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2009年11月08日

マクガハンの妻の物語(普及版)


愛蘭土物語 クレア篇7
マクガハンの妻の物語 Story of Mrs. McGaghan
ミルトン・マルベイの物語(普及版)

2009 by 中島迂生 Ussay Nakajima


 石垣のそばでうそをついたり、人を呪ったりしてはいけない。
 縁起が悪いからね。・・・

 アザミやかもじ草にうずもれてひっそりと道を守りつづけている石垣には、石垣の妖精がいる。
 小さい野ネズミや鳥たちの守り手、悪いやつが通ろうとすると道をふさいでしまったり、別の場所に行く道に変わってしまったりする。

 ふだんはしれっとして石垣の隙間で、石の一部になってうとうと眠りこけている。
 それでも、誰が通ったかちゃんと知っている。
 旅人は見られていると感じる。
 灰色の毛に覆われて、遠目に石と見分けがつかないが、じっと見つめているとときどき動くので分かる。

 ずんぐりとして、狼のようにとがった耳をもち、長い、黄色い目をしている。
 鞭のように長いしっぽがあって、踏みつけられると何でも約束して自由になろうとするが、踏みつけたやつはあとで手ひどいしっぺ返しを食らう。

 人々がさいしょに石垣を築いたときから、そいつはずっとそこに住んでいる。
 石垣が壊されるとどこかへ行ってしまう。・・・


             *


 クレア州海ぞいの小さな町、ミルトン・マルベイ。
 今でこそウィリィ・クランシィの名前で有名になったが、いまも一年の大半は閉じた輪の中をめぐるように、人々の暮らしは淡々としずかだ。
 その周囲には独特のもの淋しい、それでいて奇妙に人を惹きつける荒涼とした風景が広がっている。

 曇り空の下で風に吹き分けられるメドウ。・・・
 灰色の空を背景に、吹きちぎられる白い煙突のけむり。・・・

 百年前よりもっと前、海ぞいのこの町が、いまよりずっと貧しい、ほんの小さな村だったころから、その頃からこの土地は愛されていた。

 この土地への強い愛と誇り。・・・
 たえず潮風に吹きさらされて、風にたわんだその形に育ってしまった木のように、辛苦そのものが習い性となってしまったかのように。
 貧しさに疲れ、労働にすり減らされながら、なおも生涯をかけて彼らはこの土地を愛した。・・・
 これはそういう人々の物語だ。・・・

 
 昔、その村のはずれに住んでいた、貧しい農夫とその妻があった。
 子供はなかったが、ふたり力を合わせて堅実に、幸せに暮らしていた。
 ダニエルとレーナ・マクガハン、なにかそんなふうな名前だった。

 あるとき、妻の方が原因不明のふしぎな病気にかかった。
 体じゅうに苔のような白い斑点ができて、高い熱にうなされ、身を起こせないほどに弱って床に就いてしまった。
 町から医者を呼んで診てもらったが、こんな症状はだれも見たことがなく、だれにも手を打つすべがなかった。

 農夫は絶望に打ちのめされた。
 ある日、野良から戻ったとき、自分の家の石垣のところで何の気なしに立ちどまり、思わず溜め息をついて独り言を言った。
「ああ、神さま。どうしてこんなことになったのでしょう。
 まじめに働く者には、よくしてくださる方だと思っていましたのに。」

 すると、それを聞いていた<石垣の妖精>が彼に話しかけた。 
「彼女をよくならせてやりたいと思うかね」
「それは、よくならせてやりたいとも」と、農夫は答えた。
「お前さんの命に替えてでも、助けてやりたいかね」
「もちろん、助けてやりたいとも。あれなしに生きていても、何のいいことがあろう」と、彼は答えた。

「それなら、その方法を教えてやろう。
 家に入ったら、彼女の髪の毛をひと房切り取りなさい。そして、今晩、時計が夜中の十二時を打ったら、それを持って村の十字路へ行くのだ。そこでお前は時計と反対回りに七たび回って、主の祈りを逆さに唱え、髪の毛の房をそこに置いてこなければならない。三日のうちに、彼女はすっかりよくなるだろう」

 ところで農夫には、主の祈りを逆さに唱えるなど冒讀的なことに思えたが、このさい仕方ないと考えることにした。
 家に入ると、妻は眠っていたので、その髪の房をそっと切り取った。
 そしてその晩、時計が十二時を打つと、体がぞくぞく震えるのをつとめて抑えながら村の十字路のところまで出ていって、妖精に言われたとおりにした。

 三日とたたないうちに、農夫の妻は熱がひいて身を起こせるようになり、やがてすっかりよくなった。
 ところが、それと時を同じくして夫の方がそっくり同じ病にかかり、ほどなく死んでしまった。
 妻は、病み上がりにして喪服に身を包むはめになった。

 やせこけて、体じゅう白い斑点に覆われたその亡骸は、ぞっとするほど醜くて、見るに耐えなかったので、その顔には布がかけられた。
 妻は、ショックで真っ青に震えて、口も利けないほどだった。

 だが、男手がなくなって、すぐにもやらなくてはならない仕事がたくさんあった。
 農夫が残したわずかな畑や羊の世話を、彼女は何とかひとりでやりきろうとしたが、女の手には余ったので、やむなく人を雇った。
 レース編みの技術をもっていたので、人の注文を受けて手仕事をして、それで生活をまかなった。
 
 村人たちは、表立ってはのけ者にしなかったけれども、やはり何となく気味悪がって、進んでは彼女と仲よくしようとしなかった。
 彼女の方ももともとおとなしい性格だったうえ、そんなことがあって、ますます人目を避けて、ひっこんで暮らすようになった。
 教会の礼拝にも、人と顔をあわせなくてすむよう、いつも始まる直前に入ってきて柱の陰でひっそりと説教を聞き、終わる少し前にだれより早く、そっと出て行ってしまうのだった。

