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Posted by つくばちゃんねるブログ at

2014年01月29日

詞華集カフェ・ジュヌヴィエーヴ 目次


<詞華集カフェ・ジュヌヴィエーヴについて>
これは私がおもに16から19歳くらいのハイティーンの頃に書きためた小品のうち、切なくノスタルジックな感じのを集めたもの。
カフェ・ジュヌヴィエーヴは旅行雑誌のスナップや昔のパリの写真集なんかからつくりあげた架空のカフェで、当時の私の心の中にあったカフェのイデー。

1.霧の望遠鏡

2.パリ

3.追憶

4.カフェ・ジュヌヴィエーヴ

5.蝋燭

6.海辺

7.青い谷間の夏

8.シュザンヌ

9.車窓スケッチ




  

2014年01月29日

霧の望遠鏡

16歳のときの小品。読み返すと、あたし、アンドレ・ブルトンとの出会いを予感してたなって思う。

        詞華集カフェ・ジュヌヴィエーヴ 1

             霧の望遠鏡


 早咲きの月見草は、まだベッドから飛び出せない--あのろうそくと、荷物をいっぱい積んだトロイカとの、奇妙な夢から覚めていないようだ。雨にぬれた灰色の通りを、消えかかった思い出をいっぱいつめたビヤ樽が転がってゆく・・・。

 君はコーヒーカップに口をつけることもせず、窓辺に立って何を見ていたのだろう。片手を無造作にガウンのポケットにつっこんだその後ろ姿は、どんな悲しい憧れを物語っていたのか?・・・
 ぼくの後ろでドアが開き、そして静かに閉じられる。古ぼけた暗い階段を、ゆっくりと降りてゆく靴の音・・・それは今でもぼくの心にはっきりと焼きついて離れない。
 分かっているよ--君は自分から逃れるために出ていったんだね、あの霧の庭園へ。毎日、刈りこみばさみやじょうろを持って立ち働いていた園丁たちはもういない。今ではすっかり荒れ放題、リンゴの木もいちじくの木も、バラもツタもエニシダも、何もかもが生い茂り、伸びるがままにされている--枝々には白いクモの巣が、草の葉先には大きな雫が何千となくちりばめられて・・・そこは今や、ねずみとコマドリとあらゆる茶色いウサギたちの天国なのだ。
 窓から下を見ると、庭園はすっかり白い霧に包まれて、灰色の迷宮、緑の大海原のようだ。まだ君はあそこにいるのだろうか。ああ、ぼくには分かる、君は今じっと見入っているね、ひたすら彼方へと急ぐその足をとめた、ふしぎなアマリリスの花に。ほら、霧の中に一点のオレンジが目にしみるようだ・・・あれは、ずっと長い間打ち捨てられながらも、毎年幾つかは必ず咲くんだ。もうすっかり野性に返って、守ってくれる者もいない荒々しい自然に生きてゆくすべを悟り--それでも昔、自分をしっかりと包んでくれた優しさを今も忘れてはいない。
 さっき、ぼくは十四番街へ出掛けた、昼食のバゲットを買うために。パン屋の白い壁には、大きな絵が飾ってある--底知れぬ深い青色をした美しい蝶が、赤い檻の中で羽を広げている。バックには緑色の暗い海が広がっている--。そのどこかに、はっきりしない影があるはずだ。それは果てしない旅を続ける帆船なんだ。甲板には白髪まじりで鋭い目をした一人の男が立っている。彼は毎日あそこに立って、大きな望遠鏡で世界をじっと見ているのさ。分かるかい、君、彼の名は<永遠>というんだ。あの望遠鏡は、はるか昔にはクリストファー・コロンブスが、ドレーク船長が、ジョン・シルバーがのぞいていたものさ。それを今はあの人が手にして、毎日のぞき続けている、彼らが生きて、死んでいったこの世界を。
 ほら、いつか冬の日に、あたたかい暖炉の前に寝そべっている男の子が見える--幼き日の君が。あの子が、憧れに目を輝かせて読んでいたのは、手垢に汚れ、すっかりセピア色に変色した<宝島>。
 バゲットの包みを抱えて外へ出ると、さびれた路地のあたりから霧がやって来るのが見えた。十四番街のさいごの角を曲がったとき、どこからか青いものがひらひら飛んできた。あの蝶だ--ぼくにはすぐ分かった。蝶は、生まれて初めて知る自由に我を忘れ、喜びに酔って、ただ飛翔のすばらしさを貪るためだけに飛翔を続けていた。その息をのむほど美しい青は、まるでそこらじゅうに喜びをまきちらしているようで、こっちまで幸せな気分になったものだ。ぼくは足を動かすのも忘れて、吸いつけられるようにじっと見入っていた。
 ちょうど再び歩き出そうとしたときだった、遠くから馬のひずめの音が聞こえて、向こうの角に一台の郵便馬車が現れた。例の蝶は石畳のあたりを飛び回っていたが、全く逃げるそぶりを見せない。不安になって声をかけてやろうとしたそのとき--何もかもが一度に起こった--馬車がぼくの前を走り過ぎ、御者が帽子を振って「こんちは、旦那!」とどなり、その車輪が哀れな蝶の羽の上で回転した・・・。あっというまに馬車は角を曲がって行ってしまった。そして、沈んだ街にぼくはひとり取り残された--石畳に落とされた花びらと一緒に。

 ごらん、君、雲が動いていくよ。ちぎれたり、くっついてまた一つになったりしながら、そろって南の方へ流れていく。
 あの雲の上に立って、大きな望遠鏡をのぞいたら、世界じゅうが見えるだろうか。そうだ、いつか君と一緒にあの空へ行きたい。そして、望遠鏡ではるか下に広がる景色を眺めよう。きっとすばらしい眺めに違いないよ。
 それでは君、傘を持ったかい?・・・きっと雨になるだろう。いつか、太陽の光かさんさんと降り注ぐ丘の上で会いたいね。それまで、どうかぼくのことを忘れないでいてくれ給え。

 (1993?)






