2012年12月30日

16 Lives ~アイルランドからの贈り物~

 

知り合いの娘さんの旦那さんがアイルランド人で、1916年のイースター蜂起で処刑されたジョゼフ・プランケット一族の末裔だそうです。
さいきん、そのお母様が本を出されたということで、私のところに一冊いただきました。

<16の命>、16はイースター蜂起で処刑された人数。
ぶ厚いので全部読んでいませんが、ところどころ、ジョゼフの弟がダブリンからアランまで自転車旅行した下りや(あ、そこ私も通った! とか)、兄弟そろってアーティスト肌で、小さい時から劇を演じたりしていたこと(裏表紙写真)、アイリッシュ・シアター設立のくだりなどは興味深いです。(そもそも、私が劇団をつくったのはイェイツの足跡に倣ってのことですからね。)

以下、ちょっとだけ訳してみました。
(なぜいきなり11章からかっていうと、適当にぱっと開いたらそこだったから。)
ざっとした訳ですが雰囲気は伝わると思う。モノクロフィルムのドキュメンタリーを見るようなつもりでどうぞ。

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16 lives -Joseph Plunkett- by Honor O Brolchain, O'Brien
第11章(途中まで)

<あらすじ>
時は第一次大戦前夜。長年英国の圧政に苦しんできたアイルランドは、混乱に乗じて英国からの独立を果たそうと機を伺っている。中心人物のひとりであるプランケットは、身体の不調をおして<アイリッシュ・レビュー>の刊行をつづけ、義勇軍の働きを鼓舞しようとがんばる。

1914年7-12月
言葉、行動、そして戦争

プランケットは田舎の新鮮な空気に触れる必要を感じていた、しかしダブリンを離れたくはなかった。義勇軍の会合に参加しなくてはと思っていたからだ。そこで彼とゲリーは母親に、キマッジのラークフィールドにある別荘のひとつに滞在する許可を求めた。そこは当時まだ充分田舎だったからで、彼らはひと月かふた月を希望し、母親は承諾した。

家政婦のマリーとともに彼らは空いていたコテッジに移り住んだ。ゲリーによれば、快適とは言い難いし、庭もないということだった。しかし母親は、コテッジのすべてにバスルームをあつらえていた。低賃金労働者向けの住まいとしては、たいへん珍しい贅沢品だった。

さいしょゲリーはアールズフォートにあった大学に研究のため毎日通っていたが、ジョーは会合に出るほかはだいたいひきこもっていた。
そこに滞在したあいだに出血をおこして、ひどく具合が悪かった。そこで夜のあいだもいてくれる看護婦が必要となり、動けるようになるまでずっとそこにいなければならなかった。銃がホースへ運ばれたときも、彼は相変わらず缶詰になっていた。

アイルランド義勇軍の数は10万から15万くらいということになっていたが、金は足りなかったし、武器はさらに足りなかった。それは国軍という名目だったから、ゲリーはジョーに、武器のことはどうするのかと聞いたが、彼はただくすくす笑って、何とかなるだろうと答えた。

7月26日日曜、ホースへの武器輸送の日、彼らはラークフィールドにいた。ジョーは熱に浮かれて、一日中知らせを待っていた。ようやくテオ・マクウィーニーが、ダブリンから駆けどおしに駆けてキマッジへやってきた。
彼はオコンネル・ストリートで、バチェラーズ・ウォークで発砲された銃撃を聞いた。また、オコンネル・ブリッジで泣き叫ぶ女の声を聞き、死亡者も見た。彼は人々が、義勇軍が銃撃を受け、ライフルが英国軍によって差し押さえられたと言っているのを聞いた。
ジョーはひどく落胆しまた動転したが、あまりに具合が悪くて自分の目で見に行くこともできなかった。

数時間後、マクドナーが正確な数字を携えて到着した。
アスガードは900丁のライフルと29,000の弾薬を積んでホースに入港した。これはアリス・ストップフォード・グリーン、ロジャー・ケースメント、アースキン・チルダース、メアリ・スプリング・ライスおよびバークレイ船長の記録による。ダレル・フォジスがアントワープで銃を買い、アースキンとモリー・チルダースがそれらをホースへ運んだ。そこでほとんどをIRB、義勇軍、フィアナのメンバーが半時間のうちに隊列を組んで運び去った。残りの弾薬なしの銃は義勇軍が携えてダブリンへ凱旋した。

