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Posted by つくばちゃんねるブログ at

2009年05月09日

湖底の都

愛蘭土物語 クレア篇 2
湖底の都 コロフィンの物語
The Guardian in Corrofin
2007 by 中島迂生 Ussay Nakajima

 

そのかみ ひとりの汚れなき乙女が ひとつのうるわしき都が
湖のふち深く沈められた
かくてこの地はとこしえのゆたかさを約束された、
自ら差し出した 大きな捧げものと引き換えに。・・・

 エニスを発つ日である。 ・・・十日ばかりのあいだにすっかり瞳になじんだ石敷きの中庭も期待にみちて、まだ見ぬ土地に遠く思い馳せる、心浮き立つ旅立ちの気分がふつふつと輝く粒子となって、空気中に溢れているようだ・・・
 ファサードを抜けて乗合馬車が入ってくる、敷石にたてる蹄のひびき、活気あるざわめき、幾度となく聞いているのに、今日ばかりは違って聞こえる、他ならぬ自分が、今日はこれに乗ってゆくのだ・・・

 朝の陽射し、光あふれる街道をゆく、見なれた町並を抜けてゆく、からりと涼しい風に吹かれ、街路樹のかげを次々にくぐりぬけて、散歩でいちばん遠くまで足を延ばした橋をこともなげに通り過ぎる・・・両側に牧草地と、とおく青みを帯びた丘とをのぞむ、石造りの小さい橋を。・・・ かくて家並が尽きて、広びろと視界が開けたとたん、心が躍る、心がのびやかに風にふくらんで、空に溶けあってゆくのを感じる・・・ いかんせん、町にいては、我々は遠景というものを持たないのだ、どんなに愛すべき町であろうと、ともかく町を出るとき、私はいつもほっとするのだった・・・

 頬にあたる風、青あおとして彼方までゆらめく丘むれ、うねりながらとめどなく広がる牧草地!・・・ 夏は今まさに始まったばかり、木の芽草の葉も喜びにみちて、ぐんぐんと伸び育ってゆくのが目に見えるようだ、馬車の車輪のからからと回るにつれて、ゆけどもゆけども果てしなく繰り出されてゆくがごとき、無限の情景である・・・

 やがて街道筋をそれて右手に入り、はるか左手、なだらかに盛り上がった丘がひとつ見えてくる、Knockacaurhin(ノッカコーリン?)、コロフィンに向かう道すじを心の中でたどり直すとき、いつもさいしょに思い出す丘だ・・・ 牧草地の部分はあかるいエメラルドグリーンに、木立の残されたところはこい暗緑色に、そしてぜんたいを生垣がゆるやかな網目もように区切って、そのようすは巨人が目の粗い網を投げかけたかのようだ・・・ それがうしろに遠ざかりゆくころ、街道はアーチ型の石橋をわたり、ここで再びリヴァー・ファーガスのおもてをのぞむのだ。・・・

 コロフィン、リヴァー・ファーガスを遡ってエニスからおよそ四里ばかり西北に位置する小さな集落だ。こじんまりとしたハイ・ストリートにさしかかる、石壁の軒に飾られた花かごや、しっくいに描かれた絵、ひなびた愛らしい田舎町である、だがそれ以上のものではない・・・ 馬車がとまって、幾人かが降り、また幾人かが乗ってきて、御者が掛け声をかける、そして再び走り出す・・・

 ところが、それからほんの少し行って、家並が途切れ、と、左手に突如その湖が現れたのだ・・・ 広びろと大きな湖だった。彼方に盛り上がった木立の丘に抱かれ、きよらかなさまを呈していた。そのときは少し曇ってきていて、水のおもては深い無色のような色をしていた・・・ 何があれほど強く心惹かれたのか分からない。目にしたとたん、私は魂を吸いこまれてしまった。それは何やら魔法じみた、抗いがたい力だった。

 私はわれ知らず窓から身を乗り出し、馬車の腹をばんばん叩いて大声で御者を呼んだ。
「おーい! とまれ、とまれ! ここで降ろしてくれ」
 御者は速度を落としもせず、面倒くさそうに怒鳴り返してよこした。
「次の停車場は、七マイル先だ」
「いいからとまってくれ! ここに用があるんだ」
「次の停車場までの乗り賃を、払ってもらうぞ」
「いいからとまれったら! とまらないと今すぐ飛び降りて、びた一文も払わないぞ」

 御者は不承ぶしょうに手綱を引いた・・・ 迷惑顔の客たちを押しのけて、荷物をかついでステップを飛び降り、御者の手に金をつっこむと・・・ それで湖はもう私のものだった。私は何もかも忘れて石垣を乗りこえ、湖の始まるところまで、草を踏み分けておりていった。

 その日は残り一日ずっとそこで過ごした・・・ Inchiquin(インチクイン?)、この湖は、リヴァー・ファーガスの川すじの途中にある。北の端から川が流れこんで湖に注ぎ、南の端からまた流れ出して村の入り口のところで橋の下をくぐり、そしてエニスへ向かっているのだ。
 彼方には湖を抱くようにクリフデン・ヒル Clifden Hill が盛り上がり、手前右手には屋根の落ちた石造りの古城がある。湖のおもてには小島がふたつばかり、向こうにひとつ、こちらに小さいのがひとつ。 ・・・そのようすはひっそりと秘密めいて、これから物語の始まる舞台立てのようだった。

 私はあかず水のおもてを眺め、鏡のように平らな水面に時折立つさざ波を眺めた。岸辺近くは浅く、また水が澄んでいるせいもあろう、水底の石のひとつひとつがくっきり見える・・・ 私は座って時を過ごし、寝ころんで空を眺め、草を噛み、水のおもてに石を投げ入れて、それから日の沈むまでずっと、岸辺を歩きまわって風の音に耳を傾けた。

  湖面の向こう、丘の中腹に点々と見える家々から煙がたなびきはじめ、木立の色を薄青くけぶらせる、やがて雲のあいだから西日が射すと、木立の輪郭が金色に浮かびあがる・・・ かくてゆっくりとたそがれゆきて、青い宵闇にものみなすべてが霞み、冷たい夜風に震えあがるような時分、岸辺にはぞくぞくと神秘の立ち迫って耐えられぬほどである・・・