 彼女のレース編みの腕はすばらしかったので、注文の途切れることはなかった。
 けれども、人々はこと赤ん坊の産着や花嫁衣裳に関しては決して彼女に頼もうとせず、遠くの町に注文するのだった。

 村の神父は人けの少ない時間に彼女を家に呼んで、告解を聞いてやった。
「あなたに責められるべき点は何もない。あなたは以前と変わらない、神の浄い子羊で、我々の大切な仲間だ」と彼は言った。
「だが私は、あなたの夫のことを残念に思う。事を起こす前に、私に相談してくれればよかったのに、と。
 まことの主から出るのでない力は長続きしないし、日の光のもとに堂々と引き出すこともできない。
 気をつけなさい、あなたの夫が言いなりになったので、彼らはあなたに対しても弱みを握っていると思っている」

 そしてまた、彼は言った。
「この村にこのまま暮らすのは、あなたにとって辛いことに違いない。
 あなたには、ダブリンに暮らす甥の家族がいる。彼らのもとに身を寄せることを考えてみてはどうか」

 レーナはしずかに神父を見つめ、ゆっくりと首を振った。
「私はこの土地で生まれ、この土地で身をあがなわれたのです。
 夫のしたことは賢明でなかったかもしれませんが、夫がそれをしたのは愛ゆえなのです。
 私のために死んだ夫の記憶のために、どれほど辛くても、私はこの土地に生涯を全うするつもりです。
 私の死後については、甥に遺言を書き送ってあります」
 気丈な妻は、そう答えるのだった。

 神父はそれ以上無理には勧めなかった。
 けれども、それからも折に触れ、目立たぬよう注意しながら彼女のことを気づかってやった。

 何年も何年も、閉じた輪の中をめぐるように変わりのない、しずかな村の時間が流れ去った。
 彼女はずっとひとりで暮らしていた。
 その窓辺には、夜ごとろうそくの光のもとで、一心に美しいレースを編みつづける彼女の姿があった。
 小さい、粗末な家は、いつもきちんと整えられ、女のひとり居のこまやかな、慎ましやかな空気に包まれていた。

 時たつうちに当時のことを知るものはひとりまたひとりといなくなり、時たま人々の口にのぼる、昔のうわさ話にすぎなくなった。
 近所の女たちは、注文したレースの品を取りに来て、彼女の戸口で長話をした。
 何くれと相談ごとをもちかけられることもあった。彼女の口の堅いことは、誰もが知っていたからだ。
 近所の子供たちは彼女にかわいがってもらったし、炉端にはいつも猫が、彼女のうちのも、そうでないのも一緒にくつろいでいた。
 それでも彼女はやはり人前に出ようとはせず、ひっそりと影のように暮らしていた。

 かなり年をとってから、彼女は穏やかに、眠るように息を引き取って、村の墓地に葬られた。
 ダブリンから甥が呼ばれて、葬儀に参列した。
 説教したのは同じマイケル神父だった。もうずいぶん年老いていたけれども。
 それから、彼女の遺言によって、家も、家のまわりの石垣もすっかり打ち壊されて、土地は売られた。

「こんなことをするのは私の本意ではないのです。
 私の家族のうち誰かが、この敷地を引き継げればよかったのですが」
と、甥は悲しげに打ち明けた。

 その日、甥と神父は、マクガハンの敷地をともに歩き回りながら話を交わしたのだった。
 彼らの傍らでは、人夫たちがせっせと打ち壊し、崩した石を荷車に乗せて、忙しく運び出していた。

「彼女の生涯に、恥ずべきところは何もない」と、マイケル神父は甥に言った。
「彼女は、たいへん強くて、りっぱな女性だった。
 こんな悪魔祓いのようなことをするのを、彼女自身の汚れのためと考えてはいけない。
 レーナは、自分が亡くなるまでは口外しないようにと前置きして、私に話した。
 彼女の名誉のために、いまそれをあなたに話しておきたい。
 
 あの妖精は、彼女の夫が死んだあと、恥知らずにも彼女に言い寄ったのだ。
 レーナは、当時もすでに若くはなかったが、人を惹きつける独特な美しさがあった。
 それでやつも心惑いしたのだろう。
 だが、彼女はもちろんキリスト教徒だったし、死んだ夫への操を立てて、聞こうとしなかった。
 それであの妖精から、長いこと色々といやがらせを受けて、それをひとりでずっと耐えていたのだ。

 石垣の精であれ何であれ、妖精にもいろいろいるが、彼女の病を救ってやったあの妖精は、どうやらあまりいい種類のものではなかったらしい。
 主は我々を救おうとするとき、だれかほかの者の命を引き換えに要求したりせず、自ら命をなげうってあがなってくださった。
 真の親切とは、無償であるべきなのだ。

 私はむしろマクガハンの夫の方の魂を心配しているのだが・・・我々は彼もまた主の祝福を受けて眠りについたと、信じようではないか。
 愛ゆえにすることなら、すべては許されるはずだから」

 甥は、宿へ戻る前にまわり道して神父を家まで送っていった。
 別れぎわ、彼は神父の手を握って言った。
「あなたと話せてよかった。おかげで、心が晴れました。
 これでおばのことはもう、何も心配ありません」

 翌朝早く、灰色の毛で覆われた奇妙な生きものが、運びのこされた石積みの山のかげからとび出して、牧草地を超えていった。
 ずんぐりして、狼のようにとがった耳をもち、長いしっぽを生やした生きものが。・・・
 ふり返って、レモン型の黄色い目に怒りと恨みをたたえて眺めやり、それから去っていって、二度とは戻ってこなかった。
 今ではマクガハンの家が村のどこにあったかさえ、だれも知らない。・・・

