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Posted by つくばちゃんねるブログ at

2010年02月16日

コリブの水の記憶

愛蘭土物語 ゴロウェイ篇5
コリブの水の記憶 Memories of Loch Corrib
ゴロウェイの湖の物語
2006 by 中島 迂生 Ussay Nakajima


 丘々は覚えている、丘々のあいだを往きすぎる雲の群れも
 ゆらめく波をたたえた水のおもても覚えている、
 はるか昔 ここで起こったそのできごとを。・・・

 ロッホ・コリブは青々とした水をまんまんと湛えた広大な湖だ。
 地図で見るとほとんどゴロウェイ湾にくっつくようにしてその上部に横たわっている。
 ゴロウェイ湾の海水が溢れこんで一帯の土地を陥没させてしまったようにも見える。

 アイルランドじゅうの湖のなかで最大か、第二か知らないが、ともかくそれくらい大きい、
 不定形の、大小さまざま百あまりの島々を浮かべて。・・・
 そのいちばん端のところから、澄んだ、冷たい流れとなっていきおいよくゴロウェイ湾に注ぎこんでいる・・・
 毎年鮭の遡る、川越しに眺めるセントニコラス聖堂の美しいあのあたりだ・・・

 ゴロウェイからウタラアドまでは、えんえんと湖を右手に見て、ひたすらにそのほとりを往く。
 はるか遠方に岸は望めるが、あまりに広大で海のつづきのようだ、いちどきに全貌がつかみがたく、湖という感じがしない・・・

 ウタラアドはコリブ湖の西の端にほど近い、湖畔の小さな村だ。
 さいしょに行ったときは、スピダルから荒野を突っ切ってモイキュランで街道に至り、そこから街道に従って行った。
 スピダルには十日あまりいただろうか。
 引きとどめるものが何もなくなって、心が道の向こうに向かってはばたき、今いるところに閉じこめられているように感じたら、そのときが潮時だ・・・
 いつでも自分の心の動きに敏感でなくてはならない・・・

 彼地を発った日は、朝の早い時間は気持ちのよい、おだやかな曇り空だったのだが、テントをたたんで荷をまとめているうちにやわらかい霧雨が降りだして、たちまち荒野を、ぼんやりとした白いヴェールですっかり包んでしまった。
 この日の荒野の美しさ、ヒースも岩もしっとりと濡れて、霧のなかに見え隠れし、うちけぶって夢のような情景だ・・・

 内陸に向かって盛り上がる道みちに、私はいくたびとなくふり返っては荒野のうしろに横たわる海を眺めた。
 道の上り坂につれてうす青色にけぶった水平線も盛り上がり、しまいに霧にかすんで見えなくなった。

 荒野の道みち、霧雨のなかに、そちらこちら、ただヒースの紫いろとゴースの黄色とがぽつりぽつりとうちつづく、
 モイキュラン近くなって、しだい雨あしが強くなってくる、村へ下る木立にさしかかるほどには、ざあざあと激しく打ちつける雨の矢が梢をぬけて滴りおち、たちまち服の地を通して浸みてくる、遅まきながら騾馬をとめて、防水外套を取り出さなくてはならない・・・

 モイキュランの店先に騾馬をつなぎ、びしょぬれの外套で中に入ると、主人に少しくいやな顔をされた。
 食料品を買い足したあと、教会の軒下で騾馬を休ませ、ひと息入れる、これで雨のいちばん強いときをやりすごせたらいいのだが・・・
 ところがそういうわけにもいかない、待てど暮らせどいっかな降りやむようすもない、せんかたなく、再び旅の途につく・・・

 それでもなお、雨に滴る野はとても美しく、かぐわしく、私の心は喜びに踊った、
 なだらかに広がる牧草地のかなた、左手にのぞむ丘々は霧にまぎれて半ば隠れ、左手にはロス湖を擁した森がつづく・・・
 やがて少し上りになって、広々とした水のおもてがあらわれる、乳白色にかすんで鏡のようにじっとなめらかだ、細長く広がったロス湖のつづきなのだ・・・
 街道ぞいの農家の家並みの途切れたあたりからそのようすが見渡せる、野いばらのからんだ石垣の木戸のところに騾馬をとめてしばし眺める・・・

 ゆけどもゆけども白くなめらかな湖のおもてと、入り組んで迫っては退き、ときどき島をなしたりしながらうちつづく岸辺のみどりゆたかな木立とは途切れることなく、無限の変化のうちにどこまでも広がる絵巻物のようだ・・・
 長いこと進んでようやくロス湖は姿を消し、街道は森に入る、梢のあいだからしずくの滴りおちる木立の下を、ときおり、ごうごうとひびいて走りくだる、澄んだ冷たい渓流を、ひとつふたつこえてつづいてゆく・・・

 いちど、途中で裏道をとろうとして、入るところをひとつ間違えて、うっそうとした木立のなかをえんえん進んだあげく、ようやく間違いに気づいて引き返してきたところがあった。
 できることなら街道ではなく、村人たちの使う細道のほうがいい。
 たとえ不案内で、多少遠回りになったとしても。・・・

 やがて再び牧草地が開けてくる・・・
 結局その日は一日じゅう、雨が降りやまなかった。
 それでも、ウタラアドの村に着いたとき、暗くなるまでにはまだ十分間があった。
 ウタラアドは湖畔に位置していたけれども、ハイ・ストリイトから岸ほとりまでは半里かそこらあった。
 そこで、湖は明日行くことにして、その日は早々と宿へ引き上げた。