 ずいぶん遅くなってからやっと我に返って、荷物を担ぎ上げると村へ戻って宿を探した。村外れに一軒、ひっそりと小さな宿屋が見つかった。ここに何日かいたい、私はそう言った。一週間か・・・たぶん十日。釣りをなさるんかね? ・・・この村のわずかな滞在客は、たいがい釣り客らしかった。いや。 ・・・ではほかに何か? ・・・訊かれて、私は困ってしまい、ただありのままに答えた。 ・・・ただ、歩き回りたいのだ。・・・

 その晩、簡単な夕飯をあつらえてもらって、そのあとまた少しおもてへ出た。煙草を買いたかったが、こんな田舎でこんな時間に店が開いているわけがないのは分かっている。まあいい、まあいい!・・・ しずかなハイ・ストリートをぶらぶら往くと、酒場の戸口からフィドルのひびきが聞こえてくる。・・・

 道を折れて、路地に入ってみる・・・ すぐに家は尽きてしまい、メドウのあいだを小径がつづいてゆくばかりだ。そこでふっと頭を上げると、急にものすごい星空が目に入ったので、私は腰を抜かしそうになった。それまで、高い山に登ったときでさえ、私はこんなにすごい数の星を一度に見たことはなかったのだ。何というところなのだろう、この土地は!・・・ 私は頭をそらして空を眺めたまま、おぼつかない足どりで宿へ帰り、その晩夢の中までも、幾千幾億の星々がぎっしりと煌めいていた。

 コロフィンにとどまった日々のあいだ、私は毎朝目覚めては、今、コロフィンにいるのだ!・・・ その思いだけで、湧き上がる幸福感に圧倒されんばかりだった。空もようを見ようと一歩外へ出ると、そこはコロフィンなのだった。いつでも自転車にまたがって、その気になればあの古い石橋のところまで行って、リヴァー・ファーガスの白いおもてがしずかに木立を映しているのを眺めることができるし、あるいはまた、少し登っていって、丘に抱かれたあの美しい湖を眺めにいくこともできるのだった・・・

 コロフィン、クレア州でもっとも美しい場所。・・・ゆたかな木立、みずみずしく潤った野や丘々、川、湖・・・ 土地をうつくしく豊かにするものが何でもそろっている。なんとうつくしい緑色、彼方は青みを帯びて遠くかすんで。・・・ 湖のそば、川のほとり、このうつくしい場所に、町をひとつ造りたくなるのももっともなことだ!・・・ ここから少し行くと、たとえば二里ばかり先のキルナボーイの向こうはもうバレン、石ころだらけの荒野が始まるのだが、この町のまわりはまるで乳と蜜の流れる地なのだ。・・・

 コロフィンの魔法にかけられたような美しさ・・・ その湖の底にはたぶん、ひとりのうつくしい乙女が、ひとつのうつくしい都が沈んでいる・・・ 誰かがすすんで差し出した大きな捧げものと引き換えに、この地は永遠の豊かさを約束されているのだ・・・ そんな感じがする。・・・



 きょう、私は朝のうちに湖へ出かけてゆき、そのほとりで半日を過ごした。朝のうちは曇って、水のおもては白く平らかだったが、やがて風が雲を吹き払って、まぶしい陽がかがやき出た・・・と、湖ぜんたいが空の青を映し、岸辺のみどりはふたつの青にはさまれて 鮮烈な色彩の絵だった。
 あれほどまでに曇りなく澄んだ うつくしい青色を、私はほかのどこでも見たことがない・・・ 風が起こるほどにさざ波だち、すじになって、少し紫いろを帯びてますます澄んだ、たくさんの白鳥がいた、睡蓮とみどりいろのイグサと・・・ 湖ぜんたいが瑠璃の岩盤でできているかのようだった、それは少し現実離れしているほどに澄みきった色だった・・・
 湖をあとに、村へ戻ろうと坂をひとつ下ると、生垣のその向こうにはいくえにもいくえいも垣を連ねてはるかかなたまで野が広がり、その果ては瑠璃の青みを帯びて空へ連なっているのだ・・・

 コロフィンの空の青さときたら!・・・ こちらに来てから、世界はこんな美しい場所だったのかと、あらたに目を開かれたようだ。地平に近い部分はトルコ石をすりつぶして塗りつけたよう。天空に近いほうはまるでサファイアのようだ、あるいはラピスラズリか。 ・・・そう、当地の風物は宝石を思わせる、牧草地の瞳を打つようなエメラルドの緑!・・・ こんなに澄みきったみどり色がかつて存在しただろうか。そして、夜ともなれば漆黒のしゅすの地に無数のダイヤモンドをちりばめた満天の星!・・・ 天の川がこれほどはっきり見える土地はほかにない・・・

 当地ではこうした空のもと、常に雲の大きい群れが空を移動している。とくに夏の夕方ともなると、大空を羊の群れが移動するように、雲のかたまりがひとつ通るたびにざーっと雨を降らす。降ったり晴れたり目まぐるしく変わる、けれどそのあときっと 悲しみを埋めあわす微笑みのように、まだ暗い色をした雲塊をまたいでくっきりと美しい虹の橋がかかるのだった。大きな、大きな橋!・・・ ほとんど大地の半分をまたいで、端のほうからだんだんにあざやかに浮かびあがり、中空に残っているあいだにもう一方の端からすーっとまた消えてゆくのだ・・・ ほら虹だよ!・・・ と見知らぬ人の誰かれに指さして教えたくなる・・・

 昼のあいだは鮮明な絵のように美しいが、この地もまたその底には大地の暗さと深みを宿している。暁や夕暮れどき、ものの影がはっきりしなくなる薄明の時間には、湿地帯にふしぎな霧がかかる、あの霧のなかではどんなものが現れてもおかしくない、奇妙なシルエットの化け物の姿が見えたと思っても、近づくとただの雌牛の姿に変わってしまう、けれど動物たちの群れにまじって、たしかに別のものたちの影がやすらっているのだ・・・



  当地の天気は変わりやすい。あの日はどんな天気だったっけ、思い出せないくらいに目まぐるしく変わる。今日も朝方はまぶしいほどに晴れ上がっていたが、今は曇って風が強くなってきた。時折雨もぱらつく、やがて本降りになる・・・ けれどまあ、一片の平和とコーヒーがある分には雨に降りこめられるのもいいものだ。それに、コロフィンだし。・・・
 夕方、誰かが「明日は嵐になるぞ」というのを耳にした。・・・ その通り、一晩じゅうひどい雨風が打ちつけ、朝になっても風が強い、降ったりやんだり。・・・

