2020年03月20日

小説・アレクサンドルⅢ世橋 1. 出会い

小説・アレクサンドルⅢ世橋 1. 出会い


…でもあのときが初めてではなかったね、すでにいちど会っていたね。
ええ。橋の上で。橋の上で…
私たちは、互いの夢の中で出会っていたのかもしれないね。…

薄れゆくシルヴィーの意識のなかで広がってゆく、しずかな海の情景。冬の朝の海、かなたまでしんと広がる、故郷ノルマンディーの海だ。
幼いころの原風景。薄灰色とばら色の雲に覆われて、いまも彼女の記憶を優しく満たす…

     ***

この世はすべて精緻に織り上げられた壮大なタペストリを、裏側から眺めているようなものだ… どこかでそんな話を聞いたことがある。どんなにか奇妙なこと、理不尽なできごとも、それはこちら側にいる我々の目にそう映るだけで、裏返した向こう側の次元では、人のあずかり知れぬそちら側ではすべてに秩序が、論理があって、美しいパターンの文様を成しているのだと。… ボードレールの詩の一節のような一瞬の出会いもそのとき限りのことではなく、アラベスクのパターンのように形を変えていつかまた繰り返されるのかもしれない。… 橋の上の記憶、一瞬のできごと… 奇妙に心惹きつけられる経験だったにもかかわらず、それが現実のことだったのかどうか、どうもシルヴィーには確信がない…
その日、にぎやかに人々の行き交う午後のアレクサンドルⅢ世橋で、黒塗りの馬車とすれ違うとき、何とはなしに目を上げた先、窓のガラス越しに向けられた顔の男と一瞬目が合った… 時がふいに歩みをゆるめるような不思議な感覚。… 彼の目は彼女のそれと同じ、淡い灰緑色だった。同じ目をしている、と思った。… 彼が誰なのか知らなかったけれども、その馬車のようすからして、別世界に属する人間であるのは明らかだったにもかかわらず… そしてシルヴィー自身はといえば、仕立て屋の届け物の途中の、貧しい踊り子にすぎなかったにもかかわらず。…

     ***

パリの冬は長く、陰鬱だ。…とりわけひどい風邪をひきこんで、一日じゅうベッドに寝ているしかないとなるとなおさら。
北向きの狭いアパルトマンの窓から、ぼんやりと明るみが差すのは一日に数時間ほどで、午後3時には暗くなり始める。来る日も深い谷の底に暮らしているようだ。気も滅入ってげんなりとしてくる。…
もう3日も舞台を休んでいる。支配人のベルトランにも、仲間たちにも迷惑をかけていた。まだ体調はすっかりいいとはいえなかったが、明日は<アレコ>の千秋楽だ。何としても出なければ、いや、出たい…

夕方、気力を振り絞って起き上がり、外套をはおって近所のマルタンの店へ少しだけパンを買いにいった。もう戸棚も空っぽだった。カウンターの後ろに座ったマルタンはパイプを口から離し、…まだ顔色が悪いね、大丈夫? と声を掛けてくれた。
…何とか。明日は出ます。最終日だから。とてもすてきな舞台なのに、客の入りが悪くて、2ヶ月で打ち切りになってしまったの。
部屋に戻ると火の気のないストーヴをつついて火をたき、残り物のスープをあたためる。ランプの灯りで粗末な食事をすませると、ふらふらしながら床に立ち、体をほぐしながら、少しステップの確認をしてみたりした。…

パリに出てきて3年になる。はじめは仕立て屋に住み込んでお針子として働きながら、なんとかかんとかやっとのことで舞踊学校を出た。いまはモンパルナスのテアトル・サンジャックという小さな劇場との契約を得て、ほぼ毎日舞台に出る。日夜の厳しい練習に明け暮れ、それでも端役のひとりにすぎず、かろうじて食べていくだけでやっとだ。
それでも、照明のあたるステージで踊りにすべてを燃やしきる時間が彼女を生かしていた… それが彼女のすべてだった。指先、つま先のすみずみまで神経を注ぎ、体の動きに集中するうち、風邪のつらさも気にならなくなる。