 騾馬を世話し、ぬれた衣類を広げて乾かし、ひと息ついてコーヒーを淹れる、平和なしづけさである・・・
 大した道中ではなかったが、雨に降られたり、道に迷ったりでかなり疲れてしまった。
 そのうえ、服をぬらしたのがいけなかったらしく、夜になるとひどく寒気がしてきたので、その晩ははやばやと床に入った。
 こんなふうに調子がよくないときには、屋根とベッドがありがたい、これ以上、ものをぬらす心配のないことが。・・・
 あたたかくして、よく眠ること、ただそれだけを考えていればいい、怠惰なまどろみのなかに、けだるい幸福感に包まれて、たちまち眠りに落ちてゆく・・・

 夜のうちに雨風はいっそう激しくなり、朝になってもまだつづいていた。
 パイプに火を点けて軒先へ出てみると、広々とした牧草地の向こう、暗く沈んだ木立を背景に、斜めに打ちつける雨が風に運ばれて波のように、足早にしゅっしゅっと白い濃淡を描いては、大地の上を駆け去ってゆく、あとからあとから、上から降るのではなく、横へ横へと走ってゆくのだ、やって来ては駆け去ってゆく、たえまなく次から次へ・・・

 一日じゅう、そんな調子だった。
 私はひねもす中にこもって、ときどき厚いしっくい塗りの壁に嵌めこまれた汚れた窓ガラスを指でこすってのぞいてみたり、またちょっとおもてに出てみたりした。
 いつ眺めてもやはり同じ、白い雨の群れ、波のように生垣の向こうを駆け去ってゆくばかり・・・

 私はとくに急がなかった、その日は宿の壁にかけてある波の絵や、荒野の湿地帯の絵を眺めたり、コリブの色刷りの地図、そのまわりに、岸辺に生える植物や、生息する生き物たちの細密画が描きこまれたみごとな地図を眺めたりしてすごした・・・
 宿はひっそりとしずかで、何もかもが平和だった。
 夕方にならぬうちからランプが入れられた・・・
 しだい夕闇のまさりゆく野辺の窓、ぽっつりと灯されたオレンジ色の光は、ほんとうにおだやかで美しかった・・・

 さいしょの幾日かのあいだに、私はこの村の周辺の簡単な地図を手に入れた。
  赤茶けてすみのところがめくれ上がっている代物で、もとは村の雑貨屋の壁にピンで留めてあったのだ。
 岸まわりを歩きまわるのに手頃な地図がほしかったので、これと同じものがあるか尋ねたところ、あいにくないが、よかったらこいつをやろうと、その場で壁から外して譲ってくれたのだった。
 
 宿へ戻ってからとくと眺めた。
 そのなかである一箇所、妙に気になる場所があった。
 何か重苦しい力が、磁力が働いて私を呼ぶようだ、湖の西の端、丘々のひと群れつらなるところに記された名、ヒルズ・オヴ・ドゥーン Hills of Doon・・・<砦の丘>というほどの意味だ。・・・
 ドゥーンという地名はこの国の至るところにあって、この国の闘争の歴史をしるしづけている。
 ごくありふれた名前なのに、それがなぜ?・・・
 しばらく考えるうちに、私は思い至った、ドゥーンということばのひびきが私のうちで韻を踏んで、ドゥームということばを思い出させるのだ・・・Hills of Doom、<運命の丘>。・・・
 その昔、この地でどんな運命のできごとが起こったのだろう?・・・

 ふたつの言葉のあいだに、語源的に関係のないことは分かっている、方やアイルランド語で、方や英語だからだ。
 それでも気になる、もしかしたらそのかみそれはほんとうに<運命の丘>だったのかもしれない、それがいつの頃か、呪いが解かれて<砦の丘>に変わったのかもしれない、誰が知ろう?・・・
 呼び声に促されるまま、私はそこへ赴くことにする・・・

 朝、目が覚めると、風はだいたいおさまっていた、けれどもこまかい霧雨は強く弱くあいかわらず、いつやむともしれない。
 まだ人の起きないうち、私はそっと宿を抜け出して湖へ出かけた。
 ハイ・ストリイトから三つ又に分かれた道のひとつが湖へ通じていて、少し行くと菜園や生垣のあいだを左に折れて黒く澄んだ流れの速い川を渡り、みどり濃き野辺をまっすぐにつっきってゆく。・・・

 道を逸れて岸辺へ、小さい赤い十字架の先から雫を滴らせる、咲き残りのフクシアの茂みや、のび放題のブランブルをかきわけて降りていってみる、
 わずかにさざ波だって広がるしずかな水のおもてと、岸からほど近く、まるく盛りあがったり、平たく広がったりする大小いくつかの島々、目下見渡せるのはさばかりである、
 その向こうにはさらにたくさんの島々が横たわるはずだし、木立に覆われた岸辺は左右にうち広がってどこまでもつづいているはずだった、けれどもいまは霧で見えない・・・

 道に戻って、<運命の丘>のほうへまだ少し行ってみた。
 状況は変わらなかった、どこで岸に降りてみても、何もかも白く煙って、見えるものといったらわずかにその周辺ばかり。・・・
 道じたいが、もっとも岸に近づいているときでも湖とはほそい木立の帯で隔てられていたし、そのうちだんだん岸から離れて、あいだに人家を擁したり、牧草地や広い森を抱えたりするようになって、雨はますますひどくなるし・・・
 結局湖の端まで行き着かぬうち、ふっと心が途切れて引き返してしまった。
 体調もまだ思わしくなく、夜になると熱がぶり返した。・・・

 別のときにはうっそうと茂った野を超えて細道を、湖の東側へも行ってみた。
 結果はさらに悪く、暗く波立つ湖面が十メートルばかり先で霧にのみこまれているばかり、あとは一面の真っ白だった・・・

