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Posted by つくばちゃんねるブログ at

2014年05月17日

片づけについて 8-部屋とは統治すべき王国である-

 

ものの「よい」持ち方について考える。

本とかをどんどん増やしていたころ、うっすら考えていたんだよね。
このままいったら山にうずもれてにっちもさっちもいかなくなるのは分かってる。
どうするのがいいんだろって。
今日の自分より明日の自分、それよりもっとあさっての自分、ってどんどんよくなってくのだ!という信念はいいとして、ものの持ち方に関してはどうなんだろ。
よくなるというのが、いまあるものを捨ててもっといいものを手に入れる、ということでないのは分かる。
でも、よくなる=さらにたくさん持つ、ということなのか?
だとしたら、ものを持つということに関して「よくなる」には、もっと広い家に住んだり、レンタルスペースを持ったりする必要があるのか?

あるとき読んでた本に、こんな一節を見つけた。
それは片づけとはあまり関係ない、どっちかというと精神論的な本なんだけど。
自分の心の中に何を取り入れるか、注意深く見極めないといけない。
なんでもかんでも受け入れるのではなく、自分にとっていいものとよくないものを見極めて、プラスにならないものにはノーという強さが必要。
そうやって、心の中の「いいもの率」を高めていくことが必要なんだと。

「いいもの率」っていう考え方かー。
総量ではないんだね。パーセンテージの問題ね。
なるほど。これ、ものの持ち方という問題にもあてはまるな。

文字通りの自分の部屋に受け入れるものにおいても、「いいもの率」を高めること。
持ち物においてどんどんよくなってくというのはつまり、そのなかで「自分にとってのよさ」の純度が高くなってくということなのだ。
ものを100個もっていて、そのお気入り度平均が30%であるより、30個しかもっていなくてもそのお気に入り度平均が85%だとしたら、そっちのほうが「よい」持ち方だというわけ。
だから、ものを増やさなくてもものの持ち方に関して「どんどんよくなってく」ということは可能なわけだ。

   *

であればもう、100%好きじゃない限り家の中に持ち込みたくない。できれば。
結局100%愛せないし、うまく手放すのもたいへん。
どこにも引き取ってもらえなくて行ったり来たり、ものにも気の毒だ。

自分でも、めったなことでは買わないようにしよう。
困るのは、人からもらった場合。
いまいち気に入らないと、置いておくのもどうもなんだし、かといって処分するのも相当の罪悪感が。

なかでも困るのが、ネコグッズ。
みんな私がネコ好きなの知ってるのでいろいろとネコグッズをいただく機会が多い。
その気持ちは大変うれしいし、大感謝なのであるが、実は好きであるほどこだわりがあってうるさいのだ。
誰でもそうじゃないかと思う。
正直、市販のネコグッズで気に入って自分で買うものってほとんどない。
100%ドンピシャってめったにないのだ。

わが身を顧みて、人に対しても、何が好きだと知っているからといって安易に贈らないようにしよう。
100%気に入ってもらえなくて、かえって迷惑になるかもしれない。

逆に、大事な相手だからというので自分にとってとても大事なものを贈っても、価値観は人それぞれだからいまいちよさを分かってもらえないこともある。
全然感謝されなかったりする。
そういうときに怒りを感じないでいるのは難しい。

そういうことにならないために、大事な相手でも、自分にとってほんとうに大事なものは手放さないこと。
自分の心は自分で守らないといけない。

   *

ものをきちんと管理するということ。

それを考えるに当たっては、自分が自分の部屋というひとつの王国の王さまで、国の在り方、国政の在り方を考える、くらいの気迫と覚悟をもってのぞんだほうがいい。
それほど、ものの秩序をキープしておくってたいへん。
それだけのためにけっこうなエネルギーを要する。
どういうかたちで、何に入れてどこに並べておくとか。

それをやってるとやってないでは、法治国家と無政府状態くらい違う。
どこに何があるかちゃんと分かってると、ものを取り出してくるのは単に「参照」だ。
ところが、ちゃんと管理していないとそれは「探索」→「発掘」もしくは「発見失敗」となる。

とりわけこの、行方不明物という不満分子。
見つからないものというのは、それ自体の価値はともかく、ただ見つからないというだけで人の注意を惹き、落ち着かなくさせる。
あることが分かると、気にもしなくなるのに。
喪失というのは、人に限らず、ものにおいても、それについて考えさせる強力なモチベーションとなるのだ。よかれあしかれ。

ものの価値を使用ということに限っていえば、どこかにあるのは分かっていても見つからないのは、ないと同じこと。
必ずしも使うものじゃなくても、あることは分かっていてもじっさい手に取ってみることができないと、なんかいらいら、モヤモヤする。