  

2014年01月29日

パリ


     詞華集カフェ・ジュヌヴィエーヴ 2

            パリ


 パリは豪勢にくらす街じゃない。
 パリは、せまいアパルトマンで貧乏ぐらしをしている人たちのもの。
 起きぬけに一杯のコーヒーをひっかけてゆくカフェ、セーヌ河のそぞろ歩き、木の葉ふるリュクサンブール公園でのしずかなひととき。
 それらはこういう人たちのためにこそあるのだ。

 古びた石造りの建物が立ち並ぶ路地を歩きながら、私は見上げる窓ごとに、そこに住む人々をまざまざと思い浮かべることができる。
 志かたい、若き小説家。朝早くから売り込みにいった出版社のことごくに冷たくあすらわれても、自分の才能を信じて疑わない。時にはパンの代わりに希望で命をつなぎながら、今日も貧寒な机に向かってインスピレーションの炎を燃やす。
 あるいはまた、ほっそりと美しい無名の踊り子。日夜きびしい練習にあけくれ、自分の生活を顧みるゆとりもない。ほっと一息つけるのは、楽屋裏で仲間たちとおしゃべりする間だけ。素質の足りないところは、意気ごみと、つややかな亜麻色の髪とが補って余りあるだろう・・・

 いつしか私の空想は過去へさまよいこむ。
 暖房のない安宿からのがれて、一杯五スーのコーヒーでカフェに粘り、冗談まじりに<セナクル・デ・ビュヴール・ドー>を自称していたミュルジェールとその仲間たち。
 仕事帰りの地下鉄で乗り合わせた娘たちの顔を記憶に刻んでは、夜になってからそれをスケッチブックの上に再現するボナール。
 借金取りがやってくると見るや、裏口からこっそり逃げ出すのが常だったバルザック・・・
 しかり、パリは貧乏人の街だ。雑草のように逆境に根を張って生き抜く若者たちに、冬の太陽は微笑む。

 (1993)






  

2014年01月29日

追憶

このころほんとにこういう感じが好きだったな。ほとんど次とかぶるけど。

     詞華集カフェ・ジュヌヴィエーヴ 3

           追憶


 静かな雨の日の午後。うす暗い室内。
 レースのカーテンのかかった窓。
 窓辺に置かれた書斎机、紙と鵞ペンとインク壺。
 空き瓶にさしたかすみ草。
 鋳鉄製の背の高いベッド。
 部屋の中のものをまるく映し出している石油ランプのほや。
 静寂の中に、遠い記憶がふと呼び覚まされる。

 霧の散歩道。すっかり葉を落とした木々のこずえ。
 雨粒をいっぱい散りばめたくもの巣。
 手をつっこんだポケットのぬくもり。
 ゆっくり歩いてゆくコートの後ろ姿。
 古いレンガの橋。二つのアーチが揺れ動く水に映って眼鏡のように見えるから、眼鏡橋という名前だ。
 手すりに身をもたれて、川の中に石を投げ入れている小さな子供。

 ぬれた石畳。
 灰色の縞猫がたたずんでいる、古風な装飾の窓。
 路上のスミレ売り。
 新聞屋の店頭を飾る絵はがき。

 やわらかなオレンジ色の光を通りに投げかけている街角のカフェ。
 ガラスごしのほおづえ。
 少し曇りの出た銀のミルク入れ。
 流れおちる雨にぼやけてかすむ往来の人影。

 飛び立つ鳩の群れ、びしょぬれの青銅の騎士。
 夕やみの中に浮かびあがる街灯の光。
 大通りを行き交う色とりどりの傘。
 うす灰色の空をふるわせてゆく 時計台の鐘のひびき。

 (1993)






  

2014年01月29日

カフェ・ジュヌヴィエーヴ

このころの夢や愛していたイメージを、ぎゅっと詰めこんだブーケのような小品。そのひとつは<ベルベット・イースター>。

     詞華集カフェ・ジュヌヴィエーヴ 4

      カフェ・ジュヌヴィエーヴ


日曜日、朝。曇り。
明け方まで降っていた霧雨が、
下町の古びた家並をしっくりと溶けあわせている。
少しくたびれたレースのカーテンごしにさすうす暗い光のなかで、
イレーヌはしばらくまどろんでいた。
それからゆっくりと起き上がり、ベッドの上で片膝を抱えて、
何を見るでもなく 部屋の一隅をぼんやりと眺める。

こういう天気の日には、この部屋の中に沈澱している過ぎ去った時代の感じが殊更強まるように思われる。
祖母の記憶―蜂蜜入り石鹸の匂い。
ここは、祖母が亡くなるまで祖母の部屋だった。
この部屋にあるものも大方はみな祖母のものだ。
鋳鉄製の背の高いベッド、洋服だんす、こわれたランプ。
少し曇りのでた、どっしりとした鏡台―埃をかぶったカスミ草がひと束、
ジャムの空き壜にさしてある。
それから、イレーヌの着ている昔風の白いねまきも。

祖母はおしゃれな人で、そんなに暮らし向きもよくなかったのに、
ブローチやネックレスやレースの手袋など、優雅で古典的な品々をたくさんもっていた。
イレーヌも、時どきはそういうものを眺めて楽しむけれど、
自分で身につけることはめったにない。

イレーヌは、ようやくベッドから降りると、
洋服だんすの中から細身の黒いワンピースと、淡いすもも色のカーディガンを選び出した。
それから、つば広の白い帽子を取り出して、鏡に向かっていろいろかぶり方を試してみる。
やがてジョルジュがやってきて、二人は連れだって出掛ける。
彼らはぶらぶらと街を抜け、野原や小麦畑のあいだの細い小径を通って歩いていく。

   *

こういうおだやかな曇りの日には、ものごとの美しさがもっとも正直に、はっきりと見える。
緑色の海に浮かぶ星々のように、生い茂る雑草にまじって咲くマーガレット。
矢車草、あの少し紫がかった、深く澄んであざやかな青。
咲き乱れる真っ赤なけしの花びら。
農家の庭先にはつるバラ、ライラック、すずらんに色とりどりのアネモネ。
青い菫に忘れな草、足もとにぬれるクローバー。

川岸に芽吹く柳のみずみずしさ。
静かな川面。
遠くの森の微妙な色あい―ところどころ、白っぽい淡い緑がまじる。
遠くからのぞむ街の風景も、たしかに美しい。
彼らは来た道とは別の道を通って街へ戻る。

   *

通りから少し外れた街角にある静かなカフェ、ジュヌヴィエーヴ。
飾り気のない石造りの入り口の両脇には、髪を結い、流れるような衣をまとった美しいブロンズの女性像が据えられて、
それぞれまるいガラスの月を―水瓶をかかげるように片方の肩にのせて―かかげている。
今日のような少しうす暗い日には、昼間からこのガラスの月に灯りがともされて、石畳にやわらかい光を投げかけている。

ジョルジュとイレーヌは窓際に近いテーブルにつき、サンドウィッチとコーヒーを注文する。
古時計がものうげにチクタクいうのをききながら頬杖をついて、道ゆく人々をただぼんやりと眺める。

こころよいざわめき。銀製のポット。
使いこまれた円テーブルのふちのなめらかさ。
カフェ・ジュヌヴィエーヴを出るころ、静かに雨が降り出す。
二人はジョルジュのこうもり傘を広げ、表通りを冷やかして歩く。

絵はがき。ティーセット。レコード。
街角の新聞売り。ベタベタと貼られた広告塔。
うす青いろの夕闇に浮かびあがる街灯の光。
往き交う人びと。
ワルツを踊るようにくるくると流れてゆく雨傘たち。

(1993?)