 ここへ来る前、私はもちろん、この地にも溢れるばかり、すばらしい物語が私を待ち構えているだろうと思っていた。
 これほど広大な湖なのだ、この国でいちばんか、その次くらいの・・・それがどうして、物語のやって来ないわけがあろう?・・・
 それは私を待っているだろうと思っていた、たぶんこの地を踏んで、湖をひと目見ただけでそれは訪れてくるだろうと。・・・
 だが、こんな状態では何ができよう、そもそも<見る>ことさえ満足にできない状態では・・・
 私はとうから、湖が貝のように沈黙したまま、何も語りかけてこないのを感じていた。・・・

 次の日も同じだった、さらに次の日も。・・・
 満たされぬ心のままに、やがて私は思い出した、自然は物欲しげにのばされた手に何も与えはしない。
 忍耐が必要なのだ、忍耐と信仰である・・・
 かの美しい書物(*)のなかのその言葉を思い起こして、私は己れの性急さを少しく恥じた。
 私は湖がその気になるまで待つことにした。・・・

 来る日も来る日も、私は出掛けていって、その傍らに腰をおろしては、じっと耳を傾けた。 
 いっとき霧雨がやんで、わずかに視界の開けることがあった。
 すると湖面が少し広がって、さらにいくつかの島々の姿が見えるのだった。
 ときによっては雲間がとぎれ、まだらな薄日が射した。
 すると島々の、こんもりと茂った木立は照り映えてあざやかな黄緑色に光りかがやき、湖面からは水蒸気が立ち昇って、ゆらゆらと遠景をかき曇らせた・・・
 視界はむしろ悪くなり、むっとするような蒸し暑さだった。・・・
 
 幾日目かのこと、私はふと思い立って、湖尻近くの一軒の漁家に交渉して、小さなボートを一艘借り受けた。
 その日、漁師は朝方にすでにひと仕事終えたばかりで、湖面を望む庭先に腰かけて、網の繕いに余念がなかった。

「釣りをなさるだかね、若え衆?」
「いや。くにではやるがね・・・ここじゃ、道具もないし」
「そうけえ」彼はそう言って、ちょっと目を上げた。「そんならいいだ・・・だが、気が変わってやったとしても、わきに虹色のすじの入ったやつは獲っちゃならねえよ。かかったら、きっと話してやるこった。それだけ覚えときな」
「禁漁期かなにか?」
「いんやそうではない。おれらコリブの漁民は、こいつはどんなときにも獲らねえ。モイドアの家の者たちだからな」
「だれの家の者たちだって?」
「ここいらでは、昔からそう言うだ。・・・おらも、ガキの自分に親父に訊いたもんだ。だが、親父も知らなんだ。ただここいらでは、昔からそう言うだ、虹色のすじの入った魚は獲っちゃならねえ、あれはモイドアの家の者たちだからとな」

 彼の言う意味はよく分からなかった。
 しかしやがて舟を出し、波のあいだに漕ぎ入れると、何もかもすっかり忘れてしまった。
 あまり風がなく、空は曇りがちでおだやかで、ボート漕ぎには最良の日だった。
 私はゆったりと幸福な気持ちになり、ゆれる水のリズムに身をまかせて、波のまにまに、あてどもなく漂った・・・
 久しぶりの水の感触だった、あるときは力いっぱい漕いで櫂こぎの感覚を腕のなかによみがえらせ、またあるときは櫂を櫂受けにほったらかしにしたまま、舟底に寝っ転がって、淡い灰色と真珠色の雲のえがく模様を眺めていたりした。・・・

 いくつもの島々をすぎ、針葉樹の木立や、その向こうに紫色を帯びて盛りあがった丘々を連ねた岸辺の、刻々と移りゆく表情のままに往きすぎて、われとわが身は湖上のもやに溶けて流れ、無辺の水の上を彷徨うばかりである・・・

 それはいつでも同じだった、そのなかに己れというものを没し去ったとき、はじめてそれは口を開いて語りだすのだ、
 無限にうつりかわる湖のおもてに、その島影のあいだに、半ば浅霧にかすみつつ・・・
 あるいはおぼろに、あるいはさやかに、折り重なっていくつもの幻が訪れてきた、いまさらのように私は知った、これほど広大な舞台のうえには、やはり無数の物語がひしめきあっていたことを。・・・

 なかでもいちばん古い物語は水の神トリプマグダに関するものだった。・・・
 あるときこの力ある神がどこか東の方からやってきて、そう、その妻たちを伴ってやってきてこの湖に住みつき、やがて星のようにたくさんの、幸福な子供たちが生まれた。
 彼らはガラス玉がぶつかりあうような音を立てて笑いさざめき、走り回ったり、取っ組み合ったり、飛び回ったりしながら大きくなった・・・

 やがてそのなかの、いちばん大きい者たちが父親に言った、
「お父さん、私たちは数が多すぎて、この湖ではもう狭くなってしまうでしょう。
 どうか、私たちに別の場所を、もっと広やかな土地をお与えください」・・・
 すると、父、トリプマグダは笑って言った、
「お前たちはまた、ずいぶんと大きな口をきくようになったものだ!・・・
 見なさい、コリブは十分に広大であり、お前たちの数が今よりもっと多かったとしても、それでも広すぎるほどだ。
 しかし、お前たちがどうしても自分の土地を欲しいというのなら、私はお前たちおのおのに、この湖に浮かぶ島をひとつずつやろう。
 お前たちはそこで好きにするがよい」・・・
 そこで彼らは散っていって、めいめい好きな島に暮らすようになった。

 めいめいの島に暮らすようになったので、それからもう、彼らは以前のようにふざけあったり、笑いあったりすることがあまりなくなった・・・
 それでもときどきは互いの島を訪問しあって楽しく過ごすのだった。・・・

 それから何千年、何万年の時がたった。
 やがて彼らの言葉に、彼ら自身が追いつくときが来た、彼らのうちの多くの者が、やがて十分に成長して強い者となり、生まれ育ったこの地を去って、どこかもっと広い土地へと移っていった。
 生命の叫びに満ちていた湖のおもては、しだいひっそりとしずかになった。・・・

