2014年11月09日

オーチャード、グランチェスター




以下は、英国ケンブリッジの郊外の静かな村、グランチェスターのはずれにある、伝説的なティールーム<オーチャード>の由来を記したリーフレットの日本語訳です。
このリーフレットは<オーチャード>に無料でおいてあるもので、訪れる人々が気軽にこの場所の歴史に親しめるものとなっています。
この訳をネットでさっと見られたら、当地を訪れる日本人にとって便利だろうなと思って2007年くらいにつくったのですが、タイミングを逸して今になりました。

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オーチャード、グランチェスター
History of Orchard, Grandchester 

モーニングコーヒー
ランチ
アフタヌーン・ティー
貸しボート
野外劇
小川美術館

オーチャード-イングランドの片ほとり、ここで時間の流れはしずかに淀む、外の世界があわただしく渦まいて流れてゆくのをよそに。
この場所の上品な佇まいをゆっくりと味わわれよ、世界のほかのどこよりも多く、著名な人々がお茶を楽しんだこの佇まいを。
朝のコーヒーを飲みながら、あるいは軽い昼食をとりながら、すぎにし日々の追憶に浸るのがよろしい。大英帝国の伝統たるアフタヌーン・ティーをたしなみつ、幾世代にわたる足跡に従われるのがよろしい。・・・

オーチャード、1868年にさいしょにつくられたこの果樹園が、ティーガーデンとなったのはまったくの偶然だった。
ケンブリッジ生のあるグループが、オーチャード・ハウスのスティーヴンソン夫人に、(よくあるふうに家の前の芝生ではなく)果樹園の花を咲かせた木の下でお茶を出してもらえないだろうか、と尋ねた。1897年のその朝、ここにはからずも、偉大なるケンブリッジの伝統が始まったのだった。

学生たちはそこで田舎風のティータイムを楽しみ、その話は大学じゅうに広まった。すぐにオーチャードは、町の喧騒を離れた保養地として、学生たちに大人気となった。
スティーヴンソン家の広告にはまた誇らしげに、オーチャードはどんなパブとも関係がないと書かれている。それ以来、オーチャードはほとんど何ひとつ変わっていない。

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スティーヴンソン家では、収入をまかなうために、オーチャード・ハウスを人に貸していた。1909年、ひとりの若いキングス・カレッジ院生がそこに部屋を借りた。その名はルパート・ブルックだった。

彼はケンブリッジの社交生活に疲れ、田舎へ逃げ出してきたのだった。けれども、その企てはむだに終わった。若きカリスマたるブルックのもとに、やってくる訪問者はひきもきらず、結局そこは友人たちの輪の中心となった。のちになってヴァージニア・ウルフは、彼らのことを<新しい異教徒たち>と命名した。

ブルックはグランチェスターでの牧歌的な暮らしにぞっこん惚れこんでいた。そして、ベルリンへの旅の途上でホームシックにかかったとき、彼のもっともよく知られた詩のひとつ、<グランチェスターの古い牧師館>を書いた。その有名なさいごの2行で、オーチャードのアフタヌーン・ティーは不滅の命を与えられている。

教会の時計は3時10分前でとまったまま
紅茶に入れる蜂蜜はまだある?

それ以来、そこの教会の時計が当時ほんとうにとまっていたかどうかを巡ってさんざん議論がなされてきた。が、人はたしかに、オーチャードでは時間がとまっているのを感じるだろう。

彼がグランチェスターに戻ってみると、ルパートの部屋は貸しに出されてしまっていた。そこで彼は隣りの<オールド・ヴィカレッジ(古い牧師館)>に引っ越した。彼はそこでボヘミアン風な暮らしをつづけた。

ケンブリッジを去ったのち、彼は遠く北アフリカと南海へ旅した。そして1914年にイングランドに戻ってきた。
第一次世界大戦の勃発にあたって、彼は入隊し、アントワープからの退却のあいだ、激しい砲撃に曝されることになった。

1915年3月、彼はガリポリへ向かう軍艦に乗りこんだ。そして悲しいかな二度と戻ることはなかった。航海中にひどく体調を崩し、彼は1915年4月23日、27歳の若さで、敗血症のため亡くなった。

その晩、彼のなきがらはギリシャはスキロス島のオリーヴ林に葬られた。以来そこには墓碑が立てられている。
それよりわずか数ヶ月前、彼は<兵士>を書き上げていた。その中には次のような予言的な一節がある。

もし私が死んだとしたら ただこれだけを覚えていてくれ
遠い異国の片隅にあって なおも永遠のイングランドと

彼は、死後になって名声を得た。彼の詩は広く認められ、彼は無垢なる青年たち-<若きアポロ>の象徴となった。彼は国民のイマジネーションを大いにかきたて、以来そのカルト的地位は高まる一方である。