英国政府にしたら、4月のアルスター義勇軍ラーンのときの武器搬送、あるいはカーソンのケイサーとの「ランチ」のときにさんざんへまをやっていたから、今回義勇軍の逮捕と武器の差し押さえをやりそこなうわけにいかなかった。しかしながら警視総監補佐のハレルは、上からの指示なしに、軍と警察に彼らをとめるよう命じた。警察は動くことを拒否し、英国軍からの挑発と攻撃ののちに、マクドナーがハレルと交渉しているあいだに、ライフルをもった義勇軍は後ろの方からこっそり滑り出ていった。

王立スコットランド国境軍の兵士たちはことの全てに腹を立てて、町へ戻ってきた。ニュースはまたたくまに広まった。ホースを去ってから、義勇軍は道々歓呼の声をあげ、群衆は彼らに従ってきた。
英国軍が義勇軍を攻撃し殺害したという噂が広まり、群集は彼らに罵声を浴びせ、石やバナナの皮を投げた。バチェラーズ・ウォークではスコットランド国境軍が警告なしに民衆を攻撃し、ジェームズ・ブレナン、パトリック・クイン、デュフィ夫人が犠牲となったほか、30人以上が負傷した。これらのいずれにも義勇軍はかかわっていなかった。

翌日、マクドナーとプランケットは義勇軍の運転するタクシーでライフルを町中の隠し場所から回収しに行った。彼らはしばしばGメン(ダブリン都市警察のG分隊の捜査官)やスパイにつけられ、ライフルを積んでラークフィールドへ向かうある地点で尾行を振りきれず、再びフィッツウィリアム・ストリートにあるプランケットの家に一晩保管せざるをえなくなった。武器はその翌日また運び去られたが、フィッツウィリアム・ストリートの住人たちにとってその騒ぎは寝耳に水だったに違いない。

マクドナーからジョゼフ・プランケットあて
1914年7月28日、オークリー通り29
今朝は会えなくてすまなかった。ひたすら眠りに眠っていた。明日は会えると思う。
うちの連中のほとんど、私のきく限りではひとりを除いて全員が、死守していたライフルをやってきた車に積み込んで手放してしまったという。君がまだいくらか持っているなら、うちの連中こそそれにふさわしいと断言できる。ホルムズやほかの人間も満足させられるだろう・・・
幸運を。明日5時の葬式には来るね?
5時、べドフォード・プレイス、マクド

バチェラーズ・ウォークの銃撃の犠牲者たちのために公式の葬式があった。大々的な、政治的なもので、民衆が道沿いに並び、義勇軍が隊列を組んで棺に従い、墓地では一斉射撃が行われた。兵士たちは兵舎に閉じ込められていた。歌とスローガンが一夜にしてできあがった。世界中のアイリッシュが、武器輸送の禁止を無効とする決議を通したジョン・レドモンドとアイリッシュ党に共感と憤りを表明した電報を打った。

8月1日、ホースへの武器輸送の1週間後、600丁のライフルと2万砲の弾薬がコターからウィックロウ州キルクールに届いた。ウェールズ沿岸からコナー・オブライエンのヨットで運ばれ、ジェームズ・クリード・メレディスの航行するサー・トマス・マイルのヨットに積み移されてきた。
プランケットはマクドナーに、<アイリッシュ・レビュー>で公表する輸送武器の数字を聞き、それが7・8月号の記事となった。

ジェラルディン・プランケット・ディロンより。
武器輸送からこのかた、あえて会合に出ようとするつわものはほとんどいなくなってしまい、ジョーはひどく憂えていた。正しきと誤りと、義勇軍内部での論争をめぐり、長い時間が費やされ、夏が過ぎていった。あらゆる論議の果てに、結論は、アイルランドは己の名誉を取り戻さなくてはならないということだった。アイルランドの精神的また物質的必要は強い行動を求め、そして「イングランドの困難はアイルランドのチャンスである」。フェビアン以来このかた、イギリスの支配に対する武力闘争はなかった。近づきつつあるドイツとの戦争が、我々にとってのチャンスとなるだろう。

