2013年11月30日

創造的な不幸-10-

創造的な不幸-愛・罪・自然、および芸術・宗教・政治についての極論的エッセイ-
この作品について   目次

-10- <アメリカ文学とキリスト教>、その4、R.P.ウォレンのフォークナー評


 <アメリカ文学とキリスト教>第六章、もうほとんど最後である。ここでスチュアートは、結論としてキリスト教的解決を持ち出している。まず語られるのは、十九世紀自由主義の悲惨な崩壊についてだ。

「実験準備は簡単至極で、失敗のはずはないと信じられた。これに、人間は生まれつき善で、悪は名称だけだという信念を加えると、自由主義的環境のほぼ完璧な絵ができあがる。この環境が十九世紀もそれ以来も一般的かつ支配的であったために、一九一四年八月から始まる一連の世界的事件が、鋭い苦痛を多く生み出したのは当然である。というのは、幻滅の自由主義者の抱いた幻滅ほど苦痛に満ちたものはないからである。一九二〇年代の『失われた世代』(ロスト・ジェネレーション)は、彼らの面前で進行していった進歩主義を受け継いだ、予告なしの不用意な相続人であった。
「・・・我々がここで考えているのは、もちろん、あらゆる問題の中でもっとも根本的な人間の本質とは何か? ということである。・・・我々は何を期待する権利があるか? ということである。人間の本質的善性を主張して、原罪を否定し、受難の十字架を人間的地平線から抹殺する見解は、いかなる時代に『人生』を送るにしても不適当な心構えとされるであろう。・・・世界は不完全で、今後も長く不完全な状態を続ける模様だということを発見するような『自由主義者』の精神状態は羨むべきものではない。これに反して、カルヴィン主義者は少し厳しいかもしれないが、じっと耐えることができる。『自然な』人間の行動に驚いて我を失うようなことはないのである」

 次いで、エリオットを始めとする保守派への言及---
「彼らはキリスト教の根本教義・・・が現在まず第一に必要であると感じたのである。・・・彼らはたぶん、カトリックにせよ、プロテスタントにせよ、キリスト教の信仰のうちに教育されたであろうが、ほとんど必然的にいろいろな不可知論や不信仰に陥った。そしてまるで遠い国の放蕩息子のように精神的飢餓になやんだのち、最後に立ち上がって、彼らの父のもとに戻ってきたのだ。彼らの戻る場所は必ずしももといた場所と同じとは限らないが、彼らはキリスト教の根本教義に復帰したのである」

 エリオットの歩んだ道のり、宗教的信仰への「困難で」、「まがりくねった」道のりが描写される。
 <荒地>--「絶望はさらに大きくなり、それにしたがって宗教的意味も一層強調される。あたかも詩人が、宗教的信仰への意識的努力の存在し得る前に人は徹底した絶望に陥らねばならないということを、また神からの機会が人間破滅の淵に待っていなければならないということを暗示しようと願ったかのようである」
 <灰の水曜日>--「それが描写しているのは、絶望から希望への、不信から信仰への魂の前進である」
 <四つの四重奏曲>--「永遠が現世と触れ、また交差するとき」、人は主に出会い、火によって「浄化される」。

 宗教的儀式のメタファーという連想から、次にくるのはヘミングウェイである。例えば、<清潔な明るい場所>。
「この短編において、彼ら(バーテン)はまるで儀式をつかさどる司祭である。カフェもシンボルとなっている。それは暗闇に取り囲まれた明るい場所である。明るい領域はそれを包む暗闇と比べると哀れなほど小さいようだ。もしも暗闇が悪の世界の無秩序と混沌を表し、光の場所が・・・小さな秩序と規律と文明を表すとするならば、・・・小さな明るい領域は事をなすに十分である、あるいはとにかく、事をなす場所にしなければならない」

 ヘミングウェイの宗教性については、ロバート・ペン・ウォレンも論じている。それはもっと後の方で取り上げられることになるだろう。
 ただ、ここで次に論じられているのはフォークナーなのだが、ウォレンもまたフォークナー論を書いていて、合わせて読むと興味深いと思われるので、ちょっと脱線してウォレンの文章を持ってくることにする。それはまずフォークナーの自然観から始まっている。

