2009年06月25日

アレキサンドリア~なぜアイルランドなのか~

 次のステージに進む前に、今まで走ってきたところをちょっと振り返ってまとめておいた方がいいと思う。
 時間食うけど、後片づけの一環としてこれをやっておいた方がいい。
 というわけで、これから何回分か、3月のフェスと初演の備忘を記します。

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○アレキサンドリア

  まず、3月にやったフェスに関連して、「なんでアイルランドなの?」って訊かれることが多いので、この辺でちょっとそんなことを記しておこうかと思います。

 なんでアイルランドなの?

 アイルランドに関わってる人で、こう訊かれると困ってしまうひとは多い。
 あんまり自分で考えたことがないんだと思う。
 なんだか、
「あなたって、どうして人間なんですか?」
 とか、
「第二次世界大戦てどうして起こったの?」
 って訊かれて、困ってしまうような感じ。

 なんだろうな、自分から進んでアイルランドに関わってるというよりも、アイルランドの方がその人に用があって呼ばれちゃった、みたいな人が多いんだと思う。

 自分の場合は、なんでなのかな。
 うん。
 ほんとは決してアイルランドだけじゃないんだよね。
 ウェールズも好きだし。
 イングランドももちろん。
 スコットランドは行ったことないから分からないけど。
 ブルターニュなんかも好き。
 ポルトガルの辺境の島々とかにも惹かれる。
 プロヴァンス。
 ヴェンド地方。
 東欧の国々。
 好きなところ、行ってみたいところ、ほかにもたくさん。

 さいしょにアイルランドに触れたのって、いつのときだろう。
 小さいころって、世界地理なんかもちろん分かってなかったけど。

 石井桃子編の<イギリスとアイルランドの民話>、モノクロの挿絵が素敵な黄表紙の本。
 いま考えてみると、たぶんあれがさいしょだろう。8才くらい、かな。

 ランゲの色別の童話集。あれにもアイルランド民話はいっぱい収録されている。

 でも小さいころとりわけこよなく愛した2冊。

 ソーヤーの<空を飛んだおんぼろ校舎>。原題は The Flying Schoolhouse 。
 ドニゴールの貧しいけれどとても美しい村に住んでいた男の子が、アメリカへ移民したおじを頼ってひとりで旅に出る物語。
(あ、じっさいは「ひとり」とは言えないけれど。)
 あのシリーズはほんとに良書が多かったと思うけど、この本はとりわけ大好きで、挿絵をトレーシングペーパーでなぞって描き取ったりしてた。それほど好きだった。
 世界史なんか分かってなかったけど、今考えると、ドンピシャリ、アイリッシュ。
 この本はフィクションだけど、著者は(アメリカ人なんだけど)イェイツのようにアイルランドの田舎をまわって採話したりしてた人。

 もう一冊は、ヒルデ・ハイジンガーの<ティムとふしぎなこびとたち>。
 著者はドイツ人で、コネマラを旅したときの印象をもとにこの本を書いた。
 私が読んだのはたぶん9才くらいのときで、字が細かくてちょっと難しかったのだけれど、なんか好きだった。

 12才のとき、ピアノの課題曲が<庭の千草>だった。あ、The Last Rose of Summer ね。
 先生がさいしょお手本で弾いてくれるのを横で聞いてて、感激して、なんていい曲だろうと思った。
 今でもギターで、ときどき弾く。

 でも、アイルランドって国をさいしょに意識したのは、たぶんあのとき。
 14才くらい。
 そのころ、アフリカを舞台にした話を書いていて、ちょっと調べなければと思って、図書館の、それまで行ったことなかった棚、世界地理の棚のところへ行ってアフリカについての資料を探していた。
 そのとき、なんだか「背表紙に呼ばれて」しまった。
 手に取ったのが、まるで関係ない、Terence Sheehy の IRELAND and Her People という写真集。
 ぱらぱらとめくってみると、そこにはのどかな田舎の景色が、道ゆく馬車の姿があった。
 そのとき、なぜだか思った。
 自分はこの国へ行く。いつか必ず、と。

 でも、現実性はなかった。中学生がひとりでそんなこと思っていても。
 お金はかかるし、制度的に器が整っていたわけでもないし。

 で、そのことはずっと忘れていたわけですよ。ずっと、長らく。

 シュタインベックの<チャーリーとの旅>のなかに、こんな一節がある。
「人が旅に出るのではない。旅のほうが、人を連れ出してゆくのだ。」
 彼も、旅への理屈抜きの情熱を抑えがたく、しかも当時の私よりずっと年食ってから、わざわざトレーラーハウスみたいの仕立ててアメリカ全土をめぐる旅に出た人。

 ずっとあとになって、じっさいアイルランドを旅しながら、この言葉をかみしめてた。
 ほんとだよな。
 忘れてたつもりでも、夢は必ず人に追いつく。
 人が夢を見るのではない。夢のほうが人を連れ出してゆくのだ。・・・

 それにしても、まさかあんなものが自分を待ってるとは思わなかった。

 サマセット・モームの<月と6ペンス>。
 この本に私は12才のときに出会った。
 主人公ストリクランドの強烈に冷酷でわがままな生き方に、自分の姿を合わせ鏡で突きつけられたようで、すごい衝撃だった。
 だけど、その主人公のメインストーリーとおそらく同じほどの深い印象を残して、ずっと覚えていたのがこの話。
 話の中ではほんのみじかい挿話にすぎないんだけど、イギリス人のストリクランドが流れ流れてタヒチに辿り着いて、そこでやっと心の平和を見出すくだりを説明するためにもってきてる。
 レールの上を忠実に歩んできた、将来を約束された優秀な医師だった男が、たまたま休暇で出かけて通りかかったアレキサンドリアで電撃的な啓示を受け、地位も名誉も富も捨ててそのままそこに居ついてしまう話だ。
 それはこんなふうに始まる。

「世の中には、場違いのところに生まれてくる人々もあるものだ、という意見を私は持っている。偶然のことから、彼らはある特定の環境におかれることになるのだが、彼らの見知らぬ故郷にたいして、つねに郷愁を感じているのだ。彼らは、生まれ故郷では他国者であり、子供時代から知っている青葉茂る小道も、遊びたわむれた人ごみの街路も、けっきょく、通りがかりに足をとどめた場所にすぎない。近親のあいだで、全生涯を異邦人として過ごすこともあろうし、また、それ以外の環境というものを知らないくせに、永久にそれになじむことができないこともあろう。みずからを密着させることができる永遠な何ものかを求めて、人が遠くはるばると出かけてゆくのは、おそらく、このよそよそしさの感じのためなのであろう。・・・ときとして人は、ある神秘の情とともに、自分の故郷だと感じられる場所にめぐり合うこともある。ここに探し求めていた故郷があり、いままでに見たこともない風景のなかに、そしてまったく未知の人びとの中に、あたかも生まれて以来親しみ深いものであったかのように、落ちつくであろう。ついにそこで彼は安息を見出すのだ。」
(阿部知二訳)

 アレキサンドリアで甲板から波止場を眺めるエイブラハム。
 その映像を、子供のころに読んだ記憶のまま、私は映画のように思い起こすのだ。
 青い空、陽光を浴びた真っ白な町並、民族も顔だちも雑多な行き交う群衆、などを眺めるうち、
「・・・なにかが彼らに起こった。・・・雷に打たれたようなものだった・・・啓示ともいうべきものだった・・・。なにかが心の中できゅっと締めつけられたように思われ、とつぜん一つの歓喜、すばらしい解放感が感じられた。ゆったりと安らかな気持ちになり、たちまち、その場ですぐに、これからの生涯をアレキサンドリアで送ろうと決心した。船を捨てるのにも大して面倒なことはなく、二十四時間たつと、持ち物全部をもって上陸していた。
 ・・・
『ぼくは、だれがどう考えようとかまわなかったよ。ああいう行動をとったのは、ぼくでなくて、ぼくの中にある何かもっと強いものだったのだ。あたりを見まわしながら、小さなギリシャ人のホテルへでもゆこうと思ったのだが、どこへゆけばそういうものがあるか、分かるような気がしたのだ。どこで、いいかい、そこをまっすぐ歩いていって、それを見たとき、すぐにこれだなと覚えがあった』
『アレキサンドリアには、前に来たことがあったのかい』
『いや。それまでイギリスから一歩も外へ出たことがなかった』
 まもなく彼は政庁に入り、それからずっと、そこに勤めている。・・・」(同)

 それはものすごく印象的な挿話ではあったけど、いつか自分にそれと同じことが起こるなんて、考えてもみなかった。
 以下、サイト中の<創立のいきさつ>にも記していますが、抜粋してもういちど。

「創立者はもともと作家志望です。 
 子供の頃から作家になりたいと思いつづけてきて、今でもそう思っています。
 好きな作家は色々な国にいます。とくにイギリス。
 自分を育ててくれた文学を、生み出してきたそういう国々、イギリスやアイルランドやそのほかの土地に、いつかは行こうと思いつづけてきました。

