうした材料なら身近にあったから。
そして、いつしかそこで編み出したやり方で、ねじった真鍮線の指輪やブローチをもつくり始めた。
母親にもいくつもプレゼントした。
「デザインがとても素敵」といって喜んで身に着けてくれたが、折毎に「残念ね、これが本物だったらよかったのに」と言うのだった。
母親のいう「本物だったら」というのは、「真鍮なんかじゃなくて金とかの貴金属だったら」という意味だ。

でも、私のつくったアクセサリーはこの世にひとつしかないもの。
真鍮だろうが、金だろうが、材料が何であろうと本物に決まっている。
それを「本物だったら」なんて。まるで私がつくったのは「偽物」みたい。
それは私に対してものすごく失礼な言い方ではないだろうか?

「本物だったら・・・」と言われるたびに当然ながら私のテンションは下がった。
そのうちアクセサリーづくりをやめてしまったのは、単に飽きてほかのことをやりたくなったせいだと思うけれど。。。

アクアマリンのあの石については、その後も、「こんどこそは思い出してくれるかな」と思うことが何度かあった。
そのうち、いつか自分で台をつけようと思い始めた。
それでもやっぱり大した執着もなくて、ずーっとしまいこんだままだった。

けれどこの夏、とうとう腰を上げて、ほんとに台をつけようと思った。
フランスへ行くとき、お守りとしてもっていきたい。
今の自分は、もう充分あの石に値すると思うから。
(ほんとはあのときだって、ちゃんと値したのにね)

指輪にしようか、ペンダントにしようか。
あの石に絵的に似合うのはペンダントだけど、つけているとき自分で見られないのが残念。
万一ちぎれてなくなってしまっても、鏡で見ないと分からない。過去にいちどそういうことがあった。
それに、夏だとうっとうしいし、汗がにじんで痒くなりそうだし。

指輪のいいところは、つけているときも自分で見られるところ。
でも、その場合は、スケートをやるから一年中手袋をはめる機会があるので、手袋にひっかからないようになめらかなデザインでないと。
いちど、飾りの出っぱったデザインの指輪の上から手袋をはめていて、何度かはめ直したときに飾りが根元からもげてしまったことがある。

そうか、二つあるから、指輪とペンダントと両方つくればいい。
海の石だから、できれば控えめにちょっと海のモチーフを入れたい。
貝殻とか。ヒトデ入れたらしつこいかしら。
台は、ふだんにつけるなら銀がいいけれど、あの石にはたぶん金のほうが似合うかな。
それも、あたたかい重厚な感じの金ではなく、涼しく冷たい感じの金のほうが合いそう。

7月に入ってから、地元の宝石店をいくつか調べ、そのうちのひとつに、思い切ってデザインを持ち込み、見積もりをお願いしてみた。
いい経験になったと思う。
とても丁寧に対応していただいた。
でも、ちょっと・・・あまりにも高すぎて、結局じっさいには注文しなかった。
いままでの色んな思いからすると、さらにこのうえ私の側が、そんな額を支払うというのはちょっと違う気がした。

・・・これ、自分でできるんじゃないかな。
そのうち、つらつら、そんなことを考えはじめた。
それまで、「本物の」宝石だからというので遠慮があったんだと思う。
でも、どんな高価な宝石より、持主である私が満足することのほうが重要なはずだ。

さいごにアクセサリをつくってから長いことたっていたので、ちょっと感覚が鈍っていた。
グリグリと真鍮線を押しつけたら傷などつかないか、心配でもあった。
でも、それくらいで傷がつくようなら、所詮それだけの石なのだ。
思いきってそれまでのやり方で、真鍮線で台をつけてみた。
小さい方は結局のところたいして綺麗でもなかったので、大きいほうの粒で指輪をつくった。
思いのほか満足のいく仕上がりになった。
宝石店でつくってもらうより、よかったんじゃないかと思う。

それを嵌めて、何度か人と会ったり、ご飯を食べに行ったりした。
それでもう、私はそのことを生き終えてしまった。
もう、よかった。
別にその指輪に、私を守ってもらう必要などなかった。

それをまだ持っているけれど、嵌めて出掛けることはもうあまりない。
出先で失くしたりしないよう、気をつけてるのもめんどくさいし。

あまりにも長く引き延ばされた約束というのは、結局、忘れられた約束なのだ。
誰にも何の悪気もないのだから。
そこにまだ自分の気持ちが少しでも残っているのなら、自分の手で叶えなければ。
結局、それしかないんだ。
悲しかったこと、がっかりしたことをひとのせいにせず、自分の責任で自分を幸せにしていくこと。
その指輪はいまもひっそりと引き出しの中にあって、そのことを思い出させる。






  

Posted by う at 06:36Comments(0)片づけ2013-2014

2014年11月12日

自作アクセサリなど





指環たち。手前のふたつ以外はすべて自作。真鍮線。



アクアマリンの指環と楕円形アラベスクの指環。

いろいろとアクセサリをつくっていた時期もあったので、それについてもちょっとまとめたい。
ほんとうは彫金をやってみたかったけど、なかなか縁がなく、なんとか身近にあるもので自分でつくりたいと思ううち、真鍮線、針金、ステンレス線などを使った独自のやり方に行き着いた。



これは初期のころ。
ティファニーのステンドグラスに触発されてつくった、針金と、青と緑のおはじきを使ったネックレス。
シャムロックをかたどっている。
・・・壁に飾って見るほうが映えるかも。

 

冠もあって、セットで身につけるとこんな感じ。



母につくったもの。引き出しにひとまとめにしてくれている。

  

細長い三角形の指環。
緑色のガラス片は、河川敷で拾ったビンのかけら。
足もとで、「私を使って、指環をつくって!」って呼ばれてるような気がした。
根気よくやすりがけして滑らかにした。

そう、アクセサリづくりに凝っていた時期は、河川敷の浄化運動に取り組んでいた時期に重なる。
毎日、黒こげになったビニールのでっかい塊とか、そういう醜悪なものと文字通り泥にまみれて戦っていたから、その反動で美しいものをつくり出さずにいられなかったのだと思う。



同じく、指環。
上からふたつめの写真の、楕円形アラベスクのものとだいたい同じつくりだが、母のリクエストでラピスラズリの粒をひとつ加えた。



母につくったものは、指環よりブローチのほうが圧倒的に多い。
かなり大ぶりな蝶のブローチ。
ちりばめてあるのは、もともと母のものだったけれど使わなくなったイヤリングの片方、など。



ガラスのチューリップ、などのブローチ。
これもいろいろの盛り合わせ。



春になるとつけてくれる、桜の枝のようなブローチ。
真ん中はもともと母がもっていた桜水晶のペンダントトップで、ゆらゆら揺れるようにしてある。
まわりの粒は祖母のネックレスを解体して使用。



もうひとつ、蝶のブローチ。
これは、色んな色のガラス玉のネックレスを絡みつけて固定した。



樫の葉っぱに、ひとつぶ真珠のブローチ。
「こんなふうなブローチが売ってたのよ。素敵だったわ~」と言うので、再現してあげた。
材料は、実はアルミ缶。



色んな色のおはじきのネックレス。
チェーンもステンレス線で輪っかのひとつひとつつくっている。



天然石をちりばめたアラベスク+ハートのブローチ。
「旅行先で、知らない人に褒められた」って言って喜んでた。



もうひとつブローチ。
母の希望のデザインに仕上げたもの。
ちょっとカンディンスキーっぽい?





  

Posted by う at 06:13Comments(0)片づけ2013-2014

2014年11月11日

14のころの絵など


片づけには、子供のころからの自分の作品の分類と整理も。
まだまだ、体系的に完璧に分類できたとは言えないのだけど、とくに愛着のあるものを少しだけご紹介。

14とかその周辺のころの作品って、なんか特別な思い入れがある。
感受性がとくに敏感になって、物事の本質がはっきり見えた時期だからかな。



これは、プラスチックの透明な板に黒チューブで縁取りし、色つきの塗料を流し込んだもの。
13くらいのときの作品。
その前の11とか12のとき、(<指輪物語>の影響を受けて)長々書いてた長編の物語の、舞台となった架空の世界の地図。
川とか山脈とか町とか、ひとつひとつに全部名前がついている。



これはスクラッチボード。14のとき。
曇り空のエルサレムの写真をモノクロコピーして、そこから起こした。
えらい時間かかったっけ。
アルブレヒト・デューラーの銅版画のような空のブツブツしたテクスチャー、今でも気に入っている。



世界一周旅行をして、帰ってきて、そのことを本に書いているしまうまの絵。
これも14のとき。
これは将来こうなりたいなという自画像ww
しまうまの縞が青紫と黄色だったりするところが当時の気分。



これは高校に入ってから。15くらい。
下部の少し黒い、真っ赤なケシの花と、真っ青な矢車菊と、デイジー。
5月が来て原っぱが一面のみずみずしい緑になって、そこにこの花たちが咲くの、ほんとに美しい。



これは木版画の原版。14のとき。
いま思うと、アンドレ・ドーテルの<荒野の太陽>とかの感じだな、これ。
空が灰色だったり、太陽が青かったりするところが反逆の精神。
私の描くネコは、いまでも、色を塗るとたいてい片方の目が緑色、もう片方が黄緑色になる。



<世界という名の列車>という絵本。
14のとき。
なんか当時の夢がぜんぶここにぎゅーっと集約されたような作品だ。
ちょっと英語ヘンだけどww





















あの頃、ほんとに、今思い出しても胸がしめつけられるほど、世界へ出てゆきたかった。
世界中を旅して回りたかった。
おとなになってから、しばらく妙に諦めておとなしくしていたけれど・・・
諦めても、さいごには夢が追いついてくる。
結局、夢には降伏するしかないらしい。