  

2014年01月29日

蝋燭

このころから、電気がきらいでできるだけ蝋燭を使っていた。

     詞華集カフェ・ジュヌヴィエーヴ 5

          蝋燭


 今晩はまったく、普通の寒さじゃない。
 寝床の床をはだしで歩くと、もう足の感覚がなくなって、冷たいよりもずきずきと痛い。
 ぼくの寝室はまるで北極のようだよ。
 しかし、この暗やみの中に灯る一本の蝋燭の、何と美しく、心安らぐことか! それは凍てついた夜の海の灯台、さまよう船をみちびき、あたたかな休息を約束する光だ。
 この金色の炎、ほのかに光る十字、刻一刻とかたちを変えるふち飾り。
 りんごの蜜のように 半ば透き通って。
 夜な夜なあらゆる屋根の下で灯される、こんな平凡な蝋燭こそ、きっと世界でもっともすばらしいものの一つなのだ。
 そしてそのすばらしさはおそらく、人が生まれてきて、頭が真っ白になるまで夜ごと枕元に灯し続けても、その快さが変わらないことにあるのだ。
 このなつかしい、素朴なかたちには、たくさんの人生が刻まれている・・・

 (1993)




  

2014年01月29日

海辺

中学のときの美術の教科書に、<朝のボート>っていう浜辺のボートの絵があって、切り抜いて戸棚の上に飾っていた。

     詞華集カフェ・ジュヌヴィエーヴ 6

           海辺


 開け放った窓の向こうに見える青い海と、石ころだらけの浜辺。
 セルリアン・ブルーの波の中へ漕ぎだしてゆく一隻のボート。
 砂地にくいこむ白いサンダル。
 潮風にさらされて、すっかり色のぬけおちた棒杭。
 編み目のほつれたバスケット。

 夜明けの裏通り。
 鎖をひっぱって走ってゆくダルメシアン。
 朝もやに霞むさるすべりの、うすむらさき色の花ぶさ。
 水色の空にうかぶ 白い曇りガラスの月。

 生け垣が青い陰をおとしている埃っぽい砂利道。
 庭先で木もれ陽をあびている、ラッカーのはげた籐椅子。
 白い貝がらの首飾り。
 オレンジエードのアイスクリーム。
 腰掛けがわりの大きなトランク。
 壁ぎわに放ったらかしにしているうちに、太陽がまっ白にさらした帆布。
 アラバスターの卵。

 しっくい塗りの灰色の壁にはさまれて、浜辺へおりてゆく急な階段。
 風にはためくサンドレス。
 ちぎれとぶかもめ。
 よりそって、海を眺めている後ろ姿。

 (1993?)







  

2014年01月29日

青い谷間の夏

これは誰にインスパイヤされて描いたのだったっけな。ルーシー・ボストンあたりかな。

         詞華集カフェ・ジュヌヴィエーヴ 7

             青い谷間の夏


 午後の陽射しに照りつけられて、砂利道をのぼってゆくらばのひずめ。
 トランクの上でぶらぶらさせている小さなエナメル靴。
 ねえ、まだ着かないの?
 もうすぐですよ、お嬢さん。
 ほら、あそこに見えてるでしょう、木の間から少し顔をのぞかせて、谷間を見下ろしているあの石の館ですよ。

 そら、着いた。さあ、降ろしてあげましょう。
 おばあちゃんに会ったらきちんと挨拶して、キスしておあげなさいよ。

 まあ、おばあちゃん、こんなに大きなおうちに一人で住んで、毎日何をしてるの?
 おまえたちのことを考えてるのさ。
 あたしたちのことを考えてるの? 毎日?
 そんなの、退屈じゃない?
 いいえ、ちっとも。

 つい今しがた庭から取ってきた、まだ朝露に濡れている赤いばら。
 白いせとものの卓上ベル。
 ゆでたまごの殻を真剣にむきながら--
 ねえ、あばあちゃん、ハンプティ・ダンプティってたまごなんでしょ?
 生のたまごかしら、それともゆでたやつ?
 さあね。塀の上から落っこっても、ちょっとけがしただけですんだのだから、 きっと固ゆでのたまごだったんじゃないかと思うけど。

 はだしの感触。木陰のボート。
 そっとほおを寄せる、ひんやりした石壁。
 棚の奥のカットグラスのきらめき。
 長々と床に寝そべっている虎猫。

 とねりこの木の上のラプンツェルごっこ。
 ラプンツェル、ラプンツェル、お前の長い髪を垂らしておくれ。
 わたしがお前のところへ行かれるように。

 氷を浮かべたオレンジジュース。
 小麦の穂みたいなお下げ髪。
 まぶしい陽光にきらめいて、麦わら帽子のすきまからこぼれる虹色の六角形。
 木彫りのアラベスクにはめこまれた、埃だらけの背の高い鏡。
 かがみよかがみ、世界でいちばんきれいなのはだあれ。

 雨の日のビーズ遊び。
 一つ一つ、糸に通してつくる美しい首飾り。
 あんたなんか大っ嫌い! もう二度と口なんかきいてやらないから!
 騒々しく階段をかけおりてゆく足音。
 おや、あんた一人でどうしたの。
 けんかしたの。
 まあ、そうなの。それじゃ、ちょっと来て、ビスケットを焼くのを手伝ってちょうだい。

 ゆれるこずえの打ち出しているまだら模様。
 石ころの間でひなたぼっこしている小さなとかげ。
 (ひそひそ声で)
 ねえ、オフィーリアって、どうして死んじゃったの?
 悲しみのあまり気が狂って、小川でおぼれ死んだのよ。
 一束のスミレを手にして、髪を水草にからませながら流されてゆくところを、人々が見つけて、嘆き悲しみながらひっぱりあげたの。
 恐怖と好奇心に満ちたまなざし--
 ちょうどあそこの川みたいな?
 そうよ。

 おお、オフィーリア、オフィーリア!
 そなたをかくのごとくして見い出さんとは、
 おお、いとしのオフィーリアよ!

