2008年09月10日

能について(1) ・・・概括、面、装束、かつら、冠


 お断り: 以下はあくまで、劇団バリリー初演作品の舞台づくり参考として、いかに能のすばらしさを取り入れていけるかを考察する目的でのみ書かれた記事で、ごく個人的なスケッチであり、能について客観的に解説したものではありません。
 そして、こちらもおもに団員の方々向けの記事です。


○概括

 個人的な思い入れが強いのでつい長々語ってしまうのですが、どうぞ気楽に、ささーっと読み流してくださいね。

 あまりメジャーでない(と思っている人も多い)日本の古典芸能ですが、実はアイルランドの詩人イェイツと深いつながりがあります。
 イェイツはこの能にたいへん関心を持ち、自分でも能のような形式で象徴劇みたいのをいくつか書いています。そのひとつが、アイルランドの古い伝説を下じきにした<鷹の井戸>。のちに日本に逆輸入されて翻案され、れっきとした能の演目の一つ<鷹姫>になっています。

 実は私自身、イェイツを知る前から、個人的に能に強く惹かれていました。正直、能は日本の産み出した芸術の最高形態だと思っています。源氏とか伊勢など、能の題材になるために書かれたにすぎない! くらいの勢いで。

 それで色んな解説書を読みあさるうち、さいしょはあまり気にしていなかったのですが、なんかいつもひとりだけ外人の名前が出てきて、なんかこのひとの名前、どの本見ても出てくるなーと思っていたら、あとから考えたらそれがイェイツだったんですね。

 能は、実は世界的にも高く評価されてきました。ギリシャ悲劇とのコラボレーションが企画されて、ギリシャの古代劇場で能面を用いたオイディプスが上演されたりもしたらしい。

 その是非はともかく、私自身思うのは、ギリシャ悲劇の向こうを張って渡り合えるのは、それほどの深遠な内的世界をもった芸能って、じっさい能くらいしかないのではないか、と。オペラには歌舞伎もいいかもしれないけど。

 ああいうふうにやりたい。と思うのです。ああいう感じを取り入れて。
 あの象徴性を、あの音楽性を・・・ そして簡素さときらびやかさのあの驚くべき対照を。
 能は一種のミュージカルだと思います。 コトバと音楽が不可分だった時代の、あの原始の韻律をもっている。


○面

 能の魅力は、まずあのシンボリズム。
 ぎりぎりまでそぎ落としたような、緊張感あふれる静謐な象徴美。・・・
 あえて簡素な演出に徹することで、観客の想像力を最大限に引き出そうとする。 

 その最たるものが面なわけです。
 日本の能面みたいなものって、世界中のどこにもないと思う。
 ふつう舞台でお面を使うときって、怒っている場面では怒った顔を、うれしい時には笑った顔を、と使い分けるもんです。ヨーロッパなどでは、起った顔と笑った顔のふたつの仮面を組み合わせたのが地図上での劇場のマークになったりしている。

 ところが、能面はひとつであらゆる感情を表現します。
 たとえば、面を少し上向きに傾けるのを「テラス」といって、微笑んでいる表情を表します。下向きに傾けると「シオル」といって、泣き顔を表します。
 じっさいは、そういうふうに演じ分けるのを前提して、もとから少し曖昧な、中間的な表情のなかにも、顔のパーツひとつずつをわざとちょっとアンバランスに彫りこんでいるのですが、・・・いや、こういう発想ってスゴイ! 人の思い込みとか錯覚とかの効果を実によく知って、計算している。というか、感情移入の効果ですかね。

 ほんとにふしぎなのは、同じひとつの面なのに、場面によってほんとに違って見えるのです。
 ちゃんとうれしい時には笑っているように、悲しい時には泣いているように見えるし、場面場面で、何の悩みもなさそうに晴ればれとして見えたり、屈折した悩みを抱えているように見えたり、ひそかに邪まな企みを抱いているように見えたりするのです。
 
