2010年08月31日

タリヴァンの雲男


瑛瑠洲物語(うぇーるずものがたり) ロウウェン篇2
タリヴァンの雲男 The Cloud Man of Tal-y-fan
2006 by 中島 迂生 Ussay Nakajima



1. 物語<タリヴァンの雲男>
2. リュウの宿にて
3. ロウウェンの午後
4. リュウでの一日

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1. 物語<タリヴァンの雲男>



 大らかで、ユーモラスな話。
 先の、太陽と風の娘たちの物語が、優雅で繊細な水彩画だとしたら、こちらは太い線の、墨の筆で一気に描きあげたような力強い調子の口絵が似合いそうだ。・・・

 誰でも知っているように、ウェールズは雲が多い・・・たいていの場合、雲はいくつもの塊になって彼方からやってきては、次から次へ、そろって海のほうへ流れ去ってゆく・・・
 空の表情は千変万化してとどまるところを知らず、地のおもてもまた、流れゆく雲むらの影を映してまだらに染まりながら、目まぐるしく濃淡の色あいを変えて尽きることがない・・・

 雲の晴れ間から、雲男が大股に丘々を跨ぎ越えてゆく姿が見えることもある・・・そういうときの雲男は、頬をいっぱいに膨らませて雲の群れを追い立てながら、ぼろぼろの着物の裾をひらひらさせ、革紐で縛り上げたブーツのかかとを高く蹴上げて軽々と走ってゆく・・・

 そうかと思うと、時には急にものぐさの気にとりつかれて、ごろんとひっくり返ったまま麦わらを噛みかみ、空をぼんやり眺めるほかは何もしない、それこそ指一本動かさなくなることもある。
 そうすると地上はすっぽりと雲に覆われたまま、一条の光も射さなくなって、どんよりと暗くなる。・・・

 むかし、そういうことがいちどロウウェンの山の上であった。
 ロウウェンの村の真上、タリヴァン山の頂き近くに四十日間もどっかりと雲が垂れこめて、日を遮り、かといって雨を降らすまでもなく、ひたすら重苦しい曇天が来る日も来る日もつづいた。
 花は色褪せて落ち、雌牛は乳を出さなくなり、人びともふさぎこんでつまらぬことで苛々として争った。

 そのころ、村の羊飼いにホニンという若者がいた。
 彼は村人たちの元気のないようすを見て心を痛めていたが、とりわけ恋人のメサビのやつれようときたら見るも哀れだった・・・日に日に食事も喉を通らなくなって透き通るばかりにやせ衰え、しまいに家の中に閉じこもって窓さえ見ようとしなくなった。

 ・・・どれもこれもこの変てこな天気のせいだ。こんなふうにどんよりと曇ってばかりいるのは、山の上に雲男が居座っているせいに違いない、と人びとは言い言いした。
 そこでホニンは雲男と話をつけようと、いつものように背嚢を背負い、羊飼いの杖をついて、タリヴァン山のてっぺんへ登っていった。

 そこで彼は、毛あしの長いじゅうたんのように一面敷きつめられた雲の上で、雲男がごろんとひっくり返って眠りこけている姿を見出した。ぽかんと大口を開けて、ものすごいいびきをかいていた。
 彼がいびきをかくたびに、山々は震動してがたがた震えるのだった。おかげでホニンは耳がおかしくなりそうだった。

 そこでホニンは、ありったけの大声でどなった。
「やい起きろ、このぐうたらの雲男め」
 すると、少しして、いびきがとまった。雲男がのっそり身を起して、目をこすってぱちくりやった。
「何だ、このちびの虫けらめが。お前はいったい、何者だ」

「俺は、ロウウェンの村の羊飼いだ」とホニンは言った。
「お前のおかげで、俺たちはたいへんな迷惑をしているのだ。いつまでこの村の上に居座っているつもりなのだ?」

 すると、雲男は頬をぼりぼり掻いて、それからうーんと伸びをしながら、あごが外れそうな大あくびをした・・・たちまちすさまじいつむじ風が起こり、ホニンはすんでのところで雲男の口の中にすっぽり吸いこまれそうになったけれども、何とか岩にしがみついて踏みとどまった。

「虫けらのくせに、大層な口をきくもんだな」雲男は、めんどくさそうに言った。
「誰に向かって喋っていると思ってるんだ・・・お前の羊の群れに向かってか」

「自分のほうが場所をとるからって、偉いと思うなよ」と、ホニンは叫んだ。
「俺にとっては、羊も雲も変わりやしない・・・言うことを聞かない奴は、杖で追い立ててやるまでだ」