モヤモヤするのはそれが見つからないことそのものだけじゃなく、自分のものをきちんと管理できていないことへの自己嫌悪なのだ。
自分の国民が地下で勝手な真似をやっているような、いやな気持ちにさせられる。

でも、そもそも探さなければ、ないことも分からなかった。
そういう意味で、自分の管理能力を顧みるという点でも、ときどき自分の持ち物を全部洗ってみるって大事。

   *

とくに、自分の作品。
いままで粗末に扱うことが多かったなって反省する。
作り終えてしまったもの、興味をなくしてしまった分野のものなど。
それで物事が三回転くらいしてから、あれ私、前にもどこかでこんなようなもの作ってたな、と思い当たることになる。

いまはもうやっていないことでも、すべては職歴と同じで、動かしようのない自分の歴史なのだ。
だからとっ散らかしたままでおいてはいけない。
水をまき散らさないように、カタチにしてまとめていったほうがいい。

あとは、いっぱい積みあがっていくなかで、いつかはまとめなきゃ、と思っていてもその形を思いあぐてねていたものとか。
それらはどこかのタイミングで、形がはっきりし次第ちゃんとまとめていく。

   *

さいごに、整理が必ずしも至上の正義ではない場合。
何がどこにあるか、きちんと分かっていたほうがいいには違いないが、すべてがそうではない。
いまはまだ片付けないほうがいい領域、まだ手をつけられるほど自分のほうが成熟していない領域というのもあって、そこを強引に片付けようとしてはいけない。
あるていど闇とカオスの部分も残しておいたほうが。

ものも結局人間の精神の反映で、理屈や仕切りでは割り切れないものがある。
とくに作品は。
自分で生み出したものの価値を、自分で分からなかったりするから。
よく着物は買ってから十年箪笥の中で寝かせておく、みたいな感じで、書き上げた時は駄作と思っても、しまいこんでいる間にいつのまにか熟成して、あとから読み返したらこれ面白いじゃん、みたいなことがある。
でも、忘れている、というのは自分で意識してできることじゃない。
こればかりは、私の王国のなかで私よりさらに偉い君主であるミューズそのひとの司る領域なのだ。






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Posted by 中島迂生 at 23:59Comments(0)身辺雑記片づけ2013-2014

2014年05月17日

片づけについて 7-別部屋というブラックホール-



別部屋というブラックホール。
めんどくさい問題ほど、正面から立ち向かうのが結局いちばん早い。

ここ15年くらい、自分の部屋に入りきらない色んなものを別の部屋などに置いていた。
置いた当時はそうするしかなかったと思う。貸しスペースみたいのまで考えていた。
いろんなものを素材としてとっておいた時期もあったし、ものを書いたり、個展をやったり、イベントをやったり、劇団をやったりと、つまりは際限なくものが増えるような活動ばかりやっていたから。
でも、やっぱりそういうのはよくない。自分のものはあくまで自分の部屋の中で責任をとらないと。

今回の片付けプロジェクトを始めてから、この別部屋分がさいごの課題で。
自分の部屋内分、だいたいめどがついたのでいよいよ取り掛かることに。
こういうのは一気にやらないと。少なくとも、一気にやるつもりでかからないと。
とにかくものすごい埃とカビなので、広げておく時間を最短に、さっさとやらないといけない。

納戸に置いていた服類、一気にぜんぶ持ってきて、部屋の床に広げ、その場で処分するものと洗ってまた使うもの、またはリサイクルに出すものなどに分け、袋にまとめて隅に積み上げた。
納戸は風の通りが悪く、とにかくカビがち。
知ってはいたけどここまでとは思わなかった。
片付けてると強烈なカビ臭に息が詰まりそうになり、これは服より自分の健康のほうが大事だわ。
服をきちんと保存するって難しい。
でも、そんなこともあっていろいろと答えが出たのはよかった。

もうひとつの別部屋に置いてあったダンボールや袋類など、これも一気にぜんぶ持ってきて床に積み上げると、部屋がそれでいっぱいになってしまった。
その場でモノをすべて出して、埃だらけのダンボールなどの入れ物を、その日のうちに重ねて燃えるゴミへ。
それからざっと分類して、明らかにいらないものをゴミの日別に袋にまとめて隅に積み上げる。

これはもういいよねって、時が解決してくれたことがけっこうあった。
情報誌関連や、カタログ類、IT機器などはとくに顕著。
とっとかないといけないかなと思っていても、置いてあるうちにものすごく埃をかぶったり、変色したり、とっくに情報が古くなっていたり。
そうするとなんかほっとして、もういいよねってなる。

