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Posted by つくばちゃんねるブログ at

2009年06月25日

アレキサンドリア~なぜアイルランドなのか~

 次のステージに進む前に、今まで走ってきたところをちょっと振り返ってまとめておいた方がいいと思う。
 時間食うけど、後片づけの一環としてこれをやっておいた方がいい。
 というわけで、これから何回分か、3月のフェスと初演の備忘を記します。

 **************************************************

○アレキサンドリア

  まず、3月にやったフェスに関連して、「なんでアイルランドなの?」って訊かれることが多いので、この辺でちょっとそんなことを記しておこうかと思います。

 なんでアイルランドなの?

 アイルランドに関わってる人で、こう訊かれると困ってしまうひとは多い。
 あんまり自分で考えたことがないんだと思う。
 なんだか、
「あなたって、どうして人間なんですか?」
 とか、
「第二次世界大戦てどうして起こったの?」
 って訊かれて、困ってしまうような感じ。

 なんだろうな、自分から進んでアイルランドに関わってるというよりも、アイルランドの方がその人に用があって呼ばれちゃった、みたいな人が多いんだと思う。

 自分の場合は、なんでなのかな。
 うん。
 ほんとは決してアイルランドだけじゃないんだよね。
 ウェールズも好きだし。
 イングランドももちろん。
 スコットランドは行ったことないから分からないけど。
 ブルターニュなんかも好き。
 ポルトガルの辺境の島々とかにも惹かれる。
 プロヴァンス。
 ヴェンド地方。
 東欧の国々。
 好きなところ、行ってみたいところ、ほかにもたくさん。

 さいしょにアイルランドに触れたのって、いつのときだろう。
 小さいころって、世界地理なんかもちろん分かってなかったけど。

 石井桃子編の<イギリスとアイルランドの民話>、モノクロの挿絵が素敵な黄表紙の本。
 いま考えてみると、たぶんあれがさいしょだろう。8才くらい、かな。

 ランゲの色別の童話集。あれにもアイルランド民話はいっぱい収録されている。

 でも小さいころとりわけこよなく愛した2冊。

 ソーヤーの<空を飛んだおんぼろ校舎>。原題は The Flying Schoolhouse 。
 ドニゴールの貧しいけれどとても美しい村に住んでいた男の子が、アメリカへ移民したおじを頼ってひとりで旅に出る物語。
(あ、じっさいは「ひとり」とは言えないけれど。)
 あのシリーズはほんとに良書が多かったと思うけど、この本はとりわけ大好きで、挿絵をトレーシングペーパーでなぞって描き取ったりしてた。それほど好きだった。
 世界史なんか分かってなかったけど、今考えると、ドンピシャリ、アイリッシュ。
 この本はフィクションだけど、著者は(アメリカ人なんだけど)イェイツのようにアイルランドの田舎をまわって採話したりしてた人。

 もう一冊は、ヒルデ・ハイジンガーの<ティムとふしぎなこびとたち>。
 著者はドイツ人で、コネマラを旅したときの印象をもとにこの本を書いた。
 私が読んだのはたぶん9才くらいのときで、字が細かくてちょっと難しかったのだけれど、なんか好きだった。

 12才のとき、ピアノの課題曲が<庭の千草>だった。あ、The Last Rose of Summer ね。
 先生がさいしょお手本で弾いてくれるのを横で聞いてて、感激して、なんていい曲だろうと思った。
 今でもギターで、ときどき弾く。

 でも、アイルランドって国をさいしょに意識したのは、たぶんあのとき。
 14才くらい。
 そのころ、アフリカを舞台にした話を書いていて、ちょっと調べなければと思って、図書館の、それまで行ったことなかった棚、世界地理の棚のところへ行ってアフリカについての資料を探していた。
 そのとき、なんだか「背表紙に呼ばれて」しまった。
 手に取ったのが、まるで関係ない、Terence Sheehy の IRELAND and Her People という写真集。
 ぱらぱらとめくってみると、そこにはのどかな田舎の景色が、道ゆく馬車の姿があった。
 そのとき、なぜだか思った。
 自分はこの国へ行く。いつか必ず、と。

 でも、現実性はなかった。中学生がひとりでそんなこと思っていても。
 お金はかかるし、制度的に器が整っていたわけでもないし。

 で、そのことはずっと忘れていたわけですよ。ずっと、長らく。

 シュタインベックの<チャーリーとの旅>のなかに、こんな一節がある。
「人が旅に出るのではない。旅のほうが、人を連れ出してゆくのだ。」
 彼も、旅への理屈抜きの情熱を抑えがたく、しかも当時の私よりずっと年食ってから、わざわざトレーラーハウスみたいの仕立ててアメリカ全土をめぐる旅に出た人。

 ずっとあとになって、じっさいアイルランドを旅しながら、この言葉をかみしめてた。
 ほんとだよな。
 忘れてたつもりでも、夢は必ず人に追いつく。
 人が夢を見るのではない。夢のほうが人を連れ出してゆくのだ。・・・

 それにしても、まさかあんなものが自分を待ってるとは思わなかった。

 サマセット・モームの<月と6ペンス>。
 この本に私は12才のときに出会った。
 主人公ストリクランドの強烈に冷酷でわがままな生き方に、自分の姿を合わせ鏡で突きつけられたようで、すごい衝撃だった。
 だけど、その主人公のメインストーリーとおそらく同じほどの深い印象を残して、ずっと覚えていたのがこの話。
 話の中ではほんのみじかい挿話にすぎないんだけど、イギリス人のストリクランドが流れ流れてタヒチに辿り着いて、そこでやっと心の平和を見出すくだりを説明するためにもってきてる。
 レールの上を忠実に歩んできた、将来を約束された優秀な医師だった男が、たまたま休暇で出かけて通りかかったアレキサンドリアで電撃的な啓示を受け、地位も名誉も富も捨ててそのままそこに居ついてしまう話だ。
 それはこんなふうに始まる。

「世の中には、場違いのところに生まれてくる人々もあるものだ、という意見を私は持っている。偶然のことから、彼らはある特定の環境におかれることになるのだが、彼らの見知らぬ故郷にたいして、つねに郷愁を感じているのだ。彼らは、生まれ故郷では他国者であり、子供時代から知っている青葉茂る小道も、遊びたわむれた人ごみの街路も、けっきょく、通りがかりに足をとどめた場所にすぎない。近親のあいだで、全生涯を異邦人として過ごすこともあろうし、また、それ以外の環境というものを知らないくせに、永久にそれになじむことができないこともあろう。みずからを密着させることができる永遠な何ものかを求めて、人が遠くはるばると出かけてゆくのは、おそらく、このよそよそしさの感じのためなのであろう。・・・ときとして人は、ある神秘の情とともに、自分の故郷だと感じられる場所にめぐり合うこともある。ここに探し求めていた故郷があり、いままでに見たこともない風景のなかに、そしてまったく未知の人びとの中に、あたかも生まれて以来親しみ深いものであったかのように、落ちつくであろう。ついにそこで彼は安息を見出すのだ。」
(阿部知二訳)

 アレキサンドリアで甲板から波止場を眺めるエイブラハム。
 その映像を、子供のころに読んだ記憶のまま、私は映画のように思い起こすのだ。
 青い空、陽光を浴びた真っ白な町並、民族も顔だちも雑多な行き交う群衆、などを眺めるうち、
「・・・なにかが彼らに起こった。・・・雷に打たれたようなものだった・・・啓示ともいうべきものだった・・・。なにかが心の中できゅっと締めつけられたように思われ、とつぜん一つの歓喜、すばらしい解放感が感じられた。ゆったりと安らかな気持ちになり、たちまち、その場ですぐに、これからの生涯をアレキサンドリアで送ろうと決心した。船を捨てるのにも大して面倒なことはなく、二十四時間たつと、持ち物全部をもって上陸していた。
 ・・・
『ぼくは、だれがどう考えようとかまわなかったよ。ああいう行動をとったのは、ぼくでなくて、ぼくの中にある何かもっと強いものだったのだ。あたりを見まわしながら、小さなギリシャ人のホテルへでもゆこうと思ったのだが、どこへゆけばそういうものがあるか、分かるような気がしたのだ。どこで、いいかい、そこをまっすぐ歩いていって、それを見たとき、すぐにこれだなと覚えがあった』
『アレキサンドリアには、前に来たことがあったのかい』
『いや。それまでイギリスから一歩も外へ出たことがなかった』
 まもなく彼は政庁に入り、それからずっと、そこに勤めている。・・・」(同)

 それはものすごく印象的な挿話ではあったけど、いつか自分にそれと同じことが起こるなんて、考えてもみなかった。
 以下、サイト中の<創立のいきさつ>にも記していますが、抜粋してもういちど。

「創立者はもともと作家志望です。 
 子供の頃から作家になりたいと思いつづけてきて、今でもそう思っています。
 好きな作家は色々な国にいます。とくにイギリス。
 自分を育ててくれた文学を、生み出してきたそういう国々、イギリスやアイルランドやそのほかの土地に、いつかは行こうと思いつづけてきました。

 はじめてじっさいに行ったのは2004年の夏のこと。
 そこで何に出会ったかというと、なかなか言葉では説明しづらいのですが…

 とくにウェールズとアイルランド、ケルトの地とよばれる当地で、私はそれまで経験したことのないような、たいへん強烈で、圧倒的なインスピレーション(文学上の)を受けたのです。
 行く先々で大地の霊が私に語りかけてきて、5千年前、1万年前にその土地で起こった物語を告げてくれるかのようでした。
 まるで空にスクリーンが張られて、映画のダイジェスト版のように次から次へとだーっとやってくるかのような。…あまりに圧倒的なので、少しこわくなったくらいです。
 けれどもそのとき、・・・これがそれなのだ、いつか自分が書くように定められていたもの、そのために自分が生まれてきた使命なのだ、というはっきりとした感覚を得たのでした。

 ほんとのことなのです・・・こういうふうにしか、説明のしようがないのです。
 当地では別にフシギなことでもないらしいのです。アイルランドで、やはり物語が『やってくる』と言ってたひとに会ったことがあります。

 ともかく、それから日本へ戻って以来、かの地で得た物語群を、私は書きつづけています。
 アイルランド篇とウェールズ篇とあわせて30章ほどあって、いまの時点でやっと全体の半分くらいまで行ったところです。」・・・

 こうしてインスピレーションの波を受けるようになったとき、
「あ、アレキサンドリア!」と思ったのです。

 だからね、やっぱり・・・
 ほんとは、別にアイルランドだけってわけじゃないんです。
 大きく言って<あのへん>。
 ケルトの土地。
 いまの国境なんて、あとから引いたものにすぎないし。
 民族は移動しつづけてきたのだし。
 地霊たちにとっては、大した意味はないと思う。
 インスピレーションは、アイルランドでも来るし、ウェールズでも来る。
 行ったことないけど、スコットランドとかブルターニュでもほぼ確実に来ると思う。

 そんなわけで、ほんとは別に、パトリックスデイだけにこだわるつもりはないんです。
 ウェールズも私にとってはほんとに大切な国。
 ウェールズの守護聖人の祭りとかもやってみたいし、ブルターニュのお祭りなんかもすごい興味ある。
 あ、こんど5月に、都内にブルターニュ音楽やる人たちが来て、<聖イヴ祭>のイベントをやるそうですよ。
 すごい気になってます。

 とりあえずいまパトリックス・フェスをやってるのは、そうだな、いちばん身近だったから、ということになるだろう。モデルがすぐそばにあったのでやりやすかったんです。
 大学に入って都内に移り住んだら、なんだかアイルランドが妙に身近なところになってて。
 あちこちにアイリッシュ・パブがあって、アイルランド音楽のセッションをやってて、はじめ、変な音楽だなと思って興味もなかったのが、気がついたら自分でもやるようになってて。
 毎年3月には原宿のパレードがあって、モーニングセッション→パレード見物→ライヴのはしご、っていうのが恒例になって。
 そのうちアイルランドに旅行して、くだんの<アレキサンドリア体験>があって、ライフワークのものを書くこととアイルランドとが劇的な仕方で結びついて。
 そのうち自分の思いとシンクロするように、つくばでも新しくアイルランド音楽やる人が何人も出てきて、つくばセッションが実現し。
 そのうちパレードも見てるだけではもの足りなくなって、自分もスタッフとして手伝ってみたいなというのと、つくばでもやりたいなというのがほぼ同時に出てきて。
 それで去年、2008年から、勢いだけで強引に始めてしまい。

  正直、当時は認知度の低さとか、人手を集めることの難しさとか、あまり考えなかった。
 なんて言うのかな、
 えっ、この村には診療所もないの?→つくらなきゃ。
 えっ、この交差点、信号ついてないの?→設置しなきゃ。
 えっ、この町ではパレードもやってないの?→やんなきゃ。
 みたいな感覚だった。
 さいしょ、警察に道路使用許可もらいに行って、パレードの趣旨を説明したときも、「で、それは、何のためにやるんですか? 目的は?」と聞かれて、「さあ~、何のためだろうな~」と、考えこんでしまった。

 そんなわけでですね。
 つくばでパトリックス・フェスをやるにあたっても、自分的にはほんとはちょっと微妙な点とか、説明に窮するところというのがあるわけです。
 こういうイベントというのは、地元では「地域の活性化」とか「地元を盛り上げよう」という文脈で紹介されたり、協力していただいたりといった場面が多いわけですが。
 これはほんとにそういうものなのか? 

 土地というもの、身土不二、地産地消、それはものすごく大切で、健全なことだ。
 私もできるだけ地元野菜買ってるし。
 そして、つくばは、基本、とってもいいところだと思ってます。
 だけど、このつくばでセントパトリックス・フェスをやる必然性ってなに?
 アイルランドにキリスト教を紹介した聖人の命日を、何でつくばで祝うのか?
 そう突っ込まれると、正直、答えに窮してしまう。ということに、最近、気がついた。
 つきつめると、結局、・・・私がつくばにいるから。
 ということになってしまう。
 そして、・・・何で私はつくばにいるのか? ・・・アイルランドにいられないから。
 ということになる。

 結局つくばは私にとって、大した必然性はないんです。
 ほかの大方の場所より、だんぜん好きではあるけれど。
 この土地は私に向かってあまり語ってくれません。
 筑波山を歩いても、牛久沼のほとりをめぐっても、大して物語はやってこない。
 この土地はなんだか寡黙で不機嫌で、むっつりと黙りこくっている。
 なんだかさんざん人間に踏みにじられてきて、すねて口をきかない子供みたい。
 なんかそんな感じを受ける。
 ごめんなさいね、決してつくばの悪口言うつもりはありません。
 悪いとしたら踏みにじったやつらの方ですからね。
 でも、私の力ではこの土地のコトバを聞き取れない。
 この土地が何らかの磁波を発しているとしても、結局私のアンテナとはかみあわないのだと思う。

  私の魂はこの土地には属していない。
 正直、向こうにいるときの方が体調もいい。
 旅行から戻って、親戚に会ったら、「外国に行ってるとふつう、慣れない環境やストレスでやせて帰ってくるものなんだけどね。太って帰ってくる人って珍しいね」と言われた。
 ・・・アレキサンドリア!! なのであります。

 私の目下の夢は、アイルランドで享けた物語をアイルランドで、ウェールズで享けた物語をウェールズで、ゲール語やウェールズ語とはいわないまでも、せめて英語で出版すること。
 そして、その土地その土地で享けた物語を演出して、バリリー座の興行をやって、享けたその場所で演劇として再現すること。
 そうしてはじめて、それらの物語を授けてくれた土地の精霊たちに報いることができるんじゃないかと思ってる。
 それが私にとっての地産地消であり、まさに地域への還元なのです。

 私は結局自分の夢のために、つくばの人たちを巻き込んでいるだけなのかもしれないな。
 今のところ人さまに説明するときは、地域の活性化というよりもむしろ、「つくばは国際都市だから、国際親善と文化交流のために!!」という紹介の仕方をしてる。
 それが自分的にもいちばんしっくりくる。
 そういうことがじっさい言える、つくばのあり方に感謝しなくては。
 おかげでたぶんほかの地方都市でこういうことをやった場合より、わりとスムーズに受け入れられている面があると思う。
 つくばフェスのあり方というのは、ほんとに今後の大きな課題です。

  

Posted by う at 01:07Comments(0)初演備忘

2009年06月25日

初演備忘・脚本

 劇団、立ち上げます! って宣言してから今に至るまで、ちょっと振り返ってみる。 ひとつ、思ったのは。
 始めるときは、簡単に考えた方がいい。
 難しく考えてると、いつまでも始められないもの。
 あまたの困難にぶつかるだろうことは分かってても、はじめはあまり考えない方がいい。
 とにかく始めてしまった方がいい。
 投げ出すことはいつだってできる。
 それが自分にとって強い必然性をもっているなら、ごたごたに直面しても乗り越えていかれるだろう。

  こんなに大掛かりになってこんなに大変だとは、もちろん想像もしなかった。
 いちいち振り返ったらまたどっと疲れて次に進む力を奪われてしまいそうだ。
 でも振り返らずに突き進んだら、たぶんまた同じ問題に繰り返しぶちあたるだろう。
 だからどう対処するか考察するために、ぶちあたったごたごたのモデルケースとしても書いておく。

 **********************************************

 ここではまず、脚本から。

「頭の中ではだいたいできあがっているのです。あとはディテールと方法論。」
 2008年6月8日、サイトに載せた創立企画書より。

 イメージはさいしょから頭のなかでできあがってはいたのだが、何しろ脚本を書くということじたい人生ではじめてだった。

日記、2008年10月。
「自作の脚本化といふこと。

 すごくしんどいけど、勉強になるし、いろいろと考える機会となります。
 自作を別のスタイルに書き改めるということ自体は、はじめてじゃない。
 数年前、音楽演奏とのコラボレート企画をやりたいというので友人に頼まれて、散文作品を朗読用に書き改めたことがあります。それで朗読に女性歌手を起用して、2回くらい公演をやりました。

 これがほんと・・・ものすごくしんどかった! 新しい作品を書くよりはるかにしんどくて。そのときは正直、「もう二度とできない」と思ったものだけど。
 何の因果か今そのしんどさをまた、余すところなく味わっている・・・。

 いちど書き上がった散文作品というのはつまり、ガラスのカプセルに閉じこめられたひとつの世界、ひとつの有機体。
 それをまた取り出してきてどうこうしようというのには・・・はっきり言って、健康上何の問題もないわが子にメスを入れて生体解剖するような残酷さがあります。
 
 作品を書き上げることを<脱稿>っていう。
 今までそのなかでもがいて頑張ってまとめあげて、「よーし終わった!」ってそこからぽっと抜け出る感じ。ガラスのカプセルから外へ。
 なのにまたそのなかへ立ち戻ってゆかなくてはならない。
 定着液でその風景をもうしっかりと焼きつけたはずの、もう自分の手を煩わさなくていいはずだったその風景の中へ、また戻ってゆかなくては、もういちど自分の感受性を開いて、その物語を細部に至るまで自分で生き直さなくてはならない。 
 その壮絶な精神的めんどくささたるや!・・・

 ひとつの物語になんて手がかかるんだろう、気が遠くなる!
 私はもう、心を尽くしてひとたび書いた! あとは受け取り手の役割だろう! って叫びたくなる。

 ほかに書くべきものがまだない状態なら、まだいい。
 ところが、いま自分は、ほかの新しい作品でこれから書くべきものがまだいっぱいあるのに!