 そうしたら、雲男はふふんと鼻で笑った・・・「できるもんなら、やってみるこった」
 そうしてまた、ごろんとひっくり返ってしまった。

 けれども、ホニンが耳元でぴょんぴょん飛び跳ねてどなりつづけるので、ぐっすり眠るわけにはいかなかった。
 ちっぽけな存在だからといって、大きな相手を悩ますことができないわけではない・・・たとえば、蚊や蝿がいい例だ。あのちっぽけな体で、自分より何百倍も大きな牛や人間を、どれだけ悩ませられるか考えてみるといい。

 ホニンの場合も、ちょうど同じようなわけだった。
 雲男はひっくり返ったまま片手をのばしてホニンを捕まえようとしたが、彼は器用に身をかわしてさっと指のあいだをすり抜け、ますます力を得てどなりつづけるのだった・・・

 とうとう雲男は腹を立て、飛び起きると、本気でホニンのことを追いかけ始めた。
 ホニンは、喜んで叫び声をあげた。あっちへ、こっちへ、さんざんに引きまわして雲男をへとへとに疲れさせてから、急に向きを変えると、雲男の股のあいだを走り抜けるついでに羊飼いの杖でその足をひっかけてやったので、彼はもんどりうってどしんと雲の上に尻もちをついた。
 あとで聞いたら、下界ではどんがらがっしゃん、すさまじい雷がひびいてこの世の終わりかと思われたそうだ。・・・

 雲男が態勢を立て直せないでいるまに、ホニンは背嚢から羊の毛を刈る鋏を取り出すと、えいやっと雲男の尻に突き立てた。
 とたんに雲男は吠え声をあげて六ヤードも飛び上がり、毒づきながら転げるようにタリヴァン山の山裾を駆け下っていった・・・自分のまわりの雲の群れも、残らずあとに引き連れていった。
 それが、タリヴァン山で雲男を見たさいごだった。・・・

 そのとき、ロウウェンの村には四十日ぶりに光が射したかと思うと、まもなく大空いっぱいに太陽が、眩しく照り輝きだした。人びとは家から走り出てきて、眩しそうに目を細めて、久方ぶりの青空を仰ぎ見た・・・
 
 ホニンが山から下ってくると、村人たちは牧草地の上にテーブルを持ちだして、酒瓶やあらゆるごちそうを並べ、盛大な宴会を始めたところだった。
 けれどもホニンがいちばんうれしかったのは、恋人のメサビの家の扉が開いて、彼女がとうとう姿を見せたことで、まだ青白かったけれども、あかるい日の光のおかげで、そのおもてにはばら色の微笑みが戻っていたのだ。・・・
 
 そのときからこのかた、タリヴァン山の上に雲が長くとどまることはめったにない。
 雲男がここを通りかかるといつも、刈り鋏でしたたか突かれたことを思い出しては、尻をさすりさすり、雲の群れを追い立てて、足早に駆け去って行ってしまうからだ。・・・

               *             *

2. リュウの宿にて



 リュウでのさいしょの滞在はことのほか印象深かったので記しておきたいと思う。
 タリヴァン山の中腹のそのコテッジは、前章に書いたようにとても険しいところにあって、辿りついたときには疲れきっていた。
 夜までラウンジで本を読みながら熱い紅茶を飲み、ビスケットを少しかじった。
 そのうちに窓の外で谷間がゆっくりと青く暮れてゆくほど、宿の主人が暖炉に火を焚きつけてくれる・・・ 火ははじめのうち気乗りのしないようすでつむじを曲げていたが、やがて勢いよく石炭をなめて燃え上がった。
 ここに輪の中心ができて、人びとが集まってくる。・・・

 山の上の淋しい宿だが、客は私ひとりではなかった。
 幼い子供を連れた家族もあって、夜になると小さい女の子たちが賑やかに駆けまわり、そのうちにバラバラッと色鉛筆の箱を取り出して、窓辺のところに座って絵を描きはじめた。・・・
 外の闇と淋しさが私たちを結びつけ、ここににわか仕立ての家族がひとつできあがって、夜更くるまでとりとめもなく、ぽつりぽつりと静かな会話がつづいてゆくのだった。・・・

 山の上だけあってひどく冷えた。・・・
 水はといえば、山から直接引いてくる、氷のように冷たい水だ。
 だからぱちぱちとはぜる炎や、ちくちくする灰色の毛布の手触りが快よいのだった。・・・