 うまいわ、スー。ほんとにおぼれ死にしてるみたい。
 ・・・ねえ、見て、息してないわ、スー。
 閉じた瞳。水の中にゆらめく茶色の髪。
 ねえ、スー、死んじゃったの?
 ばかなこと言わないで。手伝って、一緒にひっぱりあげてちょうだい。
 ながいながいひととき。
 あかるい陽射し、きらめく水のしずく。
 目、開けた?
 開けたわ。
 ・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・
 さっきのことは、誰にも言っちゃだめよ。絶対よ。
 大人って、大騒ぎするんだから。
 さあ、スー、急いで着替えてきて。

 朝食の食卓に残された、黒いちごのジャムをぬった一切れのパン。
 木の葉の間を吹き抜けて、窓辺に流れ込んでくる風。
 柱時計の、ものうげにチックタックいう音。

 やぶの陰を、さっとかすめて通りすぎるきつね。
 細い口笛。夕陽の芝生におとされた影ぼうし。
 にれの木の下で、目をつぶって十数えて。
 それまで、絶対に目を開けちゃだめよ。

 これこれ! みんな、荷づくりはすんだのかい。
 十時にはお迎えが来ることになってるんだからね。
 ハンカチに、アイロンをかけておいたよ。
 レディは、きれいなハンカチを持っていなくちゃいけないからね。

 目をつぶって、十数えて。
 そしたらあたし、もうだれにも見つからないわ。
 だれにも、だれにも・・・
 走り去る笑い声。
 もう二度と、だれにも見つけられない、
 青い谷間の一夏の日々。

 (1992-3?)





  

2014年01月29日

シュザンヌ

これは19くらいのとき高原を旅行して、ちょっと堀辰雄的な気分になったときに。

     詞華集カフェ・ジュヌヴィエーヴ 8
        シュザンヌ    


 <深窓の令嬢>なんてことばを知ったのは、もちろんずっと大きくなってからのことだった。けれど、そのことばを知ったとき、彼はどうしたってあの少女のことを思い出さないわけにはいなかったのだ--まばゆい宝石のように光を放つ、十四才の夏。
 ほんとを言うと、あの子はいつでも深窓の内側におしとやかにとじこもっていたわけではなかった。人間だったらだれも、そんなにいつも窓の中におさまっていられるもんじゃない。でも、今思うとやっぱり、あの子はいつも窓の向こうにいた--厚い追憶のガラスをはめた窓の向こう側に。

 高原の夏は早い。
 少年がいつもの橋を木の枝でカンカンたたきながら渡ると、両岸にはもう、野ばらやにせアカシアの白い花房がいっぱいに咲き乱れている。
 長い休みを前にして、少年は豊かな気持ちだった。--始まる前がいちばん楽しんだよな。
 少年はこの夏、家族に相談もしないで勝手に新聞配達を始めた。母親はそれを知ってひどく怒った。
「仕事だったらうちでやることがいくらでもあるでしょうに。何だってわざわざよけいなことをするんだか・・・」

 少年のうちは旅館を営んでいる。このへんのおおかたのうちがそうなのだ。旅館の子には、旅館を手伝うことが当然のこととして期待されている。うちでやることは、いくらだってある。
 少年は、ただ働きには、もううんざりだ。お金のためじゃない。仕事をしただけ、それが形として残るようなことをしてみたかった。

 夜明けの光が東の空をすもも色に染めるころ、少年は自転車を引き出して仕事に出掛ける。少年の受け持ちは街のほうではなく、森の中に散在する別荘村だ。 この辺には、外国人も多い。表札がローマ字で出ているところには、英字新聞を投げ入れてゆく。
 朝まだき、やかましいくらいの鳥のさえずり。草を踏みしめてゆけば、冷たいつゆに足はびっしょりぬれる。森は木のやにと、きのこと、洗われたばかりのみどりの匂い。

 午後になると少年は魚釣りに出かける。行く先は近くの湖だ。釣り糸を垂れながらぼんやり考えにふけっていたりするので大して魚は釣れなかったが、ひんやりした木かげにひっくり返っているのはいい気持ちだった。
 湖へぬける道から少し外れて、古風な石造りの大きな館がたっている。広い庭は荒れほうだい、ずいぶん前からだれも住んでいない。みんなはそこを<お屋敷>と呼んでいる。行きも帰りも、<お屋敷>のたたずまいを何となく眺めながら、少年は通りすぎる。その淋しげなようすを見るとどういうわけか、妙に心が落ち着くのだ。で、何かおもしろくないことがあってむしゃくしゃするときもここへ来て、しばらく眺めていたりする。

 少年には成人した姉がいて、それで二人はしょっちゅうけんかをする。
 たいてい悪いのは少年の方で、この日もそうだった。数学の問題を教えてくれと頼んでおいて、いくら説明されても分からないのに腹を立て、
「姉ちゃんは人に説明するのが下手なんだよ」
と口走ってしまう。それからひとしきりやりあったあと、二人はしばらく、口をきかない。
 静かな小雨が降っている。少年はどうにも気が晴れなくて、ふらっとうちを出ると、釣りにいくいつもの道をぶらぶら歩きだす。
 気がつくと彼は<お屋敷>の見えるところに来ている。いつもはただ道から眺めるだけで、近くまで行ったことはない。
 少年は茂みをかきわけながら辺りを探検してみる。垣根にクリーム色のばらが咲いているのを見つけて彼は驚く。<お屋敷>のいくつもある窓は、重厚な感じの装飾が施され、風雨にさらされて美しかった。
 少年は裏庭の柳の木にもたれかかって二階の窓を見上げた。と、彼は心臓がとまるかと思った。窓の中に人の顔が見えたのだ。
 少女だった。古風な白いレースの服を着、頭にも白いレースを飾って、豊かな黒髪が肩まで波打っている。黒い大きな瞳は思いにふけるように、窓の外をしずかに見つめている。暗い室内を背景に、雨粒にふちどられた窓ガラス。
 少年の目は、釘づけになったまま動かない。それはまるで一枚の絵だった。偉大な画家が、己れの持てるすべてを注ぎこんで描き上げたマスターピースだ。
 少女はしばらくの間そうしていたが、やがてすっとカーテンをひいて姿を消した。
 少年は、魔法を解かれたように我に返る。今のはきっと、ほんとじゃない、と彼は思う。けれど、だとしたら何だったんだ?
 <お屋敷>は何事もなかったように、雨にぬれながらひっそりとたっている・・・

 それから二、三日して、少年は自分の区域の中で、新たに新聞を届けるべき住所を渡される。それは何と<お屋敷>だった。<お屋敷>に本当に人が入ったのだ。
 わずか数日で<お屋敷>はずいぶん変わっていた。芝生はきれいに刈られ、玄関までの道も整備されて、車庫には黒いメルセデスがとめられている。表札のローマ字には、Uにちょんちょんのついた変な字がまじっていて、少年には読めない。
 少年はただ朝刊を投げ込んで立ち去る。そんな日がしばらく続く。でも、<お屋敷>に人の姿を見ることはあれから一度もなかった。何といっても、まだ人が起きている時間帯じゃないのだ。