 あれはほんとにまったくふしぎ。
 あれってほんとに、見る側が想像する感情を面の上に投影しているだけなんだろうか。
 私などは半分本気で、能面は生き物で、じっさいに表情を変えるんじゃないかと思っています。

 ・・・と、こんなふうにつくづくと能について再考していたときに、わが劇団もお面を使ってやったらどうか、と思い至ったのです。
 そうすることで、例えば役柄と、それを演じる役者の実年齢が必ずしも一致しなくても問題なくなりますし、古代アイルランドの物語を日本人が演じることの不自然さも解消! のはず・・・。
 ここに至って、自分の中でなんとなく腑に落ちないでいたところをひとつ突破! という感じがありました。


○能装束
 
 面の静謐なミニマリズムとは対照的に、能の装いは過剰なまでに豪華できらびやかです。

 唐織(からおり)・摺箔(すりはく)・大口(おおぐち)などからなる能装束は、高級な布地をふんだんに使い、凝った刺繍がほどこされていたり、金箔がはられていたり。

 私がとくに好きなのは、「秋草段文様唐織」というやつで、繊細な草花もようの刺繍が全面にほどこされ、その刺繍の色合いやパターンは変わらないのに、背景の生地の方が部分部分で銀色だったり藍色だったりに変わってゆくもの。
 秋の野のようすを典雅に表現したもので、ほんと、世の中にこんな美しいものがあったのかと思います。見てると、なんとなくウィリアム・モリスの壁紙デザインとかを想起させられます。じっさい、共通するところはあると思う。意識的・無意識的はともかく、平面的に表現しているという点、パターン化しているという点で。
 モリスはあえて遠近法を否定して意識的にそれをやったのであり、そこが彼の信条にそって中世回帰的であり、かつ時代の流れにそってアジア的・ジャポニズム的でもあったわけです。


○かつら

 衣裳だけではありません。
 能ではいろいろな種類のかつらをつけることも多くあります。

 とくに豪快で目を引くのは赤頭(あかがしら)、白頭(しろがしら)とよばれる獅子舞のかつらみたいなもの。
 神とか鬼とか霊とか天狗とか妖精とか、そういう力強くて人ならぬものを演じるさいにつけられます。ものすごい量の前髪とサイドが思いきって両側につき出て、それで頭部のシルエットの大きさなんかもとの3倍くらいになってる。さらにすごい量の後ろ髪が、膝のうしろくらいまで滝のように流れ下っていて。これ、生身の人間じゃぜったいありえないだろうっていう大胆なデザイン。
 これに天狗のお面などつけて、冠などかぶって、金箔の装束をまとい、やつでの団扇を手に勇壮に舞ったりするわけです。

 こういうのって、すごく過激な発想だと思うのです。
 衣裳の絢爛さなど、あゆとかマドンナのステージに匹敵すると思うし、頭(かしら)ものなど、ビジュアル系のヘビメタバンドとか、そういうのに通じる気がする。
 足利義満の時代にこんな過激なものが生まれたのってすごい。

 こういう、ちょっとびっくりさせるような要素をとりこんでもいいかなって思います。


○冠・立テ物

 能役者のつける装飾品で、もうひとつ豪華なのは、冠。
 男性のつける烏帽子みたいなのも冠というらしいけど、やっぱりこがねの輪かんむりがいい。

 お姫様とか天女になると、これにさらにいろいろつける。
 心葉・釵子・日陰糸(こころば・さいし・ひかげいと)といった、顔まわりをきらびやかにふちどるこがねの飾り。

 さらに立テ物といって、冠の上に大ぶりの写実的な飾りをつける。
 月形の飾り(天女、弁財天)、蓮とか牡丹の花(誓願寺、当麻)、鳳凰(楊貴妃)、鶴と亀(鶴亀)、竜(海人、竹生島の竜神)、狐(小鍛冶)・・・ 流派によっていろいろ違うけれどこんなところ。