 はじめてじっさいに行ったのは2004年の夏のこと。
 そこで何に出会ったかというと、なかなか言葉では説明しづらいのですが…

 とくにウェールズとアイルランド、ケルトの地とよばれる当地で、私はそれまで経験したことのないような、たいへん強烈で、圧倒的なインスピレーション(文学上の)を受けたのです。
 行く先々で大地の霊が私に語りかけてきて、5千年前、1万年前にその土地で起こった物語を告げてくれるかのようでした。
 まるで空にスクリーンが張られて、映画のダイジェスト版のように次から次へとだーっとやってくるかのような。…あまりに圧倒的なので、少しこわくなったくらいです。
 けれどもそのとき、・・・これがそれなのだ、いつか自分が書くように定められていたもの、そのために自分が生まれてきた使命なのだ、というはっきりとした感覚を得たのでした。

 ほんとのことなのです・・・こういうふうにしか、説明のしようがないのです。
 当地では別にフシギなことでもないらしいのです。アイルランドで、やはり物語が『やってくる』と言ってたひとに会ったことがあります。

 ともかく、それから日本へ戻って以来、かの地で得た物語群を、私は書きつづけています。
 アイルランド篇とウェールズ篇とあわせて30章ほどあって、いまの時点でやっと全体の半分くらいまで行ったところです。」・・・

 こうしてインスピレーションの波を受けるようになったとき、
「あ、アレキサンドリア!」と思ったのです。

 だからね、やっぱり・・・
 ほんとは、別にアイルランドだけってわけじゃないんです。
 大きく言って<あのへん>。
 ケルトの土地。
 いまの国境なんて、あとから引いたものにすぎないし。
 民族は移動しつづけてきたのだし。
 地霊たちにとっては、大した意味はないと思う。
 インスピレーションは、アイルランドでも来るし、ウェールズでも来る。
 行ったことないけど、スコットランドとかブルターニュでもほぼ確実に来ると思う。

 そんなわけで、ほんとは別に、パトリックスデイだけにこだわるつもりはないんです。
 ウェールズも私にとってはほんとに大切な国。
 ウェールズの守護聖人の祭りとかもやってみたいし、ブルターニュのお祭りなんかもすごい興味ある。
 あ、こんど5月に、都内にブルターニュ音楽やる人たちが来て、<聖イヴ祭>のイベントをやるそうですよ。
 すごい気になってます。

 とりあえずいまパトリックス・フェスをやってるのは、そうだな、いちばん身近だったから、ということになるだろう。モデルがすぐそばにあったのでやりやすかったんです。
 大学に入って都内に移り住んだら、なんだかアイルランドが妙に身近なところになってて。
 あちこちにアイリッシュ・パブがあって、アイルランド音楽のセッションをやってて、はじめ、変な音楽だなと思って興味もなかったのが、気がついたら自分でもやるようになってて。
 毎年3月には原宿のパレードがあって、モーニングセッション→パレード見物→ライヴのはしご、っていうのが恒例になって。
 そのうちアイルランドに旅行して、くだんの<アレキサンドリア体験>があって、ライフワークのものを書くこととアイルランドとが劇的な仕方で結びついて。
 そのうち自分の思いとシンクロするように、つくばでも新しくアイルランド音楽やる人が何人も出てきて、つくばセッションが実現し。
 そのうちパレードも見てるだけではもの足りなくなって、自分もスタッフとして手伝ってみたいなというのと、つくばでもやりたいなというのがほぼ同時に出てきて。
 それで去年、2008年から、勢いだけで強引に始めてしまい。

  正直、当時は認知度の低さとか、人手を集めることの難しさとか、あまり考えなかった。
 なんて言うのかな、
 えっ、この村には診療所もないの?→つくらなきゃ。
 えっ、この交差点、信号ついてないの?→設置しなきゃ。
 えっ、この町ではパレードもやってないの?→やんなきゃ。
 みたいな感覚だった。
 さいしょ、警察に道路使用許可もらいに行って、パレードの趣旨を説明したときも、「で、それは、何のためにやるんですか? 目的は?」と聞かれて、「さあ~、何のためだろうな~」と、考えこんでしまった。

 そんなわけでですね。
 つくばでパトリックス・フェスをやるにあたっても、自分的にはほんとはちょっと微妙な点とか、説明に窮するところというのがあるわけです。
 こういうイベントというのは、地元では「地域の活性化」とか「地元を盛り上げよう」という文脈で紹介されたり、協力していただいたりといった場面が多いわけですが。
 これはほんとにそういうものなのか? 

 土地というもの、身土不二、地産地消、それはものすごく大切で、健全なことだ。
 私もできるだけ地元野菜買ってるし。
 そして、つくばは、基本、とってもいいところだと思ってます。
 だけど、このつくばでセントパトリックス・フェスをやる必然性ってなに?
 アイルランドにキリスト教を紹介した聖人の命日を、何でつくばで祝うのか?
 そう突っ込まれると、正直、答えに窮してしまう。ということに、最近、気がついた。
 つきつめると、結局、・・・私がつくばにいるから。
 ということになってしまう。
 そして、・・・何で私はつくばにいるのか? ・・・アイルランドにいられないから。
 ということになる。

 結局つくばは私にとって、大した必然性はないんです。
 ほかの大方の場所より、だんぜん好きではあるけれど。
 この土地は私に向かってあまり語ってくれません。
 筑波山を歩いても、牛久沼のほとりをめぐっても、大して物語はやってこない。
 この土地はなんだか寡黙で不機嫌で、むっつりと黙りこくっている。
 なんだかさんざん人間に踏みにじられてきて、すねて口をきかない子供みたい。
 なんかそんな感じを受ける。
 ごめんなさいね、決してつくばの悪口言うつもりはありません。
 悪いとしたら踏みにじったやつらの方ですからね。
 でも、私の力ではこの土地のコトバを聞き取れない。
 この土地が何らかの磁波を発しているとしても、結局私のアンテナとはかみあわないのだと思う。

  私の魂はこの土地には属していない。
 正直、向こうにいるときの方が体調もいい。
 旅行から戻って、親戚に会ったら、「外国に行ってるとふつう、慣れない環境やストレスでやせて帰ってくるものなんだけどね。太って帰ってくる人って珍しいね」と言われた。
 ・・・アレキサンドリア!! なのであります。

 私の目下の夢は、アイルランドで享けた物語をアイルランドで、ウェールズで享けた物語をウェールズで、ゲール語やウェールズ語とはいわないまでも、せめて英語で出版すること。
 そして、その土地その土地で享けた物語を演出して、バリリー座の興行をやって、享けたその場所で演劇として再現すること。
 そうしてはじめて、それらの物語を授けてくれた土地の精霊たちに報いることができるんじゃないかと思ってる。
 それが私にとっての地産地消であり、まさに地域への還元なのです。

 私は結局自分の夢のために、つくばの人たちを巻き込んでいるだけなのかもしれないな。
 今のところ人さまに説明するときは、地域の活性化というよりもむしろ、「つくばは国際都市だから、国際親善と文化交流のために!!」という紹介の仕方をしてる。
 それが自分的にもいちばんしっくりくる。
 そういうことがじっさい言える、つくばのあり方に感謝しなくては。
 おかげでたぶんほかの地方都市でこういうことをやった場合より、わりとスムーズに受け入れられている面があると思う。
 つくばフェスのあり方というのは、ほんとに今後の大きな課題です。

  

Posted by 中島迂生 at 01:07Comments(0)初演備忘

2009年06月25日

初演備忘・脚本

 劇団、立ち上げます! って宣言してから今に至るまで、ちょっと振り返ってみる。 ひとつ、思ったのは。
 始めるときは、簡単に考えた方がいい。
 難しく考えてると、いつまでも始められないもの。
 あまたの困難にぶつかるだろうことは分かってても、はじめはあまり考えない方がいい。
 とにかく始めてしまった方がいい。
 投げ出すことはいつだってできる。
 それが自分にとって強い必然性をもっているなら、ごたごたに直面しても乗り越えていかれるだろう。

  こんなに大掛かりになってこんなに大変だとは、もちろん想像もしなかった。
 いちいち振り返ったらまたどっと疲れて次に進む力を奪われてしまいそうだ。
 でも振り返らずに突き進んだら、たぶんまた同じ問題に繰り返しぶちあたるだろう。
 だからどう対処するか考察するために、ぶちあたったごたごたのモデルケースとしても書いておく。

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 ここではまず、脚本から。

「頭の中ではだいたいできあがっているのです。あとはディテールと方法論。」
 2008年6月8日、サイトに載せた創立企画書より。

 イメージはさいしょから頭のなかでできあがってはいたのだが、何しろ脚本を書くということじたい人生ではじめてだった。

日記、2008年10月。
「自作の脚本化といふこと。

 すごくしんどいけど、勉強になるし、いろいろと考える機会となります。
 自作を別のスタイルに書き改めるということ自体は、はじめてじゃない。
 数年前、音楽演奏とのコラボレート企画をやりたいというので友人に頼まれて、散文作品を朗読用に書き改めたことがあります。それで朗読に女性歌手を起用して、2回くらい公演をやりました。