 忙しくも楽しい日々が過ぎていった。
 夏が深まるにつれ、旅館は滞在客でいっぱいになる。
 少年はある家族の三人兄弟と仲よくなった。九才を先頭に二つずつ下るのだが、みんなしてお兄ちゃんお兄ちゃんとまとわりついてきて、少年が鶏にえさをやったり、客部屋をまわって寝具を整えたりするのを興味しんしんで眺めるのだ。少年が笑って、
「そんなにめずらしいんなら、見てないで手伝ってくれよ」
と言うと、彼らは、
「手伝っていいの?」
と目を輝かせ、競うように仕事にとりかかる。少年は彼らのあとから、まずいところを直してまわる。
 夜、彼らの一人が少年を誘いにきて、いっしょに花火をしようと言う。あとから夕飯の片づけを一段落した姉も加わり、この晩中庭はちょっとしたにぎやかさだった。様々に色の変わるロケット花火や、ねずみ花火を打ち上げては、みんなしてばかみたいにはしゃぐ。けれど、おしまいの線香花火に火をつける頃になるといつしかみんな無口になり、めいめいがそれぞれの燃えてゆくのを真剣に、息を詰めて見守っている。
 線香花火が途中で落ちたりしたら、それこそ大変なことだからだ。それはまるで、夏が途中で終わってしまうようなものだった。そんな悲しいことは、ぜったいにあってはならないのだ。

 一週間がすぎて、三兄弟の帰る日になる。
「帰りたくないよう」とべそをかく真ん中の子をなだめながら、両親は中庭を行き来して荷物を運ぶ。
「来年、ぜったいまた来るからね!」
の大合唱を乗せて、紺のジープは砂利道を走り去る。
 少年は知っている。たぶん、あの子たちに会うことはもうない。いつだって、こんなことのくり返しだからだ。
 ともあれ、夏の続く限り、少年にはやることがどっさりある。少年はまたいつもの仕事に戻ってゆく。

 その日も、少年は夕刊を積んだ自転車で街をとびまわっていた。
 しずかな小雨が降りだしていた。急な坂道にさしかかって、自転車を降りて押しはじめたとき、少年はうしろから誰かが急ぎ足で近づいてくる気配を感じた。「あの、すみません」
 変な外国語訛りのアクセントにふり返ると、うすむらさき色のワンピースが目にとびこんできた。
「あの、すみません。郵便局は、どこですか」
 <異人村>(外国人の別荘がかたまっている一区画はそう呼ばれていた)に滞在しているらしい、一人の少女だった。
「この道をまっすぐです。ずっとまっすぐ」
「おお」
 少女はほっとしたように足どりをゆるめた。
 方向が同じなので必然的に並んで歩くようなかたちになった。少しの間互いに黙っていたが、どうにも気づまりなので少年は何か言うことを探し求めた。
「<異人村>に来てるんですか?」
と言ってはじめて相手の顔をまともに見たとき、少年は自分の心臓がどきんと音をたてるのを感じた。
「あ、そうじゃない--もしかして、<お屋敷>に来てるんですね?」
「<お屋敷>?」
「ほら、あっちの--」と、少年は指さした。「石造りの、大きな灰色の建物」「そう」
 少女はびっくりしたようだった。
「知ってるの?」
「新聞を、配達してるもんだから」
「まあ、そうなの」
 真っ黒い豊かな髪、同じく真っ黒い大きな瞳。
 それはまさしく、あのとき窓の向こうに見た少女その人だった。けれど、今こうしていっしょに歩きながらしゃべっていると、ぜんぜん違う。はるかに近づきやすくて、ちゃんと生身の人間という感じがする。年も少年とさして違わないようだ。
「さっきまで二時間半も、ピアノの練習をしていたの」と、少女は言った。少女は髪に一輪のむくげの花をさしていた。「それでいいかげん飽きちゃったものだから、ちょっと散歩に出てきたの」
「すごいなあ。二時間半も、よく気力がもつね」
「ピアノに向かっているときは、夢中なの。でも、そのあとは・・・ だんぜん、外の空気がすいたくなるわ」
 雨あしが強くなってきた。そこらじゅう、ふり注ぐひそやかな雨音でいっぱいだった。
「ぬれちゃいますね・・・」
 少女は少しためらってから、少年の方へ傘をさしかけた。少年は何と答えるべきか分からなくて、口の中で意味のないことばをつぶやくしかなかった。そして、傘に入るでもなく、入らぬでもなく、中途半端な距離を保って歩き続けた。
「ピアノは、どんな曲弾くの?」
 しばらくして、少年はたずねた。
「曲なんてほどのものじゃないけど」少女は肩をすくめた。「今やってるのは、ハノンとベートーヴェンのピアノソナタ。前はツェルニーもやってたんだけど、私、あれが恐ろしく嫌いで・・・ピアノに向かってツェルニーを弾こうと考えただけで、のどに重たいかたまりがつかえてくるの。それで、しまいには、どうしてもツェルニーをやらなくちゃいけないのならピアノをやめるって宣言して、ようやく解放されたっていうわけ」
 少年は、ツェルニーなんて知らない。けれど、その時以来、少年の胸には憎むべき敵として、永遠にツェルニーの名が刻みこまれる。
 楓並木を青くかすませて雨が降っていた。雨にぬれて歩き続けながら、少年はふと、すべてのものがふしぎなほどしっくりと調和しているのを感じる。この雨音--二つの人影--現在という時間。過去とも未来とも切りはなされて、ただそれ自身において充足した、現在という瞬間--。
 珈琲屋の店先にたむろした一群の避暑客が、道ゆく二人を眺めるともなしに眺めている。彼らはその前を通りすぎる。
「ベートーヴェンは、何が好き?」
と、少女がたずねる。
「ぼくはあんまり、音楽は聴かないんだ。だけど、ぼくの親父が<田園>を好きでね、前はしょっちゅう聴いてたんだって」
「今は聴かないの?」
「うん。もう亡くなったから」
「まあ--」
 少女はぎこちなく口ごもる。
 少年は、平気だった。父親が亡くなったのはもうずいぶん昔のことで、そのとき少年はやっと物心つくかつかないかくらいだった。
「それで、君は何が好きなの?」
と、少年はたずねる。
「私は・・・ベートーヴェンより、どっちかというとショパンの方が好きなの。スケルツォの楽譜があるからときどきかじってみるんだけど、やっぱり、もっと上達してからでないとだめみたい」
 少年は歩を緩めた。いつのまにか、赤レンガの郵便局の前に来ていた。
「じゃあ、ここですから」
 少年が言うと、少女はまるで郵便局が忽然と出現でもしたみたいにびっくりした。
「おお」
 少女はちょっとぐずぐずしていたが、少年の方はさっさと自転車にまたがった。
「それじゃ、また--傘をありがとう」
 ペダルをこぎだしながら、少年はうしろをふり返らなかった。ふり返らなくてもはっきり見えたのだ--雨の中にたたずむ、黒髪にむくげの花をさした少女の姿、しだいに遠くなってゆくその姿が。