 あざみやかもじ草にうずもれて、ひっそりと道を守る石垣には、石垣の妖精が住んでいる。
 マクガハンの家の石垣に住んでいたやつはもういないが、そのほかの場所ではどこでも、石垣のあるところ、そこには石垣の精が住んでいる。
 石のあいだに身をひそめ、片目でしれっと眠りこけながら、もう片方の目で道ゆく者どもをじっと眺めやっているのだ。・・・

  

2010年02月07日

マクガハンの妻の物語(原文)

愛蘭土物語 クレア篇7
マクガハンの妻の物語 Story of Mrs. McGaghan
ミルトン・マルベイの物語
2010 by 中島 迂生 Ussay Nakajima

 クレア州海ぞいの小さな町、ミルトン・マルベイ Miltown Malbay 。
 今でこそウィリィ・クランシィの名前で有名になったが、いまも一年の大半は閉じた輪の中をめぐるように、人々の暮らしは淡々としずかだ。
 その周囲には独特のもの淋しい、それでいて奇妙に人を惹きつける荒涼とした風景が広がっている。

 曇り空の下で風に吹き分けられるメドウ。・・・
 灰色の空を背景に、吹きちぎられる白い煙突のけむり。・・・

 百年前よりもっと前、海ぞいのこの町が、いまよりずっと貧しい、ほんの小さな村だったころから、その頃からこの土地は愛されていた。

 この土地への強い愛と誇り。・・・
 たえず潮風に吹きさらされて、風にたわんだその形に育ってしまった木のように、辛苦そのものが習い性となってしまったかのように。
 貧しさに疲れ、労働にすり減らされながら、なおも生涯をかけて彼らはこの土地を愛した。・・・
 これはそういう人々の物語だ。・・・

           * 

 ミルトン・マルベイに着いたのは夕方だった。
 肌寒く、風の強く、薄暗い日。
 夏の夕方だというのに人通りは少なく、閑散としている。

 この町で過ごした宿は、<怠け者通り> Idle Road にある。
 やわらかい卵色と淡いスモークブルー、それに白で統一された、居心地よい小さなコテッジ。
 荷物を置いて、夕方から散歩、<スペイン岬> Spanish Point から内陸の方へ歩く。
 
 薄暗く低く雲の垂れこめて、見ているまに流れゆく、雨まじりの強い風の吹きつけて。
 久しぶりに長い散歩、4時間ほど歩いた。

 ミルトン・マルベイの町は小さくて、少し歩くとすぐに野が広がる。
 家並みが途切れて広びろと野が広がる、それを目にするとき、あぁ、それだけで心は喜びにおどる!・・・

茫漠となだらかに広がった野辺、宝石のような緑色だったり、
 刈られた草が畝になってみどりにベージュがまじっていたり、
 カモガヤみたいな雑草がぼうぼう伸びるにまかせて茶褐色がまじっていたり、
 ・・・野の花が咲き乱れていたり、
 ラグウォートの黄色が一面広がっていたり、
 ルース・ストライフのピンクと紫の濃淡の帯がまじっていたり。・・・

 メドウのきれいに澄んだ、みずみずしいみどりいろ・・・
 だが、アイルランドの景色は、どれほど澄んだきれいな緑色でも、どこかに茶色のトーンがまじっている気がする。
 それにこの独特の曇り空だ。陰鬱な、そして冷えびえとして、風が強くて。・・・
 それがこの地方の景観に、独特の荒涼とした、もの淋しいかんじを与えている。
 Last Rose of Summer, あのメロディーは、こういう景色の中から生まれてきたのだろう、と思わせるような。・・・

 なべての雲の裏には銀色のふち飾りがある、という諺はイングランドのそれであって、ここアイルランドのものではない。
 なぜなら当地では雲に切れ目はなく、常に空一面を雲が覆っているからだ・・・
 風に吹きさらされて歩けば、風は容易にさーっという雨のヴェールを運んできて、すると彼方に見える水平線が 見るまに白くかき曇る。・・・

 どこかうち沈んだ野がなだらかにうち広がって、どこまでも延びる低い石垣が区切っている・・・
 薄い石板を重ねた石垣、野ばらが覆いかぶさって淡いピンクに縁どられたクリーム色の、あるいは華やかなピンクの花を咲かせて、ほとんど生垣のように見える・・・

              *

 野辺の花々。・・・
 花壇に咲かせたみたいに色とりどりで、組み合わせによって色んな表情を見せる。

 ピンクのヤナギラン Great Willowherb に、ベージュの穂を垂れて立ち枯れたかもじ草。
 苺ミルクのような優しい色あいの薄紫のあざみ Thistle に、ごってりと房飾りをつけたイラクサ Nettle 。

 青紫の草藤 Tuted Vetch に、淡いクリーム色のメドウスウィート Meadowsweet 、これはいちばん気品があってすばらしいとりあわせだと思う。  
 草藤の青紫に野いばら Branble の淡いピンク、これも気品のなかに華やぎがあって美しい。

 ヤナギランのピンクに赤紫のルースストライフ Purple Loosestrife にラグウォート Common Ragwort の黄色・・・ こうなると子供の絵のようににぎやかだ。
 いや、にぎやかすぎるのか、あるいは重苦しい灰色の曇り空のせいか、祭礼の飾りのようにそろって風に吹かれているようすはどこか浮いて、淋しげに見える。

 ロバの頭みたいにバランスの悪いラグウォートの、べた塗りのペンキみたいな黄色。
 りんとした立ち姿の美しい、ぱっきりと濃い赤紫のルースストライフ。
 紫の壺のようなウツボグサ Self Heal は、<スペイン岬>の崖の上で見た。
   