 これがほんと・・・ものすごくしんどかった! 新しい作品を書くよりはるかにしんどくて。そのときは正直、「もう二度とできない」と思ったものだけど。
 何の因果か今そのしんどさをまた、余すところなく味わっている・・・。

 いちど書き上がった散文作品というのはつまり、ガラスのカプセルに閉じこめられたひとつの世界、ひとつの有機体。
 それをまた取り出してきてどうこうしようというのには・・・はっきり言って、健康上何の問題もないわが子にメスを入れて生体解剖するような残酷さがあります。
 
 作品を書き上げることを<脱稿>っていう。
 今までそのなかでもがいて頑張ってまとめあげて、「よーし終わった!」ってそこからぽっと抜け出る感じ。ガラスのカプセルから外へ。
 なのにまたそのなかへ立ち戻ってゆかなくてはならない。
 定着液でその風景をもうしっかりと焼きつけたはずの、もう自分の手を煩わさなくていいはずだったその風景の中へ、また戻ってゆかなくては、もういちど自分の感受性を開いて、その物語を細部に至るまで自分で生き直さなくてはならない。 
 その壮絶な精神的めんどくささたるや!・・・

 ひとつの物語になんて手がかかるんだろう、気が遠くなる!
 私はもう、心を尽くしてひとたび書いた! あとは受け取り手の役割だろう! って叫びたくなる。

 ほかに書くべきものがまだない状態なら、まだいい。
 ところが、いま自分は、ほかの新しい作品でこれから書くべきものがまだいっぱいあるのに!

 ものすごく大変な思いをして、時間もかかっているのに、何か新しいものが生まれているわけではない、物事が進んでいっていないという焦燥感みたいなもの。
 そういう思いにもさいなまれながら。

 それでもやっぱり。
 いままで積み上げてきたものにここで視覚的な表現を与えなくては、ここで人々との共同作業を通じて立体的な表現を与えなくては、という内的な必然性があるから。・・・ 」

同、2008年10月。
「いやはやしかし。
 もの書きたるもの、 どれだけの長きにわたって、ひとつの物語に向き合えばいいのか?
 へたくそなやっつけ仕事を十残すよりは、珠玉の一篇を残すほうがいい。
 けれど、ひとたびきちんと世界の中にそのための場所を確保したら、さっさと捨てて次へ行きたい。
 物語はひとたび書き上げられたら永遠だが、書き手の方は生身の人間だから飽きてくるんだ、じっさい。
 こんな地味で湿っぽい話、もういいよ。って思ってしまう。」

 こういう思いがあったほか、なお悪いことには、のっけからそもそも舞台化の難しい作品だった。
 だから長々と苦しみ、試行錯誤を重ねた。

 たぶん人がそろうには時間がかかるだろうと思って先にせっせと団員募集をかけていたら、脚本ができあがるより先に団員が集まってしまい、結果待たせてしまうことになった。

団員メール、2008年9月4日。
「さて、さいしょにお会いしてからかなりの時間がたってしまった方もいらして、たいへん申し訳なく思っております。
 決して忘れていたわけではありません! 皆さんは私が劇団の将来をかける、大切な方々です。ただ、私の方で脚本化がうまくはかどらなくて、ほんとに悩んでいたのです。 」

団員メール、2008年9月15日。
「すでにお伝えしている通り、私のアイルランドシリーズ第一作のこの作品を、わがバリリー座の初演にかける予定なわけですが。
 皆さま、ご感想はいかがだったでしょうか。

 とりあえず、脚本係の方はというと・・・ あー! じっさいやってみて分かったのですが、ほんとに舞台化むずかしいです、この作品は。  
 今まで放っておいたわけじゃないのです。
 いちどはいわゆる一般的な演劇の形式、ステージをフルに使ってセットがあって場面転換があってセリフのかけあいでストーリーが展開してゆく、というかたちで半分くらいまで書いてみたのですが、・・・なんかどうも、そういう現在の一般的なスタイルにはなじまないようなのです。

 あー・・・のっけからちょっと間違ったかな、別なの初演にすればよかったかな、という思いがよぎったことも。
 たとえば、<大岩>なんかだったらスタンダードな舞台のスタイルでばっちりいけるでしょう。
 あれなどはとてもドラマティックで、ハムレットとか、ラシーヌの<フェードル>とかに通じるものがある。
 (自慢してるわけじゃありません。どうぞ誤解なく。何度も申し上げるとおり、すべてはもらったものですから。)

 だけど、<エニス>の場合、ドラマティックな筋立てというのはあまりなくて、むしろ淡々とした日常の日々が進んでゆくなかで、登場人物の心がしだいに変化してゆく、いわば一種の心理劇みたいなところがあるんですね。
 それをいかにしたらふさわしく表現できるか。

 ゆきづまり、ゆき悩んだすえ、目下の結論は・・・ 一般的なスタイルではなく、例えば日本の能のようなかたちで、シンボリックにやってみたらどうか、と。
 というわけで、目下その方向で検討中。 」

 というわけで、久方ぶりにその道の本を読み返し、能について、自分なりにまとめてみた(左カテゴリ<能について>)。
 いちおう英文学専修だったので、シェイクスピアはひととおりかじっている。
 古典ギリシャ語も少しやっていたので、<オイディプス>の一部は原文でやった。
 けれど、日本語で書くとなると私にとってはまず謡曲だ。
 典雅で、リズミカルで美しい。日本語の最高峰。

 脚本書きにあたって図書館に通い、久しぶりにいくつかの謡曲を読み返した。
 ついでに<錦木>もはじめて読んだ。
 イェイツがたびたび言及しているので、何でそんなに<錦木>にこだわっているんだろうと不思議に思っていたのだ。
 読んで、笑ってしまった。分かりやすすぎ。

日記、2008年10月1日。
「今回は、スタイルという問題でもずいぶん悩んだ。
 
 そもそも自分の散文のスタイルは、読んでくださったことがある方は知ってるけど極端に会話が少ない。ほんとにぎりぎり、必要最低限。だいたい、

 プロット3:自然描写7~8:会話1~2

という感じ。食事でいうと、

 穀物3:野菜7~8:動物性たんぱく1~2

という感じ。(そういえば、じっさい自分のふだんの食事の比率もこんなもんだ。)
 それで自分的にはまったく問題と思ってはいない。

 10歳のとき、「よし、自分は作家を目指すぞ!」って志を立てたときに、まず思ったのは「それにはまず、自然描写を極めなくては」ということだった。それがいちばん大事だと思った。
 それはたぶん、自分がこよなく愛してきた先人たちの作品がそういうのにすごく重きを置いていたせいだと思うし、逆にいえばそういう作品を自分が愛して選び取ってきたのだと思うし。で、その路線を今でも自分は正しいと思って守っている。

 だけど・・・それを脚本化するとなると。
 
 演劇経験者の方が私の作品を読んで、「これだと会話がすごく少ないね。ふつう、台本ってこんなに分厚いんだぜー」みたいなことを言ってくださって、そうだよな、舞台にかけるからにはもっとセリフを増やさなくては、というのでいちどはいろいろ付け加えてみたりもしたのだけれど。

 でも、なんだかしっくりこなかった。
 あとから加えたセリフが力を持ってない。必然性をもってない。
 これじゃ・・・ない方がいいな、と思えてしまった。

 いろんな舞台を見たりもした。
 舞台立てがやけにシンプルで、視覚的に面白みがなく、役者が息もつかずにやたらしゃべってばかりいるようなのが、最近けっこう多い気がする。
 あのシンプルさっていうのは、ひと昔前のバブルのころのいわゆる「スタイリッシュな」ガラスとコンクリの建築みたいな、ああいうのを演劇の世界が追っかけているような気がするのだけれど、気のせい?
 まあ、それはいいとして・・・役者があまりしゃべってばかりだと、なんかうるさいな、と思えてしまったのです。けっしてセリフが多いばかりがいいとは思えなかった。

 また一方の極端で、まったくの無言劇っていうのもいくつか見ました。
 コトバなしにここまで表現できるのかっていろいろ勉強になった。
 けれどやっぱり、全然なしだといまいち話の筋のこまかい部分がつかめないところもあって、うーむ、難しいものだなぁと。

 いろいろ悩んだすえ、自分の場合は、ムリしてセリフを増やさないことにした。
 むしろそぎ落とす方に考える。
 直観にしたがって、ふつうと逆に行く勇気を。・・・ということで、

 プロット・・・可能なら、ゼロ
 自然描写(ナレーション、詩的なリズムをつけて)・・・5~6
 会話・・・1~2
 心中セリフ、独白、回想、呼びかけ・・・1~2
 沈黙(動作、または動作の停止による表現)・・・3~4

 ふむ。こんなもんか。」

スタイルといふ事。 2008年10月14日の日記より。

「Style begins with a sense of who you are and your self-confidence. Kate Spade
 これはどういう文脈の話だか、まったく分からないのだけれど。
 ある日うちの職場の白板に校長の字で書いてあった。なんかの教材。うちのオリジナルでは見たことないから、たぶん誰かの学校の教科書かな。
 でも、いいコトバだと思いません?
 色んなことに当てはまりそうだ。
 ここではおもに、脚本のスタイルの話ですが。 