<チャーリーとの旅>のさいしょのところで、シュタインベックが同じこと書いてたね。
いま思い出したけど。・・・






  

Posted by う at 05:42Comments(0)片づけ2013-2014

2014年11月09日

片づけについて 9 今回はとりあえず終了


実は、8月末に引っ越す予定になっていた。
それで、その前に、これを機に今までの仕事をいろいろまとめておこうと思って、それでこの二年間、いろんなものを片づけたり、電子化したり、ネットに上げたりしていたのだった。

ものすごく大変だったけど、おかげで見えてきたものもたくさんあった。
それをすることでしか得られない満足感があった。
いつかやろうやろうと思っていたことをようやく成し遂げた満足感。
いろいろと再発見もあった。自分のことなのに忘れていたこともたくさんあった。
すごい、大きな収穫だった。
遺跡を発掘するように、自分の本質を発掘していく。
片づけってそういう作業なのだ。

私、飛び立つ用意はいつでもできてると思ってたけど、ぜんぜんそうじゃなかったな、とか。
あと、もう外に何かを求めなくても、ほんとにすべて自分の中にあるんだ、とりわけ自分の部屋の中に、自分の歴史も本質も何もかも。ってことなど。
自分のこと、知ってるようで分かってなかった。
それを知るには、ほんとにこうやって、自分のやってきたことを手づからいちいちひとつずつ、すっかり全部たどっていくよりほかないんだ。

やってきたことやつくってきたことなどは、できるだけそのつどまとめていったほうがいい。
あとからだとほんとにたいへん。つくづく分かった。
なかなか、渦中にいると難しいけど。

中島迂生というひとりの人間が、よきにつけ悪しきにつけ、どれだけ多作なアーティストであり職人であったか。
こんなにも色んな分野や形式で、こんなにもいろんなものをいっぱい生み出してきたんだって。
ほんとに、気が遠くなる。

あと、悪いくせとして、前も書いたけどとにかく紙のコピーをつくりすぎ、リスみたいにあちこちに分散して結局何が何だか分からなくなる傾向が。
それはまぁ、これまでバックアップを電子化できなかった技術的な問題ではある。サイズの問題ね、おもに。
それは今回、A3対応のスキャナをやっと手に入れて、あとキャノンX5も手に入れて、はじめて解決できた部分もあるので、まぁしかたない。
でもこれからは。・・・

そんなわけで二年もかけたわけだけど、劇団をやめても、結局平日は仕事をしたり、日曜はスケートのレッスンに通ったりして、なかなかまとまった時間とエネルギーを注げない。
仕事をやめてから引っ越しまでの3週間弱、結局そこが勝負だった。それがラストスパートで、かつさいごの勝負どころだった。
このさいごの3週間で、いろんなことがまとめて全部、ドタバタながら、最終的になんとか、収まるところに収まった感じ。

それまでずっと、色んなことを切羽詰まって、一体これ終わんのかなと半ば絶望しながら、追い詰められながら、それでも必ずできるはずと言い聞かせ、深呼吸して、えいえいと黙って取り組んできた。
結果はどうあれ、これがマイベストなのだ。
人より段取り悪いかもしれないが、これがマイベストなのだから、仕方ない。

いま思うと、なかなか楽しい3週間でもあった。
来る日も朝から作業を始め、黙々とつづけて夜まで。
それは日によって物理的なものの移動や片づけだったり、あるいはPC上での作業だったり。
そして晩にはいろんな人に会う。ほんとにたくさんの人が声かけてくれて、あたし、こんなにたくさんの人間関係に恵まれてたんだって、すごく驚いたし、うれしかった。
そして、3日にいちどくらいは大好きなバーへ行く。
一日力いっぱい働いたあとで、お店のマスターと他愛もないおしゃべりをしながら、居心地のいいカウンターで味わうバーボン、最高!!
もう仕事もないから、2時とか3時まで好きなだけいられる幸せ。
でも、まだやることいっぱいあるから、翌朝もけっこう早く起きてまた作業。
そんな妙なテンションの日々。
期間限定の特異な時間だったけど、それはそれでよかった。

さいごの数日は、ほんとに気力と体力の限界ぎりぎりの勝負。
出発の前の晩、というか、明るくなったころ、ようやく形が見えてきた。
明け方、ずっと気にかかっていた、一枚のメモを書きつけた紙きれが見つかったんだ。
何かがカチリと音をたててはまった気がして、ああ、なんかこれでいいな、私、また旅に出られるな、と思った。






  

Posted by う at 08:07Comments(0)片づけ2013-2014

2014年05月17日

片づけについて 8-部屋とは統治すべき王国である-

 

ものの「よい」持ち方について考える。

本とかをどんどん増やしていたころ、うっすら考えていたんだよね。
このままいったら山にうずもれてにっちもさっちもいかなくなるのは分かってる。
どうするのがいいんだろって。
今日の自分より明日の自分、それよりもっとあさっての自分、ってどんどんよくなってくのだ!という信念はいいとして、ものの持ち方に関してはどうなんだろ。
よくなるというのが、いまあるものを捨ててもっといいものを手に入れる、ということでないのは分かる。
でも、よくなる=さらにたくさん持つ、ということなのか?
だとしたら、ものを持つということに関して「よくなる」には、もっと広い家に住んだり、レンタルスペースを持ったりする必要があるのか?

あるとき読んでた本に、こんな一節を見つけた。
それは片づけとはあまり関係ない、どっちかというと精神論的な本なんだけど。
自分の心の中に何を取り入れるか、注意深く見極めないといけない。
なんでもかんでも受け入れるのではなく、自分にとっていいものとよくないものを見極めて、プラスにならないものにはノーという強さが必要。
そうやって、心の中の「いいもの率」を高めていくことが必要なんだと。

「いいもの率」っていう考え方かー。
総量ではないんだね。パーセンテージの問題ね。
なるほど。これ、ものの持ち方という問題にもあてはまるな。

文字通りの自分の部屋に受け入れるものにおいても、「いいもの率」を高めること。
持ち物においてどんどんよくなってくというのはつまり、そのなかで「自分にとってのよさ」の純度が高くなってくということなのだ。
ものを100個もっていて、そのお気入り度平均が30%であるより、30個しかもっていなくてもそのお気に入り度平均が85%だとしたら、そっちのほうが「よい」持ち方だというわけ。
だから、ものを増やさなくてもものの持ち方に関して「どんどんよくなってく」ということは可能なわけだ。

   *

であればもう、100%好きじゃない限り家の中に持ち込みたくない。できれば。
結局100%愛せないし、うまく手放すのもたいへん。
どこにも引き取ってもらえなくて行ったり来たり、ものにも気の毒だ。

自分でも、めったなことでは買わないようにしよう。
困るのは、人からもらった場合。
いまいち気に入らないと、置いておくのもどうもなんだし、かといって処分するのも相当の罪悪感が。

なかでも困るのが、ネコグッズ。
みんな私がネコ好きなの知ってるのでいろいろとネコグッズをいただく機会が多い。
その気持ちは大変うれしいし、大感謝なのであるが、実は好きであるほどこだわりがあってうるさいのだ。
誰でもそうじゃないかと思う。
正直、市販のネコグッズで気に入って自分で買うものってほとんどない。
100%ドンピシャってめったにないのだ。

わが身を顧みて、人に対しても、何が好きだと知っているからといって安易に贈らないようにしよう。
100%気に入ってもらえなくて、かえって迷惑になるかもしれない。

逆に、大事な相手だからというので自分にとってとても大事なものを贈っても、価値観は人それぞれだからいまいちよさを分かってもらえないこともある。
全然感謝されなかったりする。
そういうときに怒りを感じないでいるのは難しい。

そういうことにならないために、大事な相手でも、自分にとってほんとうに大事なものは手放さないこと。
自分の心は自分で守らないといけない。

   *

ものをきちんと管理するということ。

それを考えるに当たっては、自分が自分の部屋というひとつの王国の王さまで、国の在り方、国政の在り方を考える、くらいの気迫と覚悟をもってのぞんだほうがいい。
それほど、ものの秩序をキープしておくってたいへん。
それだけのためにけっこうなエネルギーを要する。
どういうかたちで、何に入れてどこに並べておくとか。

それをやってるとやってないでは、法治国家と無政府状態くらい違う。
どこに何があるかちゃんと分かってると、ものを取り出してくるのは単に「参照」だ。
ところが、ちゃんと管理していないとそれは「探索」→「発掘」もしくは「発見失敗」となる。

とりわけこの、行方不明物という不満分子。
見つからないものというのは、それ自体の価値はともかく、ただ見つからないというだけで人の注意を惹き、落ち着かなくさせる。
あることが分かると、気にもしなくなるのに。
喪失というのは、人に限らず、ものにおいても、それについて考えさせる強力なモチベーションとなるのだ。よかれあしかれ。

ものの価値を使用ということに限っていえば、どこかにあるのは分かっていても見つからないのは、ないと同じこと。
必ずしも使うものじゃなくても、あることは分かっていてもじっさい手に取ってみることができないと、なんかいらいら、モヤモヤする。

モヤモヤするのはそれが見つからないことそのものだけじゃなく、自分のものをきちんと管理できていないことへの自己嫌悪なのだ。
自分の国民が地下で勝手な真似をやっているような、いやな気持ちにさせられる。