           *            *

 "Understanding Poetry"の中でロバート・ペン・ウォレンは、フォークナーの自然観について、愛情に満ちた、適切な注解を書いている。
 彼はフォークナーの哲学的見解にちょっと触れたあと、その例証としてこの話題に入ってゆくのだが、作品における背景としての自然の描写のすばらしさをたたえた一節のあとにこう続くのだ---
「しかしながら、自然は背景以上のものなのだ。人間と自然との間には一つの相互関係が、ワーズワース流の自然との交感とさして違わないものがあるのだ。・・・どう破壊しようもない美が、そこに、人間のもろさの向こうにあるのである。『神が人間を造り給うた』とアイク・マッキャスリンは『デルタの秋』の中で言っている。『そして神は人間の住むべき世界を造り給うたのであり、もし神が人間であったなら、神ご自身が住みたいと思うような世界を造り給うたのだと私は思う』
「もしも人間が神に似ていれば、アイク・マッキャスリンが言うように、自然に対する人間の態度は純粋な静観的態度で、自然の形状と外観を純粋に楽しむ態度で、純粋な自然との交感であることが、理想であろう。この交感を持つための適当な態度は愛である」
 そして、再びマッキャスリンの言葉の引用---
『(神は)人間と人間が追いかけて殺すであろう鳥獣を、そうなることをあらかじめ知りながら、この地上に共に置き給うたのだ。神は「それでよろしい」と言われたに違いないと思う。・・・神は「人間に機会を与えてやろう。追跡の欲望と殺戮の能力と一緒に、警告と先見とを与えてやろう。人間が荒らす森や野原や、人間が殺す鳥獣が、人間の罪悪の結果となるだろうし、人間の罰の証拠となるであろう」と言われたのだ』
「ところで、人間であることのうちに一つの汚れが---言わば一種の原罪が---利用と略奪と違反の罪が、暗に含まれているのである。・・・しかし、愛によってある程度の罪の贖いを達成することは可能であり---もし人間が人間らしくありたいと思うなら、そうする必要があるのだ」
 それからウォレンは、フォークナーの批判する近代主義者たちの、自然を略奪し所有しようとする企ての愚かしさについて説明したあと、次のように続ける。
「・・・実体は買うことができないのである。それは愛によって持つことができるだけなのだ。
 自然と人間に対する正しい態度は愛である。そして愛は、それらを支配しようという権力欲とは正反対のものなのだ。・・・大地を呪い、破滅をもたらすのは、この憐れみの不足なのである。なぜなら、自然に対する略奪と人間に対する強奪は必ず復讐されるのであるから。・・・罪を犯す態度がいづれは必ず自らを罰することになり、従って人間もついには自身を罰することになるので、必ず復讐されるのだ」
 そして、「デルタの秋」の最後のページ---
『・・・わしがよく知っていたあの森が、復讐を叫ばないのも不思議ではない! と彼は思った。それを破壊した連中自身が、その復讐を成し遂げることになるであろう』
 この批評が書かれたのは一九四〇年代であり、フォークナーの作品自体はもちろんそれよりさらに古い。これらがこの二十世紀末における自然破壊の末路をこんなふうに的確に予言していたことに、我々は驚くだろうか? しかし、実際には驚くに当たらないのかもしれない。フォークナーにおける、ポパイやスノープス一族の描かれ方を見よ---彼らの精神性を見るとき、彼らのような人間たちが動かすようになった世界がどのように破滅してゆくか、それは火を見るより明らかだったのではないか?
 それからウォレンはさらに続け、フォークナーの人間観に関わる重要な一節に入ってゆく。
「自然に対する正しい関係と自然との交感を強調しているにもかかわらず、フォークナーの作品に見られる自然に対する態度には、自然の中に溶け込むことは含まれていない。フォークナーの神話学にあっては、人間は『大地を支配する宗主権』を持っており、人間は大地に属するのではなく、大事なのは人間的美徳---即ち、『憐れみと謙遜と忍耐』なのである」
 この意見は、先に挙げたアイク・マッキャスリンのそれよりもさらにふさわしい。というのは、神は我々が、(サディズムや貪欲ゆえではなく)生きてゆくために限って森や野原を荒らし、鳥獣を殺すことを罪とは見なさないからだ。我々はノアが方舟を出た日に聞いた神の言葉を思い出す必要がある---
「凡そ生ける動物は汝等の食となるべし あをもののごとく我之を皆汝等に与ふ」---Ge9:3
 あるいはエデンにおいて---
「海の魚と天空の鳥と地に動くところの諸の生物を治めよ」---Ge1:28
 自然を破壊するのでもなく、神として崇めるのでもなく、あるいは自然と同化するのでもなく、神からその管理を委ねられた資産としてふさわしく管理すること---鍵となるのは、この考えである。人間は自然とは違う存在だから、自然のままであってはならないのだ。というのは、人間は努力しなければ美徳を培うことができないからだ。そういうわけで、ウォレンは続けて書いている---
「・・・なぜなら、詩にくるまる必要があるのは、ただ人間的欲望だけなのだから。ジョージ・マリオン・オドネルがフォークナーの作品の中に、ヒューマニズムと自然主義との対立を指摘したのは正しいと思う。そして我々は、ある短編とか長編とかの主題が、単なる『自然の』段階における機械的な経験の繰り返しから脱しようとする人間的努力を---『野性の棕櫚』の中でシャーロット・リッテンマイヤーが言っているように、『再び暖かい眠りを取るために起きて、食事をし、排泄できるように、ただ単に食事をしたり排泄したり暖かく眠ったりするだけではないようになりたい』という、あるいは他の場所で書かれているように、ただ単に、さらに綿を栽培してさらに黒ん坊を買うために、綿を栽培したり黒ん坊を買ったりするだけではないようになりたいという人間的努力を、扱っていることに、何度となく気づくのである」
 人間的努力、人間的美徳---フォークナー文学の中心は、これである。
 ここで我々は注意しておかなければならない。キリスト教的見地からしてフォークナーが一個のキリスト教徒だったかどうかはともかくとして、フォークナーの文学そのものは厳密に言って、キリスト教的とは言いがたいのである。一九五〇年のノーベル賞記念講演の一節---
「私は人間の終わりを認めることを拒否します。・・・私は、人間は単に生き永らえるのではなく、勝利すると信じます。人間が不滅なのは、・・・人間には魂が、憐れみを感じ、犠牲的精神を発揮し、忍耐することのできる精神があるからなのです。詩人に、作家に課せられた義務は、こうしたことについて書くことなのです。人の心を高めることによって、人間の過去の栄光であった勇気と名誉と希望と誇りと思いやりと憐れみと犠牲的精神を人に思い出させることによって、人が耐えることの手伝いをすることが、作家に与えられた特権なのです」

