2014年01月29日

ネリー

*これは、90年代の日本の不良の女の子的な気分を描いてみようとした。

        夢想集ムーア・イーフォック 9
          ネリー


 ネリーというのは彼がつけた呼び名だった。
「君はネリーって感じがする」と彼は言った。
 その日から、彼女はネリーになった。

 大理石模様の化粧板の上に、彼女は銀ラメのハンドバッグを投げ出した。
 鏡を見ると、顔がひどいことになっている。
 つい、昔の話なんかやりだしたのがいけなかった。
 彼女は蛇口をいっぱいに開いて、涙のあとをすっかり洗い流す。
 それからコンパクトをとり出して、念入りに化粧をし直した。
 やかましい音楽と人のどなり声が、こっちまで聞こえてくる。
 カウンターの上の灰皿には、吸いさしの煙草が彼女を待っているはずだったし、ついさっきはじめて会った、あの何とかいう少年も彼女の戻ってくるのを待っているはずだった。
 彼女はコンパクトをしまい、鏡に映る自分の顔をじっと見つめる。
 と、急に、また向こうへ戻るのが耐えきれないことに思えてきた。
 ううん、急にじゃない。彼女はつぶやく。もうさっきからずっと、すっかりうんざりしてたんだ。
 裏口のドアを押し開けようとすると、すぐ外側がゴミバケツでふさがっていて、ほんのちょっとしか開かない。
 そこを強引に押し開け、ガタガタの非常階段を、用心しながらゆっくり降りてゆく。

 ぎらぎら、どぎついサインにあふれた、夜のネオン街。
 あてもなくさまよっていると、やがて自分が空気の中に溶けこんでゆくように、何もかもどうでもよくなってくる。
 彼女はその気分が嫌いじゃない。憂いも悲しみもない空気の一部。

 歩き疲れて幾分の心地よさを感じながら、彼女は行きずりの店に入る。
 前に一度だけ、来たことがあった。
 さっきのところよりさびれていて、全然しずかだ。
 彼女は窓ぎわの席に座って煙草をくわえ、頬づえついて外を眺めやる。
 マリブコークをひとつ。
 いや、別のにすればよかった。ただでさえからからなのに、あんな甘ったるいのを飲んだらよけい喉が渇く。
 やっぱりちょっと隙があったかもしれない。やな奴がやってきてからみはじめた。
 もうちょっとゆっくりしたかったのに、仕方ない。彼女はその手に煙草の火を押しつけて店を出る。

 夜はうっすらと白みかけている。彼女は再びさまよい歩く。
 夜が白んでゆくこの時間、消えてゆく街灯の光、ゴミ箱をあさる野良犬、人影の絶えた通り--心が、淋しさに耐えられない。
 ほとんど無意識のうちに、彼女はこの橋のところへやってくる。
 ペンキのはげた冷たい欄干にもたれ、汚れた水の深みを見下ろす彼女の、うしろを時々何台かの車が走りすぎる。
 この橋の上で、彼女の愛していた男が死んだ。オートバイの無免許運転で事故死。あれから一年近くになる。
 彫像のように美しくて、移り気で、自分のことしか頭になかった彼。
「死ぬときは一緒だ」って誓いあったっけ。
 橋の下から一群れの鳩が、暗い水の上に翼を広げる。
 どれも灰色な中に、一羽だけ、白と栗色のまだらのがまじっている。
 組んだ手の上にのせた横顔の骨ばったライン。
 三日月形の金のピアス。
 マスカラを塗りたくったまつげの下のうつろなひとみ。
 足もとに転がった煙草のすいがら。
 ひんやりした夜明けの微風に、路上の新聞紙がカサカサと音をたてる。

 やがてさしそめた光に、水面はきらきらと踊りはじめる。
 歩道の敷石の上に、彼女の影がうっすらと長くのびる。
 空がすっかり明るくなるまで、彼女はそこに佇んでいる。
 それからふっと行き交う人々にまじり、駅に向かって流されてゆく。

 静かな住宅街の朝。
 ひっそりとして主人の帰りを待っている彼女の部屋。
 どぎついピンクのベッドカバー。
 壁にかけられたロックバンドのポスター。
 脱ぎ散らかした洋服類。
 透明のプラスチックの引き出しには、こちゃこちゃしたアクセサリー類--
 模造真珠のネックレス、リボンの髪飾り、色ガラスをはめこんだおもちゃの指輪。
 彼女の宝物は、小さいときと変わっていない。

