2021年09月16日

Les tableaux peints pour mon projet de film

Les tableaux peints pour mon projet de film : Les portraits de ma famille par mémoire et imagination

Je pensais longuement à travailler un jour sur la vie et art des membres de ma famille.
C'est pourquoi je l'ai pris comme sujet de mon projet de film en master Paris8.

Cependant, l'épidémie m'empêche de retourner au Japon.
Ni documents, ni filmage...
Surtout, aucune photo de ma famille en ce temps-là.

Alors, j'ai décidé finalement de tout restaurer moi-même par dessin.
Donc, ce sont les portraits de ma famille dessinés par mémoire et imagination.



L'église St. Nicolas à Tokyo
Mon arrière-grand-père, le père de mon grand-père, appartenait à l'Église orthodoxe de Russie.
Leur famille, mon grand-père inclus, avait un nom de baptême.



On dit qu'il était d'origine russe.
Il était japonais, mais très grand avec les yeux bleus.
Aussi sa sœur, mon arrière-grand-tante.
(Dessiné par imagination)



Mes grand-parents à leur mariage
(Dessiné par imagination : en costumes typiques en ce temps-là)

Ils ont trois enfants : ma mère et deux garçons
Mon grand-père a validé une formation d'ingénieur et a rejoint une entreprise de production d'avion.
Pendant la seconde guerre mondiale, il a été envoyé en Chine comme soldat, par conscription.



Mon grand-père à sa jeunesse
(Dessiné par mémoire d'une vieille carte d'employé ou qlch)
Il était toujours sincère et malhabile



Mon grand-père s'est agrandi sans difficultés et ne savait aucunement négocier.
Un jour où il devait rencontrer des clients pour récupérer de l’argent, il est rentré bredouille.
Il a dû appeler ma grand-mère pour qu’elle vienne le chercher : il n’avait même pas de quoi s’acheter un ticket de bus !



Il a démissionné son entreprise, fatigué des concurrences, et a travaillé comme projectionniste.
Il a voyagé de régions en régions pour projeter des films dans des salles, à l'école...
Ma grand-mère a aussi travaillé comme cordonnière, enseignante d'Ikébana etc.



Ma mère s'est toujours intéressée au christianisme.
Quand elle était petite, elle se levait à 6h et allait à l'église en vélo tous les dimanches, toute seule. Même en hiver.



Son portrait de jeunesse
(par mémoire d'un dessin de quelqu'un d'autre)
Elle a travaillé comme dessinatrice dans une entreprise dès sa sortie du lycée,
et en même temps, suivait des cours des beaux-arts à distance.



Ma mère peu avant son mariage
(par mémoire d'une photo)
Le moment où elle était la plus belle, je pense



Mes parents à leur mariage
Je n'ai pas de mémoire des photos, mais je me souviens de sa robe car elle la portait parfois à leur anniversaire



Mes grand-parents à ma mémoire
Il a commencé à peindre quand ma mère lui a offert une boîte de peinture à ses 60 ans.
Ils ont été baptisés et commencé à travailler comme chrétien environ ce temps-là.



Ils habitaient une petite maison à Fujisawa, grande ville au bord de la mer.
Elle a été détruite il y a longtemps.



Mon grand-père et moi
Nous rendions visite chez eux en été.
Il était toujours très calme et taciturne.
Il essayait de dire quelque chose de drôle et de me faire rire.



En été, nous sommes sortis sur une île.
Le goût de sable à la plage, des petits objets à coquille dans les magasins de souvenir...



Ma grand-mère était enseignante d'Ikébana.
Ses élèves lui rendaient visite pour la leçon.
Mémoire quand j'avais 10 ans ou environ



Les photos des fleurs que ma grand-mère a rangées
chaque fois qu'il y avait des événements à l'église.



La maison de mes grand-parents
Le temps reposait calmement sur le passé dans cette maison.
Le tic-tac ennuyeux de l'horloge, le canapé en ébène, le cabinet antique où ma grand-mère gardait sa brosse et des épingles pour son chignon...