 きょうも一日宿にこもっていようか。書くことはたくさんある・・・ けれどもやはり、その前にぶらりと外へ出かけて広びろとしたおもての空気を吸ってきたい。 ・・・そう思っていたところにちょうど雨がやんだので、さっそく出かける。地図で見て町の右側にも Lough Atedaun、小さい湖があることに気づいていたので、そこへ行ってみた。朝方、逆光でまぶしく、風がまともに向こうから吹きつけていたが、とても綺麗だった・・・水のおもてに幾すじも、葦が不規則なしまもようを描いて。・・・


 外へ出てゆく。・・・と、広びろとした景色に触発されて、それまでごたごたの中にまぎれて失われていた、けれども忘れてしまいたくない幾多の情景が、数珠つなぎになってよみがえってくるのだ・・・ ここまで来るあいだに通りすぎてきた光景、野に跳ねる若駒の白と栗色、路傍の廃屋の窓ガラス、カーヴを描いて丘の向こうに消えてゆく小径。・・・これが、せわしない町なかではこうはいかない・・・
 ああ! そのために必要なのだ、すぐ外に、野の広がりをもっているということが。・・・ 外の広がりは、私にいのちの息を吹きこんでくれるものでなくては。私を強め、考えさせ、思い出させてくれる必要がある。

 みぎわで少し時間をすごしたのち、すぐに宿へ戻った。書くべきことが、どっさり私の中によみがえってきたので。・・・ 帰り道、幸福だった・・・ 私の幸福は、書くべきことがすぐそばに、手を伸ばせば届くところにあることの幸福だ。すぐそばにある、隔てられていない・・・ こうしたときにいちばん、・・・己れが正しく己れであると、心の底から感じられるのだった。この種の幸福が、私にとってはもっとも本質的なそれではないか、ほかにはないのではないだろうか?・・・

 健全に書きつづけるためにはこうした感覚が不可欠なのだが、しかしこの感覚はひどく儚く、もろく、容易に押しひしがれてしまう、保ちつづけるのは、体に食物を得て保つよりずっと難しい。食物ならとりあえず店があって、金があればすむ話だが、精神の方は大地全体を必要とするのだから。 ・・・精神は日々刻々、大地から養分を得ている。だから町なかに十日間閉じこめられただけでもう半分死んでしまう。・・・

 分かっていた、この場所にずっといられないことは。・・・ いつか私は去っていって、日常の塵あくたの中へ、あの醜い、不毛な乾ききった景色の中へ戻ってゆかねばならない。今はまだ悪夢のごとく、遠く忘れ去っていられるあの景色のなかへ、いつかはまた。・・・ そこで私はあの醜さに、精神の飢えと乾きに再び苦しめられるであろう。そのとき私は耐えられるだろうか、耐えて書きつづけることができるだろうか?・・・ 考えたくない、けれど私は知っていた、暗い予兆におののきつつ、だから懸命に見ようとした、今のうち、この地にあるあいだに、瞳に美を、ありったけ蓄えておこうと。・・・ かの地にあったあいだ、自分の見たものすべて、それらを私は懸命に刻みつけようとした、忘れられない、忘れたくない、この広大な広がりのすべてを。・・・


 ああ、何と無数のうつくしい景色を、私はそこに見出したことか!・・・ 道は縦横に走っていた、朝ごとに私はちがう道を訪ねていった、道ゆくほどに、ひと足ごとに場面は変わり、風景はその姿を移り変えて、あらゆる表情を見せるのだった、道ゆくほどに景色は変わり、空の表情も刻々と変わった、道ゆくほどに、損なわれぬままのうつくしさ、汲めども尽きせぬゆたかなディテエルを添へて、かくまで無垢の大地の広がるさま、それはまるで夢の中に、自分の夢のなかで作りあげた場所にいるのではないかと思われるほどだった!・・・ あれはほんとうのことだったのか、あんなふうに歩きまわった日々は現実のことだったのだろうかと、今でも私は思い惑うことがある。・・・

 コロフィン、風が雲を運んできて、雲は雨をもたらし、トルコ石の空にいくつもいくつも、大小の力強い雲塊が、あとからあとから吹き流されてやってきてはざっざーっと豪快に降り注いでゆく、雲間からはそのたびに、再び澄んだ日の光がかがやきわたる・・・
 かくて絶えず絶えず洗われて、空の青さ、空気の澄みきって透明なことといったら!・・・ 雨に洗われてまあたらしいみどりのメドウに、雨に洗われてまあたらしい日の光が射して、瞬間、大地は一面のエメラルド色に光りかがやく・・・
 ああ、コロフィン! コロフィン! ・・・憧れは胸を突き抜けて翼を広げ、天高く いくたびとなく繰り返し、かの地へかの地へと還りゆくのだ・・・



 あの光あふれる夏の日、ダイサート・オディのサインのある道をゆくと、向こうからひとりの農婦がやってきて、私に挨拶した。会った人といってはそれきりだった。
 築かれたその日のままに、どっしりと堅固に聳えた石塔の下で、私は腰を下ろしてひと休みした。咲きこぼれるブランブルの花むらに誘われて裏手へまわってみると、石垣の向こう、はるかにのぞむ野の広がりは、くっきりとした光のもと、天国のようだった・・・ あざやかなばかりの緑の色と・・・しみひとつない美しさだった・・・

 有名な石の十字架は、修道院あとより少し離れたところにある。みどりの牧草地の真ん中に、忽然と立っている。当時はそのすぐそばに修道院があったのだが、今残っているものはあとから新しく建てられたのだそうだ。何気ない小径の行き詰まり、何気ない飾り気のない木戸を開けてメドウに入ると、かの偉大な歴史的遺産に、いきなりお目にかかることになる・・・

 それにしても、この石垣に群れ咲いた野ばらの何とやさしく匂うことか、微風にゆれて、たおやかな乙女らの笑いさざめくかのようだ・・・
 すり減った石のおもてに刻まれた、奇妙に稚拙な聖者像・・・ つとに有名なそれだった! それはここだったのか!・・・ 私は何も知らなかったのだ。・・・ 何もふしぎはない、時計の針はただ同じところをぐるぐる廻るだけで、千たび廻ってもまた同じところへ還ってくるだけなのだ・・・ そういう感じを改めて抱く、そう、この国では。・・・