 ものすごく大変な思いをして、時間もかかっているのに、何か新しいものが生まれているわけではない、物事が進んでいっていないという焦燥感みたいなもの。
 そういう思いにもさいなまれながら。

 それでもやっぱり。
 いままで積み上げてきたものにここで視覚的な表現を与えなくては、ここで人々との共同作業を通じて立体的な表現を与えなくては、という内的な必然性があるから。・・・ 」

同、2008年10月。
「いやはやしかし。
 もの書きたるもの、 どれだけの長きにわたって、ひとつの物語に向き合えばいいのか?
 へたくそなやっつけ仕事を十残すよりは、珠玉の一篇を残すほうがいい。
 けれど、ひとたびきちんと世界の中にそのための場所を確保したら、さっさと捨てて次へ行きたい。
 物語はひとたび書き上げられたら永遠だが、書き手の方は生身の人間だから飽きてくるんだ、じっさい。
 こんな地味で湿っぽい話、もういいよ。って思ってしまう。」

 こういう思いがあったほか、なお悪いことには、のっけからそもそも舞台化の難しい作品だった。
 だから長々と苦しみ、試行錯誤を重ねた。

 たぶん人がそろうには時間がかかるだろうと思って先にせっせと団員募集をかけていたら、脚本ができあがるより先に団員が集まってしまい、結果待たせてしまうことになった。

団員メール、2008年9月4日。
「さて、さいしょにお会いしてからかなりの時間がたってしまった方もいらして、たいへん申し訳なく思っております。
 決して忘れていたわけではありません! 皆さんは私が劇団の将来をかける、大切な方々です。ただ、私の方で脚本化がうまくはかどらなくて、ほんとに悩んでいたのです。 」

団員メール、2008年9月15日。
「すでにお伝えしている通り、私のアイルランドシリーズ第一作のこの作品を、わがバリリー座の初演にかける予定なわけですが。
 皆さま、ご感想はいかがだったでしょうか。

 とりあえず、脚本係の方はというと・・・ あー! じっさいやってみて分かったのですが、ほんとに舞台化むずかしいです、この作品は。  
 今まで放っておいたわけじゃないのです。
 いちどはいわゆる一般的な演劇の形式、ステージをフルに使ってセットがあって場面転換があってセリフのかけあいでストーリーが展開してゆく、というかたちで半分くらいまで書いてみたのですが、・・・なんかどうも、そういう現在の一般的なスタイルにはなじまないようなのです。

 あー・・・のっけからちょっと間違ったかな、別なの初演にすればよかったかな、という思いがよぎったことも。
 たとえば、<大岩>なんかだったらスタンダードな舞台のスタイルでばっちりいけるでしょう。
 あれなどはとてもドラマティックで、ハムレットとか、ラシーヌの<フェードル>とかに通じるものがある。
 (自慢してるわけじゃありません。どうぞ誤解なく。何度も申し上げるとおり、すべてはもらったものですから。)

 だけど、<エニス>の場合、ドラマティックな筋立てというのはあまりなくて、むしろ淡々とした日常の日々が進んでゆくなかで、登場人物の心がしだいに変化してゆく、いわば一種の心理劇みたいなところがあるんですね。
 それをいかにしたらふさわしく表現できるか。

 ゆきづまり、ゆき悩んだすえ、目下の結論は・・・ 一般的なスタイルではなく、例えば日本の能のようなかたちで、シンボリックにやってみたらどうか、と。
 というわけで、目下その方向で検討中。 」

 というわけで、久方ぶりにその道の本を読み返し、能について、自分なりにまとめてみた(左カテゴリ<能について>)。
 いちおう英文学専修だったので、シェイクスピアはひととおりかじっている。
 古典ギリシャ語も少しやっていたので、<オイディプス>の一部は原文でやった。
 けれど、日本語で書くとなると私にとってはまず謡曲だ。
 典雅で、リズミカルで美しい。日本語の最高峰。

 脚本書きにあたって図書館に通い、久しぶりにいくつかの謡曲を読み返した。
 ついでに<錦木>もはじめて読んだ。
 イェイツがたびたび言及しているので、何でそんなに<錦木>にこだわっているんだろうと不思議に思っていたのだ。
 読んで、笑ってしまった。分かりやすすぎ。

日記、2008年10月1日。
「今回は、スタイルという問題でもずいぶん悩んだ。
 
 そもそも自分の散文のスタイルは、読んでくださったことがある方は知ってるけど極端に会話が少ない。ほんとにぎりぎり、必要最低限。だいたい、

 プロット3:自然描写7~8:会話1~2

という感じ。食事でいうと、

 穀物3:野菜7~8:動物性たんぱく1~2

という感じ。(そういえば、じっさい自分のふだんの食事の比率もこんなもんだ。)
 それで自分的にはまったく問題と思ってはいない。

 10歳のとき、「よし、自分は作家を目指すぞ!」って志を立てたときに、まず思ったのは「それにはまず、自然描写を極めなくては」ということだった。それがいちばん大事だと思った。
 それはたぶん、自分がこよなく愛してきた先人たちの作品がそういうのにすごく重きを置いていたせいだと思うし、逆にいえばそういう作品を自分が愛して選び取ってきたのだと思うし。で、その路線を今でも自分は正しいと思って守っている。

 だけど・・・それを脚本化するとなると。
 
 演劇経験者の方が私の作品を読んで、「これだと会話がすごく少ないね。ふつう、台本ってこんなに分厚いんだぜー」みたいなことを言ってくださって、そうだよな、舞台にかけるからにはもっとセリフを増やさなくては、というのでいちどはいろいろ付け加えてみたりもしたのだけれど。

 でも、なんだかしっくりこなかった。
 あとから加えたセリフが力を持ってない。必然性をもってない。
 これじゃ・・・ない方がいいな、と思えてしまった。

 いろんな舞台を見たりもした。
 舞台立てがやけにシンプルで、視覚的に面白みがなく、役者が息もつかずにやたらしゃべってばかりいるようなのが、最近けっこう多い気がする。
 あのシンプルさっていうのは、ひと昔前のバブルのころのいわゆる「スタイリッシュな」ガラスとコンクリの建築みたいな、ああいうのを演劇の世界が追っかけているような気がするのだけれど、気のせい?
 まあ、それはいいとして・・・役者があまりしゃべってばかりだと、なんかうるさいな、と思えてしまったのです。けっしてセリフが多いばかりがいいとは思えなかった。

 また一方の極端で、まったくの無言劇っていうのもいくつか見ました。
 コトバなしにここまで表現できるのかっていろいろ勉強になった。
 けれどやっぱり、全然なしだといまいち話の筋のこまかい部分がつかめないところもあって、うーむ、難しいものだなぁと。

 いろいろ悩んだすえ、自分の場合は、ムリしてセリフを増やさないことにした。
 むしろそぎ落とす方に考える。
 直観にしたがって、ふつうと逆に行く勇気を。・・・ということで、

 プロット・・・可能なら、ゼロ
 自然描写(ナレーション、詩的なリズムをつけて)・・・5~6
 会話・・・1~2
 心中セリフ、独白、回想、呼びかけ・・・1~2
 沈黙(動作、または動作の停止による表現)・・・3~4

 ふむ。こんなもんか。」

スタイルといふ事。 2008年10月14日の日記より。

「Style begins with a sense of who you are and your self-confidence. Kate Spade
 これはどういう文脈の話だか、まったく分からないのだけれど。
 ある日うちの職場の白板に校長の字で書いてあった。なんかの教材。うちのオリジナルでは見たことないから、たぶん誰かの学校の教科書かな。
 でも、いいコトバだと思いません?
 色んなことに当てはまりそうだ。
 ここではおもに、脚本のスタイルの話ですが。 

 5日、予定よりひと月遅れでようやく脚本書き上がり、団員へ発送。
 
 会話を無理に増やさず、地の文を取り入れるスタイルでいくと決めたあとは、すんなりいくだろうと軽く考えていた。もともと散文でも音楽的なリズムを大切にしてきたつもりだし。
 ところがじっさいにやってみると、つくづく思い知る。地の文を、口に出して朗読する脚本にするっていうのはまた全然別物なのだと。
 地の文というもの、難しいなぁ。
 決して原作の地の文のすべてを、ただ適当に切ってばらばらにして並べればいいってものじゃない。 

 まず取捨選択といふことがある。
 本を読んでいる状態では、読者は文章が冗長だとか退屈だとか思ったら適当に読み飛ばすことができる。
 ところが、舞台を見ている状態では読み飛ばしたり早回ししたりするわけにいかなくて、退屈してもずっと見ていなくちゃならない。
 それは、作り手の方が気をつけて、観客を退屈させたりうんざりさせたりしないようにしなくてはならないのだ。
 つまり原文の剪定作業というものがあるイミどうしても必要になってくる。
 もとよりすべてはもらったものであれば、依怙地にすべてを抱え込んだりする気はもうとうないのだが、それにしてもひとたび自分の描いた文章を客観的に見るというのはなかなか難しく、その部分を削った方がいいのか残した方がいいのか、いちいち悩む。

 そのうえ一文がすごく長いのだ私の文章は。・・・いい悪いは別としてね。
 簡潔さを追い求めるのが昨今のはやりだが、私はここ数年ずっとこんな。<じゅずかけばと>という作品を書いた時点で「・・・なんか、一文長すぎ」という意識はあったのだが、「いや、この方がいい」「これでいいのだ」という意見があったりして、だったら無理に変えることもないか、と。

 ただ、同じ音楽性といっても、散文用と朗読用ではやっぱり違う。
 脚本の場合、ひと息分が、ひと息で読める長さでないといけない。
 そしてできたら一文がひと息で読める長さであるのがやはり望ましい。ひとつの文を2回も3回も息つぎして読まれるようだと、聴いてても疲れる。 

 朗読される前提で書いた地の文をじっさい朗読してみたときに、そらぞらしかったり、違和感があったりするのは、どこかに問題があるのだ。

 たとえば、まんま叙述文(最後が述語で終わる)だと、ちょっと間の抜けた感じがすることがある。それは、日常的な文章の型をそのまま舞台という詩的非日常的空間に持ちこんだことからくるずれだ。
 詩的な調子にするには、王道としては倒置と体言どめ。
 これは決して和歌だけの、または日本語だけの修辞じゃない。おそらく世界中で使われているほとんどの言語にあてはまることだろう。
 物語世界に没頭して詩的な気分になっていると、ひとはしぜんこうしたスタイルに傾くものだ。
 それから、私だけではないと思うのだけれど、書いていて興が乗ってくると文語調に近づいてくる傾向がある・・・さらに七五調に。
 やはり、日本語というコトバそのもののなかに、そういう<型>に向かう遺伝子が、脈々と息づいているのだと思う。
 一般的に言って、日本語として朗読したとき映えるのはこういうスタイルだ。

 だが、それにしてもおよそスタイルというもの全般において、適当に加減するということは大切だ。
 なんでもそう。
 たとえば服のスタイルでもそれは同じ。きめすぎはイタイ。
 植木の刈り込みかげんなんかでもそう。ほったらかしでぼうぼうでも見苦しいけれど、きっちり刈り込みすぎてもつまらない。

 ひとつのスタイルで統一してしまうことはいくらだってできるのだけれど、体言どめがひたすら続くっていうのもくどくてわざとらしいし、終始文語の七五調っていうのも肩がこる。
 物語の流れじたいの中での、部分部分による温度差っていうのもあるわけだし、いろいろあっていいのではないだろうか・・・それこそファーガスの流れにも、淵と瀬といろいろあるように?

 そう考えたあげく、今回はふつうの叙述文、倒置・体言どめ、七五調など入り混じって粒のそろわないまま、あるていどのラフさを残しておいた。

 書き上げたあと、世阿弥の謡曲の何篇かをつくづくと読んでみた。
 彼もまた、ほとんどひと世代のうちに色んな意味でひとつのスタイルを作り上げた人だ。
 おこがましいけれど、ふと、自分も世阿弥と同じような道を通って、似たような場所に至りつつあるのではないかと思う。
 自分でスタイル上のこうした問題に悩まされたあとで読んでみると、謡曲のなかでもやっぱり、ふつうの叙述文と韻文と混淆しているのに気づく。ふと思いついて韻文(七五調)のところだけ線を引きながら読んでみると、それがアルファ波のような不規則な頻度であらわれているのが分かる。
 彼もまた、いろいろ試行錯誤していくうちに耳で聞いて心地よいスタイルとして、こんなふうなかたちに行き着いたのではあるまいか。

 ・・・というようなこういうこまかいこと、ディテールや方法論、忘備録として、いちいちまとめておくことにする。
 たぶんほかの演目にも、順次適用してゆけると思うので。
 かりにシナリオライター養成学校とか行ったとしても、たぶんこんなようなことを習うはずだ。
 いや、能のことなんかは習わないかもしれないな。」

 そんなわけで<エニス>脚本のさいしょのバージョンは謡曲調で書いた。
 ト書きに堂々と<地謡>とか書いてある。
 原文前半の長々とした情景描写も、かなり残している。
 口語、文語、韻文がそれぞれ三分の一くらいずつ、不規則なリズムで入りまじる。
(謡曲ってそんな感じなのだ。あのリズムを科学的に分析したら、さしずめアルファ波ということになるのではないだろうか。)
 とにかく、耳で聞いて快い響きであることに重きをおいた。
(・・・が、同時に、これを耳だけで例えば子供なんかが聞いたらあんまり分かんないだろうな、というのも分かっていた。)

 いちばんさいしょのイメージは野外劇だった。それ自体は最終的に実現した。
 ただ、さいしょの設定を書いたときはずっと前衛的な演出で、照明や舞台装置に色々と凝り、そういう装置あっての効果にかなりの重きをおいていた。(自分的にも、いろいろやってみたかったので。)
 それが、技術的な問題でできなかったり、会場の構造的な問題もあって、変更、変更、紆余曲折を重ね、結局はすごくシンプルな、ギリシャの古代劇みたいな感じになった。
 限界に規定された感じだったけど、いま、そこに至った流れをよくよく思い返してみると、実はいちばんさいしょに、心の目に見えていたかたちにとても近い。
 ぐるっとひとまわりして振り出しに戻ってきたような感じだが、自分にとっては一億光年くらいの長い模索の旅だった。

  原作では、おもな登場人物が三人くらいしかいない。
 能ならそれでもいいのだけど、演劇となるとやっぱりもうちょっとにぎやかな方が、お客さんも見ていて楽しいだろう。
 そこで修道士仲間と水の精仲間の場面を入れ、登場人物を増やし、セリフも入れた。
 それでさいごまで役者が集まらなくて苦労することになった。
 でもやっぱり、増やしてよかったと思っている。

 原文では、エルダの耳にとまったのはアマナンの歌ではなく、朗誦である。
 それもそのままにした。
(ただ、具体的に何を朗誦するのか考えなくてはならなかったので、埃をかぶった聖書を久方ぶりに引っぱり出してくることになった。前にも書いたけど。)

 そんな感じでいちおう仕上がったのが去年の9月くらいかな。
 たしか9月か10月あたりから稽古に入った。しばらくそれでやっていた。

 でも、それから色々あって考え直したのだった。
 ひとつには、10月に薪能(楊貴妃)を見にいったこと。
 すっごい楽しみにしていたのに、後半、寝てしまった。
 そういう自分と、あまりに退屈だった舞台との両方にショックを受けた。
 こんなにも世阿弥を尊敬している自分でさえ寝てしまうってことは、やっぱり能というのはよくよく退屈なのに違いない。
 舞台の動きも、話の展開もたいしてないのに、しかもよく聞き取れない語りをえんえんとやられたら、やっぱり誰だって寝ちゃうよなぁ。

 それと同じ頃、舞台が修道院なのでミサのあげ方を研究する必要があって、これまた久しぶりに教会の礼拝に行った。
 これも前にここに書いたけれど、改めて、カトリックのミサって変化に富んでいて人を飽きさせないなって思った。
 つくばのカトリック教会は英語ミサと日本語ミサがある。
 英語ミサの方で英語で詠唱やってるのもびっくりだったが(元来は世界のどこでもラテン語でやってたものなのだ)、日本語ミサで日本語で詠唱やってるのにはもっとびっくりした。
 そしてつくづく考えてしまった。
 教会でさえこうやって時代の流れにあわせ、人に歩み寄る努力をしている。
 そのために己れのかたちを変えることを辞さないのだ。
 しかもその伝えんとする明確なメッセージの力強さは少しも損なわれていない。
 自分もこれを見習うべきではないだろうか?
 逆に言えば、伝えるべき物語の筋立てさえしっかりしているなら、スタイルを変えてもその本質に変わりはないのではなかろうか。

 とかいろいろ考えたすえ、大幅に書き改めた。おもに語りの部分を。
 自分にとっては大切でも、聴く人にとってはたぶん退屈であろう前半と後半の長々とした語りはほぼばっさりカットしてしまい、物語中の語りも装飾的な詩的表現みたいのぜんぶとっぱらって、典雅もへったくれもなく、子供が聞いても分かるように、とにかくシンプルに平易に、口語のみの敬体に統一した。
 いわばエッセンスだけに絞りこんだのだ。
 結果、ラジオドラマのテープみたいな語りになった。
 それが初演でやったバージョン。
 語りを担当してくれた女性は、短くなって楽になったと喜ぶいっぽうで、「前のバージョンの方が好き」とももらした。私もほんとうはそうだったので、うれしかった。

 ともあれ、ナレーションを取り入れたのはそういうわけで能の地謡からの発想である。
 これはよかったと思う。
 今の演劇は一般的に言って、とにかく役者のセリフと動きだけでストーリーを表現しなければならないという思い込みに取りつかれてしまっている気がする。
 その結果、聞き苦しいいわゆる「説明ゼリフ」をえんえん聞かされるはめになったりして、私はあまり好きでない。
 上手にやっても、どこか不自然さが残る。
 それより、ストレートに説明してしまった方がはるかにいい。
 ・・・音響トラブルが持ち上がんないかぎり。

 アマナンとエルダの朗誦のところも考え直して、賛美歌を歌う設定に変えた。
 お客さんの身になって考えてみると、演劇見に来て、えんえん聖書の朗誦を聞かされても困るだろう、歌の方が聞いてて楽しいだろう、と思ったのだ。
 さいしょは、もとからある賛美歌を拝借して使うつもりだった。
 それも前に書いたけど、そのつもりであるとき教会に行ったらたまたま閉まっていて出鼻をくじかれたのと、よくよく考えたらお芝居で使うのに本物の賛美歌を拝借するっていうのはやっぱりちょっと、まじめにキリスト教やってる人に失礼だよな、と思ったのだ。(ついでに神様にも、一応。ただ、この話自体が実は相当冒瀆的であることを私は知ってるので、ここでいまさら偽善ぶってみてもあまり意味はない。)
 それで、結局、自分で曲を書いた。書いてるうちに曲が増えて、全体がだいぶ長くなってしまった。
 これらについては<音楽・ナレーション>の項でまた詳述。

 女の子の役は好評だったけど、この子はかなりあとの方になってから、豆台風のように登場したのだった。
 利発で元気いっぱいの子で、お父さんの手を引っぱってきた。
 もともと子役はなかったのだが、もっとセリフをしゃべりたいというので、それからまたこの子のためにセリフをあて書きしたり、あらたな場面を増やしたりして、また全体が長くなった。
(それで相手役の大人の方がセリフを覚えきれずに苦しむことになってしまった。)

 あて書きそのものはそんなに苦労しなかった。会ってどういう子かすぐに分かったので。
 ただ、それを出来上がった脚本の中に組み入れて打ち直してプリントアウトしてまた人数分刷って配って、というのが手間だった。結局、ぜんぶで4バージョンくらい配りなおしたんじゃないだろうか。

 色々大変ではあったけど、まぁ、あの子が入ってよかったと思う。
 全体、あまり楽しい話じゃないので、あの子の役が適当に風穴をあけてくれて、大マジメにおませなセリフを言うところで笑いがとれたり。全体、ちょっと明るくなった。
 自信たっぷりで演技もうまく、セリフもダンスも覚えるのが早かった。
 セリフ覚えは子供の方がよっぽど早い。

 初演で最終的に上演したのは、そんなかたちだった。
 通して一時間半ほど。 ・・・ながっ!!
 いかんせん長い。こんなに長くなる予定じゃなかった。
 たいした話の展開もないのに、これではお客さんが飽きてしまう。
 2週めには何とか縮められないかと思ってCD音源のあちこちをいっしょうけんめい削ったが、結局、2分ちょっとしか縮まらなかった。
 それが味わい深いと言ってくださった感受性豊かな方もいるが、それに甘えてはいけないだろう。
 ほどよい長さというのが今後の課題だ。

