2010年08月31日

幻の雄鹿

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瑛瑠洲物語(うぇーるずものがたり) ロウウェン篇4
幻の雄鹿 The Haunted Stag
2006 by 中島 迂生 Ussay Nakajima

幻の雄鹿

1. 物語<幻の雄鹿>
2. 夕暮れのタリヴァン山へ

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1. 物語<幻の雄鹿>

幻の雄鹿

 まわりが何と言おうとも彼は揺るがず、己れのヴィジョンをさいごまで追いつづけてやまなかった。・・・
 この物語には、ドレのそれのような緻密な銅版画。あの説教臭いラ・フォンテーヌの寓話につけられた、本文自体よりもはるかにいきいきとしてすばらしい、ギュスターヴ・ドレのそれのような。・・・

 コンウィイ・ヴァリイ・・・ 平和で美しい場所である、眺め渡してもなだらかな丘々が切れめなくどこまでも連なって広がり、日の出るときは、その光がどの斜面にも均一に降り注ぐ、どこを見渡してもガチガチの鋭い断絶や、不気味な暗い陰などはない・・・
 だから当地でやってくる物語もそのようである、比較的のどやかで牧歌的なのが多い、あんまりガチガチした鋭さや、不気味な暗い影などはない・・・

 けれども、かなたに海のおもてのうち光るところからぐるりと首をめぐらせて、右手の山の背の向こうにまで目を向けるとき、そこから少し調子の違う、茶色いごつごつした不毛の山岳地帯のはじまりがちょっぴり見えるのが分かるだろう。
 あの辺りから本式の山が始まって、ずっとずっとかなた、オグウェンにまで至る壮大な山地を形成する、それはそのさいしょのところなのだ・・・

 だからこの物語のコレクションの中にも、あの険しい山地の切りたった鋭さを、ちょっぴり取り入れるのはふさわしいし、変化がついていいだろう・・・
 眺めわたして、右肩の向こう、あの山々の鋭いシルエットを見出したほとんどその瞬間に、物語はやってきたのだった、岩山のあいだを風のように駆け抜けてゆく、かの雄鹿の幻影とともに。・・・

              *             *

 月の光のような銀色と、墨のような黒色のぶちの雄鹿・・・銀色と黒のぶちで、腹と尾は白かった、その角のりっぱなことは、樫の木の大枝のようだった・・・そんなのを、このあたりに住むだれもかつて今まで見たことがなかった。・・・ 

 昔、このあたりの山奥に近い村のひとつに、日ごとに犬を連れて険しい山深くをめぐり、けものをとって身を立てる猟師があった・・・まじめで信頼のおける男で、おまけに猟の腕前は、この地方一帯で右に出る者がいなかった。

 私はこの猟師に、かつての農場を引き継いだこのコテッジの名、リュウ、この名を与えたい・・・リュウ、ウェールズ語で<険しい場所>を意味する。このコテッジが、ロウウェンの村からずいぶん登った険しいところにあるのと同様、この猟師も人里離れた険しい場所を日々の生活の場としていたからだ。・・・

 この猟師が、あるとき、そういうふしぎな姿をした雄鹿を見て、三日三晩、犬どもを連れて追いつづけたが、見失ってしまった。
 彼は村に戻ってきて、酒場でその話をした・・・彼は真っ正直な男で、嘘をついたこともなかったから、みんなが彼の言うことを信じた。おいらもぜひそんなのを見てみたいもんだ、とみんなは言った。こんど見つけたら、きっとうまいこと仕留めなよ。お前さんならできる、大丈夫だとも。・・・

 それからしばらくして、雄鹿は再び彼の前に姿を現した。激しい追跡が繰り返された・・・
 しかし、こんども同じだった。雄鹿は岩山のあいだに巧みに道をとり、猟師の弾の届く距離まで、どうしても彼を近づけなかった。
 俺のプライドにかけて、必ずあいつを仕留めてみせる、そう彼は心に誓った。 
 いくたびか、雄鹿は現れた・・・そのたびにそれはみごとに逃げきり、犬どもは尾を垂らして、すごすごと引き返してくるのだった。・・・