始めると早い。手早くどんどん選別していく。
この中でほんとに大切と思えるのはほんのちょっぴりだと分かっていたから。
とっておくものとじっくり向き合うという点でも、定期的に棚卸ししてチェックって必要だな。
自動的に何でも生き残るの確定なら、検分されるためにつくづくと見返されさえしない。結局死蔵ということになる。
それではとってある意味がない。

ほんとは場所別にやってはいけないそうで、モノのジャンル別にやらないと二度手間になると。
それはたしかにそう。二度手間になってる。
改めて、紙類は増やすもんじゃないなとか思ったり。
でも実質、ここはこういうふうにしかできなかったな。しょうがない。

   *

今回見つかってうれしかったのは、譜面台とマイクとギタースタンド。
かなり前から、どこかにあったはずだと思って探していた。
ギタースタンドは、持ってたことすら知らなかった。ギターかアンプ買ったおまけとかではないかと。
前のギタースタンド、壊れてからしばらくもガムテープで補修しながら頑張って使っていたのだけど、ネックの支えがくるくる回ってしまって何とも手の施しようがなくなって処分してから、ギター置くとき困っていた。
あと、ヘッドセットも見つかったのだけど、耳に当てる部分が触ると崩れるほどぼろぼろになってた。

いちばんびっくりしたのは、中学のとき聴いていたラジオ。とっくに捨ててしまったと思っていた。
白かったはずが赤茶色みたいなものすごい色になってた。
黒のマジックで猫の落書き。今見てもなかなかいい。
E...のあとすっかり消えてしまっていて、何と書いてたのか全く思い出せず。
2日くらいして急に思い出した。Easy to bed and easy to rise と書いてたんだった。
それでオールナイトニッポンとかこのラジオで聴いてたのだから矛盾してるw

あと、版画が3枚。小学生くらい。
なかの1枚は、彫ったことすら忘れていた。

高校のときの教科書類。
高校は楽しかったからそっくりとってあったのだけど、この機会にさすがにだいぶ選別して減らした。
ただ、講師などずっとやっていたので、教科によっては自分の勉強にいまもわりと参照したりする。
英語の文法書などとくに。
2桁の引き算で挫折したので、その後の私の人生に算数はない。
でも、数Ⅰと代数幾何はとってある。
火星の言葉よりちんぷんかんぷんだったが、先生がいい人だったので授業は嫌いじゃなかった。
方程式を展開した藁半紙の手書きのプリントとか、なんか捨てられない。

さいごに洗濯機をひっぱってきて、とりあえずは撤収終了。
洗濯機、せっかくあるから使いたいなとはずっと思ってたのだが、置く場所のことを考えてずっとペンディングで来てしまった。
中に置くと場所をとるし、排水の問題が。
だからベランダに置きたいけど、ベランダの強度の問題と、あとやっぱり電気系統には、外はきついかなと。
で、とりあえず中に。
気の滅入るような濃紺なので、その日のうちに白ペンキで塗り上げた。

分類して積み上げた不用品の山も、それぞれの日まで置いておかないといけない。
集積所にもっていって、「ありがとうございました」と一礼して、はじめて終わる。
それまではいろいろと、中途半端な思いを引きずる。
そういう色んな思いを味わうところまですべて含めて、それで片づけなのだと思う。

   *

例によって、この部屋のもののうち書類関係がいちばん時間をくった。
こいつは最後まで床に積んでおいて、1週間くらいかけて、いちおう全部に目を通し、不要な部分を捨てていく。
書き散らしとか作品系はとりあえず触らず。
昔描いたイラストとか、これはうれしい。久しぶりに目にするとテンション上がる。

そして、全然ときめかない大昔の領収書や契約書なんかの事務系をおもに整理。
あらためて、知らない頃はほんとにいいようにされてたなって思う。
いろんなところで、取られるだけ取られていた。

いまはあるていど以上高額なものはめったに買わなくなった。
高いお金を出して、それに見合うだけの価値を得られたと感じることってほぼ皆無だったもの。
やっぱり、調べること、知っていることって大切だなと改めて思う。

   *

15年ぶりくらいに再会したものたちもいっぱいあって、いろいろと考えさせられた。
そこにあるものが自分の歴史。
それはそうには違いないけど、あくまで一部でしかない。
もうそこにはないもの、ものの形では残っていないものもたくさんあって、それらもまた自分の歴史をなしている。
それらのことも、忘れないように。






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Posted by 中島迂生 at 23:49Comments(0)身辺雑記片づけ2013-2014