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他方、オーチャードの前には長くつづく黄金時代があった。1920年代このかた(第二次大戦中の閉鎖期間をのぞき)オーチャードはますます人気を博した。

人々は、かの有名なグランチェスター・メドウを横切る小道(<グランチェスター・グリンド>と呼ばれていた)を徒歩で、あるいは自転車でたどり、また川を漕ぎ上ってきたりしたものだ。<バック>(ケム川後岸)の肩の凝る環境をちょっと逃げ出して、曲がりくねったグランタ(ケム川の地元での愛称)の平和と安らぎを味わいに。

メイ・ボールの期間中は、(朝まで騒いで)目のかすんだ学生たちが戸外の朝食をとりに漕ぎ上ってくるのが習慣となり、そこにはしばしばシャンペンやいちごが出た。この伝統は今でもつづいている。

1964年までに、オーチャードにはおおぜいの人が訪れるようになって、オーナーは35の言語で、お客にカップとソーサーをラックに戻すよう呼びかけた8フィートの看板を立てた。

オーチャードはケンブリッジの人々の心の中に場所を得、この町にやってくる数千の人々の人気ある目的地となっていたが、1980年代にいたり、この地に団地を建設すべく、開発のため閉鎖されることになる。
しかしながら、オーチャードはその運命を免れた。そして現在のオーナーは、もう二度とそういうことが起こらないよう、将来的にはここを小さな区画に分けて、趣旨に賛同する人々に買ってもらうことを考えている。

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夏の夕べには新しい伝統として、シェイクスピアやモーツァルトやその他作品の野外公演が、ケンブリッジ・フリンジ・フェスティバルのプログラムとなっている。
他方、オーチャードそれじたいは、可能な限りそれまでと同様、半野生的であまりきっちり刈り込まれていない状態のままに保たれている。

オーチャードは今もここにあって、場所は整い、時計はとまっている。
来て、林檎の木の下でアフタヌーン・ティーを味わわれるがよろし、あるいはルパート・ブルックの魂が今もとどまるパヴィリオンで、ランチを奮発するもよろし。
オーチャードは百年の歴史を超えて、ブルックの詩にあると同じく、これからも「永遠のイングランド」でありつづけるだろう。

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オールド・ヴィカレッジ、グランチェスター
(カフェ・ウェステンズ、ベルリン、May1912)

ちょうど今ごろだ、ライラックが花盛りを迎え、私の小さな部屋の前でいっせいに咲き誇るのは。
そして私の花壇の中で、ほころぶはカーネーションとなでしこの花。・・・
生垣ぞいに下りゆけば、風にそよぐポピーとパンジーの群れが。・・・
ああ! ・・・そこではチェスナットの木が、夏のあいだじゅうずっと、川のそばで
君のために色濃く茂ったみどりのトンネルをなし、頭上で深くまどろんでいる。・・・
その下をゆく、みどり色の暗い流れが神秘的にすべりゆく、
夢のようにみどり色で、死のように深い流れが。・・・
ああ、私は知っている! ・・・5月の野がいかに黄金色にかがやきわたっているか、
そして日が若く甘いとき、泳ぎにいこうと駆け出すはだしをどんなふうにかがやかせるか。
           Du Lieber Gott!

私はここで汗にまみれ、死にそうに暑く、かなたでは木陰をゆく冷たい水の流れが
跳ね上がって裸の体を包む。・・・
こっちでは不機嫌なドイツ野郎の群れが、ビールをあおって騒いでいる。
かなたでは黄金の朝の下で 露は甘くやさし。・・・
こっちでは話に聞いたとおりチューリップが咲いて、
生垣のまわりで伸び放題、風にそよぐはイギリスの名もなきばら。・・・
かなたでは気ままな太陽が、日がおわるころ 転がり去って休みにいく。・・・
それから目覚めるのは、かすかに瞬く気まぐれな星たち。・・・滑りこんでくる宵の明星。
そしてそこにはハスリングフィールドとコットンへゆくメドウがある。・・・

エイテ・ゲノイメーン・・・もしもグランチェスターに、グランチェスターにいたら!・・・
そこでは人は<自然>にふれられる、あるいは<大地>に、とかそういうものに。・・・
そして現代人でさえ、茂みの間からフォーンがのぞくのを見た、そこでは神話がまだ生きていて、
ナイアッドの葦のような頭を目にし、獣神が低く笛吹くのをきいた。
けれどもそれらはみな私の知らないことだ。
私はただ知っている、そこでは君は一日寝転がってケンブリッジの空を眺めていられる、
眠たげな草のあいだで、花々にゆられて 時の流れゆく そのしずかな流れをきき
ついには数世紀がまじりあい、霞みゆくまで・・・ かのグランチェスターで、グランチェスターで!・・・