 それが半端じゃないインパクトなのです、ほんとに。
 牡丹の花なんかほんとにすてき。
 とくにすごいのは竜と狐。この二つは横姿の立テ物です。
 力強く躍りあがる竜、稲妻のように走り跳ぶ狐、みごとに洗練された美しいフォルム、だけど人の頭の2倍くらい、うそっていうくらいの大きさです。

 こういうのもかなり過激だと思うのです。
 頭の上にこんなばかでかいのをつけるって、例えば幼稚園でやる劇みたいな発想じゃないですか? それこそ<がらがらどん>みたいな。

 そういうあるイミ稚拙な発想を、あんなふうに堂々と雅やかに押し通してしまうところ、なんかほんとにかっこよくて参ってしまう。
 ある種ものすごく即物的というか、やったもん勝ちみたいなものを感じます。

 あと・・・ これはかつらものに入るのかかぶりものに入るのかよく分からないのだけれど、小面などで頭に巻いて後ろへ垂らす、鬘帯(かつらおび)っていうのがあります。
 赤地とか金地とかの細長い布で、凝った刺繍が施されていたりする。
 でも、用途は必ずしもそれだけではありません、後述しますが。


 次の記事では能の所作や役者等について少し。

 中島 迂生
        

Posted by 中島迂生 at 00:43Comments(0)能について

2008年09月10日

能について(2) ・・・所作、役者、モチーフ、脚本


 初演作品の舞台づくり参考として、ひきつづき能について少し。
 あまり詳しくない方々向けに書いてます。
 ご存じの方は読み飛ばしてくださいませ。


○所作

 次は少し、能の所作について。

 象徴的で控えめなのから、派手で激しいのまで、いろいろ。
 面のところで触れた、ちょっと角度を変えるだけで笑う、泣くを演じ分けたり、数歩前に出たり後ろに下がったりすることで意識のあり方を示したり。
 <葵上>では、もののけがさっと扇を振り下ろすことで葵上をとり殺すのを表したり、なんていうのもあります。
 もっとも、この辺になると型であり、約束事であるので、あらかじめ知っていないと何が起こっているのか分からない、ということもあるのですが。

 かと思うと、ひとりで大立ち回りして、日本中の天狗を引き連れてつむじ風のなか現れたり、激流のなかを押し寄せる三百駒の軍勢と闘ったり。・・・


○役者・音楽隊

 そう、ひとつの演目のなかでの役者の人数は、基本とても少ない。
 シテ、ワキ、アイ、ツレといった呼び名で、一度に舞台に出ているのは多くともせいぜい3人とか4人くらい。
 それ以上はことばで描写されるだけで、観客の想像力を動員して「いることにして」演じられる。

 別に、募集かけたけど人が集まらなかった、とかそういうことじゃない。
 これもやはり、理念あってのミニマリズムなのです。
 こういう片手に収まるようなコンパクトさって、なんか好きです。

 ただし、それに加えてふつう、8人の地謡(じうたい)と4人の囃子方(はやしかた)がいる。
 
 地謡っていうのはいわば地の文担当で、その場面に至るまでの経緯だとか、情景描写だとか、場合によっては登場人物の心中独白なんかを、うたうように語るのです。
 これはちょっと近代演劇にはない独特な役柄。
 だけど、なんかギリシャ悲劇のコロス(コーラスの語源)に似ているなって思います。
 ギリシャ悲劇でも役者とは別にコーラス隊というか地の文係みたいのがいて、これがけっこう大きな存在なのです。
 オイディプスなんかでも、主人公とこのコロスの掛け合いで進行してゆくような場面がある。

 囃子方は音楽隊。おもに笛と太鼓です。
 コンパクトだけど、音楽が生演奏なんですね。
 そうでなくちゃと思います。
 とりわけ能では、セリフ・地の文ともに歌うような調子で語られ(それゆえそれぞれ役謡 やくうたい、地謡と呼ばれるのですが)、音楽とからみあって全体でひとつになっているようなところがあるので、じっさい生演奏でないと息をあわせられないのです。


