PR

本広告は、一定期間更新の無いブログにのみ表示されます。
ブログ更新が行われると本広告は非表示となります。

  
Posted by つくばちゃんねるブログ at

2014年02月05日

うるわしのフォーリヤ



うるわしのフォーリヤ


 思ひ見んや わが うるわしのフォーリヤ
 緑ゆたかな野をゆきて
 アリスの巣をはるかあとに
 うるわしの車軸をとおく離れて

 彼がさいしょに森の中でジョルジョムを見つけたとき、それはどちらかというと、動物というより、キノコみたいだった。でっかい、平べったいキノコだ。毛むくじゃらの。
 そいつは見るからにみじめそうで、とても哀れなようすをしていた。けれど、いったいどこがどう悪いのか、どうにもよく分からないのだった。ヴィクトールはそれでいろいろ考えてみたあげく、とりあえずそいつに、本を読んできかせることにした。
 そこで彼はいったん森をあとにし、四月のあかるい陽ざしをあびて、
キンポウゲや忘れな草や、いろいろな愛らしい花々が咲き乱れる草原を横切ってうちへ戻っていった。
 書斎の扉を開けると、中はうす暗くて、しずかにふり積もった時間の かびくさい匂いが鼻をつく。

 天窓をあける。背の高い本棚を、はしごでのぼって。
 窓はギイと重い音をたてて開き、そこから差しこんだ光に、金色の埃が舞いおどる。
 ヴィクトールは目をこらして棚をしらべ、適当に何冊かをひきぬいて腕に抱えて、さっきの森のところへ戻った。

 ヴィクトールがそのわきに腰を下ろし、本を開いて読みはじめると、そいつは何も言わず、だまって耳を傾けていた。
 ほんとうを言って、そいつは、全くのところ、半分キノコだった。あんまりもじゃもじゃ毛が生えていて、どんな顔をしているのかさっぱり分からなかったし、そもそもどこに顔がついているのかも不明だった。
 足は四本とも地面から生えていて、引っこ抜いて歩きまわることができないので、それでずっと同じ場所にいるしかないのだった。
 こんなのは、フォーリヤにずっと住んでいる者も、だれも見たことがなかった。 後にルイザが意見したところでは、雨が変に降ったものだから、まちがってそんなところに生えてきてしまったということだったが・・・いったい、そんなことって、あるものだろうか?

 ほとんど毎日、彼はジョルジョムのところへ 本を読んでやりに行った。
 彼は手あたりしだい、何でも読んだ。
 ダンテ、ヒエロニムス、ボッカチオ。
 それに、プラトンの国家篇。
 どれも、えんじや青の布ばりの、ぶ厚くて重たい本だ。
 どれを読んでも、そいつはだまって聞いていた。

 もちろん、ヴィクトールにはヴィクトールの生活があって、それなりに忙しかったから、いろいろとやることは尽きなかった。

 川向こうにはささやかな畑があって、
 からす麦やじゃがいもが育っていたし、
 青い星のような矢車ぎくや、淡いピンク色のけしも咲いていた。

 じょうろを手にして 橋をわたる。
 石できずかれた 古い小さな橋を。

 夜明け前、玄関のポーチに置いた 古い籐椅子に腰かけて、
 そうして じっと待っている。
 そうしていると、いつだって期待を裏切らない。
 やがてさしそめたまぶしい朝陽が、
 大地のふちをきらきらかがやかせながら
 大空の上へかがやき出てくる。
 ・・・また あたらしい、まっさらな、生まれたての一日のはじまりだ。
 こみあげてくる喜びに、ヴィクトールは我知らず うっとりと微笑む。

 ポーチのわきの 古い苔むしたみずがめには、
 おじいさんの代から 年とった水の精が住んでいる。
 雨水のたまったかめをのぞきこんで「おはよう」と言うと、
 にごった暗い水の中から 水の精がみどり色の頭を半分だけ出して、
 めんどくさそうに「ん。」と返事をする。
 いつだって水の中で ぼうっと頬杖をついて、
 起きているのか 眠っているのか分からない。

 石のテーブルの上でパンを切る。
 読んできかせる書物を積み上げながら、
 途中でふっと手をとめて思いにふける。

 読んで聞かせるようになってから、
 彼はことのほか、思いにふけることが多くなった。
 彼はフォーリヤに生まれ、フォーリヤに育った。
 ほかの場所のことは、なんにも知らない。
 けれど開いた本にはどれもみな、
 見たこともない、聞いたこともないことが書かれていた。
 それらの本のページを通して、文字と文字の向こう側に、
 別の 丸っきりちがった世界が、しかもたくさんの色んな世界が広がっているのを、
 ヴィクトールははるかに垣間見ることができた。
 あのうす暗い、かびくさい書斎こそは
 異次元の世界に通じるタイムトンネルだったのだ。
 みどり色のぶ厚いガラスをはめた 小さな窓からのぞくように、
 そしてそれらはどこまでも 遠く広く広がっていた。