 時空の回転と野ばらの香りに酔ったまま、私はメドウを超えて・・・あの目に滲みるばかりのみどりの草を踏んで、修道院跡へ向かった。やはり石造りの堂々たるそれは、けれどとうに屋根も落ちて、見上げた壁の夏草ごしにぽっかりと青い空が見える。
 入り口のひとつをくぐりいでてふと見上げたとき、私ははっとした。人間や動物の頭部をいくえにも連ねて浮き彫りにした意匠、それもあまりにも有名なそれだった!・・・ ここだったのだ・・・ 私は何も知らなかったのだった。・・・

 修道院のわきにはグレイヴヤードがあって、たくさんの墓碑がたっている。しかもどれも新しかった。修道院は単なる遺跡ではなく、今も御霊やどる聖なる場所であって、今でも人々はその傍らに眠ることを望むのだ。 ・・・不変なるもの。・・・その考えは大いに私の心を慰めた・・・

 想いにふけりながら墓碑の廻りをめぐるうち、ふいにぎょっとして足をとめた。新たに掘りぬかれた墓穴が深く、四角く口をあけていた。穴の側面はまだ湿って、黒々としていた。誰か、これからここへ葬られる人があるのだ。・・・

 けれど、そこからさらに足を延ばし、先へ先へといざなふ小径に彷徨いこむうち、そのことはすっかり忘れてしまった。背高く茂った生垣がそよぎ、涼しい影をペイヴに落とす気持ちのよい道だった・・・ ぐるりをまわって右手へ向かえば丘を越えてコロフィンへ戻れる、けれど今日は左へ折れて、さらに奥へ、この細道を行ってみたい・・・


 あのむせ返るような夏草の香りにみちた、光あふれる夏の日、小道は生垣にはさまれてつづいていた、あらゆる花々が光すかして、宝石のようにきらめた・・・ とある家の庭先を通ると、三歳くらいの金髪の女の子が芝生の上で遊んでいて、私を見ると「ハロー。」といってにっこりした。天国でのひとこまのように、私は今もその笑顔を思い出す・・・

 道はしだいに草ぼうぼうになって丘を上がっていった。草を掻き分けながら、かぐわしい香りに顔を上げると、こずえに黒々と光るすぐりの実がたわわだった。ひと房折り取って口に入れると、濃い、酸っぱい、強烈な味が広がった・・・手なづけられていない、野生のままの味わいだった。人をほんとうに強くするのはこういう食物であるにちがいない・・・

 やがて道の終わり、別の道に出るところが見えてきた、と、生垣越し、抜き差しならぬ大移動の物音と、けだるい鳴き声と、するどく呼びかける声とがひびいてきた・・・ 初老の夫婦に導かれて牛の群れがやってくるのだった。なかの一頭がこちらの道にさまよいこんで、ぬかるみに溜まった水をなめ始めた。それを見て、別の二、三頭がつづいてさまよいこんできた。道の出口は牛の体ですっかり詰まってしまった。どうしたものか思いあぐねていると、女の方が現れて、大声で叫んだ、カムバック、スージー、カムバック!・・・ すると牛どもはおとなしく追い立てられていった。・・・

 こうしたもろもろの印象で頭をいっぱいにしてコロフィンに戻ってきたのは、その日、夕刻もずいぶん遅くなっていたにちがいない。・・・
 ハイ・ストリートにさしかかると、すぐ、いつもとようすが違うのに気がついた。通りに大勢の人が出ていた。村のほとんど全部が出てきている感じだった。しかもみんな正装していた。通りの端に立っている少女たちはよそゆきのワンピースを着せられて硬くなって、手には花束を抱えていた。そのとき、教会の入り口から喪服を着た車椅子の老人がゆっくりと押されて出てきた。それではじめて、葬式があったことを私は知ったのだった。

 日用品店に入ると、買い物して勘定するときに訊いてみた、誰か亡くなったのですか?・・・ すると、店番の女性が教えてくれた、ええ、七十代の女の人ですよ。そして、あんまり悲嘆に暮れることはないのだというふうに、私に向かって微笑んでみせた。・・・

 再び通りへ出ると、棺が運ばれてゆくところだった。私は村人たちの端に立って帽子を取った。・・・ 彼らもみな、まじめな顔をしていたけれども、そうひどく悲しげなふうではなかった。私はしずかな感動を覚えて佇んでいた。村人たちが総出で見送るという、この古風でうるわしいしきたり。・・・ この美しい土地で生きて、よわいを全うし、そしてこの美しい土地に・・・ あの汚れないみどりのメドウに、古い修道院の傍らに、安らかな眠りを約束されてとこしえまで眠る人々。・・・ かくて彼らのいのちはこの大地と、この地の空とひとつになるのだ・・・ 何と幸いな生、何と祝福された死であろうか。人がこれ以上、何を望もう?・・・

 この日も日の落ちたあと、雲のきれめには星がどっさり出た。窓越しに見上げながら、私は、私の知ることのなかったあの老婦人の生涯に思いを馳せた。・・・



 別の日には、また別の遺跡を訪ねていった。地図で見る限り、牧草地のど真ん中にあるらしい。
 街道から道を折れ、ゆるやかな丘の小道をうねうねとゆく・・・ しずかな曇りの日だった。たぶんこの辺、見当をつけて入ったドライヴ(馬車道)は、両を背の高い並木にはさまれて、小暗く、アメリカン・チェリーの赤紫のこずえがざわめいていた。

 ゆきづまりの農家は、ひっそりとして、誰もいない。白と黒の年老いた牧羊犬が、立ち上がって、よろよろしながら尻尾を振った。めざす遺跡は左手のはずだが、木戸もなければサインもない。仕方がないから生垣の隙間からもぐりこんだ。そうして牧草地のあいだをずいぶんくまなく探しまわったけれども、ついになんにも見つけることができなかった。諦めて引き返すと、農家の庭先から、さっきの犬がまたよろよろ出てきて尻尾を振った。