かなたでは夜明けのあかるみのなかで 冷たい水の中で かのひとの亡霊が今も泳ぐ
力いっぱい水をかいたり、ふざけた思いつきをやらかしてみたり
ヘレスポントスやステュクスでも いつもしていたと同じように。
ダン・チョーサーは今もその川が 水車小屋の幻の下でお喋りするのを聞く。
テニスンは書く、その学究の目で、いかにケンブリッジの水が 急ぎ流れゆくかを。
そしてかの庭園では 黒や白の虫たちが 草のあいだで一晩じゅう囁いている。
そして夜明け前には 亡霊たちが踊る、芝生を下ったところで 百人の牧師たちが。
いにしえの埃の中から立ち現れた牧師たちが 行ったりきたり
そのしなやかな、もったいない 足あとを残さない爪先で。
枝のあいだからは見える、地方執事のこっそりゆく姿が。
ついには空が戦慄に身をふるわせ 悪魔のように叫んで消えうせるまで
かくてすました坊さんたちの宴会はお開きとなる、残るはただ
野に眠る者をびっくり叩き起こす灰色の空、いちばん鳥の眠たげな囀り、
崩れそうで 決して崩れないお屋敷ばかり。・・・

おお! 今すぐ荷物をまとめて列車に飛びのるんだ!・・・そしてもういちど、なつかしのイングランドへ!・・・
イングランドこそその地、偉大な魂の持ち主がゆくところ。
なかでもとくにケンブリッジ、ものの分かった人間がゆくところ。
それもとりわけグランチェスター、我が心より愛する うるわしの村。・・・
なぜなら、ケンブリッジの人々はいつも仏頂面で
都会ぶって、不機嫌で、気むずかしい。
遠く南はロイストンの連中は 陰気でつっけんどんでひん曲がった口をしている。
オーヴァーでは連中は人に罵りの言葉を投げつける。
トランピントンではさらに悪い。
ディットンの女の子たちはけちで意地汚く、ハーストンには三十路より若い者はひとりもいない。
シェルフォードとかその辺では、ねじ曲がった唇とゆがんだ心。
バートンの男はコックニー訛りで喋り、コットンはうしろ暗い犯罪でいっぱい。
マディンリーではクリスマスイヴに、信じられないようなことが起こっている。
屈強な男でも何マイルでも走って逃げるだろう、チェリー・ヒントンから来た奴がにっこりするときには。
屈強な男でも青くなり、自分の妻を撃ち殺すだろう、彼女をセント・アイヴィスへ送るよりは。
屈強な男でも神かけて、赤ん坊のように泣き出すだろう、ベイブラムで何が起こったか聞いたなら。
けれどもグランチェスターでは! ああ、グランチェスター!・・・
そこには平和と聖なるしづけさが。・・・おだやかな空には大いなる雲むらが、
男も女もまっすぐな瞳をもち、子供らは夢よりも愛らしい。
青あおとした木立が、いきいきとした流れが、かすかな優しい風が
うす明るみの片ほとりをゆきすぎる、半ばまどろみつつ。・・・
グランチェスターでは人々の肌は雪のように白く、朝な夕な水浴びをする。
女たちはなすべき務めを果たし、男たちは熟考の掟を守る。
善良さを愛し、真実を旨とする。彼らは永遠の若さのなかで笑う。・・・
(そして私は聞いた、彼らは年齢を感じると、身を起こして自らに銃口を向けるのだと)

ああ神よ! グランチェスターで枝々がざわめいて 月のおもてで揺れるのを目にするのは!・・・
かのめくるめく甘くかぐわしい 忘れられない、忘れもしない川の匂いを嗅ぐのは、
木々のあいだで微風がしずかにすすり泣くのを聞くのは。・・・
そして、あの楡の大木の列は今も立ち並んで かの聖なる地を守っているか、
チェスナットの梢はとうとい夢のなかで いまだひなびた川の流れに影を投げているか、
夜明けは秘密めいた内気さと冷たさを 白金のかがやきのうちに
そしてハスリングフィールドからマディンリーに至るまで 
夕日は黄金いろの海となって広がっているか、
そしてそのあと、夜が生まれるころ、野兎たちは小麦畑を跳ね回っているか、
おお、水は今でも甘く冷たいかい、やさしい茶色の池の上で?・・・

そして不滅なる川の流れは今も笑っているかい、水車の下で、水車の下で?・・・
おお、そして美はまだそこに見い出されるか、確実さは、しづけさは?・・・
そこには深い牧草地がまだ広がっているか、偽りを、真実を、そして痛みを忘れ去るために?・・・
おお! そして教会の時計は3時10分前でとまったまま
紅茶に入れる蜂蜜はまだある?・・・

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兵士

もしも私が死んだとしたら このことだけを思ってくれ
遠い異国の片すみにあって なおも永遠のイングランドと。・・・
かの豊かな土壌にあって なおも豊かな土塊を秘めて
それはイングランドが生み出し 形造り 目覚めさせた
かつてひとたび 愛するためにその花を与え 彷徨ふためにその道を与えた
イングランドの肉体で イングランドの空気を吸い ふるさとの川に洗われ その陽に祝福された。・・・