 その山に宿したさいしょの晩、私は奇妙な夢を見た。夢の中で、私は今以上に無力であり、飛翔するための翼をもたなかった少年の日に戻ってしまっており、・・・あろうことかそのうえあとにしてきたはずの故郷の地に戻っているのであった。私は何かうまい具合に言いくるめられて、故国へ戻る機上に乗せられてしまったのだ。・・・

 こういうことには覚えがあった・・・幼いときから、何度も何度も。・・・
 何度我々は言いくるめられ、肝心な点を告げられず、己れの望まない木戸へ追いこまれ、角を矯められ、骨抜きにされてきたことか。・・・それらはみな、ゆくゆくはより大きな力に我々を服従させるための、周到に練られた下準備だったのだと、今では分かる。けれども、それと分かった今、もはや屈してしまうわけにはいかないのだ。・・・

 身近な人びと、あるいは融通のきかぬ制度というかたちをとった不可知の力、私の身の自由を奪おうとする、善意にみちた力に対して、私はもはやかの遠い日々にしたように屈してしまいはしなかった、私は決然として戦った、私は狂ったように暴れた・・・ 「この地にいられるあいだのただの一日でさえも、私にとってどんなに貴重だか、あなたたちには全然分かっていない!・・・」

 そう叫んでいるところで、私は目を覚ましたのだった。
 私は興奮冷めやらぬままベッドを出て、窓辺へ寄った。・・・
 窓の外には、曇り空の、ウェールズの景色が広がっていた。・・・風がびゅうびゅう吹いて、寒そうで、夜明けだった。・・・朝霧にかすんで木立はうっすら青みを帯び、半ばまだ眠っているようだ。・・・

 私はしずかな喜びが、深ぶかと心の底にまで滲みとおってゆくのを感じた。・・・
 あゝよかった!・・・ 私が決然として戦ったので、こうしてまたこの地に戻ってくることができたのだ。・・・
 そこでほっと吐息をつくと、朝までもうひと眠りしようと、心も穏やかに再びベッドにもぐりこんだのだった。・・・


3. ロウウェンの午後



 二度目に目を覚ましたとき、しずかな雨が降り出していいた。
 こういう日にはいちにち宿で過ごして、熱いお茶などすすりながら書きものをするのに限る・・・
 昼過ぎまで食堂に残り、居心地のいい窓辺から降りつづく雨を眺めて過ごした。
 宿には誰もいない、ひっそりとしずか、ただ鳴き交わす羊の声がひびくばかりだ・・・
 
 午後になって、少し小降りになったところを、ぶらぶら村へ下ってゆく。・・・
 宿のまわりは、森と牧草地が半々くらいだろうか、ただ道は大方木立のなかを抜け、牧草地に接するところでも道沿いにはずっと木が茂っている、道のきわにはしだ類が群れ生え、清水のふちに沿ってごろごろまるい岩ころがみどり色の苔に包まれて、空気は冷たく、単調なみどり一色だ。木々のみどりと湿った苔の葉の匂い・・・ 何千という葉の一枚一枚から雫を滴らせ、休みないしずかな雨音である・・・

 当地の石垣、荒々しい石を組んで築かれた、モルタルを加えぬままの、何やら古代遺跡のような原始的な迫力のあるあの石垣、それからメドウのところどころ、木立に半分隠れている石造りの家々・・・それらは何かを思い出させる、そう、田舎で昔ながらのやり方で焼かれる、どっしりとして重たい灰茶色のパンの塊、あれにとてもよく似ている・・・ それから草を食む羊たち、重なりあって上へ上へとつづくメドウ・・・ウェールズの風景。・・・

 村に近づくにつれ、あの独特の、<歯をもった>石垣が目につく・・・ へりのところに不ぞろいな薄い石板をラックの皿のように隙間なく並べていて、それで歯をもった下顎のように見えるのだ。たぶん、いつか天から上顎が下りてきて、ガッチャン! と組み合わさるのだろう。その日、石垣の上に腰掛ける者は災いである・・・

 ロウウェンの村を歩くのは、絵のなかを歩くようだ。
 どの家もどの家もばらが花盛り、道の両側にはだれが植えたでもなく、マーガレットや黄色いラグウォートや、色んな花が溢れ咲いている・・・
 家々はどれも重厚だがわりと小ぶりで、平屋も多い、どれも窓枠やドアをきれいな色で塗ってあって、どの村も同じ、村のいちばん中心に、いちばん古くて感じのいい家並が残っている。

 

 家々のひとつずつが今でも目に浮かぶ・・・ 山道を下って村へ入る、Y字路のところの家、石壁に、窓枠は黒塗り、それに赤とピンクのばら、そして石垣にふちどられた草道が裏手へ回っている・・・
 ハイ・ストリイトから右手に折れるところに斜めに建つ家は、漆喰で塗りつぶした白壁に水色の窓、それが群れ咲くコスモス色のむくげの花によく映える・・・
 その向かいはくすんだ風合いをそのままに残した石壁で、深紅と薄黄色のばら、それに青紫のラヴェンダー。

 Lavender's blue, lavender's blue, lavender's green... 
 If I were a king, then you'll be a queen...

