2010年02月13日

スピダルの赤い花

愛蘭土物語(あいるらんどものがたり) ゴロウェイ篇2
スピダルの赤い花 The Bloody Blossom of Spiddal
コネマラの海辺の村の物語
2006 by 中島 迂生 Ussay Nakajima



 暗やみにひびく叫び、
 行かないでくださいな、ああ、ああ!・・・
 ご無事ではすみますまい、必ずや災いに。・・・

       ***

 はじめてスピダルを訪れたのは、夕方だった。
 村の外れからは、コノハトの荒野が広がっていた。
 
 ・・・黄色い薄明、ごつごつした岩場に、山羊がさまよっていた。
 ヒースの花が、今を盛りと咲き誇っていた。・・・
 濃く甘く、ブランブルの実が熟れていた。・・・ 
 海岸に戻ると、雨にかすんでほとんど無色に近い 淡いブルーグレイの海、二重の虹が出ていた。・・・

 スピダルは、ゴロウェイの町から西へ四里ばかり。
 橋を渡り、鮭の遡る流れの速い河口を越えて、淡い青銅色の丸屋根に石壁、五枚の花びらのかたちをした大窓の美しいセント・ニコラス聖堂をすぎ、<塩の丘>に立ち並ぶしずかな家並みを抜けてゆく・・・

 スピダルは小さな村で、ゴロウェイ湾に注ぐ小さな川の河口に位置する。
 河口のところから始まって、内陸に向かって荒野が開けるところで終わっている。

 広いゴロウェイ湾をはさんで、浜辺からは遠くバレンの山々をのぞむ。
 この辺までくるとけっこう波が寄せている、外海が近いのだ・・・

 かなたの山々は、空の移り変わりにつれてさまざまに表情を変える。
 その岩肌は西日をあびて独特のオレンジに、あるいはこの世ならぬ黄色に浮かびあがる。
 夕闇に沈むころには立体感を失ってただ青い影となる。
 さあっと雨がやってくると、幻のようにたちまち白くかき消えてしまう。・・・

 ゆらめく面影、たしかなものは何もない。
 この土地は神話の世界と境なくつながっている・・・


 そのころ急にあちこちに目につきだした、赤い花を咲かせた茂み。
 フクシアの花の咲く季節だった。・・・
 おもに、生垣や家まわりの植えこみとされているようだ。
 その花を私はこの土地ではじめて見たのだった。・・・ 

 ぽたぽた全身から真紅の血を流すその花むら。
 赤いしずく型のつぼみがふくらんでぱちんと割れると、飛び散った花びらの間からさらに血のすじが糸を引いて垂れる、無数の小さい十字架のように。・・・
 滴り落ちた血は、降り積もった花びらの湖となってその下にたまる。・・・

 だれがこんなふうに嘆き苦しんで、血の涙を流したのだろう。
 胸の引き裂かれるような、どんな悲痛な出来事があったのだろう。・・・

 夕闇に沈むころ、その茂みのなかに幻を見る、
 黒髪と黒い瞳をもった女の顔、悲しみのために青白く透き通って。・・・
 
 遠い昔この地で起こったできごと、
 彩色されたレリーフのように 古風でエレガントな、これがその物語。・・・

         *

 むかし、この近くに館をかまえて住んでいた、若い領主とその妻があった。
 領主は気高く、美しく、武術と馬術にすぐれていて、たくさんのりっぱな馬を持っていた。
 妻もみめうるわしく、しとやかで、夫のことを深く愛していた。
 領主はその名をランドヴァルドといい、妻はアガーテといった。

 あるとき、この国を治めていた王が領主たちを集めて、武術と馬術を競う祭りを開いた。
 貴族たちはみな馬を愛し、自分の矜持としていたから、それぞれがいちばん自慢の馬を携えてきていた。
 ランドヴァルドもぴかぴかに磨いた甲冑を身につけ、自分のもっている馬のなかからいちばん気に入りの駿馬を選び出して乗っていった。
 力強い、白い馬で、名前をイムノンといった。
 ランドヴァルドはそこで、武術をきそうコンテストで優勝し、馬のレースでも優勝した。

 ところで、王の名はモルガンといい、負けず劣らずりっぱな黒い馬、ランバという馬をもって、自慢にしていた。
 王ははじめレースに参加しないで、領主たちを競わせて楽しんでみていたのだが、ランドヴァルドが優勝したのを見ると、彼にこうもちかけた。
 彼のイムノンと、王のランバとでレースをしようではないか。
 王が負けたらランバを進呈しよう。
 だが、ランドヴァルドが負けたら彼のイムノンをもらおう。
 そういうことでどうだ、と。