 ただもっとも幼く、小さい者たちだけがいまもこの地にとどまっている、
 人の往きやらぬ沖あいの島々のいくつかに住みつづけていて、今でもときどき互いを訪問しあう、たそがれの光のうすもやにかすむころ、もやに紛れて飛びめぐり・・・ ときどきは遠い昔のように、ガラス玉をぶつけあうみたいな笑い声を響かすのだ・・・

 神々の子供たち。・・・
 神々の子らと人の子らとの違いはどこにあるのだろう?・・・
 彼らは生まれながらにして完全で、我々よりも賢く、美しいのだろうか?・・・

 必ずしもそうではあるまいと、私は思う。
 我々よりずっと自由で、美しいにしても、彼らだって過つし、愚かなふるまいに及ぶこともあろう・・・
 ただ、我々と違って、彼らはいつまでも変わらない。ここが大きな違いなのだ・・・

 彼らは永久に彼ら自身のまま、だれも彼らの考えを変えさせようとしたり、その愚かなふるまいをやめさせようとしたりしない、
 そもそも正しいだとか間違っているとか、そんな区別を彼らは知らない。
 流れ去りゆく時の流れや、万物の移りゆくさまを超然と眺めて、彼らはただあるがままにありつづける、そうあることが可能だからだ・・・
 その欲するところは水の流れゆき、雲の流れゆくがごとく、彼らは遊ぶことに倦むことも、笑うことに疲れることもないのだ、今日も明日も永遠に。・・・

 思い馳せるほどにどうしてか、たまらない淋しさを私は覚えるのだった、
 それは自分たち、よきにつけ悪しきにつけ変わってゆくべく定められている人の子らに対してなのか、それとも変わることのない、彼ら神々の子らに対してなのか、よく分からなかった・・・

 不滅ならざる者、去ってゆくべき者が、とこしえなる者たちに対して憐れみを覚えるということがあるのだろうか?・・・
 彼らがついに、永遠の外側から自分たち自身を眺めることが決してできないということに対して?・・・

 これが無垢の時代、透明なあかるみに充ちていたころの、コリブの最初の物語である・・・
 時代がくだるにつれ、物語はしだいある種の暗さを帯びるようになってゆく、ほかのすべての場所においてと同じように。・・・

 ロッホ・コリブはいくどか血の紅に染まったことがある、このことはつねに、湖の西の端にある<運命の丘>と深いつながりがある・・・

 いちどはこの土地に繰り広げられたある大きな戦いに関することで、・・・神代の昔が過ぎ、英雄たち、巨人たちの時代に至ったときのこと、二つの勢力が、この地を巡って戦ったのだった、丘々のあいだにときの声が、重い足音が響きわたって・・・
 彼らはだいたい互角であったのだが、一方のなかに寝返って裏切りを働く者があって、敵方にこちらの動きを伝えたのだ、それでこちらは思いもよらぬときに攻撃を受けることになり、決戦はこの丘のうえで戦われた、おびただしい血が流されて、湖のおもてはその血で真っ赤に染まったのだ・・・
 こちら方もよく戦ったが、ついに敗走し、敵方の勝利するところとなった。
 しかし敵方の主将は、戦いののち、裏切り者を丘の中腹で斬り殺したのだ・・・

 あるいはまたこんなこともあった、さらにのち、王たちと騎士や貴族たちの時代に至ったころのこと、・・・
 この丘の上に城を築いた若い王があって、あるとき長いあいだ城を留守にして、旅に出かけた、そのあいだに彼の妃が側臣と通じたのであった、王は長いこと帰らなかったので、もう死んだものと思われていたのだ・・・
 のちになって王は噂を聞き、貧しい旅人に身をやつして戻ってきて、城に一夜の宿を乞うた、今や王の座に就いていた側臣はそれを冷たく拒んだ、そこで王はさっと頭巾をぬいで顔をあげ、側臣を見つめた、この私に見覚えはないか?・・・
 かつての主の面影をみとめた側臣はまっ青になり、がたがたと震えだす、そして王は剣を抜いて、彼ら不実な恋人たちをこの丘のうえで斬り殺した、そのときふたたび湖のおもては真っ赤に染まったのだ・・・

 いくたびかこうしたできごとが重なるうち、しだい不吉な暗い力が、この丘々のあいだを巡るようになった、人々はこの場所を恐れ、避けて通るのだった、あの場所に行ってはいけないよ、何か悪いことが起きるといけないからね。・・・
 こうした話はのちのちの世代にまで語り伝えられた、コリブの湖のおもてが血の赤に染まったら、それは何か大きな災いの前兆なのだと。・・・

 私がとりわけ心動かされ、ここにできるだけこまかく再現してみようとするのは、さらにもっとのち、王たちの時代も去って、こういう言い伝えが人々の暮らしのなかに根づいていた頃の話だ・・・
 おそらくこの水ほとりで起こった歴代のさまざまな物語の系譜のさいごをなすもの。・・・
 どちらかといえばささやかで、大した筋だてもない、だが重苦しい舞台立てにもかかわらず、透明な哀しみと美しさに満ちた物語、そしてとりわけ、曇りのない信頼と愛情のもたらす偉大な力についての物語だ・・・

 それは湖上にたつ波風のようにやってきて私をとらえた、その訪れ方もひとつの物語のようだった・・・
 ある朝早く、うっすらと霧に包まれたしずかな朝である、水のおもてはじっとなめらかに、気もちのよい涼しさ・・・
 遠くに見える舟影が、舟の上に立つ人の姿とその影とがすっと天と水底とに向かって、切り絵細工のように全く同じかたちにくっきりと浮かびあがる、島々はしずかに横たわる、ひっそりと水の上に佇んでいる・・・