 5日、予定よりひと月遅れでようやく脚本書き上がり、団員へ発送。
 
 会話を無理に増やさず、地の文を取り入れるスタイルでいくと決めたあとは、すんなりいくだろうと軽く考えていた。もともと散文でも音楽的なリズムを大切にしてきたつもりだし。
 ところがじっさいにやってみると、つくづく思い知る。地の文を、口に出して朗読する脚本にするっていうのはまた全然別物なのだと。
 地の文というもの、難しいなぁ。
 決して原作の地の文のすべてを、ただ適当に切ってばらばらにして並べればいいってものじゃない。 

 まず取捨選択といふことがある。
 本を読んでいる状態では、読者は文章が冗長だとか退屈だとか思ったら適当に読み飛ばすことができる。
 ところが、舞台を見ている状態では読み飛ばしたり早回ししたりするわけにいかなくて、退屈してもずっと見ていなくちゃならない。
 それは、作り手の方が気をつけて、観客を退屈させたりうんざりさせたりしないようにしなくてはならないのだ。
 つまり原文の剪定作業というものがあるイミどうしても必要になってくる。
 もとよりすべてはもらったものであれば、依怙地にすべてを抱え込んだりする気はもうとうないのだが、それにしてもひとたび自分の描いた文章を客観的に見るというのはなかなか難しく、その部分を削った方がいいのか残した方がいいのか、いちいち悩む。

 そのうえ一文がすごく長いのだ私の文章は。・・・いい悪いは別としてね。
 簡潔さを追い求めるのが昨今のはやりだが、私はここ数年ずっとこんな。<じゅずかけばと>という作品を書いた時点で「・・・なんか、一文長すぎ」という意識はあったのだが、「いや、この方がいい」「これでいいのだ」という意見があったりして、だったら無理に変えることもないか、と。

 ただ、同じ音楽性といっても、散文用と朗読用ではやっぱり違う。
 脚本の場合、ひと息分が、ひと息で読める長さでないといけない。
 そしてできたら一文がひと息で読める長さであるのがやはり望ましい。ひとつの文を2回も3回も息つぎして読まれるようだと、聴いてても疲れる。 

 朗読される前提で書いた地の文をじっさい朗読してみたときに、そらぞらしかったり、違和感があったりするのは、どこかに問題があるのだ。

 たとえば、まんま叙述文(最後が述語で終わる)だと、ちょっと間の抜けた感じがすることがある。それは、日常的な文章の型をそのまま舞台という詩的非日常的空間に持ちこんだことからくるずれだ。
 詩的な調子にするには、王道としては倒置と体言どめ。
 これは決して和歌だけの、または日本語だけの修辞じゃない。おそらく世界中で使われているほとんどの言語にあてはまることだろう。
 物語世界に没頭して詩的な気分になっていると、ひとはしぜんこうしたスタイルに傾くものだ。
 それから、私だけではないと思うのだけれど、書いていて興が乗ってくると文語調に近づいてくる傾向がある・・・さらに七五調に。
 やはり、日本語というコトバそのもののなかに、そういう<型>に向かう遺伝子が、脈々と息づいているのだと思う。
 一般的に言って、日本語として朗読したとき映えるのはこういうスタイルだ。

 だが、それにしてもおよそスタイルというもの全般において、適当に加減するということは大切だ。
 なんでもそう。
 たとえば服のスタイルでもそれは同じ。きめすぎはイタイ。
 植木の刈り込みかげんなんかでもそう。ほったらかしでぼうぼうでも見苦しいけれど、きっちり刈り込みすぎてもつまらない。

 ひとつのスタイルで統一してしまうことはいくらだってできるのだけれど、体言どめがひたすら続くっていうのもくどくてわざとらしいし、終始文語の七五調っていうのも肩がこる。
 物語の流れじたいの中での、部分部分による温度差っていうのもあるわけだし、いろいろあっていいのではないだろうか・・・それこそファーガスの流れにも、淵と瀬といろいろあるように?

 そう考えたあげく、今回はふつうの叙述文、倒置・体言どめ、七五調など入り混じって粒のそろわないまま、あるていどのラフさを残しておいた。

 書き上げたあと、世阿弥の謡曲の何篇かをつくづくと読んでみた。
 彼もまた、ほとんどひと世代のうちに色んな意味でひとつのスタイルを作り上げた人だ。
 おこがましいけれど、ふと、自分も世阿弥と同じような道を通って、似たような場所に至りつつあるのではないかと思う。
 自分でスタイル上のこうした問題に悩まされたあとで読んでみると、謡曲のなかでもやっぱり、ふつうの叙述文と韻文と混淆しているのに気づく。ふと思いついて韻文(七五調)のところだけ線を引きながら読んでみると、それがアルファ波のような不規則な頻度であらわれているのが分かる。
 彼もまた、いろいろ試行錯誤していくうちに耳で聞いて心地よいスタイルとして、こんなふうなかたちに行き着いたのではあるまいか。

 ・・・というようなこういうこまかいこと、ディテールや方法論、忘備録として、いちいちまとめておくことにする。
 たぶんほかの演目にも、順次適用してゆけると思うので。
 かりにシナリオライター養成学校とか行ったとしても、たぶんこんなようなことを習うはずだ。
 いや、能のことなんかは習わないかもしれないな。」

 そんなわけで<エニス>脚本のさいしょのバージョンは謡曲調で書いた。
 ト書きに堂々と<地謡>とか書いてある。
 原文前半の長々とした情景描写も、かなり残している。
 口語、文語、韻文がそれぞれ三分の一くらいずつ、不規則なリズムで入りまじる。
(謡曲ってそんな感じなのだ。あのリズムを科学的に分析したら、さしずめアルファ波ということになるのではないだろうか。)
 とにかく、耳で聞いて快い響きであることに重きをおいた。
(・・・が、同時に、これを耳だけで例えば子供なんかが聞いたらあんまり分かんないだろうな、というのも分かっていた。)

 いちばんさいしょのイメージは野外劇だった。それ自体は最終的に実現した。
 ただ、さいしょの設定を書いたときはずっと前衛的な演出で、照明や舞台装置に色々と凝り、そういう装置あっての効果にかなりの重きをおいていた。(自分的にも、いろいろやってみたかったので。)
 それが、技術的な問題でできなかったり、会場の構造的な問題もあって、変更、変更、紆余曲折を重ね、結局はすごくシンプルな、ギリシャの古代劇みたいな感じになった。
 限界に規定された感じだったけど、いま、そこに至った流れをよくよく思い返してみると、実はいちばんさいしょに、心の目に見えていたかたちにとても近い。
 ぐるっとひとまわりして振り出しに戻ってきたような感じだが、自分にとっては一億光年くらいの長い模索の旅だった。

  原作では、おもな登場人物が三人くらいしかいない。
 能ならそれでもいいのだけど、演劇となるとやっぱりもうちょっとにぎやかな方が、お客さんも見ていて楽しいだろう。
 そこで修道士仲間と水の精仲間の場面を入れ、登場人物を増やし、セリフも入れた。
 それでさいごまで役者が集まらなくて苦労することになった。
 でもやっぱり、増やしてよかったと思っている。

 原文では、エルダの耳にとまったのはアマナンの歌ではなく、朗誦である。
 それもそのままにした。
(ただ、具体的に何を朗誦するのか考えなくてはならなかったので、埃をかぶった聖書を久方ぶりに引っぱり出してくることになった。前にも書いたけど。)

 そんな感じでいちおう仕上がったのが去年の9月くらいかな。
 たしか9月か10月あたりから稽古に入った。しばらくそれでやっていた。

 でも、それから色々あって考え直したのだった。
 ひとつには、10月に薪能(楊貴妃)を見にいったこと。
 すっごい楽しみにしていたのに、後半、寝てしまった。
 そういう自分と、あまりに退屈だった舞台との両方にショックを受けた。
 こんなにも世阿弥を尊敬している自分でさえ寝てしまうってことは、やっぱり能というのはよくよく退屈なのに違いない。
 舞台の動きも、話の展開もたいしてないのに、しかもよく聞き取れない語りをえんえんとやられたら、やっぱり誰だって寝ちゃうよなぁ。

 それと同じ頃、舞台が修道院なのでミサのあげ方を研究する必要があって、これまた久しぶりに教会の礼拝に行った。
 これも前にここに書いたけれど、改めて、カトリックのミサって変化に富んでいて人を飽きさせないなって思った。
 つくばのカトリック教会は英語ミサと日本語ミサがある。
 英語ミサの方で英語で詠唱やってるのもびっくりだったが(元来は世界のどこでもラテン語でやってたものなのだ)、日本語ミサで日本語で詠唱やってるのにはもっとびっくりした。
 そしてつくづく考えてしまった。
 教会でさえこうやって時代の流れにあわせ、人に歩み寄る努力をしている。
 そのために己れのかたちを変えることを辞さないのだ。
 しかもその伝えんとする明確なメッセージの力強さは少しも損なわれていない。
 自分もこれを見習うべきではないだろうか?
 逆に言えば、伝えるべき物語の筋立てさえしっかりしているなら、スタイルを変えてもその本質に変わりはないのではなかろうか。