     ***

テアトル・サンジャックは歴史だけはあるといったていの趣で、一歩足を踏み入れると埃っぽい、重々しい匂いがした…とくに楽屋へ通じる階段のあたりは。歩くたびに大仰にきしみ、絨毯もぼろぼろに擦り切れている。もう少しで「うらぶれた」と言われそうなぎりぎりのところ。
おもて向きは平然と営業していたが、どうやら経営が傾きかけているという不穏な噂をシルヴィーも耳にしていた。
それでもショウの質は高かった。古典派で、技術も優れ、美人ぞろい。トップの座にあって、どの演目でも主役をつとめるのは、いちばん背も高く堂々としたタチアーナ。パリ生まれで、古いロシア貴族の血が流れているとか、いないとか。女王のごとくほかの女の子たちを自分の統制下に従え、プライドも高かった。支配人のベルトランと対等に渡り合えるのは、踊り子たちのなかで彼女だけだ。
ベルトランのほかに、劇場には振付師のテオ、照明係のオーギュスト、それからシモンがいた。シモンは心優しい大男。切符係から設備の手入れまで、一日中休みなく働いている。劇場の内情に通じていて、時折さりげない忠告をくれたり、頼もしい味方だった。
シルヴィーはやや遅れて楽屋にすべりこむと、ベルトランの皮肉な視線を受け流して着替え室へ走る。それからほかの娘たちにまじってブドゥワールの鏡に向かい、蜂蜜色の髪をすばやく結い上げて、みんなと同じ小さなティアラを挿しこんだ。

この日は千秋楽とあって、なかなかの客入りだった。<アレコ>はプーシキンの短い叙事詩にラフマニノフが音楽をつけたもので、民話のような素朴で力強い筋書きと、スラブの哀愁が心に訴える。
舞台は盛況のうちに幕を閉じ、楽屋へ戻る踊り子たち… 心優しいポーリーヌが声を掛けてくれる、体、もう大丈夫?… ええ、ありがとう。踊ってたら、よくなってきたみたい。
ブドゥワールは踊り子たちの遠慮ない噂話ややっかみや、派閥闘争の渦巻く巣窟みたいなところだ。そのなかで純粋に人のことを心配してくれる彼女みたいな子は少なかった。楽屋のテーブルの上には、彼女らへ贈られた色とりどりの花束が山と積まれている。
例のごとく、いちばん豪華な、両手で抱えるようなのは主役のタチアーナあて。彼女の情人のピエール・ド・クレルモン伯爵からだ。シルヴィーの視線はそこを素通りして、赤と青紫のアネモネの小さなつつましいブーケを見つけると、その顔がぱっと輝いた。
シモンがそれを取り上げると、「お疲れさま。君の恋人からだよ」と渡してくれた。
いそいそと衣裳を着替え、みんなよりひと足先に楽屋を抜け出すと、入り口のところで待っていたユベールと合流した。ユベールはオーベルヴィリエの工場で働く若者だった。二人ともほぼ毎日働きづめだったから、ゆっくり会えることはなかなかない。

この日、彼らは久しぶりに夕食をとりに出かける。贅沢はできない、せいぜい場末のビストロで定食をたのみ、安ワインを傾けるくらいだ。それでも彼らにとっては至福のひとときだった。
金曜の晩で、街は彼らと同じような若者たちであふれ、陽気でうきうきした空気にみちている。この空気に触れていられるだけで幸せだった。店の灯り、ざわめき、笑顔、歌声と笑い声…
「テアトル・サンジャックの女の子はみんな綺麗だ」
テーブルをはさみ、ユベールは言った。
「けれど、そのなかで君は誰よりすばらしかった。誰より輝いていた」
「まさか」シルヴィーは笑い飛ばした。「こんな病み上がりなのに」
「僕は知らなかったんだ」ユベールは真剣に言った。「君が病気で、ひとりで辛い思いをしていたなんて。言ってくれたら、君のところへ行っていたのに」
「あら、そんな大げさな。大したことなかったのよ」とシルヴィー。「もう大丈夫」

「君はいつもそう言うから…」言いかけて、ユベールは少しのあいだ、口をつぐんだ。それからおもむろに、「僕たち、こんなふうに離れて暮らしているべきじゃない。結婚しないか? そうしたら二人で支えあって生きていけるし、そのほうがずっといい」
「そんな冗談を言って」
「いや、本気で言ってるんだ」
シルヴィーは黙ったまま、グラスの脚に指をすべらせていた。
「いやなの?」
「いいえ、とんでもない。とても嬉しいわ」 シルヴィーはゆっくりと言った。「でも、少し考えてみて。もし私たちが結婚したら、あなたは私が毎日劇場勤めで家にいないの、いやなんじゃないかしら。あなたは仕事を終えて帰ってきたら、奥さんが家をぴかぴかにして、夕食を作って待っているような暮らしを望んでいるんでしょう」
こんどはユベールのほうが黙りこむ番だった。
「…じゃあ、せめて一緒に住まないか?」
「どこで?」 シルヴィーは聞き返した。「あたしのところから、あなたは仕事に通えないでしょう。それに、あなたがどんなに私のことを愛してくれてるといっても、私、オーベルヴィリエから今の劇場まで、毎日通えないわよ」
ユベールは溜め息まじりにグラスを取り上げた。
「シルヴィー。君は僕のことを愛してる?」
「もちろんよ、ばかね」
「僕と舞台と、どちらが大事?」
「まあ」 シルヴィーはつとめて明るい笑い声を上げた。「私にどちらかを選ばせようなんて、卑怯ね」