 そのほかよく見るのは、カモガヤ、スギナ、キンポウゲ、スイバ、クローバーなど。・・・

              *

 ぽつんぽつんと見える家々。
 昔ながらの灰色の石造りの、なかば崩れかけたような。
 あるいはとうに人が住まなくなって、自然がその手に取り戻さんとしている廃屋、・・・屋根がなくなって、四方の壁だけが残っている、破風だけが風に削られながら残って、中にはルースストライフのピンクの花々が群れ咲いている・・・

 あたらしい家々はどれもぺこんぺこんとした、薄っぺらで安っぽい感じ、色だけはきれいに塗ってある舞台のセットのようだ。・・・
 屋根はどれも濃い色のスレート葺きで、壁だけが色とりどりに塗られている。
 沈んだ色の空の下で、みょうに浮いた、寒々ときれいな色あい、白、クリーム色、サーモンピンク、ミントグリーン・・・ 
 時どきアクセントのように、きまって赤い壁の家がある、けれどイギリスの消火栓みたいにあざやかな赤ではなくて、どこかくぐもった、少しクリーム色をまぜたようなやわらかい赤だ。
 それが灰色の空ともの淋しい野辺によく似合う。・・・

 人びとは生気のない目をしている・・・
 ぜんたい、どんよりと淀んだ、半分諦めたような気分が支配してる。・・・

 唯一あざやかで楽しげな、アイルランド独特のもの、それは庭先のロープにずらりと旗めいた洗濯物だ。
 イギリス人は洗濯物を外に干すのははしたないことだと考えて地下室に干したりするが、アイルランド人は平気で外に、しかも昔ながらのロープに干す。
 灰色の空を背景に、にぎやかでカラフルで、よく映える。
 たとえば、白、灰きみどり、黄色、紺、くすんだ赤、スモーキーなピンク、ふたたび白、ビビッドな赤、水色、白、うすいグレイ、さめた黒、くすんだ白・・・
 フェスティバルの旗なんかと違って一枚一枚色あいの調子がちがい、あざやかな中にも微妙な中間色やモノトーンがほどよくまじってリズミカルだ・・・

           *

 ミルトン・マルベイの町は、通りに面した側は子供のおもちゃ箱みたいにとりどりのきれいな色に塗られている。
 ピンク、黄色、水色、エメラルド色、えんじ色・・・
 こちゃこちゃっと店もある、パブも軒を連ねている。
 
 何だかボール紙でできたセットみたいに見かけ倒しで、胡散くさい感じがするのは、ちょっと町の外まで出て、それからふり返ってみると分かる。
 灰色の空よりもなおいっそう暗くうち沈んだ、何でここまで汚い、暗い色なんだろうと思われるほどのどぶねずみ色、その一色だ・・・
 そんな家々が互いにくっつきあって、平たい煙突をはさんで狭苦しく立ち並んでいるばかりなのだ・・・

 長い散歩からの帰り道、鼻の頭や指先はすっかり冷たくなって、足は棒のよう、早く居間の気持ちよい椅子に腰を下ろして、熱い紅茶を飲みたい・・・
 そんなふうに思っているとき、町並が目に入るとほっとするものだ。
 ところがそれが、当地では逆にひどく気が滅入る、あんな暗い、汚いところへ帰っていかなくてはならないのかと思ってしまう。・・・

 こういう暗く陰鬱な感じにもかかわらず、いやまさにそのゆえに、私はそれらの町々を懐かしく思い出すのだ。
 なぜなら、世界じゅうのほかのどこにも、これと同じ土地はないからだ。・・・

 海へ通じる細い路地のひとつから町へ入る、その入り口のところには、昔ながらの古い、石造りの小屋、低い、小さい小屋があって、今日通ったらちょうどひとりの痩せた赤毛の男が・・・テンかイタチを思わせるような動物的な風貌だったが・・・庭仕事をしているところだった。
 そのありさまは、私のうちにふしぎな感じを呼び醒ました。
 ちょうど今から百年前にもおそらく彼と寸分たがわぬ同じような男が、ここで同じように暮らしていたに違いない、そしてまた、今から百年後にもおそらく同じような男が、ここでこんなふうに暮らしているのではなかろうか・・・
 そういう感じだった。

 汚い路地裏に暮らす男たち、あるいは朝暗いうちから日の入りまで一日じゅう、休むまもなく働く農夫の子供たち・・・
 彼らのうち誰にでも聞いてみるがいい、もっとほかの土地へ行く気はないのか、もっといい暮らしを望みはしないのか、と。・・・
 空虚なまなざしのなかに俄かに光を湛え、彼らは胸を張って力強く答えるだろう、いや、どこへも行く気はない、我々はこの土地を愛している、と。・・・

 飢えと荒廃とによって少しも削がれることのない、いな、そのゆえにますます強い、これがアイルランドの誇りである・・・
 ここに我々は愛という言葉のあたらしい意味を見出すのだ。
 これらの土地をかくも美しく、懐かしく、荒涼としたなかにも忘れがたく、人を惹きつける力を与えているもの、それは実に、この土地に対する彼らの愛であるからだ。・・・

          *
 
 馬たち、牛たち、ロバたち。・・・みんな、姿かたちも色あいも、いろいろ。

 ロバは、やたらと頭が大きく、いかにもどんくさくてかっこ悪いやつもいれば、ウサギのように長い耳をぴんと立て、すらりとして、大きな目を見張っているようなやつもいる。

 馬は栗毛、葦毛、白と黒のまだらになったやつ。
 砂利道をずっと行ったところで、何とも言いようのないような馬を見た。
 顔だけが病人のように青白く、黒いたてがみが髪の毛のようにバサッと額にかかり、妙に人間のようだ。
 体は生焼けのパンみたいなうす茶色で、白斑病のように白い点々があり、足は焦げたような黒いろ・・・悪夢に出てきそう。
 こんな馬はアイルランドでしか、見たことない。
 白い顔に黒いたてがみの馬は、その後もこの国でよく見た。