Mon grand-père à la table de petit-déjeuner
La fumée du café, le petit panier de pain en forme de coeur...
L'impression inoubliable de la paix



L'escalier de la maison de mes grand-parents
Très reluisant qu'il m'a fait avoir peur de glisser
Un grand relief de plâtre au palier
J'imagine que c'était une scène de baptême



L'atelier de mon grand-père au premier étage rempli de l'odeur lourde de peinture.
Je trouvais toujours un tableau en cours de composition sur son chevalet.



Après que ma grand-mère a été malade, ils ont quitté leur maison et habité une maison de retraite.
Là ils ont continué leur activité chrétienne, la prédication inclue.



À la fin de sa vie, il a perdu une grande partie de sa vue.
Il a arrêté la peinture à l’huile pour l’aquarelle et ainsi continué à peindre.
Ma mère lui a demandé
Il a répondu,



Les petits tableaux comme des bijoux de mon grand-père
Celui de la nèfle, il me l'a donné.
Pour sa dernière grande série, il a peint une cinquantaine de petits tableaux et les a donné à tous les résidents de sa maison de retraite.



Il faisait les prédications jusqu'à deux jours avant sa mort.
Ce jour-là, à la porte de la maison de retraite, il s'est tourné vers ses camarades et a dit:
Si j’ai pu travailler ainsi jusqu'à aujourd'hui, c'est grâce à vous.
J'utilise ce pseudo Nakajima avec le respect à mon grand-père.












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2021年09月15日

<モネの庭の想い出>シリーズの制作メモ



この記事では、今制作中の映像プロジェクト<モネの庭の想い出>のために描いたイラストシリーズの制作メモを記します。
イラスト自体は、二つ前の記事に全掲。

   ***

2021年7月~8月。
今のところ全24枚。紙にペン・色鉛筆。

絵の制作そのものにそう問題はなかった。
頭の中にあったイメージの大方を、ほぼその通りに描けたと思う。

いくつかの小さな失敗を除いては…
祖父の朝食の食卓に必ずあったはずの、ブルーベリーのジャムの瓶を描き忘れたとか。
(手に持って蓋を開けてるとこ、と考えることにしてる)

藤沢の家の居間の絵は、色を塗り上げてしまってから、何か足りないな…と思いながら眺めていると、
あとから絨毯の柄を思い出した。
ただ淡い緑色だったのではなくて、そこにピンクと白とこげ茶の、たしか花と鳥の絵柄が織り込まれていたはずだ。
でもそれを、上に家具が載った状態で、しかも斜めから見た状態で描き加えるって難しい。
まぁ今のところはいいや… またそのうち。

いくつか技術的な問題があったとすれば、

*目の描き方、というか、視線の描き方
人物を正面から描けばだいたいこっちを見ている感じになるのだが、斜めから描く場合が難しい。
どう描いたらこっちを見ている感じになるのか、焦点が合ってる感じになるのか…今後の課題。

*何で縁取るべきか問題
これまでずっと、縁取りはペンで入れるものだと思っていた。
ところが、いま手元にあるうちでは黒いペンを使うとどうしてもインク垂れしてしまって汚くなる。
そこで青いペンで入れてみたが、やっぱり変だ。
結局、鉛筆の先を細く削って強めに入れるのがいちばんしぜんと判明。しかも消しゴムで消して直せる。
思い込みを覆された感。えっ…。。
いままで緊張しながらペン入れしてたのは何だったのだろう。。

それくらい。
たいへんだったのは、制作後。

何が問題だったかというと、スキャナ画像のクオリティがひどすぎる。
アナログ絵が常につきまとわれる問題だ。

素晴らしいハイクオリティのスキャナという触れ込みだったのに。
こっちはちょっとの色調の違いにも心を配り、バランスを見ながら、細心の注意を払って描き上げてるというのに。
上がってくるのはショックを受けるほどうすらぼやけた汚い画像で、色調も変。
あれだけの時間とエネルギーをつぎ込んで、上がってくるのがこれ?!
見た瞬間、いつもショックで、メンタルに来る。
わざわざ店舗にスキャンし直しに行ったが、変わらない。
それをPSDで修正して原画の感じに近づけていく作業が、ほんとに果てしなく大変だった。
しかも24枚もあるんだもの。