 雄鹿を仕留めるのが彼の執念になった。
 開けても暮れても岩のあいだにその姿を探し求め、夢の中にまでそのあとを追いつづけた・・・酒場に来ても、もうそのことしか喋らなくなった。村人たちは半ば呆れ、半ば恐れて、しだいに彼の相手をしなくなった・・・彼が入ってくると、潮が引くように、みんな彼のそばを離れてゆくのだった。ひとりきりのカウンターにもたれ、つぶれるまで酔っぱらっては、酒場の主人を相手に同じことを繰り返した、俺は必ず仕留めてみせる、今度こそ!・・・

 さいごの追跡は一週間つづいた・・・彼も犬たちも、もう力の限界だった、雄鹿は相も変わらず、軽々と風のように駆けてゆく、あるいはそれは獣なのか、この世ならぬもの、幻影か、あるいは姿を変えた神なのか?・・・ それはどこへ彼らを連れてゆこうとするのか、気づけば今まで足を踏み入れたこともない山奥である、木もなく人の手になるものもなく、ただ荒涼とした岩山と、群れ生えたるワラビやハリエニシダがどこまでも広がるばかり、もう帰り道も分からない・・・

 彼はけれども、もう何も気にかけなかった、雄鹿を仕留めることのほか、何もかもどうでもよかった・・・切りたった岩山のふち、目も眩む谷底をはるかにのぞむ、今しもかの雄鹿が身のこなしも優雅に駆け去ったところを、彼はぜいぜい喘ぎ、息も絶えだえに追った、と、そのとき、足もとで岩が崩れた、足場を失って彼はよろめき、一瞬ののち、岩ころの二つ三つをともに、深い谷底へ落ちていった。・・・

 犬どもが、足を引きずり引きずり、痩せこけて汚ない姿になって村に辿りついたのは、彼らが出かけてから十日もあとのことだった。
 彼らは村人たちを案内しようとしたが、途中から、あまりに山が険しいので誰もそのあとを追ってゆくことができなかった。ずっとずっとあとになって、この村を訪れた旅人が、深い谷の底で人の骨を見たという話をした。それで、それがたぶんあの猟師なのだろうと、みんなが思ったわけだった。彼らはみな猟師のことを気の毒に思った・・・やつは狂気に憑かれちまった、そう考えたのだ。・・・

 ところがそのあと、しばらくたって、村人のなかに、そんなふうな鹿を見た、という者が現れた。あの猟師が言っていたとおり、黒と銀色のぶちで、樫の大枝のような角をもっていたと。・・・
 みんなは気味悪がった・・・死んだ男の霊にとりつかれたのだと思ったのだ。けれども、そのあとに二人、三人と、やはり見たという者が現れて、同じことを言った。いずれも深い山奥でのことだった。

 それでみんなは考えを変えて、やはり雄鹿はほんとうにいるらしいということになった。中には向う見ずにも、そいつを仕留めてやろうと出かけた者たちもあった・・・だが、ついに誰にも仕留められなかったのは言うまでもない。多くの場合、雄鹿は彼らの前に姿を現しさえしなかった。あいつがあんなにまでして、だめだったのだ。ほかの奴らがやってみるだけ無駄さ。・・・彼らは、そう言い言いした。・・・

 それにしても、奴は気の毒な男だったよ、というのがみんなの全体的な意見だった・・・あのけものにとり憑かれてから、まるでひとが違ってしまった、あいつのせいで命を落としたのだと。・・・しかしほんとうにそうだろうか?・・・
 私は思うのだった・・・奴はほんとうに、ただ気の毒なだけの男だったのだろうか? これと定めた獲物だけを追いつづけて、ほかのすべてを捨てて顧みなかった・・・まわりが何と言おうとも・・・彼はそうすることで、猟師の本分を貫いたのではなかろうか、それは誇り高い猟師にふさわしい最期ではなかっただろうか?・・・