 ふいの水音が私を驚かした、すぐそばで水の中から何かがぴしゃっと飛びあがって、すぐまた水の中へ消えていった。
 私は視界の端にその姿を一瞬見たが、自分の見たものに想念が追いつくのにしばらくかかった。
 それはわきのところに虹色のすじの入った魚なのだった・・・
 私は夢のなかに落ちこんでゆくような ふしぎな眩暈を覚えた。
 それはわざわざ私を見に来たようであった・・・湖の底深くに秘められた自分たちの物語に近づいてきたこの男、いまそのふちに立ってのぞきこもうとしているこの男は、いったいどんな人間なのだろうか、と。・・・

 別の日の夕方、私は湖のほとんど西端、<運命の丘>に近いあたりで舟を浮かべていた。
 夢ともうつつともつかず、ぼんやりと思いにふけるうち、あるときふいと、あらゆるひそやかなざわめきがふっつりとやんだ、ふいと何かを待ち受けるように、完全な静寂がおとづれた・・・
 そのとき私は目をあげて、幻を見た、<運命の丘>の方から、その霧のあいだから、ひとつの小さい人影がやってくるのを。・・・
 それはひとりの少女であった、粗末な服を着て、ほそい両脚は裸足だった、肩のあたりでとび色の髪が波打ち、大きく見開かれた水色の瞳はひどく寄る辺なく、愁わしげな。・・・

 彼女は岸辺まで降りてくると、片膝をついてかがみこみ、その腕を水中ふかく差し入れた、と、そのときふっと水のおもてが透明になり、ただ光のゆらめきだけを残して水面を覆いたるヴェエルのかき消えるように、水の下のありさまを私はまざまざと見た・・・
 あちらからもこちらからも、尾をひるがえして集い来るのだ、あの虹色のすじの入った魚たちが・・・
 この舟の舟底をすっとかいくぐって影がひとつ、また岸辺めざしてゆく、今やゆらめくひとつの群れとなって彼らは岸辺に集い、少女の腕のまわりを輪舞する、無限の愛情を、限りない優しさを交感しつつ、少女もまた魚たちを慈しみ、そのすべらかなうろこに沿って指を走らせる、いくたびもいくたびも。・・・

 どれほどの時がたっただろうか、やがて少女は立ち上がり、しずかに去っていった、再び<運命の丘>の彼方へ。・・・
 その姿を霧が閉ざす、魚たちもほどけ散って水中深く去り、水のおもては再び波にかき曇る・・・

 我に返ったとき、物語はその細部に至るまで、いちどきに私のもとへやってきた、そして私はようやく知った、なぜに湖がはじめ、あんなにも長いあいだ沈黙して、語ろうとしなかったか、そのわけを。・・・

 丘々は覚えている、丘々のあいだを往きすぎる雲の群れも。・・・
 ゆらめく波を湛えた水のおもても覚えている、はるか昔 ここで起こったそのできごとを。・・・
 たそがれのたびに思い出して、そのみなもを揺らす、その記憶を慰めるように、涙の日数を数えるように。・・・

         *

 湖のおもてが血の赤に染まったら、それは何か大きな災いの前兆なのだと、そういう言い伝えが人々のなかで語られていたころのこと。・・・
 あるときひとりの少女が<運命の丘>のうえで、コリブの水のおもてが真っ赤な血のいろに染まるのを見た。
 すると湖にすむ魚たちが彼女に告げて言った、
「あなたが見たとおり、遠からずこの地には大きな災いがある、異国の者たちがやってきてこの地を略奪し、家々に火を放ち、人々を殺すだろう・・・
 いま、命を長らえたいと思うなら、ただちにこの地を立ち去りなさい、そうしてこのことを、あなたはほかの人びとにも告げなくてはいけない」・・・ 

 そこで少女はその言葉を自分の家の者たちに告げ、自分の住む村の者たちにも告げた。
 村人たちはそのために少女を憎み、彼女とその家の者たちとをのけ者にするようになった。
 しかし家の者たちは彼女に言った、
「我々はお前の言葉を信用しよう。
 魚はそのように言ったのだろうし、じっさいに災いは起こるだろう。
 だが、我々はこの地を立ち去ることはできない。
 コリブの水は我々そのものだ。この地を去って、どうして我々は生きてゆけよう」

 それで、少女もその家の者たちもともに、ひきつづきコリブのほとりにとどまった。
 何年かがたって、そののち湖の魚がふたたび彼女に告げて言った、
「私がお前たちに立ち去るようにと告げたのに、お前たちは立ち去らなかった。
 今や、災いは目前に近づいた。
 さあ、私を水の中から引き上げて、家へ携えて帰りなさい。
 そしてお前もお前の家の者たちも、めいめいがひと切れずつ、私の体から食べなければならない。
 そうすれば、それによって私の力がお前たちの中に働くようになるので、私はお前たちを助けることができる。
 災いが迫るのを見たら、お前たちはみんなともに、どうかこの湖へ逃げるように」

 そこで少女は魚を水から引き上げて、家へ携えて帰った。
 家の者たちはみな、そこからひと切れずつ食べた。
 しかし、少女自身は食べなかった。そして、しきりと泣いて言うのだった、
「災いが迫ったら、どうぞ湖へ逃げてください」と。・・・

 翌朝早く、まだ夜が明けきらぬころ、異国の男たちが群れをなしてこの地に攻め入ってきて、略奪を働き、家々に火を放ち、人々を剣の刃にかけて殺した。
 しかし、少女の家の者たちは、まだ追手が追いつかぬうち、家を走り出て、つぎつぎに湖へ飛びこんだ。
 すると、飛びこむそばからその姿は魚となって、水底ふかく安全に逃れてゆくのだった。

 だが、少女自身は湖に飛びこまずに、<運命の丘>の方へ逃げていった。
 侵入者たちは途中まで彼女を追ったが、霧がその姿を隠してしまった。
 それ以来、少女の姿を見たものは誰もいない。・・・