とくに、手持ちのスキャナは赤が強すぎ、重たすぎる。
籠に盛ったミカンが、トマトに見えるレベル。
いくら何でもひどすぎる。
全体を調整したあと、絵の中の赤いモチーフ部分を手動で選択して、さらに色相を調整し、重さを軽減する。
いちいち世話が焼けすぎる。
ほんとに疲れた。

さらに、濃さの調整。
色鉛筆の絵って、そのままネットに載せると薄すぎてほんとに見られたものではない。
思う以上に相当濃くしないとだめ。
いったんちょうどいい濃さに調整したと思っても、SNSのプラットフォームに載せてみるとまるで白い靄がかかったよう。
一日かけて全部、さらに濃く調整した。
シリーズものだから、濃さにばらつきがあると不自然になる。
全体を見たときに調和して見えるよう、一枚一枚、考えながらほかと比較しながら調整しないといけない。

そういう調整の作業が、ほんとにいちばん大変だった。
あとは、順序を決めるとか、コメントを付すとかが、意外にたいへん。
「枠組みを整える」作業が。

でも、描き上げてみて、つくづく思った。
アートってすごい。無から有を生み出せる。
取りに戻れなくてあれほど困っていた資料が、いま全部、手元に揃った。
まぁ、あまり忠実ではないかもしれない、純粋に主観的なものだけど。。














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2021年09月15日

祖父について補足 思い出すままに



私の祖父の描いた絵。
この記事では、前記事でまとめた祖父の生涯についての補足を記します。(本文は、前記事のスクリプトをどうぞ。)

   ***

祖母が体を壊してしまってからも、祖父は藤沢の家で何とかやっていこうと、ずいぶん努力をしたようだ。
目も耳も悪く、腰も悪いというのに、自転車で買い出しに出かけ、リュックに買ったものを詰めて運んでいたという。
聞くだに背筋が寒くなる。そんな状態で転倒したら。
それほどまでにあの街を、あの家を離れたくなかったに違いない。

せめてうちで一緒に住めたらいいのに、とひそかに思っていた。
けれど、母にしたら考えるのも無理みたいだった。
まぁ…今思えば、向こうの会衆でよかったのだろうな。

内心どう思っていたかは分からないけれど、私から見ると、驚くべき適応力だった。
向こうの会衆でもあっというまになじんで、ほんとに愛されていた。
毎日のようにお花や果物が届いていたイメージ。

   ***

なるべく会いに行きたかった。会えるうちに会っておかないと。
けれど、ケアホームはずいぶん不便なところにあって、なかなかどうして、容易ではなかった。
当時私は車を持っていなかったから、なおさら。
電車とバスを乗り継いでいくと交通費も高くつき、連結も悪い。
さいしょにひとりで行ったときは帰りにバスを1時間も待つはめに。

なので次のときはバイクで行った。
ところがふだん乗らない長距離に、おんぼろバイクが参ってしまったようで。
帰り、動かなくなってしまった。
そこで業者に頼んで運んでもらうはめになり、さらに高くつくことに。
これに懲りて足が遠のいているうちに亡くなってしまった。
だからひとりで行ったのは2回だけ。

それでも、貴重な記憶だ。
90代の人が、これほど「ふつう」でいられるものか。
それまで私の知っていたお年寄りというものは、たいていボーッとしていて、動作も緩慢で、話しかけてもとんちんかんな答えが返ってきたりしたものだ。
けれど、祖父にはそんなところが全くなかった。
話していても、ほんとに全く「ふつう」だった。
これほどまともな人はいないっていうくらい。

   ***

その日もちょうど小さな寄せ植えが届いたところで、祖父はさっそくスケッチブックを開いて描きにかかったが…
「バランスっていうものは、難しいもんだな」と。
「いや、それアナタの問題じゃないから、」と言いたかった。
贈ってくれた人には悪いけど、その寄せ植え、ほんとにバランス悪くて、センスのかけらもなかった。
よくこんなの売ってるなって、呆れるくらい。
でまた、よくこんなの買って、人に贈ろうと思うよな。
ただバラバラに植わっているだけで、「寄って」さえいないんだもの。