いまや<レビュー>は財政的にあえいでおり、詩人のふりをしたスパイたちがマルバラ通り17番地に、またラークフィールドに連絡してきた。ジョーはもてる力をすべて義勇軍の活動に注いでいたが、病みがちで、精根尽き果てることがますます多くなっていた。
雑誌がどんどん政治的になっていたから、検閲され、発禁処分にされて潰されるのは時間の問題だと分かっていた。それが英国政府のやり方となっていたからだ。

マクドナーも同じほど献身的で、情熱を注いでいた。じっさい彼はジョーよりも長く雑誌に携わっていた、しかし同時に彼には雑誌に関して独自の考え方があり、また愛する妻ミリエルと赤ん坊ドナー、大学の教壇、また義勇軍があった。
この増刊号は<レビュー>の最後から2番目の号となった。

<アイリッシュ・レビュー>1914年7・8月号
画・カシミール・ダニン・マルキェヴィッチの作品より、記事・「クロンターフ1914(武器輸送の年)」トマス・マクドナー、「アイルランド義勇軍マニフェスト」「工業の問題に関する考察」ハリー・レジナルド・キング、「医師」ウィニフレッド・レッツによる詩、「郵便局、銀行を救う:もうひとつの計画」ジャスティン・フィリップス、「嵐のあと」ダニエル・コーカリー、「コイル/森」パトリック・ピアス、「アイルランドの教育における理想」プロインシアス・エアミース、文筆作品・「岐路に立つ青年たち」R.B.アンダーソン、「残虐なる殺戮」ジェーンミッチェル、「地方自治とフランス」ジャン・マリエ、ピーター・マクブライエンとトマス・マクドナーによる批評、それぞれ「文学の贈り物」と「新詞華集」。

8月4日、英国はドイツに宣戦布告した。
同日、レドモンドは下院で、英国以外の侵略に対する自衛権をアイルランドに与えた。多くの者が、彼は状況をうまく利用して自治権を拡大しようとしていると考えた。しかし、プランケット、ピアスそしてマクダマダは、それは実質的に義勇軍を英国軍に引き渡すことであり背信行為であると考えた。やがてそのことは明白になり、彼らはレドモンドと袂を分かつこととなった。アイルランド人が群れをなして加わり、やがて数月のうちに死傷者リストにアイルランド人の名前がどっと現れた。分離主義者たちは、署名しないと支持していないことになるというプレッシャーのもとに置かれた。彼らはみんな、身内や友だちの誰かしらを戦線に送っており、家族や地域内で別れ別れになっていたが、みんな戦争のもたらす死と破壊の痛みを経験していた。

プランケットは国内外のあらゆる演説を読んで、現況を分析していたが、彼の考えではこの戦争はアイリッシュ党の言うように3ヶ月ではなく、少なくとも3年は続きそうだった。少なくとも30万人が加わり、彼はゲリーに、自分と同じ国内外の新聞を読ませては、その要約をつくらせた。そのすべてが彼にとっては大問題だった。列強間の紛争のためではなくアイルランドの独立のために、人々は結束を固めていった。

9月には何千丁ものライフルがレドモンドによって、義勇軍を武装し訓練するためダブリンへ届けられた。だがプランケットはそれらを見て全く使い物にならないと言った、というのは1849年式の銃身の曲がったガリバルディ銃に、弾薬はなし、というありさまだった。

ジェラルディン・プランケット・ディロン:
ラークフィールドの9月の晴れた朝、私は5時に目を覚まして、6千人が野天でひそひそ喋っている変な音を耳にした。彼らは製粉所の敷地に集まって、ダブリン山地で行なう行進と演習に備えていた。トマスが1部隊を率い、ピアスが別の部隊を率いた。彼らはまったくの寄せ集めで、モーニングのコートに縞ズボンの者、軍服を着た者、ぼろをまとった者など。ほとんど、あるいは全く訓練を受けたことのない者も多かったから、最善を尽くしたにせよ訓練は困難を極めた。アンディ・クラーキンが馬を放牧していた草地も訓練に使われ、馬は騎馬隊に使われた。英国軍のリクルーターもいた。ジョーは私に、彼らが当局に採用されたくて義勇軍に入ろうとしているのを知って驚いたと言った。リクルーターの取り分はふつうひとりにつき2シリング6ペンスだが、私の知っているある人はひとりにつき1ポンド取っていた。