 ときどき、洗面所のところでパパに会うことがある。
 パパはひげをそっていたり、コンタクトを入れていたりする。
 そして、ネリーの姿を見ると、手をとめて何か言おうとする。
 そういうときは、そのわきをできるだけさっさと通り抜けて、二階へ上がってゆく。

 暗い廊下がどこまでも続くコンクリの校舎。
 毎朝校門に立ち並ぶ、ものさしを手にした教師たち。
 連立方程式。関係代名詞。指定外のコート並びにレインコートについては、学年主任に相談のこと。

 ネリーはみんながいなくなってからようやくベッドから這い出してきて、テレビをつけ、たっぷり時間をかけてシャワーを浴びる。
 そして、紅茶の一杯くらい飲むかもしれない。
 ネリーは制服を手直しし、髪を金色に染め、ブランド物の腕時計をはめて、昼頃になってからゆるゆると自転車をひっぱってやって来る。

 クラスメートたちとの間の、目に見えない壁。
 好奇心と哀れみと冷淡さと、それから幾分の憧れと。
 やめる頃には、口をきく友だちなんか一人もいなかった。
 いや、一人くらいは、いたかもしれない。

 そのときのことを、ネリーは今でも鮮やかに思い出す。
 あの子のことばをはっきりと無視したときの心のうずき。
 古い木製の靴箱の、砂でざらざらした感じ。
 ペンキのわれめが川の地図みたいに走っていた、体育館のクリーム色の壁。
 窓の外でゆれていたこずえの、不自然なくらい明るい緑。

 先生たちという人種は、どうもよく分からない。
 みんな眼鏡をかけて、みんな同じ顔をしているから、区別がつかない。
 でも、ほんのときたま、かわいいなと思えるときもある。
 たとえば彼らが、自分のやっていることのばかばかしさを分かっていることを、意に反してさらけ出してしまうようなとき。

 ネリーがベランダの手すりにもたれて煙草を吸っていると、英語の先生がやってきて肩に手をのせる。
「元気?」
「うん、元気だよ。あんたは?」
「うん、まあ」彼はやや不意をつかれたようすで言う。「ちょっと胃の調子が--」
 ネリーは煙草の吸いさしを手すりに押しつけてもみ消しながら、決めつける。「疲れてんだ」
 彼はそれには答えず、肩をすくめるだけだ。
 それから少しの間そこに立っているが、やがて「じゃ」と言って立ち去っていく。
 そのときのこと。肩に手をおかれたときの感触--ざらざらしたコンクリートの手すりのふち--雨のあとが黒いすじになっていた壁の感じ。
 そのときの場面を、ネリーがどんなに悲しいほど鮮明に覚えているか、彼はきっと想像だにしない。
 英語の先生とは、ちょっとだけ友だちだった。
 学校じゅうで、バカ話をして笑いあうことのできた唯一の人間だったかもしれない。

 担任は、やっぱり眼鏡をかけていて、その他にはこれといった特徴はない。
 悪い人ではないが、一度つかまるとひどくやっかいだ。
 その日、ネリーは生徒指導室に呼び出され、一時間ばかりその説教を聞かされていた。
 みんながきちんとできていることが、どうして君にはできないのかね。
 ネリーはすっかりうんざりしていた。
 話が四度目くらいに将来のことに及んだとき、ネリーは席を立ってそこから出ていこうとした。
「どこへ行くんだ」と、先生が目をむいた。
「帰るの」
 先生は立ち上がり、走り寄ってきて彼女の腕をつかんだ。それから、力まかせに頭を殴りつけた。
 一瞬意識が遠のいて、あまりの痛さに涙が出てきた。
 先生は彼女を強引にいすに座らせると、また一から同じ話を始めた。
 再び、彼女は立ち上がった。
「どこへ行く」
「帰るの」
 今度は先生も何も言わなかった。
 教室を出るとき、ひざがぶるぶるふるえていた。
 棚の上に、枯れた花を挿した花瓶があるのが目についた。
 一瞬、それを先生の顔めがけて投げつけてやろうかと思った。
 今でもときどき、あのときそれを実行していたらどんなにすかっとしたことだろうと思う。
 それから一度も学校には行っていない。

 安キャバレーやスナックがごたごたたてこんだ無法地帯の一角、関井ビルの地下にあるトメさんの事務所。
 傷のついたでっかい革ばりのソファがでんと居座って部屋をほぼ占領し、煙草の煙で向こう側の壁も見えない。
 合板の低いテーブルは、重たいガラスの灰皿や、缶コーヒーや、スポーツ新聞や、その他もろもろであふれかえって、それ以上ものを乗せたらなだれを起こす。