 初演の脚本が書かれた経緯は、そんな感じだった。
 さいしょだからしょうがないかもしれないが、いかんせん、要領悪くじたばたもがきすぎ。
 次からは、もう少しさくっといきたいものだ。

  

Posted by う at 01:28Comments(0)初演備忘

2009年06月25日

初演備忘・音楽/ナレーション

音楽ではほんと四苦八苦したので、ウルトラ長くなっちゃいました。

 <エニスの修道士>クレジット(演奏順)

 1、The Flame of Jah/ヤハの炎(テーマ曲)
                words originally from Song of Solomon 8:6,7 雅歌第8章6,7節(聖書より)
        words arranged&music by Ussay Nakajima (以下"U")
        コーラス by 劇団バリリー座 guitar by okayan 
 2、R.Fergus(BGM) music&guitar by U
  3、Innocence(ダンス曲1)
        music&piano by U
  4、For the Sake of Old Decency/Peata Beag mo Mhathar(BGM)
                traditional, arranged&tin whistle by Michael Tubridy from the eagle's whistle
                1978 Claddagh Records Ltd./1978 Woodtown Music Pubications Ltd.
  5、The first day of Spring(BGM) music&fiddle by Tommy Peoples from The Quiet Glen/An Gleann Ciuin
                1998 Tommy Peoples Publishing, Toonagh & Ennis, Co.Clare.
  6、Psalm#1 (賛美歌1)words originally from Psalm 1:1-6 詩篇第1篇1-6節(聖書より)
        words arranged&music by U
                コーラス by 劇団バリリー座 gutar by okayan
  7、Rolling in the Barrel, The Tap Room & The Earl's Chair (BGM)
                traditional, concertina by Mary MacNamara
                from Mary MacNamara Traditional music from East Clare  
                1994 Claddagh Records
  8、Psalm#23 (賛美歌2)words originally from Psalm 23:1-6  詩篇第3篇1-6節(聖書より)
        words arranged, music&guitar by U
                コーラス by 劇団バリリー座
 9、Mischief Anneal(ダンス曲2) fiddle by Dana Lyn, guitar by Junji Shirota from Up She Flew
 10、Moonlit R.Fergus (BGM) traditional, fiddle by Martin Hayes
                (未詳、調べ中)
 11、The Humours of Tullycrine (BGM) traditional, concertinas by Michael Tubridy from the eagle's whistle
                1978 Claddagh Records Ltd./1978 Woodtown Music Pubications Ltd.
  12、Psalm#38 (賛美歌3)words originally from Psalm#38:1-11 詩篇第38篇1-11節(聖書より)
        words arranged, music&guitar by U
                コーラス by 劇団バリリー座
 13、The Flame of Jah/ヤハの炎(インストBGM)
        music&fiddle by U  guitar by okayan  
 14、Psalm#51(賛美歌4) words originally from Psalm#51:1-8 詩篇第51篇1-8節(聖書より)
        words arranged&music by U
                コーラス by 劇団バリリー座 guitar by okayan
  15、Reqiem(レクイエム)
         words originally from 2Corinthians#5:14,15 コリント第二第5章14,15節(聖書より) 
                words arranged&music by U
                コーラス by 劇団バリリー座 guitar by okayan
  16、Eternity(ダンス曲3)music,fiddle&piano by U

  ナレーション by Junko Ohono

  recorded & mixed by U+okayan 2009

●曲書き(歌もの)

 <エニス>劇中で使う曲の大半は、自分で書いた。
 結果としては。
 歌ものと、ダンス音楽と、BGMと。

 書いたっていうか、せっぱつまって書かざるをえなくなったというのが正直なところ。
 でも、よく考えてみると、宗教上の理由で云々というほかに、ひと様の書いたのを使うと、将来、正式に興行するとき著作権関係でごたごたするのは必至なわけだ。
 だから、できることなら自前で調達できたほうがいいに決まってる。
 なので今回、結果的に曲書きができるようになったのはよかったと思う。
 その経緯はあまり楽しいものじゃなかったけど。
 
 うちの劇団にも、かつては音楽担当というのがいたのだった。
 ものすごく熱心で、やる気満々で、才能にあふれたヒトだった。
 自分が音楽苦手だったし、技術もなかったから、すごくありがたかった。
 ほとんど何もかもひとりでやっていたから、あらゆる分野でやることがどっさりあったのだ。
 だから少なくともこの分野に関してはこの人に任せられると思って心強かった。
 ところが、なんか知らないけど急にいなくなってしまったのだ。
 で、仕方なく、何もかも自分でやるしかなくなった。
 おかげで、死ぬかと思った。
 黙っていなくなる人ってほんとイヤ。 

 曲書きはできないはずだったのだ。
 だいたい音楽なんて、私のいちばん苦手とするところだ。いちばん才能に恵まれてない。
 小さい頃から、絵とか文章だったらとくに苦労もなく、自分のかきたいを思うものをかくことができた。
 ところが音楽となると!
 どうやっても、曲を「書く」なんてことはできなかった。
 そんなことはありえないと思ってた。逆立ちしても不可能だった。
  はじめて、物語と同じように曲が「やって来る」という感覚を経験するようになったのは、実に去年くらいのことだった。
 
 ひとの書いたメロディーに詞をつけるということはけっこう前からあった。
 けれど、それらも、そのあと自分で書いたわずかな曲も、すべて英詞だった。
 なぜだか日本語の詞っていうのは、私にとってはとんでもなく難しい。
 それは私が毛唐かぶれだということではなく、英語ができるということではなおさらなく、それはただ、私の折り紙つきの頭の固さということだった。
 日本語の調子はうまく十二音階にのらないと私は信じていて、その文部省唱歌とかが百年前に乗り越えたところを、いまだに乗り越えられずにいたのだ。
 だけど、日本語で芝居をやる以上、歌も日本語でないと変だろう。

 そんなわけで、たいへんなことになった。
 曲書きをしなければならない。しかも日本語で。

 今回は聖書の朗誦にそのまま曲をつけるだけだから、詞の内容に頭を悩ませる必要はなかった。
 問題はスタイルだ。
 口語の賛美歌というのはどうにもかっこ悪くて、あまり威厳があるとは私には思えなかった。

 教会から帰って、シャワーを浴びながら、考えた。  
 私に曲を書けなんて、豚に向かって木に登れって言うようなものだ。
 しかも日本語でとなると、これはもう、豚に向かって逆立ちで木に登れというようなものだ。
 だけど、こうなったらやるしかない。腹を決めた。
 そのとたんに、日本語の詞がメロディーにのって「やって来た」。頭の中に聞こえた。
 それがアマナンが毎晩のように川ほとりで歌う詩篇第1篇(<幸いなるかな>)。

 そうだ、文語で書けばいいのだ。
 そこに気づいて、ひとつ、難関突破。
 そのあとはもう、曲書きに関してとくに苦労することはなかった。
 私は何種類かの聖書を手元において、いちばん参考にしたのは日本聖書教会の文語訳だが、それらを参考に、
 選んだ詩篇のそれぞれの章の内容をざっとした文語詞のかたちにまとめていった。
 堰を切ったように、メロディーは次から次へとやってきた。
 あとは詞とメロディーがうまく合うように、こまかいところを整えてやるだけだった。
 しかも、だいたいはもとから合っていた。詩篇のテキストじたいが、曲をつけやすいスタイルなのだ。
 曲をつける過程で、詩篇がもともと、文字通り歌として歌われていたのだということを身をもって実感した。
 そう、ダビデも竪琴弾きだったのだ。

 作曲する人の感覚っていうのが、ちょっと分かるようになった気がする。
 自分の中にどれだけたくさんの調べの記憶がたまってからはじめて自分でも書けるようになるか、というのは人によって違うんだと思うけど、自分の場合、今まで自分の中にたまってきた調べたちが熟成して、時が満ちたのかもしれない。
 物語を書くのと同じだな、やっぱりね。
 自分で書くんじゃない。「やって来る」ものなんだ。
 ひとたび堰を切ったように「やって来」だすや、次から次へとあふれんばかりに、探してる調子じゃないやつなんかもどんどんやってきて、「あ、ごめんキミはいまちょっとオヨビじゃないから向こう行ってて」みたいなこともあった。
「やって来た」曲だと、「ほんとにこれでいいんだろうか?」っていう迷いがいっさいない。
 一発で、「あ、これ。決定!」みたいな。
 こういうの送ってくれてる存在っていうのは、アイルランドであんなふうに豊かに物語をくれたのと同じものなんだと思う。  

 賛美歌は、はじめは2曲もあればいいだろうと思っていたが、結局全部で5曲になった。
 前半で歌う楽しい2曲、それと釣りあいをとるために、後半で歌う暗い2曲、それからさいごの葬式で歌うレクイエム。
 それに雅歌からとった主題曲も含めて、歌ものはぜんぶで6曲になった。

 楽しいほうの2曲は、おだやかな詩篇第1篇と元気いっぱいの23篇。超有名どころだ。
 23篇の<死の陰の谷間>という表現はあまりにも有名で、「想像を絶する大変な試練のとき」みたいな意味でほとんど一般名詞のようになっている。
 フランクルの<夜と霧>では、中ほどの、著者がアウシュヴィッツにいたときの章が「死の陰の谷間」という題だ。
 「私の杯はあふれる」という表現は、リンドバーグ夫人が<海からの贈り物>のなかで引用している。
(もちろん、彼女だけが引用してるわけではないけど。)

 この2曲は、エルダと出会う前の、悩みを知らない頃のアマナンが礼拝で仲間たちと歌い、夜の岸辺でも歌う。
 実は両方とも、神の恵みを川の流れや水辺に例えた一節が入っている。
(「そは 岸辺に茂れる 木のごと / 日ごとに 結ばん ゆたかな 実りを」、「主は わが魂に 命のいぶき与え / 憩いのみぎわに いざないたもう」。)
 ところが、神の恵みを称えるにふさわしいその川ほとりで、アマナンは得体の知れぬ魔物に出会い、誘惑され、ついには命を奪われることになる。(キリスト教的見地から見るとそういうことになる。)
 だからここでアマナンが(前途のそんな顛末も知らず)無邪気にそんな歌を歌うというのは、客観的に見ると強烈な皮肉なのだ。
 そのことに私は稽古で言及したことはないし、しれっとして気づいていないふりをしているが、もちろん分かってやっている。

 暗いほうの2曲は詩篇第38篇と51篇だ。
 38篇はいちばん暗いどんづまりみたいな曲。マイナーコードがつづき、のろのろとなかなか進まない。
 51篇も暗いが、わりとアップテンポで、ここまでくると一種ふっきれたような感じがある。
 これはダビデがバテ・シバとの姦淫のあと、預言者ナタンに咎められて、神に許しを乞い求める祈りのところ。
(これがカトリックで<ミゼリコルド>っていう定型の祈り文句になってることは、あとで知った。)
 つまり、アマナンの近い未来を暗示しているわけだ。

 ベタでいやみだが、これは旧約聖書にというより、いちおうナサニエル・ホーソーンの<緋文字>に敬意を表して。
 <緋文字>でも部屋の壁にこの場面のタペストリが掛けられて、ストーリーを暗示していた。
 それ自体けっこうベタでいやみなんだけどね。
 アマナンのアーキタイプは明らかにディムズデールだ。
 もっともディムズデールの敬虔な卑劣より、アマナンの純朴な愚かさの方を私はだんぜん愛する。
 ともかく、こっそり符牒としてこれをもってきた。
 そこまで気づいて聴いてる人はたぶんあんまりいなかったと思うけど。

 アマナンの「私の心が罪を犯すことを欲していたなら・・・」というセリフは、そのまま<緋文字>の
 "Penance, enough! But penitence, none!..." というコトバとひびきあう。
 鏡映しのように、各々の心の矢印はちょうど真逆を向いてるんだけど。
 ともかく、自分の心を自分で操ることの不可能さ。
 ひとたび自分でそれを経験した人間が書いてるから、あのせりふは力をもってる。浮いてない。
 私はアマナンだったのだ。彼の苦しみの方が、よほど近しい。
 別に道ならぬ恋に苦しんでいたわけではないけれど。
 文学への、かな。

 レクイエムは、まんまじゃないんだけど、コリント第二のあのへんがキーワード。
 「もはや己のために生きず・・・」っていう言葉だけが頭に残ってて、あとは適当に書いた。
 いま、出典はどこかなって、さんざん探してしまった。コリントだったのね。
 いちばん崇高でうつくしいメロディ。
 よくこんなに美しい曲が、私のところへ来てくれたものだと思う。
 
 しかし、とっくにキリスト教を捨てた私みたいなのが、今になって、お芝居のためとはいえ、こんなにも時間とエネルギーを費やしていっしょうけんめい賛美歌まがいを書いてるという皮肉。
 出所さえ伏せれば、りっぱにほんとの賛美歌として通用しそうだ。
「神はご自分の敵の口から賛美を備えられる。」
 なんか、そんなようなコトバが聖書になかったっけ。
 げに、音楽ってやつは、一筋縄でいかない。
 戻る気はないけど、吝かでもない。
 利用されてもいいよ。
 偉大な敵だもの。多くを与えられてきたもの。
 きっぱり捨ててから、じっさい、そんなにキライじゃなくなった。
 その美しい側面が、素直に目に入るようになった。
 ♪Lam of God, you take away our sins
   Won't you grant us your peace, your ever-lasting peace...
  つくばのカトリック教会の英語ミサで、聖体拝領のときいつも歌われる曲。
 私が育ったのはカトリックじゃないけど、(だからこそ?)この曲、大好き。きくたび、いつも涙が出てくる。

 で、話戻ると、以上5曲の賛美歌、すべてギターでバッキングつけた。
 ふつうならパイプオルガンなんだろうが、あの時代のアイルランドにパイプオルガンあったとは思えない。
 ギターならなおさらなかっただろうが、でもブズーキに似たような楽器はあったんじゃないだろうか。
 実は、教会の英語ミサでギターで歌ってて、すごいカルチャーショックだったのだ。
 ぜんぜん軽薄な感じしなくて、気品ある感じだった。
 妖精のダンス曲の方、ピアノが多かったから、コントラストつけるのにいいかなと思った。

 それに加えて雅歌からとった主題曲。
 これも、もとは朗誦するだけのつもりだったものに曲をつけた。
 原文でもエピグラフになってるソロモンの歌の一節は、物語といっしょにやってきてしっくりはまった。
 セリフにもあちこちで聖書からの引用が入ってるが、これらも全部そう。
 考えるまでもなく、書くそばからポンポンやってきてしっくりはまった。

 我を胸に置きて 焼き印と刻め・・・
 あの一節は、とりわけ奇妙で印象深い。
 ここの「愛」は明らかに男女間の愛を指しているのだが、それを文脈的には肯定しているのに、
 「死のように」「地獄の火のように」とネガティヴな形容を連ねたあげく、
 さいごに「ヤハの炎」と、なんだか罰するような、それでいておごそかな宗教的なイメージにまで昇華しておわる。
 その奇妙な両義性。
 それが水の精エルダの(キリスト教的見地からした)信用ならぬ両義性とひびきあう。
 ペイガン。異邦人。
 愛する男を(うっかり間違って)殺してしまっておいて、悲しみ、だが宗教的な意味で悔いてはいない、それでも岸辺で千年も賛美歌を歌いつづけ、やがて「天使」と呼ばれるようになる。
 こういう、コウモリとかカモノハシみたいな、何ともアイルランド的な割り切れなさを音楽的にも表現してみる。
 詞は聖書からだが、曲調は賛美歌じゃない。
 短調だがアップテンポで力強い感じ。
 これは妖精たちも含めた全員のコーラス+ギターでさいしょとさいごに、そしてフィドル+ギターのBGMで中ほど2箇所で使った。
 コーラスのバックにもフィドルを入れたかったのだが、ボーカルとの兼ね合いで、キーの問題で断念。
 そこは今でも心残りだ。
 フィドルバージョンはコーラスバージョンとは別のキーでやった。
 ここまでが歌ものの話。


●インスト関係

 ダンス曲は後に記す Mischief Anneal をメインに、あとの2曲はそれを両脇から盛り上げるように書いた。
 さいしょの Innocence はひたすら明るく楽しく、さいごの Eternity は<永遠の命のかなしみ>みたいな。
 こっちはピアノをメインに、フィドルを重ねたが、ビブラートつけて長々と弾くのがすっごい難しかった。
 ふだんやったことなかったから。
 でも、頭の中でそうやって聞こえてくるのだ。何とかそれを再現しなくてはと思って。

 そう。じっさい、さいごまで苦しんだのが、フィドルの長音。
 これはほんとに、つくづく思った。
 そういう練習を、今までしたことがなかったわけですよ。
 その必要を感じたことがなかったから。
 アイリッシュフィドルを弾いてる限りは基本、ダンスチューンが弾ければいいんで、長音をきれいに出す練習とかって、ほんとにやったことがなかった。
 けど、頭の中で聴こえてくる Eternity は、ビブラートかかったフィドルのしずかな底音がひびいていた。
 あれを弾かなきゃ。
 必至に練習したけど、一朝一夕でできるものではない。
 うまい人はまわりにいたんだけど、すごい忙しそうなの分かってたから、こんなの頼むの申し訳なくて。
 ほんとは弦に沿って縦に指を滑らすらしいのだが、どうやってもサマにならず、
 えーい とにかくそれらしく聞こえりゃいいや! ってことで、エレキギターにビブラートかける要領で弦を横にひねってみた。(オソロシヤ。)

 ビブラートの波って、ひとつの音に均等にかけるのではそれらしく聞こえないのね。
 さいしょは小刻みに、それがだんだんと、水面に波紋が広がるようにゆっくりと揺れ幅が大きくなっていく。
 そういう感じが出るように、苦心惨憺、色々研究した。

 でも、何といってもいちばん難しいのは開放弦の長音だろう。
 これはビブラートすらきかない。
 The Flame of Jah の長音のいちばん目立つところが、運悪くA音の長音で、しかも繰り返し4度もつづくのだ。
 ここはほんとうに、さいごのさいごまでジタバタした。
 何とか最低限、ひとに聞かせられるものを仕上げなきゃと思って、土壇場まで何度も録り直したんだけどいいものが録れず、結局、当日の明け方近くまでかかってあまりひどいところはソフトで処理して仕上げた。

 BGMでほかに書いたのは、#38 の伴奏を除くと、ギターインストのR.Fergus だけ。
 日の光におだやかに流れる川べりの情景。
 耳にひっかからない人畜無害な曲で、Psalm#1のインスト版みたいな感じ。
 (Psalm#1 と #23 はピアノでインスト版をつくったが、結局使わなかった。)


●レコーディング

 そういうわけで曲書き自体はそんなに苦労しなかった。
 大変だったのはレコーディングとミキシング。
 6曲の歌ものは、自分で書いたのがコード進行をさいごまで覚えられなくて、ギターのバッキングをうまく弾けなかった。
 フレットを見ながらなら弾けるのだが、覚えていないのでスコアも見なければならず、両方同時に見られなかったのだ。
 こんなことで苦しんだのは初めてだった。
 結局時間が足りなくて、数曲のバッキングはひとさまに頼むことになった。

 で、それをバックに、団員さんたちに歌を覚えてもらって、歌ってもらってレコーディング。
 これがまた容易なことじゃない。
 修道士役が10人も20人もいれば、上演のときその場で歌ってもらうのでいいんですけどね。
 3人とか4人しかいなかったものだから、修道院のミサで大勢で歌ってる感じを出すために、事前にレコーディングした音源をいくつか重ねる必要があったのだ。

 歌を覚えてもらうために、6曲分の歌詞を打ち、スコアを書き、人数分打ち出して配って、あとは毎回稽古で歌ってるうちに覚えてもらえるんじゃないかと、さいしょは思ったんですけどね。
 それがなかなかうまくいかない。
 なかなか全員そろわないし。その場だけだとこまかいところとか覚えられないみたいだし。
 で、自分がどうやってセッションの曲を覚えたかとか、考えてみた。
 セッションのたびにMDをもっていって、録音して、家で聴き直して覚えていたんですよね。
 であれば同じことを団員の人たちができないわけがないって、さいしょは考えた。
 で、各自、録音するものを持ってきて、稽古のときに歌うのを録音して覚えてくださいって、よびかけた。
 でも、いろいろ問題があって。
 マイクを持ってきてくれたのはいいけどハオってしまったり。
 空のCDを一枚ぺロッと持ってきて「はい」って渡されたり。(!!・・・あぁ、そういうことになっちゃうのか・・・。)
 なかなか全員そろわないから、一人くるたびに歌いなおす羽目になったり。
 こりゃもう、まず自分で歌ってCDに入れて全員に配って、それで覚えてもらうしかない! って分かったのが、もうけっこう日数的にも差し迫った頃で。
 焦れば焦るほど、余裕のなさが音にも出てしまって、なかなかいい音源がとれず。
 きつかった。死にそうになってたのはそのころ。

 それから場所と日時を設定して集まってもらい、ギターのバッキングに乗せて全員で各曲2回ほどずつ歌ってもらってレコーディング。ここでもひとさまのお世話になった。
 忘れもしない3月14日。公演一週間前だ。
 インストや別バージョンも含めて結局8曲くらい入れたかな。
 何とかかたちになるテイクを仕上げる苦労に加え、機材関係の技術面でのごたごたがとんでもなく大変なことになった。
 その晩、結局朝までかかって各曲のミキシングを仕上げ、すでに仕上がっていたナレーションやBGMとともに順番どおりにCDに入れて、いちおう最終版ということでまた人数分焼き、それを携えて、15日最終野外リハへ。
 そしたらこんどは機材のトラブルでCDが聞けなくなるし。
 やっと復旧したと思ったら、タイムリミットでみんな帰ってしまうし。
 直前のバタバタ具合ときたら、そんな感じだった。


●BGM
 
 まだ、あとのBGMとナレーションのこと書いてなかった。
 上記以外のBGMは基本、ひとさまのをお借りした。
 ぜんぶクレア出身で、昔からのスタイルを守るそうそうたるミュージシャンたち。
 トミー・ピープルズだけは北部だけど、ずっとクレアに住んでたし。
 著作権の問題はあるのだろうけど、なんかクレアを舞台にした話なら、こういうの使わないほうが逆に失礼な気がした。
 でも、正式に興行するなら許可とらなきゃいけないだろうな。
(どうやってとるのか??)

