2020年03月20日

小説・アレクサンドルⅢ世橋 8. 橋の上で

小説・アレクサンドルⅢ世橋 8. 橋の上で


ちぎれ飛んで花びらのように、きらきら光りながら風にまじって運ばれてゆく、シャンデリアの菱形にカットされたガラスのしずく… ろうそくの炎が風に吹かれてちぎり飛ばされ、いくつもいくつも、風にまじってぐるぐる渦巻いてシルヴィーの体を包もうとする… 火によって浄化される、浄められるのだ、火と水によって… 彼女はちっとも恐がらず、その白金色にもえる炎に体をさらす…

走り過ぎる辻馬車のひびき、道化の弾く手回しオルガンの音色…
すみれの香る香水の瓶、金の指輪、びろうどのクッション…

     ***

その日から、シルヴィーはアレクサンドルⅢ世橋のそばを離れない、往来の雑踏が途切れ、少しは目立たずに欄干の上によじ登れる機会を待ちつづける…
広い、立派な舗装を敷かれたその橋には、だがたえずひっきりなしに人や馬車が行き交い、いつまでたってもそんな機会はやってこない。
ひとたびは心を決め、やってみようともした。好奇の目にさらされようが、そんなことを気にしてはいられない。どっしりとした欄干の上に這い上がり、そろそろと立ち上がる。欄干の幅は充分にあって、歩くのに問題はない。けれどももしうっかり足を滑らせたら… いや、視界の半分、下を流れるセーヌの側は見ないようにしなければ。足を滑らすとしたら、橋の側へ滑らすことにしよう。それよりしっかり気をつけて、そんなへまをやらないことだ…
シルヴィーはただ欄干の、少し先のほうだけを一心に見つめ、おそるおそる一歩を踏み出す。通り行く人々が怪訝な顔で振り返る。子供たちは母親のスカートをひっぱって声を上げる、ママン、あのひと、何してるの?… 彼らにはふしぎなのだ、自分たちがいつも、歩道の縁石や裏庭の柵の上でやってるのと同じことを、おとながやっているのが… しかも戯れではなく、思いつめたようにひどく真剣なようすで、そう、まるで誰か人の命がかかってでもいるかのように。

しかし、朝に夕に、憲兵たちが通るたび、事はやっかいになる。欄干の上にいるシルヴィーを見つけると、彼らはうるさく絡んでくる、しゃがみこんで拒む彼女を、しまいには問答無用で引きずりおろす… そのたびにさいしょから数え直しだ。
そのたびに心砕かれる気持ちになる。だが、諦めるわけにはいかない。
そのうち彼らが通る時間になるとこっそり隠れてやり過ごすようになった。それでも、そういつも、鉢合わせを避けられたわけではない…
アレクサンドルⅢ世橋、欄干の上を100回渡る… 世界の果てのガラス山にたどりつくよりよっぽど簡単に思えたが、思ったほどすんなりとはいかないようだ。
いろいろと試してみて分かったのは、安全なのは一日のうちでほんのいっときしかないということ。
人通りがまったく絶える、夜明け近くのほんのいっときしか… しかも大事をとったら、一往復がいいところだ。
結局、それ以外は一日中、尽きない往来を生気のない目で眺めて過ごすほかない…

思いがけない障害に突き当たり、人生のスピードが急にゆっくりになる。
いままで気にもかけなかったいろいろなディテエルが目に入ってくる…
街角の焼き栗売り、カフェの張り出しから通りへ漂い出るざわめきとコーヒーのにおい…
敷石の上にチョークのかけらでいくつも円を描いては、果てしなくつづくゲームに興じる子供たち、エプロンに糊をきかせて急ぎ足で行き来する女中たち、外套に身を包んだ書記官たち、重々しい足取りのお偉方たち…
川岸の風景が変わってゆく。いまやパリ万国博覧会に向けて、右岸にはエッフェル塔の巨大な土台が築かれようとしていた。
賛否両論の渦巻くなか、日に日にアーチを描くその脚が、セーヌの上にのっしりと姿を現しはじめる…
暮れ方の空に黒く浮かびあがる街路樹のシルエット… 橋の上から川おもてめがけて いっせいに飛び立つ鳩の群れ、風に吹き飛ばされる手品師のトランプのように…
いまや、木々、小鳥たち、それに子供たちが彼女の友だちだった…

