2018年02月12日

ホテル・ノスタルジヤ(12)


  

12.

 ジャンがつきあってくれなくなってからも、夜のリュクサンブール遠征は続けるつもりだった。
 けれども一、二度試みて、イレーヌの心は折れてしまった。それまで、いくらでもひとりでやってきたはずなのに、なぜだかもうだめだった。暗闇はもはや身を隠してくれる親切なヴェールではなく、いつ牙を剝いてくるか分からない怪物どもが、そこかしこに潜む淵だった。誰にも見られていないはずなのに膝がガクガク震え、枝を折り取るあいだも気が気ではない。
 …おかしいな。前はこんなじゃなかったのに、どうしちゃったんだろ、私。…
 あんなことが、また起こったら…という心配ばかりではなかった。こんど自分が捕まって告発されたら、罰金を支払うあてなどない。
 --仕方がない。やり方を変えるわ。
 彼女はそれまでの方法を潔く捨て、新たな作戦を練りにかかった。
 ホテルからほど近いモンパルナス墓地のまわりには、凝った花束など彩り豊かに並べた、高級な花屋がいくつもある。彼女はその中の一軒、とりわけ人のよさそうな年老いた店主のやっている小さな店に目をつけて、三日間、続けてそこへ通った。
 最初の日には、にっこり挨拶して、お天気の話だけ。そして、「素敵な花ね」とうっとり眺め入った。
 二日目には、そこで小さな花束を買った。一輪のばらと霞草にちょっぴりの孔雀羊歯、コップに入れて飾るような小さな花束。それでも土地柄、なかなかの値段だ。彼女には決して安い買い物ではなかったから、投資に見合った実入りが得られるよう、注意深く気を配らなくてはならなかった。
「感心だね、お嬢さん」
 店主は花をきれいな包装紙に包んでくれながら、のんびりと話しかけた。
「お墓参りかい?」
「いえ、まだ生きてるの」
 イレーヌは無邪気な笑顔で答えた。
「おかげさまでね… いつまでもつか、分からないけれど。ちょっと、この近くの病院にね…」
 三日目には、ちょっとついでに寄ったの、と顔でふらりと現れた。そして、店主から問われるままに、入念に作り上げておいた、不治の病で入院している父親の話を訥々と語って聞かせた。
「昔から絵を描くのが大好きで、今もベッドでスケッチブックに花の絵を描いてるの。きのうも、ここで買った花束の絵を描いてたわ。とても喜んでた。…でも、ほんとはお父さん、もっと大きな絵を描きたいのよ。両手にいっぱい抱えるような、たくさんの花の絵をね。シャガールの花束みたいな… だからとても心苦しくて。私には、そんなりっぱなお花を買えるようなお金はないんですもの…」
 こうして彼女はその日、店を出るとき、少しばかり傷んで売り物にならなくなった切り花をたっぷりひと束、腕に抱えていた。そのうえ、心優しい店主から、こんなのでよかったらいつでもあげるよ、お店を閉めるころに取りにおいで、というありがたい申し出までも取りつけていたのだった。

 白ばらや豪奢なダリア、アネモネやぼってりとしたラナンキュラスなど、高価な花々を腕いっぱい抱えて意気揚々と階段を上がってきたイレーヌは、獲物を仕留めた猟師のように誇らしげだった。
 ところが、メルバの反応は必ずしも芳しくなかった。
「甘ったるくて、重~い、あとで胸焼けがしそうです… どうもこの種の切り花は食べつけてなくてね。それにちょっと萎れてますねえ、舌に固いすじが残ります… 私はやっぱり、もうちょっと新鮮な、野趣溢れる感じのほうが好みでね…」
「もう、ごちゃごちゃうるさいわね!」
 イレーヌは怒って言った。
「毎日、命懸けで調達してくるこっちの身にもなりなさいよ! これ以上、ひとの持ってくる花に文句をつけるんなら、あんたを窓から放り出すわよ! そしたら、骨折どころじゃすまないんだから」
 それを聞いたメルバは、下唇を突き出しつつも黙りこんだ。代わりに、いよいよ熱心に、翼を交互に動かす練習に励むのだった。すでにギプスは外れていて、あとは再び飛べるだけの力と感覚を取り戻すだけだった。
 そろそろ潮時じゃないかしら、と、イレーヌにも思われた。何だかんだでメルバの食べる量はあいかわらず生半可なものではなかったし、花屋の主人からもほどなく、「お父さん、ひどく創作意欲が旺盛なんだな。不治の病だというのに大したもんだ」と皮肉を言われるまでになった。
「そうなの、」イレーヌは負けじと、天使のような笑顔をつくって答えた、「お医者さまが言うには、内臓の数値が少しずつ、正常に戻ってきているんですって。もしかしたら奇蹟が起こるかもしれないって。そうしたらほんとうにムッシュウ、あなたがいつも下さるお花のおかげだわ」
 そうして心の中で、このつてがなくなったらこんどはどこから花を調達しようかと、ひそかに思い悩むのだった。







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