2020年03月20日

小説・アレクサンドルⅢ世橋 4. 頂点

小説・アレクサンドルⅢ世橋 4. 頂点


だれでも15分のあいだは有名になれる…いみじくもそう言ったのは誰だっただろう?
オペラ・ガルニエでのナポレオンⅢ世への謁見、それにつづく<エスメラルダ>の成功で、シルヴィーの名は突如、パリじゅうに知られることになった。巻き起こるすさまじい熱狂…舞台の彼女のギリシャ風のスタイルや髪型をみんなが真似し、彼女のブロマイドがパリ土産のあたらしい定番となる。いまやみんながシルヴィーに夢中だ… 老舗の靴ブランドが彼女の名を冠したダンス靴を売り出して爆発的な人気を博し、次いでジュエリー・ショップや婦人服店がこぞって彼女をミューズに起用した。いまや彼女をめぐって大きな富が動いていた。名実ともに女王だった…

名が知れるほど、敵もまた多い。シルヴィーをけなす者も、擁護する者も、非難する者も、憧れる者も…ともかく誰もがシルヴィーのことを話していた。新聞や雑誌は彼女を追いかけまわした。向けられる質問には、ジュスタンへの明らかなあてこすりも多かった。たとえば、<レピュブリカン>紙の記者がした、「ご自分はとても運がいいとお考えでしょうね?」というような。
「運がいいですって?」シルヴィーはきっとなって相手を見返した。「たしかにそれもあるでしょうね。でも自分が努力したからでもあるわ」
「多くの人が努力しているのに成功しないようですが」
「そうでしょうね。でも私は、人より十倍も、百倍も努力してきた。ひどい目にも遭ってきたし、犠牲も払ってきた。私はそれだけの値打ちのある人間だと思っているわ」
「私はそれに値する」-この言葉は大きな論争を巻き起こし、結果としてシルヴィーをさらに有名にしたのだった。

かつては夢想だにしなかった名声にも、今ではすっかり慣れてしまった。まるで生まれてこのかた、地面に足をつけたことがないよう。その肝の据わった振る舞いっぷりにはジュスタンも感嘆するばかりだった。
「大したもんだ、私には真似ができないな。金のかかった服に身を包み、馬車を乗りまわしてはいても、私の中身はいまだに粗野な田舎者だ。いまの暮らしには、どこか違和感がある。ずっと目指して登りつめてきたというのに、皮肉だな」
「あら、私だってそうだわ」とシルヴィーは言うのだった。「心の奥底ではね。そうでなければ、こんな虚飾の世界に耐えられないでしょうね。きっと、舞台の上で今までいくつもの人生を演じてきたから、どんな役柄を演じることにも慣れたのでしょうね」

シルヴィーの中には舞台を夢見た幼い少女が今もいて、ガラス越しに煌びやかな別世界にあこがれるように、手をつき、目を見開いて、今や自分を取り巻く夢のような世界をあっけに取られて眺めていた。いつかは夢から醒めて冷たい現実に引き戻されることを、この少女は心のどこかで知っていたのかもしれない。

ジュスタンはシルヴィーの邸宅に泊まっても、必ず朝早くに出て行った。夜明けの青い窓辺、ジュスタンが出て行ったあとのひとときほど、ぽっかりと大きな虚無を抱えこむことはなかった。彼の存在を強く感じることはなかった。正しく言えば、彼の不在を。…のちのち彼のことを考えると、決まって思い出されるのは夜明けのたびに窓辺を染めた、その独特な深いブルーの色だった。それを彼に向かっては、決して言いはしなかったけれども。…

人目を惹くエキゾティックな装いのシルヴィーと、銀色にうねる髪をていねいになでつけ、猛禽を思わせる鋭いまなざしのジュスタン、この二人の組み合わせは同時代のアイコンとなった。
シルヴィーはその強靭な肉体を愛した。ギリシャの遺跡から掘り出されたマッシヴな彫像のような、日に焼けた強靭な肉体を。それは頑固で容易に屈しない、彼の精神そのもののようだった。それはまた、シルヴィーの精神でもあった。見た目はまるで違っても、彼らふたりは双子のようだった。己の意志するところを成し遂げんとする固い決意、固い絆で結ばれていた。恋人同士というよりも戦友のようだった。いつしか人々は二人をセットとして見るようになり、切り離しては考えられなくなった。神話の中のカップルのように、同じ波長のもとにある人たちのように、線や顔立ちもどことなく似てきたようだった。