2014年05月17日

片付けについて 4-魂のパターン-

 

ひとつひとつの雪片が 集まって韻を踏み始める
雪の結晶のような魂のパターン。

それは、ジュリア・キャメロンがアートについての本で書いていた表現。
忘れがたく印象的な比喩だ。

魂にもパターンがある。
壁紙の花模様のパターンのように有機的なパターン。
雪の結晶のように、けれどそれはひとりひとり違い、どれひとつとして同じものはない。

今回色んなものの片づけをするなかで、時系列的に自分の歴史を振り返ることで自分のそういうパターンがよく見えてきた気がする。
それも片づけの大きな効用のひとつだ。
片づけ、これすなわち己れを知ること。

色んな年代の、教科書なんかの余白の落書き。
ダントツ1位はもちろんネコで、これは歴史始まって以来変わらない。
なかでもグレイの縞ネコ。
タッチやディテールは時代時代でいろいろ変わるけれど。

2位はたぶん、トカゲ・ドラゴン系。
竜はトゲトゲした陸生のものからぬめらかな水生のものなど、いろんなバリエーションが。

3位は馬・ユニコーン系。
こんなとこにもユニコーン!って今回あちこちに発見。

ほかにも昔からよく描いていたモチーフ。
翼。
木の葉、枝など。
クモの巣。
星と三日月。
などなど。

クリスマスのこと、コスモスのこと。
ずっと以前のメモにもほぼ同じこと、書かれていた。

劇団で舞台化したアイルランドシリーズに顔を出す、雅歌のイメージ、人魚のイメージ。
アイルランド行く前に書いた別のシリーズに、すでにあった。

昔からのポストカードのコレクションを見返すと、同じような構図のネコの写真や、「冒険者たち」のなかでジョアンナ・シムカスが着ていたみたいな金属片を連ねたドレス。
同じようなイメージが繰り返しあらわれる。

それらはすべて、私が昔から愛していたものたち。
そういうものは、変わらないらしい。

昔の資料を振り返ることは、ひとつの輪を完結させることを促す。
たとえば、イラン映画の<ルナ・パパ>という作品を昔とてもすばらしいと思っていて、同じ主演女優が出ている別の<ツバル>という映画のフライヤも持っていたのだけど、そちらは見たことがなかった。
そのフライヤを久しぶりに目にして、その映画のことを考える。
すると、次にツタヤに行ったとき、立ちどまったコーナーでそいつのDVDの背表紙が目に飛びこんでくる。

結果としては、やっぱり<ルナ・パパ>のほうが好きだなと思ったけど、とにかくそれを機に、ネットでいろいろと調べてみる。
すると、監督のファイト・ヘルマーがヴィム・ベンダースを師と仰いでいたなんていう情報が。
ああ、そういえば、<ミリオンダラー・ホテル>と似た雰囲気を感じたわけだわ。

すると、急にアキ・カウリスマキの<白い花びら>の原作者は誰だっけ、というのが気になり、調べてみる。
すると、原作者のユハニ・アホが、イプセンはいいとして、なんとドーデの影響を受けていたんだって!
ああ、たしかに、「2軒の宿屋」や「アルルの女」と通じる悲哀を感じるな。

あと、高橋静男さんがこの人について本を書いていて、それにもびっくりだった。
まぁ、でも言われてみれば、たしかに同じ北欧文学か。

私のなかでつながっていたいろいろなものが、私の外でもいろいろとつながっていく。
なんだか連想のしりとりをしているような。
どこまでいっても同じひとつの輪のなか、みたいな。
進歩ないっていうか、人間変わらないなっていうか、さいしょから全部知っていたんだな私、みたいな。

むしろあらたな岐路に立つときほど、こうやって体系的に自分の歴史を振り返っておくことが大切だと思う。
自分の根っこの部分をよく知っておくこと。
人の生き方は一本の木のようなもので、この先どうやってどっちに向かって伸びていくべきか、根っこのあり方を知ることで見えてくる。
まだ見えていない部分も含めて、全体でひとつの有機体なのだ。
どんどん新しい局面を迎え、新しいことに取り組んでいると思っても、あとから振り返るとやっぱりそうだよね、なるほどねって思う。
同じ轍のあと、同じ樹脈のパターンを見出すのだ。

そのことが分かっていると、むしろ安心して新しい星に乗りこんでいける。
どんなに今までにない、新しいことを始めても大丈夫、それらはすべて私なのだ、すべては正しいのだと。








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Posted by 中島迂生 at 23:43Comments(0)身辺雑記片づけ2013-2014