 とかいろいろ考えたすえ、大幅に書き改めた。おもに語りの部分を。
 自分にとっては大切でも、聴く人にとってはたぶん退屈であろう前半と後半の長々とした語りはほぼばっさりカットしてしまい、物語中の語りも装飾的な詩的表現みたいのぜんぶとっぱらって、典雅もへったくれもなく、子供が聞いても分かるように、とにかくシンプルに平易に、口語のみの敬体に統一した。
 いわばエッセンスだけに絞りこんだのだ。
 結果、ラジオドラマのテープみたいな語りになった。
 それが初演でやったバージョン。
 語りを担当してくれた女性は、短くなって楽になったと喜ぶいっぽうで、「前のバージョンの方が好き」とももらした。私もほんとうはそうだったので、うれしかった。

 ともあれ、ナレーションを取り入れたのはそういうわけで能の地謡からの発想である。
 これはよかったと思う。
 今の演劇は一般的に言って、とにかく役者のセリフと動きだけでストーリーを表現しなければならないという思い込みに取りつかれてしまっている気がする。
 その結果、聞き苦しいいわゆる「説明ゼリフ」をえんえん聞かされるはめになったりして、私はあまり好きでない。
 上手にやっても、どこか不自然さが残る。
 それより、ストレートに説明してしまった方がはるかにいい。
 ・・・音響トラブルが持ち上がんないかぎり。

 アマナンとエルダの朗誦のところも考え直して、賛美歌を歌う設定に変えた。
 お客さんの身になって考えてみると、演劇見に来て、えんえん聖書の朗誦を聞かされても困るだろう、歌の方が聞いてて楽しいだろう、と思ったのだ。
 さいしょは、もとからある賛美歌を拝借して使うつもりだった。
 それも前に書いたけど、そのつもりであるとき教会に行ったらたまたま閉まっていて出鼻をくじかれたのと、よくよく考えたらお芝居で使うのに本物の賛美歌を拝借するっていうのはやっぱりちょっと、まじめにキリスト教やってる人に失礼だよな、と思ったのだ。(ついでに神様にも、一応。ただ、この話自体が実は相当冒瀆的であることを私は知ってるので、ここでいまさら偽善ぶってみてもあまり意味はない。)
 それで、結局、自分で曲を書いた。書いてるうちに曲が増えて、全体がだいぶ長くなってしまった。
 これらについては<音楽・ナレーション>の項でまた詳述。

 女の子の役は好評だったけど、この子はかなりあとの方になってから、豆台風のように登場したのだった。
 利発で元気いっぱいの子で、お父さんの手を引っぱってきた。
 もともと子役はなかったのだが、もっとセリフをしゃべりたいというので、それからまたこの子のためにセリフをあて書きしたり、あらたな場面を増やしたりして、また全体が長くなった。
(それで相手役の大人の方がセリフを覚えきれずに苦しむことになってしまった。)

 あて書きそのものはそんなに苦労しなかった。会ってどういう子かすぐに分かったので。
 ただ、それを出来上がった脚本の中に組み入れて打ち直してプリントアウトしてまた人数分刷って配って、というのが手間だった。結局、ぜんぶで4バージョンくらい配りなおしたんじゃないだろうか。

 色々大変ではあったけど、まぁ、あの子が入ってよかったと思う。
 全体、あまり楽しい話じゃないので、あの子の役が適当に風穴をあけてくれて、大マジメにおませなセリフを言うところで笑いがとれたり。全体、ちょっと明るくなった。
 自信たっぷりで演技もうまく、セリフもダンスも覚えるのが早かった。
 セリフ覚えは子供の方がよっぽど早い。

 初演で最終的に上演したのは、そんなかたちだった。
 通して一時間半ほど。 ・・・ながっ!!
 いかんせん長い。こんなに長くなる予定じゃなかった。
 たいした話の展開もないのに、これではお客さんが飽きてしまう。
 2週めには何とか縮められないかと思ってCD音源のあちこちをいっしょうけんめい削ったが、結局、2分ちょっとしか縮まらなかった。
 それが味わい深いと言ってくださった感受性豊かな方もいるが、それに甘えてはいけないだろう。
 ほどよい長さというのが今後の課題だ。

 初演の脚本が書かれた経緯は、そんな感じだった。
 さいしょだからしょうがないかもしれないが、いかんせん、要領悪くじたばたもがきすぎ。
 次からは、もう少しさくっといきたいものだ。

  

Posted by 中島迂生 at 01:28Comments(0)初演備忘

2009年06月25日

初演備忘・音楽/ナレーション

音楽ではほんと四苦八苦したので、ウルトラ長くなっちゃいました。

 <エニスの修道士>クレジット(演奏順)

 1、The Flame of Jah/ヤハの炎(テーマ曲)
                words originally from Song of Solomon 8:6,7 雅歌第8章6,7節(聖書より)
        words arranged&music by Ussay Nakajima (以下"U")
        コーラス by 劇団バリリー座 guitar by okayan 
 2、R.Fergus(BGM) music&guitar by U
  3、Innocence(ダンス曲1)
        music&piano by U
  4、For the Sake of Old Decency/Peata Beag mo Mhathar(BGM)
                traditional, arranged&tin whistle by Michael Tubridy from the eagle's whistle
                1978 Claddagh Records Ltd./1978 Woodtown Music Pubications Ltd.
  5、The first day of Spring(BGM) music&fiddle by Tommy Peoples from The Quiet Glen/An Gleann Ciuin
                1998 Tommy Peoples Publishing, Toonagh & Ennis, Co.Clare.
  6、Psalm#1 (賛美歌1)words originally from Psalm 1:1-6 詩篇第1篇1-6節(聖書より)
        words arranged&music by U
                コーラス by 劇団バリリー座 gutar by okayan
  7、Rolling in the Barrel, The Tap Room & The Earl's Chair (BGM)
                traditional, concertina by Mary MacNamara
                from Mary MacNamara Traditional music from East Clare  
                1994 Claddagh Records
  8、Psalm#23 (賛美歌2)words originally from Psalm 23:1-6  詩篇第3篇1-6節(聖書より)
        words arranged, music&guitar by U
                コーラス by 劇団バリリー座
 9、Mischief Anneal(ダンス曲2) fiddle by Dana Lyn, guitar by Junji Shirota from Up She Flew
 10、Moonlit R.Fergus (BGM) traditional, fiddle by Martin Hayes
                (未詳、調べ中)
 11、The Humours of Tullycrine (BGM) traditional, concertinas by Michael Tubridy from the eagle's whistle
                1978 Claddagh Records Ltd./1978 Woodtown Music Pubications Ltd.
  12、Psalm#38 (賛美歌3)words originally from Psalm#38:1-11 詩篇第38篇1-11節(聖書より)
        words arranged, music&guitar by U
                コーラス by 劇団バリリー座
 13、The Flame of Jah/ヤハの炎(インストBGM)
        music&fiddle by U  guitar by okayan  
 14、Psalm#51(賛美歌4) words originally from Psalm#51:1-8 詩篇第51篇1-8節(聖書より)
        words arranged&music by U
                コーラス by 劇団バリリー座 guitar by okayan
  15、Reqiem(レクイエム)
         words originally from 2Corinthians#5:14,15 コリント第二第5章14,15節(聖書より) 
                words arranged&music by U
                コーラス by 劇団バリリー座 guitar by okayan
  16、Eternity(ダンス曲3)music,fiddle&piano by U

  ナレーション by Junko Ohono

  recorded & mixed by U+okayan 2009

●曲書き(歌もの)

 <エニス>劇中で使う曲の大半は、自分で書いた。
 結果としては。
 歌ものと、ダンス音楽と、BGMと。

 書いたっていうか、せっぱつまって書かざるをえなくなったというのが正直なところ。
 でも、よく考えてみると、宗教上の理由で云々というほかに、ひと様の書いたのを使うと、将来、正式に興行するとき著作権関係でごたごたするのは必至なわけだ。
 だから、できることなら自前で調達できたほうがいいに決まってる。
 なので今回、結果的に曲書きができるようになったのはよかったと思う。
 その経緯はあまり楽しいものじゃなかったけど。
 
 うちの劇団にも、かつては音楽担当というのがいたのだった。
 ものすごく熱心で、やる気満々で、才能にあふれたヒトだった。
 自分が音楽苦手だったし、技術もなかったから、すごくありがたかった。
 ほとんど何もかもひとりでやっていたから、あらゆる分野でやることがどっさりあったのだ。
 だから少なくともこの分野に関してはこの人に任せられると思って心強かった。
 ところが、なんか知らないけど急にいなくなってしまったのだ。
 で、仕方なく、何もかも自分でやるしかなくなった。
 おかげで、死ぬかと思った。
 黙っていなくなる人ってほんとイヤ。 