兄にあてたこの手紙でジョージ・プランケットは、自転車旅行でダブリンからキルコック、キネガド、アスローン、アトゥンリィ、オラモアを経てゴールウェイ、スピダル、そしてピアスのコテッジがあったロスマックまで行ったことを綴っている。彼らは(ほかに誰がいたかは書いてない)ロスマックからコリブ湖をめぐり、コングを経てアランまで行った。

1914年8月17日、コネマラ
親愛なるジョゼフ
手紙と中身、受け取った。困っていたところだった。
出発してこの方、すばらしい時を過ごしている。ピアスのもっているおんぼろボートを湖に浮かべ(我々は岸からすぐのところにテントを張っている)、タールを塗って少し補修し、それに乗りこんで出掛けた。それ以降ずっとそのボートを使っている。
PS、金を少し送ってくれ。現況困難ナリ!
可能な限り早く戻る。ピアスは水曜に発った。ローギアで丘を登っていたらギアがいかれてしまった。ペダーソンのはだめだな。店に電話して、新しいのを送るよう頼んでくれないか。
みんなによろしく。エイマーによろしく伝えてくれ。

エイマー・オデュフィは劇作家、小説家で、当時ジョーとゲリーといっしょにラークフィールドに滞在していた。英国軍に入るのを拒んだら勘当されてしまったのだ。そこで彼はIRBと義勇軍に入った。

9月はじめ、ジョン・レドモンドは、英国首相のハーバート・アスクウィスに会うと宣言した。ダブリン領事館で徴兵会議が予定されていたのだが、IRBと市民軍がそれを阻止して領事館を占拠しようと企てていた。
プランケットはその作戦会議ではじめてジェームズ・コノリーときちんと話し、たいへんに興奮して帰ってきて、ゲリーに、彼は今まで会った中で最高に偉大で知的な人間だと語った。

英国軍は妨害計画を嗅ぎつけ、IRBと市民軍がやってくる前にドーソン・ストリートに張りこんだので、彼らは領事館に近づくことができなかった。
プランケットは激怒したが、仕方がないので奇妙な冗談で気を紛らわすことにした。
彼は封筒に「ハーバート・ヘンリー・アスクウィス様」と書いたのを弟のジョージに渡し、彼はそれを持って「アスクウィス様へお手紙! アスクウィス様へお手紙!」と叫びながら通りを進んでいった。兵士や歩哨たちがみんな道を開け、領事館の門も開けられたところへ彼はそれを手渡した。そこにはG.K.チェスタトンからの引用で「君がとても美しいので心動かされずにはいられない」とあり、「小さなスノウドロップより」と署名がしてあった!

そのときからこのかた、彼はコミッティーの残りのメンバーとともに、レドモンドが「一線を超える」のを俟って英国と正面対決する心積もりを固めることになった。

8月に、義勇軍の軍服委員会は、コーク州ダグラス・ミルズのメッサー・モロー商会が特別な織機をもっていて、彼らが送ったサンプルともマッチしたので、最初の注文がモローへ発注されたとの報告を送ってきた。モロー商会はそれからの実に数十年に渡り軍服の製造を手掛けることになった。上官とそれ以外との区別は設けられなかった。階級は一時的なものにすぎなかったからだ。すべてのアイテムはアイルランドで製造された。報告書はユーイン・マクネイルとロレンス・ケトルの署名だった。プランケットはこの委員会のメンバーだったから、ケトルから手紙を受け取ったのはそのせいだったかもしれない。

「・・・義勇軍専用の自動車会社の設立と管理を、君に委任する。君に、だれでもふさわしいと思える人間を配置し、報告書を出させる権限を託す。」

9月20日、レドモンドは一線を超えた。ウドゥンブリッジでの閲兵式で、彼は、義勇軍は英国軍のメンバーとなって戦うべきだと言った。そこにいた義勇兵のひとりはプランケットに、彼は「すぐに行け!」、彼らは恥さらしなのだから、と叫んだ、と語った。しかしそれは新聞で報道された模様とは違った。プランケットは、いよいよ来たぞ、これ以上レドモンドと一緒に働くのは無理だ、と思った。

