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Posted by つくばちゃんねるブログ at

2010年08月31日

コンウィイの霧の娘

瑛瑠洲物語 ロウウェン篇3
コンウィイの霧の娘 Mistress of Conwy Valley
2006 by 中島 迂生 Ussay Nakajima

 コンウィイの霧の娘がドラム山の山の神に恋をする・・・ラファエロ前派の絵にあるような、青衣の乙女のイメージ。・・・

 北ウェールズの谷間の夏は青い印象である・・・
 夜明け、すもも色と紺と青むらさきとに染め分けられた丘々の陵線、そのドラマティックなことは、劇場の幕開けを見ているようだ・・・

 日が高く昇るにつれ、谷間は朝もやに包まれて青くおぼろげに微笑み、逆光のなかで木立の輪郭だけが浮かびあがる。・・・
 もやが溶け去るにつれ、透明な強い日射しがいっぱいに溢れ、丘々の果てまで、ずっとずっと遠くまで、キンキンと、青い光に照り輝いて。・・・
 昼の日射しまでが青いのだ、青い光が木立や牧草地を染める、空の青が滲み出していたかのように。空気がとても澄んでいるからだ・・・
 やがて丘々のかなたから、鈍い銀色と真珠色の雲むらがあらわれて谷の上に広がり、重なりあったひだのすそを灰紫にけぶらせて、ゆっくりと海の方へ流れ動いてゆく・・・

 夕刻になると霧が出てきて、谷間は青みがかってぼうっとかすむ、あらゆる水のおもてから、海からも川からも霧が立ち昇って、谷間のかなたまで、川すじに沿ってうっすらかすむ・・・
 その中に町の灯が、オレンジの光が潤みながら煌めいて、コンウィイ湾のあたり、光のつぶを連ねた首飾りのように、ちろちろと瞬き光る・・・

 やがて砂洲を残して、しずかな鏡のような海のおもてが白くなって、・・・そう、ちょうどそんな時分である、夕べの涼しさに誘はれて、ひとときばかりそぞろ歩きしようと、あの娘のおぼろな姿が 川すじの霧のなかに立ち現れるのは。・・・

 霧の娘はコンウィイ湾の、きらめく海のほとりに住んでいた・・・毎日、青い夕闇のとばりに包まれて、水のおもてから霧が立ち昇るころ、娘は霧に立ちまぎれて川ぞいに登ってゆき、谷のあいだを彷徨い歩くのだった・・・朝になる前に戻らなくてはならなかった、日が昇ると、霧の娘は光の中に溶け去って消えてしまうからだ・・・

 ある日の夕方だった、霧の娘はいつものように川ほとりを散歩していて、ちょうどドラム山の山の神がふもとへ下ってくるのに出会った。
 山の神は革の腰帯に横笛を下げ、その目はいきいきと澄んで、その青銅の足はしっかりと地を踏んで、颯爽と歩いてやってきた。

 霧の娘は目を奪われて、立ちどまった。「何とすらりとして、美しい若者だろう」と娘は思った。
 山の神のほうも、娘の姿を目に留めて、「何と清らかな乙女だろう」と思った。

 そこで山の神は娘の手をとって、ドラム山の頂上へ連れてゆき、二人は並んで腰をおろした。
 青い夕闇のなかに、すばらしいパノラマが広がっていた。
 霧の娘はそれまでいちども山に登ったことがなかったので、そこからの眺めにすっかり夢中になった。
 自分の住んでいる海が、はるか遠くまで広がっているようすにびっくりした。

 彼らは、そこから見える山々や、丘々を指しては語り合った。 
 あちこちの山の名や、その土地のようすなどを、山の神は話して聞かせた。

 地上がすっかり闇に閉ざされてしまうと、空には満天の星が輝き出した。
 霧の娘は、こんなにたくさんの星を、こんなに間近で見たことがなかった。
 山の神は、星々の名やその軌道について、あれこれと話して聞かせた。
 二人は一晩中、たのしく語りあった。

 やがて東の山々の陵線が白みはじめた。
「帰らなくては。朝が近い」と、コンウィイの霧の娘は思った。
 けれども、山の神は娘の体をしかと抱きすくめて放そうとしなかったし、娘のほうも、甘い眠りに身も心もとろけたようになって、どうしてもふりほどくことができなった。

 朝のさいしょの光が射した。
 山の神の腕の中で、娘の体はふっと透き通ったかと思うと、またたくまに光の中に溶けて、すっかりかき消えてしまった。

 山の神は嘆き悲しんで、娘を想って横笛を吹いた。
 淋しい、ほそい笛のひびきが、ドラム山の険しい山肌にひびき通った・・・

 いまでも夕暮れどき、川沿いにうっすらと霧の立ち昇るころ、ふたたび霧のなかからあたらしく生まれて、川のほとりを歩いてゆく娘のすがたを目にすることがある・・・
 青いヴェールをまとい、その軽やかな足取りはほとんど地のおもてにもつかぬばかり、永遠に清らかな面立ちをたたえて、恋人に、ドラム山の山の神に会いにゆくのだ・・・

 ああ・・・ほんとうに、何と綺麗なのだろう、コンウィイ谷の夏の夕べ。・・・
 午後の九時半ばかり、丘のこちら側の影がだんだんに伸びていって、谷を挟んで向こう側の丘々をすっかり覆ってしまう、するとがらりと表情が変わって、地のおもてはうち沈む。・・・
 そのうち、丘々の色あいが空の色あいとさほど変わらなくなる、かすかに紫色を帯びた、同じ青色に染まって。・・・