 曲書きはできないはずだったのだ。
 だいたい音楽なんて、私のいちばん苦手とするところだ。いちばん才能に恵まれてない。
 小さい頃から、絵とか文章だったらとくに苦労もなく、自分のかきたいを思うものをかくことができた。
 ところが音楽となると!
 どうやっても、曲を「書く」なんてことはできなかった。
 そんなことはありえないと思ってた。逆立ちしても不可能だった。
  はじめて、物語と同じように曲が「やって来る」という感覚を経験するようになったのは、実に去年くらいのことだった。
 
 ひとの書いたメロディーに詞をつけるということはけっこう前からあった。
 けれど、それらも、そのあと自分で書いたわずかな曲も、すべて英詞だった。
 なぜだか日本語の詞っていうのは、私にとってはとんでもなく難しい。
 それは私が毛唐かぶれだということではなく、英語ができるということではなおさらなく、それはただ、私の折り紙つきの頭の固さということだった。
 日本語の調子はうまく十二音階にのらないと私は信じていて、その文部省唱歌とかが百年前に乗り越えたところを、いまだに乗り越えられずにいたのだ。
 だけど、日本語で芝居をやる以上、歌も日本語でないと変だろう。

 そんなわけで、たいへんなことになった。
 曲書きをしなければならない。しかも日本語で。

 今回は聖書の朗誦にそのまま曲をつけるだけだから、詞の内容に頭を悩ませる必要はなかった。
 問題はスタイルだ。
 口語の賛美歌というのはどうにもかっこ悪くて、あまり威厳があるとは私には思えなかった。

 教会から帰って、シャワーを浴びながら、考えた。  
 私に曲を書けなんて、豚に向かって木に登れって言うようなものだ。
 しかも日本語でとなると、これはもう、豚に向かって逆立ちで木に登れというようなものだ。
 だけど、こうなったらやるしかない。腹を決めた。
 そのとたんに、日本語の詞がメロディーにのって「やって来た」。頭の中に聞こえた。
 それがアマナンが毎晩のように川ほとりで歌う詩篇第1篇(<幸いなるかな>)。

 そうだ、文語で書けばいいのだ。
 そこに気づいて、ひとつ、難関突破。
 そのあとはもう、曲書きに関してとくに苦労することはなかった。
 私は何種類かの聖書を手元において、いちばん参考にしたのは日本聖書教会の文語訳だが、それらを参考に、
 選んだ詩篇のそれぞれの章の内容をざっとした文語詞のかたちにまとめていった。
 堰を切ったように、メロディーは次から次へとやってきた。
 あとは詞とメロディーがうまく合うように、こまかいところを整えてやるだけだった。
 しかも、だいたいはもとから合っていた。詩篇のテキストじたいが、曲をつけやすいスタイルなのだ。
 曲をつける過程で、詩篇がもともと、文字通り歌として歌われていたのだということを身をもって実感した。
 そう、ダビデも竪琴弾きだったのだ。

 作曲する人の感覚っていうのが、ちょっと分かるようになった気がする。
 自分の中にどれだけたくさんの調べの記憶がたまってからはじめて自分でも書けるようになるか、というのは人によって違うんだと思うけど、自分の場合、今まで自分の中にたまってきた調べたちが熟成して、時が満ちたのかもしれない。
 物語を書くのと同じだな、やっぱりね。
 自分で書くんじゃない。「やって来る」ものなんだ。
 ひとたび堰を切ったように「やって来」だすや、次から次へとあふれんばかりに、探してる調子じゃないやつなんかもどんどんやってきて、「あ、ごめんキミはいまちょっとオヨビじゃないから向こう行ってて」みたいなこともあった。
「やって来た」曲だと、「ほんとにこれでいいんだろうか?」っていう迷いがいっさいない。
 一発で、「あ、これ。決定!」みたいな。
 こういうの送ってくれてる存在っていうのは、アイルランドであんなふうに豊かに物語をくれたのと同じものなんだと思う。  

 賛美歌は、はじめは2曲もあればいいだろうと思っていたが、結局全部で5曲になった。
 前半で歌う楽しい2曲、それと釣りあいをとるために、後半で歌う暗い2曲、それからさいごの葬式で歌うレクイエム。
 それに雅歌からとった主題曲も含めて、歌ものはぜんぶで6曲になった。

 楽しいほうの2曲は、おだやかな詩篇第1篇と元気いっぱいの23篇。超有名どころだ。
 23篇の<死の陰の谷間>という表現はあまりにも有名で、「想像を絶する大変な試練のとき」みたいな意味でほとんど一般名詞のようになっている。
 フランクルの<夜と霧>では、中ほどの、著者がアウシュヴィッツにいたときの章が「死の陰の谷間」という題だ。
 「私の杯はあふれる」という表現は、リンドバーグ夫人が<海からの贈り物>のなかで引用している。
(もちろん、彼女だけが引用してるわけではないけど。)

 この2曲は、エルダと出会う前の、悩みを知らない頃のアマナンが礼拝で仲間たちと歌い、夜の岸辺でも歌う。
 実は両方とも、神の恵みを川の流れや水辺に例えた一節が入っている。
(「そは 岸辺に茂れる 木のごと / 日ごとに 結ばん ゆたかな 実りを」、「主は わが魂に 命のいぶき与え / 憩いのみぎわに いざないたもう」。)
 ところが、神の恵みを称えるにふさわしいその川ほとりで、アマナンは得体の知れぬ魔物に出会い、誘惑され、ついには命を奪われることになる。(キリスト教的見地から見るとそういうことになる。)
 だからここでアマナンが(前途のそんな顛末も知らず)無邪気にそんな歌を歌うというのは、客観的に見ると強烈な皮肉なのだ。
 そのことに私は稽古で言及したことはないし、しれっとして気づいていないふりをしているが、もちろん分かってやっている。

 暗いほうの2曲は詩篇第38篇と51篇だ。
 38篇はいちばん暗いどんづまりみたいな曲。マイナーコードがつづき、のろのろとなかなか進まない。
 51篇も暗いが、わりとアップテンポで、ここまでくると一種ふっきれたような感じがある。
 これはダビデがバテ・シバとの姦淫のあと、預言者ナタンに咎められて、神に許しを乞い求める祈りのところ。
(これがカトリックで<ミゼリコルド>っていう定型の祈り文句になってることは、あとで知った。)
 つまり、アマナンの近い未来を暗示しているわけだ。

 ベタでいやみだが、これは旧約聖書にというより、いちおうナサニエル・ホーソーンの<緋文字>に敬意を表して。
 <緋文字>でも部屋の壁にこの場面のタペストリが掛けられて、ストーリーを暗示していた。
 それ自体けっこうベタでいやみなんだけどね。
 アマナンのアーキタイプは明らかにディムズデールだ。
 もっともディムズデールの敬虔な卑劣より、アマナンの純朴な愚かさの方を私はだんぜん愛する。
 ともかく、こっそり符牒としてこれをもってきた。
 そこまで気づいて聴いてる人はたぶんあんまりいなかったと思うけど。

 アマナンの「私の心が罪を犯すことを欲していたなら・・・」というセリフは、そのまま<緋文字>の
 "Penance, enough! But penitence, none!..." というコトバとひびきあう。
 鏡映しのように、各々の心の矢印はちょうど真逆を向いてるんだけど。
 ともかく、自分の心を自分で操ることの不可能さ。
 ひとたび自分でそれを経験した人間が書いてるから、あのせりふは力をもってる。浮いてない。
 私はアマナンだったのだ。彼の苦しみの方が、よほど近しい。
 別に道ならぬ恋に苦しんでいたわけではないけれど。
 文学への、かな。

 レクイエムは、まんまじゃないんだけど、コリント第二のあのへんがキーワード。
 「もはや己のために生きず・・・」っていう言葉だけが頭に残ってて、あとは適当に書いた。
 いま、出典はどこかなって、さんざん探してしまった。コリントだったのね。
 いちばん崇高でうつくしいメロディ。
 よくこんなに美しい曲が、私のところへ来てくれたものだと思う。
 
 しかし、とっくにキリスト教を捨てた私みたいなのが、今になって、お芝居のためとはいえ、こんなにも時間とエネルギーを費やしていっしょうけんめい賛美歌まがいを書いてるという皮肉。
 出所さえ伏せれば、りっぱにほんとの賛美歌として通用しそうだ。
「神はご自分の敵の口から賛美を備えられる。」
 なんか、そんなようなコトバが聖書になかったっけ。
 げに、音楽ってやつは、一筋縄でいかない。
 戻る気はないけど、吝かでもない。
 利用されてもいいよ。
 偉大な敵だもの。多くを与えられてきたもの。
 きっぱり捨ててから、じっさい、そんなにキライじゃなくなった。
 その美しい側面が、素直に目に入るようになった。
 ♪Lam of God, you take away our sins
   Won't you grant us your peace, your ever-lasting peace...
  つくばのカトリック教会の英語ミサで、聖体拝領のときいつも歌われる曲。
 私が育ったのはカトリックじゃないけど、(だからこそ?)この曲、大好き。きくたび、いつも涙が出てくる。