          *

 丘のまにまに、はるかな呼び声が今もひびく、モイドア、モイドア!・・・

 雲の往きすぎては水のおもてを、たえずさまざまな色に染め変えつつ、移りゆくコリブのほとり、丘にも湖にも愛された少女。・・・
 小さい頃からものの感覚が鋭かった、水の色に、風のにおいに、人より先に変わり目を感じ取った・・・
 あの子には私たちに見えないものが見えるようだ、母親はそう言い言いした、あの子の言うことはいつだって違(たが)ったことがない、母さん、網を引き上げた方がいいよ、嵐になるって、燕たちが言ってる、するとほんとに嵐になった、ひどい吹きようだった・・・

 男の子が五人もつづいたあとの女の子で、みんなに可愛がられた、にもかかわらず、どこか奇妙によるべない感じがあった、ふっと淋しい目をすることがあった、いづこにも属さぬさまよいびとの面影を宿すことがあった・・・
 どこからその感じがやってくるのか分からない、それゆえ母親は不安に思い、それゆえますます可愛がった・・・

 彼女の家は村のいちばん外れだった、<運命の丘>にほど近く、湖畔、さいごの集落が尽きてなお半里ばかりいったあたり。・・・
 母親と、五人の兄と・・・ 父はすでに亡かった、それからおそらくは祖母がひとり、ほかに親戚の者がひとりふたり、それらがみんな一緒に暮らしていた・・・

 その家はどんなだっただろう、いまと変わらない、どっしりとして背の低い石積みの農家だっただろうか、しっくい塗りの、藁ぶきの・・・ 漁網やなにか、道具類が壁にかけられて、石垣や灌木の低い茂みに囲まれていただろうか・・・
 それとも、粗末な木の枝を組んでつくられたものだっただろうか、隙間には苔が詰められて、庭先には今と変わらずに、野の花が咲き群れていただろうか、犬が鼻先をわきにうづめて眠っていただろうか・・・
 わずかばかりの家畜と、わずかばかりの畑からとれる作物と、それから湖でとれる魚とが、彼らの暮らしを支えていたことだろう・・・
 やっと身を養ってゆけるばかりの貧しい暮らしだったかもしれない、それでもなお、彼らほどの幸を得た人びとは、地上のほかのどこにもいなかっただろう・・・

 湖畔のみどり濃い木立のあいだ、丘々のごつごつと岩の突き出た湿地の斜面を、心のままに駆けまわって育った、何ものも彼女を拒まなかった・・・
 春のさいしょに咲く花の場所を、忍びやかに歩く獣たちのすみかを、彼女はみんな知っていた・・・

 物心つくかつかないかくらいの幼いころ、湖岸近く、足首あたりまで水につかって遊んでいた少女のそばで、ふいに水音がした、一匹の魚が飛びあがって、すぐ消えた、ごく近くに、まるで彼女の姿を見にきたかのようだった・・・
 それまで見たどんな魚とも違っていた、それはわきのところに虹色のすじのある魚だった。
 そのあといくども、彼女はその魚を見た、湖で遊んでいると、どこからか集まってきて、少女の両足のあいだを泳ぎまわった、水の中でゆらめくようす、きらきらと鱗のかすかにきらめき、尾をひるがえして、何ともいえず美しかった、まるで夢を見ているようだった・・・

 <運命の丘>のあたりも少女はひとりで歩きまわった、朝に夕に、そこから見渡す湖のおもてはすばらしかった、かなたまで島々をたたえてどこまでも広がるそのようすは。・・・
 こうしてひとりで丘のあいだをぶらついていると何ともいえず和やかな気もちになった、不吉な場所だよ、あんなところに行ってはいけないよ、母親がいくど言ってもきかなかった、どうしてお母さん、あすこでなんにも悪いことに遭ったことなんかないのに。・・・
 すると母親は口をつぐむ、何ともいいがたく不安な面持ちで、両の手でモイドアの顔をはさみこむ。・・・いけない子、いけない子!・・・ 入口からさしこむ薄あかりがぼんやりと照らし出す、紡ぎ車の前に座った母親の姿、白髪まじりの髪がほつれて、顔のまわりをやわらかく縁どっている、モイドアとよく似た大きな瞳をして、ひどく美しい顔だちだのに、気苦労がそのおもてにしわを刻み、とても疲れて、年老いて見える、そのゆえになおいっそう懐かしく、慕わしい母の姿である・・・

 しばしば遠出がすぎて、少女は日が暮れるころまで戻らない。
 すると母親が、兄たちが出ていって丘のあいだに呼びかける、モイドア、モイドア!・・・ どこにいるの、戻っておいで!・・・
 彼らの言葉が聞こえているのに、彼女は岩のあいだに、木立のかげに、じっとひそんで動かないでいる、どうしてだろう、まるでわざと心配させ、あとから怒られる理由をつくろうとしているみたいに。・・・
 それでもいつだって、しまいには戻ってきた、どこからかひょっこりと、そしてまるで悪いことをしたと思っていない、大きな瞳を見開いて言う、どうしたのみんな、ちょっと散歩していただけだのに。・・・
 すると母親が叱りつける、心にもなくがみがみと小言を言いながら、しまいに泣き出してしまう、いつだって戻ってくる、分かっていた、けれど彼女の姿がなくなるたび、ひょっとしたらもう、これっきり見つからないのでは、そんな心配がとりついて離れないのだ、どこからこの感じがやってくるのか分からない、けれどその思いは執拗に取り憑いて、夜昼となくその心を苦しめる、いつかあの子は行ってしまう、自分たちをおいて、別れ別れになってしまう、そういう運命にあるのだという思いが。・・・