 ますます多くの時間をさいて、彼はそうしたまだ見ぬ世界に思いをいたし、
 そうしてあれこれ考えたことどもを やがてぽつぽつと書きとめるようになった。
 天上の 黄色い光の向こう おぼろに見えるベアトリーチェのすがたや
 ペテルブルグの青い霧につつまれた 神秘的な騎士の像について。
 大きなノートを広げて、鵞ペンで書きこむ。
 納屋の奥で見つけてきた、大きなノートに。

 ジョルジョムの方はあいかわらずで、目立った変化は何もない。

 午後には土手の中腹に腰を下ろし、さんざしの茂みの間から、
 霧に包まれた静かな海を眺める。
 それから、堤防にそってずっと歩いていく。

 やがてしずかに雨がふり出して、それが休みなくふりつづく。
 森も野もひそやかなささやきですっかり覆い、
 地中深くまでしみこんで、大地をすみずみまでうるおすのだ・・・
 苔のみどりはいよよあざやかに、
 茂みもつる草もたっぷりと水を吸って、どこまでものび広がってゆく。

 ほとんど毎日、彼はジョルジョムのところへ、本を読んでやりに行った。
 けれど、雨の日は行かなかった。
 だって、本のページがぬれてしまうから。

 やがて大地全体に、まばゆい夏が湧き出してくる。
 こずえは腕を広げ、夏草は身をのばし、
 そこらじゅう、いたるところにひばりの声が空気をみたしている。
 そして、さまざまな色あいの木々・・・暗いみどり、あかるいみどり、
 やなぎのエメラルドに栗林の白っぽいみどり、にれの木の若草色。
 はるかな向こうには、青くひかる水のおもて。

 トウモロコシの畑をかきわけてゆくと、
 だしぬけに 頭の上からカラスの群れがいっせいに飛び立って、
 バサバサッと つばさうち鳴らして去っていく。
 この不作法な闖入者のことを告げ口しに、
 井戸の傍らで金色の髪を梳いている 森の乙女のところへ。

 けれど、その報告を聞かされた乙女は笑って言う、
 あんな子供がどうだっていうの、放っておきなさい!
 それから彼女はそのうすぎぬを身にまとい、丘を下っておりてゆく。
 金のくるぶし飾りは 軽やかに ちりんちりんと音をたてて。
 丘を下っておりてゆく、かのうるわしの乙女は。

 いつしか小麦畑は刈り入れをおえ、
 刈り株の列のえがく金色のすじが そろってゆるやかな曲線を描いて
 暗い色のもみの森のところまでつづいている。

 追憶はいまだ果てず、
 気づかぬまに 時が移ろい
 めくるめく色彩にあふれた日々がすぎて。
 あこがれはいまだやまず、
 夏が来て、夏が去り、
 日にやけた肌の記憶と 喪失感だけを残していってしまっても。

 吹く風が熱をうばってゆく
 みどりに覆われた崖の上の展望台の
 すっかり色の冷めた水色のペンキ。
 中に入ると、大きな窓ガラスの一枚は割れて、
 床板のすきまからぼうぼう草が生え出ている。
 ヴィクトールはテーブルにひじをつき、そこから遠くの海を眺める。
 潮風にさらされて ざらざらしたそのテーブルにひじをつき。
 砂色の海、砂色のテーブル。

 やがて 灯心草がたてがみのようにさらさらとなびく
 広い草原をつっきって 帰ってくる途中で
 干し草をうず高く積み上げた あし毛の引く馬車とすれ違う。
 農夫は軽く帽子に手をやり、ヴィクトールも挨拶を返す。

 しずかに雨が降りはじめる。
 後ろからもう一台、別の荷馬車がやってきて、
 追いつきざまヴィクトールを拾ってゆく。
 彼はそだの束をのせた荷車のへりに腰かけ、
 まっくろい 大きな蝙蝠を広げて、ゆられていく。
 森の入り口にさしかかると、「ありがとう」と言って
 荷車からとびおりる。