シルヴィーの名声はとどまるところを知らなかった。ぜいたくな暮らしぶりからマリー・アントワネットと揶揄されても、やっかみと受け流して気にしなかった。舞台での斬新なスタイルから、古典的なやり方が身についていないと批判されもした。貧しい出自を隠さなかったことで成り上がりと陰口も叩かれたが、庶民層にはかえって人気になった。
いつも山のような仕事と、山のような使用人を抱え、劇場と華やかなパーティの場を忙しく行き来していた。ジュスタンの関係者たちに顔をつなぐため、パリでもっとも贅沢な晩餐の席には必ず姿を現した。あちこちのソワレやイベントに出るのが仕事のようになった。その一方で、厳しい稽古も欠かさない… 敵たちの口を封じるためにも、技量はつねに最高を保っていなくてはならなかった。

<エスメラルダ>の次のオペラ・ガルニエでの演目は<椿姫>だった。これは物議を醸した… ヒロインの役柄が役柄だったからだ。彼女がジュスタンの情人であることを快く思わないものたちから、ここぞとばかり、轟々の非難が巻き起こった。シルヴィーは気にも留めなかったが、以前にもまして、行く先々で記者たちからしつこく追い回されることになった。
「私を怒らすためだけに、わざわざパリ随一の劇場で<椿姫>の企画を?」
ことさら意地悪な問いを向けてきた記者のひとりに、こう言ってやりこめたことがある。
「まあまあ、なんて光栄なことなんでしょう! 私も出世したものね!」…

ジュスタンと二人で馬車に乗りこんだところへ<ル・フィガロ>の記者に割って入られたこともある。
「ムッシュー、奥方については、どのようにお考えですか? 愛する旦那様に裏切られて、悲痛な思いをされているのでは?…」
「そうでもないと思うよ」 ジュスタンは鷹揚に答えた…そのわざとらしい、扇情的な調子にむっとしながらも。
「彼女のほうも、私にはいささかうんざりしているようなのでね。彼女の情人たちに、私からよろしくと伝えてくれ」
「私からもね」
と、横からシルヴィーがつけ加えた。
このひと幕はゴシップ欄で尾ひれつきで大々的に報じられ、彼らふたりをますます有名にしたのだった。

喝采と非難と喧騒と… 熱狂の渦に巻き込まれ、時は夢のように過ぎた… こんな栄光を夢見ていたころ、ここまでのめまぐるしさを想像だにしたことがあっただろうか?… 立ち止まって考えているひまなどない、腹を括って流れに身を任せるよりほかなかった… 
ふたたび冬が巡ってきた。長い灰色の日々、陰鬱なのは同じだが、もう空を見上げているひまもない、いまやまばゆいシャンデリアの光りと劇場の照明が、シルヴィーの毎日をあますところなく彩っている…
ノエルが近づくと<火の鳥>の稽古が始まった。真っ赤な衣裳に炎の羽を飾ったシルヴィーはこれまで以上に観客席を魅了した… イヴの晩には再びナポレオンⅢ世夫妻の臨席のもと、華々しく幕を閉じた。

ノエルの束の間の平和なひととき、彼女はジュスタンの暮らすホテルで過ごした。大窓からガス燈の光にかがやくにぎやかなブルヴァールを見下ろしながら、はじめてこの部屋に招かれた晩のことが数世紀前のことのように、はるかに思い出された。…
ディナーのあと、ジュスタンは彼女にプレゼントを贈った。鉱山関連の人脈を駆使して世界中探したと思われる、大粒のダイヤモンドの輝く指輪だ。…シルヴィーも彼に贈るプレゼントがあった。スイスの最高の職人に特別に注文してつくらせた金時計だった。…

だが、どんな贅沢も、ふだんよりほんの少し長く互いの腕の中で過ごせる歓びには替えられない。夜明けの青い窓辺でジュスタンの鋼のような熱い肢体に身を沿わせ、夢うつつにまどろむひととき、ふとベッドごとゆっくりと回転しながら上昇してゆくような、くらくらするような感覚が訪れてくる…ふと、すべてが夢なのではないかという、深淵を覗きこむような怖ろしい感覚、絶頂に立ちながら、これ以上の上がなくなったことの不安とよんどころのなさの入り混じった、ぞっとするような微かな感覚が。… 飽和状態の幸福、それはほとんど死に近かった。…



















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