そして思ってくれ この心臓が あらゆる悪から洗い浄められて
永遠の鼓動を脈打ち イングランドから与えられたその魂を きっとどこかに返すだろうと
そして その眺めと響きを、その日にあって幸福なる夢を
友と分かち合った笑いを、しづけき心のやさしさを-イングランドの空の下で。・・・

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グランチェスター・グループ

ブルックがオーチャード・ハウスに移った1909年から、第一次世界大戦が始まった1914年まで、木造のティールームのあるオーチャードは-そのティールームは今日に至るまでまだあるが-非常に注目すべきグループの集う場となった。
ルパート・ブルック(詩人)、ラッセルとヴィトゲンシュタイン(哲学者)、フォースターとヴァージニア・ウルフ(作家)、ケインズ(経済学者)、そしてオーガスタス・ジョン(芸術家)。
それは牧歌的な時代だった・・・世界はこの百年ばかり、ウォータールー以来比較的平和だった。
それはくつろいだ、優雅なる時代だった・・・力に溢れ、楽観的で。
それは一日に25マイルの徒歩旅行、カンヴァス地にくるまって眠り、草の上でピクニックの時代だった。

ルパート・ブルックはこのグループの中心をなしていた。
オーチャード・ハウスにいたあいだ、彼は学問に打ち込み、朝にはハスリンフィールドまでジョギングし、川で泳ぎ、裸足で村を歩き、果物と蜂蜜を食べて暮らし、カヌーを漕いで大学へ向かうのが常だった。
彼とそのグランチェスター・グループはヴァージニア・ウルフによって<若き異教徒たち>と命名された。これはロンドンのブルームズベリ・グループと対照をなし、彼ら自身そのメンバーでもあった。
ブルックとヴァージニア・ウルフはバイロンズ・プールで月の光の中で裸で泳いだこともある。これは、バイロン卿がケンブリッジの学生だったとき、よく泳いだ場所である。

以下の引用は、7人の友人同士が、互いや、グランチェスターや、オーチャードや、ケンブリッジ、あるいはブルームズベリに言及した手紙より。

ウルフがケンブリッジとケインズについて、1924年
ケインズは最終的に、若きロシアバレエの踊り子であるリディアと結婚した。

「2週間前、私はケンブリッジで、異教徒ども相手にモダン・フィクションについて講義しました。ケンブリッジのこと、好意を持っていらっしゃいます? ここはリットンが言ったように、少しばかりせわしない・・・若者たちがやってきては、卒業試験に急ぎます・・・裏手の花咲く木々、カヌー、学生たちの庭園・・・少しばかり非現実的な美のなかを踏み分けてゆく、食事、お茶、夜食・・・極端の時代の感覚と、やさしさと後悔と・・・などなど。手ごたえのある難しい問題について議論し、私はその雰囲気に敬意を払いますが、そこから飛び出してゆくのもまた楽し。・・・

メイナードはひどく沈んでいて、凶兆におびえています・・・彼は情熱的に、切ないばかりリディアに恋をしています。けれど彼にはよく分かっている、彼女と結ばれたら身の破滅だと・・・そして彼女は彼を鼻で引っかけている。
リディアがいるところではまじめに議論できません・・・そして我々が辟易してきて、浮かれた気分より理性のほうを好むので、リディアの悪ふざけは限界まで達します・・・そこでブルームズベリはこっそり立ち去ってしまう、リディアをメイナードの膝の上に残して。荘厳にして悲痛なる見せ物です・・・」

ウルフ、フォースターについて

フォースターは、女性がそばにいるとなかなかくつろげなかった。
「私はいつも、彼が私のそばで神経質にちぢこまっているのを感じていました。女、頭のいい女、いまふうの女というので。」

ラッセル、ケインズについて

ラッセルは、オールド・ヴィカレッジのとなりのミル・ハウスで10年間をすごした。そこで彼は<数学の法則>を書き上げたのだ。その手書き原稿は、あまり重たいので、それをケンブリッジ大学出版局にもっていくのに彼は四輪の手押し車を使わなくてはならなかった。それらの年月、彼はとても長い時間をメドウをさまよって過ごしたので、彼いわく、「草の葉の一本一本をくまなく知った」。

「ケインズの知性は、私が今までに知るうちで最も鋭く、最も明晰だ。彼と議論すると、私は自分の人生など手のひらに収まってしまうように感じ、だいたいいつも、自分のことをばかみたいに感じるのだった。私はときどき、これほどまでの鋭さは、深さと相容れないのではないかと思いたくなったが、こういう感じ方を正当化すべきではないだろう。」

