2010年08月28日

潮騒のスケルツォ

 7年くらい前の構想です。この夏、機が熟したのか一気に書きあがりました!

 潮騒のスケルツォ   2010 by中島 迂生    

 
 1954年、北ポルトガルの寒村、灯台のある小さな海辺の村。・・・
 それは夏のはじめ、風の強い、灰色の雲むらが低い空を吹きすぎゆくとある夕暮れのこと。・・・

 浜辺へ至る、岩地のあいだの坂道を、自転車に乗ったグレゴールが下ってくる。
 クラシカルなスタイルの、骨太な自転車。その髪を吹き散らして潮風が唸る。
 ひと荒れきそうな空模様・・・今しもぽつり、岩地を雨がぬらしはじめる。
 灯台の黒々としたかげ、雲を背に、おびやかすように聳えるそのすがた。・・・

 グレゴールは頭を低くして風をよけながら、自転車をとめると、灯台のわきにうずくまる小さな石造りの家に向かって駆け出す・・・鍵を取り出してがちゃりとまわし、重い扉を押し開けて入る。
 中はがらんとして、かび臭い・・・昔、灯台守とその家族が暮らしていた家で、長らく廃屋になっていたのだ・・・

 少しして、グレゴールのあとを追ってロバの引く荷台が到着する。
 いくつかの家具と、家財道具と・・・それから古い毛布に包まれて、二人がかりでそろそろと引きおろされる、おんぼろのアップライトピアノ。・・・
 そうそう、それはそっちに置いて。オーケー、その向きで。・・・
 グレゴールの指示に従って男たちは家具を運び、位置を据え、手際よく仕事をすませると、からになった荷台にロープの束を放り、自分たちも飛び乗って、坂道をからからと帰ってゆく。・・・

 ひとりになったグレゴールは扉を閉め、灯油ランプに火を入れた。
 外は迫る宵の闇。雨あしはいっとき強まって、また雲に巻き上げられて去っていったようだ。・・・
 グレゴールは煙草に火を点け、しばらくのあいだ窓辺にもたれて思いに沈む。
 それから埃にまみれたスツールを引き寄せると、アップライトピアノの蓋を開ける。
 宵の浜辺に、潮風にまじってピアノの音色が流れはじめる。
 はじめはやや硬く、ためらいがちに、やがてそれ自身の調子を見いだすにつれ、より饒舌に、流麗に、心のままに。・・・

      *

  それは全くの、急な思いつきだった。
 思いついたというより、取り憑かれたといった方がいい。
 急に海を見ないではいられなくなった。
 灰色にけぶる水平線。白い波がしら、荒々しく岩にうち砕ける波のひびき。・・・
 これまで何年というもの、その傍らに身を置かず、それから遠く切り断たれて、どうやって生きてきたというのか?
 ・・・今すぐにも行かなくては、息ができない、死んでしまう。・・・
 それは狂おしい渇望だった、狂気だった。・・・

 このぶっきらぼうな、もの淋しい浜辺にひとりいて、グレゴールはいま、やっと安堵の息をつく。
 己れの望みと調和しえた心のおだやかさ。・・・
 その晩、一心不乱にピアノに向かい、ずいぶん遅くまで弾きつづけて、彼は打ち寄せる波のひびきを、潮風の吠え叫ぶ声をその調べに映しとろうとした。・・・

 来る日も来る日も、彼は波打ちぎわを歩いて波の音に耳をすませ、潮風に身をさらしてはまた歩いた。
 それらがこの曲の基調となるのだ・・・
 海の色と、空の色、流れゆく雲の色と、それにつれて刻々と変わりゆく岩の色、それらがこの曲のトーンとなった・・・
 淡い灰緑のしずかな波のうねり、透明な泡つぶ、波の心のひだに分け入って、彼はそのディテールを描きとろうとした・・・

 来る日も来る日も、その肌に触れたものをあらわそうとピアノに向かった。
 弾き疲れると、浜辺の岩地をこえて、女主人のアンナがやっている地元の店へシェリーを飲みにいった。
 いつも二、三人の常連がかたまっているきりの店内は薄暗く、しずかで、よそ者にも居心地がよかった。

      *

 彼がやってきて一週間ほどしたころ、さいしょの嵐がやってきた。
 ごうごうと唸り、吠えたけり、空にとどろいた。
 海は暗く渦巻き、濁った泡を散らして岩に砕けた・・・
 彼は寝つかれず、闇の中に横たわったまま、じっとその音に耳を傾けていた。・・・