I decline to accept the end of man. ・・・I believe that man will not merely endure; he will prevail. He is immortal, ・・・because he has a soul, a spirit capable of compassion and sacrifice and endurance. The poet's, the writer's, duty is to write about these things. It is his privilege to help man endure by lifting his heart, by reminding him of the courage and honor and hope and pride and compassion and pity and sacrifice which have been the glory of his past.

しかり、フォークナーの究極の目的は人間の偉大さを賛美することにあり、神を賛美することにはない。ウォレンは適切にもそれをこんなふうに表現する---
「フォークナーの作品の不動の倫理的中心は、いかなる一時代にも限られるものではない人間の努力と人間の忍耐に対する賛美の中に見いだされるべきである。フォークナーの世界には『善良な』人々がいっぱいいる・・・『どこにでも、いついかなるときにも、善良な人々はいるものだ』とアイク・マッキャスリンは『デルタの秋』で言っている」
 そしてこれが、オドネルがフォークナーの作品中に、キリスト教と自然主義ではなく、ヒューマニズムと自然主義との対立を指摘した所以である。
 フォークナーが、「あなたはキリスト教をどういうものと考えるか」という質問に対して答えた興味深い言葉がある。
「それは一つの行動規範であり、それに従うことによって我々は、自然の欲求のみに従った場合になりたいと思うような人間よりも、よりよき人間になることができるのです」

 "a code of behavior by means of which man makes himself a better human being than his nature wants to be if he follows his nature only"