 帰りは、街道に出ないで丘の道から村へ戻ることにした。そうしたら、石垣にはさまれてひたすらつづくその道は思いのほか起伏が激しく、なかなか着かない。
 折から雨が降り始め、風も強くなってきた。
 空の向こうの端にまっくろなむら雲がわき起こって、それがどんどん近づいてくる。そのダイナミックで荒々しい動きは、見ていて恐いほどだ。追い立てられるように道を急いだが、逃げきれなかった、ごろごろいう唸り、そのうちぴかり、するどい光が炸裂し、どどーん! と大音響が轟いた・・・ 私は飛び上がって、丘の道を一目散に駆け抜けた。左手に送電塔があって、その下に一区画だけ唐黍かなにかの畑が広がっているところを抜けて、森の中に入り、森にうずもれるようにしてたっている一軒の廃屋のところでようやく街道と合流してほっとした・・・村はすぐそこだった。・・・


 また別の日には、エニスへ向かう街道の途中から左手に折れて、なだらかに波打ちながらメドウの中を石垣に挟まれてつづく道をどこまでも辿っていった。むくむくと青黒い雲の湧きあがる日で、いくどもざあっと激しい雨のゆきすぎてはあちこちにくっきりと濃い色の虹が出た、手をのばせば触れるほどにくっきりとけざやかな、まばゆい光を放つ虹が。・・・ 雲むらの暗いほど、虹は妖しくあでやかに、日の光を映して雫のつぶの中に激しくきらめいた。・・・


 やがて道は小さな集落の、右手にずっと森のつづくところにさしかかった。見たところ広葉樹のあおあおとした木立だけれども、ちょっと中に入ってみると、人の背くらいもある大岩がごろごろ転がっていて、ひっそりと苔の衣をまとい、木々はそのあいだから根を伸ばして彼らを覆っているのだった。ここは昔、岩盤のうちつづく荒野だったのだ・・・ 私はこの土地の暗い魂を覗きこんだように思った。

 道は斜めに街道と交わって、また同じ通りへ抜けていた。やはらかなこぬか雨の休みなく降りつづくなかを、コロフィンへ戻る。・・・
 かえりみち、遠く霧のかなたに不気味なものかげの行き交うのを見たのはこのときだった。この土地が、こうした暗いそこひの顔をてらいなく見せてくれたことに、私はとても心動かされた・・・ ただ美しいばかりで、毒のないものは永くとどまらない。暗い混沌の深みの上にあってこそ、美は妖しく眩く光放つのだ・・・ この土地がこれほどまでに私をとりこにしたのは、そのゆえこそであったかもしれない。・・・


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 この土地の暗きそこひ。・・・
私の目には見えてくる、しかり、はるか時の彼方、一万年も昔のコロフィンの姿・・・陰気な風の吹きぬける灰色の谷、草一本生えない石の荒野の真ん中の・・・そう、これがそれだった、それが今眼前にかがやくこの湖を見ているところなのだ。・・・

  そのころ、この地方一帯はそんなふうだった、見わたす限りの不毛の地だった・・・ リヴァー・ファーガスはずっと遠いところを流れていて、当時まだこの地をうるおしてはいなかった。心浮き立たせるもの、色彩といえるようなものは何もない、空でさえ、この谷のうえでは不吉な雲むらに重く閉ざされて、人の気を滅入らせるばかり。


 この谷の底に暮らしたいなどと願う者がいただろうか、こんな荒れ果てた恐ろしい場所で?・・・ ところが、それがいたのだ、彼ら一族、彼らはもうずっと以前から、代々この谷に暮らしてきた・・・ 実はこの谷には、ありとあらゆるすばらしい宝石が採れたのだった、まっさおな湖面のサファイヤ、星の夜空のラピスラズリ、露にぬれたメドウのエメラルド、光かがやくダイヤモンドから、虹の七色のそろった水晶や瑪瑙に至るまでが。・・・

 彼らはここで宝石を切り出し、磨いて加工し、金や銀の台に嵌めこんで美しい細工品をこしらえ上げた。みな自分の仕事に誇りをもち、愛情こめて打ちこむ人々だった。大粒の宝石がみごとなアラベスクに飾られてあでやかにかがやく指輪やブローチ、腕輪や首飾りや短剣の束や・・・その優雅さ気品の高さはこの世のものとは思えぬほど、その細工の精密さは人間わざとは思えぬほどだった。・・・それら品々は高値で取引され、商人たちの引く車に積まれて、アイルランドじゅうへ・・・ 時には海を越えて遠く外国までも・・・運ばれていった。

 この谷は人が暮らすのに適した土地ではなかった、水も悪く、作物も育たず、夏場はじめじめとして、悪い病気が蔓延した。すぐれた職人が若くして命を落とすことも少なくなかった。

 それでも彼らは不平をこぼさず、えいえいと幾世代にもわたって築き上げた、谷の底にひとつの都を、りっぱな都市を、この地の殺伐とした様相を何とか埋めあわそうとするかのように、念には念を入れてうつくしく刻みあげた棟々を・・・そしてその都市の真ん中、二つの丘のあいだに、とりわけ優雅な宮殿をたてた、白鳥の首のように優雅なラインを描いてひときわ高く聳え立つ塔を。・・・

 ほら、今見える、湖上に浮かぶふたつの島、あれはかつて谷間にあったふたつの小さな丘で、そのちょうどあいだに宮殿はあったのだ。コロフィン、ふたつの丘のあいだ。・・・ この名はもとはそういう意味だったに違いないと、私は今でも思っている。・・・

 そのころ、この都市を治めていた老王には、美しいひとり娘、ミーズという名の乙女があった。その美しさを伝え聞いて、ずいぶん遠くから、王子や若い貴族たちが求婚に訪れたものだ。だが、彼女は宮殿に仕える騎士団の頭ロンデナントと婚約していた。

 ある夏、谷にはとくにひどい疫病がはやり、多くの者が死んでいった。王は深く憂えていた。

 そこへ、とある夕方、ひとりの旅人がこの都市へやってきた。長いマントを着た、みずぼらしい老人だった。当時の習慣で、遠方からの旅人は大切にもてなされた。そこで、この老人は宮殿へ連れてゆかれ、王の食卓に招かれることになった。みすぼらしく、埃にまみれてはいたが、彼は堂々とした物腰で、りっぱな調度に囲まれた広間に入ってきても気後れしたようすはなかった。

 入ってくると、彼はまっすぐに背をのばし、一座の人々を見まわした。
 乙女ミーズとその目が合ったとき、彼女はどうしてか、急にひどく心をかき乱されたようすで、あわてて目を伏せた。しかし、誰もこの奇妙な瞬間に気づいた者はなかった。