 ここに出入りするようになったのも、もとはと言えばケイコと知り合ったのがきっかけだった。
 いつだってはでな恰好で人目を引くケイコ。
 ケイコは意味もなくころころ男を変えた。
 けれど、本当の目標はトメさんの彼女になることなのだと言っていた。

 そういうわけで、ネリーは全く困ったことになってしまったのだ。
 ケイコへの遠慮だけじゃない。実はそのとき、生まれてはじめて恋をしていた。
 しかもその相手というのが、なお悪いことに同じ事務所に出入りするジュンだった。
 ネリーはそれで一週間悩んだ。
 けれど、自分の気持ちにうそはつけない。
 結局トメさんを断って、ジュンとつきあい始めた。六月のことだ。

 トメさんは、ほんとにいい人だった。
「そうか、分かった」としずかな声で言っただけだったので、ネリーは申し訳なさに心が痛んだ。

 それはまるで世界じゅうを敵に回したようなものだった。
 トメさんの女になれるなんて、めったにある栄誉じゃないのだ。
 ケイコはてのひらを返したように離れていった。
 女の子たちがやっかんで、中傷したので、ジュンとの関係はトメさんの知るところとなった。
 そういうわけで二人は事務所に顔を出せなくなり、トメさんを中心とした人の輪からはじき出されてしまった。

 けれど、ネリーは平気だった。
 人を好きになるとこんなにも強くなれるものか。
 ジュンさえいればなんにもいらなかった。
 ジュンのアパートにいりびたり、何でもコンビニで買ってきて、パックやら空き缶やらがその辺にふきだまるに任せ、完璧に幸福だった。
 強く激しい輝きの前に、世界は霧とかすんでゆく。
 これが愛というものだった。

 ときどき胸をしめつける不安、おののきにふるえる心。
 ネリーは彼の目の動きを追い、動作の一つ一つを読もうとする。

 彼に突然捨てられて、ネリーは翼を失った。
 虚空の中をはてしもなく落ちてゆき、しまいに冷たいコンクリートの上にたたきつけられて目が覚めた。

 一日じゅううちに閉じこもり、泣き疲れて眠りに落ちて、またふっと目をさます午後のめざめ。
 暗い部屋の中で、何もかもが灰色に見える。
 見上げた窓ごしに見えるのは、雨樋と電線と、しずかな曇り空ばかり。

 彼の面影を求めて街をさまよう。
 歩道橋の手すりにもたれて通りを見下ろせば、きれめない車の列が、クラクションを鳴らしながら流れすぎてゆく。
 ずらりと列をつくってバスにのりこむ人々。

 一人で、耐えられるところまでは耐えた。
 雨の夜、小一時間もぐずぐずと、意味もなく歩き回って、
 それからやっと心を決め、ネリーは傘をすぼめて電話ボックスの扉を押す。
 ルルルルル、ルルルルル。もしもし。
 電話口に出たのは、トメさん本人だった。
「やあ、ネリー。また声が聞けてうれしいね」
 本心から、言っているのだった。
 ネリーは返事ができなかった。
「今どこにいるの? ・・・本当? 今、誰もいないんだ。ちょっと顔出しに来ない?」

 事務所の中は、石油ストーブをガンガンたいていてあったかかった。
 トメさんはだまって自らコーヒーを入れはじめ、見ていると泣けてきて、ネリーは必死で唇を噛んだ。
 でも、だめだった。
 トメさんの胸で、涙が涸れるまで泣き続けた。

 トメさんとつきあい出してから、ネリーはまた事務所に戻った。
 他の連中が、それをよく思うはずがない。
 ケイコは次長格のイタチとつるんで、ありとあらゆる嫌がらせを仕掛けてきた。
 ここにいていい人間じゃない。
 そんなこと分かってる。だけど、他にどこに行けって言うんだろう。

 一人でいると、電話がなる。
 受話器の向こうから、あまりにも恋い焦がれた声が言う。
「ネリー? 俺だよ」
 その瞬間、ネリーのひざはぶるぶるふるえはじめ、彼の声を再び聞いた嬉しさに、恨みも苦しみもどこかへふっとんでいく。
「近くに来てるんだ。どっかで会わないか」