 これらの曲もぜんぶ、ナレーションを書いてる時点で頭の中に聞こえてきた。
 どの曲をどこに持ってくるか、そんなに悩まなかった。
 2,3曲候補があって、どっちにするかで迷ったのはあったけど。
 笛、フィドル、コンサルティーナとバリエーションつけた。
 なかでもメインは、アマナンとエルダの出会いの場面で繰り返し使ってるマーティン・ヘイズ。
 これは、アイルランドから戻ってきてから、聴いたとたんに「あ、<エニス>の曲!」って思った。
 これがいちばんさいしょから決まってた。
 Mischief Anneal よりずっと前、劇団構想とかなんもなかった頃のこと。
 この曲の、Aメロは月光のファーガス川、Bメロは茂みの後ろから、エルダがやさしく呼びかける歌声なのだ。
 
 アマナンがはじめて登場する場面ではトミー・ピープルズの The first day of Spring。
 これももとから、頭の中でなっていた。
 ナレーションとあわせてみたら、「アマナン」というときの調子と曲の出だしとが全く同じ調子なのだ。
 きいてみると分かるんだけど。
 なんにも加工してないのだ。
 やっぱりもとからここに収まるべく、決まっていたのだと思う。


●ナレーション 
 
 ナレーションは相当前から練習してくださってたようで、「満を持して」という感じのレコーディングだった。
 それでもトラブルはあった。
 市内の公共施設を利用したのだけれど、録音室なのに防音になってなくて(!)となりが空き室なのを見計らって予約を入れなければならなかったり。
 機材がいちおうそろってるのだけど動かず、スタッフの人も分からず、「調子が悪いのであまり使う人いないんです」って、おいおい。
 結局持ち込みのMDで録ることになった。
 暖房をとめても、上に空調設備があるようでノイズが入った。(あとからソフトでこのノイズを処理しようとしたんだけど、結局できなかった。) 
 いざ始めてみると、ページめくるときに音が入ってしまうので、台本のホチキスを外してばらばらにしてやる必要があることが分かった。
 息継ぎをするたびにお腹がグルグルッとなってしまい、これにはほんとに困った。
 ご本人いわく、お腹がすいてるわけではない、さっき水飲んでしまったのがいけないんです。
 息継ぎしてグルッとなるたびに、吹き出さないように二人でガマン比べのようにまじめな顔を作ってつづけたが、ときどきどちらかがこらえきれずに吹き出してしまい、そうするとはじめからやり直さなければならなかった。
 ところどころ、とちゅうで声がかすれたり震えたりしているのは笑いをこらえているからだ。
 BGMでかき消されてはいるけれど、実はところどころ「グルッ」という音が入っていたりする。
 何度やり直してもどうしようもなかったのだ。

 ぜんぶ合わせて15分くらいのもので、一時間足らずですべて完了。
 ナレーション、はじめてだそうだが、うまいもんだなぁと感心してしまう。
 あまり感情に走ってなくて、大げさすぎないところがいい、と私は思っている。
 どちらかというと淡々としてるけど、この方がいい。 
 ひとりでカラオケボックスに通って朗読の練習を重ねてくれていたらしい。
 こういう人がうちの劇団に来てくれて、ほんとにありがたい。
 ちゃんとしたスタジオで録っていたら、さらにすばらしいものになってただろうに。


●ミキシング

  歌曲、楽曲、ナレーション+BGM、すべての音源のミキシングに使ったのが、Audacity というフリーソフト。
 10年前にMTRを使いこなすのに挫折して以来、ミキシングもはじめてなら、ミュージックソフト使うのもはじめてだ。
 とにかく、何もかも自分でやるしかないのだ。

 その少し前、生まれて初めてCDづくりができるようになっていた。
 それはMD音源をラインでPCにつないで、ウィンドウズ・メディア・エンコーダーで一曲ずつファイルに取り込み(ファイル形式はWMP)、それをウィンドウズ・メディア・プレイヤーに貼りつけてCDに焼く、というやり方だ。
 これもできるようになるまでにさんざん苦労して、まる一ヶ月くらいかかった。

 けど、いま Audacity というこのソフトはWMP形式のファイルを扱えなくて、WAV とかに変換しなくてはならない。
 のっけからひと山越えなくてはならなかった。

 Vector から変換ソフトをダウンロードできるよ、って教えてもらった。
 だけど、私のPCはなぜか、ダウンロードできないのだ。
 Vector は軒並みアウトだ。たぶん、PCの設定をどっか変えればいい話なのだけど。
 できないことが、これまであまりにさんざんあったので、「それにはこういうソフトを・・・」って言われただけでもうアレルギー反応を起こしてしまう。
 パブロフの犬的に、「それにはソフトを」=「さんざん苦労して結局ダウンロードできない」になっちゃってる。
 ・・・結局、ぜんぶMDから直接 Audacity に読み込み直した。
 その時点ではまだ、これからあらたにレコーディングすべきものの方が多かったし。 

 でも、この山をひとつ越えると、あとはぐいぐい進んでいけた。
 Audacity、使ってみたらすごい使いやすくて、フェードイン/アウトなんかも簡単だった。
 フォトショップずっと使ってたから、なんとなく感覚的に分かる部分が大きかった。 
 自分の手でナレーションにBGMを重ねていけるのは感動的だった。
 曲のどこでナレーションが入るか、どのタイミングでフェードアウトさせるとか、こまかいところを自分で作りこめるのってすばらしい。・・・湯水のように時間食うけど。
 すごく微妙なもので、絵の構図とか、生け花をやるのに似たところがあるかもしれない。
 ただ、ノイズの除去というのができることになってるのだが、どういうわけか私がやってみた限りではできなくて、それがちょっと心残りだ。 

 Audacity でWMPは扱えないけど、ウィンドウズ・メディア・プレイヤーでWAVは扱えるので、できあがったファイルを並べてCDに焼くときは、Audacity のプロジェクトファイルをWAVに書き出して、それをひとつずつウィンドウズ・メディアに貼りつけてCDに焼いた。
 だから、はじめてのCDづくりで覚えた技術はムダにならなかったわけだ。

  ミキシングで、さいごのさいごまで苦しんだ問題。
 MTRでレコーディングしてもらったコーラス音源を私のPCに入れるときに、その場でミキシングして調整したものを一曲ずつのファイルとして入れてもらってたのだった。
 トラック別にひとつずつ音源を入れるということも当然できたし、ほんとはその方があとから調整ができてよかったのだが、何しろ8曲もあったのでいちいちそんなことやってる時間がなかったのだ。
 ところが、それをCDに焼いて野外会場にもってって、じっさいリハやってみてはじめて、バランスが悪く、ギターが強すぎてコーラスのボーカルが弱すぎることが分かったやつがあった。あろうことか、いちばんさいしょのテーマ曲 The Flame of Jah だ。
 もう日にちが差し迫っていて、これからまたエンジニアさんに会ってMTRからボーカルだけ取り出してもらってる時間などなかった。
 私はせっぱつまって懇願した・・・ボーカルのファイルだけ、メール添付で送ってくれませんか?
 親切なエンジニアさんは圧縮して送ってくれました。
 開いたら、PCが勝手にフリーの解凍ソフトを探してきて、その場で一瞬で解凍してくれて、自動的にWMPで再生になって聞けた。
 ところが、保存されたのがどういうわけか圧縮状態のまま保存されていて、Audacity で再生しようとすると、そのまんま再生されてしまう。(耳をつんざくような<ガーッ!>という一瞬で終わってしまう。)
 これは一体、どうしたことだ。
 何度やってみても同じこと。
 それが公演の二日前くらいのことで、どうしよ~!! と絶望してた。
 しかし、窮すれば通ず! 閃いた。
 そう、開くとき一回だけは、WMPでふつうに聴けるわけだよ。
 そしたら、ラインでMDにつないで録音状態にしておいて、一回だけ再生されるその音源を出力でいったんMDに取り出してしまい、それを再び今度は入力でAudacity に取り込んだらいけるはず!!
 荒療治だったが、みごと成功!!

 こうしてもとの音源にボーカルだけの音源を重ね、ボーカルが強くなってバランスよくなったコーラス音源が無事完成!! で本番に臨むことができたのでありました。・・・ふ~っ。

 そんなこんなで、結果として、今回の初演を経るあいだにおかげさまで鍛えられて、曲書き、ミキシング、CDづくりができるようになりました。死にそうになったけど。

 つくづくと、学んだこと。
 CDは、さいしょに、早めに仕上げとくべし。これは、自分でできることなんだから。
 ほかの役者さんがそろうまでできないってコトじゃない。

 音楽ってほんと、妥協しないで納得いくものをつくろうとすると、膨大な時間を食う。
 直前にやってることじゃない。
 あまりに時間がかかるんで、早くから始めても、じっくりやってると結局直前までかかっちゃうかもしれないな。
 今後の課題だ~。

  

Posted by う at 01:47Comments(0)初演備忘

2009年06月25日

魔の調べ~劇中曲のひとつをめぐる考察~

 <エニス>劇中で使う曲の大半は、BGM以外は自分で書いた。
 歌ものと、ダンス音楽と。
 でも、ダンスの曲でひとつだけ、どうしても使いたくて、ひと様のを使わせていただいたのがある。
 (今はお金を取っていないので著作権の問題はない。)

 Mischief Anneal。

 フシギな巡りあわせもあるもので、あるとき、セッション仲間の方がこの曲の入ったアルバムをそっくりMDに入れて持ってきて、ポンとくださったのだ。
 好きになるアルバムっていうのは、さいしょの音3つか4つ聞いただけで分かる。
 つややかなフィドルの出だしを聞いたとたんに「お、いいなっ!」と思い、それ以来ずっとお気に入り。
 とくにこの曲。・・・月の光をあびて斜めにのびた白鳥の翼のような優雅な曲だ。
 たぶん前に聴いたことあった。聴いたとたんに「あ、これ?!」って思った。
 はるか昔、子供のころにきいたような気がする。どういう状況でかは覚えてない。
 なんかヒーリングミュージックのような印象だった。
 そのときふたたび聴いたとたんに、「これ、妖精のダンスの曲!」って思った。
 まだ団員さんがひとりも集まってなかったときのこと。
 それから人が集まってくれて、ふりつけを考え、そして劇中ではダンスのふたつめ、ハイライトとなるところで使わせていただいた。
 
 にしても、どういう曲なんだろう、Mischief Anneal, フシギな曲名だ。
 そんなにも美しい調べなのに、なにか不吉なひびき。
 Mischief を辞書でひくと「いたずら、悪さ、害、災い、悪影響、故障、病気、不和、仲たがい」、などなど。
 Anneal は「その1・1、(鋼・ガラスなどを)焼きなます、(遺伝子学で)核酸をアニールする(熱して一本鎖に下あと徐々に冷却して再び二本鎖にすること。鎖の塩基配列の相補性を調べるのに用いる。)2、(精神・意志などを)鍛える)、鍛錬する (古)かま(炉)の中で焼く その2・ANELE の古形。」
 ということは、Banish Misfortune みたいなもんか? 
 で、Anele をひいてみると、「(古)・・・に臨終の油を塗る。」 ・・・何のこっちゃ?!
 結局今でもよく分からない。
 弾いてる人のオリジナルなんだろうか、このミュージシャンてどんな人?
 あるとき気になって、くれた方にきいてみたら。
 あまり詳しいことは書かない方がいいと思うが、かなりとんでもないバックグラウンドを知ることになった。
 なんか、それをきいて、妙に納得してしまった。
 そうかぁ。そういうこともあるだろうなぁ。
 こんなにも美しい曲がこの世に生まれてくるには、死体のひとつやふたつ、背負っていてもおかしくない。
 桜の木の下には・・・って、なんかそんな感じがしてた。

 サマセット・モームの<月と6ペンス>。
 ゴーギャンの生涯に取材した、芸術の魔に取り憑かれた男の話だ。
 第一次世界大戦前のフランス。
 主人公のストリクランドは、絵画への突然の狂おしい情熱に駆られて妻子を捨て、故国を捨て、パリに移り住んで極貧のなかで絵を描きつづけている。
 あるとき重い病をえて死にかけていたところを、彼の才能を認める知りあいの画家ストルーフェが救い出し、自宅に迎え、その妻ブランシュとともに献身的に看護してやる。
 ところが、おかげで九死に一生を得て回復したストリクランドは、わがまま放題にふるまったあげく、その妻を奪って出てゆくのだ。というか、正確には、出てゆこうとすると、ブランシュが「いっしょに出ていく」って言い出す。
 ほどなく、ブランシュはストリクランドに捨てられて自殺する。
 絶望したストルーフェが家に戻ってみると、彼はストリクランドが置いていった一枚の絵を見出す。それは妻ブランシュの裸体画であった。
 当然の如く怒りに駆られ、彼はその絵を切り裂こうとする、ところがその寸前で、彼は凶器を取り落とす。
「・・・あれは偉大な、すばらしい絵だった。ぼくは手を触れることができなかった。ぼくは畏れた」
 その出来ばえは、それまでストリクランドが描いた絵のすべてより抜きん出ていた。彼女と出会い、その絵を描くことで、ストリクランドは芸術的な意味で、ぽんとひとつ上のステージへ突き抜けたのだった。
「あの女は、すばらしい体をしていたので、俺は裸体画を描きたくなった。絵を描き終わると、もうそれ以上女に興味はなくなった」
 ストリクランドはそういう男だった。
 その追い求めるヴィジョンのために己れを犠牲にしたのみならず、他人をも犠牲にしてかえりみなかった。
 その晩年は、さらにすさまじい。
 おのれの魂にかなった土地を求めて遍歴を重ねたあげく、彼はしまいにタヒチの地へたどりつく。
 彼はそこでらい病に冒されながらもついに傑作を仕上げ、満足して死んでゆく。

 それが相当にヤバイ本だということが、当時12才の私にも分かったし、子供心に「よくこんなのを<子供向け世界の名作シリーズ>とかに入れたよなぁ」って思った。(今でもそう思う。)
 アートの価値を極限まで突き詰めていくと、ある地点で人の領域を侵すような次元にまで、どうしても至ってしまう。それはおよそアートと名のつくものに携わる人々なべてが感じていることではないだろうか?

 <エニス>の原文に書いたことで、心から思うことなのだけれど、アダムとイヴが楽園を追い出されなかったら、この世に詩というものは生まれなかっただろう。人の悲しみや絶望や、二度と戻ってゆかれない場所への憧れから、詩は生まれてきたのだ。けれどもまた一方では、それが人を救い、人を支える糧となったりもするわけで、そういう矛盾から人は決して逃れられないだろう。

 イヴが禁断の木の実をとって食べてくれたことに、私はとても感謝している。私自身がその責めを負わずに、しかもその実を安んじて味わえることに。
 もし、私がこの世に生まれた時点でまだだれもそれを食べていなくて、みんなそろってエデンの園で悩みひとつなく暮らしていたとしたら、私が自分でその実を取って食べただろう。
 イヴがそれを口にしたとき、人類が何を失うかは分かっていなかったかもしれないが、何を手に入れることになるかは、おそらくなんとなく分かっていたのではないだろうか。

 エデンの園に音楽は存在しなかった。たぶん。
 アベルを殺したカイン。
「いま、お前は呪われて地から追われよう。お前が地を耕しても、それはお前に報いを返しはしない。
 お前は地にあってさすらいびと、逃亡者となる。」(Ge4:11-12)
 かくてカインは神の顔を離れ、エデンの東、<逃亡>の地に住みついた・・・。
(これをモチーフに、シュタインベックが<エデンの東>を書いたわけだ。)

 カインの子孫、カインから数えて七代目のユバルについて、こう書かれている。
「彼はすべて竪琴と笛を扱う者の始祖となった。」
 これがおよそ聖書で音楽について言及されるさいしょである。
 また、そこでほとんどさいしょの詩らしいものが出てきて、それはユバルの父、カインから六代目のレメクの言葉なのだが、
「レメクの妻たちよ聴け、私のことばに耳を傾けよ。
 私は人を殺した、私に負わせた傷のゆえに・・・」
というのである。

 人類さいしょの詩が「私は人を殺した・・・」かよ、なんか変だよなぁ、と幼い私は思っていたのだった。
 それが今ではひどく意味深いことに思える。
 詩と音楽とが、アダムのほかの息子の誰でもなく、カインの血を通してこの世に生まれてきたことも。

 Mischief Anneal、 美しくも不吉なひびき、<エニス>の物語にふさわしい。
 こちらもまた、死体をひとつ、背負っているから。
 語り手は器にすぎない。
 私のあずかり知らぬところで、この調べと出会うべく、運命づけられていたのかもしれない。・・・

  

Posted by う at 02:12Comments(0)初演備忘

2009年06月25日

エデンを逃れて~中島迂生のキリスト教的背景~

 前の話の流れで、ここで少し、中島迂生のキリスト教的背景について記しておく。
 なんか気が重い。ほんとはあんまりヒトの悪口、言いたくない。
 でもたぶん、<エニス>つながりで、もういちどここでこれを書いておいた方がいいだろう。

 中島家は、ひいじいちゃんの代から三代つづくキリスト教の家系だ。
 それが私の代で途絶えてるわけだが。
 みんな自分の子供には強制しなかったので、それぞれ大人になってから自分でクリスチャンになったのだ。
 しかもそれぞれ宗派も違う。
 曽祖父がギリシャ正教で、祖父母と母はプロテスタント系だ。
 うちにクリスチャンたちが出入りするようになったのは、私が4才くらいのときだった。
 なんだかイヤなものが近くにやってきたなぁ・・・という感じがした。
 私の育てられた宗派はとても厳格だった。
 うちには旧約聖書の重苦しい雰囲気が垂れこめていた。
 神は嫉妬深い圧制者で、こちらの魂のさいごのひとかけらまで明け渡すことを要求してきた。
 神は愛だといいながら、自分に従わない者たちを結局は殺すのだった。
 終末は明日にでも来る、早く神の側に立場を定めないと滅ぼされると、いつも脅されながら育ってきた。
 もちろん、自由恋愛なんか許されない。
 十九世紀のボストンみたいな環境だった。
(だからナサニエル・ホーソーンなんかにいたく共感する。)

 ごめんね、悪口言って。
 あたしは別に、自分の育てられた宗派が狂信的だと言うんじゃないんですよ。
 彼らは聖書どおりのことを言ってたにすぎない。
 どんなにシロップで薄めてみても、結局キリスト教っていうのはそういう教え。
 それは唯一の正義だった。
 けれど、私はそれが、ぞっとするほどキライだった。
 
 私がもっとも恐れ、また心配していたのは、(自分個人が息苦しくやってられないっていうのももちろんあったけど)
 それが文学的価値をさいごには押しのける、認めようとしない、ということだった。
 私がものを書き始めたのは6才くらいのときで(さいしょはアルフ=プリョイセンのパロディだった)、作家を志したのは10才のときだった。
 文学ほどすばらしいものがこの世にほかに存在するはずがない、と早くも決めつけてしまった。
(そして今でもそう思ってる。)
 本を読んだりものを書いたりすることは、うちではあまりいい顔をされなかった。
 ファンタジーとか題名に<魔法>とかついた本を読んでると、「そういうのホントはいけないのよ」、と言われた。
 文学は背徳であり、禁断の果実だった。
 堂々と楽しむことは許されない。
 見過ごしてもらっていた。
 ホントはいけないものを、肩身の狭い思いでこっそりと楽しまなくてはならなかった。
 キリスト教の教えが、神にとって役に立たない楽しみごとをことごとく非難するので、母親はクリスチャンになってから絵を描くことをほとんどやめてしまった。
 ほんの時たま絵筆をとるとき、自分に言い訳しながらやっていた。 
 そうやって芸術をなにかうしろめたいもの、かりにも存在を許されるなら全面的に神のくびきに服さなければならないものと位置づけるキリスト教のやり方、それを私は心底から卑劣と思った。

 どんなにキライでも簡単に捨てられなかったのは、それが正しいと思っていたからだった。
 この世には、悪や不条理や悲惨なことがあまりにも多すぎる。
 この世が救われなければならないことは明白だった。
 そしてこの世を救うのは、人間の力ではちょっと無理だろう。
 それは神にしかできないだろう。
 そのことに私も異論はなかった。 
 その教えどおり、この世が終わって神の正義が全地に行き渡る日が来たら、
 不条理や不平等はなくなって、戦争や環境破壊もなくなって、幼くして死ぬ子供たちもいなくなって、みんなが平和に暮らすことだろう。
 そりゃそうだろうけど、果たしてそこに文学の宿る余地なんか残ってるだろうか?