「おんぼろに限ってなかなか壊れないのよね」
 少年の姉が、テレビのチャンネルをガチャガチャまわしながらぼやいている。「いつまで白黒でがまんしろっていうの?」
 いつもながらの遅い夕食だった。少年はひどくいらいらして、これ以上この場にいてはいけないのが分かっていた。何かやらかすに違いなかった--姉貴にケンカをふっかけるとか、わざとお茶をひっくり返すとか。
「ごちそうさま」
 箸をおいて立ち上がると、少年の母親が見とがめた。
「おや、もう終わりかい。腹の調子でもおかしいんじゃないだろうね」
「ううん、なんでもない」
 少年は階段をかけあがって自分の部屋に入って、机の上にガリ版刷りの数学のプリントを広げた。しかし、すぐにそれを放り出して釣りの雑誌を手に取った。パラパラとページをめくりながら、雑誌を見てはいなかった。郵便局までの道のりを歩きながら、少女と交わした会話の一部始終がよみがえってきて仕方がなかった。一語一句、おどろくほど鮮明に、頭の中に再現される。まるで頭の中にこわれたテープレコーダーでもはめこまれたみたいに、くり返し、くり返し、果てしもなく--しまいにはうんざりしてしまって、少年は雑誌を壁にたたきつけて、畳の上にひっくり返った。宵闇に、雨音だけがひびいていた。

 それからというもの、釣りに行くときは必ず少し道を外れて、<お屋敷>のようすがよく見えるところを通るようになった。もっとも、あくまで釣りに行く「ついでに」しか、少年はそうすることを自分に許そうとしない。
 昼間の<お屋敷>は窓という窓が開け放たれ、カーテンがそよいでいたりして、いきいきとした人の気配に満ちていた。あるときははさみを手にした庭師が、熱心にばらの手入れをしていた。また別のときには、あの子の父親らしい、いかめしい顔をした外人の男の人が、芝生で煙草をくわえていたりした。
 一度など、庭先に出した白いガーデンテーブルで、家族みんながお茶を飲んでいたこともある。少女のとなりには小さな妹がちょこんとすわり、父親と母親と(母親は日本人のようだった)、他に、家庭教師や使用人なんかがいて、彼らの足もとには大きなドイツシェパードが寝そべっていた。
 少女はうすみどり色のドレスを着ていて、そのとりすました顔は、はじめて窓の中に見たときの感じに近かった。少年はこちらを向いて座っている少女に気づかれないよう、そっと<お屋敷>の前を通りすぎた。

 休みもあんまり長いとだらけてくる。
 八月半ば、釣り糸を垂れて考え事をしながら、少年はいつのまにか眠りこんでしまっていた。
 額をふきそよぐ風にふっと目を開けると、湖上に一隻のボートがみえた。漕ぎ手の服の明るい青。少女だった。
 考えるまもなく、少年は立ち上がっていた。声をかけようとする前に少女の方も気づいて、ボートをこちらに向けてきた。
「こんにちは」と、少女は言った。
「こないだ、街でお会いしましたよね・・・人ちがいでなければだけど。こないだは、どうもありがとう」
「いいえ」
 少年はことばに詰まった。すみれの花を飾った少女の髪の、なんとまあきれいなことだろう。
 船尾には妹が向かい合って座っていて、少年には気をとめず、何やらむずかしい顔をして水の中へ手をさし入れている。妹の方は金茶色の髪をしていて、顔だちももっと父親似だった。
「釣りをしているの?」少女がきいた。
「うん、そう」
「何か釣れた?」
「いや、今のところ」と、少年は言ってから、つけたした。「実は今まで、昼寝してたんだ」
「あ、そうなの」と言って、少女は笑った。
「私のとこではね、パパがきのう、友だちを何人か招んで、パーティーだったの。それで私、みんなの前でピアノを弾かなきゃならなかった。すっごく緊張したわ」
「ふうん。それで、うまく弾けた?」
 少女は首をふった。
「だめ、一箇所まちがえちゃった」
「一箇所なら、ぜんぜん平気だよ」
「でも、ミス・タウンゼントには怒られたわ」
「ミス・タウンゼントって誰?」
「私のピアノの先生」
「ふうん」
 彼らはしばらく沈黙した。
 それから、少女がため息をついて言った。
「帰りたくないわ。ずうっとここにいられたら、どんなにいいでしょうね。ここ、すばらしいところだわ」
 いや、そうでもないよ。冬には雪がどっさり降って、郵便は届かないし、ぼくら、学校へ行くの、大変なんだ--少年はそんなことを言おうと口を開きかけたが、少女の顔を見てやめた。
「いつ帰るの?」と、代わりに少年はきいた。
「分かんない。でも、たぶんもうすぐ」
「色んなところに行かれていいなあ。ぼくなんか生まれたときからずっとここなんだ。ときにはどっかに引っ越してみたいと思うよ」
「そう思う?」少女はぼんやりと聞き返した。
 妹が少女の方に顔をあげて、外国のことばで何か言った。少女は同じことばで答えた。妹がさらに何か言い、すると少女は悲しげな顔になった。
「そろそろ、行かなくちゃならないわ。うちを知ってるんだったら、こんど遊びにきてね。それじゃ、またいつかね」
 ボートは漕ぎ去っていった。
 少年は再び草の上にひっくり返って、目を閉じた。

 夏も終わりに近づいたある日、少年は<お屋敷>の人たちが立ち去ったことを知った。窓という窓は鎧戸で閉ざされ、芝生に出ていたガーデンテーブルもどこかに片づけられて、<お屋敷>は見るからにがらんとしていた。
 少年はばらを這わせた柵ごしにじっと立ちつくして<お屋敷>を眺めた。
 昼下がりだった。蝉がやたらとうるさかった。門のわきに植えられた背の高いポプラが風にざわざわなっていた。
 目を閉じると、プラットフォームに立って列車を待つ少女の姿が見える--よそいきの帽子をかぶり、かっちりしたスーツケースを持って、午後の陽ざしを浴びて立っている・・・折り目正しい人々に囲まれ、小さな妹の手を引いて・・・ 少女が弾きたがっていた<無題>とはどんな曲なのだろう?
 しずかに耳をすませば、こずえのざわめきの向こうから、かすかなピアノの旋律がきこえてくる気がする。

 九月一日の空があまり美しいと悲しくなる。
 久しぶりの布かばん、アルミの弁当箱、部屋のすみに放ったらかしになっていた学生服。
 畑地と砂利道のあいだには、もう秋の花々が咲き競っている。明るい陽射しにゆれるコスモス、深い空の色をそのまま切り取ったようなりんどう。
 毎日学校へ行かなくてはならない日々がまた巡ってきて、やがてそれが当たり前のことになる。
 削ったばかりの鉛筆を机の上で転がしながら、ときどき少年はぼんやりと思いにふける--ひとつかみの宝石のように、心の中に転がっているいくつかの場面、いくつかの会話。ノートの端っこに書き出した連立方程式の計算の途中で、少年はふと手をとめて思いにふける--。