 嵐が来て、去っていって、その暁方のことだった。
 浜辺は夜明けの白いうす明るみ。
 打ち上げられた海草や流木や貝殻や、色々ごちゃごちゃしたものにまじって、岩場の下の小さな砂浜に、彼は横たわるその姿を見出した。
 引きちぎれた漁網に絡まって、プラチナブロンドの髪が潮に濡れている。
 淡い灰緑の瞳が、うつろに大きく見開かれて彼をじっと見つめた。
 
 リュディア。
 深海の底からやってきた人魚。
 その夏、ひと夏のあいだ、彼女は灯台のそばの石造りの家に暮らした。

 遭難したんだね。・・・
 いいえ。・・・辿り着いたの。・・・

 大嵐のしけの荒波のかなたに、彼女は己れをよぶ声を聞いたのだった。
 その旋律にたぐり寄せられて、彼女は仲間たちのもとからさまよい出た。
 とどろく波の向こうから、とぎれとぎれにかすかに届く、生まれて初めて聞く音色。
 彼女はピアノを知らなかった。・・・ 

      *

  モノクロームの日々。・・・薄暗い部屋をみたす、ただその指先の紡ぐその調べだけ。・・・
 人魚は部屋のすみでじっと聴いている、グレゴールがピアノに向かい、海の魂を、それに呼応する己れの魂を探りあてようとして弾きつづけるその音色を。
 時折音が途切れ、余韻に、沈黙にとって変わる。
 やがてまた静かに流れはじめる・・・
 時々、手をとめてペンをとりあげる。
 五線譜が書きなぐられてはピアノの上からはらはらと舞いおちる。

 そのゆたかな音色、心ゆさぶられるひびき。・・・
 音のひとつひとつが粒子となって、波の力強さを、潮騒のとどろきを描いてゆくのを、乙女はじっと聴いている。
 重なりあい、響きあい、揺れ動く波動となって打ち寄せる。
 別の種族の生きものなのに、住む世界が違うはずだったのに。・・・
 こうもそれらが己れの魂にひびくのはなぜか、己れの心をかきたてるのはなぜなのかと考えながら。・・・
 人魚は目を閉じてじっと見ている、波のうごきが入り江をすっかりみたすように、いまその音色がその心にみちてゆくのを。・・・

 しだい調べはうねり逆巻き、潮に運ばれて激しく鳴り響く、
  竜の首をもたげ、躍りあがって岩に砕け散る深緑の荒波、すべてを破壊して戻らない・・・
 高ぶる激情、とどろき渡る空、遠い海鳴り。・・・
 生まれてはじめて知る想いに、彼女は眼を見開き、いまその瞳に深いブルーの光が宿る。
 人魚は尾びれを抱え、震えている。・・・これは何?・・・

      *

 逆光の窓辺。・・・くもり空のほの明るみに、彼女の横顔が浮かびあがる。
 午後の室内にその声が流れる、よどみなく、低く掠れた モノクロームの声。・・・
 グレゴールはじっと耳を傾けて聴いている。
 彼女の語る声、その声の調子に、そのおだやかな抑揚、そのえらぶ言葉のひびきに。・・・
 
 彼女は語る、自分のやってきた世界のこと、彼女の家族、姉や兄たち、家族みんなで住んでいた 海の底の大きな家のこと、人魚たちのコミュニティーのこと。・・・
 彼女は語る、幼いころ遊んだ場所のこと、大きくなってから泳いでいった色んな場所のこと、
 岩場から眺めた陸の神秘的なようす、魚たちや海鳥たちや、海蛇や海馬たち、時折見かけた人間たちのこと。・・・
 海の向こうに沈んでゆく夕陽のこと、月の光のかけらが幾千にも砕けて浮かぶ、夜の海のこと、暗い水のなかで光る発光虫たちのこと、すさまじい嵐のこと。・・・

 グレゴールはじっと聴いている。・・・
 話し疲れた人魚が眠ってしまったあと、彼は煙草に火をつける、彼女が話したすべてのことが、その耳に響きつづけている。・・・
 やがて人魚のまどろみのなかに、しずかなピアノの音色が流れはじめる。・・・

      *

 夏の日々が過ぎていった。 
 寒村の浜辺に、人は多く来ない。
 舟を出す地元の漁師たち、ムール貝を採りに来る少年たち。
 海は毎日のように荒れ、晴れることはめったにない。・・・

 くもり空に舞うかもめの群れ。
 マーブル模様のグレイの濃淡の雲むらが、あとからあとから流れすぎる。
 白い空。・・・潮の匂い。・・・
 薄日の射したりかげったり、それにつれて刻々と色あいを移り変えゆく岩地と海のおもて。・・・
 波のうねり。・・・ひびき、ざわめき、遠いとどろき。・・・
 頬吹きすぎる風、吹きなぶる潮風、
 砂地にちらばった湿った貝がらのかけら。・・・