でも、そもそも探さなければ、ないことも分からなかった。
そういう意味で、自分の管理能力を顧みるという点でも、ときどき自分の持ち物を全部洗ってみるって大事。

   *

とくに、自分の作品。
いままで粗末に扱うことが多かったなって反省する。
作り終えてしまったもの、興味をなくしてしまった分野のものなど。
それで物事が三回転くらいしてから、あれ私、前にもどこかでこんなようなもの作ってたな、と思い当たることになる。

いまはもうやっていないことでも、すべては職歴と同じで、動かしようのない自分の歴史なのだ。
だからとっ散らかしたままでおいてはいけない。
水をまき散らさないように、カタチにしてまとめていったほうがいい。

あとは、いっぱい積みあがっていくなかで、いつかはまとめなきゃ、と思っていてもその形を思いあぐてねていたものとか。
それらはどこかのタイミングで、形がはっきりし次第ちゃんとまとめていく。

   *

さいごに、整理が必ずしも至上の正義ではない場合。
何がどこにあるか、きちんと分かっていたほうがいいには違いないが、すべてがそうではない。
いまはまだ片付けないほうがいい領域、まだ手をつけられるほど自分のほうが成熟していない領域というのもあって、そこを強引に片付けようとしてはいけない。
あるていど闇とカオスの部分も残しておいたほうが。

ものも結局人間の精神の反映で、理屈や仕切りでは割り切れないものがある。
とくに作品は。
自分で生み出したものの価値を、自分で分からなかったりするから。
よく着物は買ってから十年箪笥の中で寝かせておく、みたいな感じで、書き上げた時は駄作と思っても、しまいこんでいる間にいつのまにか熟成して、あとから読み返したらこれ面白いじゃん、みたいなことがある。
でも、忘れている、というのは自分で意識してできることじゃない。
こればかりは、私の王国のなかで私よりさらに偉い君主であるミューズそのひとの司る領域なのだ。






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2014年05月17日

片づけについて 7-別部屋というブラックホール-



別部屋というブラックホール。
めんどくさい問題ほど、正面から立ち向かうのが結局いちばん早い。

ここ15年くらい、自分の部屋に入りきらない色んなものを別の部屋などに置いていた。
置いた当時はそうするしかなかったと思う。貸しスペースみたいのまで考えていた。
いろんなものを素材としてとっておいた時期もあったし、ものを書いたり、個展をやったり、イベントをやったり、劇団をやったりと、つまりは際限なくものが増えるような活動ばかりやっていたから。
でも、やっぱりそういうのはよくない。自分のものはあくまで自分の部屋の中で責任をとらないと。

今回の片付けプロジェクトを始めてから、この別部屋分がさいごの課題で。
自分の部屋内分、だいたいめどがついたのでいよいよ取り掛かることに。
こういうのは一気にやらないと。少なくとも、一気にやるつもりでかからないと。
とにかくものすごい埃とカビなので、広げておく時間を最短に、さっさとやらないといけない。

納戸に置いていた服類、一気にぜんぶ持ってきて、部屋の床に広げ、その場で処分するものと洗ってまた使うもの、またはリサイクルに出すものなどに分け、袋にまとめて隅に積み上げた。
納戸は風の通りが悪く、とにかくカビがち。
知ってはいたけどここまでとは思わなかった。
片付けてると強烈なカビ臭に息が詰まりそうになり、これは服より自分の健康のほうが大事だわ。
服をきちんと保存するって難しい。
でも、そんなこともあっていろいろと答えが出たのはよかった。

もうひとつの別部屋に置いてあったダンボールや袋類など、これも一気にぜんぶ持ってきて床に積み上げると、部屋がそれでいっぱいになってしまった。
その場でモノをすべて出して、埃だらけのダンボールなどの入れ物を、その日のうちに重ねて燃えるゴミへ。
それからざっと分類して、明らかにいらないものをゴミの日別に袋にまとめて隅に積み上げる。

これはもういいよねって、時が解決してくれたことがけっこうあった。
情報誌関連や、カタログ類、IT機器などはとくに顕著。
とっとかないといけないかなと思っていても、置いてあるうちにものすごく埃をかぶったり、変色したり、とっくに情報が古くなっていたり。
そうするとなんかほっとして、もういいよねってなる。

始めると早い。手早くどんどん選別していく。
この中でほんとに大切と思えるのはほんのちょっぴりだと分かっていたから。
とっておくものとじっくり向き合うという点でも、定期的に棚卸ししてチェックって必要だな。
自動的に何でも生き残るの確定なら、検分されるためにつくづくと見返されさえしない。結局死蔵ということになる。
それではとってある意味がない。

ほんとは場所別にやってはいけないそうで、モノのジャンル別にやらないと二度手間になると。
それはたしかにそう。二度手間になってる。
改めて、紙類は増やすもんじゃないなとか思ったり。
でも実質、ここはこういうふうにしかできなかったな。しょうがない。

   *

今回見つかってうれしかったのは、譜面台とマイクとギタースタンド。
かなり前から、どこかにあったはずだと思って探していた。
ギタースタンドは、持ってたことすら知らなかった。ギターかアンプ買ったおまけとかではないかと。
前のギタースタンド、壊れてからしばらくもガムテープで補修しながら頑張って使っていたのだけど、ネックの支えがくるくる回ってしまって何とも手の施しようがなくなって処分してから、ギター置くとき困っていた。
あと、ヘッドセットも見つかったのだけど、耳に当てる部分が触ると崩れるほどぼろぼろになってた。

いちばんびっくりしたのは、中学のとき聴いていたラジオ。とっくに捨ててしまったと思っていた。
白かったはずが赤茶色みたいなものすごい色になってた。
黒のマジックで猫の落書き。今見てもなかなかいい。
E...のあとすっかり消えてしまっていて、何と書いてたのか全く思い出せず。
2日くらいして急に思い出した。Easy to bed and easy to rise と書いてたんだった。
それでオールナイトニッポンとかこのラジオで聴いてたのだから矛盾してるw

あと、版画が3枚。小学生くらい。
なかの1枚は、彫ったことすら忘れていた。

高校のときの教科書類。
高校は楽しかったからそっくりとってあったのだけど、この機会にさすがにだいぶ選別して減らした。
ただ、講師などずっとやっていたので、教科によっては自分の勉強にいまもわりと参照したりする。
英語の文法書などとくに。
2桁の引き算で挫折したので、その後の私の人生に算数はない。
でも、数Ⅰと代数幾何はとってある。
火星の言葉よりちんぷんかんぷんだったが、先生がいい人だったので授業は嫌いじゃなかった。
方程式を展開した藁半紙の手書きのプリントとか、なんか捨てられない。

さいごに洗濯機をひっぱってきて、とりあえずは撤収終了。
洗濯機、せっかくあるから使いたいなとはずっと思ってたのだが、置く場所のことを考えてずっとペンディングで来てしまった。
中に置くと場所をとるし、排水の問題が。
だからベランダに置きたいけど、ベランダの強度の問題と、あとやっぱり電気系統には、外はきついかなと。
で、とりあえず中に。
気の滅入るような濃紺なので、その日のうちに白ペンキで塗り上げた。

分類して積み上げた不用品の山も、それぞれの日まで置いておかないといけない。
集積所にもっていって、「ありがとうございました」と一礼して、はじめて終わる。
それまではいろいろと、中途半端な思いを引きずる。
そういう色んな思いを味わうところまですべて含めて、それで片づけなのだと思う。

   *

例によって、この部屋のもののうち書類関係がいちばん時間をくった。
こいつは最後まで床に積んでおいて、1週間くらいかけて、いちおう全部に目を通し、不要な部分を捨てていく。
書き散らしとか作品系はとりあえず触らず。
昔描いたイラストとか、これはうれしい。久しぶりに目にするとテンション上がる。

そして、全然ときめかない大昔の領収書や契約書なんかの事務系をおもに整理。
あらためて、知らない頃はほんとにいいようにされてたなって思う。
いろんなところで、取られるだけ取られていた。

いまはあるていど以上高額なものはめったに買わなくなった。
高いお金を出して、それに見合うだけの価値を得られたと感じることってほぼ皆無だったもの。
やっぱり、調べること、知っていることって大切だなと改めて思う。

   *

15年ぶりくらいに再会したものたちもいっぱいあって、いろいろと考えさせられた。
そこにあるものが自分の歴史。
それはそうには違いないけど、あくまで一部でしかない。
もうそこにはないもの、ものの形では残っていないものもたくさんあって、それらもまた自分の歴史をなしている。
それらのことも、忘れないように。






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2014年05月17日

片付けについて 4-魂のパターン-

 

ひとつひとつの雪片が 集まって韻を踏み始める
雪の結晶のような魂のパターン。

それは、ジュリア・キャメロンがアートについての本で書いていた表現。
忘れがたく印象的な比喩だ。

魂にもパターンがある。
壁紙の花模様のパターンのように有機的なパターン。
雪の結晶のように、けれどそれはひとりひとり違い、どれひとつとして同じものはない。

今回色んなものの片づけをするなかで、時系列的に自分の歴史を振り返ることで自分のそういうパターンがよく見えてきた気がする。
それも片づけの大きな効用のひとつだ。
片づけ、これすなわち己れを知ること。

色んな年代の、教科書なんかの余白の落書き。
ダントツ1位はもちろんネコで、これは歴史始まって以来変わらない。
なかでもグレイの縞ネコ。
タッチやディテールは時代時代でいろいろ変わるけれど。