 (1996)






  

2014年01月29日

車窓スケッチ

当時見ていた<世界の車窓から>のなかの気に入ったシーンや、旅行雑誌の印象的なスナップなどなど。

     詞華集カフェ・ジュヌヴィエーヴ 9
        車窓スケッチ


 窓辺ですすり泣く雨だれ、じっとりと冷えこんだ大地。
 霧に溶け入る針葉樹の森の、青みがかったいろ。
 古典調のフルートの、物淋しげなしらべ。
 列車の通りすぎたあとを行き交う人影。

 野辺の羊たち、身を寄せあって立ち尽くす--
 行けども行けども果てしない、野辺に群れる羊たち。

 ガラス窓にふっと息をふきかける。
 給湯室の熱いお湯。清潔な洗面器。

 窓辺の小卓、色のさめたばら色のカーテン。
 ペーストを塗りたくったパンの切れはし、指をあたためる豆のスープ。

 しずかな物思い。
 冷たい霧の中に一点、赤く光る信号灯。
 ・・・ガタンゴトン・・・ガタンゴトン・・・

           *           *

 村外れの小さな駅舎、ここはほとんど貨物列車しか通らないが、
 たった一人の駅員は毎日けっこう忙しい。
 壁一面のボタン相手にダイヤグラムを調整し、
 列車が通るときには外へ出て小旗を掲げる。
 午後三時、やっとひととき、くつろげる時間。
 縞模様の木目のなめらかな机に、ほうろう引きの大きな白いやかん。
 青い花柄の厚手のコーヒーカップ。
 窓辺の花ごしに見える、しずかな駅の光景。
 いくらもしないうち、学校を終えた子供たちがやってきて、
 彼女に遊んでもらおうと
 扉のかげからようすをうかがっている。

           *           *

 うす暗い窓辺の小卓の、一群れの空き瓶、うす青いのや透明のや。
 籠に残ったゆで卵、その他、昼食後のちょっとした品々。
 腕から腕にわたされる裸の赤ん坊。
 ささやかな刺しゅうをほどこした布のカーテン。
 寝台に腹ばいになって本を読む、青い服の少女、その組んだやせた足。
 何となしに通路に出てきて、後ろにもたれ、窓の外をながめながら、
 かったるそうに時々ことばを交わす人たち。

           *           *

 朝早く、深くたちこめる霧の中を、列車はアンボワーズに到着する。
 大きなスーツケースの取っ手を片方ずつ持って、
 プラットフォームを歩いてゆく双子の老婦人。
 葉の落ちたポプラのこずえ、おだやかな虚空を背景に。
 黄色いガラスのはまった街灯、鋳鉄細工のアラベスク。
 古城の苔むした石壁、竜のかたちのグルゴイユ。
 列車は霧ふかい田園地帯のかなたへ。
 窓の手すりにもたれる後ろ姿。

           *           *

 愛する友よ、ぼくが死んだら
 墓に柳の木を植えてくれ。
 しだれ柳に涙のしずくのたまったのが好きなんだ。
 やわらかなそのうす緑の葉の色、
 その葉影がかろやかにぼくを包んでくれるだろう、
 ぼくが眠る土の中で。

 ミュッセの墓の傍らで、今日も風になびくしだれ柳。

           *            *

 機関車の黒い鼻づらごしに、プラットフォームを行き交う人々。
 背中に波うつ亜麻色の髪。ロマンスグレーに黒のコート。
 しずかに降り注ぐ恵みの雨。
 灰色にたゆとう河のおもて、両岸の木立、柳にポプラ。
 木立の彼方なるシノン城。
 線路ぞいの木々のこずえ、車窓を飾るこのこずえ。
 深草に覆われた大地、崩れかけた石塀、
 その壁に時を刻まれた、典雅なる館のかずかず。

           *           *

 朝日がまぶしく射しこむ入り口のドアの前で、壁にもたれて煙草をふかす、やせぎすの兵士。
 外を眺めている肉づきのよい女。
 白地に青い花を散らした薄手のワンピースを、白い光が包みこむ。

 うっすらとオレンジ色の朝焼けのもやの中で、細いこずえが葉をふるわす。

 傾きかけた陽に包まれた野の、なだらかな草地とみどりの木立、
 そちこちに積み藁のちらばった。

 うす暗い窓辺の、赤い服の少年、淡い金色の髪。
 大きな目を見開いて、じっとたたずんでいる。

           *           *

 雨だれのゆれる窓ごしに見える青い風景、暗い車内の天井に据えられた、やわらかい色の豆ランプ。
 ひっそりとしずまりかえった農村の家々、ぬかるみの道を傘さしてゆく人びと。

 明け方の村々。山肌に点在するつつましい家の煙突から、朝もやにまじって白い煙が流れ出る。

 まだ青い果実のような空のいろ。

 東の空のはしを染めた薄桃色が、ゆるやかに流れる河のおもてに映じる。
 朝まだき、列車は鉄橋を走りすぎる。
 両岸にねむる大地はなお夜の色。

          *            *

 朝の陽射しをあびた新聞。
 あかつきの暗い大地と、むらさきがかったうす青色の空。
 汽車は鉄橋を越える。

 うす青いもやの中にきらめく街の灯り。
 ウラジオストクの凍てつく朝、駅前の露店の熱いピロシキ。

          *             *

 真夜中を少し過ぎたころ、モスクワ行きの列車は出発する。
 荷物をひっぱって扉の前に並ぶ人々、
 見送りにきた友だちに別れを告げる人々。
 通路の混雑、車室の窓が開かれ、寝台の下に荷物が押しこまれる。
 よそいきを着せられて、自分のかばんをしっかり抱えこむ女の子、
 不安げな目を見開いて窓枠に手をかける、
 淡い金髪とひらひらのリボンが、車室のぼんやりした灯りに透けて見える。
 にこやかな大柄の婦人、
 腕を組んで外の闇を見つめる男、
 棚の上で落ちつきはらって食事中の、とび色のペルシャ猫。
 列車が動きだして、見送りの人々も歩きだす、
 手をふりながら、どこまでもどこまでも、窓と並んで歩いてゆく。
 やがてその姿も見えなくなって、かすかな街灯の光に照らされながら、
 列車は闇の中へすべり出してゆく。
 モスクワまで、九千三百キロの旅が始まる。

           *           *

 夜明け前。まっくらな大地の影をうかびあがらせるすみれ色の空。
 湿地帯の霧にかすんで。

 空が白む。大地が緑色に染まりはじめる。

 窓辺の新聞、黒パンのうす切りに缶詰のシチュー。
 思い思いにのんびりすごす朝のひととき。

          *           *

 人ごみに身をまかせて街を漂流しながら、ふとどこかのジャズ演奏を耳にして、
 そこはかとない懐かしさが・・・過ぎ去った時代のおもかげが・・・私の底によみがえる。
 通りを走り去るT型フォード、ショートヘアにクローシュ・ハット。
 きらめくひとみ、真ん中で分けたてかてかの髪、フィッツジェラルドみたいな人生。
 熱狂と狂乱と無意味なばか騒ぎのうちに幕を閉じたあの時代、
 今はもうモノクロ写真でしか見ることのない--