          *

 イングランドの田舎でもそうだったが、平屋が多いのは目に快い。
 平屋を見るとほっとする。
 威圧感とか思い上がっている感じがなくて、素朴で、謙虚だ。
 
 それに、古い建物が多いのもよい。
 風化して味わいがある。

 町を歩くと灰色の壁に、もとは平屋だったのをつぎ足して二階にしたあとがけっこうある。
 丘のふもとに埋もれるように建っている小屋などでは、うしろに丘がせりあがって小さいガラス窓のところまで地面が来ていたりする。
 信じられないくらい低い小屋もある。
 腰をかがめないと入れないし、しゃがまないと窓から外を覗けないのではないか、というような。

 石造りの小屋が、屋根が崩れて壁だけ、あるいは壁も半ば崩れていたり。
 破れ屋根に草が茂っていたり、蔦に半分埋もれていたり。
 そんなのが至るところにある。

 農家などでは、くずれたやつは見捨てられて、そのわきに新しく別のを建てて住んでいたり、そういうところがとても多い。
 崩れゆくままにされる家たち。
 滅びゆくもの独特の美しさ。・・・彼ら自身はたぶん、そんなものに気を留めていないとしても。・・・


 人を惹きつけてやまないこのもの悲しさ、複雑にねじれた、屈折した愛情・・・
 この島の景色を彩るこの独特の色調は、どこから来るのだろうと考える。
 
 我々が知るもっとも初期のアイルランドにこの色調はない・・・メイヴやフィンの、あの陰影のない、ゆえにさしたる深みもない物語には。
 結局これらはそのあとの長い歴史のなかで、奪われ、虐げられ、傷めつけられてきた記憶から生まれてきているのではないか?・・・


 複雑に積み重なってきたこの国の歴史を思うにつけ、自分はこの国について何も知ってはいないのだ、そういう思いが私を打ちのめす。
 いま私は財宝のいっぱいつまった家を前にして、入口が分からなくていらいらとまわりをうろついている。
 この国の魂は詩にあるのだが、どうやったらそこにたどりつけるか分からないのだ。・・・
 
 イギリスには手がかりがあった。
 詩人たちが美しいものを集めてまとめて、積みわらのように分かりやすく残してくれていた。
 ところが、この国では詩人たちは匿名だ。
 わらもそこらじゅうに散らばっていて、どこから始めたらいいのか分からない。・・・


 海沿いの細道、エドナ・オブライエンの The Country Girls の表紙みたいな、色鉛筆で塗ったような色あいの景色。
 あまりの寂寥に足をとめさせる。
 茶色みを帯びた野が茫と広がり、道がただ一本、ずっと彼方までのびているだけ。・・・
 そのわきに廃屋が一軒。
 灰色の石壁は古びて白い斑点が浮き、通りに面した側はミントグリーンに塗られたのがほとんど剥げて、窓には板が打ちつけられている。
 再び住まわれることを期待してもいない。
 このまま朽ちてゆく。
 ほかに何もない。・・・
 静寂。・・・

          *          

 ラヒンチへ至る街道。
 右手に盛りあがる、なだらかなみどりの丘陵。
 小径が一本、ヘッジにうずもれて斜めに走り、丘のへりを少し登ったところでカーヴして木立のあいだに消えている。
 街道からひっこんで、小径わきに石造りの小屋が一軒。

 どうかこうした景色が、このとおりのまま、ずっとここにあるように。
 アンペイヴドのまま、細いまま、カーヴのぐあいもそのままに。・・・

 その右手、海の側には、崩れかけた家が一軒。
 窓のひとつはいばらがすっかり覆い、ひとつはガラスが破れ、ひとつは虚ろな目のように、ぽっかりと暗くあいている。・・・

 野のあいだをやはり斜めに突っきって、低い石垣の小道。
 低木が覆いかぶさって、だれかの伸び放題の頭みたいに、そろって潮風に吹かれてその形のままに伸びている。
 いつも風に吹かれる側だけ枯れて、生まれたときから絶えまなく辛苦にさらされるうち、身をかがめ、首をすくめて過ごすうちに、辛苦そのものが彼らの精神性を形づくってしまったように。・・・

 その道の先端には、また別の家が、ぽつんと一軒。
 壁は白く塗られ、窓枠は赤く、ドアは青く、どちらもすっかり色がさめて、トタン板の屋根は赤茶に錆びている。・・・

 こうした景色、それはこの国の人々のありようでもあった。
 どうやってもそこから逃れられぬうちに、彼らはその辛苦を愛しさえした、自分では気づかぬままに。
 人から指摘されたら驚き、激しく否定するだろう。
 それは独特の、苦しみの入りまじった愛情で、自由にされても避けがたくそこへ戻ってゆく、運命づけられたように、苦しみと惨めさのなかにほのかな火あかりの灯るその家へ。・・・

            *

 村の左官屋で、騾馬をしばらく貸してもらえることになった。
 それで、ミルトン・マルベイに滞在していたあいだ、海沿いにラヒンチへ北上し、内陸に折れてエニスタイモンへ、次いでイナの手前でまた西へ折れて戻る、というルートでいくどか遠出をした。

 とりわけエニスタイモンから、リヴァー・イナに沿って街道よりひとつ南を走る道すじ、そのすばらしさは忘れがたい。
 両わきに茂る草むらごし、えんえんとどこまでもうち広がる野辺、・・・
 茂みはやがて元気よくのびたヘッジとなって彼方の広がりをすっかり隠してしまい、そのうちそれはほんとの木立となって頭上にアーチを結び、・・・
 かと思うと、それがまた途切れては、ふたたび両側に丘々が果てしなく広がり・・・
 ときどきひっこんで農家があって、分厚い石壁を背に、これまた色鮮やかな洗濯物が揺れている。・・・
 路傍の野の花の七変化、尽きずたえず移り変わり、道ゆくことが喜びであるあまり、どこへ着こうとたいした問題でなくなってくる。・・・