「ある朝私は彼がトリニティの中庭を急いで突っ切っていくのに出会った。私は彼に、何をそんなに急いでいるのかと尋ねると、彼はロンドンに行くために、義理の兄のところへオートバイを借りにいくのだと言った。『列車で行けばいい』と私は言った。『時間がないんだ』と彼は答えた。彼の用事が何なのか私は知らなかったが、数日後、銀行の利子が-これはパニック屋どもが10パーセントにまで吊り上げていたものだが-5パーセントに下がった。これが彼の用事だった」

ラッセル、フォースターの小説<天使も踏むのを恐れるところ>について

フォースターはときどきオーチャード・ハウスのブルックのところに客として滞在した。
「よくできた物語のように思える、真の美点を多く備えた。けれど、所々ばかげているし、結末は感傷的すぎる。
彼は我々ケンブリッジ仲間のひとりだ。年は26くらいだと思う。彼はたしかに才能をもっていると思う」

ケインズ、ブルックについて

1909年11月にケインズはグランチェスターにブルックを訪ね、彼が「崇拝者の女性たちに囲まれて座の真ん中に座り、刺繍のほどこされたセーターだけでいるのを見い出した」。

ケインズ、キャンプについて

ケインズはグランチェスターの<若き異教徒たち>と友にキャンプに行ったものだが、父親にこう書き送った。
「キャンプ生活はとても僕に合っています。固い地面、朝の水浴、肉のない食事、椅子のない生活は、人が思うほど気の滅入るものではありません。」

ケインズ、オーガスタス・ジョンについて、1909年7月

ジョンはグランチェスター・メドウのジプシー・キャラバンの中で暮らしていた。
「ジョンは2人の妻と、7人の裸の子供たちと住んでいた。私は今日彼を路上で見かけた-このあたりでは、全く大した見ものである。ここでは話題はもっぱらジョンのことだ。ルパートは彼の面倒を見、彼とドレリアとピラムスとデイヴィッドとほかの連中を、川を連れ回っているらしい・・・ ルパートによれば、彼は大半の時間をケンブリッジのパブで過ごし、道端で酔っ払って騒ぎを起こし、敵どもの面を叩きのめしたということだ。」

ヴィトゲンシュタインの
午後の運動

運動の重要性についてのラッセルの助言を容れて、ヴィトゲンシュタインは馬に乗って、あるいは川をカヌーで漕ぎ上ってグランチェスターへやってきたものだ。彼の友人ピンセントはこうした状況のひとつを覚えている。
「ヴィトゲンシュタインと、川をカヌーで漕いでいった。オーチャードまで漕ぎ上り、そこで昼食をとった。ヴィトゲンシュタインははじめ例のごとくむっつりしていたが、(常であるように)昼食のあと急に元気づいた。そして我々はバイロンズ・プールまで行ってそこで水浴びした。タオルも水着ももっていなかったが、大変楽しんだ。」

ラッセル、ケンブリッジについて

「日曜には、いつも遅い昼食のあと、夕食どきまでまる一日、歩いてすごすのが習慣だった。私はこの方法で、ケンブリッジから10マイル以内のすべての道路とフットパスを知るようになった-そしてさらに広い範囲の多くの道をも。ケンブリッジにあって、私は大体において幸福であり、比較的平静だった。けれども月の照る晩には一時的な狂気にとりつかれて、めくらめっぽう野外を駆け回ったものだ。その原因というのはもちろん、性的な衝動だった-当時は自分でも分からなかったが。」

「私がケンブリッジで得た、真に価値ある考え方の習慣のひとつは、知的に正直であるということだ。この美徳は、私の友人たちの間だけでなく教師たちの間にもたしかに存在する。私は、生徒が教師の間違いを指摘したときに、教師がそれを怒ったというためしを見たことがない。生徒たちがこの手柄を立てる場合が少なくなかったにもかかわらず。」

ブルック、グランチェスターでの彼の生活について

1909年7月、オーチャード・ハウスにて書かれた、ガールフレンドのノエル・オリバーにあてた手紙から。
「僕は田舎に、田園に、アルカディアにいる。ケンブリッジから、川をさかのぼって2マイルのところにある村だ。君も知っている、どこもかしこもピクニックみたいな雰囲気のところだ。ここで僕はシェイクスピアに打ち込んで、ほとんど人に会わない。そのあいまには、裸足にほとんど裸で歩き回って、しずかな目で<自然>を吟味した。僕は<自然>を理解できるなどと言わない、しかしそれと非常にうまくやっている、お隣さんとつきあうような具合に。

僕は勉強をつづけ、彼女は鶏や嵐やほかの色んなものを持ち出すが、僕らは互いにとても忍耐強い。僕は蜂蜜、卵、ミルクで生きている、それらは(とくに顔が)りんごのような老婦人が用意してくれる。そして一日ばらの庭に座って仕事に打ち込んでいる。
朝にはダドリー・ワードとほかの連中がケンブリッジからやってきて、僕と一緒に水浴びし、朝食をとり(ほかのときと同じく庭で)、そして出掛ける。