 賢明で思慮深い騎士だったらその申し出を辞退したことだろう。
 しかし、ランドヴァルドは血気にはやる若い騎士で、自分の技量については絶対の自信をもっていた。
 彼は自分の力を試してみたいという誘惑に打ち勝つことができなかった。
 彼はその申し出を受けた。
 皆が興奮して大騒ぎをするなかで、彼と王とが馬で競って、半身ほど引き離して、ランドヴァルドの方が勝った。

 すると王は、すっかり感嘆したようすで言うのであった。
 何とすぐれた馬に、何とすぐれた馬乗りではないか。
 地上のどこを探しても、これほどのひと組はいない。
 そなたたちのことを、朕は誇りに思おうぞ。

 ・・・よろしい、たしかにランバは進呈しよう。
 ただ、ご覧のとおり、こんなに汗だくになって、疲れている。
 こんなありさまでお渡しするのは忍びない。
 全身ブラシをかけ、よく梳いて、りっぱなようすにしてからにしたい。
 宝石をちりばめた金の馬具もつけて進ぜよう。
 そうだ、そなたのためにさかんな宴を開こう。
 歌い手や踊り手も呼んで、楽しく過ごそうではないか。
 ・・・ただ、その前にひとつ、ぜひとも頼みたいことがある。

 そう言って王はつづけた。
 ・・・そなたもご存じのとおり、イスファンの森にいる盗賊ナバルには、わが国の誰もが手を焼いている。
 村は荒らす、金品は奪う、人は殺すか、奴隷にして売り飛ばしてしまう。
 やりたい放題だが、やつに手向かえる者が誰もおらんのだ。
 実は私は遠からず自ら出向いてやつを討ち取らねばと思っていた。
 それでも間違いなく仕留められるか、心もとなかったのだ。

 ところが今、見よ、そなたが武術で一等をとったばかりか、王さえ打ち負かしてしまった。
 それで、私にははっきり分かった、もしやつを倒せる者がいるとすれば、そなたをおいてほかにない、ということが。
 そなたとそなたのイムノンならば、恐れるものは何もないだろう。・・・

 ついては、どうか、イスファンの森に出かけ、ナバルの首を討ち取ってきてもらえないだろうか。
 その首をもって、コノハト一の勇者たるしるしとしようぞ。
 そうしたら、私のランバなどもとより、わが国の領土の半分までも進呈しよう。
 この通りお願い申す、どうか引き受け願えないか。・・・
 
 それを聞いて、ランドヴァルドは心のなかで恐れた。
 しかし、すべての領主たちがその言葉を聞いていた。
 そこでランドヴァルドは答えた・・・よろしい、たしかにやつを討ち落としてまいりましょう。
 それから王と領主たちとはそれぞれの館へと帰っていった。

            *

 ランドヴァルドが自分の館に戻って、妻アガーテに事の次第を話すと、彼女はひどく恐れて、そのことをやめさせようとした。
 ・・・ナバルの一味に面と向かった者はおりません。
 平地でならともかく、森の中で戦って、彼らに勝てる者はありません。
 森の木の一本一本を、彼らは熟知しています。
 あらゆるやぶや、窪みや、岩陰から矢を放って、彼らはあなたを殺すでしょう。
 
 ・・・加えて、王モルガンの腹黒さと狡猾さはみな人の知るところです。
 ほんとうのところは何をもくろんでいるのか、どんなことがあなたの身に起こるか、見当もつきません。
 どうあっても、ご無事にはすみますまい・・・どうぞ今からでも、気が変わったと、王にお伝えくださいまし。・・・

 そういったことは、実はランドヴァルド自身もひそかに感じていたのだった。
 しかし、こうして今、妻の口から言われてみると、急に自尊心を傷つけられたように感じ、ただ反発する気持ちばかりが募って、是が非でもという気になってしまった。
 
 お前は私に恥をかかせるつもりか、ランドヴァルドは腹を立てて言った。
 男たるもの、一度口にしたことをひっこめるようなことなどできるものか。
 たしかに私は国いちばんの勇者だ、何を恐れることがあろう、盗賊ナバルの首をもきっと討ち取ってみせようぞ・・・
 そうだ、たとい王に命ぜられなかったとしても、当然、それくらいのことは果たしてしかるべきなのだ。
 でなくては何のための武勇の名だろうか?・・・