 で、話戻ると、以上5曲の賛美歌、すべてギターでバッキングつけた。
 ふつうならパイプオルガンなんだろうが、あの時代のアイルランドにパイプオルガンあったとは思えない。
 ギターならなおさらなかっただろうが、でもブズーキに似たような楽器はあったんじゃないだろうか。
 実は、教会の英語ミサでギターで歌ってて、すごいカルチャーショックだったのだ。
 ぜんぜん軽薄な感じしなくて、気品ある感じだった。
 妖精のダンス曲の方、ピアノが多かったから、コントラストつけるのにいいかなと思った。

 それに加えて雅歌からとった主題曲。
 これも、もとは朗誦するだけのつもりだったものに曲をつけた。
 原文でもエピグラフになってるソロモンの歌の一節は、物語といっしょにやってきてしっくりはまった。
 セリフにもあちこちで聖書からの引用が入ってるが、これらも全部そう。
 考えるまでもなく、書くそばからポンポンやってきてしっくりはまった。

 我を胸に置きて 焼き印と刻め・・・
 あの一節は、とりわけ奇妙で印象深い。
 ここの「愛」は明らかに男女間の愛を指しているのだが、それを文脈的には肯定しているのに、
 「死のように」「地獄の火のように」とネガティヴな形容を連ねたあげく、
 さいごに「ヤハの炎」と、なんだか罰するような、それでいておごそかな宗教的なイメージにまで昇華しておわる。
 その奇妙な両義性。
 それが水の精エルダの(キリスト教的見地からした)信用ならぬ両義性とひびきあう。
 ペイガン。異邦人。
 愛する男を(うっかり間違って)殺してしまっておいて、悲しみ、だが宗教的な意味で悔いてはいない、それでも岸辺で千年も賛美歌を歌いつづけ、やがて「天使」と呼ばれるようになる。
 こういう、コウモリとかカモノハシみたいな、何ともアイルランド的な割り切れなさを音楽的にも表現してみる。
 詞は聖書からだが、曲調は賛美歌じゃない。
 短調だがアップテンポで力強い感じ。
 これは妖精たちも含めた全員のコーラス+ギターでさいしょとさいごに、そしてフィドル+ギターのBGMで中ほど2箇所で使った。
 コーラスのバックにもフィドルを入れたかったのだが、ボーカルとの兼ね合いで、キーの問題で断念。
 そこは今でも心残りだ。
 フィドルバージョンはコーラスバージョンとは別のキーでやった。
 ここまでが歌ものの話。


●インスト関係

 ダンス曲は後に記す Mischief Anneal をメインに、あとの2曲はそれを両脇から盛り上げるように書いた。
 さいしょの Innocence はひたすら明るく楽しく、さいごの Eternity は<永遠の命のかなしみ>みたいな。
 こっちはピアノをメインに、フィドルを重ねたが、ビブラートつけて長々と弾くのがすっごい難しかった。
 ふだんやったことなかったから。
 でも、頭の中でそうやって聞こえてくるのだ。何とかそれを再現しなくてはと思って。

 そう。じっさい、さいごまで苦しんだのが、フィドルの長音。
 これはほんとに、つくづく思った。
 そういう練習を、今までしたことがなかったわけですよ。
 その必要を感じたことがなかったから。
 アイリッシュフィドルを弾いてる限りは基本、ダンスチューンが弾ければいいんで、長音をきれいに出す練習とかって、ほんとにやったことがなかった。
 けど、頭の中で聴こえてくる Eternity は、ビブラートかかったフィドルのしずかな底音がひびいていた。
 あれを弾かなきゃ。
 必至に練習したけど、一朝一夕でできるものではない。
 うまい人はまわりにいたんだけど、すごい忙しそうなの分かってたから、こんなの頼むの申し訳なくて。
 ほんとは弦に沿って縦に指を滑らすらしいのだが、どうやってもサマにならず、
 えーい とにかくそれらしく聞こえりゃいいや! ってことで、エレキギターにビブラートかける要領で弦を横にひねってみた。(オソロシヤ。)

 ビブラートの波って、ひとつの音に均等にかけるのではそれらしく聞こえないのね。
 さいしょは小刻みに、それがだんだんと、水面に波紋が広がるようにゆっくりと揺れ幅が大きくなっていく。
 そういう感じが出るように、苦心惨憺、色々研究した。

 でも、何といってもいちばん難しいのは開放弦の長音だろう。
 これはビブラートすらきかない。
 The Flame of Jah の長音のいちばん目立つところが、運悪くA音の長音で、しかも繰り返し4度もつづくのだ。
 ここはほんとうに、さいごのさいごまでジタバタした。
 何とか最低限、ひとに聞かせられるものを仕上げなきゃと思って、土壇場まで何度も録り直したんだけどいいものが録れず、結局、当日の明け方近くまでかかってあまりひどいところはソフトで処理して仕上げた。

 BGMでほかに書いたのは、#38 の伴奏を除くと、ギターインストのR.Fergus だけ。
 日の光におだやかに流れる川べりの情景。
 耳にひっかからない人畜無害な曲で、Psalm#1のインスト版みたいな感じ。
 (Psalm#1 と #23 はピアノでインスト版をつくったが、結局使わなかった。)


●レコーディング

 そういうわけで曲書き自体はそんなに苦労しなかった。
 大変だったのはレコーディングとミキシング。
 6曲の歌ものは、自分で書いたのがコード進行をさいごまで覚えられなくて、ギターのバッキングをうまく弾けなかった。
 フレットを見ながらなら弾けるのだが、覚えていないのでスコアも見なければならず、両方同時に見られなかったのだ。
 こんなことで苦しんだのは初めてだった。
 結局時間が足りなくて、数曲のバッキングはひとさまに頼むことになった。

 で、それをバックに、団員さんたちに歌を覚えてもらって、歌ってもらってレコーディング。
 これがまた容易なことじゃない。
 修道士役が10人も20人もいれば、上演のときその場で歌ってもらうのでいいんですけどね。
 3人とか4人しかいなかったものだから、修道院のミサで大勢で歌ってる感じを出すために、事前にレコーディングした音源をいくつか重ねる必要があったのだ。

 歌を覚えてもらうために、6曲分の歌詞を打ち、スコアを書き、人数分打ち出して配って、あとは毎回稽古で歌ってるうちに覚えてもらえるんじゃないかと、さいしょは思ったんですけどね。
 それがなかなかうまくいかない。
 なかなか全員そろわないし。その場だけだとこまかいところとか覚えられないみたいだし。
 で、自分がどうやってセッションの曲を覚えたかとか、考えてみた。
 セッションのたびにMDをもっていって、録音して、家で聴き直して覚えていたんですよね。
 であれば同じことを団員の人たちができないわけがないって、さいしょは考えた。
 で、各自、録音するものを持ってきて、稽古のときに歌うのを録音して覚えてくださいって、よびかけた。
 でも、いろいろ問題があって。
 マイクを持ってきてくれたのはいいけどハオってしまったり。
 空のCDを一枚ぺロッと持ってきて「はい」って渡されたり。(!!・・・あぁ、そういうことになっちゃうのか・・・。)
 なかなか全員そろわないから、一人くるたびに歌いなおす羽目になったり。
 こりゃもう、まず自分で歌ってCDに入れて全員に配って、それで覚えてもらうしかない! って分かったのが、もうけっこう日数的にも差し迫った頃で。
 焦れば焦るほど、余裕のなさが音にも出てしまって、なかなかいい音源がとれず。
 きつかった。死にそうになってたのはそのころ。

 それから場所と日時を設定して集まってもらい、ギターのバッキングに乗せて全員で各曲2回ほどずつ歌ってもらってレコーディング。ここでもひとさまのお世話になった。
 忘れもしない3月14日。公演一週間前だ。
 インストや別バージョンも含めて結局8曲くらい入れたかな。
 何とかかたちになるテイクを仕上げる苦労に加え、機材関係の技術面でのごたごたがとんでもなく大変なことになった。
 その晩、結局朝までかかって各曲のミキシングを仕上げ、すでに仕上がっていたナレーションやBGMとともに順番どおりにCDに入れて、いちおう最終版ということでまた人数分焼き、それを携えて、15日最終野外リハへ。
 そしたらこんどは機材のトラブルでCDが聞けなくなるし。
 やっと復旧したと思ったら、タイムリミットでみんな帰ってしまうし。
 直前のバタバタ具合ときたら、そんな感じだった。


●BGM
 
 まだ、あとのBGMとナレーションのこと書いてなかった。
 上記以外のBGMは基本、ひとさまのをお借りした。
 ぜんぶクレア出身で、昔からのスタイルを守るそうそうたるミュージシャンたち。
 トミー・ピープルズだけは北部だけど、ずっとクレアに住んでたし。
 著作権の問題はあるのだろうけど、なんかクレアを舞台にした話なら、こういうの使わないほうが逆に失礼な気がした。
 でも、正式に興行するなら許可とらなきゃいけないだろうな。
(どうやってとるのか??)