 平屋の小さい家がぽっつりと居心地よくあったりする。
 こんなにこじんまりと暮らせるものなのだ、と新鮮な思いで眺め、まわりにはほかに何もない。・・・

 それでもなお。・・・
 この、見ていてはらはらする、心配な感じ、かよわい、身を守るすべのない・・・
 こんど来たら、ないかもしれない、このうつくしい無垢の景色は。・・・

 なだらかにうねる丘々、草地と木立がまだらに入りまじって広がり、そのあいだを石垣が縦横に走り・・・
 牛たち、崩れのこった石壁、空・・・ ただそれだけ・・・

 Furraglaun というところから、斜めに分かれてのびる道をゆくと、Lough Mhuchna という小さい湖にさしかかる。
 湖というより池みたい、低木林におおわれた丘のふもと、しずかにひっそりとある。
 半分はさざ波だって天の無色を映し、半分はしずかに丘の木立の暗緑色を映している・・・
 湿地帯の広がるなか、道のきわに一列のびたトウヒごしに見えるその姿は、奇妙に人の心を惹く。
 
 あそこにはたぶん、まだ妖精が住んでいる。
 夜になるとふしぎな光が灯り、道に迷った旅人の目を惑わすのだ。
 子供らも、夜には決して行ってはいけないよ、と言われている・・・

           *

 この国のunreliableな道たち。・・・
 このあたりの田舎道には、半ば道ともいえないようなところがある。
 柵にぶつかって終わっていたり、途中で消えてしまっていたり。

 とある小さな湖を目指して行ったとき、こんなことがあった。
 牧草地を突っきってゆくので牛の糞だらけなのはいいとして、上り坂になったところは激流が流れ下ったあとみたいにガチガチのごろごろの石ころだらけで、両側には生い茂ったブランブル。

 そこを登りきると、ぼうぼうに茂った草のなかに道じたいが途切れてしまい、仕方ないので足任せに丘を超えてゆけば、そのうちずぶずぶの湿地にはまりこんで、にっちもさっちもいかない。

 這い出そうと苦心惨憺していると、何事かと牛たちがみんなで見に来たものだ。
 見てないで手伝ってくれ! と怒鳴ってもさっぱり。

 湖は、すっかり泥に埋まってしまい、ただ葦や蒲がぼうぼう生えているばかりだった。
 疲れ果てて宿へ戻ったが、内陸のほうから、海辺の村へ向かう道すがらの眺めときたら。

 土地の全体がゆるやかに、海に向かって傾斜しているので、高台の上に立って眺めるように、すっかり見渡せるのだ。
 その向こうには海原が、水平線が盛り上がっている。
 そのすべてが、いまにも沈まんとする夕日のゆたかな金色の光に包まれて、眼下に広がるようすときたら。
 そんな景色のなか、宵口の冷えはじめた空気を突っ切って、一気に駆け下ってゆく気持ちのよさときたら。・・・ 

          *

 宿したコテッジと、そこからの眺め。
 マティルダの思い出に。

 <怠け者通り>の、古い、小さなコテッジ。
 通りを歩いてくると、ほんとに小さい。
 小粒でかわいらしい。
 切妻屋根がひとつ、そしてその裏にマッチ箱みたいな建て増し部分がついて、それが食堂兼居間だ。

 ここはあなたの育った家。・・・
 居心地のいい台所と居間。
 赤の木綿、キャメルゴールドの縞のベロア、房飾りのついたばら色・・・ すっぽり布で覆われた、ゆったりとしたソファがいくつもあって、ワインレッドのコーデュロイ、青地にばら柄のゴブラン織り、アラベスクの刺繍のベージュ、ひとつずつ違うクッション。・・・

 この家の時間を刻まれてきた道具類。
 べこべこの鍋や、ふちの欠けたカップ、使いこんで傷だらけの、草花もようを浮き出した鉄のスプーンたち・・・

 飾りだなには中国のとっくりや、ピンクのせとものの紅茶セットや、赤と青のエナメルの花のついたガラスのコップや、にわとりの形をしたスプーン立てや、あなたが赤ちゃんのとき使っていた、赤い吸い口のついた哺乳瓶や、透かし模様のついた飾り皿・・・

 大事にとっておかれ、並べて飾られていることで、醸し出される快いトーン、あたたかな光。・・・

 本棚にはあなたが子供のころに読んだ本。
 Wind in the Willows, 嵐が丘、茶色く変質した、昔のアイルランドのガイドブック、オルダス・ハクスリーの Brave New World ・・・

 窓辺には真っ赤なジェラニウム。
 暖炉の上に置かれた貝がらや石ころ、古い、黒く沈んだ宗教画や、金でふちどりした白い蝋燭立て。
 引き出しには、重たい銀色の十字架。

 窓の外はいらくさの暗緑色とかもじ草のベージュ、ブランブルの赤むらさき。
 荒涼と 曇り空の下で風に吹かれて、暗いグレイの教会の尖塔がその向こうに見える。

 右手には、半分枯れたトウヒの一列。
 海の側がそろって枯れ枝だ、たえず潮風に吹き流されて。
 この土地の大方の木がみんなそうであるように。

 カラスがとまっている、いつもきまった枝に。
 そのまま本の表紙絵のようだ。・・・

 裏のドアを開けると、ピンクのヤナギランとかもじ草がゆれている。
 それらごしに灰色の町並が見える。
 家々の煙突から、白い煙が風に吹き散らされるのが。・・・

 となりの塀にはいつも猫がいて、灰色でレモン色の目をしたやつだ。
 ずっとひとりでいる。
 半分居心地よく、半分退屈していつもそこにいて、どこか別の場所にいこうなどと考えもしない。