     ***

シルヴィーはいま、橋の下に住みついた浮浪者たちの家族のあいだで眠り 昼間は彼らの小さな子供たちの相手をしてすごす。
彼女のまわりにはいつでも子供たちがやってきてねだる、お話を聞かせて、お話を…
彼らの小さな肩に腕を回し、セーヌの暗いおもてをいっしょに眺めながら、シルヴィーは思いつくままに話してやる。シンデレラや白雪姫、そして12人の兄弟たちを探しに広い世界へ出て行った少女の物語を…
こうして王女は鉄のパンをもって、鉄の靴を履き、広い世界へ出て行ったの。…
…それからどうなったの?
…来る日も来る日も、王女は歩きつづけました。お腹がすくと鉄のパンを食べました。長い道のりを歩くうち、鉄の靴もすり減ってぼろぼろになってしまいました。地の果てのガラス山は、そんなにも遠かったのです。…
歩いて歩いて、王女はとうとうガラス山にたどりつく。山の前には門があって鍵がかかっている。王女が星たちからもらった小さな鳥の骨を錠前に差し込むと、カチリと鍵が開いて、中に入ることができる。それから彼女は高く険しいガラス山を登ってゆくが、切りたった峰々はきらきらと眩く、足元はつるつるとすべってなかなか進まない… やっとのことで頂上まであと少しというところまでたどり着くが、さいごの難関、絶壁にかかった梯子を上がらなくてはいけない。少女は細い梯子を上ってゆく。ところが、いちばん上のひと段が欠けていて、どうしても届かない。そこで少女はナイフを取り出して自分の小指を切り落とし、梯子に接いで、ようやくさいごまで上りきる。…
こんな思いまでしてたどりついたガラス山の頂上で、少女ははじめてカラスに変えられた兄弟たちに再会し、魔法は解けて、みんな人間の姿に戻る。めでたしめでたし。…

「…めでたしめでたし」とシルヴィーは話を結ぶが、傍らで聞いていた小さなアニエスは納得のいかないようすだ。
「王女様は何か悪いことをしたの? どうしてこんな大変な目に遭わなくてはならなかったの?」
「王女様は何も悪くないのよ」と、シルヴィーは答える。「もしかしたら生まれてくる前に、自分でも知らずに何か罪を犯したのかもしれないけれど、そんなこと自分では分からないのだから、どっちみち何の意味もないわ。
王女様はただ、自分のいまの状況に対してノン! と言ったのよ。自分の兄弟たちに、こんなふうにいつまでも会えないのはもういやだ!って。そんなこと自分は我慢できない、これ以上我慢するつもりはないって。自分は彼らを取り戻す権利があるって。彼女は自ら探しにいくことで、抗議の気持ちを行動に移したの」…

     ***

セーヌの青い夜明け、欄干の上に黒く浮かび上がる、決然と歩を進めるシルヴィーのシルエット。… 
人通りも絶えるこのひととき、欄干はこの街にかかる舞台、シルヴィーはいま、人生をかけて演じるこの劇の主人公だ。物語の結末は誰にも分らない… 
しかし、彼女は膝まづいて許しを請い、とりなしの祈りをささげる聖母マリアではなかった。彼女はひとりのアンティゴネー、運命に否という者、民衆の中から立ち上がり、神々に向かって抗議する者だった…

それでも、時には…ほんの時たま、このしずかなひととき、ひとけない広い橋の上で欄干にもたれてセーヌの水の広がりを見下ろし、この河の流れが注ぐ、はるかノルマンディーの故郷へ思いを馳せる、自ら引き受けた重荷にふと涙がこぼれ… これまで試みた往復の、すべてあわせたら数百回をゆうに超えていただろう… ふいに深い疲れを感じ、深い息をついて。… まことにパリへ出てきて以来、あまりに多くのことがありすぎた… シルヴィーの中にはいまも小さな少女がいて、ガラス窓の中から、このめまぐるしく展開する人生のドラマを、ただあっけにとられて眺めていた… はるか昔、小さい頃、河口にかかる大きな橋の上で父親に肩車されて、この河は華の都パリから流れてくるのだよ、そう教えられた日の記憶… ああ… もう充分、これはすべて悪い夢なの、ぜんぶ投げ出して、ノルマンディーへ帰りたいな。もういいわ、もうたくさん、りんごの梢がざわめくピカルディーへ帰りたいな。…