 いや、アダムとイヴが楽園を追われたときにはじめて生まれたのが詩であり芸術であるなら、人類が再びそこに迎え入れられるとき、彼らはそれを捨てていかなければならないだろう。
 神を受け入れるとなれば、ほかのすべての価値、妖精とかユニコーンの存在を(そのイデーとともに)捨て去れなければならない。
 しかし、そんな残酷なことに誰が耐えられようか。
 人類の幸福と引き換えに文学や芸術が死に絶えてしまった世界で、なお生きたいなんて思うだろうか?

 仮にもし、私ひとりが犠牲になって、身を切られる思いで文学を捨て、神の厳格な基準に従って生き抜けば、ほかのもろもろのすばらしい文学や芸術の価値を神の横暴から守ってやることができて、その安泰が保証されるのだとしたら。
 そうだとしたら、私は喜んでそうしただろう。
 だけどそうではないのだから。

 この問題は、中途半端に逃げるだけでは、解決しない。
 それはいつまでも私のあとを追っかけてくるだろう。
 私はいつか、正面から立ち向かって、戦わなければならないだろう。
 それが小学生くらいのときから、私の最大の、いちばん切実な悩みだった。
 私の周りにはそれまでずっと、そんなことで悩んでる人間はいなかったから、私はずっと孤独だった。

 大学に行って、ヨーロッパのもの書きやアーティストの多くが、歴史を通じて自分と同じことで悩んできたことを知った。
 ものすごい、大きな慰めだった。
 私はこの問題を考え抜いて自分の立場を定めるのに、青春時代の5年間を費やした。
 それは結局、卒論のテーマともなった。

<エニスの修道士>はほんの小編に過ぎないけれども、これを書き上げられただけでも、私は自分の戦った戦いの報いを得たと思う。
 というか、それがあってこそリアリティをもって書けたのだと思う。
 というか、たぶんいちばん正確には、この物語を誰かに手渡そうとして、エニスの橋のところで千年も待っていた精霊がそれを知っていて、こいつなら書けそうだと思って渡してくれたのではないだろうか。

<エニス>は、自分を神の側に置いていては書けない冒瀆的な作品だ。
 ある作品が、キリスト教的見地からして許されるかどうかは、そのもっている視座というか、視点によって決まる。
 必ずしも話の筋には関係ない。
 どんな罪を描いていようとも、そこに神の視点があってそれを断罪しているなら、それは許される。
 けれど、<エニス>の視点は神の正義を押しのけて、詩の価値を擁護している。
 だからそれは冒瀆的なのだ。
 
 いま自分の戦いのあとをしずかに振り返り、私はしみじみと、いい敵をもったなぁ、と思う。
 人は飛び立つとき、それを引きとめようとする何がしかと戦って、捨てて、飛び立ってゆくわけだが、
 そしてそれは多くの場合、親だったり恋人だったり、祖国だったり文化だったりするわけだけど、
 私はさらに偉大な存在を敵として持ったのだ。それは一生の財産となるだろう。
 この戦いの刻印は、どこへ行っても、私が強くあるためのお守りとなるだろう。

 ルイス・ブニュエル。
「私が無神論者でいられるのも、神様のおかげです」

 そう、私も今では感謝している。
 あんなふうに反逆して、出て行ってなお、私が好き勝手に生きるのを放っておいてくれて、
 しかもひきつづき、こうして命を与えてくれていることに。

 感謝というのは、無償で与えられてこそ、するものだ。
 少なくとも、私にとってはそうだ。
 服従だの献身だの、そんなとほうもない代価を要求されては、いったいどうやって感謝などできるものか?

 私は今でも無神論者ではない。
 げんに存在するものを、否定してみてもあまり意味はない。
 神はもちろん今も天にましまして、私のことを明日にでも滅ぼしてやろうと思って頭に来ながら見ていることだろう。
 それでいい。
 こうして今日いちにち、心のままにものを書けることを、愛する文学とともに在れることを、私は感謝している。
 そうして命ある限り、悔い改めたりしないで、このまま愛して、生きていく。

 Let me fly, live and die
   in the brightness of my day.

   ---Skyline Pigeon Fly.

  

Posted by う at 02:19Comments(0)初演備忘

2009年06月25日

初演備忘・背景幕、会場選び

 物語において舞台となる土地の様相が重要であるように、演劇において会場の立地・構成は重要だ。
 そしてこの点、背景幕とかセット(今回はセットはないけど)って思いのほか重要だと思うのだ。

 現代演劇の多くはろくな背景をつくってないのが多い気がする・・・見ていてあまり楽しくない。
 その代わりにやたらセリフが多くて、長くて。
 でも、ほんとはみんな、できたら作りたいんじゃないかと思うの。
 あえてミニマリズムとか象徴主義とかいうよりも、財政上の事情とか、つくってる暇がないとか、あるいは単につくるのがめんどくさいとか、のように私には見える。

 私が見ていて楽しいと思うのは、リヴァーダンスとか、浜崎あゆみのコンサートとか、昔のマリア・カラスのステージとか、そういうの。
 手間もお金もかかっているのだろうけれど、見ていてほんとに楽しい。
 できたらあんなふうなのを、っていうか、もっと全然こじんまりでいいからともかくできるだけ視覚的にも楽しいステージを、できたら提供したいと思う。

 今回の野外公演ではとにかく会場が大きかったのであまり目立たなかったと思うけれど、実は、すごい大変だった。
 <エニス>の背景は、7枚のシーツを使って鉛筆で下絵を描き、マジックで輪郭をとり、スプレー式の塗料で色を塗って、クレパスで細部を仕上げた。
 6枚は川岸の修道院跡と木立の風景、真ん中にもってくる1枚は炎に包まれた金色の十字架。
 くわしく言うと、上手側の3枚は川と木立と月で妖精たちの領域を表わしており、絵としてつながってはいるけれど下手側の3枚は修道院跡とグレイヴヤードで、修道士たちの領域を表わしている。じっさいエニスでスケッチしたのをもとに描いた。
 炎と十字架の絵は、主題曲の雅歌の The Flame of Jah というフレーズを視覚化したものだ。 
(これは、「十字架が燃やされているように見える」という意見があって、自分としてはそんなつもりは少しもなかったので、おおあわてで、28日公演のあとでパレードに参加してくださることになっていた神父さんが見てショックを受けないよう、急いで教会に手紙を書いて、何ら冒瀆を意図したものではないことを説明した。)

 制作に当たって何が大変って、絵を描く自体はともかく、作業場所を確保するのが最大の問題だった。
 下絵までは公民館の広い床を使って問題なくできたのだが、着色となると、シンナー系のスプレーを使ったのものだから「臭い!」「危険だ!」とあっちでもこっちでも公民館を追い出された。
 でも、これが広い面を着色するにはいちばん都合よかったのだ。アクリル系で、たちまち乾くので、作業を終えたらすぐたためるし。
 でも、そのうちほんとに日数も尽きてきて困った・・・なんかジュ・テーム・モワ・ノン・プリュみたい、せっぱつまってはいるんだけどどことなくコミカルで笑ってしまう。(あ、知らない人は、知らなくていいですからね。)
 
 結局、大方はベランダで、自分の部屋の軒先にクリップとS字カンで一枚ずつ吊るして着色していった。
 一枚ずつしか吊るせなかったので、絵の端と端が微妙にちゃんとつながっていなかったりする。
 それも天気によりけりで、あまり日が強いとまぶしくて色調がよく分かんなくなるし、あまり風が強いとバタバタ吹きまくられてうまくスプレーできないし、雨の日はもちろんできないし。
 さいごの日に十字架の絵を仕上げていたのだけど、その日も風が強くてさんざん吹きまくられたあげく、もう頭にきて最後の手段をとった。
 部屋の中に持ちこんで、窓を締め切り、部屋のカーテンレールから吊るしてやったのだ。
 養生もカバーもしているひまがなかったので、おかげで部屋中がうっすらと金色とオレンジのスプレー粉の粒子をかぶって着色されてしまった。
 シンナー臭で窒息しかけたし、いろいろと面倒なことになったが、とにかく完成。 

 これらは、本来は竹園公民館ホールの舞台仕様なのだ。写真のような具合に使う予定で、こうするとステージの壁面がちょうどすっかり覆われるのだった。これで上演したら絵としてばっちり映えたと思う。
 
 でも、これも問題がないわけではなかった。
 写真では真ん中以外の6枚は、それぞれ上部に5箇所ずつ、小さな目玉クリップにS字カンを通して、外れないようにS字の下側の輪をプライヤーで閉じたものをつけて、それで吊るしている。
 壁面にもともと薄汚れた水色のカーテンがかかっていて、理論的にはそれをとっぱらって背景幕の方をカーテンとして吊るせるはずなんだけど、カーテンレールがあまりに古いのでさびついてしまい、滑車のひとつひとつが、ちゃんと動くものもあればひっかかって動かないものもあり、という状態で、使えない。
 で、仕方ないからレールそのものの、内側に折れ上がったとことにS字カンをひっかけていくんだけど、これが高さ的に、私がピアノのいすの上にのっかってめいっぱい背伸びしてやっと届くくらいで、レールの折れ上がり具合とS字カンのカーヴ具合との折り合いが悪くてなかなかひっかかんないしなかなか外れないといった有様なのだ、時間ばかり食うしいらいらするし。

 真ん中の十字架の絵は、4箇所を目玉クリップに吸盤フックをつなげたものを使って、上部の蛍光灯の平らな面にくっつけている。屋内公演ではこのうしろのスペースが修道院長の控え場所になる予定だったので、うしろにスペースを空ける必要があったのだ。
 けれど、じっさいやってみると吸盤フックがあまりきちんとくっつかずにボトボト落ちてきて、みっともいいものじゃなかった。屋内公演やらずにすんで正解だったかもしれない。

 結局、ぜんぶひとりで制作。
 まさかそんなことになるとは思ってなかった。みんなでやるもんだと思ってた。
 じっさい、絵のうまい人は何人かいたし。
 でも、ほかの人がへたに手を加えると有機的統一性がなくなるから、みたいなことを言われて、それもそうだなと思ったのと(決してその人は自分が手伝うのめんどくさいからそう言ったわけじゃない)、別の人に、棺おけ作ってくれませんか? って頼んだら、イヤだったらしくて、「・・・それよりは、背景の絵を描く方が、まし」って言われてしまった。
 なんか、その言い方が、ヤだった。
 「・・・あたしの劇団の初演の、大切な背景なのに、『まし』とか思われて手伝われたくないな」って思っちゃって。
 だったらいいよ、自分でやるよ、と思った。

 さいしょからこんな大がかりな、めんどくさいことをやるつもりはなかった。
 これも、紆余曲折を経てこんなかたちになったのだった。

 背景はぜひともほしかったが、さいしょは幕を作るつもりはなかった。
 もともと、この背景幕の下絵になっているA4版の絵があって(サイトにアップしている原文のさいしょのところに載せてるやつ)、これを描くにもけっこう時間がかかってるのだ。
 これをプロジェクターでスクリーンに大写しして、そのまま背景として使ってしまおう、それで充分、と思っていた。
 リヴァー・ダンスの背景なども、見てるとそんなふうにやってる感じだ。
 ところが、それをやるにはいろいろと技術的な問題があって。

 ふつうに前面客席からプロジェクターをあてると、スクリーンに役者の影が映ってしまい、役者そのものにも背景の色が映ってしまう。
 それを避けるには、プロジェクターの光が役者の動きと重ならないように天井に設置するか、あるいはスクリーンの裏側からあてるかする必要があった。
 それにはそういうことができる会場が必要になってくる。
 竹園ではできるはずもなし。
 ノバホールにも行ってみた。そんなに高くない。週末の夜の時間帯で2万円台で借りられる。
 素人の初演の分際で恐れ多いとは思わなかった。
 素人の初演だからこそ、ちゃんとした会場でやった方がいいと思った。
 それは衣裳やかつらに凝ったのも同じ。
 電話できいたら、じっさいに見学させてくれた。担当の人がわざわざ出てきて、巨大なスクリーンを降ろしてくれて感激。
 でも、やはり天井からプロジェクターは無理だと言われた。
 裏から映しても、サイズ的にスクリーンいっぱいにはならないそうだ。
 カピオの方がそういう点では設備が整っていますよ、と言ってくれたのだが、カピオは、行かなかった。
 どうも、あんまりカピオって感じじゃないと思った。うまく言えないけど。

 で、結局、ノバホールでもだめなら、いいや、いちばん当初の構想どおり、野外で! と。
 雨天時会場として竹園を押さえることにした。
 だけど、年明けにじっさいやってみて分かったのだけれど、竹園ホールのあのぱっとしないうす水色のカーテンを背にすると、灰色の修道衣が実に情けなくくすんでしまうのだった。
 どうしても、背景がないとさまにならなかった。
 雨天時のためだけでもどうしてもつくらなきゃ、ということになり、結局、あー、やるしかない! というわけで、あのめんどくさい作業を観念したというわけ。
 それも、さいしょはシーツ2枚もあればいいやと思っていた。
 でも、じっさいつくっていって吊るしてみると、背景のない部分が実に所在無くまのびした感じで、結局、壁面ぜんぶを背景画で埋めないではいられなくなってしまった。
 だから、もともとあの背景は、結局雨天時の竹園用というわけなのだ。

 でも、こんなにまでがんばってつくったのを、どうしたって野外でも使わないわけにいかなかった。
 もとよりあんな広いところを、壁面ぜんぶ埋めるなんてできっこない。
 どういう方法が可能か、もっとも効果的か、色々と考えたすえ、おもに両側の石の円柱部分を使うことにし、3枚ずつ、それぞれ上手と下手の手前の3本にもってきて、炎と十字架はどうしても真ん中にもってこないわけにいかないから、普段は壁面に流れている滝をとめてもらって、そこの小さな突起に四隅を縛りつけて配することにした。
 これがけっこう大変で、公演のたびに下の管理事務所からありったけ脚立を借りてきて、団員さんたちの時間もエネルギーもずいぶん注ぎこませてしまうことになった。
 円柱の方は、まず二人がかりで脚立に乗って柱の上部にロープをまきつけ、そこに各シーツ上部のS字カンをひっかけていて、下部も同じくロープで巻いて固定。壁面の十字架は、手前に滝の水を受けとめる水路があって、それをまたいで脚立をたてかけて登っていかなければならないので、さらに大変だった。

 初日は、それでいった。
 ところが、風がすごく強くて、クリップでとめたところがたちまち吹っ飛ばされてしまい、円柱のまわりでかっこわるくバタついたり、めくれあがったり裏返ったり旗みたくはためいたり、さんざんなことになった。
 あまりにみっともなくて、これでは全然ない方がまだましなくらいだった。
(「まし」というコトバは、こんなふうに使われたい。)

 初日は、夜公演もあったので、そのときには、そのみっともない状態の背景幕をぜんぶとっぱらってしまった。
 あそこは、来てくださった方はご存じのとおり、会場じたいがすごくいい感じに物語のイメージに合っているので(石の円柱は古い修道院あとのラウンド・タワーの質感を思い起こさせる)、なくてもいいことはよかった。
 でも、やっぱりちょっと殺風景で淋しいなという感じはした。
 次の日は悪天候のため公演自体がキャンセル。
 なんとも運悪く、ちょうどこの日だけ、竹園がふさがっていてとれなかったのだ。

 次の週にも公演があったから、それまでの一週間で7枚ぜんぶの四隅に小さなひもの輪っかを縫いつけた。
 7×4=28箇所。
 で、次の週にはその輪っかのところをロープにしっかり結びつけて、その週末も風強かったのだけど、何とかきっちりついたまま、無事終了。
 2週間にわたる公演で、大変だった半面、1週目の反省点をすぐ次回に生かせたのはよかった。
 それはすごくよかったな。

 それにしても、毎回毎回脚立を借りに行って、6本の円柱と壁面に幕を配し、終わったらまた外して、しわにならないようにたたんで、脚立を返しに行き・・・ っていうのはほんとにきつかった。
 しまいには団員のみならずセッション仲間やボランティアの方や、ユーロブラスのお客様まで! 巻き込んで手伝っていただくことになってしまった。(手伝っていただいた方々、ほんとすみませんでした。)
 こういうことがまたあってはいけない。何とか考えなくては。

 ・・・にもかかわらず。
 後日、公演を見に来てくれた方と話していたとき、
「え、背景? ありましたっけそんなの。気がつかなかった」
 と言われてしまった。
 ・・・・ガーン・・・・

 ・・・7枚ぜんぶ、壁面の滝のところにもってきた方がよかったかもしれないな。
 いずれにしても、あの会場では舞台壁面から客席まですごく距離があるので、目に入ってもちっちゃく見えてしまっただろうことに変わりはあるまい。
 さいごのほうの公演では、セリフが聞こえにくいというので、役者全員、めいっぱい前のほうに出てきてしゃべるようにしていたから、なおさら。

 次からは、この問題、どうしよう?
 次からも、新作のたびにまた7枚のシーツに背景を描くのか?
 ・・・正直、今はちょっと考えたくない・・・

  後記・大判のスクリーン布みたいなのに印刷してもらえるところを見つけたので、その方向で検討中。
    お金はかかるでしょうが、手づくりでも材料費がけっこうかかるのは同じなのです。

