2018年02月03日

小説 ホテル・ノスタルジヤ(4) 怪我をしたメルバ


小説 ホテル・ノスタルジヤ(4) 怪我をしたメルバ 小説 ホテル・ノスタルジヤ(4) 怪我をしたメルバ 小説 ホテル・ノスタルジヤ(4) 怪我をしたメルバ

4.

 それからほどなくしたある晩のことだった。
 イレーヌはノートルダムの裏手の公園を歩いて帰る途中だったが、ふと、街灯のおぼろな明るみの下で、茂みのあいだから翼の端っこみたいなものが飛び出ているのに気がついた。何やら見覚えがあるような気がしてそっと引っぱってみると、びくっとして、すぐさま引き戻そうとする感触があった…だが、翼をすっかり茂みの中へ引きこんでしまうことはできないようだった。
 イレーヌは少しためらったが、そっと枝のあいだをかき分けて、隙間から目を凝らしてみた。と…街灯の光を受けて微かにきらっと光る瞳…茂みの奥には真っ白な美しい馬がうずくまっていて、翼の持ち主はこの馬だった。
「触らないでくださいよ、迷惑だな」と、馬は文句を言った。「怪我をしてしまって、たためないんですから」
「あら、それはごめんなさい。悪気はなかったの。…ところであなたはもしかして、市庁舎のメリーゴーラウンドのところのメルバじゃない?」とイレーヌはたずねた。
「お嬢さん、覚えがいいんだな。それでは、他人のふりをしても仕方ない」と、馬は認めた。
「どうしてこんなところにいるの。みんな心配してるんじゃないの?」
「ああ、どうしてもこうしてもありませんよ。昼間、通りを渡ろうとして、車とぶつかったんです。まったく、この街の往来の激しさときたら、気が狂ってますよ。うっかり出歩けやしない」
「あら、それは大変。すぐに手当てをしないと…あなたのところの誰かに連絡するわ」
「ああ、ノン、ノン! めっそうもない、やめてください!」馬はぞっとしたようすでかぶりを振った。
「あそこにはもう戻りたくありません。毎日、同じところでぐるぐるぐるぐる、目が回るのです。それに、乱暴な子供たちが私の耳を引っぱったり、靴の先で蹴ったりするのです。もうごめんです、私は亡命するのです」
「そうか、メリーゴーラウンドだからといって、楽しいことばかりじゃないのね」
 イレーヌは困ってしまった。
「でも、とにかく怪我の手当てはしないといけないわ。どうしたらいいだろう、獣医さんかな。…いいわ、そこで少し待っていて」
 イレーヌは踝を返して、小走りに走り出した。通りを駆けまわって、遅くまでやっていたカフェを見つけると、電話帳を貸してもらい、近くの獣医を探しはじめた。片端から何軒も電話して、やっとつながったのがデュバル医師のところだった。
「あのう、今から伺ってもよろしいでしょうか」
 恐る恐る聞くと、少し考えているようすだ。
「うーん…緊急かね?」
「はい、極めて緊急なんです!」
「分かった、ではすぐ来なさい。待っているから」
 助かった! イレーヌは何度もお礼を言って電話を切ると、住所を控え、カフェを出た。急いでメルバのところへとって返すと、彼の大きな体を茂みの中から引っぱり出した。
 馬はさいしょ、外に出てくるのをいやがった。
「誰にも見つかりたくないのです、連れ戻されるのはごめんです」
「大丈夫、大丈夫。…もう遅いから誰も見てやしないわよ。それよか、こんな公園なんかにいてごらんなさい、その図体で、隠れていたってたちまち見つかっちゃうから」
 イレーヌは言って聞かせた。
「歩ける?」
「うー、体の左半分が痛むのです。でも何とか」
 メルバはぶつけた翼がうまくたためず、斜めに引きずるようにしていた。それでもイレーヌと連れだって、街灯のあかりをたよりに、何とかかんとか、ドクター・デュバルのアパルトマンまで辿り着いた。
 呼び鈴を鳴らすと、パジャマの上から毛織りのガウンをはおったデュバル氏が出てきた。
 診察室でざっとメルバのようすを見て、彼は言った。
「これは痛いだろう。左側の翼は根元から折れてるね。副木を添えてしばらく安静にしていないといけないな。今晩は消毒と包帯を巻くだけにして、明日、何か副木に使えるものがないか見てみよう」
「ああ、それはご親切に! 感謝に尽きますわ」
 イレーヌはほっとして言った。
 次の日、再び見に行ってみると、メルバは丁寧に包帯を巻かれ、翼の優雅なラインに沿ってぴたりと合った副木をあてがわれていた。
「あれは、翼のある馬用の副木ですか」とイレーヌが尋ねると、ドクターは答えた。
「いや、あれはイタリアンハープの枠木の一部なんだよ。私の祖母の持っていたハープが納屋に残っていてね、外してあてがってみたら、ぴったりだった」
「まあ、この子は幸運ね。いいお医者さんに出会えてよかったわ」
 イレーヌはそこで思い切って口を開いた。
「デュバルさん、実はひとつお願いが… この子を怪我が治るまで、少しの間預かっていただけませんか。見つかったら連れ戻されてしまうし、どこにも行き場がないんです」
「そうさね、中庭にちょっと芝生のところがあるから、そこに少しのあいだ置いてやれると思うよ。以前にも、梯子から落ちたヤギをしばらく置いてやったことがあったっけな」
「梯子から落ちた? どうしてヤギが梯子に?」
「梯子を登る芸をさせられていたんだよ。大道芸人のね。かわいそうに、ヤギにとっちゃ受難だよな。…そうだ、ついでだからちょっと見ていきなさい」
 帰りがけ、デュバル医師はイレーヌを、アパルトマンの小さな中庭へ案内してやった。芝生を囲んでいろいろの庭木がとりまぜて植えられた、気持ちのよい一区画だった。とりわけ目を引いたのはみごとな紫色の木蓮の木で、まだ水仙の季節でもないというのに、すっかり花盛りだった。
「どうだい、もう春が来たようだろう」医師は自慢げに言った。
「ふつうより2ヶ月も早く咲くのだよ。非常に珍しい品種なんだ。うちの家族は代々この土地に暮らしていてね、昔うちの先祖が航海先の中国から持ち帰ったという話だよ。妻のお気に入りでね。毎冬、これが咲くのを楽しみにしているんだ」
「まあ、まるで秘密の花園ね。こんな素敵な庭があるなんて、外からは想像もつかないわ」
「あの子も相当参っているようだからね… ここでちょっと過ごせば、じきに元気になるだろう。屋根はないが、まあ問題あるまい。寒かったら温室に入れてやろう」
「ああ、それはほんとに助かります、ありがとう」
 これであの子ももう大丈夫ね。…イレーヌはやれやれと、肩の荷を降ろした気持ちだった。
 ところが、実のところそれはやっかいごとの始まりに過ぎなかったのだ。
























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