ダドリーと僕は、まるひと夏を、飛びこみ方の研究に費やした。僕はいまではけっこうできる。彼はめったにできない。彼のやり方ときたら見ものなんだ-ほとんど平らな状態で、片足だけあわれにバタバタさせながら、しかも鼻眼鏡をかけたまま飛びこむのだ。

けれども、ああ、夜の10時には(あんまり死ぬほど寒くない限り)ひとりで、たったひとりぼっちで(それを次の日には自慢するんだが)ものすごくブルブル震えながら、僕はこっそり表へ出て、からっぽな道を下りゆき、さらにからっぽな野を突っ切って、何やら生き物の気配にみちみちた森を抜け、それから再び不気味な空き地へ出て、そうして夜中の水浴びをするのだ。

こういうのやったことがあるかい? ああ、疑いなく、あるに違いない。僕はそれまで一度もなかった。僕は森の中の暗がりが死ぬほど怖い。その中をとてもしずかにこっそり抜けてゆく。
いちど僕はそこにいた2頭の雌牛を驚かせたことがある。僕も驚いた。ふたつのぼんやりとした白いものが不気味な小道をやってきて、えらい勢いで僕のほうへ突進してきたのだ・・・

けれど、水に入り、シャツとズボンを丸めて岸辺に放り投げ、・・・するとそのとたん、すべては驚くばかりよくなる。もう嫌われているとか、のけ者にされているとは感じない。(それはつねに服の問題なんだ、分かるだろう。)人はそこにあるものすべての一部となる。そして水浴びをする・・・あと恐るべきは、頭から暗闇のど真ん中へ飛びこむことだ。それは恐怖そのものだ。僕はいつも、結局のところ川は干上がってしまっていて、全然水がないんじゃないか(じっさいそのように見える)と思ってしまうのだ。

二つめに重要なのは、7月の<イングリッシュ・レビュー>に載ったE.M.フォースターの小説をぜひとも読めということだ。非常にすばらしい。
たぶん君は彼のさいきんの小説<眺めのいい部屋>すら読んでいないだろう。彼は若い男だ。

二つめの愉快な騒ぎは、オーガスタス・ジョン(前に話した、偉大な芸術家だ)が、2人の妻と、7人の子供たち(みんな男の子で、3才から7才)と、2台のキャラバンとジプシー・テントを引き連れて、川沿いに来ていることだ。ここから数百フィートのところだ。

僕はときどき彼に会いに行き、彼らはここへ食事に来る。彼はジェイン・ハリスンの肖像画を描くためにケンブリッジに来ているのだ。
正妻のほうはとても美しい女だ。子供たちは愛くるしい茶色の裸の連中で、ジョンが自分で選んだ、かわいらしい黄色や赤や茶色のぼろを着ている-仮にも着ているとすれば。

この日曜の朝、僕はグウェン・ダーウィン、ヘレン・ヴェラル、ギルバート・マレイとその娘に押し掛けられて、ジョンのところへ連れて行かされた。ギリシャ語の教授はジプシーの芸術家を訪ねることにかなり神経質だった。
けれど、みんなすごく上機嫌だった。それは奇妙な場面だった。5人の子供たちとキャラバンに暮らすのは、ほんとにすばらしい生き方たりえよう。僕もいつかやってみようか。」

ラッセル、ヴィトゲンシュタインについて

ヴィトゲンシュタインはいつも自殺するすると言っていた-彼の3人の兄弟たちはすでにそうしていた。
「彼はおそらく私が今まで知っているうちでもっとも完全な、天才というものの見本である-伝統的に考えられているように、情熱に溢れ、深遠で、厳しくて、圧倒的な。彼は私が今まで、G.E.ム-ア以外には見たこともないような種類の純粋さをもっている。

私はいちど、彼をアリストテレス協会の会合に連れていったことがある。そこで私はさまざまな種類のバカを丁重に扱ったのだった。
その場を去ったとき、彼は、私が彼らに、彼らがどれほどのバカであるか言ってやらなかったというので、私の道徳的堕落ぶりに激怒し、雷を落とした。

彼の人生は波乱つづきで苦労が絶えなかった。そして彼の個人としての強さは類を見なかった。
彼はミルクと野菜を食べて生きていた。それで私は、ミセス・パトリック・キャンベルがショウについて感じたのと同じように感じたものだった-「神さま、ただあの人がビフテキを食べてくれさえしたら。」・・・

彼は毎晩、夜中に私のところへやって来て、不穏な沈黙のうちに檻の中の動物のように、3時間も私の部屋を行ったりきたり、歩き回ったものだった。
私はいちど彼に言ったことがある、「君は論理について考えているのかい、それとも自分の罪についてかい?」
「両方だ、」と彼は答えて、行ったりきたりをつづけた。私は彼に、もう寝る時間じゃないのかとほのめかす気にはなれなかった。というのは、私にも彼にも思われたのだ-私のもとを去るや、彼はすぐさま自殺するのではないかと。