  

Posted by う at 03:24Comments(0)初演備忘

2009年06月25日

初演備忘・衣裳、道具類

 そうそう。
 ミシン、調達しなくては。
 手縫いで衣裳つくるのは無謀だと分かった。

 ****************************

 外見てすごく重要だと思うのだ。
 どんなに台詞回しの巧みな、玄人はだしの舞台でも、西洋物なのに平気で黒髪のまま、ろくに舞台化粧もなしに演じていたりして、役を作りこむこだわりをあまり感じられない役者だと、どうも私は興ざめしてしまう。
 ライヴのステージなんかでも、音楽的にはすばらしいのに、着てるものがあまりにふつうだったり無頓着だったりすると、もうちょっと何とかすればいいのにと思ってしまう。
 見た目を飾るっていうと響きが悪いけど、見る人を楽しませることも大事だと思うのよ。
 それは素人でもプロでも、ひとしくそうだと思う。

 あと、今回思ったのは、衣裳は先につくった方がいい。 
 演出をする私の頭の中にはちゃんとイメージができあがっているのだけど、稽古にくる団員さんの目に映るのは無味乾燥な公民館の空間だけなわけだ。
 それで想像力を働かせて演技しろといってもずいぶん酷だろう。
 衣裳を着て稽古したほうが、役者もだんぜん役に入り込みやすいに違いない。
 マリア・カラスは、練習中は役作りのために家でも舞台衣装をつけていたそうだ。

●水の精の衣裳

 水の精の衣裳は、まあまあいい感じに、古代っぽく妖精的にまとまっていたと思う。
 うちにあった本の挿絵とかを参考にデザインした。
 これはつくる自体よりもデザインを考えるのに時間がかかったが、結果的には、すごくシンプルなつくり方を編み出した。
 縫う自体より布地や色あいを決めるのに苦労したかもしれない。
 縫うところはそんなに多くないので大方私が縫い、わきにマジックテープをとめつけるのは団員の女性が引き受けてくださった。

 丈は長めの方が雰囲気が出るので長めに仕立てたが、つくってからじっさいリハやってみて、踊るとなるとすそを引きずってはつまづいて転んでしまう恐れがあることが判明。それぞれにすそをたぐったり、ウェストのところでだぶついてしまったり、結果あまり美しくなかった。

 袖なしのワンショルダーで三月の野外公演にはかなり寒く、各自素肌っぽい感じの肌着を用意して着てもらったが、ひとによっては体にぴったり合ってなくてかなりかっこ悪かった。

●修道士関係

 修道衣は水の精よりはるかに地味なのだけど、実はこっちのほうがよほど大変。
 まず、デザインがよく分からなくて、とくに首まわりのフードのへん。色々資料を調べたのだけど、絵でも彫刻でも、どうなってるかよく分からないんだ。
 結局、ゴールウェイで買った Irish Fairy Tales という本の中に、修道士が歩いてるところを横から描いた挿絵があって、そのへんを参考にしてつくった。
 修道衣4着、修道院長の服、修道院の守衛の服。

 地味なのに大変なのは、縫うところがいっぱいあったからだ。
 私は修道衣を1着だけつくった。手縫いで13時間くらいかかった。疲れた~。
 ほかの団員さんに手伝ってもらうのにつくり方を説明する必要があるので説明用のイラストを作成。
 あとはほかの人たちにつくっていただいた。
 じっさい、四方八方にやることが山ほどあって、自分ではとてもやってられなかった。
 ひとによっては細かいところを何度も説明しなくてはならなくて大変だったけど。
 同じく手縫いで一着仕上げてくださった人がいた。大変だったろう!
 団員じゃないのに見かねて手伝ってくださった方もいた。
 これは以後、こういうことがないようにしなきゃ。

 さいしょ、わきのところは耳でほつれる心配はないし、垂れてるだけだから縫うこともないだろうと思って縫わないで放っておいたら、野外公演で風にバタバタあおられてめくれ上がってしまい、失敗だった。
 フードつくらなきゃと思いつつなかなか手が廻らず、やっと当日、5人分のフードをもってってそれぞれに安全ピンでとめつける。わきのところもとめつける。
 それでもバタバタしてヘリが出てきてしまったり、かっこわるかった。

 アマナンの修道衣だけ、胸に白い十字架がついてる。
 セリフの中に「胸に十字架のしるしをつけてたわ」とかいうところがあるからで、アマナン君が自分でつけてくれたのだ。こまかいところまで気のいく人なので助かる。
 私自身はそこまで気が回ってなかった。
 次やるときはできたらほかのにもつけたいと思っている。

 修道院長の服は、ミサのときの神父さんの式服を観察して参考にした。
 ほんとは白衣の上から、白いケープをかぶった上に祭祀用の袈裟みたいのを垂らすのだけれど、つくるのがまにあわなくて、ケープは省略。袈裟もへりを縫ってるひまがなくて切りっぱなしで公演にのぞむ。

  終わってみての反省点として、なかなか難しいことではあるんだけど、やっぱり、できるだけ全員の状態を、上演前に自分の目でチェックしないといけないなぁ、と思った。
 襟もなにもめちゃくちゃな状態で出てこられて、あっちゃーと思ったり。
 でも、彼らの落ち度でもないのだ。
 何しろ楽屋に鏡もなくて、というか楽屋自体がなくて、自分の姿をチェックできなかったのだから。

 それと、できたら終了後に写真とるときも、いちど自分で全員の状態を見わたして確認しないといけないなぁ、というのはあとからつくづく思った。
 鏡のないところでは、私が全員の鏡にならないと。

●かつら、お面

 かつらは賛否両論あったんだけど、まぁ、使ってよかったと思ってる。
 団員さんがネットで見つけてくれた都内のお店で、既製のものを購入。
 衣裳との組み合わせ、舞台映え、全体との調和など考え、二回ほど通って凝りに凝って選ぶ。
 リハやってみてどうしても違和感があって、結局使わなかったものもある。

 目立つのは青やピンクの水の精の髪の方が目立ったと思うけど、いちばんのヒットはアマナン君だろう。
 主人公で重要な役なので、これもすごい、時間かけて役のイメージを考えながら選んだのだけど、つけてもらったらあまりにはまってるので、私だけでなくみんなが驚いた。
 少し長めの、くせのあるタイプで、色はオレンジゴールド。
 もともと色白だし、キレイな顔だちだからだろう、なんか異様に似合っていた。
 ふつうにそれつけて生活したら、と勧めてるのだけど、実行はしていないようだ。笑)

 ほかの役者さんたちもそれなりに似合ってたと思う。
 子役で紫をつけてもらった子は、さいしょは白をつけてもらってた。
 これがまた、びっくりするくらい似合ってた。
 結局紫にしてもらったのは、私より彼女の方が舞台に出る場面が多くて、色味のあるものを出したかったからだ。

 エルダとミリュウの緑と黄緑の組み合わせもよかったと思う。
 あのきつい黄緑を手に取るのはなかなか勇気が要ったのだけど、あの色をもってきた方がいいと思った。
 水の精の方も、修道士たちの方も、お店で色見本を借りて組み合わせを比べ、みんなで出たときの視覚的な効果を考えた。

 修道院長の禿げ頭とひげだけは、既製のものが手に入らなくて手づくり。
 これもせっぱつまって、できあがったのが前日。
 とにかく、どうやってつくったらいいか分からなくて悩んだ。
 近所のおじいさんが散歩してるのを追い抜くときに、じっくり観察して禿げ頭がどんなふうになってるのか研究したり。
 (ご本人は、自分の頭がよもやそんな目的で利用されているとは夢にもご存じありますまい。)
 いろんな人の頭を観察して、一般的な禿げ方を研究した。
 で、種明かししちゃうと、水泳帽に肉色の布テープをぴったりと貼って、白髪のところは接着剤を塗って、ちぎってふわふわにした脱脂綿を貼りつけた。
 ひげは、白い布を細長い三角形に切って、やはり接着剤を一面に塗ってちぎった脱脂綿を貼りつけ、両側に耳にかける輪っかを白いゴムひもで縫いつけた。

 お面も賛否両論。
 古代劇っぽい雰囲気を出したかったし、仮面劇ってあまりないので目を引いた面はあると思う。
さいしょ、水の精のほうは睡蓮の花をかたどったお面でやろうかと思ってたのだけど、 結局ふつうに人の顔のお面になった。
 どういう経緯だったかは忘れた。
 基本、ボール紙と薄い肌色の色紙で作成。
 とりあえず今回はあれでよかったと思う反面、表情をつけられないとか、声を出しにくいとかいろいろ難点もあり。
 あった方が役に入り込みやすいという人もいれば、いやがってた人もいた。
 いちどちゃんと舞台化粧して、お面なしでやってみるのもいいかもしれない。

●小道具類

 さいしょの場面で使うヴァレリアンの花は、団員の女性がピンクの毛糸と針金でつくってくださった。
 器用な人なのでほかの人の分までお面作ってくれたり、なにかとこまごまやってくださって。

 修道士たちが畑仕事で使う農具類は、団員さんたちで調達。
 じっさい使ってるものを提供してくれた人もあれば、わざわざ購入してくれた人もある。

 守衛さんの槍は、やはり前日に応急で作成。
 細い円材にボール紙の槍先を麻ひもでぐるぐる巻いてつける。
 これはつくるより、運ぶ方が大変だった。当日、バイクでほかのものといっしょに会場へ運んだので。
 槍先を上にして運んでるといかんせん怪しいと思って、下にして、スクーターの風よけのところで隠して、ただの棒ですという顔をして運ぶ。

 賛美歌の歌詞を書いてある巻物は、ラップの芯を使って作成。
 もうちょっと、古めかしい羊皮紙の巻物のように見えるよう凝りたかったのだが、時間がなかった。

 死体を発見する場面で使うカンテラは、イメージに合ったアンティークなものをホームセンターで見つけて購入。
 でも、オイル式だったので、舞台で使えるよう、守衛役の団員さんが中に豆電球と電池を仕込んでくれた。
 火を灯しているように見えるよう、わざわざやわらかい黄色系の電球を選んでくれたそうだ。
 一度だけやった夜公演で電球をつけて使って、すごくいい感じだったのだけれど、昼公演では電球をつけなかったので光の感じをお目にかけられなかった。つけてたら少しは見えたのじゃないかと思うのだけれど、残念。

 あと、エルダが葬列に泣きながらついてくるときにかぶるシーツ。

 演目とか情報を書き込んだ告知用のおおきな立て看板をつくりたかったのだが、時間もなかったし、運搬方法もなくてあまり現実的じゃないので断念。
 とりあえず厚紙に手書きで記しておいた。ないよりはましだろう。

 あと、アンケート用紙と筆記用具。

●大道具

 はじめは修道院のセットをつくれたらいいと思って、ホームセンターの資材売り場とかをうろうろして案を練っていた。材木と発布スチロール板でつくろうかなと思っていた。
 けれど、つくるのはいいとして、使うまでどこに置いておくのかとか、会場までどうやって運ぶのかとかいう問題があり、結局セットはやめて背景で表現することにしたわけ。
 背景幕なら比較的コンパクトにたためて、バイクで運べるから。
 
 さいしよはけっこう色々よけいなことを考えてて、岸辺の木立を再現したかったので、ホームセンターとタイアップして、宣伝に使ってもらう代わりに園芸コーナーの庭木を借り受けられないかなぁとか。
 実現しないとしても話をもってってみたら面白かっただろうと思うのだけど、ほかにもやることがたくさんあって、今回はそこまで手が回らず。

 礼拝堂の雰囲気を出すために、デコラティヴな感じのアルターとか、ステンドグラスの窓とかを、ほんとは調達したかった。時間的金銭的余裕もないし、運搬手段もなかったけど。

 エルダが身を隠していた茂みのつくりものは、うちにあったイーゼルに、タイミングよくもとの職場から譲り受けたイミテーションの植物を配して作成。
 イーゼルをバイクで運んだのは無謀だった。
 作成後預かってもらってた団員さんには、公演当日、かなりの距離を持って歩いてもらってしまって、悪いことをした。しかも、野外公演では、強風で吹っ飛ばされてしまって使えなかった日もあるし。

 エルダとアマナンのために椅子がふたつ必要で、近くの市民活動センターから借りる手はずを整えていたのだが、当日になって団員さんが木の台をふたつ持ってきてくれて、そっちの方がイメージに合っていたので、そっちを使用。

 何といっても傑作はアマナン君制作の棺おけだろう。
 凝り性なこの人の性格が出てて、おかげですごい、りっぱな葬式になった。
 ずいぶん時間かかってることと思う。
 木目の外装に、金色の十字架がついて、おまけに白いユリとばらの花まで飾られてる。
 金色の十字架は私の注文だったので、当日、自分で描くつもりで金色のスプレーをもってったのだけど、見たらすでについててびっくりした。
 しかも彼はこれを自転車で運んできたのだ。
 組み立て式で、ダンボールを3つつなげてできてるそうだ。
 公演後、それをまた分解して、自転車の前と後ろに積んで、おまけに鍬まで積んで帰ってく後ろ姿を見て感動してしまった。

●課題

 衣裳係とか道具係とか、ほんと担当の人がほしい。
 正直、とてもひとつひとつやってる余裕ない。
 こういうの割り振り分担とか、ほんと難しい。

 立ち上げの前にいくつか劇団を見学に行って、そんな話も聞いたのだけど、どこ行っても「自分の使う小道具は自分でつくる」というのが基本らしかったので、うちもそうあるべきだと思ってたし、そう話してた。
 けれどもじっさいはほとんど何もできあがらないまま、日にちばかり過ぎて。
 こりゃもう自分でつくらないとだめだ、と観念したのが直前になってからで。
 要するに自分の諦め悪いのがいけなかった。

 棺おけとか団員さんがつくってくれたのは別として、今回のだいたいのパターンは、
 それぞれ使う役の人に「こんな感じで」とイメージを説明する→
「どうやってつくったらいいか分からない」「できあがってから『それじゃだめ』とか言われても困る」とか言われ→
「分かったよ、じゃあ私がつくるよ」ということになり→
 疲れ果てる→
 最悪、当日、忘れてこられる。
 とかそんな感じ。

 けどやっぱり本来は自分でつくるべきだろう。
 とりあえず自分でつくって私のところに持ってきて、ダメ出しされたらそこで凹んでくさらないでまた作り直すべきじゃないかしら。
 そんなふうに自分で苦労してつくった小道具なら、まさか当日忘れたりしないだろう。
 それがまっとうな劇団のカタチじゃないかしら。

 でも今は、団員さんにお給料払ってるわけでもないからそこまで要求できない。
 っていうか、してもやってくれるはずもない。
 それぞれの性格とかモチベーションにもよるんだけど。
 役者やるだけで精一杯、っていうか、役しかやる気がない、っていう人もいてさ・・・。
 それでいいのか、ほかのがんばって協力してくれてる人に失礼じゃないか、がんばってくれてる人たちのモチベーションを下げないでくれよ、ってほんとは言いたい。
 人手不足のアマチュア劇団の辛いところ。・・・  

Posted by う at 03:49Comments(0)初演備忘

2009年06月25日

初演備忘・人集め

 劇団を立ち上げようと思ったとき、まず団員募集のちらしのデザインを考えるところから始めた。
 ちらし作成、刷る、可能な限りあらゆる場所に配ったり貼って回ったり、置かせてもらったり。

 それからサイト作り、マスコミに募集記事載せてもらう、などなど。
 ほかの劇団公演のときにちらしを置かせてもらったりもした。
 当初から公演直前まで、出たり入ったり、色んな人が来ては去っていった。
 けっこうめまぐるしくて疲れた。
 問い合わせや見学申し込みがくるたびに色々説明したり連絡先を聞いたり台本を刷ったりあれこれの雑用。
 去っていかれるたびに役の穴を埋めたり対応を考えなくちゃならなかったり。
 どうせ振り回されるからあまり期待しないでいると、それはそれで伝わっちゃって。
 心から歓迎し信頼しつつもかつ期待しないでいるってムズカシイ。

 ちらし配りは6月くらいから始めたけれど、以下は自分のなかで第二次募集運動にかかっていた10月くらいの日記より。

 宣伝といふ事。

 しかしながら、やっぱりまだ団員の絶対的な人数が足りない。なんとかしなくては。
 とひしひし思ったのもその日のこと。

 宣伝は大切だ。
 アメリカで豆腐の売上を飛躍的に伸ばして社会的な認知を得させ、<ミスター・トーフ>と呼ばれた雲田康夫さんという人の話。
 先駆者に「自分が広告塔になって何でもやらないとだめ」と言われて奮起し、努力していろいろやったそうなのですが、なかでワタクシ的にものすごく感動したのが・・・
 豆腐のパッケージの着ぐるみをかぶってロサンゼルス・マラソンを走ったんだそうです。・・・こういう発想ってほんと尊敬する。

 この人を客員教授に招いた、ある大学の先生が、「自分を追いこんでいかないとだめなんだ」って言ってた。
 
 あ、少し前ですが、イギリスの貧乏バンドで、お金がないから監視カメラの前で演奏してPVをつくったっていう人たちがいましたね。
 バスの中までドラムセット持ちこんでプレイしてたそうです。
 こういう根性って好きだなぁ。
 PVをつくりあげたことより、その話題性の方でだんぜん盛り上がってましたね。
 自分もいつか、同じくらい面白いことをやりたい。

                         *

 とりあえず宣伝って重要なわけで、それには発想というのがまた大事になってくるわけです。
 先日、仕事帰りにいつもと違う道を通ったら、つくば市内でもまだ自分の知らないカフェとか飲食店がいっぱいあるんだということに気がついた。
 そこで、市内のカフェめぐりして劇団チラシを置いてもらえるか頼んでまわってみよう、と思い立つ。
 今までは、おもに公民館とかショッピングモールとか、コンビニとかスーパーとかに張り出してもらっていた。
 カフェも何箇所か回ったけど・・・ちょっと死角だったかもしれない。
 人が座ってくつろいでいくところだから、ただ歩いて通り過ぎていくだけの場所よりもずっといいだろう。

 カフェめぐりは前から好きだった。けど、はじめてのお店に入るのにはちょっと勇気がいるし、やっぱりただのお客さんではつまらない。
 チラシ配りとセットなら、行く理由もできて、楽しめて、しかも目的も果たせて、一石二鳥。

                        *

 というわけで、翌日チラシをたっぷり刷って出直して、あちこち10か所ほどまわる。
 楽しかったし、すごく勉強になった。
 チラシ配りはもう何度もやってるので今さら勉強もないのだけれど、久しぶりだったから。

 忘れないようにちょっとメモしておく。チラシ配り心得。
 営業職ってこんな感じなんだろうなぁ、と思う。営業マニュアルとかにもきっと同じようなことが書かれているに違いない。

○まず、目的に合った服装・身だしなみ。
 企業の場合はきちんとスーツ、であろうが、私の場合は劇団の宣伝なので、おとなしいより少し派手ぎみな、劇団的な恰好のほうが望ましい。「あ、そのちらし、ものすごく髪の長い人が置いてったよ」とか、「フェイクファーのジャケット着てた」とか、なんか印象に残って覚えてもらったほうがいいから。

○礼儀正しく振舞う。
 基本中の基本だが、丁寧に頼むのはもちろん、とくに注意すべきは、ほかのお客さんが待ってたりしないか確認してから店の人に話しかけること。

○ちらしはたっぷり持っていく。
 頼んで受け取ってもらえる場合、壁とか窓に貼ってもらえる場合と、平らなところに置いてもらえる場合があるのだが、それぞれに長所短所がある。
 貼ってもらえる場合の方が目につきやすく、また1枚ですむ反面、興味を持った人が持って行けないので、その場で連絡先等をメモしてもらうしかない。
 置いてもらえる場合、興味を持った人は持って行けるのでよい。が、量が必要。
 置いてあげるよ、というところが続くと、チラシは急速になくなる。だからたっぷり用意しておくべし。