 ところが、じっさいのところモルガンはひどく狡猾で腹黒く、残忍だった。
 自分自身馬術にすぐれていたので、当然レースに勝って、ランドヴァルドの馬イムノンを手に入れるつもりでいたのだった。
 それが失敗したうえ、すべての領主たちの前で恥をかかされるはめになったのだから、王の彼を憎んだことはひととおりでなかった。
 その日のうちに、イスファンの森へ密使が送られた。

 月のない晩、真夜中のことだった。
 盗賊の頭ナバルは、ねじろの扉がふいにギイと重い音をたてたのを聞いて、さっと頭をめぐらし、鋭く血走った目を向けた。

「何者だ」
「お前が盗賊の頭か」
 
 暗い蝋燭の光の輪のはしに、使者の姿がおぼろに浮かびあがった。
 使者は全身黒づくめのマントをまとって、たいへん背が高く、頭まですっぽり頭巾で覆って、その顔かたちもはっきりとしなかった。
 そうして彼はしずかだが腹の底までひびくような凄みのある声で話した。
 
 ・・・私はさる高貴なお方から遣わされてお前にひとつの仕事を託しにきた。
 これこれの日の朝、この森をひとりの騎士が通る。
 この男は私の主人である高貴なお方の敵である。
 勇敢で力の強い、美しい男で、白い馬に乗っている。
 お前たちは注意深く待ち伏せて、まちがいなくこの男を打ち殺し、その亡骸を野に捨ててくるのだ。
 しかし、彼の乗っている馬の方は必ず生きたまま捕らえて、かすり傷ひとつつけずに私の主人のもとへ持ってこなければならない。・・・

 しずかな低い声で、使者はそのやり方をこまかく指示した。
 盗賊の頭はだまって耳を傾けていた。
 さいごに使者は言った。

 ・・・私の主人は高潔で、寛大なお方だ。
 お前たちの如き卑しい者たちの働きに対しても、決して報いを忘れたりなさらない。・・・

 そう言って使者はふところから革の袋を取り出した。
 彼がその口を開けると、中から重たい金の延べがねがごろりと重なりあって、いくつも転がり出た。
 蝋燭の鈍い光のもとでも、その輝きは見まがいようもなかった。

 盗賊の頭は目を見張った。
 言い知れぬ空恐ろしさが彼を襲いはじめた。

 ・・・どうぞ、おっしゃってください。
 いったいどこのどなたがあなたをお遣わしになったのですか。・・・
 ・・・お前自身の命のために・・・と、黒衣の使者は言った。・・・その問いは腹の中に収めておくがよい。・・・

 出てゆきがけに、使者はまた言った。・・・お前の仕事のよしあしに、そのお方の名誉がかかっている。
 首尾よく成しえなかったあかつきには・・・知っておきなさい、こんどはお前自身が、かの騎士と同じさだめを辿ることになるだろう。・・・
 そう言いおいて、黒衣の使者は去っていった。物音ひとつたてず、おもての暗い霧にまぎれて。・・・

         *

 ランドヴァルドがイスファンの森へ赴く日となった。
 その日の朝に至ってまで、アガーテは夫の腕にすがって懇願した。
 あなたの身にもしものことがあったら、私はどうして生きておれましょう。
 どうかこのしもべの身の上も、少しは考えてくださいますように。・・・

 引き留められればられるほど、ランドヴァルドは依怙地になった。
 ついに彼は声を荒らげて言った、お前は女だから、ものごとの価値が分からないのだ。
 つまらぬことで、よけいな心配をするのだ。
 見ていなさい、私は必ずや成功を収めてナバルの首を討ち取り、王のランバもともに携えて帰ってくるだろう。
 その暁には、お前はこの地でもっとも誉れ高い女となるのだ。
 そう言って、彼はからからと笑った。
 そうしてその馬イムノンにまたがり、ついに館を発った。

 フクシアの花の咲く季節だった。
 ところで、そのころ、フクシアの花は赤い色をしていなかった。
 谷間の百合と同じほど白かったのだ。
 その一面に咲いたようすは、ちょうどジャスミンか、それともスイカズラのようだった。
 その花むらが大地を彩るようすは、季節はずれに春が巡ってきたようだった。