2位はたぶん、トカゲ・ドラゴン系。
竜はトゲトゲした陸生のものからぬめらかな水生のものなど、いろんなバリエーションが。

3位は馬・ユニコーン系。
こんなとこにもユニコーン!って今回あちこちに発見。

ほかにも昔からよく描いていたモチーフ。
翼。
木の葉、枝など。
クモの巣。
星と三日月。
などなど。

クリスマスのこと、コスモスのこと。
ずっと以前のメモにもほぼ同じこと、書かれていた。

劇団で舞台化したアイルランドシリーズに顔を出す、雅歌のイメージ、人魚のイメージ。
アイルランド行く前に書いた別のシリーズに、すでにあった。

昔からのポストカードのコレクションを見返すと、同じような構図のネコの写真や、「冒険者たち」のなかでジョアンナ・シムカスが着ていたみたいな金属片を連ねたドレス。
同じようなイメージが繰り返しあらわれる。

それらはすべて、私が昔から愛していたものたち。
そういうものは、変わらないらしい。

昔の資料を振り返ることは、ひとつの輪を完結させることを促す。
たとえば、イラン映画の<ルナ・パパ>という作品を昔とてもすばらしいと思っていて、同じ主演女優が出ている別の<ツバル>という映画のフライヤも持っていたのだけど、そちらは見たことがなかった。
そのフライヤを久しぶりに目にして、その映画のことを考える。
すると、次にツタヤに行ったとき、立ちどまったコーナーでそいつのDVDの背表紙が目に飛びこんでくる。

結果としては、やっぱり<ルナ・パパ>のほうが好きだなと思ったけど、とにかくそれを機に、ネットでいろいろと調べてみる。
すると、監督のファイト・ヘルマーがヴィム・ベンダースを師と仰いでいたなんていう情報が。
ああ、そういえば、<ミリオンダラー・ホテル>と似た雰囲気を感じたわけだわ。

すると、急にアキ・カウリスマキの<白い花びら>の原作者は誰だっけ、というのが気になり、調べてみる。
すると、原作者のユハニ・アホが、イプセンはいいとして、なんとドーデの影響を受けていたんだって!
ああ、たしかに、「2軒の宿屋」や「アルルの女」と通じる悲哀を感じるな。

あと、高橋静男さんがこの人について本を書いていて、それにもびっくりだった。
まぁ、でも言われてみれば、たしかに同じ北欧文学か。

私のなかでつながっていたいろいろなものが、私の外でもいろいろとつながっていく。
なんだか連想のしりとりをしているような。
どこまでいっても同じひとつの輪のなか、みたいな。
進歩ないっていうか、人間変わらないなっていうか、さいしょから全部知っていたんだな私、みたいな。

むしろあらたな岐路に立つときほど、こうやって体系的に自分の歴史を振り返っておくことが大切だと思う。
自分の根っこの部分をよく知っておくこと。
人の生き方は一本の木のようなもので、この先どうやってどっちに向かって伸びていくべきか、根っこのあり方を知ることで見えてくる。
まだ見えていない部分も含めて、全体でひとつの有機体なのだ。
どんどん新しい局面を迎え、新しいことに取り組んでいると思っても、あとから振り返るとやっぱりそうだよね、なるほどねって思う。
同じ轍のあと、同じ樹脈のパターンを見出すのだ。

そのことが分かっていると、むしろ安心して新しい星に乗りこんでいける。
どんなに今までにない、新しいことを始めても大丈夫、それらはすべて私なのだ、すべては正しいのだと。








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2014年04月26日

片づけについて 6-終末論的タイムリミット-

 
この10年間ほどは、モノ本位の古本屋みたいなごちゃごちゃした疲れる空間から、自分がいて落ち着けるような空間に変えていくのが課題だった。
ベースは、白。
だから今の部屋は、白の直線的な家具が多い。
これから文字を書く白い紙みたいな。
シンプルで禁欲的な、修道院のセルみたいな。

でもいまは、少しずつレースとか、こまかなディテールとか、優雅な曲線とかを取り入れていきたい気分。
控えめに、飽きないていどに。
とりあえずは、同じ白で。

たとえば、いまの部屋には大きな長方形のウォールミラーしかないけれど、楕円形の大きめの鏡があったらいい。
まわりに白い額で、表情のある彫刻が施されていて。

とか、いまの部屋にシャンデリアは似合わないと思っていたけど、ごく小さな、シンプルなものだったらいいかも。とか。

白と、淡いミントグリーンと、掠れたような控えめな金色。
このあたりがいまの気分。
とくに、ミントグリーンという色を自分はよっぽど好きなんだ・・・というのが最近の発見。
過去のスケッチなど見返してると、しょっちゅうこの色が出てくる。
気がつけば、身の回りのほとんどあらゆるアイテムで、この色がそろっている。

こんど時間ができたら追求してみたいテーマが、取っ手の可能性。
取っ手というのは、服でいえばボタンみたいなもので、顔でいえば目みたいなものだ。
そこで家具の表情が決まる。
ホームセンターの、ドアや引き出しの取っ手とか、蝶番とかを売っているコーナーが私は昔から好き。
ひとつずつ見て歩いていると飽きない。

とかいろいろ。

   *

夢や目標は、紙に書いて壁に貼って毎日眺め、「必ず叶う!」と自分に魔法をかけて叶えるのだそうだ。
とすると、この大総力片づけプロジェクトについても、すっかり果たすには毎日念じて叶う叶うと自分に言い聞かせる必要があるかも。

叶った状況をありあり想像するには、ただ叶えるだけでなくどんなふうに叶えたいかも考える必要が。
そうね、いつまでもだらだらやっているわけにいかないから、リミットを定めて終わらせたい。
(と最初から思いつつ、すでに何度かリミットを引き延ばしてるけど)

といっても、何が何でもリミットに間に合わせるために、仕事の合間のランチのように、ろくに味わいもせずがつがつと飲み込むだけみたいな片づけ方はイヤ。
できることなら、リミットを意識しつつも、ひとつひとつとすっかりぜんぶ、丁寧に向き合って、そのなかで自分を見つめて、敬意と感謝をこめて片づけていきたい。
そう考えるとずいぶん欲張りな願望だな。

でもいままでもけっこう、念じ続けていたら叶ってきた。
いちばんの収穫は、けっこうな量のフィルム写真のデジタル化が課題だったのが、いい業者さんが見つかったことですいすい進んで、片づけプロジェクト全体が弾みを得られたこと。
CDに焼いてもらって、ネットに上げた。
フィルム用スキャナを入手して一枚ずつ自分でスキャンすることを考えたら気が遠くなってたので、ほんっとに助かった!!
これはほんと、何年越しっていう課題だったので、山が動いた!って感じだった。

これで大きな懸案事項がひとつクリア!
ずいぶん、展望が開けてきた。
この調子で進んで、目標の時期までに仕上がるといいな。
うん、大丈夫。きっといけるよ。。。

   *

これまで、何度も自分でリミットを設けたり、また延ばしたりして、そのたびに優先順位を見定めることを強いられて、自分がほんとに「どうしてもこれだけは」って思うものが何なのか、いっしょうけんめい考えるようになった。
それはとてもよいことだと思う。

キープしておくことにしたもののなかでも、いろいろなレベルがあるよね。
「どうしてもこれだけは」っていうもの、「まぁ好きだよね」くらいのもの、「なくても生きていけるかな」っていうもの。
その区別を自分で分かってることって、とても大切。

<ムーミン谷の彗星>で、彗星がくるのでみんなで洞窟に避難しようということになり、持ち物もせっせと洞窟へ運びこむという場面がある。
でも衝突の時間が迫っていて、ぜんぶは運びきれない。
そこでスノークが得意の取り仕切りにかかり、「皆さん、持ち物リストをつくって、好きでたまらないというものには星3つ、ただ好きだというものには星2つ、なくてもやっていけるだろうというものには星1つをつけてください!」というと、スナフキンが笑って、
「ぼくの持ち物リストはすぐできるよ。ハーモニカが、星3つさ!」と言う。

ああ、そう考えると、片づけって終末論であるとともに、ノアの方舟でもあるんだ。
哲学的なわけだよね。

彗星は来ないとしても、じっさい火事や大地震が起こって持ち物すべてを失ってしまうという状況は起こりうるわけだし、じっさい起こってるわけだし、変なウィルスにPCをロックアウトされてファイルのすべてを失ってしまうという状況だってすぐそばにある。
無人島にひとつだけ持っていくとしたら?みたいな。
極論でもじっさいこれが現実なわけだ。

   *

上から数えていちばん大切なものだけあればいい。
それ以外はむしろ邪魔になる。
結局、そういうことになる。

床のど真ん中に集積したまま、持て余してとりあえず布をかけて、ほぼ風景の一部となり果てていた書類の山を、ようやくざっと分類して棚におさめた。
それまでに棚の整理をして、けっこうスペースができていたので。やれやれー。

数ヶ月前にとりかかって二度ばかり頓挫していたのだけど、だいぶ間をおいてあらためて取りかかってみると、思いのほかすいすい進む。
やっぱり諦めてはいけないなと思った。
それまでにほかの色々なところを片付けているうちに、ものを見極める基準が自分の中でよりはっきりしてきたのだと思う。
そういうことってよくある。

今まで、特別好きじゃなくてもとりあえず嫌いじゃないものは、わりと残してきた気が。
そういうものからも学ぶところがあるかもしれないとか、リサイクルに出せない場合は捨ててしまうのはかわいそうだなとか思って。
でも、やっぱりいちばんに考えるべきは住人である自分。

嫌いなものがいらないのはもちろん、嫌いじゃないだけのものもいらない。
好きなものだけあればいい。
そういう生き方でいい。
狭いと人から言われようが、そんなことかまってられない。
だってものすごく好きなものだけでも埋もれそうなくらいたくさんあって、時間足りないくらいだもの。