 どの窓辺にも小ぎれいなカーテンがかけられ、彩色されたお城だの、せともののネコだの、ガラスや真鍮でできた妖精たちだの、そういうしょうもない小物たちが大切に飾られている。・・・
 そんなふうな窓辺を見て歩いていると、私の心には祖母の代の人びとの、どんながらくたでも心をこめて丁寧に扱うその手つきが思い起こされてくる・・・その心のこもった手つきのせいで、何の役にも立たない飾りものたちは何かしら価値を帯びて、オーラを放ちはじめるのだった。・・・

 雨足が強くなってきたので村のパブに入る。・・・
 薄暗いなかに、客はわずかに二、三人である・・・ なかのひとりはカウンターの真ん中に陣取って、パブの親父をつかまえ、さっきからえんえんと喋りつづけている・・・
 ビールを半パイントだけ注文して窓のそばに座り、高く低く喋りつづけるだみ声を聞くともなしに聞き流し、通りに降り注ぐ雨を眺めた。・・・

 雲の垂れこめる日は、暗くなるのが早い。
 ランプが明るみを増し、村人たちが集まりだした頃合いを見てパブをあとにした。
 山の上の宿に着く頃には、とっぷりと青い夕闇のなかで、下界の村々にぽつりぽつり、小さく灯りがともっているのが遥かに見渡されるばかりである。・・・


4. リュウでの一日



 あくる朝、目覚めると雨はあがっていた。
 がらんと誰もいない階下へ降りてゆくと、食堂のテーブルに窓からしらじらした薄日が射して、何やらしみじみと懐かしい・・・
 この安っぽいビニールびきの、陽気な花模様のテーブルクロスと云ひ、使いこんですり減った木の椅子と云ひ、祖母の家の朝の食卓なのだった。

 それから私は思い出す、日の光の射しこむなかに漂うコーヒーの香りや、ハムエッグののった皿からほんわり匂ひたつ湯気、トーストに塗る苺ジャムの瓶や、ハート型の柳編みのパン籠・・・
 異国にあって呼び覚まされる、遠い日の記憶である、ここに時間はまどろみのなかで沈澱し、ただその表面だけが、しずかにゆらゆらとしてイマージュの連鎖をいざなふ。・・・

 朝のあいだに雲は吹き払われて、広々と青く晴れ渡った。
 その日はいちにち、何もしないで、ただ眼下に広がるコンウィイ・ヴァリイのようすを眺めて過ごした。
 たしかにそれだけの価値はあったのだ・・・あまり際限なく広いので、じっくり見るには一日では足りないくらいだ。
 こんなすばらしい眺めが、私の訪れなかった計り知れず長い年月、来る日も来る日もそこにあって、来る日も来る日も日の光と月の光に照らされ、雨風を受けてきたのだった。
 それは信じがたいことだった、考えると眩暈を覚えた・・・

 谷あいの斜面は緑ゆたかだ、かなりの割合をもこもこしたカーペットのような森が占め、それがコンウィイ川の流域近く駆け下り、あるいは丘々の中腹を駆け上るにつれてかすれたように疎らになって、ブロッコリの株がボコボコと立ち並んでいるのを遠目に眺めたような具合になる。
 丘の上のほうの木が生えない部分では、牧草地を区切った幾何学もようの生垣や石垣が、地平のかぎりほんとうにどこまでも、幾千となくひとつひとつくっきり見える。・・・

 夕刻になって、中へ入ってほどなく、さあっと雨が降りはじめた。
 日の光のなかで、どこまでもくっきりとしているのもいいが、少し雨まじりに青くかすんでいるのはもっといい。 そのようすを窓から眺めているのもいいものだ・・・冷たい雨に包まれた山々の情景を、ぬくぬくと居心地のいい窓の内から。・・・

 夢の中で<太陽と四人の娘>の物語が訪れてきたのは、その晩のことだった。
 リュウでのこのさいしょの滞在はほんの三日ほどだったが、その二年後にこんどはもう少しゆっくり過ごすことができた。この章の<タリヴァンの雲男>をはじめ、そのほかの物語は、その二度目の滞在のときにやってきたものだ。


























  

Posted by 中島迂生 at 14:38タリヴァンの雲男