要するに彼は、それが人をしてよりよい人間たらしむるからという視点でのみ、キリスト教に意義を認めているのだ。
 これは真のヒューマニストの言葉である。言い換えれば彼は、人を立派にするには何もキリスト教が唯一絶対の有効手段ではないと考えているわけなのだ。それはもちろん間違っていない。フォークナーの作品に出てくる善良な人々のうち多くは非キリスト教徒だし、あるいは<緋文字>のヘスタ、<権力と栄光>の警部、またV.フランクルでさえそうである。
 しかし、キリスト教的視点が最重要視するのは、そういう問題ではないのだ。究極の目的とは、神にしかるべく栄光が帰されることであり、それが聖書全体の主題なのである。それゆえ彼らがよりよい人間となるよう努力しなければならないのは、神に仕えるにふさわしい者となるためであって、よりよい人間となることそのものが目的ではないのだ。
 チェスタトンも書いたように---「宗教を守ることで道徳が得られたのである。人々はわざわざ勇気を培ったのではない。彼らは神殿のために戦い、気がついてみると勇気を持っていたまでである。彼らは清潔を培いはしなかった。ただ祭壇の前に立つために身を清め、気がついてみると清潔になっていたのだ」---<正統とは何か>
 そしてこれが、T.S.エリオットをして「キリスト教が真だからではなく、道徳の基礎を与えてくれるからというので採用する」人々を厳しい言葉で指弾せしめた理由でもある。
 フォークナーのキリスト教観は従って、ときに登場人物の「人間的努力」が神の掟を踏み越えることを許している。例えば<響きと怒り>におけるクェンティンであるが、ウォレンは書いている---
「・・・クェンティンが、ジェファスンの町の青年の一人にはらませられた妹のキャディに、自分と近親相姦を犯したと白状させようとする企ての中にも、我々は・・・罪の『恐怖』と地獄の『清潔な焔』のほうが『騒々しい世界』の無意味さよりも一層好ましいかもしれないという観念を見いだすのである。自分の妹が生まれの卑しい町の青年の一人と関係したという考えよりも、むしろ近親相姦のほうを選ぼうとするこのクェンティンの態度には、ジェイスンの俗物根性よりも一層多くのものが賭けられているのだ」
 淫行よりも近親相姦のほうがましである、と言っているのではない。それはむしろ、エリオットが逆説的に語ったように「何もしないよりは悪いことをした方がよい」ということなのであり、何らの道徳的意識もない、動物とさして変わらない状態で罪を犯すよりは、罪を犯しながらもそれに対する罪の感覚を持ち合わせているほうがまだましである、という意味なのだ。しかしながら、もしもフォークナーがキリスト教を至上命題と考えていたならば、わざわざこんな紛らわしい例えを持ってこなくてもよさそうなものである。律法において婚前交渉は死罪とはならなかったが、近親相姦は間違いなく死罪になったのだから。
 だが、こういう少数の例外を除いては、フォークナーの崇高な人間讃歌の多くはキリスト教的であり、またキリスト教のアナロジーとして見ることができる---ヒューマニズムはキリスト教から生まれてきたのだ。それはAに、自然主義的な人間観が間違っていることを納得させるのに十分である。
 ウォレンは続けて、フォークナーのさらに幾つかの作品を取り上げる。
 例えば、<死の床にありて>。
「・・・バンドレン家の人々は少なくとも英雄的努力をすることができるのだ。そしてこの結論の示すものは、アンス・バンドレンのような人間でさえ、一つの観念を把握していることによって、一般的水準以上に上ることができるということである」
 あるいは、<アブサロム、アブサロム!>。
「また我々は、ウォッシュ・ジョーンズのサトペンに対する愛着が示すように、彼でもある種の漠然とした夢を持つことができたということを、そして最後にサトペンを殺害することによって、威厳と人格を獲得していることを、思い出すことができるのである」
 それから彼は<響きと怒り>の倫理的中心であるディルシーについて語り、<紅葉>において誇りに満ちて敗北する黒人について語り、「苦しみを通して謙遜を学び、苦しみに打ち勝った忍耐を通して誇りを学んだ」サム・ファーザーズ老人について語り<八月の光>のジョー・クリスマスですら、なぜ彼が英雄的であったと言えるのかを説明する。それからまた、彼は<熊>からこの力強い一節を引用する---「なぜなら、彼らは耐え忍ぶだろうから。彼らは我々よりも立派な人間なのだ。我々よりもより強い人間なのだ。」
 さいごに彼は<墓場への闖入者>について語り、南部に生きる白人としてのフォークナーの黒人観と、彼の苦悩に満ちた人間賛歌とを見事に言い表したギャビン弁護士の言葉を引く---
「・・・黒人は自由な国に住んでいる人間であり、それゆえ自由でなければならないという前提だ。我々が実際に(北部に対して)護ろうとしているのはそれなのだ。黒人を我々自身の手で解放する特権なのだ。それは他の誰にもできないから、我々がやらなければならないのだ。なぜなら北部人は今から百年前もそれをやろうとし、自分たちの失敗と認めてからももう七十五年も経っている始末なのだから。それだから、それは我々南部人がやらなければならないのだ。もうじきこの種のこと(リンチ)は起こる心配さえなくなるだろう。・・・一昨日の土曜日にそれは起きたし、おそらくまた起きるだろう。おそらくはもう一度、おそらくはもう二度。だがそれからはもう起こらず、おしまいになるだろう。恥辱はもちろんなおも後に残るであろうが、やがて人間不滅の全記録は人間の耐え忍んできた苦しみのうちに、贖罪の踏み石を上って星に達しようという苦闘のうちに、書き記されることになる」
 そして、結論---
「もし人間に対する尊敬がフォークナーの作品の中心的主題であるとすれば、その主題を意味あるものとしているのは、フォークナーが人間を尊敬することの難しさを悟り、それを劇化している点にある。あらゆるものがそれを拒むのだ。野蛮やエゴイズムや、剥き出しの欲望や、愚鈍や傲慢や、時には美徳でさえもそうであり、また歴史や伝統の誤解や、我々の教育や、我々の歪んだ愛国心などが。しかしながら、それは偉大な劇であり、いつも変わらぬ物語なのだ」