 灯台の廃屋に住み暮らす変わり者のことは、少しずつ村に知られていった。
 ・・・あんなところにひとりで住んで、何をしてるんかね。
 アンナの店に行くと、漁師たちが尋ねてくる。
 ・・・曲を書いてるんです。

 ・・・海の曲をね。
 と、アンナがつけ足してやる。
 ・・・海の曲をね。
 口真似するその調子に、かすかな侮蔑がにじむ。
 ひまな奴もあるもんだ、彼らの目はそう言っている。
 ・・・作曲ってのが、仕事になるもんかね。おいらもそのうち、カモメの歌でもつくってみるか。
 一同に笑いが起こる。
 ・・・それじゃ、パリでコンサートでも開くときにゃ言っとくれ、聴きにいくから。
 アンナが返すと、ますます笑いが大きくなる。 
 グレゴールは無言の感謝のまなざしを向ける。・・・

 夏の日々が過ぎていった、少しずつ海の色を、空の色を、心の色を変えて。・・・
 来る日も来る日も、彼はピアノに向かい、弾きつづける。
 手をとめては、五線譜にペンを走らす。
 その音色が波のひびきを、海のとどろきを、よりそのままにつかみ、その内奥深くへ分け入ってゆくのを、人魚は部屋の隅で耳を傾けて、聴きつづけている、
 その調べが沖へ沖へ、海の心深くへ、その魂をたずね求めて、かなたへ遠く彷徨いゆくのを。・・・

     *

 夏の終わりのある午後のこと、グレゴールはいくどめか、海辺のアンナの店へ行く。
 ・・・シェリーを。それから、ガス水もね。・・・
 白く曇ったおだやかな午後だ、風が少し強い。
 彼はこめかみに指先をあて、いつになく考えに沈んで窓を眺めている。

 アンナがシェリーと炭酸水を運んできてグレゴールの前に置く。
 ・・・調子はどう?
 ・・・仕事が、はかどらなくてね。
 グレゴールは呟いて、煙草に火をつける。
 ・・・だいたい完成したんだが、まだ何かひとつ、欠けている気がする。
 彼が沖あいへ目をやったとき、アンナは見ている、その瞳が窓ガラスのように、ただ海の色よりほか何も宿していないのを。・・・
 
 ・・・どうもあんたは、遠くばかり見すぎているんじゃないかね。なんだかそんな気がするね。
 と、アンナは言う。
 ・・・もうちょっと身近なところに目を向けてみたら? 案外、何か見つかるかもしれないよ。
 ・・・身近なところって、何に?
 グレゴールはシェリーの透明な銀色をじっと見つめ、グラスを曇らせるこまかな水滴を、指の先でそっと拭う。
 ・・・あたしが知るもんかね、そう言ってアンナは肩をすくめた。
 ・・・あんた、目があるんだろ? 自分で見たらどうだい?・・・

 グレゴールは無言でシェリーを飲み干すと、ふたたび窓の向こうの海を見つめた。
 それから彼はひとり、岩地を横切って、潮にさらされた石造りの家へ、人魚のいる部屋へと帰ってゆく。・・・

 しだい暗がりのまさりゆく部屋。・・・グレゴールはピアノに向かい、弾きつづける。・・・
 何かが足りない。まだ、何かが。・・・
 その音色に苦しげな調子がまじるのを、人魚は敏感に感じ取っている。
 それまでの流麗な調子が、なぜだか失われてしまっている。
 潮の流れをもういちど掴もうとして、もがけばもがくほどに落ちてゆく。
 孤独な魂の叫び。・・・
 聴いているのが辛い。・・・己れ自身の心のように、グレゴールの苦しみがずきずきと響いてくる、耐えられない、とても我慢できない、何もできずに見ているだけなんて。・・・
 我知らず、リュディアは彼のそばへ近づき、その背に、そっと腕をまわす。
 グレゴールは振り向くが、彼女を見てはいない、彼女は知る、その瞳がガラス玉のように透き通って、ここではなく、ただどこか遠くを一心に見ているのを。・・・

      *

 夏の終わり、再び大嵐がやってきた。
 沖の方からごうごうと轟いて、突風が浜辺の砂を巻き上げ、鉛色の雲塊を吹き寄せる。
 ほどなく、叩きつけるような大粒の雨が、窓辺を、視界をすっかり覆い、風景の線をかき消してしまう。・・・