1914年のはじめ、彼は私のもとへ、ひどく動揺したようすでやって来て、言った、「僕はケンブリッジを出ていく。僕は今すぐケンブリッジを出ていく。」
「なんでさ?」と私は聞いた。
「なぜって、僕の義理の兄がロンドンに引っ越したんだ。あいつのこんな近くにいるなんて、耐えられない。」
それで彼はその冬の残りをはるか北はノルウェーで過ごした。

むかし私はいちどG.E.ムーアに、ヴィトゲンシュタインのことをどう思うか聞いてみた。
「私は彼のことをとてもよく思っている」と彼は言った。
私がなぜかと聞くと、彼は答えた、「それは、彼が私の講義で、困ったような顔をしているからだ。今までだれもそんなふうな様子をしたことはなかった。」

戦争が始まると、ヴィトゲンシュタインは非常な愛国者だったのでオーストリア軍の将校になった。
戦争が終わると、そのあいだに彼は塹壕の中で本を一冊書き上げたようで、私にそれを読ませたがった。彼は、論理について考えているときには、爆弾のようなつまらないことは決して気に留めないような種類の人間だった。

次の場面は、オールド・ヴィカレッジのとなりのミル・ハウスで起こった。ホワイトヘッドは、ラッセルと共著で数学についての本を書いていたケンブリッジの教授だった。
「ヴィトゲンシュタインは必ずしも社交に長けた人間ではなかった。ホワイトヘッドは、ヴィトゲンシュタインがさいしょに彼に会いにきたときの模様を聞かせてくれた。

彼はアフタヌーンティーのあいだ、客間に案内された。
彼はホワイトヘッド夫人の存在にほとんど気づいていないように見えたが、無言のうちにしばらく家の中を行進してまわり、ついに爆発するように言った、
『ひとつの命題にはふたつの極がある。それはapbだ。』
ホワイトヘッドは私に話して聞かせてくれたところによると、
『私は当然ながら何がaでなにがbなのか訪ねた、しかし非常にまずいことを言ったのに気がついた。』
『aとbは定義不可能なのだ!』
ヴィトゲンシュタインは雷のようにどなった。」

ラッセル、1915年のブルックの死について

「私は<マーシュ>でルパートのことを読んでいた。私はひどく悲しく、また憤慨した。
あの若き世界のすべてが今や永久に葬り去られてしまったことを読むのは胸が痛む。
ルパートとその兄さんとキーリングとほかのたくさんの人々-かつてはその中に世界の希望があると、人々が愚かにも思いこんでいた面々-彼らはいのちと力と真実とに満ちていた-ルパート自身、人生と世界とを愛した-彼の憎しみはとても具体的で、ある種の虚栄や嫉妬からくるものだった。
しかし大方において、彼は世界を愛すべき、興味深いところとみなした。彼に偽善はなかった。」

ラッセル、戦争について
1915年に、ケンブリッジから書き送られた手紙より。

私はここへ戻ってきて以来、戦争の重みをさらにひしひしと感じている-人はここにいるとき、喪失について、ひどくはっきりと自覚させられる。ルパート・ブルックの死は私にそれを身近に感じさせた。ここにいると死んでしまったように思う、今までの暮らしのすべてがストップして。
また別の世代がやって来もするだろう、けれども私には、ある種の文明が永遠に失われるだろう、という気がしてならない、ちょうどギリシャが滅んだとき、それが永遠に失われたと同じように。

人がいかに文明に価値を置くかたるや奇妙なほどである-そのすべての友人や、ほかの何よりも。
それは野蛮から逃れいでようとする人類の緩慢な業績であり、人がそのために生きる究極の意義であるように思われる。

私は人類の幸福のために生きようという気はない、ある種の精神の、もがきいでようとする意志のために生きてきた。そしてここでは、大方はそれは力を得てきた。
成し遂げられたことは次の世代へと引き継がれ、彼らは私たちが達しえた地点からさらに進んでいったのだ。

それが今やそっくり凍結してしまった。そして、それが何であれ達しえた地点のようなものから再び進み始めるかどうか、誰にも言うことができない。
いまや老練な背徳者どもは喜びに浮かれている・・・

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プラス/ヒュージ関連

1950年代に、イギリスの桂冠詩人テッド・ヒューズと、アメリカの詩人シルヴィア・プラスがグランチェスター・メドウの近くに一緒に住んでいて、<オーチャード>にしばしばお茶を飲みに来た。
次はプラスの、母親にあてた手紙からの抜粋である。