 その日、日の入りぎわ、それはふいに訪れた、少女は丘の上に立って、湖のおもてに照りわたる夕映えに見入っている、そのこの世ならぬ輝きにわれを忘れて。・・・
 と、突如、一瞬湖の色が変わる、血の色に、身の毛もよだつ深紅の色に。
 入り日の赤が映じたのか、さにあらず、どうしたってこんな真っ赤に染まりはしない・・・
 少女は息をのむ、と、次の瞬間にはもう、湖はもとの姿に戻って、入り日の金と桃色と、おだやかな薄紫とをたたえるばかりである・・・
 少女は目を見開いて、まじまじと見つめる、ふいに頭から血の気がひいて、すうっと冷えるような気がする、はじめて恐ろしさがどっと迫ってくる、今のはいったい何だったんだろう?・・・

 胸の動悸が少しおさまると、がくがくふるえる膝を踏みしめて、少女はいっさんに丘を駆け下ってゆく、残照のばら色をうかべた湖面の岸へ。・・・
 おそるおそる、岸に手をついて、彼女は水のおもてをのぞきこむ、それはいつに変わらぬ澄んだコリブの湖水である、けれど目を見開いて、取り憑かれたように目を離せない・・・目を離したがさいご、またあんなふうに真っ赤な血に変わってしまうかもしれない・・・
 
 と、水中ふかく、きらりと光るものがある、魚のうろこである・・・ あの魚たちだ、あちらからもこちらからも群れ集ってきて、水面近くを輪舞する・・・ やがてそのなかの一匹、とりわけ大きなのが水の上に顔を出して、モイドアをまっすぐに見る、そして口を開いて語りだす、はっきりとした、人間の言葉で。・・・

 モイドアは家に帰ると、すぐ母親に告げる、しずかな水のおもてにふいに石を投じたように、母親は彼女の言葉に顔色を変え、わなわなと震えだす・・・
 分かっていた、分かっていた、あの子がきっと、こんなふうなことを言い出す日が来るに違いないだろうことは。・・・そしてあの子の言うことだ、それはほんとうに起こるだろう・・・ けれどもそんなことが、この土地を出てゆくだなんてそんなことがどうしてできよう?・・・

 母親はうち沈む、深く思い悩む、機を織りながら、網を繕いながら、幾日ものあいだ、じっと考えている・・・ そしてとうとう言う、やはりできない、どうしてもそんなことは、この土地を捨てて出てゆくなんて、死んでしまうよりももっとひどいことだ。・・・

 だから彼らはまだいる、立ち去らず、ひきつづきこの土地で暮らしている・・・
 けれどももはや同じではない、来るべき災いの予告が、だれの心にも重くのしかかっている、片時も離れることはない・・・
 それになおも加えて、ひそやかな共同体の、人の輪の狭苦しさ・・・ 人の背のうしろでささやかれる言葉、あからさまな罵倒、信じがたい残酷さ、陰口、孤立・・・
 仕方ない、仕方ない・・・ 私たちは言わなければならなかった、ほかにどんな道があっただろう?・・・
 憂いに苦しみ、疲れながら、悩みながら、なおも彼らはこの土地を愛した、そのゆえにこそ、湖面はいよいよ青く、そのおもてはますます曇りなく澄んだ・・・

 いくたびかの季節が巡る、魚たちがふたたび告げる。・・・人々のこの地に寄せる思いを、彼らもまた憐れんだのだ・・・
 ためらってはいけない、拒んではいけない、私を水から引き上げなさい、家へ携え帰りなさい・・・
 モイドアは両手を水の中に差し入れ、すべやかな魚の体に触れる、魚は逃げない・・・ 少女はしずかに魚を引き上げる、魚はその手の上で大きく一回はねて、それからぱったり、動かなくなる・・・

 家ではだれもが感嘆した、こんなみごとなやつは今まで見たことがない・・・いったいどうやってつかまえたの?・・・
 魚は料理され、食卓にのぼる、だれもがその身から食べて、みんなに行き渡る、ただモイドアだけが手をつけようとしない・・・
 そのようすを見て母親は心配になる、どうして食べないの?・・・ 食べたくないの。・・・
 気分でも悪いのかい?・・・ いいえ。・・・
 モイドアは母親の顔を見つめる、その目に涙がいっぱいに湧きあがる・・・
 さあ・・・いい子だから、少しおあがり。
 モイドアは頑なに首を振って、ふいに外へ出ていってしまう・・・
 どうしたい、モイは?・・・ 妙に無口だね、あの子らしくもない・・・

 約束してほしいの、急に少女は言い出す、その晩遅くのこと、炉ほとりに安らい、夢心地にまどろみ集う時分のことである・・・
 約束してほしいの、災いが迫ったら、きっと湖へ逃げると。・・・
 彼らはぎくりとして身を起こし、互いに目を見交わす・・・
 それから母親が言う、モイ、私たちはお前の言うことを信じるわ。きっとそのようにしましょう。
 けれど、湖へ逃げてどうするというの、泳いで向こう岸にたどりつけるとでも言うのかい?・・・
 少女はじっと俯いてしまう。・・・
 彼らはふたたび目を見交わす、いちばん上の兄が言う、・・・分かった、ともかく、きっとそのようにしよう。・・・

 運命の朝、夜明け前の、まだ暗いころ・・・
 粗末なわらぶとんのなかで、モイドアがふいに目を覚ます、胸がどきりとした、かすかな声のひびきを聴いたのだ・・・
 急いで家の者たちを起こす、どうぞ逃げて、彼らがやってくる・・・
 窓とてもない小さな家である、あかりを灯すひまもない、暗闇のなかを手探りで、あわただしい気配、手近の着物を身につけるまももどかしく、次々と飛び出してゆく、だれも口を利かない、ただ一心に耳をすましつつ・・・