 そのころにも今と同じく、この地にはフクシアの木がたくさんあった。
 館の門の両側にも生えていて、そのこずえに咲きこぼれた花むらが、勇者ランドヴァルドの出立を見送った。

         *

 ランドヴァルドは内地に向かって広い荒野を突っ切り、やがて昼なお暗い深い森がゆく手に広がるのをみとめた。
 単身乗りこんでほどなく、石矢がひとつ、彼の肩をかすめて背後の幹に突き刺さった。
 つづいてもうひとつ。
 ついであらゆる方向から、いちどきに雨あられと降りかかってきた。
 彼はそこではじめて罠にかかったことを知ったのだ。

 彼は雄々しく立ち向かい、剣のひと振りごとに十人も斬り倒したが、しょせんは多勢に無勢である、ついに力尽きて賊どもの刃に倒れた。
 そのなきがらは野へ引きずり出されて打ち捨てられ、ただその馬イムノンだけが、捕らえられて無傷のままに王のもとへ届けられた。
 白馬は王の愛馬であるランバの入っていた厩のとなりに入れられた。

 翌朝、ついにわがものとした駿馬イムノンのようすを見ようと、王は早々に自ら厩へ出向いた。
 白い、つめたい曇り空、吐く息もうっすらと白く、ものみなすべてがじっと黙りこんで動かない、冷えこんだ朝方である・・・
 その姿は王を満足させなかった。
 イムノンは荒らぎだって神経を高ぶらせ、目をむいて、そのひずめは火花を散らした。
 たてがみはぼろのように乱れて垂れ下がり、全身が泥や葉くずや、茨のやぶを通り抜けるときについたひっかき傷だらけだった。

 王は不機嫌になって言った・・・
 私が命じたように、毛並みを梳き、よく手入れしてやり、宝石のついた馬具をつけさせておかなかったのか。
 ・・・できなかったのです、馬番頭が、申し訳なさそうに頭を垂れた。
 ・・・この馬は昨日から、だれをもそばに寄せつけません。
 すでに従者がふたり、腰を蹴られて重傷を負いました。
 そのほかに、三人が噛みつかれ、五人が怪我をしました。・・・

 それを聞いて、王の目に奇妙な輝きが宿った。
 王は、自分も気が短く、自由で、誇り高かったので、同じく自由で誇り高く、意のままにならないものを好んだのだ。
 
 ・・・この私が自ら御してみせよう。
 従者たちが止めるのもきかず、王は馬に近づいた。
 すると馬はぴったりと耳を伏せ、緊張してじっと動かなくなった・・・そしておとなしく端綱をつけさせたのだ。
 
 彼らは驚いて、囁き交わした。
 見よ、馬でさえ王に服するのだ。・・・
 王は気をよくして、心をゆるめた。
 端綱をつけたなり、そのまま馬のうしろへまわった。
 
 そのとき、突如馬が後脚で力いっぱい蹴り上げたので、王はその場にどうと倒れ、頭を打ち割られて死んだ。
 そのまま、イムノンはひらりと敷居を飛びこえ、中庭を突き抜け、見張りの兵士どもを蹴倒して、城門の外へと駆け去っていった。・・・

          *

 イムノンはそれから、森の中を駆けどおしに駆け、野をさまよい、ついに打ち捨てられた主人のなきがらを見出した。
 そうしてそこで一昼夜、その傍らに立ちつづけた。・・・

 午後になって雲むらがわきおこり、遠くから雷鳴が轟きはじめた。
 稲光が走り、薄紫の閃光が空を切り裂いて荒野を照らし出した。
 やがてたたきつけるように、大つぶの雨が降り出した。
 馬は首を垂れて立ちつづけた。
 たてがみがぐっしょりぬれて重たくなると、時折頭をふるってしずくをはね散らかした。

 夜になると野の獣どもが遠吠えした。
 ぞっとするような呼び声が荒野にひびきわたった。
 馬は炎のように殺気立った眼をして、近づく獣たちを追い散らし、だれも主人のそばへ寄せつけようとしなかった。
 そしてとうとう明け方になって、ランドヴァルドの兵士たちが犬を伴ってやってきて、彼らを見つけたのである。・・・

          *

 ランドヴァルドの妻アガーテは、彼らが出かけて行ってからずっと不安にさいなまれ、まんじりともせずにいたのだった。
 一夜明けて、ついに変わり果てたその亡骸が館に運びこまれたとき、彼女はふり返って、自分の恐れが現実となったことを知った。
 彼女は叫び声をあげると、その上に身を投げかけ、自らも短剣を胸に突き立てて死んだ。
 そこで夫婦は一緒に葬られた。・・・