 八月も末のしずかな夕べ、
 人気の絶えたセントラル・パークの一角で、練習に打ち込むブラスバンド。
 うすもやの中できらめく管楽器のきらめき。
 金色の夕陽射す木々の間をぬけて、ゆっくりと街のなかへ流れだしてゆくガーシュウィンの、<サマータイム>のけだるい調べ。
 それは地下鉄のざわめきにまじり、ハーレムの喧噪をぬって、いつしか街全体に広がってゆく・・・
 人ごみ、警笛、人目を引くサイン。
 ブルックリンの高架線。
 摩天楼から見渡す風景、黄色いもやに包まれたビルの群れ・・・
 ・・・いま、静かに夏が終わる。

           *           *

 夜明けのハイウェイ。雑音まじりのカーラジオの、低いつぶやき。
 一列に並ぶ、光の消えた街灯の上をこえて、
 水の上をとぶ鳩の群れ。

           *           *

 ニューヨークのうすむらさき色の夜明け。
 朝六時の始発で発つ。
 人もまばらなプラットフォーム、わずかに新聞を広げた背広姿の男たち。
 何かと引き離されてゆくように、窓ごしに流れすぎる駅の光景。
 さしこむ朝日が細かいほこりを浮かびあがらせ、
 寝不足の腫れぼったいまぶたを包む。
 しらじらと光を浴びはじめたビルの間を、列車は速度を増して進んでゆく。

           *           *

 両腕を高くかかげて朝日を浴びているみどりのこずえ。
 朝の散歩道。
 細かいガラスのかけらをぶちまけたような、もえたつみどりのきらめき。

 ベネツィアの霧。うかびあがる家並。石段を洗う灰緑色の水。
 大橋、小橋、はしけ舟。

 舞踏会のごたごたからぬけ出して、ふと見上げると、
 びろうどの空に冷たくきらめいて光っていた小さな月。

           *           *

 木もれ陽の散歩道、さざめきうち光るこずえ。
 道端のカフェの白テーブル。
 小さな氷をたくさんうかべたグラスのカフェオレ。
 周りの顔ぶれが何回転かしてから立ち去るとき、
 背中に流れるその髪が、傾きかけた日の光に赤っぽく照り輝く。

           *           *

 やまぶき色のカーテンを通して射しこむ光に染められた室内。
 小さなビューロー、
 白壁にかけられた細長い鏡、
 なめらかな木肌のチェストに、白磁の水差しと洗面器。

           *           *

 古城を映じたおだやかな水の岸べ、
 ふと腰をかがめる薄紅色の衣の乙女。
 はちみつ色のやわらかな髪が肩にかかり、手には昼顔の日傘。
 うすもやが日の光をやわらげて<沈鐘>のヒロインを包む。

           *           *

 丘の上から見る海は、一枚の青いコーデュロイのようだ。
 少し色あせて、端の方、ひだになったところは白っぽく見える・・・

 宿に戻って階段を昇り、部屋のドアを開けると、
 ちょうど窓からさしこんだ月の光が、床の上にあかるい四角形をつくっている。
 私のうちに、<月光>の調べがしずかに流れだす。

           *           *

 路上のレンブラント。

 灰色の城館を映している灰色の水面。
 真っ赤なくちばしの黒鳥たち。

 ショーウィンドーの表面で、ディスプレイと通りの風景がまじりあう。

           *           *

 ゆるやかに波うつ栗色の髪を後ろで結び、
 座席にのびあがって流れ去る風景を眺めている少女の横顔。
 ヴェールつきの帽子をかぶり、レースのハンカチを手にした眼鏡の老婦人。
 山高帽を引き下ろしてうたたねする紳士のとなりで、
 おしゃべりに花を咲かせる着飾った娘たち。

 窓の外のまぶしさ。
 プラットフォームに満ちるさわめき、あざやかな色のワンピース、
 行き交う麦わら帽とガラガラひっぱられてゆくスーツケース。
 鋭い笛の音。
 ・・・ガタンゴトン・・・ゴトン・・・ガタンゴトン・・・
 窓の風景が再び流れはじめる。
 車内に満ちる、夏の午後のまどろんだ空気。
 逆光のしずかな横顔。
 ・・・ガタンゴトン・・・ガタンゴトン・・・

           *           *

 フライパンの端にちょっぴり残した、こげたホットケーキ。
 綱に干した色とりどりの洗濯物。
 庭先のどっしりした古いカフェテーブル。
 窓に小石を並べてある低い小屋。

 ばらにうずもれた小さな庭。
 手づくりのガレージにペンキを塗る。
 水の流れ。とびちるしぶき。子供たちの笑い声。

           *           *

 金色に波打つ小麦畑。
 石ころとヒースの荒野、どこまでも続く低い石垣。

 牧草地帯。生け垣に区切られたつぎはぎ細工の田園風景。
 糸杉の木立。

 ・・・ガタンゴトン・・・ガタンゴトン・・・ガタンゴトン・・・
 浅い眠りからの目覚め。
 かたい座席の上で身を起こす。首すじと背中の痛み。
 窓にかけられたほこりっぽいカーテンを開ける。ひんやりと冷たい空気。
 夜明け前、すべてが眠っている灰色の時間。

 朝陽のさしこむ朝の食卓。
 ホットケーキにママレードジャムとひとかけのバター、熱いコーヒー。
 果てしなく後方へ流れ去る田園風景。

 天をおおって地にふり注ぐ豪雨。
 髪をふりみだしてすすり泣いている小麦畑。

 はてしない水の広がり。

           *            *

 次の駅で向かいに座った老人は、
 私に向かってちょっと微笑みかけると、ナポレオン印の缶ビールを窓にのせ、 ポケットからしわくちゃのリンゴを取り出して、ナイフで皮をむきはじめる。 窓の外をみどりの大地が流れてゆく。
 丘の上の木立。
 農家の破風を背に、枝を広げるにれの木のこずえ。
 草原をつっきってゆく小道。
 夕方になると、雲に隠れていた太陽が顔を出し、
 大地をオレンジ色に染める。

           *            *

 発車間近の汽車の窓からのばされた手が、フォームからさしのべた手を包み・・・

 午後からふり出した雨は、夕方になって霧に変わる。
 野は濃厚なみどりの香りに満ち、遠景はしだいに深みをましてゆく青色に包まれる。
 ぬれたアスファルト。雨傘の下で口づけを交わす恋人たち。

 (1993)