 食卓の席で、王は自らこの旅人を同席の者たちに紹介し、彼を迎えたことは自分の喜びである、ぜひとも異国の遠い土地のようすを話して聞かせてもらいたいと言った。そこで食事のあいだ、老人はよその土地で見聞きした事柄を話して聞かせ、彼らはみんな耳を傾けて聞いていた。


 自分の旅してきた風変わりな土地や珍しい話などをたくさん聞かせたあとで、さいごに彼はこの都、コロフィンのことに話を向けた。
「私は知っている。あなた方は毎年夏のあいだ疫病に苦しめられ、多くの仲間を失っている。それは、あなた方がこの土地のふところをえぐって美しい宝石を奪い取り、こうしてこの土地を辱め、大地に対して罪を犯しつづけているせいなのだ。」

 すると、王は驚いて言った、
「我々はそのように考えたことは一度もない。我々は誠実を尽くして働き、なおも不平をこぼすことなく悪い境遇に耐えつづけているのだ。」

「あなた方がそのように考えているのを私も知っている。あなた方は知らないで罪を犯しているのだ。私はそのことを告げに来たのだ。またあなた方は、どうしたら大地の力を宥め、自分たちをも救うことができるかを知らない。私はそのことをも告げに来た」
 老人がそう言うと、一座はしんと鎮まり返った。

「いま、私はそれを話そう。だが、うるわしき乙女ミーズよ、そなたは席を外されるがよい」
 すると、王は言った。
「私は、わが娘に大切な問題を告げなかったことは一度もない。なぜ彼女が席を外さなくてはならないのか」
 しかし、老人が答える前に、乙女ミーズはさっと立ち上がった。
「父上、私はこの方のおっしゃる通りにいたしましょう」

 ミーズが席を外すと、老人はふたたび話し始めた。
「リヴァー・ファーガス、かの川の流れは、この土地をゆたかに潤すだけの力をもっている。かの川がこの地をうるおすなら、この土地は私がいま話したようなほかのすべての土地を合わせたよりももっと肥沃で美しい土地になる。みどりゆたかな丘々のあいだにまっさおな湖面がかがやき、地はゆたかに実りを結び、もはや澄んだ水に事欠くことは二度となくなるだろう。あなた方はそのようすを想像しえようか。

 かの川はいま、本来あるべき川すじを流れていないのだ。あなた方は水路を掘って、かの川をしかるべき川すじにみちびいてやらなければならない。それはまっすぐこの都の上を通る。そしてまさしくこの谷に、ひとつの湖が築かれなければならない。そしてあなた方が誤って扱ってきたこの大地の力を宥めるために、ひとつの美しい都が、ひとりの汚れない乙女が捧げられなければならない」

 それを聞くと、騎士ロンデナントはさっと蒼白になって、手にしていた杯をとり落とした。
 王は黙ったまま、しずかに手を組んで旅人を見つめていた。

「水路を掘って、この谷まで掘りぬいたとき、あなた方はこの谷から得たすべての美しいもの、瑠璃やエメラルド、またこの都市の美しい町並や、この宮殿、すべてをそっくり残して立ち去らなければならない。何ひとつ持ち出そうとしてはならず、これらすべてを湖の底に沈めなければならない。そしてあなた方は、この都市でもっともうるわしく清らかな乙女を宮殿の中に残していかなければならない。けだかき乙女ミーズ、彼女がもし自ら望むなら、彼女は己れを差し出すだろう。

 こうしてあなた方は去ってゆき、千年のあいだこの土地に戻ってきてはいけない。千年のあいだあなた方は流浪の民となって劣況に耐え、不自由を忍び、今ある以上につらい身の上となって不毛の荒野を行き巡らなければならない。そしてそのあいだずっと、代々このことを子孫に語り伝えなくてはいけない。

 私は決してあなた方に強いはしない。それに、私は自分の言葉が真実であることの証を何ひとつ持ち合わせない。それゆえあなた方はよくよく考えて、このことを私が告げたとおりに行なうかどうかを決めるように」
 老人が語り終えると、あまりに重苦しい沈黙のうちに、誰も一言もしゃべらなかった。

 しかし、その晩遅く、王がひとりでいるところへ、王のひとり娘はこっそりと訪ねてきて言った。
「こんな時間に失礼します。ただ私は、父上の当惑を少しでも和らげたいと思って参ったのでございます。

 実は私は、あの客人の話すのを、壁の後ろで聴いておりました。だから私は知っております。・・・私には分かります、あの方が妖精であり、神々の使いであることが。・・・ あの方が部屋に入ってきて、はじめて顔をあわせたとき、私はあの方の目の中に、今だかつて想像もしたこともないようなものを見たのです。それはひとつづきの、このうえもなく豊かな土地でした・・・ 青く澄みきった湖のまわりに滴るようなみどりの森や牧草地が一面に広がっていて、花が咲き乱れ、羊が草を食んでいるのです。そして私には分かったのです、これこそ、今から千年後のこの土地、コロフィンの姿であることが。・・・

 夏のめぐり来るたびに、こうしてこの都市の人々が悪い病気にかかり、死んでゆくのを、私は耐えきれない気持ちで見てきました。私ひとりが身代わりとなることで、こうしたことがもはやなくなるのであれば、私は喜んでこの身を捧げます。あの方の言うことは真実です。こうしてはっきりとこの目に見たのですから、この上何の疑問もございません。どうか父上、あの方の言葉を聞き入れて、リヴァー・ファーガスに向かって水路を掘ってください」

 王女の話し方はこの上もなく確信に満ちているようすなので、王は何も言うことができなかった。彼は自分の寝室に引き取ったが、思いに沈み、明け方までまんじりともしなかった。

 翌朝、人びとが起き出してみると、あのふしぎな旅人はすでに旅立ったあとで、その姿をこの地で見ることは二度となかった。彼らはいよいよ当惑するばかりだった。

 このことののち、王女ミーズは繰り返し父王に話しては、老人の告げたことを実行させようと説得するのだった。一方、彼女の婚約者のロンデナントは、自分の聞いたことにおののいてすっかりやつれてしまい、こもりがちになっていた。