 フクシアの花の咲く季節だった。
 そして、このとき以来、それは赤い花を咲かすようになったのだ。
 アガーテが自ら胸を突いて血を流したとき、すべての花がその悲しみのためにその色に染まったので。・・・

 それから長いときが過ぎて、王と領主たちの時代がかなたへ流れ去ってゆき、やがてかの女王とクロムウェルの過酷な支配のときに至って、イスファンの森はほとんどことごとく切り払われて、姿を消してしまった。
 大地の様相がかくも変わってなお、フクシアの花はめぐりくる季節ごとに赤く咲いて、スピダルの秋を、アイルランドの秋を彩りつづけたのだ・・・
 若き領主の妻の、身を切るばかり激しい苦悩と悲しみとをいまに伝えて。・・・

          *

 淑女アガーテ、スピダルの赤い花。・・・
 その頃の領主たちの暮らしがどんなふうであったか、その衣服や調度のどんなふうであったか、私は何もはっきりと知らない、ただ目を閉じて浮かびくるおぼろな幻影、・・・赤やだいだいやの色あざやかな織物や、暗がりのなかにちらちらと光るにぶい銀色の甲冑や、趣向を凝らした馬具の飾りや・・・その浮かびくるままに心をゆかせ、さまざまに想像してみるのみだ・・・

 そのころ、王から貧しい農夫に至るまで、この国の男たちの情熱は馬であった。
 それは今でも変わらない・・・この地の今の特産はコネマラ・ポニーで、毎年夏になるとあちこちでレースや品評会が行われる。

「馬は、ひと目で相手の人となりを見抜くんだ」
 ゴロウェイで会ったひとりの男が、こんなふうに言うのを聞いたことがある。
「馬の賢いことといったら、そこらのぼんくらなんざ、目じゃねえくれえだ。
 馬の方が、その持ち主より出来がいいってことが、しょっちゅうあるよ」

 この男は、色んな薬草の調合の仕方や呪文を知っていて、それでもって馬のけがや病気を治すのだった。
 アイルランドには魔法に通じた者が多いようだ。
 ずっと昔、妖精から授けられたという秘術を、男の家系も代々忠実に守り伝えてきたのだった。

 私はまた想像してみる、駿馬イムノン、その堂々たる雄姿、純白の毛並み、長く波打ったたてがみ、ぴかぴかに磨きあげられた馬具、祭りの日の晴れ姿を。・・・
 その大きくて考えぶかい目、血気にはやる若い主人が自ら招いた非業の死に際しても、さいごまで主人に忠実だった。・・・

 私はまた想像する、白いフクシアの花むら、こまやかな、可憐な花弁が館のぐるりをふちどったようす、祭典めいた、そのひそやかな華やぎ、ささやき声でなにかの旋律を口ずさむかのような。・・・
 あるいはまた、その出立の日、冷たい甲冑の上に投げかけられた、透きとおるばかり白い両腕、緋と金で織りなされた長い衣の、広がった袖口、さらさらと衣ずれの音たてる。・・・

夫の帰りをひとり待つアガーテ、館のなかは凪のように静まり返り、塵ひとつ動かない・・・
 大いなる暗闇が迫りつつあるのに、呪いによるかのようにひとつところに縛りつけられて、ただ恐慌のうちに目を見開いて見つづけていることしかできない苦しみ。・・・

 窓際に座って半ば背をもたせかけ、身をねじって外を眺めやっている女主人のその後ろ姿を下僕は見た、薄暗い室内、石壁の細長い高い窓、曇り空の逆光のなかにぼんやりと浮かびあがったそのライン、その後ろ姿に滲んだあまりの痛々しさに彼は心を突き刺されるように感じ、我知らず呼びかける、
「奥方・・・」
 妃はふり返って下僕の方に顔を向けたが、その眼は彼を見てはいなかった。・・・

 暗闇にひびく叫び、・・・行かないでくださいな、ああ、ああ!・・・
 ご無事ではすみますまい、必ずや災いに。・・・
 苦悩、煩悶、蒼ざめたおもて、ふり乱せる髪・・・
 それがあの日、夕暮れのなかで血を滴らせたフクシアの茂みのあいだに私が見た幻の姿だったのだ。・・・

















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Posted by 中島迂生 at 02:03Comments(0)スピダルの赤い花