 高まりゆく嵐につれて、グレゴールの指の奏でる音色も潮の流れのように盛り上がり、高ぶってゆく。
 ざっざー、ざっざー。・・・波のとどろきを模して、その魂を描きだす。・・・
 白熱の恍惚のなかでひとり弾きつづける、彼は感じている、これがそれだと、今やようやく彼は海の魂をつかみえたと、それをたしかにつかみ得たと。・・・

 その音色に、胸をかきむしられるような思いで耳を傾けつづけていたリュディア、
 彼女はふと、びくりと身を起こす。
 その旋律の中に、以前知っていたひびきを見出したのだ・・・

 リュディア、リュディア! どこへ行くの?・・・
 そっちへ行ってはいけない、迷い出てはいけないわ。
 そっちは海岸よ、打ち上げられて死んでしまう・・・
 戻ってきなさい! リュディア、リュディア!・・・

  姉たちの呼び声だった・・・ずっと忘れていた、自分の故郷。・・・
 戻ってきなさい!・・・ リュディアは心かき乱されて、グレゴールの弾きつづける指先を見つめる。
 戻ってきなさい!・・・ リュディアの瞳に、しだい変わりやすい海の色が、人の思いをこえた灰緑の虚ろさが戻った。・・・
 長いあいだではじめて彼女は窓の外に目を向けた、あのときと同じように、夏のはじめのあの日、嵐のかなたにさいしょにその音色をきいたあのときと同じように。・・・

 いま彼女は重い扉を引き開け、大嵐のたける外へとひとり出てゆく、
 グレゴールは振り返りもせず弾きつづけている・・・彼女が出てゆくのを知ってはいるけれども、いまここで手をとめたらこのメロディは永久に・・・この世に現れ出ないだろう・・・

 彼女はもう振り返らない、まっすぐに浜辺へ、身を躍らせて襲いかかってくる波のなかへ、
 砕け散る泡しぶき、濁った色の荒波のなかへ、まっすぐに進んでゆく、海へ、ふるさとへ・・・
 すぐに忘れていた感覚がよみがえってきて、彼女は水に溶け入り、海とひとつとなって、その心深くへ還っていった・・・ 遠く、底へ底へ・・・ その魂の源へ・・・

      *

 夜明け近く、嵐は去っていった。・・・
 何かを永久に失ったような気がした白い目覚め。・・・
 鍵盤に突っ伏したまま眠っていたグレゴールは、ふと眼を見開いて、床に取り落としたペンを見つめた。・・・
 夜明けの薄暗やみ。・・・この部屋のがらんとした空虚。・・・
 長い長い夢から覚めた。・・・
 さっきまで誰かがいたような気がした。・・・誰だったのだろう?・・・

 立ち上がってグラスを取り出し、ブランデーを注ぐ。
 それから床にちらばった五線譜を拾い上げてうちながめ、束ねてテーブルにのせた。
 歩きまわる、眠気と疲れ、重く気がふさぐ。・・・
 浜に波が打ち寄せるように、はじめて心に空虚が打ち寄せる。・・・
 彼は扉を引きあけると、浜辺へ出ていった。・・・
 
 濁った灰色の海。・・・乱れ飛ぶ海鳥たち。・・・
 波打ち際を歩いて、遠く沖を見つめた。・・・

 終結部のさいごの数小節に、彼は空虚と喪失とを書き加える。
 そして追憶を・・・心を横切ってゆくイマージュ、白い虚無のなかを沖へ向かって泳ぎゆく人魚のイマージュを。・・・
 これがさいごに欠けていた終結部だ。でなければ終結部は、永久に欠けたままだろう。・・・

 ひと夏過ごしたポルトガルの浜辺の小屋で、彼は曲を書き上げて持ち帰った。
 ・・・ガタンゴトン・・・ガタンゴトン・・・窓辺のまどろみ。・・・
 ほどなく列車は雑踏のなかへ、北駅のガラス天井のもとへ滑りこむ。・・・

 パリのコンサートホールで、夜会の席で、グレゴールの新作は熱狂的に迎えられた。
 11月にはレコードが出た。
 そのゆたかな表現に、いきいきとした海の描写に、いまも人々は称賛を惜しまない。
 それでも耳の鋭い人々は・・・ あるいは、心の鋭い人々は・・・
 いまも終結部の響きに聴きとるだろう、ある種の癒しえぬ喪失と空虚とを・・・そして追憶を。・・・

 リュディア、リュディア!・・・
 二度と戻りえぬ ひと夏の交情の記憶。・・・
 白い虚無のなかを横切ってゆくひとつのイマージュ、海の魂の その源へ還りゆく人魚のイマージュ。・・・

 ・・・潮騒のスケルツォ。・・・

  

Posted by 中島迂生 at 02:02Comments(0)潮騒のスケルツォ