2. 夕暮れのタリヴァン山へ

幻の雄鹿

 宿を過ぎてさらに上へ上へ、ずっと道はつづいていて、その道沿いには石器時代の墓標やストーンサークルがあるのだった。宿のスクラップブックに、モノクロの挿画の入った散策案内の地図があって、炉端でよくそれを眺めていたのだ。けれどもこのところずっと晴天つづきであまりに暑く、これ以上山道を登ってゆく気にはあまりなれずにいたのだった。

 ある日の夕方、涼しくなったと思われるころ、ちょっとこの道を上まで行ってくると、宿の老人に告げてぶらりと出かけた・・・暗くなる前に戻るよ。
 夏の日は長く、出たときにはもう六時を過ぎていたけれども、斜めに射す日はまぶしくて、まだとても暑かった。

 村からまっすぐ登ってきてさらにずっとつづくこの一本道はローマ道ということになっていたが、ローマ時代から変わっていないのではないかと思われるようなゴロゴロした石の道で、水の細い流れもそこをいっしょに流れている。両側を石垣に挟まれてつづく、そのうち木立も途切れてしまって、荒涼とした山の景色になる・・・目につく木といえばさんざしのねじくれた梢が、山から下る風に吹きさらされて風下へ曲がって生えているばかり、あるいは花の咲き残ったゴースの茂みが、木立を遠くから眺めたふうにまるくぽこぽこと広がっていたり、みどりのワラビが元気に茂ってそこらじゅうを埋め尽くしていたり、あるいはまた、鋭くのびたスゲガヤや、イラクサの群れや、ピンクのジギタリス・・・層になって上へ上へと折り重なってつづく、でこぼこした短い草地の斜面には、ごつごつと岩が突き出ている・・・

 羊、羊、羊・・・そこらじゅうに羊がいる、近づくとスタコラ逃げていくくせに、ひとが木戸によじ登って景色を眺めていたりすると、すぐうしろまで寄ってきて不審げにじろじろ見る・・・遠くで、近くで、四六時中たえずメエメエ鳴き交わしている、何をそんなに伝達すべき重要な知らせがあるんだろうか、どうせ一日中この単調な山の上で草を食んでいるばかりだというのに?・・・
 メエメエ声にも実にさまざまな階調があることに驚かされる・・・か細い少女のように甲高いメエーから、年とった男がふざけて真似をしているのではあるまいかというような、しわがれた、ぞっとするように低いベエエまで。・・・

 子羊が駆け寄って、前ひざを折って母親の乳を飲む、ぷるぷるとぜんまい仕掛けのように尾っぽを振れる。・・・それから日も傾いて涼しくなった丘の斜面で、ひっくり返って四つ足を宙に浮かせてみたりする・・・

 道ゆくうち、古代の墓標、アイルランドのプルナブローンと瓜ふたつの、ミニチュア版のような<詩人の石>はすぐに見つかった。
 そのほかの石柱やストーンサークルは、ずいぶん探しまわったにもかかわらず、ついに見つからなかった・・・妖精の塚のように、見わたす限り、あらゆる形をした岩ころだらけなのだ・・・

 あきらめて道に引き返すころ、ようやく山かげに日も没しておだやかに沈みゆく光のなかで、かなたの広大な山肌の、細い割れ目のような川すじや、うす青やみのなかに広がる 荒涼とした山景色、眺めゆくほどに、手をのばせば触れうるほどに、物語はそこに、すぐそばにあった・・・あの雄鹿の物語は。

 思いに耽りながら、夕やみの迫りくる山道を、一歩一歩私は降りていった・・・宿の見えるところまで来ると、老人がおもてに出てきて、所在なげにあたりをうろうろしているのが見えた、私のことを心配したのに違いない、私は足を速めた・・・
 そうしてごろごろした岩道を急ぎ下りながら、私のうしろの峰々のどこかで、あの幻の雄鹿が・・・黒と銀のぶちの、大枝のような角をもったあの雄鹿が、青い宵闇のなかで鼻づらを高くもちあげ、向こうの大岩に向かって力強く跳躍する姿を、心の目にありありと見たのだった・・・

幻の雄鹿

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