彼は再び調子を崩しており、IRBのメンバーが次に何が起こるのか、またマニフェストにはどう書くべきかを相談しに、ラークフィールドまでやってきた。数日後、元レドモンド義勇軍のコミッティーが、彼らの立ち位置を再定義したマニフェストを渡しに来た。新聞の検閲がひどくなっていたが、プランケットはそれを9月・10月の<アイリッシュ・レビュー>に載せた。

マニフェストは、レドモンド氏はアイルランド義勇軍組織においてもう何のポジションも占めていないとし、1914年11月25日、義勇軍の総会を開く旨発表した。彼らは「アルスターは弾圧されえない」という名目のもとに「アルスターのナショナリスト」を公然と弾圧しようとしている現政府のやり方に抗議し、アイルランドは、「それ自身の独立政府の自由な行動によってしか、名誉と安全をもって外国との紛争に係わることはできない」とした。そして、ダブリン城と英国軍当局を通じた現在の統治のあり方が廃止され、独立政府が打ち立てられることを要求した。

(訳:中島迂生)

*ジョージ・プランケットが自転車旅行したゴールウェイ、スピダル、コリブ湖、コネマラ、そしてアランについて、中島迂生も文筆作品とスケッチを当ブログに載せています。こちらもぜひ!

http://ballylee.tsukuba.ch/c6980.html
http://ballylee.tsukuba.ch/c7343.html
  

Posted by 中島迂生 at 01:45Comments(0)その他のイベント

2012年10月28日

原宿ハロウィンパレード2012

  

毎年恒例になりました、ユーロブラス@原宿ハロウィンパレード。
今年も呼んでいただいて、シンバル叩いてまいりました。

  

これは映画に出てるフランクというキャラだそうです。電話がかかってきて、スマホで話すフランク。

 

・・・の姿はとってもシュールで、思わずカメラを向けるみんな。

  

愛くるしいパンダさんは、てっきりパレードに参加するのかと思ったら、ふつうに見物人?だったようで、私のほうが見物される側に。・・・パレード後、快く写真を撮らせてくださいました。
あと、写真撮りそびれてしまったのだけど、クラウンの格好をした外人さん、とても似合っていて素敵でした。
きゃりーぱみゅぱみゅも来てましたよ。人垣がすごくてちらっとしか見れなかったけど、ピンクのドレスかわいかった。
主宰の皆さまおよびバウマン隊長、ありがとうございました。
  

Posted by 中島迂生 at 21:26Comments(0)その他のイベント

2012年03月23日

原宿パレード2012

           

翌18日は原宿パレード。
いままで長年、沿道で見ていたりボランティアスタッフとして参加しただけで、ちゃんと参加者として歩くのは実ははじめて。
去年のパレードクイーンでお世話になったアイコンユーロパブさんの団体で参加、前日に劇団で共演したOさんも一緒に。
・・・元気だなあたし・・・。
5年の年季のなせるわざか。

パレードに関わってる人間として、何も手伝わずにただお客さんとして参加というのは本来なかなか肩身の狭いものがあるのだが・・・
まぁあれだけいろいろあったことだし、そもそも私はボランティアで出ると着なくちゃいけないあのTシャツがどうしても・・・
まぁその話はもういいや。

この日も寒く、ほぼ一日中雨ふりだったが、パレードの1時間のあいだだけ奇蹟のように雨があがった。
去年のパレードクイーンの仲間たち何人かに再会できて盛り上がる。
顔見れてよかった。
直前までバタバタ変装・・・じゃなくて着替えていたのであまり話できなかったけど。

おわったあとビアヴァーナに行こうと思ってたのだけど、クイーンのひとりでアイリッシュダンサーのゆかちゃんが六本木のハードロックカフェで踊るというので見に行くことに。
Oさんを説得して連れてくのがけっこう大変だった(笑)

場所が分からなかったので(ケータイで検索できない人。)
六本木まで行って駅員さんに「ハードロックカフェ行きたいんですけど」とふつーに聞いたらふつーに教えてくれた。
でも、じっさい歩いてみたらものすごく分かりづらいところにあるの!
ヒールの高いサンダルだったので疲れてしまった。