○偏見や思い込みを捨て、とにかく行ってみる。
 店構えの雰囲気からなんとなく入りづらかったり頼みにくかったり、忙しそうだったり迷惑かも・・・と思われたりする場合が多々あるのだが、思いこみにすぎない場合も多い。とにかく行って、丁寧に頼んでみる。

○一軒一軒丁寧に行く。
 同じことを繰り返してるとついつい機械的・画一的に行ってしまいがちになるが、応対してくれる方はおのおの別の個人なのだ。反応もいろいろだから、こちらも臨機応変に。冷たくされたら素直に退散し、あっさりOKだったら心から感謝する。いづれの場合も、くれぐれも(相手に対して)失礼のないように。
 <ひとりひとり別の個人。個人としての相手を尊重しよう>と思うと一軒一軒かなりのエネルギーを使う。このエネルギーを惜しんではいけないのだ。

○さいごまで気を抜かない。
 店を出た後も、窓から見られているかもしれないから、きちっと姿勢を正して歩く。

○感謝の気持ちを忘れずに継続的に関わる。
 またそのお店に行く機会があるときには、忘れずにちらしを置かせてもらった感謝の言葉を一言。
 あと、できればだけど、どうせ何かを買わなくてはならないとか、何かのサービスを必要とする場合には、せっかくだからお世話になったお店を利用する。
 それだと具体的な感謝の気持ちが伝わるし、話をする機会があったらさらに劇団の宣伝をすることができるかも。

 ただ、くれぐれも長話しすぎないこと。
 話しすぎてうんざりされるよりは、話し足りないくらいのほうが断然よい。
 そのへんの加減てけっこうむずかしい。
 こういうところの感覚をこれから培ってゆかなくては、と思います。

                        *

 にしても、今まで劇団関係でチラシ配って歩いていて、不愉快な応対をされたところってほぼ皆無であります。ほんとにありがたい。
 つくばはわりと文化活動をしている人たちがいっぱいいるので、お店のほうもそういうのに慣れているのかもしれない。
 とくに個人経営のお店って、応対がものすごく丁寧でフレンドリーで、誇りをもってきちっとやっているのがすごく伝わってくる。自分も頑張ろうって、襟を正す気持ちにさせられます。

 チラシ置かせてくださった方々すべてに、心からの感謝を。
  

Posted by う at 04:15Comments(0)初演備忘

2009年06月27日

初演備忘・稽古、演出、ダンス

●稽古

 稽古場は基本、公民館。無料で使えるのはありがたいが、色々めんどくさい。
 まず、遠い。往復2時間かかる。
 でも、団員さんの住んでるのがけっこうばらばらで、みんなの便宜を考えて真ん中をとるとその辺になるのだ。
 で、基本土日稽古なのだが、予約するのは平日しかできない。
 だから稽古と別に時間つくって、ハンコもって予約しに行くしかない。
(4月から土日も予約OKになった。遅いっつーの。)
 3ヶ月前から予約できるのでできるだけ早めにいくのだけれど、毎週同じ日時っていうのはなかなかとれなくてばらばらになってしまう。
 それで時間間違える人がいたり。
 そのうえ一団体月何時間まで、一日に何時間までという制約があって、そのなかで、できるだけ広い部屋で、長時間使えるところを選んでいく。
 で、めんどくさい書類に色々書きこんでハンコ押してもらう。
 その後、みんなに稽古日時と場所を連絡。ここまで一連の作業やってやっと使える。

 連絡は、基本、メーリングリスト。
 でも、PCがないからFAXで送らなくちゃいけない人とか、FAXもなくて郵送しなくちゃいけない人とかいて大変。
 悪気はないんだろうけど招待送ったのにML入ってくれない人もいるし。
 メール送ってもよく読まない人もいる。
 メールだけじゃおぼつかない人には、重要な連絡は電話してる。

 さいしょのうち、稽古の手順が確立しなかったときは、もたもたして無駄に時間取らせてしまったけど、そのうち定まってきた。
 大概、発生練習→ラジオ体操→場面練習。
 鏡のある部屋がとれたときは、ストレッチ→ダンス練習。
 発声練習は、はじめ短くアエイウエオアオってやってたのだけど、そのうちカラオケやってる人が教えてくださって、長くのばすようにやるようになった。
 まず、ただアーーーって。
 それから、長くひっぱってアーエーイーオーウー。
 さいごに、音階つけてハ、ハ、ハ、ハ、ハーーー。
 これは効果的だった。
 でも、そのうちせっぱつまってくるとやってるひまがなくなった。
 だいたい、発声練習始めましょっていう時点であんまり人、揃ってないんだもの。

 場所の設定じたいがかなり大変なのに、みんななかなか揃わないない。
 ほかにも色々やってる人が多くて、来る人も時間もみんなばらばら。
 集まった顔ぶれを見てその日稽古する場面を考える始末で、なかなかまともな稽古にならない。

 で、考えて、できるだけみんなが稽古に来られる機会が増えるようにと思って、稽古日をいっぱい増やしたり、アクセスを考えて複数の公民館で予約とったりした。
 でも、これは結果としては裏目にでたと思う。
 そんなことやっても来ない人は相変わらずめったに来ないし、逆に来る人はもう役作りだいたい完成してるのに律義に毎回来てくれたり、申し訳なく、全体としては格差が広がる一方だった。
 なんにせよ、私自身は、とにかく毎回行かなくちゃいけないわけで、疲れた。
  さいごの方は、疲れてきて自分が遅刻してたし。

 次回作からは、稽古日はむしろ減らす方向でいこうと思っている。
 できるだけ楽しくやりたいから、あまり団員の時間を拘束してストレスかけたくないし。
 自分も体力温存しなきゃいけないし。
 できるだけ効率的にやる方法を探っていかなくては。

 まず、脚本を仕上げ、音楽関連やナレーションのCDを完成させ、衣裳や道具類もつくってから召集かけた方がよさそうだ。
 で、毎回全員来てっていうのじゃなく、この日はこの人を中心に演出、っていうのを決めておいて、とにかくその人だけはぜったい来るようにしておいて、あとの人は来れたらでいいよっていうふうにしておいて、それで順番にやってった方がいいんじゃないだろうか。

 むしろ団員の方が不安になるくらい稽古を減らしちゃった方が、まじめに来てくれるかもしれないな。
 これでまた裏目に出たらおしまいだけど。

●演出

 演技指導もダンスも全く経験なく、いきなりやったのだけど、とくに迷うことはなかった。
 誰かに教わる必要があるともそんなに思わなかった。
 演じることや踊ることは、いわば日常の所作のつづきのようなもので、人間にとってとても自然なことと私には思われたから。

 ただ、演出の仕方は、途中、いちど方向転換した。
 はじめ、能のようなしずかな感じでやるつもりだったのだけど、能見てたらつまんなくて寝てしまったので、やっぱり分かりやすく、大げさにやることにした。
 中盤くらいは、うるさく、ジェスチャー、ジェスチャーってばっかり言ってたような気がする。

 あと、いくつか演出が難しい部分があって、とくにクライマックスの、アマナンがエルダに水の中にひっぱりこまれるところ。
 あ、思い出したけど、いちばんさいしょのころは、ほんとに水を使えないかなって考えてた。
 あそこの会場は、川もあったし。
 でなければ、中央公園の池とか。
 ・・・無謀。映画じゃあるまいし。
 それやってたら、役者さんに風邪ひかせて死なせてしまっていたかも。
 そのあと、屋内でやることを考えていたときには、暗転で処理するつもりだった。
 よくやる無難な手だけど。
 けれど、昼間の野外となると暗転がきかない。
 で、どうしようって悩んでたら、アイディアを出してくれた方があって。
 助かった。

 この人は色んな分野にわたって何くれと助けてくれたのだけど、こうして演出も考えてくれて。
 でも私が個人的にいちばん敬服したのは、それよりむしろ。
 ほかの場面でも演出のアイディアを出して、書いてきてくれたりしたのだけど、私はそれを使わなかったのですよ。
 詳しく言うと、ひとつは使わなくて、あとはほかの役者と話し合って適当にやってねと言っておいた。
 結局やらなかったようだけど。
 そうやってせっかく好意でもってきてくれたものを全面的には使わなかったにもかかわらず、この人はクサりもせずに機嫌よく役をつづけてくれた。
 これが逆の立場だったら、あたしにはたぶんできない。
 だから敬服してる。

 あと、こまかいところで色々詰めを考える必要があったが、大方はそんなところ。
 演出そのものより大変だったのは、その前段階の、とにかく稽古に来てもらうところまでで、演出じたいは、正直、そう大した問題ではなかった。
 いわば、諦めの境地。

 これは、必ずしも悪い意味で言ってるんじゃなくて、良くも悪くも、あんまり私の力でどうこうできることじゃないんだなあってこと。
 大方は、素材(役者)の力ね。
 ちょっと方向性を示すだけで、よくなる人はすごくよくなるし、そうならない人はいつまでもそのまんまだったが、こういうのはあんまりどうしようもないのだ。

 私のなかに確たるイメージはあって、それが伝わる人にはすぐ伝わるが、だめな人にはどんなにがんばってもさっぱりだった。
 ぎりぎりまで奮闘したあげく、「・・・とにかく、私は、できるところまでやった! あとは知らないっ!」って感じだった。これは、すべての分野においてそう。
 私は植え、アポロは水を注ぎました。
 私にできるのは、植え、水を注ぐところまで。
 あとは物語そのものの力に委ねるしかない。

  自分で考えて役作りする人はほんとにのびる。
 見てると、リハのたびにあらたな身振りや動きが加わって役柄の描写がどんどん精密になっていってて、へえ~ この人の演技、進化してるわ~ と感心してた。
 自分ではそんなに考えなくても、セリフの喋り方やジェスチャーなど、私が一度指示したことは完璧に覚えこんでくれて、心強かった人もいた。
 こういう人たちは、安心できて、助かった。

 稽古にはろくに来なくても、ひとたび本腰になるとセリフも完璧で、はまり役だった人もいた。
 本番までカタチにならなくて心配だったけど、いざとなるとなんとかなった人もいた。
 さいごまでセリフがおぼつかなくても、立ち位置や退場のタイミングを致命的に間違えても、結果的にはそれなりに雰囲気出てた人もいた。
 まあまあ結果オーライって感じか。
 でも、こういうのだと直前まで(というか、最中まで)気をもまされて、安心できなくて、あっちゃーと絶望したり、・・・私が疲れる。・・・

●ダンス

 ダンスは、土台となるところを教えていただいた人がいる。
 去年の夏ころ、<金色姫>の舞踊をやってた女性の動きがとても綺麗だなと思ってたところに、バレエストレッチのクラスをもってらっしゃることを知って、ストレッチの基本を教えてもらいにいった。
 すごく親切にいろいろ教えてくださって、勉強になった。
 ダンスの振り付けはたぶんこの人の影響を受けてると思う。
 でも、これらもしぜんに出来上がって、あまり苦労しなかった。

 こんなのをやるとは夢にも思ってなかった頃、イギリス人の友だちから、アナタの所作はダンスの動きを思わせる、なんかやってたんですかって聞かれたことがある。
 ぜんぜん、なんにもやってなかったので、へえ?と思ったのだけど、今それを思い出すとフシギだ。

 ダンスの指導をするときは、教わったストレッチの基本からやって、その女性のクラスに行くように勧めもしたけど、行った人はいないようだ。
 ダンスだけで何度稽古し、何時間費やしたことか。
 各曲の振り付けをイラストにまとめて、こまかな動きの説明もつけて、みんなに配り、「体全体をやわらかく、やわらかく」「腕だけじゃなく、肩甲骨のつけ根から動かして」ってめいめいに百回くらいずつ言ったし、自分でも千回くらいは実演したと思うけど・・・
 とにかく動きだけでも覚えてくれたことに感謝するほかない。
 はじめは、自分はぜんぜんステージには立たないつもりだったのだけど、自分の表現したいものを表現するにはやっぱり自分でやらなきゃだめだ、と分かって諦めて、結局ダンスだけ参加することにした。

●課題

 なかなか稽古に来ない人、演技やダンスのまずい人に対して、あんまり強く言えないのが、無給のアマチュア劇団の辛いところ。
 なんていったって人手不足だもの。
 いてくれてるだけでありがたいと思わなきゃいけない。
 あまり多くを求めて、凹まれたりキレられたりして去っていかれたら、・・・苦労してまた代わりを探さなきゃいけないのは私なのだ。

 でもほんとのほんとは、たとえプロで仕事だったとしても同じな気がするな。
 結局もとからその人のなかにある気質や感性をベースにしたかたちでしか、もっともよいものは生まれないんじゃないだろうか。
 だから、たとえ状況的に可能だからというので素質のない人をビシバシしごいても、それで<よく訓練された>舞台にはなるかもしれないけど、<いい>舞台にはならないんじゃないだろうか。

 イェイツの立ち上げた劇団も、役者はほとんど素人だった。彼らもゼロから模索するところから始めたのだ。
 彼のノーベル賞受賞公演は<アイルランドの演劇運動>というタイトルで、何もないところから立ち上がって色んなものと戦いながら進んでいった彼らの労苦が語られている。
 初演までの日々、私はわずかな時間をみつけてはそれを読み返し、どれだけ力づけられたかしれない。
 これほど偉大なわだちがあるのだから、何も恐いものはない! と思った。

 彼らの上演の様子を想像しながら読んでて、私は何となく、ダイサート・オディのハイ・クロスの聖人の彫刻とかを思い出したのね。
 ああいう感じのはアイルランドの各地にほかにも残ってるけど、あの原始的な感じの残った、稚拙で、でも奇妙に力ある造形。
 ああいう感じを、舞台で表現できたらいいなと思う。

  

Posted by う at 04:08Comments(0)初演備忘

2009年06月27日

初演備忘・照明、音響、撮影

●照明

 照明は、当初の脚本ではすごく重要な要素だったので、ぜひとも必要だった。
 プロの人に頼んだほうがいいよ、とも言われていたのだけれど、ほかにも色々やることがあって、そのうち何とかなるだろうと思っているうちに、やりたいと名乗り出てくれた人があった。
 何と中学生の男の子で、学校で演劇部だったのだという。
 言われなければとても中学生とは思えないほど、落ちついて、大人びていて。
 物事のやり方がすごく周到で、緻密で、こまかいところまでよくこちらの指示を仰いでくれた。
 正直、そのへんの大人よりよほど頼りになった。

 セロファンの微妙な色あいだとか、スポットライトの向きだとかを早い時期にいろいろ打ち合わせることができた。
 話してるうちに信頼できるセンスをもってることが分かってきたから、安心して任せられた。
 下手すると役者よりずっとこまかく、脚本を読みこんでくれてて。
 ただ、色あいの調整はこまかくできたが、光のあて方を加工したり、あまり凝ったことはできないと知って、さいしょは少し失望した。

 りっぱな機材を一式持っていて、年明けには公民館のホールにもってきてリハやってくれて、おかげでじっさいがよく分かった。
 照明だけでなく、パソコン関係、色々と詳しくて、ヤフーMLの作り方を教えてくれたのも彼だし、ラジオ体操の音源を送ってくれたのも。(!)

 会場を野外と決めた時点で問題が。
 せっかく作りこんでくれたのに、野外の昼公演だと、照明が使えない。
 雨天で屋内だと使うことになるが、晴天で野外だと夜公演のみになる。
 天気次第で振り回してしまうことになり、申し訳なかった。

 前日には機材を会場に運び、自分で管理事務所と打ち合わせてリハをやってくれた。

 初日の夜公演が、初演では結局、本番で照明を使ったさいしょでさいごになってしまった。
 子役が急にキャンセルして、場面進行を変えなければならなくなったり。
 場面によってはちょっと暗すぎて問題があり、本番の進行中に急遽打ち合わせて調整してもらったり。
 いろいろハプニングはあったが、全体としてはすごくよかった。
 けれど、照明のすばらしさとは関係なく、とても寒かったこともあってお客さんがあまりいなかったり、役者さんの花粉症をひどくしてしまったり。
 3月の夜公演があまり現実的でない、ということは、やってみてはじめて分かった。

 第2週は、諸事情あって全3回公演を通すのは難しい状況になってきた。
 そこで、2回に絞ることにしたが、どこの2回に絞るかでごたごたした。
 個人的には、せっかくやってくれる彼に悪いので夜公演やりたかったのだが、前週のあまりの寒さとお客さんの少なさを考えて結局この夜公演をキャンセルし、昼公演2回でいくことになった。

 結果として、せっかくの照明をあまり生かせないで終わってしまった。ほんとに申し訳ない。
 しかも、昼公演のために照明なしでもいける演出に変えたので、実質、照明はなくてもよいことになってしまった。
 極端な話、屋内でも、ずっとつけっ放しで進めてとくに問題もなさそうだ。
 竹園のホールの照明はゆっくり消えるタイプなので、フェードアウトくらいはできるだろうが。
 ・・・いいのか悪いのか。

●音響

 音楽やナレーションを吹き込んだCDを使うので音響も必要だったが、これも何とかなるだろうと思っていた。
 これは結局、団員さんでCDプレイヤー、アンプ、スピーカーのセット一式をもってる人がいて、それを持ってきてもらって、つないで使わせてもらった。

 公演の一週間前に野外会場でゲネプロをやろうとしたら、会場の電源が調子悪くて。
 野外電源なので砂がいっぱい入り込んで絶縁してしまってたようで、つながらなかったり、一度つながっても急にぷつっと切れてしまったり。
 呼んで来た管理事務所の人たちもさじを投げて、本番までには使えるようにしておきます、と言ってそのときは結局延長コードを伸ばし、とんでもなく遠くにある別の電源を使用。
 ふたたびつながるまでに延々時間を浪し、やっとまたつながった頃には団員さんたち、シンデレラのように帰ってしまって、ゲネプロは総崩れ。

 本番では Thank God、最寄の電源が復旧していた。
 でも、問題は電源だけじゃない。

 まず、CDの頭出しも、結局自分でやるほかなかった。
 これでとちったら目も当てられないことになるし、大変な重責。
 台本のなか、頭出しすべきところにCDの曲番を赤鉛筆でふっていって、家で何度も練習した。

 使い慣れないCDプレイヤーでやらなければならず、気が気でない。
 わけわかんないボタンがいっぱいあって、うっかり袖の端で触れるとたいへんなことになる。
 だから押すべきボタンに緑色で、ぜったい押していけないボタンには赤色で印をつけ、ほかに触れないよう、人差し指一本で、しかるべきボタンだけ押すようにしてた。

 しかもだいぶお年を召したプレイヤーで、ときどき混乱して訳わかんなくなったり、突然、何の理由もなくフリーズしてしまったりする!
 CDプレイヤーだけ自分ちのを持ってく、という手もあったが、うちのも古くて unreliable だったし、ほかにもありったけ荷物がいろいろあって、とてもバイクに積めなかった。

 結果としては、全公演通して致命的なエラーが2回ほどあったが、・・・不可抗力によるものだったし、何とか強引に押し切ったという感じ。思えば危ない橋を渡ったものだ。

●ビデオ撮影

 撮影のためにビデオを買おうと思っていたのだが、そこまで手が回らなくて、間にあわず。
 団員さんに呼びかけると、2人ほど、ビデオもってると名乗りあげてくれた。 

 けれど、1週目、いろいろと不都合が判明したため、・・・2週目のためには結局自分で撮るべく、人様からビデオをお借りした。寛大にお貸しくださってありがとう~!!
 使い方を教えてもらい、説明書と三脚もいっしょにお借りして、公演のとき手元において撮っていた。

 でも、CDの頭出しをしたり、ダンスのときは自分もステージに立ったりしながらだったので全神経を撮影にそそぐことはできず、出てる全員おさまりきれてなかったり、役者が出て喋ってる位置にカメラが向いてなかったり。
 しかも、2ギガのSDカードで2時間の撮影が可能だということだったのに、一時間ちょっとのところで急に画面が消えてとまってしまった。(公演そのものは1時間半ほどだった。)
 SDカードそのものの容量に問題はないのだが、電池がもたなかったようだ。
 そのときはそれが分からなくて、かなりショックだった。