いや、祖父だって、内心はそう感じていたに違いない。
でも人のいい祖父は勝手にデフォルメしたら悪いと思ったのか、そのひどい寄せ植えを律義にスケッチし続けるのだった。
水彩で描く祖父の、あの絵はそのときの記憶だ。
さすがにあれを私の絵でまで再現する気にはならなくて、絵のモデルは果物に変えた。
果物もよく描いていたから。

   ***

それぞれのカメラをもって、一緒にぶらっとケアホームのまわりを散歩したことがある。
カピバラとかいるケアホームだった。
私が金網の向こうの景色を撮ろうとカメラを向けると、
「こうやってレンズのところをここに当てて撮るといいよ」って教えてくれた。
金網の菱形の隙間にレンズを当てて撮ると、網目に邪魔されずに向こうの景色が綺麗に撮れるんだ。
「こうして撮るといいよ」って、その言い方が好きだった。
孫とかそういうのに関係なく、全く対等に接してくれている感じが。

   ***

ロシア系の曽祖父の血か、味覚が少し日本人離れしているみたいだった。
若い頃は祖母に、誕生日にカスタードクリームをつくってほしいとせがんでいたそうだ。
もらいもののブルーチーズを家族のだれもが受け付けなかったのを、ひとりで「うまいよ」と食べていたっていう話も聞いた。
ケアホームのあっさりした食事は物足りなかったようだ。
たまに外食するとなると、ファミレスのドリアが大好きだった。子供みたいだ。
90代のお年寄りってこんなんだっけ?と考えてしまう。
そういえば娘である私の母も、私より油っこいものが好きだったりする。

藤沢の家では、朝食はいつもパンだったようだ。
でも、家族で行っていたときには、うちの家族にだけご飯が出ていたみたい。
というのも、父が和食でないとだめな人だったからだ。
朝食を食べ終わって、手を洗おうと流しに行くとき、台所の狭いテーブルで食べていた祖父の後ろを通ったら、ハート型のパン籠にトーストが載っていた。
「えっ、パン食べてる! いいなー、私もパンを食べたかったのに。
何で私には、どっちがいいか聞いてもらえなかったんだろう」って思って。

ちなみに私のうちでは、そういう理由で生まれてこのかた、毎日毎日、死ぬほど毎日ずっとご飯だったので、おとなになってからは、朝はぜったいパン。

   ***

祖母が亡くなったあと訪ねていくと、ケアホームの家賃とか管理費が思ったほど変わらないという話をしてくれた。
なんだか独特な算出方法なのだそうだ。
「ひとり減ったからだいぶ浮くかなと思ったけど、案外そうでもなくてね」と。
「ひとり減った」ってアナタ。
軽いユーモアさえ交えた語り口が… ほんとに、そんなに落ち込んでいなかった。
この人の信仰は本物で、この人を内側から強めているのだった。

祖父の印象は「気骨ある」って感じだった。
藤沢の家にあったソファみたいな、質実剛健な感じ。
祖父のそばにいると、しずかにあたたかいエネルギーが放射されてる感じがした。
「子供の頃は弱くって、いつも泣いてるみたいな子だったよ」って話してくれたことがある。
想像もつかなかった。

   ***

昔から、とくにおじいちゃん子というわけではなかった。
家族で藤沢の家へ行くのは、せいぜい年に一度。滞在するのもせいぜい、足掛け3日だった。
それを過ぎると、祖母がいらいらしてくるらしかったので。

祖父は、<赤毛のアン>に出てくるマシューみたいな感じで… 無口で、正直、あまり存在感がなかった。
祖母が二人分、いや下手すると三人分くらいよく喋った。

小さい頃は、祖父に頼まれて、ピアノをカセットテープに入れて持っていっていた。
祖父はそれを聞きながら絵を描いたりしていた。
あるとき、カセットからテープが飛び出してしまっていたのを、祖父は丹念に全部引き出して、巻き直して収めて又聞けるようにしてくれた。
仕組みを知らなかった当時の私には、まるで魔法のようようだった。
カセットからテープが飛び出したりしたら、人の腹から腸が飛び出したのと同じで一巻の終わりだと思っていたから。
あとになって、昔映写技師だったという話をきいて、この時の記憶とつながった。