   *

順次ひとつひとつやってかないと。
大切なものがたくさんありすぎて、腕がちぎれそう。

SATCの映画版で、キャリーにすごく有能なアシスタントがやってきて、アンパックのごたごたを片づけてくれるのだけど、
「メールの処理とかやんないの? そっちのほうが大切じゃない?」と聞くキャリーに、
"One thing a time!" ときっぱり言うんだ。
どんなにたくさんやることがあっても、ぜったい、いちどにひとつずつ。それ大切だよね。

   *

ほんとにあたし、飛び立つ用意ならとっくにできていると思ってたけど、実はぜんぜんできてなかった。
いつでも準備ができてるようにって、こういうことだったんだね。

リミットが定められてはじめて、急にやるべきことがいっぱい見えてきて、すべてが意味を持ってくる。
何もなければこのままだらだら、片づかない部屋でその日暮らしをして、満たされない気持ちで相変わらず何かを外に求め続けていくばかりだろう。

ベルジャエフのいう「創造的な終末論」ってやつ。
「締め切りがあったほうが人間頑張れる」とこんまりさんも書いてたな。

無期刑囚が生きる目的をもてず、無気力に生きてる傾向があるのに対し、死刑囚はいきいきと何かに取り組んでいる人が多いというのを読んだことがある。
それもきっと共通するものがあるね。

自分もいままで色々がんばってなかなか自分にとって居心地よい部屋にしてきたと思うけど、まだ完ぺきじゃない。
部屋を居心地よいものにする努力を、後回しにしちゃいけないなと思う。
時間も労力もかかるけど。
それを後回しにしていると、そのままで人生終わっちゃう。

   *

いま同時進行的に色んなところの片づけを色々とやっていて、思うこと。
私、ほんとにたくさん、色々素敵なもの美しいものを、つくってきたし、集めてきたな。
こんなにいっぱいあるんだなって。
たとえばパリの街まるごと全部よりも、私のこの部屋の中にあるもののほうが多いかも。
もちろん、私にとって価値あるものという意味だけど。

すごい悔やむ。
つねにまだ持っていないものを求めて、外に手を伸ばしてきたなって。
すでに持っているもの、ずっとここにあったのに、大切にしてこなかったなって。
ここにこんなに豊かにあるのに、何を外に求めてきたんだろう。
いまここで、この部屋で生きたすべてのことを形にまとめあげたい。
この部屋とじっくり向き合って対話したい。
今回仕上がったあかつきには、いちどちゃんと写真をとってまとめておこうと思う。






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Posted by う at 23:52Comments(0)片づけ2013-2014

2014年03月26日

片付けについて 5-本の持ち方を考える-

片づけプロジェクト、まだ続いてます。
今まで本類には手をつけていなくて、今日はその話。

先週、何となく始めた本類の整理がどんどん進んで、今回に関してはほぼ終わり近く。
「ああ、これ、もうとっくにいいじゃん」ていう本がすごいたくさん出て、自分でもびっくりした。
こんなにあったんだ・・・
これは、もうとっくにいいじゃん。ひとたびきちんと読んだし、読みこんだし、今はもうそういう精神性を生きてはいないし、もう読むこともないだろうし っていう本たち。
こんなにあったんだ・・・
ある時期自分にとって大きな意味を持ったから、書棚を開くたび何となくそこにいるからあまり考えてなかったけど、よく考えたらとっくに生き終っている本たち・・・
もう全然それによって生きてはいないのに、何となくキープしていた本たち・・・
積み上げたら自分の背丈くらいになり、さらにどんどん増えて百冊以上になった。
ほとんどが文学・文芸書のたぐい、それと哲学・宗教系、これは論文を書いていたときにたまった。あと児童書。

十代までは、「本は図書館に置いておく」主義で、ごくわずかな冊数しかなかった。けれど、おとなになってあるとき、子供時代の自分の愛読書の一冊が、もう絶版になってしまっていて入手できないのに、地元の図書館で廃棄処分にされてしまったことを知り、ショックで呆然となった。

図書館の人たちとさんざんやりあった挙句、それを機に、「手に入るものは何でもとっておく」主義に急転換。
やたらと本が増え始めたのはこの頃から。
本屋や古本屋をまわっては、子供の頃に読んでいた本たちを探した。
新版で装丁や表紙が変わってしまっているのも多かったし、慣れ親しんだ訳と別のしかないことも。
絶版になって入手できないものは国会図書館で丸ごとコピーしてでもこの手に奪い返した。
信頼していたのを裏切られたという思いで死ぬほど怒っていた。
ちなみにきっかけとなった子供時代の愛読書はマデレイン・レングルの邦題「光と影の序曲」という本で、これを含め、数冊はそうやって丸ごとコピーして製本屋で製本させたり、ファイルに閉じこんだりして、今も手元にある。
トールモー・ハウゲンの「夜の鳥」、ヨゼフ・ラダの「おばけとかっぱ」、ヤン・ブジェフバの「クレクス先生の学校」、カヴェーリンの「地図にない町で」、スコット・オデルの「青いイルカの島」・・・
こういう本たちは殿堂入りだ。

それにしても、何でもかんでもとっておこうとするとスペースの確保が大問題になって、自分でいくつも棚を増設し、居室の壁面のほぼすべてが、天井まで本棚という状態になった。
で、本が剥き出しだと背表紙が焼けたり埃が入ったりするから、できれば棚に扉もつけたい。
そんなこんなで、一時期はえんえんと大工仕事ばかりやっていた。

それからまた、何でも全部そろえようとすると、どの本も等しく全部大好きというわけにはいかない。
正直あまりよく書けていると思えないもの、文体から滲み出る感じがどうも苦手なもの、話の終わり方が好きじゃないもの、こめられているメッセージに同調できないもの、人の全体を見なくてはと思って、同じ著者だから入手してみたけれど、これはいまいち・・・みたいなもの、それからもうそのテーマは自分の中で終わっているというもの。・・・
これ以上、義理で置いておくこともないよね。
どのみちすべてを完璧にそろえるというわけにはいかない。ないものはないのだし、いくら個人で国会図書館を目指しても、結局はつねに不完全なままだ。
いままで自分を広げてありったけ色んなものに触れて取り入れようとしてきたけれど、そんなこんなで色々見えてきて、いまここでまたぐーっと収斂して自分の本質を見つめる時期に入ったのだと思う。

やっぱり、ほんとに好きな本だけあればいいよね。うまがあう本だけ残せば。
別に自分ちを国会図書館みたいにすることはない、宇宙カプセルにしておく必要はないんだ。
自分の感覚という、移り変わっていく目に見えないものだけを信じて決めていいんだ。

服とかほかのものたちと同じで、いちばん好きなもの以外を手放すことで、自分がほんとはどういうものが好きなのか、遺跡を発掘するように見えてくる。
いままでの長い間に、ほかの大量の本たちも何だかんだで自分の一部となっていて、それらも全部含んだ状態で色んなほかの部分とのバランスをとってそれで落ち着いていたから、いま一気にそれを出すことで一時的にそれまでのバランスが崩れて全体的にちょっと不安定な感じになるけど・・・ それはそれで仕方ないよね。

いちばん大切なものだけ守り抜けばいい。それ以外はとくにいい。
そういう基準で見ていくと、すごくはっきり見えてくる。大方のものは、とくにいいんだ。
本の整理にかかる前、先々週くらいまで、自分で書いた書類の整理とか、イギリスで撮ってきた写真の整理とかをずーっとやっていた。(まだ終わってないけど)
それらは、ぜったいに自分の手元にしかないものだ。
そういうことをずーっとやってきたあとでは、よく分かる。
ほかの人が書いた本なんか、ほんと大抵どうでもいいんだ。
つきあっていたら、きりがない。

この連休は、そんなわけで本のこと。
数百冊の蔵書を選別し、手放す方と残す方と、一冊ずつ表紙をきれいにし、埃をはたき、ジャンルごとに分類した。
それとこの機会についでに、書棚のひとつを塗り替えることに。
基本、家具は白で統一している。この書棚も外側と、自分で取りつけた扉は白く塗っていた。
でももともとこげ茶の棚で、内側だけこげ茶のままに残していた。
それで、開けた内側だけいつもなんとなく暗い感じでいやだなと思っていた。
でも、いままで塗り替えなかったのは・・・
実は、もうひとつ別の書棚を、やはり茶色だったのをすっかり白で塗り替えたことがあるのだが、これが夏になると内側のペンキが溶けて、横積みにした雑誌の表紙などにくっついてしまい、たいへんだったことが。
そこで、今回は内側も白に塗って乾かしたあと、ホームセンターで薄い透明なポリプロピレンのシートを買ってきて、棚板の大きさにカットして敷き、その上に本を並べてみた。
これでこの問題は解決・・・だといいな。


本の分類をするのに、ジャンル分けについてあらためて考えてみた。
さいきん片づけの本のなかで、クロゼットは「右上がり」に収納するのがよい、というのを読んだ。
つまり、重いコート類や暗い色の服は左端に、右へゆくにつれ、薄手の夏物、綺麗な色やパステルカラーのもの、という具合に。
たしかに、ピアノの鍵盤の並び方もいっしょだから、理にかなっているのだろう。
重い、低いベース音は左端に、右へゆくにつれ、きらびやかでカラフルな高い音へ。