     ***

その日、もう何度めだったろう、こんなに早い時間だというのに、憲兵隊に出くわしてしまう。
しかもこのときは、ただ引きずりおろされるだけでは終わらない、腕をつかまれ、馬車に押し込められる。
何をするの? 私、何もしていないわ! 放して! 放して!…
シルヴィーは抗議の声をあげる、道行く人々がふり返る。問答無用で馬車は動き出す、中には窓もなく、どこを走っているのかもさっぱり分からない。
やがて馬車がとまり、引き立てられていった先は、どうやら拘置所らしい。
暗く、がらんとした石牢にはすでに何人も先客があって、空気は湿っぽくてカビくさく、陰気に冷え込んでいる。
消毒液の匂いに混じって慢性の病のようにじっとりと淀んだ、吐瀉物と排泄物の匂い。
それよりこたえるのは、彼らのあいだに通う諦めたような思いだ。中にいても外にいても同じだといわんばかりの重く淀んだ空気がシルヴィーにまとい、絡みつき、息の根を止められそうな気がしてくる。
娼婦、浮浪者、麻薬の密売人、酔っぱらい… それから、気がふれたようにいつまでも、同じ言葉を繰り返し叫びつづけている男。逃げ出すすべもなく、えんえん聞かされているうち、頭がおかしくなりそうになってくる、ここから出たい…

不安な一夜が明けて、シルヴィーは呼び出され、尋問を受ける。
公領地侵入罪だ、と係官の男は言う。
でも、どうして?… 橋の上は、公共の場所でしょう? 私はただ、橋を渡っていただけよ。
公共の場所は、橋の床部分だけだ、と男は答える。欄干の上に上がることは禁止されている。とりわけ去年完成したばかりのアレクサンドルⅢ世橋は、フランス国家の威光の象徴だ。みだりに上がられてはかなわん。国家への敬意を欠くし、景観も損なう。
しかもあんたの場合、一度や二度のことではないそうじゃないか。なぜそんなに執着する? 何が目的なんだ?
途端にシルヴィーは黙りこむ。
係官は疲れたように溜め息をつき、書類に書きこむ。

それから数日のあいだに、シルヴィーはいくつかの拘置所を点々とする。いつもいきなり呼び出されて引き立てられ、馬車に押し込まれて運ばれてゆく。向かう先のどこも、あとにしてきたのと同じよう。娼婦たち、酔っぱらいたち、同じ言葉を繰り返す男…あるいは女。…
何度目かに呼び出され、また尋問を受けるのかと思っていると、こんどの係官は書類から目を上げると彼女に申し渡す。本来なら罰金刑だが、金を払うあてのないシルヴィーは、それに代えて社会奉仕を課せられるのだという。彼女はマレの救貧院に収容されることになる。6ヶ月のあいだ、無賃労働者として働くのだ。だが、その間は食事とベッドを保証されることになる。…
自力で何度も試みてもどうにもならなかったことが、行政の力で、警察の書類ひとつですんなり通ってしまう不思議。それも運命の皮肉だった…
なかばあっけにとられたまま、シルヴィーはいまひとたび馬車に乗せられ、係官に引き立てられて救貧院の門をくぐる。院の担当者に書類が渡され、身元の確認がなされ(といっても彼女が言い張った偽名と偽の経歴だったが)、身柄の引渡しがすむと、彼女には共同寝室のとなりの狭い女中部屋の、小さなベッドがあてがわれる。鋳鉄製の寒々しい、簡素な寝台だ。修道院のような殺風景な調度。それでも久方ぶりに、彼女にはいまや雨露をしのぐ屋根と、身を横たえる自分の場所があった…清潔なシーツの上にそっと指をすべらすと、さすがのシルヴィーも泣けてくる。
「手を洗って身支度をすませしだい、すぐに降りてきてください。夕食の配膳をしてもらいます」
「はい」
シルヴィーは久しぶりに元気よく返事し、立ち上がる。…

















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