その晩、二人はユベールの部屋へいっしょに帰り、束の間の恋人たちの時間を共にした。
けれども、翌日は早朝からユベールは仕事に行かなくてはならなかったし、シルヴィーも、舞台はないが次週から始まるあたらしい演目の最終リハーサルがあって、まだ暗いうち、いっしょにアパルトマンを出た。
少し時間があったのでセーヌ沿いにゆっくり歩き、アレクサンドルⅢ世橋を渡る。フランス国家の威信をかけて去年完成したばかりの、パリでいちばん、いや、おそらくは世界でいちばん美しい橋だ。大通りのように広くて、欄干や橋桁にはヴィーナスや海神たち、貝殻やイルカや船といった、水にまつわるモチーフの彫刻が施されている。
ゆっくりと青い夜明けが広がる、一日でいちばん美しい時間。人通りもほとんどなく、しんと広く、ぽっかりと静か。…こんな時間に訪れるこの橋は、パリでもっとも大きな舞台のようだ。パリという名の舞台に立つ、自分は演目の主役のよう。
欄干からセーヌの水を見下ろすと思い出す、小さいころ、「この河をずーっと遡っていくと、華の都パリに通じているんだよ」と言われたこと。燃えるような憧れを抱いてやってきたパリは、大きすぎ、人がたくさんいすぎて、いつしか自分など塵の一片のように感じられてくる。この街はお金持ちたち、権力者たちのものであって、自分のものではないという感覚が、半ば諦念のように心に巣食うようになっていた。けれど、こんな時間のひとけのないこの街は、かつて憧れたままの美しい佇まいを見せてシルヴィーを魅了する。…

     ***

次週からの演目は<ダフニスとクロエ>だった。それまでの深いインディゴブルーの背景に取って代わり、神話の世界を表現した明るい黄色の幕に、ギリシアの田園の風景が金糸で織り込まれている。
クロエ役はもちろん劇場トップのタチアーナだ。シルヴィーはあいかわらずの端役で、クロエの牧童仲間のひとりにすぎない。
けれども初演の舞台の上、まばゆい光のなかで仲間たちと息を合わせて群舞しながら、彼女の心は幸福感でいっぱいになった。何て素敵なんだろう… 体の動きに全神経を集中させ、すべての煩いごとをあとに、うっとりと忘我の境地に浸る…
初演の晩にしては客の入りが少ないようだった。幕が降りて楽屋へはけ、花束台のわきを通りざま、(とくに期待してはいなかったが)ユベールからの花が届いていないことをいちおう確認した。タチアーナあてであろうみごとな薔薇の花束。いつもより一段と豪勢だ… 初演だからね、きっと。…

と、支配人のベルトランが彼女を呼び止めた。
「シルヴィー。君に花が届いているよ」 そして、あのみごとな薔薇の花束を取り上げ、彼女に手渡した。
「え? いえ、でもこれ…」
「君あてだよ」 彼は花束につけられたカードを見せた。若干いらいらとしたようすで。
シルヴィーはカードを見て、贈り主の名をみとめた。<ジュスタン・E・ギヨノー>
「あ… ありがとうございます」 あっけにとられながら、言葉を探した。
「でも私、この方を存じ上げないのですが… ムッシュウ・ギヨノーってどなたでしょうか?」
ベルトランはじろりとシルヴィーを睨んだ。
「踊りの稽古ばかりじゃなくて、少しは世の中のことも勉強したらどうだ。フランスきっての炭鉱王だよ。経済界では知らぬ者のない…」
その場にいた者たちのあいだに戦慄が走った。それはもう、目に見えるようだった。

「ベルトラン、私には?」
シルヴィーの後ろから、タチアーナの鋭い声が飛んだ。
「こちらには届いていない」
「彼からは? よく見てよ!」
「こちらには届いていないと、言っているだろう。なんならこっちへ来て、自分で確かめたらどうだ」
タチアーナは屈辱に青ざめた。
「何なのよ、その口の利き方」
タチアーナは高飛車に言い捨て、取り巻きの者たちを従えて出ていった。
何が何やら分からないまま、シルヴィーはひとりその場に残され、立ち尽くしていた。顔を覆い隠すほどの豪奢な花束を抱えて。

























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