 部屋にランプを灯すほどに、窓の景色は暗く沈み、教会のシルエットも黒く沈んで
 曇り空が青いあかるみを宿して浮かびあがる。・・・

             *

 村外れの石垣のそばで、赤毛のテン、はじめて見た。
 細くてちっちゃくて、するっとすばしっこい。
 カヤネズミもはじめて見た。
 精巧なおもちゃのようにちっちゃくて愛らしい。
 黄色い羽のアトリもいた。
 ミソサザイくらいの小さい灰色の鳥、あれは何というのだろう。・・・

             * 

 石垣のそばでうそをついたり、人を呪ったりしてはいけない。
 縁起が悪いからね。・・・

 アザミやかもじ草にうずもれてひっそりと道を守りつづけている石垣には、石垣の妖精がいる。
 小さい野ネズミや鳥たちの守り手、悪いやつが通ろうとすると道をふさいでしまったり、別の場所に行く道に変わってしまったりする。

 ふだんはしれっとして石垣の隙間で、石の一部になってうとうと眠りこけている。
 それでも、誰が通ったかちゃんと知っている。
 旅人は見られていると感じる。
 灰色の毛に覆われて、遠目に石と見分けがつかないが、じっと見つめているとときどき動くので分かる。

 ずんぐりとして、狼のようにとがった耳をもち、長い、黄色い目をしている。
 鞭のように長いしっぽがあって、踏みつけられると何でも約束して自由になろうとするが、踏みつけたやつはあとで手ひどいしっぺ返しを食らう。

 人々がさいしょに石垣を築いたときから、そいつはずっとそこに住んでいる。
 石垣が壊されるとどこかへ行ってしまう。・・・

             *

 昔、その村のはずれに住んでいた、貧しい農夫とその妻があった。
 子供はなかったが、ふたり力を合わせて堅実に、幸せに暮らしていた。
 ダニエルとレーナ・マクガハン、なにかそんなふうな名前だった。

 あるとき、妻の方が原因不明のふしぎな病気にかかった。
 体じゅうに苔のような白い斑点ができて、高い熱にうなされ、身を起こせないほどに弱って床に就いてしまった。
 町から医者を呼んで診てもらったが、こんな症状はだれも見たことがなく、だれにも手を打つすべがなかった。

 農夫は絶望に打ちのめされた。
 ある日、野良から戻ったとき、自分の家の石垣のところで何の気なしに立ちどまり、思わず溜め息をついて独り言を言った。
「ああ、神さま。どうしてこんなことになったのでしょう。
 まじめに働く者には、よくしてくださる方だと思っていましたのに。」

 すると、それを聞いていた<石垣の妖精>が彼に話しかけた。 
「彼女をよくならせてやりたいと思うかね」
「それは、よくならせてやりたいとも」と、農夫は答えた。
「お前さんの命に替えてでも、助けてやりたいかね」
「もちろん、助けてやりたいとも。あれなしに生きていても、何のいいことがあろう」と、彼は答えた。

「それなら、その方法を教えてやろう。
 家に入ったら、彼女の髪の毛をひと房切り取りなさい。そして、今晩、時計が夜中の十二時を打ったら、それを持って村の十字路へ行くのだ。そこでお前は時計と反対回りに七たび回って、主の祈りを逆さに唱え、髪の毛の房をそこに置いてこなければならない。三日のうちに、彼女はすっかりよくなるだろう」

 ところで農夫には、主の祈りを逆さに唱えるなど冒讀的なことに思えたが、このさい仕方ないと考えることにした。
 家に入ると、妻は眠っていたので、その髪の房をそっと切り取った。
 そしてその晩、時計が十二時を打つと、体がぞくぞく震えるのをつとめて抑えながら村の十字路のところまで出ていって、妖精に言われたとおりにした。

 三日とたたないうちに、農夫の妻は熱がひいて身を起こせるようになり、やがてすっかりよくなった。
 ところが、それと時を同じくして夫の方がそっくり同じ病にかかり、ほどなく死んでしまった。
 妻は、病み上がりにして喪服に身を包むはめになった。

 やせこけて、体じゅう白い斑点に覆われたその亡骸は、ぞっとするほど醜くて、見るに耐えなかったので、その顔には布がかけられた。
 妻は、ショックで真っ青に震えて、口も利けないほどだった。

 だが、男手がなくなって、すぐにもやらなくてはならない仕事がたくさんあった。
 農夫が残したわずかな畑や羊の世話を、彼女は何とかひとりでやりきろうとしたが、女の手には余ったので、やむなく人を雇った。
 レース編みの技術をもっていたので、人の注文を受けて手仕事をして、それで生活をまかなった。
 
 村人たちは、表立ってはのけ者にしなかったけれども、やはり何となく気味悪がって、進んでは彼女と仲よくしようとしなかった。
 彼女の方ももともとおとなしい性格だったうえ、そんなことがあって、ますます人目を避けて、ひっこんで暮らすようになった。
 教会の礼拝にも、人と顔をあわせなくてすむよう、いつも始まる直前に入ってきて柱の陰でひっそりと説教を聞き、終わる少し前にだれより早く、そっと出て行ってしまうのだった。

 彼女のレース編みの腕はすばらしかったので、注文の途切れることはなかった。
 けれども、人々はこと赤ん坊の産着や花嫁衣裳に関しては決して彼女に頼もうとせず、遠くの町に注文するのだった。