 でもいちばんショックだったのは、ビデオをお返ししてしまってから分かったのだが、映像を自分のPCで見られないのだ。
 SDカードをPCに挿入するとWMPで開かれるのだが、そのビデオでSDカードに記録される映像のファイル形式だと、音声が聞こえるだけで映像が映らないのだ。
 映像を見るためには有料の変換ソフトをインストールする必要があるらしい。
 
 その後、知り合いでも何でもない方から公演のDVDをいただいた。
 見に来て、撮っててくださったのだという。
 私がボランティアで英語教えてる民間団体つながりの人。ありがたいこともあるもんだ。
 ところどころちょっと飛んでるけど、なかなかいい感じ。
 後日みんなで集まったときには、とりあえずそのDVDをもっていって、私のPCで見た。

 ほかの団員さんが撮ったものも後日、DVDとテープでもらった。
 DVDのコピーの仕方、研究中。
 できれば映像編集、できるようになりたい。
 ウェブにも載せたいし。

  

Posted by う at 04:35Comments(0)初演備忘

2009年06月27日

初演備忘・会場設営、段取り、劇団のあり方を模索/次作の方向性

●会場設営

 管理事務所のありかを突きとめておくこと。
 まさかこんなんがそんな大問題だとは思わなかった。
 電源やら脚立の貸し出しやら、具体的なところについては管理事務所に訊いて下さい、と都市整備課のほうから言われていて、電話番号も聞いていたのに。
 一週間前のドレスリハのとき、はじめて行ったらあちこち聞いて回ってもなかなかたどり着かなくて、電話して場所聞いたのにそれでもたどり着かなくて、うろうろ迷ったあげく先方の職員に出てきてもらって、やっとたどり着いたらもう40分くらいすぎていて。そのあいだみんなのこと待たせっぱなしだし。
 それからまた電源のごたごたとかあってリハに入れず。
 ふ~っ、悪夢のようでしたわ。
 だってなんか、地下の秘密の穴倉みたいなところにあるんだもの。あれじゃ分からないよ。
 いちど場所を知ってからも、また行こうとするとなぜかホテルのレストランの厨房に迷い込んでしまうし。
 期間中は毎日、まず朝ここへ行って延長コードとか脚立とか借り出した。
 道具類はステージ向かって左の格子の独房みたいなところに置かせてもらえたので、とても助かった。

 はじめは野外テントいくつか使う予定だった。おもに雨天時対策、機材用。
 それで、人にきいたり、色々調べてみたりしたのだけれど、リース代、下手すると会場代より高くつくし、組み立てるのも大変そう。
 それに、ちょっとでも降りそうだったら屋内にしてしまうし、ぬれてほんとに困るのは、アンプと照明の制御盤くらいなものらしかったので、なしで済ませてしまうことにした。
 団員さんに呼びかけて、ブルーシートも2,3枚用意したが、これも結局使わなかった。

 団員さんの荷物とか、ごたごたしたもの、円柱のうしろの方に隠しておいたが、やっぱり、ちょっとした荷物置き場ほしい。兼楽屋。できたら鏡つき。
 なんにもないのだもの、あそこ。
 どうせステージやるとなったらそういう場所は必要に決まってるのだから、ちょっとつくっておいたらいいのに。
 あと、すぐそばにトイレがほしい。
 フォーラムを突っ切ってはるか向こうの端のアイアイモールに入ってるトイレまで行かなくてはならないので、直前など時間食って仕方がない。
 この2点については、あの場所を管理してる組織から後日ヒアリングを受けたときに申し立てておいた。

 野外でやることのよしあし。
 天候に左右されるということ。暑かったり寒かったり。
 雨が降ったらできないし、また、風が思いのほか大きな要素であることが分かった。
 あまり条件が悪いとお客さんにも忍耐を強いることになってしまう。
 それに、予測もつかないあらゆるハプニング。
 とくに28日!
 すぐそばで駅の通路の取り壊し工事、何も上演中にやんなくてもいいじゃないか。
 あれはほんとにひどかったな。
 駅の工事なんてどうせ市とつながってるのだから、(低額とはいえ)お金とって会場貸す以上はそういうところも含めてふさわしい環境を整えるべきではないのか? 
(まあたぶん、お互いに知らなかったんだろうな。ほかの課のやってることまで見てられるか! って感じで。)
 あと、こともあろうにすぐそばででかい音で弾き語りしてる人がいた!
 ペデデッキも立ちどまっての演奏は課金対象となるんで、どうせ無届だろう。
 届けてたら、この日にステージやるの、知らされてるはずだし。
 頭に来て仕方なかったが、弾き語りが始まったのは上演がはじまったあとだったので、やめてもらいに行けなかった。
 あれはほんとに情けなかった。
 沈黙の効果もクソもない。
 彼ら、自分らがどんだけ迷惑になってるか分かってなかっただろうな。

 それでも野外はよかった!
 会場のつくりとか雰囲気がよかったのはもちろんだけど、ほんものの光と風のなかでやるすばらしさは何物にも変えがたい。
 見上げた空はアイルランドまでつながってる。
 あのなんともいえない解放感と、ある種原始的な感触と。
 私のなかで、演劇の基本形は、古代ギリシャ悲劇と薪能。
 どっちも共通するのは、「野外で仮面劇」ってところだな、考えてみると。
<エニス>を見て、「古代ギリシャ悲劇みたい」と言ってくれた人と、「能みたい」と言ってくれた人と、両方いて、うれしかった。
 いちどこれを味わってしまうと、ハコの中、息苦しく思えてきて。
 できたらまた野外でやりたい。

●段取り

 稽古を始めたのが10月くらいだったが、あるていど差し迫ってこないと段取りも立たない。
 年が明けて、1月中はレコーディング、衣裳、告知関係を中心に、2月で大道具・小道具類と背景幕、3月は予備、という感じで計画を立てたが、ひとつひとつが時間食ってどんどんずれこみ、結局3月に入ってからが大詰めでいちばん忙しくなった。
 分かったこと。
 段取りで大切なのは、実行可能な範囲で計画を立てること、体力は限りあるものだから、本番のために体力を温存できるだけのゆとりをもっておくこと。
 
 初演の前後一週間くらいの怒涛の日程を記してみる。
 演劇と、フェス関連も含めやったこと。

 14日土曜、合唱のレコーディング→ミキシングしてCDにまとめ、全員分焼く。翌日ぜひともみんなに渡さなければならなくて寝てるひまなかった。 
 15日日曜、なし崩れになったドレスリハ。夜、ラヂオつくばにて初演含めフェスの宣伝。
 16日月、フェスのバナーとリボンの制作。ベランダでスプレー。手縫いで端をかがっていたら朝までかかった。
 17日火、会場デコレーション、バナー+リボン+アイルランド国旗。夜までかかった。夜、セッション。
 18水~20金、イベント保険のお金だけとりあえず払い込み。修道衣のフード、守衛の槍、修道院長の袈裟とか禿げ頭の制作。<エニス>のサイン、アンケート等の作成。できる範囲で精一杯のCD音源改良。パレードのための道路仕様許可申請出す。背景幕のさいごのもの仕上げる。前日には団員各人に確認事項メール。あぶなっかしい人にはひとりずつ電話した。こういうのに時間と手間かかる。それと、メアド分かってる限りの色んなところにさいごの告知メール。CD頭出しの練習。台本に番号ふってナレーションのところ赤いワクで囲っておく。自分の衣裳着てみる。持ち物のリストをつくって玄関に積み上げる。寝たのは4時ちかく。
 21土、ライヴ+初日。天候を確認してフェスサイト日・英、劇団サイト日・英、およびmixiに告知を出す。竹園にキャンセルの電話。センター広場管理事務所に確認の電話。きのう捕まらなかった団員に確認の電話。身支度して荷物を積んで出る。この日は昼と夜の2公演。
 22日、悪天候のためキャンセル。サイトに告知を出し、そのほかあちこち連絡して回る。会場の国旗とかが吹っ飛ばされていないか気になったが、この日はそれ以上体が動かなくてのびていた。

 23月、道路使用許可証取りに行く。保険書類を記入して送る。強風でめちゃくちゃになった旗をぜんぶつけ直す。
 24火~金、第週公演の日程打ち合わせ(どの2回をとるか)。7枚の背景幕のそれぞれ4隅にひもの輪っかを縫いつける。ビデオを借りて、撮り方を習う。電話で団員と、先回至らなかった点の改善を打ち合わせ。CD音源のさらなる改良(全体的な時間を短くする、主題曲のコーラスのバランス、フィドルの長音等)。ふたたび各方面に告知メール。
 28土、ライヴ+第3回公演+パレード。神父さんと電話で確認する。サイトへの告知はパレードサイト日・英も含めた6箇所になった。あとの手順は初日と大体同じ。夜、セッション。
 29日、ライヴ+第4回公演。行きにビデオの電池を買っていく。あとは同じ。終了後、会場デコレーションを撤去。運びきれないので格子のところに置かせてもらう。

 30月、置かせてもらった備品類を取りに行く。それでも運びきれず、半分だけ。
 31火、国旗21枚を洗濯して干す。
 4月1水~ 国旗の返送、サイトに終了報告、各方面にお礼のメール、mixiにお礼、あちこちに挨拶回り、会場使用料の払い込み、備品類のさいごの便を取りに行く、会計報告、カンパ箱の制作。
 <まだ終わってないこと>→アルバム制作・ビデオの編集とコピー。

 あと、どの時点だったか、パレードの2週間前くらい、神父さんに二度目の手紙を送った。
 これは完全に私の考えの足りなさだったんだけど、これが入ったのでよけい忙しくなった。
 私の単純な認識では、<エニス>の提示している宗教的な問題っていうのは、キリスト教がちゃんと機能している社会では問題となるだろうけれど、今の日本でやる分には、大して受けもしない代わりに文句を言われることもないだろうと。
 ところが、ふっと気づいたらものすごく近いところに、まさにキリスト教道徳を体現している立場の人がいて。それが誰あろう、パレードで主役を務めていただく神父さん。
 しかも、<エニス>の上演とパレードは同じ場所で同じ日にやり、時間的にもごく接近している。<エニス>の内容を知ったら、神父さんは、こんなのとタイアップした催しに出ることは自分の宗教的良心が許さないと思うかもしれない。だからやっぱり、事前に、ちゃんと説明しておかなければならないだろう。
 こんなことにそれまで気がつかなかったなんて、ダメだった。
 とにかく、もう差し迫っていたけれど、急いで手紙を書いて<エニス>の内容を説明した。いつかは英訳しなきゃと思っていたのだが、せっぱつまった勢いでざっとした英訳ができてしまった。それで、もし貴方の良心が許すようでしたらパトリック役をお願いします、問題あるようでしたら無理にとは言いません、と書いておいた。
 当日、公演を終えて客席に神父さんの顔を見つけたとき、ほっとして気が抜けそうになった。駆け寄っていってお礼を言うと、にこにこして「ワンダフル、ワンダフル!」と言ってくれた。・・・ほ、ほんとかいな。
 とにかく、この人の寛大さのおかげでパレードにも支障なく、無事出ていただけて成功裡に終了。もっとごたごたしていてもおかしくなかった。その辺も、アイリッシュの国民性ですかね。にしても、ちょっと気づくのが遅かったな。あれこれ気を回して万事抜かりなく、というのはなかなか大変であります。

 2週間にわたって4公演打ったことの、

 悪かった点。
 団員全員の予定を合わせるのが大変である。それに、みんな、疲れる。

 よかった点。
 お客さんが、都合がつく可能性が高くなる。あの日だめでもこの日なら来れる、とか。
 あと、至らなかった点の改善をすぐ次の公演に反映できる。これは非常によかった。
 2週目に改善した点、具体的には、役者の演技、ジェスチャー、登場・退場のタイミング、全体的にもっと前方へ出てきてしゃべること、それから背景幕の固定のしかた、等々。

●劇団のあり方を模索する

 立ち上げてからずっと考えてきた。
 今までやったことのない挑戦。人の動かし方ということ。
 そのスタンス。基準をどこに定めるか。どこまで求めるか。どこまで譲歩するか。

 人にはそれぞれ得手不得手があって、意識やモチベーションの度合いにも差があるわけで、一律に一定レベルを要求するとなかなかうまくいかない。
 それに、あんまり無理を言ったり、過度の負担をかけたりしたくないし。

 できるだけムリなくムダなく、自らすすんでやってもらえる範囲で、めいめいの得意とするところをうまい具合に組み合わせてひとつのものをつくりあげられたら、とずっと模索してきた。
 この人はどういう点に長けているんだろうか、何をやりたいんだろうか、どこまでやる気があるんだろうか。
 
 でも、やってきたなかで見えてきたのは。
 ただ各人の得意なところを寄せ集めるだけでは、私のつくりあげたいものはつくれないし、そうすると足りないところをぜんぶ、がんばって埋めなきゃいけないのは私なのだ。

 私は彼らに何を求めているんだろうか。
 稽古にちゃんと来てくれて、役をちゃんと演じてくれて、
 衣裳や道具作りもできる範囲で手伝ってくれて、
 金銭的にも少しは負担してくれて(っていうか、ふつうは団費とか公演費があるもんだろう)、
 告知にも協力してくれて(っていうか、ふつうはチケットのノルマがあるもんだろう)、
 私といっしょに、お客さんを迎える側に立ってくれること。
 それって求めすぎなんだろうか?

 人にはそれぞれ得手不得手があって、意識やモチベーションの度合いにも差があって。
 けど、だからといってできない人ややる気のない人のあり方をそのまま受け入れてしまっていいものだろうか?
 それでがんばってる人のモチベーションまで下げられたり、結託して叛乱を起こされたりするのは困る。
 それに、やらない人がやってくれないところを、結局やることになるのは私なのだ。

 これは人間関係の絡んでくる部分で、正直、いちばん苦手なところ。
 この項目を書くのが、いちばんムズカシイ。
 いちばんイヤな思いをしたのがこの分野で、思い出すだに頭にくることも多いし、書くとネガティヴな調子になってしまうのは避けられない。
 でも、いま、これを考えておかなくてはならないと思う。
 それを避けてると、たぶんまた同じ問題にぶつかる。

 人を束ねるってさぞかし大変だろうな、とは分かってたけど、あるイミ今の自分にはそれが必要なんじゃないかとも思ってた。
 生身の人間関係のなかに自分を放りこんで揉まれてみて、そこから得たり感じたりするものがこのあとの自分に必要になってくるだろうなと。
 でも、振り返ってみると問題は思いのほか単純でもあった。
 つまり、基準をどこに設けるか、どこまで私が我慢するか、ってことね。
 ・・・私の立場からすれば。
 彼らにしてみればまた色々言い分はあるんだろうけど。
 こういうのほかの劇団はどうしてるのかな、訊いてみたい。

 まず言っとくべきは、そもそもいちばんの問題児は私自身なのだ。
 それは自分もよく分かってた方がいい。
 短気で自分勝手ですぐぶち切れるし。
 協調してやってゆくことができるものなら、ひとのつくった組織のなかで収まってたはず。

 それが分かってたから、劇団を立ち上げるにあたってはすごい、自分で気をつけてた。
 人を束ねる立場にある者としての自覚と責任感をもつこと、いつでもテンションを高く保って明確なヴィジョンを示せるようであること。
 安定感と方向性をもってること。
 色んなことのすみずみにまで気を回すこと、こまめに連絡すること。
 いつでも穏やかに優しく接すること、感謝の気持ちを忘れないこと。
 とくにさいごの点。

 結局私がいちばん、素の自分とかけ離れた役柄を演じようとしてもがいてきたのかもしれない。
 素じゃないから、すごいきつかった。
 ほんとはすごい、色んなことで頭にきては、心の中で毒づいてた。

 この社会で不都合なことのひとつは、怒りという感情が許容されないこと。
 悲しみなら寛大に許されるし、何かしら高尚なものと見なされさえする。
 疲れたとか凹んだとかなら、笑って許される。
 困ったとかもそう。ひたすら困ってると誰かが同情して助けてくれたりする。
 ところが怒りはすべてをぶち壊す。大人気ないとか自己中心的だといって非難される。
 だからさいきんは、頭にきたとき、とりあえず婉曲表現として「悲しい」とか「凹んだ」とか言うことにしてる。
 ちゃんと認めておこう。みんなそれぞれに、いいとこあるんだ。
 役柄にはまってたか、ちゃんと果たしてくれたかというのもそうだけど、それ以外のところでも。
 すごく素直で気立てがよくて、いろいろと雑用を率先して手伝ってくれたり。
 機材を貸してくれて、運搬もしてくれたり。
 道具類貸してくれたり、ほかの団員さんたちを駅まで送ってくれたり。

 でもさ。・・・

 (以下、具体例、省略)

 ・・・そんななか、しっかり自分の分を(あるいはそれ以上を)果たして、力強くサポートしてくれたほかの団員さんたち。
 どんなにありがたかったことか。
 彼らのこと心配しないですんだからこそ、何とかやり遂げられたようなもの。

 アマチュア劇団をとりまとめるって大変だな。
 立場も意識もみんなほんとにばらばらで。
 演劇学校を出たプロの卵とかを演出してる方がよっぽど楽に違いない。
 なんたって基本のところの粒がそろってるもの。

 さいしょからスポンサーとかを探そうとせずに、まったくのアマチュアで始めたのは、自由にやりたかったから。
 スポンサーがいるとその言うことを聞かなきゃならなくてイヤだろうなと思ったから。
 だけど、結局だれかしらとはもめなくちゃいけないんであって、要は誰ともめるかの違いなのかなっていう気もしてきた。
 不愉快な団員のことガマンしてるよりは、スポンサーともめてる方がまだましかもしれない。

 でも、こうしたごたごたは、もとから、出くわすだろうなと思ってた。
 イェイツだって、自分の劇団の俳優たちとさんざんごたごたしてきたのだ。
 私がこれから乗り越えてゆくだろうごたごたなど、偉大な先人たちによってとっくに乗り越えられたものにすぎない。
 でも、彼らにはグレゴリー夫人の理解ある援助があって、おかげで役者たちに給料を払えていた。
 私もこのレベルを目指さなきゃいけないのだ。
 いつまでもボランティアでやるつもりはない。
 そのへんもこれから考えていかなくてはと思う。

●次作の方向性

 こうやって振り返ることで時間食ったけど、思ったとおり、見えてくるものは大きかった。
 このところ、最終的にカタチになったものしか自分にも見えてなかったけど、立ち上げから今までほぼ一年近くなる、さいしょの頃は、四方八方にいろいろ考えてたんだなぁということ。もう忘れかけてるけど。
 色んな方向性、可能性をとりあえず考えてみて、そのなかで、現実に可能なことのなかで、どんどん選択され、切り捨てられ、絞られてきて、そうして結果としてこの初演のカタチになったのだということ、つまり何かをカタチにするとはそういうことなのだということ。

 次作の方向性、どういうので行こう。
 第2作って重要なのだ。失敗するとそこで終わってしまう。
 ストーン・ローゼスは Second Coming で終わってしまったし(文字通りだ!)、サヴェッジ・ガーデンは Affirmation で終わってしまった。演劇のことはよく知らないけど、音楽と似たようなもんだろう。
 逆に第2作をうまく切り抜けて、第3作でヒットを飛ばすことができれば確たる地位を築ける、U2の Joshua Tree みたいに。だから第2作をどうするかは重要なのだ。

 一度成功したやり方を繰り返さないことが、成功し続けることの秘訣だ、と言った人がいた。
 ダブリンフェスのドナルさんは、毎回、常になにか新しいものを付け加えるようにしている、と言っていた。
<エニス>でたどりついた方法論はすっかり忘れて、また一からやり直した方がいいかしら? それとも、まずはバリリー調とも言うべき、ひとつのパターンを確立したほうがいい?
 この問題に答えを出すのに、またちょっとじたばたするだろう。・・・

 後記・けっこう固まってきた、と思う。

  

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