そこで、本棚の収納も同じようにしてみた。
重い本、辞書とか図鑑とかを左端にもってきて、そこから宗教→哲学→評伝→文学→児童書という具合に。
ジャンルだけでなく、国別でも重さの違いがあるようだ。
英米は英→米の順でひと段を占領。
そのほか、北欧→ロシア→東欧→ドイツ→フランス→イタリア→スペイン、という感じ。

(いま書いてみて気がついたけど、このへん地理的には「右上がり」ではないね、どちらかというと「右下がり」だね。うーむ、興味深い。)

ただねー
図鑑類、大判のシリーズは迷いなしに左端でいいとして、ポケット版鳥類図鑑とか、野草図鑑とか、コンパクトなものがけっこうあって、これらはどこに割り込ませたものか、正直迷う。

あと、語学関連も、小さな版の色んな言語の辞書やテキストがたくさん。
これは語学ジャンルでまとめたほうがいいのか、それともそれぞれの国の文芸書なんかといっしょに置いたものか。

あと、サイズの問題。
ジャンルが同じだからといって極端に違う大きさの本をいっしょに並べていると収まりが悪いので、いまのところ文庫本用のたんすとそれ以外用の棚と分けてる。
・・・たしかにちょっと残念な感じではある。
とりわけ、同じ本の原書と日本語訳がある場合、できればいっしょに並べてやる方が幸せだろうとは思うのだが、片方がハードカバーのA5版で片方が文庫本という場合、やむをえず離れ離れに。

というわけで、いくつか課題はあるものの、全体としてずいぶんいい感じに片づいた。
扉を開けてあらためて眺めると、みんなこぎれいになって、ほっとして機嫌よさそう。
物も動物と同じで、丁寧に手をかけてやるとなついてくれるものだ。

あとは手放す本の引き取り先を探すのみ。
近所に古本屋さんがあったのだが、閉めてしまっているっぽい。
ブックオフかな。・・・

それはそうと、本はこれでだいたいいいとして、実は雑誌類、まだあまり手をつけてない。
これがまたけっこうな量あるんだ。
あの書棚のいちばん下の段に、おもに雑誌類がひと段分あった。
なかなかコンパクトにおさまっていた一区画だが、広げて見始めると、これがすっごい濃い中身で。
この機会だからひとつひとつにきちんと向き合いたいが・・・時間かかりそう・・・
こんな素敵なものをこんなにたくさん集めてきたんだな私、とあらためて思う一方で、いつまでたってもなかなか終わらないことがつくづく不思議になる。
どんだけいろいろ抱えこんできたのだろう。
だってこの片づけプロジェクトを始めてから、もう1年にもなるのだもの。
いろんなものを整理したり、きれいにしたり、処分したり、引き取り先を探して奔走したりしてきた。
いままでいろいろな部分でずいぶんと片づいてきたけれど、まだ終わらないんだ。
まぁ・・・過去の活動なんかは、まとめあげてネットに上げるところまでが「片づけ」と思ってやっているから、いちいち時間もかかるのだけど。
ほんとに一大事業だわ。






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Posted by う at 22:35Comments(0)片づけ2013-2014

2013年12月21日

片づけについて 1-住みたい部屋を考える-


いつかはこういう日が来るだろうと、うすうす気づいてはいた。
劇団の活動に生活空間を乗っ取られてしまった。

今までに4作品、つくりあげてきて、それまでも寝室はほぼ物置き状態だったのが、大道具やら衣裳類やらでいよいよ身動きがとれなくなり、向こう側の棚の扉に到達することもできない状態に。

四六時中、道具類を見ているのも疲れてしまった。
いったん目につかないところにしまいこみたい。

ここらで何とかしないといかん。
そこで腰を上げたのが2012年の秋くらいからだった。

そのへんから前後して、堰を切ったように、それまで気になりつつも放置していた色んなものを片づけにかかった。

劇団活動にひと区切りつけて、新しい扉を開ける前に、今までの色んな活動をいろいろ片づけたい季節なのだと思う。
ここ1年半くらいの日記を読み返すと、大方は片づけのこととスケートのことで埋まっている。



まず、段プラでつくった大道具類は、たたんであっちの書棚とこっちの書棚の裏側に滑り込ませた。

劇団衣裳類は衣裳ケースにまとめてクロゼットの上段、<エニス>の7枚の背景幕をたたんでしまってあるとなりに。

たためない道具類その他をしまうために、5月の連休を使って、寝室の壁の二面にあらたに棚をつくりつけた。

それでやっと、床が見える状態に。



内装と家具について、など。

家具はわりと自分でつくるほう。
いまも小学生のときにつくった机、引っ越すときに廃材でつくったベッドなどを使っている。
ペンキ塗りもよくする。
考えてみると、ほぼすべての家具に自分の手をかけている。

片づけよう!ってなったときにも、ただ片づけるだけでなく、同時にしぜんといわば外枠の整備にかかる。
家具を処分したり、移動したり、ペンキを塗ったり、材木を買ってきてあたらしく棚をつくったり、窓まわりのデザインを考えたり。
だから時間がかかる。

3月、キャスター付きの引き出し棚をいくつか整理して、ひとつを苦労して解体し、処分。
思いのほか体力を要してきつかった。

4月、クロゼットの掃除と整理。
大道具類の材料の余った段プラ類などけっこうとってあったのだけど、このさいいったん処分。
ワードローブを整理して、劇団関係以外の衣類もだいぶ処分した。

5月、前述の、壁面二面に天井までの収納棚をつくりつけ。
ホームセンターで買った材木を運ぶのに軽トラを借りた。

基本、収納スペースは天井まできっちり使い切る。
空間をムダなく使うということにもなるし、それによって棚の上に埃がたまらない!という偉大な効用が。

6月、使い勝手の悪かった本棚を寝室から玄関に引っぱってきて、前面にスタンドミラーから外した鏡を蝶つがいで取り付け、シュークロゼットに。
鏡が重くて大変だったけど、今は大活躍でお気に入り。

7月、鏡つきの収納棚に白ペンキ+流し台の上に取りつける。
それまで流し台の上に鏡がなかった。

8月、ずっと気になってた大物をいくつか処分。
はじめてネットで粗大ゴミ収集を予約した。

9月、イス数脚、エレピ台その他に白ペンキ。

10月、ずっとどうしてもイヤだったアルミの鎧戸と、窓ガラスのチャコールグレイのアルミ部分に養生して白ペンキ。
窓は3か所。カーテンレールがキライなのでハテナ釘を打ってポールを取りつけ、木製の洗濯バサミに針金でフック部分を加えた手製のハサミフックで白い木綿地の布を吊ってカーテンに。

バランスを見ながらいろいろ試して時間かかった。
でも、おかげで今は目に入るたび穏やかな気持ちになれる窓。

そんなのでいちいち時間がかかる。エネルギーも要する。
まぁ仕方ないよね。



モノがだんだん片づいて 部屋本来の様相というか骨格というか
それが見えてくると
当初の不満があらためて目につくように

たとえば
・・・塩ビの壁紙はもうイヤだよ。
化粧合板の床板、イヤ。
アルミの窓枠、イヤ。

たしかに見せられたサンプルの中から自分で選んだ壁紙ではあるが
その中からしか選べないという時点で ほんとに選んだことにならない
貼ったすぐあとに「これ、剥がすにはどうやったらいいんですか?」と業者に聞いて
イヤな顔をされた

今となっては、重たい家具を置いたり、つくりつけのクロゼットや棚をつけてしまったりしたから、すぐにどうこうするのは難しい。

それでも、やっぱり。。。
塩ビの壁紙なんか貼られていたら、ほんとうの家とはいえない
よくみんな我慢してると思うよ

そういうところの感覚が鈍感になっているのはよくない 間違った鈍感さだと思う
ずっと住むなら、何とかしないと



いまの部屋の壁はコンクリ板らしい。
塩ビの壁紙より、剥き出しのコンクリートのほうがよっぽどいい。

コンクリの空間は、わりと昔から惹かれる。
90年代後半くらいにできたバーで、コンクリのままの壁で、照明は暗めのブルー、みたいのがよくあった。
そういうの好き。



AZUL by moussy の空間好き。
黒や暗色系の内装
音響がよくて、クラブっぽい音楽が大音量でかかっていて
すごくいい香りのミスト

包み込まれるような居心地のよさと
気分が高揚する感じ
いるだけで幸せ

モノクロの女の子の写真
すてきだなぁと思って眺めていると
別の店舗ではそのショートムービーが流れていて

あれ、つくる人になりたい
採用情報とか真剣にチェックしてしまった



映画を見ても、調度に目がいくように

<人生に乾杯>ってハンガリー映画。
老夫婦の暮らす部屋は、まだ賭けに出る前の、積み重なってきた過去
茶色やモスグリーンを基調として、年月を経て落ち着いた居心地よさ
昔の人の部屋って、けっこう濃い色の、しかも花柄の壁紙だったりする
あれをセットとしてあらたにつくったのならすごいな

<ハリーとトント>
頑固なおじいちゃんの部屋だが、白が基調の明るいモダンな感じ
持ち主の変化を怖れない、自由で若い精神をあらわしてる

SATC(映画版)のキャリーの部屋
壁をけっこう濃い水色に塗りなおすのだけど、ドアや窓枠なんかは白いままに残していて、ウェッジウッドの陶器みたいでいい感じ

さいきん、ペパーミントグリーンの壁に惹かれる
この色はかげんが難しい
濃すぎるとしつこくて見てられないし
薄すぎるとむしろ白より弱い
黄みの入り具合でもぜんぜん違う

<バグダッド・カフェ>で彼女が暮らす部屋の壁は、だいぶ前に塗ったのがいい感じに剥げたペパーミント・グリーンで、味があって魅力的
差し込む日のあかるみをより引き立てるような