○モチーフ
 
 能のモチーフは、必ず源氏とか平家物語とか、だれもが知っている古典の中からとられます。本説(ほんぜつ)と呼ばれます。
 その中から短いひとつの場面を切り取って、独自の光をあて、ぐわーっと深化して描く。見る人は全体のあらすじや背景を知っている、演じる側と見る側とにすでに共通認識がある。そこに半透明のすだれを透かして見るような深みと奥ゆきが生まれてくる。

 演目のひとつひとつは読み切りショートショートみたいな、愛すべきコンパクトさ。
 でも姉妹篇とか同じ出典からのネタとか、タテヨコナナメにつながって蜘蛛の巣のように結びあわさり、全体としてみると、日本の古典の物語世界のハイライトをあますところなく網羅した、一大叙事詩みたいになっているのです。
 宇宙の片すみ、でも打てば全体にひびく、みたいな。


○脚本

 能の脚本はふつう謡曲と呼ばれます。

 書きコトバ作品としての謡曲が、私はすごく好きです。
 簡潔でリズミカルで、コトバのひとつひとつが詩的でつややかな美しさを放っていて。
 そしてあのゆたかなイメージ喚起力。

 室町時代ともなると古文といってもわりと今の日本語に近く、文法的にはそれほど深い知識を必要としない。
 源氏みたいに文体がのたくってなくて読みやすい。

 言葉の音楽性ということを、私はけっこう気にします。
 それはふつうに散文作品を書いている時でもそう。
 音楽的なリズムが感じられた方が、黙読する場合にもこころよいと思うから。
 それに結局、さいしょは言葉と音楽というのは不可分なものだったはずで、今みたいに文学と音楽と分けてしまう方が不自然だと思うのです。

 まして今は言葉に出して語られることを前提として書こうというのだから、なおさらこの音楽性、リズム、韻律ということを大切にしていかなければと思っています。
 日本語で韻律というとまず七五調というイメージだと思うのですが、必ずしもそれだけではなくてね。
 記紀歌謡なんか見ると、ほかにもいろんなかたちの魅力的な韻律が溢れているんですよね。
 紀貫之以来、和歌が国文学として称揚されたのはいいけれど、ちょっとあまりにも規格化されすぎてほかの豊かな部分が切り捨てられてきてしまったなという感じがあります・・・。


 それはそうと、正直に言っておかなければと思うのですが、これだけ謡曲のすばらしさを称えておきながら、私はそれらがじっさいに歌われる形態には一般的に、あまり感情移入できないんです。
 それはたぶん、自分がふだん耳にしているものとの乖離が大きすぎるせいだと思うのですが・・・ 正直、退屈だし、眠くなるし、いまどこの場面なんだか途中で分からなくなったりするんですもの。

 けっこう・・・ 大方の人が、そう思っているみたいだけれど。
 だからマイナー視されちゃうんですかね・・・ こんなにすばらしい古典芸能なのに。

 たしかにいきなり見てもあんまりなんだかよく分からなくて、解説が必要になってくる部分は大きい。
 時間の流れ方の感覚にしろ、文学的素養や仏教用語なんかにしろ、室町時代以降おそらく近代くらいまでは演じ手と観客とのあいだに成立していただろう共通認識みたいなものが、今ではあまりなくなってしまっているし。

 観客との乖離 という問題は、我々も古代アイルランドの物語を日本で上演しようとする限り、ひとごとでない課題です。説得力をもって演じようとすると、かなりの工夫と技量と根性が必要になってきますね・・・。
 でも、こうして名乗りを上げてくださった皆さんがいるのですから、力を合わせればできるはず! と信じています。


 では・・・ 乗りかけた舟、もう少し能について。・・・

 中島 迂生  

Posted by 中島迂生 at 00:50Comments(0)能について

2008年09月10日

能について(3) ・・・舞台装置、舞台、結び、参考資料

 能について、長くなってしまいすみません。この記事でさいごです。


○舞台装置

 能の舞台装置は至ってシンプル。
 檜舞台の背景にはふつう、でっかい松の木の絵がどーんとひとつ描かれているだけで、場面転換いっさいなし。
 地謡の描写ひとつでそこが野外になったり室内になったり、観客の想像力を引き出してさまざまに演じ分けられます。
 これもまた確信犯的ミニマリズムなわけです。