「お前は自分のなすべきことについて確信に満ち、何の迷いもないのだ」と、王は悲しげに言った。
「私にはお前よりもむしろ、ロンデナントの方が気の毒に思える。あれは、お前と代われるものなら喜んでお前のために、自分の命を投げ出すだろう。いや、この私とて同じことだ、いやいや民のすべて、かの気高く心優しい者たち、誰に訊いても同じことを言うに違いない。ところが、ほかの誰でもなく、私のたなごころの真珠、都市の花であるお前が、このような定めを受けたとは!」

 王はそう言って涙に暮れた。けれども、ミーズはやさしく慰めて言うのだった。
「わが父上や、愛するロンデナント、それからこの都市に住むすべての気高く心優しい人々の心と、私の心もまた同じです。どうぞ悲しまないでください。私は喜んで自分のつとめを果たします、ですからあなた方もどうぞ、あなた方のつとめを果たしてください」

 それらの日々のあいだにも、疫病はますます広がって、毎日、人びとが死んでいった。
 通りで、辻々で、人びとは声をひそめて話を交わした。今やみんながこの話を知っていて、王やロンデナントと同じほどショックを受けていた。

 彼らはみな自分の仕事に誇りをもち、愛情こめて打ちこむ人々だった。
 ところが今や当惑と狼狽と掻き乱された心とが、彼らの手から力を奪ってしまった。あいかわらず朝になると仕事場へ出かけていったが、仕事は半分もはかどらなかった。採掘場で、工房で、彼らはうなだれては首を振った。あでやかなばかりの宝石類が、今では呪われたかがやきと見えた。みんなは乙女ミーズの運命を悲しみ嘆き、この谷と同じ重苦しい暗雲が、都市をすっかり覆ってしまった。

 こうしているまにも、疫病はますます広がって、人々が死んでいった。

 やがて、人びとの胸は重苦しい悲しみにふさがれたまま、ついにリヴァー・ファーガスに向かって水路が掘り始められた。けれども、彼らは硬い岩盤を突き砕くために、鎚をひと振り、振り下ろしては深いため息をつくので、作業は遅々として進まなかった。

 掘り抜くあいだに季節がひと巡りして、再び夏がやってきた。
 ついにある夕方、水路は完成して、あとは谷のすぐ手前まできた水と、この都市とのあいだをただひとつの水門が隔てているばかりになった。そのときまでに、都市のすべての者たちはわずかな手荷物をすべてととのえていた。美しいもの、貴重なものはすべて置いていかれることになっていた。


 その晩、宮殿では正式な晩餐会が催されて、都市に住むすべての者たちが招かれた。入りきれない人びとのために、中庭に食卓が用意された。そこで都市のすべての住民は王女ミーズの美しさと徳をたたえた。音楽が奏でられ、みんなは彼女の定めを思い、父王やロンデナントの悲しみを思い、また自分たちのゆく手にある困難な旅を思って涙を流した。けれどもひとりミーズだけは涙を見せず、優しく微笑んでいて、それを見るとほかの者たちはいっそう悲しみ嘆くのだった。

 夜明け近く、都市のすべての者たちは谷の上に列をつくって立ち並んだ。宮殿には王女ひとりが残されて、その門には鍵がかけられた。彼らはそこでふたたび涙を流した。それから水門が開かれて、水が谷の中へ流れこみ始め、この美しい都のうえに湖をつくりはじめた。彼らは涙を流しながら立ち去っていった。・・・

 ファーガス川のほとりで私たちは泣いた、竪琴をとって私たちは奏でた、失われたものを嘆く歌を、やがて来るものを待ち望む歌を、子らの子ら、すえのすえにまで伝えるために。・・・
 こうして流浪の民となって、彼らは千年のあいださまよった。・・・



 千年のあいだ、彼らは窮乏に耐え、不毛の荒野をさまよった。やがて父王は死に、ロンデナントも死に、その世代の人々もすべて荒野のおもてからいなくなった。けれども、宝石の谷と気高い王女についてのその物語は世代から世代へ、とだえることなく語り継がれ、そのあいだにいまや湖をなしたリヴァー・ファーガスは少しずつ、この土地をうるおして草木生い茂るみどりゆたかな土地に変えていった・・・

 そうして千年の月日のおわりに、その子孫たちがこの地へ戻ってくる。彼らはかつてのコロフィンのようすも知らない、物語もおぼろな口伝えにしか知らない、けれどもこの地にやってきたとき、そのあまりの美しさに打たれたようになって口もきけず、これこそ遠い昔、いつかそんなふうになると語られたコロフィンの姿なのだと知ったことだろう・・・

 やがて彼らはこの地をうるおすリヴァー・ファーガスのほとりに村を築いた、ほんの小さな村を、そのかみ優美な都とは比ぶべくもない、もはやその手は宝石を切り出すことも磨き上げることもなく、代わりに鋤を取って地を耕し、牛のために干草を刈る、けれどももはや疫病も早すぎる死もなく、そして今や、大地と空のすべてが宝石である、トルコ石の空、サファイヤの湖、リヴァー・ファーガスの水晶の流れ・・・

 気高く心優しい人びと、彼らは今でもそうだった、心やさしいコロフィンの人びと・・・私の泊まった宿の主人や、庭先で微笑んでいた金髪の少女、牛のスージーを呼び戻した夫婦、ダイサート・オディのグレイヴヤードに葬られた老婦人やその隣人たち・・・彼らはなべてその子孫なのだ。・・・



 錠の閉ざされた宮殿のなかでひとり残された王女ミーズ。それは彼女自らの願いだった・・・ 

「私を愛してくださるのでしたら」と彼女は婚約者ロンデナントに言ったのだ、「どうぞあなたがいちばんさいごに宮殿を出て、その手で錠を閉ざしてください。こうして私が、自分のつとめを遂げるのを手伝ってくださいますように」
 そして彼はとてもそんなことはできないと思ったが、しまいにはその言葉を聞き入れて、涙を流しながら自分の手で、さいごにその錠を閉ざしたのだった。

 広間を出るとき、振り返って見ると、王女はすっかり正装して、玉座の上に背中を伸ばして座っていた。そして彼のほうへ、勇気づけるように微笑んでみせた。
「あなたはこの谷を出て、生きつづけるのです」と彼女は言った。
「そしてぜひとも妻を迎えて、王家の血が絶えないようにしなければなりません。あなたは今や、王の息子なのですから」