 村の神父は人けの少ない時間に彼女を家に呼んで、告解を聞いてやった。
「あなたに責められるべき点は何もない。あなたは以前と変わらない、神の浄い子羊で、我々の大切な仲間だ」と彼は言った。
「だが私は、あなたの夫のことを残念に思う。事を起こす前に、私に相談してくれればよかったのに、と。
 まことの主から出るのでない力は長続きしないし、日の光のもとに堂々と引き出すこともできない。
 気をつけなさい、あなたの夫が言いなりになったので、彼らはあなたに対しても弱みを握っていると思っている」

 そしてまた、彼は言った。
「この村にこのまま暮らすのは、あなたにとって辛いことに違いない。
 あなたには、ダブリンに暮らす甥の家族がいる。彼らのもとに身を寄せることを考えてみてはどうか」

 レーナはしずかに神父を見つめ、ゆっくりと首を振った。
「私はこの土地で生まれ、この土地で身をあがなわれたのです。
 夫のしたことは賢明でなかったかもしれませんが、夫がそれをしたのは愛ゆえなのです。
 私のために死んだ夫の記憶のために、どれほど辛くても、私はこの土地に生涯を全うするつもりです。
 私の死後については、甥に遺言を書き送ってあります」
 気丈な妻は、そう答えるのだった。

 神父はそれ以上無理には勧めなかった。
 けれども、それからも折に触れ、目立たぬよう注意しながら彼女のことを気づかってやった。

 何年も何年も、閉じた輪の中をめぐるように変わりのない、しずかな村の時間が流れ去った。
 彼女はずっとひとりで暮らしていた。
 その窓辺には、夜ごとろうそくの光のもとで、一心に美しいレースを編みつづける彼女の姿があった。
 小さい、粗末な家は、いつもきちんと整えられ、女のひとり居のこまやかな、慎ましやかな空気に包まれていた。

 時たつうちに当時のことを知るものはひとりまたひとりといなくなり、時たま人々の口にのぼる、昔のうわさ話にすぎなくなった。
 近所の女たちは、注文したレースの品を取りに来て、彼女の戸口で長話をした。
 何くれと相談ごとをもちかけられることもあった。彼女の口の堅いことは、誰もが知っていたからだ。
 近所の子供たちは彼女にかわいがってもらったし、炉端にはいつも猫が、彼女のうちのも、そうでないのも一緒にくつろいでいた。
 それでも彼女はやはり人前に出ようとはせず、ひっそりと影のように暮らしていた。

 かなり年をとってから、彼女は穏やかに、眠るように息を引き取って、村の墓地に葬られた。
 ダブリンから甥が呼ばれて、葬儀に参列した。
 説教したのは同じマイケル神父だった。もうずいぶん年老いていたけれども。
 それから、彼女の遺言によって、家も、家のまわりの石垣もすっかり打ち壊されて、土地は売られた。

「こんなことをするのは私の本意ではないのです。
 私の家族のうち誰かが、この敷地を引き継げればよかったのですが」
と、甥は悲しげに打ち明けた。

 その日、甥と神父は、マクガハンの敷地をともに歩き回りながら話を交わしたのだった。
 彼らの傍らでは、人夫たちがせっせと打ち壊し、崩した石を荷車に乗せて、忙しく運び出していた。

「彼女の生涯に、恥ずべきところは何もない」と、マイケル神父は甥に言った。
「彼女は、たいへん強くて、りっぱな女性だった。
 こんな悪魔祓いのようなことをするのを、彼女自身の汚れのためと考えてはいけない。
 レーナは、自分が亡くなるまでは口外しないようにと前置きして、私に話した。
 彼女の名誉のために、いまそれをあなたに話しておきたい。
 
 あの妖精は、彼女の夫が死んだあと、恥知らずにも彼女に言い寄ったのだ。
 レーナは、当時もすでに若くはなかったが、人を惹きつける独特な美しさがあった。
 それでやつも心惑いしたのだろう。
 だが、彼女はもちろんキリスト教徒だったし、死んだ夫への操を立てて、聞こうとしなかった。
 それであの妖精から、長いこと色々といやがらせを受けて、それをひとりでずっと耐えていたのだ。

 石垣の精であれ何であれ、妖精にもいろいろいるが、彼女の病を救ってやったあの妖精は、どうやらあまりいい種類のものではなかったらしい。
 主は我々を救おうとするとき、だれかほかの者の命を引き換えに要求したりせず、自ら命をなげうってあがなってくださった。
 真の親切とは、無償であるべきなのだ。

 私はむしろマクガハンの夫の方の魂を心配しているのだが・・・我々は彼もまた主の祝福を受けて眠りについたと、信じようではないか。
 愛ゆえにすることなら、すべては許されるはずだから」

 甥は、宿へ戻る前にまわり道して神父を家まで送っていった。
 別れぎわ、彼は神父の手を握って言った。
「あなたと話せてよかった。おかげで、心が晴れました。
 これでおばのことはもう、何も心配ありません」

 翌朝早く、灰色の毛で覆われた奇妙な生きものが、運びのこされた石積みの山のかげからとび出して、牧草地を超えていった。
 ずんぐりして、狼のようにとがった耳をもち、長いしっぽを生やした生きものが。・・・
 ふり返って、レモン型の黄色い目に怒りと恨みをたたえて眺めやり、それから去っていって、二度とは戻ってこなかった。
 今ではマクガハンの家が村のどこにあったかさえ、だれも知らない。・・・

 あざみやかもじ草にうずもれて、ひっそりと道を守る石垣には、石垣の妖精が住んでいる。
 マクガハンの家の石垣に住んでいたやつはもういないが、そのほかの場所ではどこでも、石垣のあるところ、そこには石垣の精が住んでいる。
 石のあいだに身をひそめ、片目でしれっと眠りこけながら、もう片方の目で道ゆく者どもをじっと眺めやっているのだ。・・・