これが家ってものだわ!
というイデーをはっきり得たのは、イギリス。

石もりっぱに有機物だわと思うようになった
石造りの古いとても素敵な建物をたくさん訪ねたり、泊まったりしてから



いまの部屋はシェルターだ
外の眺めが好きじゃないから
白いカーテンを通して光を入れるだけ
窓は開けない

でもほんとは窓を開けた外の世界といい関係でいるって大切
だから
次に住みたい部屋の条件は
窓を開けた外の眺めが気に入ること






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Posted by う at 22:48Comments(0)片づけ2013-2014

2013年12月21日

片づけについて 2-ものの持ち方を考える-



「片づけコンサルタント」、近藤麻理恵(こんまり)さんの本。
片づけたいな!と思った頃に出会って、ここ1年半くらいずっと愛読してる。

巫女さんだった、というのが、すごい説得力のあるところ。
すごく若いけど信頼できる、と直感的に思える。
理屈や経験だけでなく、自分を越えた力を感じとって、そこからものを言う人。
モノの気持ち、家の気持ちを感じ取ることができる人なのだ。

いちばん大切なものは、目に見える現実や論理を超えたところにある。
いつだって直感的、本能的なところにある。
いわば原始的なアニミズム。
それを知ってる人。



こんまりさんの本より、個人的なメモ。
一字一句その通りではないけど、だいたいの感じ。

「片づけを始める前に、自分がどういう部屋に住みたいか、それはなぜかを徹底的に考える
 具体的にイメージする
 つまり、ゴールを設定する」

「使ってないモノは、持ち主のこと恨んだりしていない、ただ役に立ちたいと願っている
 役に立たないのであれば、外に出たいと願っている
 人だけじゃなくモノもエネルギー
 たとえ燃やされて原始のレベルにまで分解したとしても、役に立ちたいというエネルギーは残る
 放っただけのエネルギーが形を変えて戻ってくる
 もっと素敵なモノに生まれ変わって、あるいはご縁や情報というかたちで戻ってくる
 すべてはエネルギーの形で循環してる」

「いらないものを捨てるのではなく 残すものを選ぶ
 自分の持ち物の中から、お店で買うものを選ぶときのように」

「迷ったときは、モノ本来の役割を考える
 そうすると、驚くほどたくさんのモノがすでに役割を終えていることに気づく」

「判断を下すレッスンを繰り返すことで判断力が磨かれていく
 自分の好きなものがはっきり分かって
 自分を好きになる」

「要るか要らないかは自分の身体に聞いてみる
 収納は自分の家に聞いてみる」

「どうやって収納すべきかは部屋じたいが知っている
 おうちが喜ぶ収納になっているか」

「片づけ終えると、人生がドラマティックに変わっていく
 子供のころからの夢を思い出して起業しちゃいました とか
 独立したとか転職したとか仕事がうまくいくようになったとか
 なぜか3キロ痩せましたとか
 会いたかった人から連絡が来るようになりましたとか」

「片づけたところと同じようなところが反応する
 服を整理すると、ぜい肉がとれてすっきりする
 本や書類を処分すると、頭が軽くなる
 水まわりを片づけて化粧品類など減らすと肌がうるおう」

「ひとりの時間は 大切な人と過ごすために もっとすてきな自分になるためにある」

「疲れたときは片づけを休んで いま身のまわりにあるものに感謝する」



こんまりさんのブログより。

「かなりの割合で、成功してる人の家は片づいています
 そして彼らはたいてい、成功して広い家に住んでいるから片づいているのではなく、
 広い家に住む前からさっぱり片づいた家に住んでいるのです

 低所得層の居住区域ほど、外から見てもモノが多い印象で、ベランダにゴミ袋や壊れた椅子などが放置されていることが多かったような。。」

「手紙の役目、水まわりと心の潤い、部屋を背負っているということ。」

「受け取った瞬間が最高の状態」

「空気が変わる 部屋が軽くなる

 外に出すものと残すものの区別ができるようになる
 ふしぎとこれは外に出たがっている、というのが分かるようになる」

等々、等々。。



片づけって、哲学的
片づけについての本がいっぱい出てるのも分かる
モノを処分するにも、買ってきたりつくったりするのと同じくらいの手間がかかる。
時間もかかる。お金がかかりさえもする。
片づけのために生きてるの私?
これじゃいつまでたっても先へ進めない・・・



回転を速くしてゆくということ。
ただしまいこんでいるだけでは意味がない
でも 昔のこと忘れて、自分の出自や愛してきたものを忘れてしまうのが怖い

回転速い人たちって、あまり惹かれずにきた
ただ次から次へと回転しているだけで、核がなくて薄っぺらな印象で

回転速い人たちって、昔のことどうやって覚えているの?
そのつど新しいものを取り込むために、過去をぜんぶ忘れていくの?

手放してしまったけど今でも覚えているものはいくつもあるな

溜めこんで持っておくのは過去を見つめること。捨てるのは未来に目を向けること。
どっちも大事。

未来は可能性、でも不確実。
不確実なものを受け入れられるってことは、柔軟性であり、自分への自信ってこと。



好きな服はとことん着て擦り切れるし
着ない服は擦り切れないから いつまでもずっとそこにある という逆説



衣類の処分、とくに田舎暮らしで車ないとなかなかたいへん

リサイクルショップも一長一短
たまーにこないだの指輪みたいなこともあるけど

苦労して運んでいっても引き取ってくれなくて、また持って帰ってくるはめになるの、ほんとにイヤ。
引き取ってくれるときも、いちいち個人情報書かされるのがほんとにイヤ。

だから古布の日に出すと
雨に降られてしまったり それでまた罪悪感が



まだ使えるけど使わないもの、よそでも引き取ってくれないもの、
どうしようもなくボロボロになってしまったもの
きちんと感謝して送り出して すっきりして
でもやっぱりどこか心が痛む



旅行、好き。
すばらしい経験だけして、あとに何も残らないところがいい。
花とキャンドルも好き。
見飽きる前に、萎れたり溶けたりしてたちまちなくなってしまうところがいい。



モノに対して、間違った責任感をもっていたかも。
私のところへ来ちゃった以上は、って。

好きじゃなくても、使わなくても。
とっくに飽きてしまっていても。

女に飽きるように、手に入れたときは心からほんとに好きでも、自分でも気がつかぬうち飽きてしまっていて、罪悪感もあってそれを自分に対して認めたくなく、それで捨てはしないけど手にとるもない、ただ置いてある、みたいな

資源ムダにしちゃいけないし、とか
まだ使えるのだから使ってあげなきゃとか

ソリッドにそこにあるから 尊重しなきゃいけない気がして
軸をモノ自体に置いてしまっていた 自分自身にではなく



でもやっぱり、いちばん大切にすべきは自分の気もちだよね
流動的で、変わりやすいものだけど

自分自身と同じように、モノも、ほんとはソリッドではなく、常に流動的なもの。
自分が変わるにつれ、モノが自分に対してもつ意味も変わっていく。



いろんなことがあるな。
愛着なくなることもある。
必要ないのに、手放したとたん落ち着かないことも。
ぜひとも欲しいものが手に入らないことも。
かと思えば、それが誂えたようにすとんと自分のところに来ることも。



片づけが進むにつれ 部屋がすっきりと、居心地よくなって
部屋で過ごす時間が 穏やかで心楽しくなってきた

ただそこにあって埃をかぶっているだけのものがなくなって
すべてが必然性をもって役割をもっていきいきとそこにあるという感じ

身体的にも、体のなかのよけいな部分が削ぎ落とされた感じ
気もちよいすっきり感



掃除も苦にならなくなった

考えてみると掃除のめんどくささって
かなりの割合が掃除じたいじゃなく、そのためにモノを動かすめんどくささ

卓上や床によけいなモノがないと、動かす手間もないので
掃除がほんとにあっというまに終わる

苦じゃないのでまめに掃除するようになる
ますます居心地よくなる
といういいサイクルに



上着のポケットやバッグやバイクのバスケットによけいなものを入れなくなってから
動きが速くなったような
よけいな時間をとらずにさっと動けるようになった

買い物とか用事とかすませるのも速くなってきた
あまりいろいろ迷わなくなって、選ぶのが速くなった
見た瞬間に、買うか買わないかだいたい分かるように



自分がほんとに好きなものを大事にしていくこと。
それしかないであろう。






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Posted by う at 22:43Comments(0)片づけ2013-2014

2013年12月21日

片づけについて 3-過去の書類を整理する-



混沌として、とてもvulnerable な。
自分の部屋にある諸々のモノについて、そういう感覚をもっていた。
でも、そこを突きつめると、

ほんとうに大切で、ぜったいに失いたくないのは、おおかた、自分の作品だけ。
それ以外はとくに。
作品というのは、まず文筆作品であり、それから絵などのアート作品と、劇団関連、少しは自分の書いた曲など。

それも、なぜ大切かというと、唯一性。
基本、それを持っているのが私しかいないから、まだ世に出ていない限り、ひとたび失われたら再現できないからだ。

それも、昔だったら「世に出る」とは例えばそれが本になって出版されるようなことを意味したが、ネットのおかげでとりあえず上げておきさえすればavailable になった。つまり、読む気のある人には読んでもらえることが可能になった。

ということはつまり、ネットに上げていないから気にかかっていただけで、ネット上にデータさえちゃんと保存されていれば、available でありさえすれば、モノじたいに執着している対象など、実はほとんどないことに気がついた。