 多くの場合、そこに道具立てをひとつかふたつ。
 <作リ物>といいます。これがすごく効果的で、面白い。
 演目によって決まっていて、ほとんどが竹とか紙でできている、シンプルでシンボリックなもの。
 それが床の上にポコンと唐突に置かれて、独特な存在感を放つのです。
 
 いっぱいあって、どれも忘れがたい・・・
 <井筒 いづつ>の井戸はただの四角い木の枠に、お約束でススキがひと束。
 <半蔀 はじとみ>など、家がなくて半蔀門だけがある。
 蔀っていうのは鎧戸みたいなもので、この演目は源氏の<夕顔>を本説としているので、そこに夕顔のつるが這わせてあります。
 <通盛 みちもり>の舟になると、浅い四角い箱の、前と後ろにそれぞれへさきと船尾をあらわす楕円形の竹枠がぺろんとついているだけ。 
 それが舞台の上にぺたんと置かれ、前にきらびやかな装束の女が乗りこみ、後ろに老人が立って櫂を操って海を渡ってゆくのです。

 能のこういうところに私はすごく惹かれるのです。
 豪華な衣装や装身具でイメージをかきたてる一方、同時にてきとうにスカッと抜けて、想像力を遊ばせる余地がある。
 こういう発想って、なんかほんとに子供の遊びみたいな・・・
 子供のころ、ごっこ遊びをしていて、「はい、これ舟ね」とか「はい、ここおうちね」ということにすると、ほんとにそうなったでしょう。
 そんな、自由でのびやかな。
 人間の想像力には、本来、それだけの力があったはずなのです。
 能の道具立ての発想は、そういうことを思い出させてくれる。

 こういうシンボリズムに、イェイツも惹かれたんですね。
 <鷹の井戸>では、泉をあらわすのに「青い四角い布」を用いるようにとの指示が詞書に記されています。

 作リ物は、ほかにもいろいろ。・・・
 <熊野 ゆや>の車。
 <隅田川>の塚。
 <野宮 ののみや>の「火宅の門」。・・・
 あとは、一畳台の上に柱と屋根だけで家や宮殿をあらわしたり。

 <楊貴妃>の蓬莱宮(ほうらいきゅう)の作リ物では、流派によっては前述の鬘帯(かつらおび)がずらりと吊り下げられて玉簾の絢爛さを表現します。
 別に、それ用の装飾をつければいい話なのだけれど、あえてここに鬘帯を使うのです。
 それは使いまわしてるとか経済性とかみみっちいとかそういうことではなく。
 鬘帯は女性役の装飾品ですから、ここでは女官の存在を暗示するのです。
 あえてこの鬘帯をもってくることにより、そこにいるのはいま楊貴妃ひとりであるにもかかわらず、おおぜいの美しい女官たちにかしずかれているようすを幻のように想起させるのです。
 これぞ象徴美の極み!
 (と私は思っています・・・ もっとも、それにはまず、鬘帯が何かということを知っていなきゃならないわけですが。)


 一方、すごくリアルで凝ったのもあります。
 その代表例が<道成寺>の鐘と<殺生石 せっしょうせき>の岩、かな。

 道成寺は歌舞伎の演目にもなってるらしいけど、そっちは詳しく知りません。
 能のものは、じっさい上から落ちてきて、人がその中にすっぽり入らないといけないのでかなりのでっかさ、珍しくリアリズムですね。
 殺生石の岩は、使わない流派もあるようですが、出すところでは、まっぷたつに割れて、中から狐の霊が現れることになるので、こちらもばかでかく、強烈なインパクトです。
 こういうのもたまに出すからインパクト大なわけだし、背景も舞台立てもほかに何もないからこそ映えるわけですね。