 これらの曲もぜんぶ、ナレーションを書いてる時点で頭の中に聞こえてきた。
 どの曲をどこに持ってくるか、そんなに悩まなかった。
 2,3曲候補があって、どっちにするかで迷ったのはあったけど。
 笛、フィドル、コンサルティーナとバリエーションつけた。
 なかでもメインは、アマナンとエルダの出会いの場面で繰り返し使ってるマーティン・ヘイズ。
 これは、アイルランドから戻ってきてから、聴いたとたんに「あ、<エニス>の曲!」って思った。
 これがいちばんさいしょから決まってた。
 Mischief Anneal よりずっと前、劇団構想とかなんもなかった頃のこと。
 この曲の、Aメロは月光のファーガス川、Bメロは茂みの後ろから、エルダがやさしく呼びかける歌声なのだ。
 
 アマナンがはじめて登場する場面ではトミー・ピープルズの The first day of Spring。
 これももとから、頭の中でなっていた。
 ナレーションとあわせてみたら、「アマナン」というときの調子と曲の出だしとが全く同じ調子なのだ。
 きいてみると分かるんだけど。
 なんにも加工してないのだ。
 やっぱりもとからここに収まるべく、決まっていたのだと思う。


●ナレーション 
 
 ナレーションは相当前から練習してくださってたようで、「満を持して」という感じのレコーディングだった。
 それでもトラブルはあった。
 市内の公共施設を利用したのだけれど、録音室なのに防音になってなくて(!)となりが空き室なのを見計らって予約を入れなければならなかったり。
 機材がいちおうそろってるのだけど動かず、スタッフの人も分からず、「調子が悪いのであまり使う人いないんです」って、おいおい。
 結局持ち込みのMDで録ることになった。
 暖房をとめても、上に空調設備があるようでノイズが入った。(あとからソフトでこのノイズを処理しようとしたんだけど、結局できなかった。) 
 いざ始めてみると、ページめくるときに音が入ってしまうので、台本のホチキスを外してばらばらにしてやる必要があることが分かった。
 息継ぎをするたびにお腹がグルグルッとなってしまい、これにはほんとに困った。
 ご本人いわく、お腹がすいてるわけではない、さっき水飲んでしまったのがいけないんです。
 息継ぎしてグルッとなるたびに、吹き出さないように二人でガマン比べのようにまじめな顔を作ってつづけたが、ときどきどちらかがこらえきれずに吹き出してしまい、そうするとはじめからやり直さなければならなかった。
 ところどころ、とちゅうで声がかすれたり震えたりしているのは笑いをこらえているからだ。
 BGMでかき消されてはいるけれど、実はところどころ「グルッ」という音が入っていたりする。
 何度やり直してもどうしようもなかったのだ。

 ぜんぶ合わせて15分くらいのもので、一時間足らずですべて完了。
 ナレーション、はじめてだそうだが、うまいもんだなぁと感心してしまう。
 あまり感情に走ってなくて、大げさすぎないところがいい、と私は思っている。
 どちらかというと淡々としてるけど、この方がいい。 
 ひとりでカラオケボックスに通って朗読の練習を重ねてくれていたらしい。
 こういう人がうちの劇団に来てくれて、ほんとにありがたい。
 ちゃんとしたスタジオで録っていたら、さらにすばらしいものになってただろうに。


●ミキシング

  歌曲、楽曲、ナレーション+BGM、すべての音源のミキシングに使ったのが、Audacity というフリーソフト。
 10年前にMTRを使いこなすのに挫折して以来、ミキシングもはじめてなら、ミュージックソフト使うのもはじめてだ。
 とにかく、何もかも自分でやるしかないのだ。

 その少し前、生まれて初めてCDづくりができるようになっていた。
 それはMD音源をラインでPCにつないで、ウィンドウズ・メディア・エンコーダーで一曲ずつファイルに取り込み(ファイル形式はWMP)、それをウィンドウズ・メディア・プレイヤーに貼りつけてCDに焼く、というやり方だ。
 これもできるようになるまでにさんざん苦労して、まる一ヶ月くらいかかった。

 けど、いま Audacity というこのソフトはWMP形式のファイルを扱えなくて、WAV とかに変換しなくてはならない。
 のっけからひと山越えなくてはならなかった。

 Vector から変換ソフトをダウンロードできるよ、って教えてもらった。
 だけど、私のPCはなぜか、ダウンロードできないのだ。
 Vector は軒並みアウトだ。たぶん、PCの設定をどっか変えればいい話なのだけど。
 できないことが、これまであまりにさんざんあったので、「それにはこういうソフトを・・・」って言われただけでもうアレルギー反応を起こしてしまう。
 パブロフの犬的に、「それにはソフトを」=「さんざん苦労して結局ダウンロードできない」になっちゃってる。
 ・・・結局、ぜんぶMDから直接 Audacity に読み込み直した。
 その時点ではまだ、これからあらたにレコーディングすべきものの方が多かったし。 

 でも、この山をひとつ越えると、あとはぐいぐい進んでいけた。
 Audacity、使ってみたらすごい使いやすくて、フェードイン/アウトなんかも簡単だった。
 フォトショップずっと使ってたから、なんとなく感覚的に分かる部分が大きかった。 
 自分の手でナレーションにBGMを重ねていけるのは感動的だった。
 曲のどこでナレーションが入るか、どのタイミングでフェードアウトさせるとか、こまかいところを自分で作りこめるのってすばらしい。・・・湯水のように時間食うけど。
 すごく微妙なもので、絵の構図とか、生け花をやるのに似たところがあるかもしれない。
 ただ、ノイズの除去というのができることになってるのだが、どういうわけか私がやってみた限りではできなくて、それがちょっと心残りだ。 

 Audacity でWMPは扱えないけど、ウィンドウズ・メディア・プレイヤーでWAVは扱えるので、できあがったファイルを並べてCDに焼くときは、Audacity のプロジェクトファイルをWAVに書き出して、それをひとつずつウィンドウズ・メディアに貼りつけてCDに焼いた。
 だから、はじめてのCDづくりで覚えた技術はムダにならなかったわけだ。

  ミキシングで、さいごのさいごまで苦しんだ問題。
 MTRでレコーディングしてもらったコーラス音源を私のPCに入れるときに、その場でミキシングして調整したものを一曲ずつのファイルとして入れてもらってたのだった。
 トラック別にひとつずつ音源を入れるということも当然できたし、ほんとはその方があとから調整ができてよかったのだが、何しろ8曲もあったのでいちいちそんなことやってる時間がなかったのだ。
 ところが、それをCDに焼いて野外会場にもってって、じっさいリハやってみてはじめて、バランスが悪く、ギターが強すぎてコーラスのボーカルが弱すぎることが分かったやつがあった。あろうことか、いちばんさいしょのテーマ曲 The Flame of Jah だ。
 もう日にちが差し迫っていて、これからまたエンジニアさんに会ってMTRからボーカルだけ取り出してもらってる時間などなかった。
 私はせっぱつまって懇願した・・・ボーカルのファイルだけ、メール添付で送ってくれませんか?
 親切なエンジニアさんは圧縮して送ってくれました。
 開いたら、PCが勝手にフリーの解凍ソフトを探してきて、その場で一瞬で解凍してくれて、自動的にWMPで再生になって聞けた。
 ところが、保存されたのがどういうわけか圧縮状態のまま保存されていて、Audacity で再生しようとすると、そのまんま再生されてしまう。(耳をつんざくような<ガーッ!>という一瞬で終わってしまう。)
 これは一体、どうしたことだ。
 何度やってみても同じこと。
 それが公演の二日前くらいのことで、どうしよ~!! と絶望してた。
 しかし、窮すれば通ず! 閃いた。
 そう、開くとき一回だけは、WMPでふつうに聴けるわけだよ。
 そしたら、ラインでMDにつないで録音状態にしておいて、一回だけ再生されるその音源を出力でいったんMDに取り出してしまい、それを再び今度は入力でAudacity に取り込んだらいけるはず!!
 荒療治だったが、みごと成功!!

 こうしてもとの音源にボーカルだけの音源を重ね、ボーカルが強くなってバランスよくなったコーラス音源が無事完成!! で本番に臨むことができたのでありました。・・・ふ~っ。

 そんなこんなで、結果として、今回の初演を経るあいだにおかげさまで鍛えられて、曲書き、ミキシング、CDづくりができるようになりました。死にそうになったけど。

 つくづくと、学んだこと。
 CDは、さいしょに、早めに仕上げとくべし。これは、自分でできることなんだから。
 ほかの役者さんがそろうまでできないってコトじゃない。

 音楽ってほんと、妥協しないで納得いくものをつくろうとすると、膨大な時間を食う。
 直前にやってることじゃない。
 あまりに時間がかかるんで、早くから始めても、じっくりやってると結局直前までかかっちゃうかもしれないな。
 今後の課題だ~。

  

Posted by 中島迂生 at 01:47Comments(0)初演備忘