書類について。

10月、書類の整理にとりかかった。
私の場合、書類とはおもに自分で書いたものだ。

とりあえず、引っ越したときから書棚に入りきれなくて段ボールに入れっぱなしだったもの。
全部出して、テーマ別に床に積みあげたら、9つの山になった。

・劇団関係
・セントパトリックス・フェス関係
・高校時代の教材関係、講師になってからの教材関係(おもに古典と英語)
・大学時代の講義メモ、キリスト教時代のノートや思索メモ、<創造的な不幸>のためのメモや資料類
・牛久沼環境保全活動関連
・アイルランド入管問題資料
・文筆作品のためのメモ、下書き、プリントアウトなど
・ファッション、アート関連の雑誌や切り抜き
・ふつうに日記

ほとんど床を占領されて、とりかかる前から疲れてしまった。
こんなにあるんだなー やれやれ。。



生きて、活動していくことで、どんどん色んな書類や作品がたまっていくのを一体どうしたらいいのだろう。
全部捨ててしまうのではやってきたことを無に帰すようだし、でもいちいち全部とっていると埋もれて息がつまりそう。
もう興味ないのは邪魔なだけだし、まだ執着があるものは、しかるべく評価されたり解決していないことが頭にくる。

書類がたまることのひとつの大きな原因は、アナログ時代にやたらコピーをいっぱいつくりすぎたことだ。
電子文書にしてネットに保存しない限り、脆弱性は変わらないのに。
でも、その頃は人に説明するのに、一式コピーして渡す、ということをしていたから。
原本のほかに、そのままコピー機にかけられる印刷用原本、メモなど書き込んだ自分用コピー、すぐ人に渡せる予備コピーなどつねにつくっていた。
それでどんどんかさが増えてた。

ひとつの活動にかかりきっているときって、関連するさまざまなことにしぜんとアンテナが向くし、放射的に広がっていくから、しぜんといろんな資料がいろいろ集まってくるし
フェスなんかに出展するとなると展示用にまたいろいろつくったり、飾り立てたりして、それでまたどんどんかさが増える
本質の核のところはそう大量にはないって、分かっているのに



小さいころの絵とか工作品とか、おおかたは惜しげもなく手放していた
飽きると執着がなくなって、すぐ人にあげたり捨ててしまったりしていた
文筆作品も、中学生くらいまでは、ひとたび清書しおえると、下書きはどんどん捨てていた。

おとなになってから、子供時代についてまとめようと試みたことがある。
あの膨大な落書きと書き散らしの山なしに、それを再現するのはちょっと無理があることに気づく



やたら何でもとっておくようになったのは、おとなになってから。
メモ、下書き、書き散らし、清書したのやタイプしてプリントアウトした書類。
それらはすべて、自分の精神のエクステンション。
とりあえずとっとかなきゃ、というのがあった。

ヴァルター・ベンヤミンのアウラ。
手書きの文字が印刷に変換される過程で失われるもののことを、彼はアウラと呼んだ。
等々。

アリス・ベイカーだったかな? 自宅が火事になって、自分の本の下書きメモや色んな資料が全部焼けてしまったと、ものすごくショックを受けた様子で語っていた。
その本はもう無事に世に出て、賞を取ったりしていたのに。
下書きや資料くらい別にいいじゃんと、当時の私には思われた・・・何をそんなにショック受けてるんだろう、この人は?
ひょっとして、私の感覚が間違っているのかな?
下書きやら資料やらって、そんなに大事なものかしら。

それから、しばらく法律事務所に勤めて、そこで手に入る限りの資料はすべて<書証>としてためこむ習慣が身にしみてしまった。
当時、私のまわりにはアウラ的な感性を大切にするアナログな人たちが多かった。



もう興味なくても、まだネットに上げてないものは、きちんとまとめて、体裁を整えてネットに上げよう。
まだ執着があって解決していないものは、これも今までのところをきちんとまとめて、整えてネットに上げよう。
ネットに公開することで自分の中での解決としよう。

手書きの文書でも、コピーは全部捨てていいよね。原本だけとっておけば。
それで原本をスキャンして電子文書にして、ネットに上げる。それでいいよね。

お世話になった色んな団体の活動案内資料とかパンフ類とか。
敬意と感謝の念は変わらないとしても、今の自分にとってあまり意味をもたなくなってしまっているものはもういいよね。
それは彼らの活動なのだから、彼ら自身が原本を管理していれば。

そして原本をミニマムにまとめたら、テーマ別に、年代順にファイリングして、いつでも取り出してパッと見られるように、きちんと棚に並べる。それでいいよね。

とにかく書類は、どこに何があるかひと目でパッと分かって見やすい、取り出しやすい、それが大事。
だから必ずファイルして、立てて、パラパラ見られる状態にまとめておくこと。



書類を整理するっていうことは、その問題をもういちど生き直すということだ
気持ち的にすごくめんどくさいし、けっこう疲れる

でも、そうしてはじめて全体が見えてくるし、本質がつかめて、必要な部分が見えてくる
ここは要るような気がしてたけど、よくよく考えたら別に必要ないなとか、そういうことが見えてくる
そうしてはじめてかさが減って、秩序だって、結果として、棚の限られたスペースにもすっきり収まるようになる

全部に目を通して、内容を確認し、年代順に並べ、重複するプリントアウトや、複数のバージョンがあるものは、最終版だけ残してあとを捨てる

行き詰って頭が疲れると、息抜きして映画を見たり、一日置いたりした
そうするとまた力が回復してきたり、整理の仕方が見えてきたりした



劇団資料も片づけて、色々見えてきた
さいしょの<エニス>では私、ほんとに色々試行錯誤してたな。
ほんとに色々、いろんな形式で何度も書いて、膨大な量の時間を費やした
でも3作目、4作目とつれて脚本はどんどん短く、コンパクトになって
分かってきたんだ 歌も踊りも入れて、全部含めて30分ってなると、
どうしたって脚本はミニマムになるしかないんだって

劇団ちらしのプリントアウトとか、訂正シール貼りとか
ほんとがんばったな私。夜中まで、あのクソのろいプリンタで
ほんとがんばったよ ほんとお疲れさま



予備校講師時代の教材やら資料やら、段ボール3箱分を整理して、いっぱい捨てた
もう使わない、戻るつもりもないものを取ってあったのは、過去の自分の仕事へのリスペクト。
でも、ほんとに好きなものだけ選んでいったら、ほとんど残らなかった。

使ってた教材じたいにとくに愛着はない・・・というか、ぜんぜん
ほんとに自分がつくったといえるものだけとっておけばいい

とくに愛着があるのは、高校時代の古典のノートと、講師になってから既存のテキストに飽き足りず、自分でつくった古典文法基礎のテキスト。
基礎でつまづいて3年まで来てしまった生徒から、「・・・そういうことだったのか!」って言われたときは嬉しかったっけ。

私、ほんとに古典文法が好きなんだな、と改めて気づく。
古典の内容そのものより、文法が好きなのだ。



あっちこっちにネコが跳ねてて
半ば無意識にいっぱい描いてた
ぜんぶ救うことはできないけど、何匹かでも救い出してやらなくては

ほんと私、こんなにたくさん、あらゆる種類のネコを描いていたんだな
あとはトカゲとか竜とか・・・
好きなものは変わらない



日記なんか読み返すとたしかに あんなこまごまとしたディテールは
文字にして残しておかないと到底覚えていないよ
なんかあたし いいことも悪いことも全部忘れたくない っていうのがあって

それとも忘れていいのかな
過去の記録というものは、口頭伝承のように、印象の強いものだけ淘汰されて残っていくのがいいのかな



17-18のときの、魂の暗黒時代の書き散らし。
いまだに目に触れると吐き気がする
こんなもの持っていたくない

けれど、ナチの時代の記録を残すように残してきた
二度と同じ過ちを繰り返さないために
殺人事件の証拠みたいに
痛ましい魂の拷問と虐殺を忘れないように

でも、集会のメモとかはもういいよね。
学生時代の数学のノートと同じで、ただ言われたことを書いたに過ぎず、ほんとに私が書いたとは言えないから

ほんとに、あんなことのために何て時間をムダにしてきたんだろう
自分に申し訳なくて仕方ない
人生に対する罪だ



キリスト教にしてもフェスにしてもそうだ
なんで私、吐き気がするまでとことんやるんだろう
そこまでイヤになる前にさっさとやめればよかったのに
こんどからはそうしよう

膨大な書類を整理しながら、自分のやってきた仕事量に気が遠くなった
ほんとよく耐えたね ほんとにお疲れさま よくがんばった



入管問題も いつまでも解決しないことに疲れ果て もう見たくなくてしまいこんでた
でもそれでは永久に片づかないままだ
どこかでずっと引きずることになる

それよりは少しは時間をとられ、改めて思い出させられて疲れても
いまここできちんとまとめて、片づけておきたい



やり終えた仕事を世に出すため、外枠を整えるのに、あと少しの時間とエネルギー。
長く、大変に感じられるのは、もう心はその仕事を終えてしまって、心がそこにないから。
手間ひまばかり取られて前に進めないように感じる。
それでも。



2ヶ月間で、9つの山のうち6つまで片づけて、そのうち3つをネットに上げた

創造的な不幸
http://ballylee.tsukuba.ch/e241301.html

牛久沼環境保全関連
http://ushikunuma.tsukuba.ch/

アイルランド入管問題
http://stptsfes.tsukuba.ch/e242456.html

いい感じに進んでるね
でもまだ道半ば
頑張れ、私。






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Posted by う at 22:39Comments(0)片づけ2013-2014