   ***

若い頃はただ真面目だけが取り柄の不器用者だった、とよく聞かされた。
年を経るほどに円熟味を増し、独特のユーモアも相まって、飴色のつやを帯びていった感じ。
のんきで、自由で、心が広く、自分の好きなことに忠実で、身内に対してはけっこう我儘なところもあった。
祖父の魂のかたちを思い浮かべようとすると、丸みを帯びて磨き込まれた琥珀の塊を思い出す。
薄黄色で透明なやつじゃなくて、あたたかな茶色で、ごつごつとニュアンス豊かで、昆虫が封じ込まれたりしてるやつ。

教会の壇上で、一同を代表して祈るとき。
決まって低くしわがれた声で、「愛と、憐れみと…」と始める。
それはサザエさんのように、人を安心させる、偉大なマンネリなのだった。
小さな子どもたちが面白がって、しわがれ声で「愛と、憐れみと…」と口真似をしていた。

祖父には、「ああしろこうしろ」とか、「これをするな」ということを一切言われたことがない。
私がキリスト教をやめたときにすら、何も言わなかった。
「長老」まで務めあげた人だったのに。
変わらずに優しくしてくれていた。

   ***

さいごに遊びにいったのは、アイルランドの風景画の画集を持っていったとき。
あれを見てもらうのに、間に合ってよかったな。
眺めながら、「アイルランド面白そうだな。行ってみたいな」というのを聞いて、行けるんじゃないかと思った。
どうやったら連れていけるかなって、考え始めていたときだった。
もう一回くらい、遊びにいきたかったな。

亡くなったときはもちろん悲しかったけれど、そこまでじゃなかった。
むしろ感嘆の念に打たれたというほうが強い。
良質な映画のラストシーンを見るようで… 人って、こんなに完璧な死に方ができるのかって。

「さいごに50枚もの絵を描いてケアホームの全員に贈った」とか、「なくなる二日前まで伝道に出ていて、仲間たちに別れの挨拶までしていた」とか。
ちょっと、話が出来すぎなくらい。
フルマラソンをさいごまで完走するみたいに、自分の人生を、全力でりっぱに生ききった感じがあった。
これ以上を、求めちゃいけない。
拍手喝采して、「お疲れさまでした!!」って感じだった。

   ***

それからずっと、いつか祖父の個展を開きたいなと思っていた。
会場を探して、下見に行ったこともある。
でも… 人のいい絵描きあるある。
よく描けた絵ほど気前よく人にあげてしまって、ほぼ散逸状態。
どの絵が誰の手に渡ったのかほとんど知らないし、そもそも、どんな絵をどれだけ描いていたかの全体像すら、同居していなかった私は知らない。
祖父があげてしまった絵を、私が探してまわるのもどうかと思うし。

でも、こんなもんじゃない。
祖父が生涯に描いた絵の数と規模は、ほんとはこんなもんじゃない。
残されたスケッチブックをパラパラしながらため息をつき… 
どうにも八方ふさがりで、腰が上がらなかったのは、そういうこともあった。

アナログ絵の唯一性って、罪だよな。
ひとりずつがオリジナルの絵を一枚ずつ持ってるより、みんなが全体を共有できた方がぜったいいいのに。

でも、とにかくあれだけの人のことを、このまま忘れ去られるままにしてはいけない。
何とかまとめて、形にしたい。
自分のことで忙しかった長い年月の間も、ずっと心の隅には掛かっていた。
こんな、よりによってほぼ全く資料が手元にない状態で、取り掛かることになるとは思わなかったけれど。

ほんとに、いよいよどうしようもないところへ追い込まれるまで、自分で絵を描いて祖父の人生を再現しようってことは思いつかなかった。
窮すれば通ずというやつ?
資料をとりに家へ戻ることすら許されない状況への怒りが爆発して、
「もういい! 全部自分で描いて取り戻すからいい!!」ってなった。

人の顔を思い出して描くだけならともかく、人の絵を記憶だけで絵に描くってどうなの?
ある意味、もとの絵への冒瀆ではないだろうか。
どう逆立ちしたって、元の絵を完全に再現することなどできないのだから。

でもごめん、今の私にはほんとに、それしか方法がないんだ。
祖父があんなにも描いたことを、あんなにも美しい絵をたくさん描いたことを、私はどうしても伝えたかった。
こういう人が、かつて地上に存在したことを。










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