           *            *

 結論としては、スチュアートもほぼ同意見である。
「フォークナーは、メルヴィルやシェイクスピアと同じく、根源的な作家である。・・・深淵に関心を持っている。剥き出しにされた人間の魂に関心を持っているのだ」
「フォークナーはストックホルム演説で『私は人間は勝利する(prevail )であろうと信じます』と語った。ある雑誌の一寄稿家は、プリヴェイルという語に戸惑いを感じたと言い、これは曖昧な、意味のない言葉であると断定した。しかし私は、クルーデンの聖書の『コンコーダンス』でその語を引き、それからその語の使われている文章(六十五ある)を読んだら助けになるであろうと示唆したい。大体において、プリヴェイルは神の助けによって勝利を得る場合に用いられている。・・・それは聖書の言葉で、したがって宗教的な意味を含んでいるのである。「フォークナーにあっても勝つことは決して容易ではない。・・・フォークナーの主人公たちはほとんど常に悩みの中に耳まで浸かっており、ほとんど常に地獄と洪水に取り囲まれている。・・・しかし彼らは常に聳えている。彼らは常に人間の潜在力に対する我々の観念を高めてくれるのである」
「フォークナーはキリスト教の根本的概念を極めて効果的に具体化し劇化しているので、彼は現代における最も深いキリスト教的作家の一人であると見なすのが正当であろう。彼の作品の至るところに基本的な原罪の命題があり、至るところに肉と霊との葛藤がある。また規律の必要、苦悩のかまどの火による試練の必要、犠牲や犠牲的死、犠牲を通して罪の贖いをすることの必要がある。フォークナーの人間は英雄的、悲劇的な人物である。・・・そしてその偉大性を測定するのは、彼の達する高さと、彼の陥る深さ・・・との間の距離である」

 こうして、心を打つ文章ではあるが、ここでもまた、人間的努力とキリスト教という二つの微妙に異なる価値が、微妙に混同されている。
 この章の最後はウォレンの<竜の兄弟>を引用して結ばれる--

 共犯を認めることは無実の始まり、
 必然性を認めることは自由の始まり、
 充足の方向を認めることは自己の死、
 そして自己の死は自己の存在の始まり。
 The recognition of complicity is the beginning of innocence,
 The recognition of necessity is the beginning of freedom,
 The recognition of the direction of fulfillment is the death of
  the self,
 And the death of the self is the beginning of selfhood.

           *            *

 そして終章、スチュアートはそれまでに取り上げた、彼が正しくないと考える幾つかの人間観と、正しいと考えるそれとを要約したのち、次のように結ぶのである--

「人間は道徳的行為者であり、悲劇的人物である。・・・
「というのは、人間は不完全な、完全になり得ない存在だからである。・・・しかし彼の状態は、・・・神の恵みの届かないところにあるとは言えない。これが人間の状態の本質であり、キリスト教の希望なのである。そしてこれこそ偉大なアメリカの作家たちが人間経験を戯曲化して描いた意味なのである」
 Man is a moral agent, and a tragic figure. ・・・
 For man is an imperfect, nonperfectible being. ・・・But his state,・・・is not beyond the reach of God's redeeming grace. This is the essence of the human condition, and the Christian hope. And this is the meaning of the dramatization of human experience by the greatest American writers.
もう一度繰り返そう--「そしてこれこそが、偉大なアメリカの作家たちが人間経験を戯曲化して書いた意味なのである」

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