○舞台

 いわゆる能楽堂の能舞台というのはかなり最近になって生まれた空間であって、昔は長らく野外で演じられてきたそうです。
 だから薪能などがもっとも原初のかたちに近いのでしょうね。
 薪能、見たことないのです。
 いつか見たいなあと思ってるのですけど。

 あとはおそらく、今でいう盆踊りのやぐらみたいなのの上で演じられてきたに違いない。で、見る人はまわりに集まって三方くらいから見ていたのでしょう。
 今の能舞台のかたちは明らかに、その名残りをとどめている。

 能舞台って面白い造形なのです。左右対称じゃない。
 向かって左手に橋掛リといって渡り廊下みたいのがあって、そっちから役者が出てくるわけですが、左手だけで右にはなくて、しかも微妙に斜めの角度でついている。
 舞台はそれゆえ真ん中より右手にあって、正方形をして客席にせり出ている。
 で、観客は前からだけじゃなく、タテヨコナナメから見るようになる。

 これ、かなりぶっとんだ発想です。
 ・・・そうだよなぁ、なにも横に広がったステージを、前から見るだけが舞台じゃないんだよなぁ、と考えさせられる。
 昔のコロセウムとかだって、円形劇場だったわけだし。
 でも、能舞台の平面図をながめていると、なんだかこういうところケルト的だよなぁ、と思えてくるのです。
 ケルト的なものの考え方にも、どこがどうとは言いにくいのですが、すごく左右非対称なところがある。
 

○ 結び

 能についてはこの辺にしようと思います。
 ながながお附き合いいただきありがとうございます。

 能というものの全体像を客観的に知りたい方は、どうぞご自分でいろいろ資料にあたってみてください。
 ここに書いたのはあくまで極私的、偏愛的にまとめたものにすぎません。
 しかも、自分の場合、能のなかでもとくにこういう部分が好き! というのがあって、そういう意味でもすごく偏っておりますので。

 だからたぶん能の側からすれば、かなりはた迷惑な愛し方なのですが。
 とにかく私としては、こういう芸術形態がこの国に生まれてきて、現在に至るまで失われることなく引き継がれてきてくれたことにほんとに感謝しているのです。

 あの優雅なスタイル、音楽性、視覚に訴える美。
 一方では幽遠なシンボリズム、他方では衣装や装飾のきらびやかさ、
 象徴性と即物性とのあの驚くべき・・・ バランス感覚というかアンバランス感覚というか、押すところと引くところとのあの絶妙な感覚。

 私は能のそういうところがほんとに大好きなんです。
 こういうものを生み出しえたのはいったいどういう精神性なんだろう!
 観阿弥、世阿弥、ほんとにすごい人たちです。
 ああいう人たちを生み出しえた室町時代もすごい!

 仮にもアイルランド演劇をやるからには、もちろん外観はまったく違ってくるでしょうけれども。
 とにかくここに羅針盤の針を合わせておけば間違いなかろう、という直観的な確信があります。
 世阿弥やそういう人たちと、七百年にわたるその伝統と、それから彼らにインスピレーションを与えてきたミューズたちへの、かぎりないリスペクトをこめて。



 参考文献

 いい解説書が山ほど出ているはずなんですけど、とりあえず手元にあるのは・・・

○能楽鑑賞百一番  金子直樹 著 岩田アキラ 写真 淡交社 2001

 能についてのこのシリーズはだいたい上記を参考にして書きました。
 写真が豊富で説明も丁寧で、全体像をつかむのにいい本です。

 あとは、古文の辞書の巻末付録、百科事典、と桐原の十年前の<最新国語便覧>。
 謡曲にあたるには、<日本古典文学体系>を。(図書館の後ろの方に埃をかぶっています。)

 白洲正子とか、林望とかも能について書いていた気がする。
 解説書については、また調べて追記します。

 じっさい上演予定をチェックするには、<能楽タイムズ>っていうのが出てるらしい。
 あとは各団体サイト、ぴあなど。

 中島 迂生     

Posted by 中島迂生 at 00:58Comments(0)能について