ハードロックカフェは今年パレードにも参加してて、店内は緑の飾りつけ。
予約もなしにいきなり行ったのにステージに近い席を案内されてちょっと感動した。

メニューは食事も飲み物もいろいろ豊富にあって迷う。
この日はベジのOさんのリクエストもありナチョスプレートを。
山盛りのナチョスの上からチーズ、オリーブ、ピーマン、トマトの角切り、ビーンズ、サワークリームがかかって、チリソースがついてるのをあたたかいお皿で。
こまやかで上品な味つけ、スモールサイズなのに二人で充分。
正直、自分のなかのナチョスの概念が変わった。
ナチョスって食事になりうるんだ!
これが今年のパレードの大きな収穫だ。
食材を覚えていてここに書いてみたのは、自分でも作ってみたいからだけど、あれと同じ上質なチーズやサワークリームを探すのはちょっと難しいだろうな。

食事してたらINJのメンバーがぞくぞくと入ってきて2階へあがってく。
全然知らなかったけど彼らのアフターパレードパーティの会場になってたのだ。
しかしまた、これだけ都内じゅうにアイリッシュパブがあるなかで、こともあろうにここって!

私がブログで不満をぶちまけた人たち、名指しで批判した人、そんなこともあって私のことをよく思ってない人たちも来てたけど、私は何も悪いことをした覚えはないのでそのまま座っている。
どこへ行っても私はだいたいこんなものだ。

席を立ってちょうど会長のAさんに出くわしたら、この人にもいろいろぶちまけていたにもかかわらず、「2階においでよ」と声かけてくれて、これには恐縮。

そのうち、INJメンバーで仲良くしてくれている人たちが次々自分のほうから私のテーブルへ来て挨拶してくれて、これにも恐縮してしまった。
Tさんなど、あきらかに私のほうが悪かったのに「さっききつい言い方してすみませんでした」と謝ってくださっちゃったり。
いやぁほんととんでもないです。
なんかほんとに人っていろいろだなぁ。

ゆかちゃんはじめ5,6人のステージはアルダーダンススクール。
1曲目がいきなり、なんとレディー・ガガのジュダスですよ。
それに合わせてアイリッシュのステップで踊るの。
衣装も金のスパンコール、ド派手でステキ。
思わずいっしょに熱唱してしまった。

さきほど勢いで「あとで2階へ挨拶にいきます」と言ってしまったので、帰りがけ、気後れをねじふせて2階へ。
いっぱい人がいて何が何だかよく分かんなかったけど、とりあえず片端から挨拶してまわる。
Aさんに肩をつかまれて、気がついたら大使のニアリーさんと引きあわされていた。この人までおいでになってるのは知らなかったのであたふたして、言葉がうまく出てこない。
つくば代表です、と自己紹介すると名刺をくれた。・・・去年もくれてるのに。
まぁ仕方ないよね、と思いつつ、テンションが下がっていくのはいかんとも。
私の名刺、見覚えがあるのではと思います、と言って私も去年も渡した名刺をまた差し出すと、そこではじめて、「あぁ、なんか書いてる人だったね」と思いだしてくださった。
私の名刺は、妖精とペガサスのイラストを入れた手書きのもので、けっこうみんなそれで覚えていてくれる。
はい、アイルランドを舞台にした物語をたくさん書いてるんです、きのうのつくばフェスでも上演しました、いつか世界に出ていきたいと思っています。・・・
いつものように熱く語ろうとするが・・・
劇団を立ち上げて4年、この期に及んでまだ「いつか(one day)」か・・・と、自分で言っていてどうしようもなくテンションが下がってきてしまい、そのまますごすごと帰る。

パーティーの席での振る舞い方というか、プロモートの仕方についても、ほんとにまたちゃんと考えないといけないなぁ。
という課題をあらたにしつつ。

帰り、まだ時間が早かったのでビアヴァーナへ。
まだ盛り上がってるかなと思っていったら、もうあらかた人は捌けて静かだった。
でも、オーナーさんだか店長さんだかよく知らないのだけど、クイーンのときにお世話になった人が歓迎してくれて、おごってあげると言ってきかないので、「じゃあベイリーズを」とリクエスト。
去年の・・・4月以来! のベイリーズ、しみじみと喉にしみた。
半パイントのギネスでしめて帰路へ。
生ギネスもほんとに久しぶり。別に飲まなくても生きていけるんだけどね。
飲むなら絶対その場でついでもらわないとね。

よく歩いた一日だった。
土日とフル回転だったので月曜起きるのがなかなか辛く。
  

Posted by 中島迂生 at 17:56Comments(2)その他のイベント