 やがてしだいに風景の細部、ヘッジや石垣のラインなどもうまぎれて見分けがつかなくなって、パッチワークのなかで黄色とかベージュの牧草地だけが、ぼんやりと四角く浮かびあがる、黄色みを失って、蒼ざめたチーズみたいに。・・・
 しまいに大地ぜんたいが暗やみの中に沈み、宵の空は夢のような青色にぼうっと霞んでゆく・・・このどこまでも限りなく広い、豪勢な眺め・・・
 丘々のはじのところ、折り重なった陵線が遠く遠くはるかにけぶる、大気全体が青く染まる、窓辺のガラスも、コーヒーカップも、わが身も心もすっかり青く染まる、コンウィイの谷のうらけき宵辺である・・・

        *

 以下の数節は、リュウのコテッジにあった散策案内をざっと訳したものである。
 当地の風土をつかんでいただくための資料として添える。著者名なし。
 固有名詞はウェールズ語である。主として当地で入手した<ウェールズ語の地名の読み方>という小冊子に照らし、また当地の人びとにたずねた子音の発音なども参考にしてカタカナ表記を起こした。
 致らぬ点ご教唆願う。

 ロウウェン周辺 Around Rowen

 このあたりの土地のおもてには、数知れぬ歴史的な、あるいは古代からのしるしが刻み残されている。

 リュウのコテッジをすぎてつづく道は、ずっと下の方の谷のコンウィイ川 the Afon Conwy に沿って下ったところにあるカノヴィウム砦 the fort of Canovium から上がってくる古代ローマ道が今に残ったものである。両方とも北ウェールズの軍事的征服のために使われた。さいしょは紀元58年ごろローマ軍によって、そののちには告白者エドワードによって、さらにのちには<丸頭>たち the roundheads によって。

 ローマ道路のこの道すじはやがて開けた山の上に至る。
 そこは北にタリヴァン山 Tal-y-fan の高みを、南にはドラム山 Drum のいただきをのぞむ<ブルク・ズヴァーン> Bwlch-y-ddeufaen (二つの石のあいだ)である。道のいちばん高いところにある二つの石は、年代のはっきりしない有史以前の一本石である。それをすぎて、さらに遠く、ローマ道路はアベル滝 the Aber falls の下にあるアベル Aber へ向かって進んでゆく。

 このあたりでもっともよく知られた古代遺物はおそらく、リュウのコテッジから道を半マイル登ったところにある<マーンヌ・バルズ> Maen-y-bardd (吟遊詩人の石)であろう。
 それは石器時代の巨石墓である。たてに立てられたいくつかの石の上に、大きな平たい石がひとつのっかってできている。道をもっと行くと矢石群とストーン・サークルがある。この墓は、北ウェールズにある他のものと同じく、おそらく族長の墓標である。この地域の1:25000の縮尺の地図をよく見ると、このあたりにはたくさんのケルンや、墳墓や、ストーンサークルがあるのが分かる。そのことは、このあたりが、新石器時代の人々の中心地であったことを示している。

 タリヴァン山の東側、まるい塚を形成している山の突出部分の上には<カール・バック> Caer Bach (小さな砦)がある。それは二すじの塁に取り囲まれている。そこから遠くないところに聖ケルニン St. Celynin の古代の教会がある。その主な部分は十三世紀の建立である。

 谷を横切って南へ向かう、いちばん近い丘の上には<ペナ・ガール> Pen-y-Gaer (峠の砦)がある。塁や壕、とがった石や環状の兵舎群がはっきり識別できる、ドラマティックな峰の上の古代丘砦である。


 ミステリアスな石たち

 コテッジをすぎ、山を越えてアベル Aber へ至る小径は、地図上ではローマンのものということになっている。しかし、ここにはローマ軍による占領のはっきりした痕跡はなく、もっと早い時代の土木事業の遺跡が数多く見られる。四千年か五千年前にここに住んでいた人々は、そのしるしを埋葬室や、立石や、ストーン・サークルのかたちで残している。

 コテッジから道なりに丘を登っていくと、<マーンヌ・バルズ> Maen-y-bardd に行きあたる。三つのどっしりした石が、四つ目の石を支えているかたちの建造物である。その名は<吟遊詩人の石>を意味し、かつての(しかし今は否定された)ドルイドの生贄説と関係がある、何か不吉な含みをもっている。

 それは現在では、ドルイドの時代よりずっと以前の埋葬室であるとされる。今それを見る限り、こうした建造物を埋葬のために使うことの実用性を理解することは少し難しい。ぞれゆえ人々は、ここにもうひとつの説が浮上したゆゑんを見ることだろう。立石や、人の手で刻まれた巨大な石のかたまりの目的についても、それらは同じ神秘に包まれている。それらは小径のゆく手に次々と現れる。それらは何か宗教的な意味をもっていたのか、あるいは単に古代の道すじをしるしづける目印にすぎなかったのだろうか? ブルグ・ズヴァーン(二つの石の道)に至るみちみち、いくつの石を数えられるか見てみるといい。二つよりはるかにたくさん数えられるだろう。
      

Posted by う at 15:02コンウィイの霧の娘