 人びとがみんな行ってしまって、ひっそりとしずかになると、王女ミーズはなおも玉座に腰掛けたまま、じっと耳を澄ませた。あちらこちらから、しゅうしゅう、ごぼごぼ、色々な調子の入りまじった水音が聞こえてきた、水が谷に満ちはじめたのだ・・・ やがてひとすじの水の流れが広間の床の上を横切って、敷石のあいだにしみこんで消えた。ほどなく次のひとすじが、ついでまたひとすじがやってきた。・・・

 はじめて恐怖が彼女の心をとらえる、小さな叫び、回廊にこだまする駆け足の靴おと、長い衣の裾をたぐって宮殿のいちばん高い塔のてっぺんまで駆け上がり、窓をいっぱいに開いて見下ろすミーズ。
  水は都の半分ばかりをのみこんだところだった、とりわけ高い建物のいくつかはまだ顔をのぞかせていたが、いっぱいに水が広がって、谷の様子は一変していた。

  そのとき雲のあいだから太陽が射して、水のおもてをまばゆくかがやかせた。幻視のうちに彼女は見た、将来の----いまの----千年後のコロフィンの姿を。・・・あの朝私が見たと同じ、瑠璃色の湖面を、木立と牧草地のエメラルドに照りかがやく岸の丘を。・・・彼女は心打たれて見つめ、そして強められたにちがいない、「湖ができてゆく」彼女はつぶやいた、「事は果たされるのだ・・・」
 王女は誇りと落ち着きを取り戻し、自らの運命に向き合おうと大広間へ降りてゆき、浅い水をぴちゃぴちゃ跳ねかしながら自分の玉座に戻った。


 水がすっかり上がってくるまでずいぶん時間がかかるだろう、そのあいだ自分は苦しみながらゆっくり死んでゆかねばならないのだ、彼女はそう思っていた。
 ところが、ひとたび玉座のもといまで達すると、水が満ちるのは急に速くなった。あっというまに広間いっぱいに溢れ、一瞬のうちに何もかものみこんでしまった。

 そのあとのことは覚えていない、気がつくとぼんやりとした緑色の薄暗がりのなかにあった、窓から明るみが洩れてくるようだが、奇妙なぐあいに揺らいでいる・・・ ほんのいっときのようでもあり、おそろしく長い時間がすぎたようでもあった。
 己れが何者であったか、何をしようとしていたのか思い出せない、ただ何か重要な理由があって、千年のあいだここにいなければならなかったことだけを覚えていた。

 彼女はゆっくりと身を起こし、自分がみどり色の水のなかにいて、楽に呼吸できることに気づいた。かつての宮殿はびっしりとみどり藻におおわれて、水底の深い森と化していた。そして己れの姿は、両脚の代わりに銀色にかがやく鱗と尾ひれのある人魚の姿となっていたのだった。


「もう、千年はすぎたのかしら?」と彼女はつぶやいた・・・ 彼女は宮殿の門のところまで泳いでいって、錠に手を伸ばした。すると、彼女が手を触れただけで錠ははらりと崩れ落ちた。
 リヴァー・ファーガスのすべての魚たち、水へびたち、あらゆる水の生きものたちが集まってきて彼女を称えた、徳高きコロフィンの王女を。・・・これからは我々があなたの忠実な臣下、決して見捨てることのない友となろう、かつてあなたの都市の民がそうであったと同じように。・・・

 それ以来、時の流れはもはや人の子ならぬ身の、彼女にとって太陽の軌道のように、月のそれのようになった・・・ そのかみ都とともに湖の底深く沈められた処女ミーズ、そのさだめを大地そのものも憐れんだ、かくてその魂は別の生へと移され、水底にすむ精霊となって、彼女はいまもこの地に住む者たちを見守りつづけているのだ・・・


 彼らはみな知っている、インチクイン、かの湖で釣りをしていて、うっかり深みに飲みこまれかけた者たちや、泳ぎに来て溺れかけた子供たち、彼らが湖のなかで見た女、鈍くきらめく鱗をもった銀色の人魚のことを。・・・
 彼女がどんなふうに水のなかに現れ、その大きな、うつくしい瞳を見開いて腕を振って、・・・こっちに来てはいけない! と合図してよこしたかを、彼女がどんなふうに人差し指を唇にあて、ここで見た何ものをも、話してはいけないと伝えたかを。・・・ 
  そうして彼女が腕をとって、岸辺近くまで導いてやった者もあれば、ほんの小さな子供であれば、その腕に抱きかかえ、岸まで送り届けてやった者もあった。・・・


 この地に住む者で、いまも湖底に眠る宝石を求めて潜ろうなどと、大それた考えを起こした者などかつてなかった。彼らはひとたびそれを捧げ、ゆたかに報われたのだ、これ以上何を望もう?・・・
 けれども、万が一にもよそから人がやってきて、そんな企てを起こそうものなら・・・ 彼らははっきり知っている、大地の源を犯そうとするそのような者たちが、許されることはないだろう、必ずや湖底深くのみこまれ、生きて還ることはないだろう・・・

 コロフィン、ふたつの丘のあいだ。・・・ 晴れた日の湖のおもて、あの瑠璃の岩盤のようなけざやかな青むらさきの、そのおもてに浮かぶふたつの小さな島、葦のそよぐその眺めに、私は想像するのだった、そう、あのふたつの島のあいだにかつての都の城があったのだ、いまも湖底に隠されて、すっかり藻に被われて眠っている・・・


 あゝ、コロフィンの湖よ、空よ、木立の丘々よ、牧草地よ!・・・ あゝ、コロフィンの雲よ、虹よ、雨よ、満天の星空よ!・・・ 見るものなべてが宝石を思わせるこの土地で、けれどもふとした折に出会う不気味な光景・・・ みどり滴る森のなか、今もひっそりと苔むして残る岩々、薄明の霧のなか、メドウのかなたを彷徨う異形のものたち・・・ 
  それらは、そのかみ、それと知らずに犯された罪のためにそのあがないを、ひとつの都を、ひとりの汚れない処女を求めなければならなかった、人の心のあずかり知れぬ大地の不可解な暗さであるのかもしれなかった。・・・
 まさにそのゆえにも、この土地の美しさには、たんに絵画的であるばかりに終わらない、何か奇妙に魔法じみたところがあるのかもしれなかった。・・・