ルパート・ブルックの詩を覚えておいでですか。
私たちは<オーチャード>の唸りを上げる暖炉のそばでお茶をいただきました。(春には花を咲かせた木々の下でお茶が供されるところです。)
そして「時計は3時10分前でとまったまま」で、濃いクローバーの蜂蜜とスコーンは絶品でした。

私たちはきのう15マイル歩きました。森を抜け、野を超え、沼地をわたり、そして月の光に照らされたグランチェスター・メドウと眠っている牛たちのあいだを帰ってきました。

テッドと私は平底舟に乗って、みどり色の川すじを漕ぎ上りました・・・そしてグランチェスターのりんごの木の下でお茶と蜂蜜とサンドウィッチをいただきました。

この日は4時半に起きて、テッドと一緒にグランチェスターに長い散歩・・・ 私は平和と喜びを感じました、動物や鳥たちのいるこの最高に美しい世界で。・・・
私たちは牛たちの牧草地でモウモウ鳴き始めました、すると彼らはみんな顔を上げ、催眠術をかけられたかのように、私たちについて鳴き始めました、木の踏み越し段のところまで牧草地じゅうに散っていた、およそ20頭ばかりの群れのすべてが。・・・魅了されたように見つめながら。・・・
私は踏み越し段の上に立ち、朗々たる声で、思い出せる限りのチョーサーのカンタベリ物語から引用して聞かせました、およそ20分にもわたって。私はあれほど知的で熱心な聴衆をもったためしがありません。・・・

テッド・ヒューズは、同じできごとを詩の中に再現している-
君の声の頂点で、そこで君は踏み越し段の上で体をゆらし・・・君の声は野をわたり、グランチェスターにまで響きわたった。
それは徒労のように聞こえたに違いない、けれども牛たちは見入っていた、魔法にかけられたかのように。・・・

不幸にも、彼らの結婚は悲劇に終わった。テッドはほかの女性と恋に落ちてシルヴィアのもとを去った。彼女は二人の小さな子供を残してガス自殺した。

ハリウッドはこのできごとを映画化しようとしている。メグ・ライアンとグウィネス・パルトロウの両方がシルヴィアの役を演じたがっている。(*1)
ブルックの映画も製作中である。

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グランチェスターはもちろん、グランチェスター・グループの時代よりはるか以前から、ケンブリッジ大学と密接な結びつきをもっていた。
700年にわたって、学生たち、ニュートン、ダーウィン、クロムウェル、ミルトン、ワーズワース、コールリッジ、テニスン、マーロウやスペンサーといった錚々たる面々が徒歩で、馬で、あるいは漕ぎ上ってこの村へやってきた。

一方、近くの村トランピントンは、チョーサーの物語(ブルックの詩の中に言及されている)の舞台となったところで、その話には、粉屋とその妻と娘、および二人のケンブリッジ大生が出てくる。

メドウを越えて人を思いにいざなう散歩のあと-ここでチューリングはさいしょに人工知能のアイディアを思いついたのだ-人は今もなお、このオーチャードに聖域を見い出すことができる。
ここで100年以上にわたり、自然と知性とが出会ってきたのだ。
そこは現在に至るまで、ブルックの時代にそうであったように、何時間でも語り合ったり、あるいはただ座って「日がないちにちケンブリッジの空を眺めて」いられる稀有な場所のひとつとなっている。

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ご案内

オーチャードは年間を通じて無休で営業しております。
ただし、クリスマス前後数日間のみお休みとなります。
営業時間は通常9:30-18:00ですが、シーズンによって多少の変更がありますのでご注意ください。
メニューはモーニングコーヒー、ランチ、アフタヌーン・ティーとなっています。
冬には<パヴィリオン>を中心に、おいしいあたたかいランチや<ウィンター・ティー>が雰囲気あるセッティングのなかで供されます。
ただし、雪の中でデッキチェアに座ってお茶を楽しもうという猛者も。(!)

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貸しボート

ケンブリッジからここオーチャードへ、もっとも伝統的なやり方で来られようとするなら、スカダモア・ボートヤード(01223 359750)でプントを(必要なら   も)借りることができます。
もしくは、オーチャードでプントを借りて、絵のように美しいミルポンド、バイロンズ・プールやグランタの自然美のなかを探検することも。このルートは曲がりくねってグランチェスター・メドウを通り、ケンブリッジのアカデミックな流れの中へ至ります。

オーチャードには2艘のプントと1艘のカヌーがございます。
電話にてご予約承ります。
TEL:01223 845788

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ルパート・ブルック博物館

ルパート・ブルック博物館へもどうぞ。こちらはオーチャードの駐車場わきにあり、入場無料となっています。
ルパート・ブルック協会への入会申し込みも承っています。

(本文おわり)

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*1<訳注>
グウィネス・パルトロウ主演、クリスティン・ジェフス監督、2003年、イギリス。

*原文中一部の差別的表現を、時代背景をかんがみそのままに訳出したことをお断り申し上げます。