 一面の青い霧に包まれて、向こうの丘のすそ、斜面が尽きて木立が始まるあたりにふいと現れれる、見慣れぬ恐ろしい姿、馬にまたがった屈強な男たち・・・
 このときすでに集落のおおかたは焼かれ、人びとの叫びが火と煙の立ち昇るなかに響きわたっていた、少女が聞いたのはその叫びだったのだ・・・
 
 だれも口を利かない、一列になって、ひたすらに湖めざして駆け下る、はやくはやく・・・
 やがて次々と飛びこむその姿を、モイドアは岸辺に立って見守った、もうだいじょうぶ、大好きな人たち、優しくしてくれた人たち、彼らはみな安全だ・・・

 ただひとり、母親だけがさいごに残ってしばしためらう、いまこのとき別れの岐路に立っていることを、心のどこかで気づきかけたといったふうに。・・・
 お前はどうして行かないの、モイ、先へ行きなさい。・・・
 モイドアはじっと立って、必死な面持ちで首を振る、私は平気、母さん、どうぞ先へ行って。・・・
 彼女のところからは見えたのだ、泳ぎだした家族の者たち、その姿が波にゆらぎ、吹き寄せられてやがて流線形の、銀色のすがた・・・わきに虹色のすじのある銀色のすがたとなって、暗い深みへ消え去る前のほんのひととき、微かなきらめきを放つのが。・・・

 そのようすを見届けると、少女はくびすを返して駆けだした、できるだけ遠く、丘々の方へ、小さいころから歩きまわったあの<運命の丘>の方へ・・・彼女は知っていたのだ、自分が魚を食べなかったので、湖へ逃げても姿を変えて泳ぎ去ることはできないと。・・・
 何も期待したわけではなかった、もうどうあがいたって逃げられっこない、ただ残された時間の限り、本能のままに駆け去ったにすぎなかった・・・

 敵たちの放った矢が二つ三つ、少女のあとを追ってかすめた、やがて騎馬が追いついた、・・・
 ところがどうしたことだろう、少女は忽然と姿を消してしまった、折からの濃い霧にまぎれて、視界はほとんどなきに等しい、あの木立、かの岩間、しばらく探しまわる、まあいい、まあいい、放っておけ・・・こうして彼らは引き返していった・・・

 敵たちが彼女を見つけることはついになかった、<運命の丘>が彼女を憐れんで、その姿を霧のあいだに隠したので。・・・
 そのとき以来、<運命の丘>は<砦の丘>となったのだ、彼らが少女を、その敵たちからかくまったので。・・・
 
 そのとき以来、彼女の姿を見たものはだれもいない、そのとき以来、彼女は妖精や湖上の霧や丘々と同じ、我々の目には幻と映りながらなおとこしえに尽きることのない、別の種類の生へと移されたのだ・・・かの丘々のあいだを、永久にさまようべく。・・・

 モイドア、モイドア、どこにいるの?・・・
 モイドア、モイドア、帰っておいで!・・・

 母の、兄たちの、彼女を呼ぶ声が今もひびく、不吉な場所だよ、呪われたところだよ、あんなところで遊んでいてはいけないよ。・・・
 彼らの声を耳にしながら、少女は岩陰に隠れたまま、じっと息をひそめている、かつて戯れにしたとおなじように。・・・
 けれども、ものごとの境がやわらぎほどけ、こちら側と向こうの世界との境界があいまいになるたそがれどき、警戒心を解いた動物のように、きっと彼女はまたやってくる、彼らのもとへ戻ってくる・・・

 そういうわけで、コリブの湖畔に暮らす人びとは今も、わきに虹色のうろこのすじのある魚は食べない。
 姿を変えた、モイドアの家の者たちかもしれないからだ・・・
 いまも薄明のたそがれどき、霧に包まれた西端の岸辺に、ひとりさまよい歩く少女の姿を見ることがある、<運命の丘>の方からやってきて、やがて岸辺に膝をついてはしずかに水の中に手を差し入れる、と、きっとどこからか、魚たちは彼女のもとへ群れ集ってきて、その手のまわりを泳ぎまわる、いまも変わらぬ無限の愛情を交わしあう、ほんのひととき・・・

 その日私は<運命の丘>の中腹に立って、・・・いや、今は<砦の丘>となった・・・その中腹に立って、湖のおもてをはるかに見た・・・ 久しくとどまっていた雲塊の群れがついに立ち去りかけて、湖を光と影のまだら模様に染めていた、ゆたかに水を湛えたコリブの全貌を、私はこのときはじめて見たのだ・・・

 なにも珍しいことではなかった、こうしたことは、この国の至るところでいくたびとなく繰り返されてきた・・・
 そのたびに家族は引き裂かれ、愛されし者たちは剣の刃にかけられ、家々は火を放たれて灰燼に帰したのである・・・
 けれどもそれがすべてなのか、それがすべてなのか、否、死によっても力によっても消し去ることのできない光がひとつ、たしかに存し得たことを、ここに我々は知るのである・・・

 雲にかすむ彼方まで、そちこちにきらきらと光おどる、ヴェエルを外したコリブの姿を、そのとき私ははじめて見た、それは泣きぬれた顔をあげて、涙の果てにさす一条の微笑みを見るようであった・・・
 ねえ、これで分かったでしょう、なぜ・・・ たしかに私には分かった、湖がなぜ、これほど長いあいだためらい、語るのを差し控えて私を待たせたかを。・・・
 けれどもなお、私は知っていた、ほかに何があろう、私はいつまでも待つだろう、大地よ、お前の語る言葉を受け取るために。・・・

 なぜなら、然り、丘々は覚えている、丘々のあいだを往きすぎる雲の群れも。・・・
 ゆらめく波をたたえた水のおもても覚えている、はるか昔 ここで起こったそのできごとを。・・・


*リンドバーグ夫人<海からの贈り物>「浜辺」。