 晩秋になって、今までにないほど長いあいだ雨が降りつづく。
 その間、ヴィクトールはずっと森へはやってこずに、
 ただ家のまわりであれこれこまかな仕事にかかっていた。
 七日七晩、雨が降りつづいた。
 ジョルジョムはいらいらして、吠えはじめた。
 七日めの晩に、その体は思いの高ぶったあまり蛭のようにふくれあがり、
 このまま破裂してしまうのではないかと思われた。
 と、そのとき突然、ジョルジョムは今だかつてない経験が
 自分を訪れようとしているのを感じた。
 左の足のうしろのあたりが、ほんの少しぐらついたような気がしたのだ。
 おもいきって、少しひっぱってみた。ぐらぐらは、もっとひどくなった。
 彼は力いっぱいもがいた・・・するといきなり、すぽりと抜けたのだ。
 次々に、彼は四つの足を地面からひっこぬいた。
 今や自由の身になったジョルジョムは、ほんの少しの間、その場にうずくまってぼうっとしていた。
 それから、ためらいなく動きだした。まだ半分しか動物じゃないから それこそキノコみたいな動き方しかできないが、キノコもキノコなりにせいいっぱい、転がったりのび広がったりしながら森を抜け、草原をつっきって、何とか必死にじょろじょろ這い進んでいったのだ。
 長い時間をかけ、やっとのことでヴィクトールの家の玄関の びしょぬれのポーチのところまでたどりつくと、
 彼はどこからどう入ろうかと考えあぐね、扉にぴったり、体をくっつけてのびあがった。
 それから渾身の力をこめて 扉に体を押しつけはじめた。
 やがて扉の板がたわみ その枠がぐにゃりとひしゃげて 大きな裂け目をこしらえた。彼はそのすきまからむりやり体を押しこんで 中へ入りこみ、暗い廊下をずるずると這っていった。
 居間で暖炉の火にあたりながら うとうとしていたヴィクトールは
 居間の扉がいきなりキーと音をたてて開いたので ぎくっとしてふり向くと
 そこにはずぶぬれのジョルジョムがみじめなようすで
 トスカナ織りの敷物の上にぽたぽた泥まじりのしずくをおとしながら這いつくばっていたので
 その姿を目にしたとたん 彼の胸には急に激しい怒りがこみ上げてきたのだった。
 そこで彼は持っていた本を いきなりジョルジョムに向かって投げつけた。
 それから手近にあった本を片っぱしからつかんで 次々と 力まかせに投げつけはじめた。
 ジョルジョムはちょっとの間 おびえたような表情をして立ちすくんでいたが やがて向きを変えて出ていった。
 けれどすばやくはできなかったので
 いつもののろくさした調子ですっかりヴィクトールの視界から消えるまでに
 ずいぶん手厳しく、したたかにやられていた。
 やつが行ってしまってからだいぶたって ようやくヴィクトールは立ち上がり 敷居のところにひっくり返っていた一冊をけとばして廊下の方へ押しやってから 扉を閉めたが
 ぐったりと疲れ、何もかもがいやになってしまっていた。自分のことも。

 けれども、それからというもの ジョルジョムはほんのちょっとずつ
                        移動するようになった
 森に行くたびにいつもいる場所がちがって
 こっちにいたかと思えばそっちに そっちかと思えばあっちの方にいた
 もう ヴィクトールのうちまで押しかけてくるようなむちゃな真似はしなかったが
 それでも動こうという心がけは大切だった
 なぜなら、それを怠ってうっかり一つところにいつづけると
 またもやそこに根が生えてきてしまうからだ。

 冬の海。
 砕けちるしぶき。
 ごうごうとうなって 吹きあれる風。
 海ぞいの崖の道を、何度も足をとられそうになりながらのぼってゆく。
 吠えたける波のとどろきを 間近に聞きながら、
 灰色のマントをしっかり体にまきつけて。
 と、突然、足をすべらせて、ヴィクトールの体はがくんと沈みこむ。
 するととっさに力強い腕が、彼の足首をつかまえ もといた位置まで
                    ぐいっと押し上げてやる。
「気をつけろよ、全く!」
 ゼフュロスはがみがみと言い、青色のすきとおった衣をはためかせて
                       さっと岩壁を一けりし
 次の瞬間にはもう、崖の向こう側に姿を消してしまう。
「ごめん」
 ヴィクトールは顔を赤らめて、口の中でもごもごとつぶやく。

 春はおもてのいたるところで、いっせいに花々が咲き始める。
 まず白い花々が、森に野に川岸に。
 野ばら、にわとこ、辛夷に木蓮。
 みどり色の草の海に、星のように点々とちらばったマーガレット。
 それから、陽の光がこぼれおちたかけらのように、
 黄色くきらめく蝶のかたちをしたハリエニシダの花が。

 五月になると彼は、ジョルジョムを放ったらかしてモスクワへ行ってしまった。
 スーツケースに荷物をつめこみ、朝一番の列車にのって。
 モスクワのことなんか、何一つ知らなかったのに。
 でも、知らなかったからこそ、行ったのかもしれない。

 ジョルジョムはあいかわらず森の中にいて、
 それから十四日と十四晩、暗い森の中で待ちつづけた。
 二週間がすぎて、ようやくのろのろと動きはじめた。
 森の下生えやシダの株や 腐った倒木や去年の枯れた松ぼっくりなんかを
 のりこえたり押しつぶしたりしながら出ていって、
 花の咲き乱れる草原を横切ってこえ、
 ヴィクトールの家が見える土手のところまで来ると、少しだけ進むのをやめて 少しの間だけ、思いにふけった。
 それからまた向きを変えると、重たい、毛むくじゃらの体をずるずるとひきずって
 陽をあびた坂道を下って行ってしまった。

 (2002頃)