 二人は<アイリス>の二階で落ち合う。
 ジュンはトメさんになびいたネリーをやさしくなじり、彼女が耐えきれずに涙を浮かべると許してくれて、その髪を耳の後ろにかきあげる。
「あいつは君を、かわいいペットとしか思っちゃいないんだぜ」
と、ジュンは言う。
「そんなんでいいのか、お前? 一生あいつの女で終わるつもりか?」
「二人で高とびしよう」
 ジュンはささやいた。
「今夜」

 それからあとは一瞬のうちに過ぎ去った、鮮烈な夢のようだ。
 真夜中のガレージ、腰に回された腕、黒塗りのオートバイを引き出すときのカラカラいう音。
 猛烈な爆音と耳を切る夜風--信じられないくらいわくわくした気持ちとすごい解放感。
「どこまで行くの」
 ジュンの背中にしがみつきながらどなると、彼は叫び返した--
「どこまでだって行くさ! お望みならば地獄までだって!」

 一瞬の暗転--耳をつんざくブレーキの悲鳴、それから意識がとぎれ--
 砕け散るガラス、アスファルトにほとばしる黒い血、かすかに救急車のサイレン--まわりでがやがやいう人の声--

 ジュンは死んだ。頭を打って即死だった。
 ネリーも全身を打って動けない。でも、命は助かった。
 ほぼ回復するまで彼女はずっと病院ですごした。
 みんな、すごく親切だった。
 新聞の片すみには、その夜のできごとがごく小さく載っていた--
 二人乗りオートバイ、スピードの出しすぎで横転事故・・・一人は死亡、一人は全治二ヵ月のケガ。
 どうってことはない。交通事故なんて、毎日掃いて捨てるほど起きているのだ。

 そして再びネリーはトメさんの事務所のドアに立つ。
 できればもう永久に、トメさんの顔を見たくなかった。
 けれど、それは許されないことだ。
 ネリーは目を閉じて一度深く息を吸い、それから一気にドアを開ける。
 中に一人でいたイタチがはっと息を呑み、たちまち激しい憎しみが、その顔いっぱいに湧きあがる。
「きさま、どういうつもりでぬけぬけと・・・」
 言いながら手を伸ばして拳銃をつかみ、ネリーの方へ向ける。
「撃てよ」
 ネリーはイタチの目をまっすぐ見て、傲然と言う。
「さっさと撃てよ。そうされて当然なんだよ。そのために来たんだよ」
 イタチはたじろいでいる。
 --一秒、二秒。
 そのときカチリと音がして奥のドアが開いて、トメさんが入ってくる。
 ずきん。ネリーの心臓がふるえた。
 トメさんはさっと目を走らせ、それからイタチの方へ歩み寄って、突然猛烈な勢いではりとばした。
 それからネリーの方へやってくる。
 ネリーはあとじさりした。
 トメさんはネリーの前に立ち、その頬にそっと、指をすべらせる。
 そして言う。帰ってきてくれた。

 トメさんの前では、うそはつけない。
 トメさんのシャツが、ネリーの涙でみるみるくしゃくしゃになっていく。
 涙の合間からネリーは訴える。
 あなたに抱かれて死にたかった。あなたに殺してほしかった。
 殺して--どうぞ私を殺して--今すぐに。
 いや、そんなことさせるもんか。トメさんは言う。君には誰だって、指一本触れさせない。そういう奴がどんな目にあうか、今見ただろ?
 泣きじゃくるネリーをそのままずっと抱きしめていてくれて、それからトメさんはその頭を離し、彼女の目をじっとのぞきこむ。
 そして言う、これからはまた、ずっとそばにいてくれる?
 --胸が痛い。でも、言わなきゃ。ありったけの力をふりしぼってでも。
 いえ、それはできない。どうしても。--自分のことが、許せない。
 トメさんはじっと見つめ、分かってくれて、しずかにネリーの額に口づける。さよなら、ぼくのネリー。
 それが、トメさんを見た最後だった。
 どこをどうやってたどり着いたか、どうしても思い出せない。
 自分の部屋に入るとネリーはうしろ手にドアを閉め、次の瞬間、ベッドの上にくずおれる。

 覚悟はしていたつもりだった。
 けれど、本当には知らなかった、孤独というものが、こんなにひどいとは。
 ずっと長いこと、ネリーは自分の部屋から一歩も出なかった。
 食べ物も受けつけなかった。電気もつけなかった。窓を開けることもしなかった。すべては時間の問題だった。
 こうしてその晩、ネリーのママは枕元に空っぽの睡眠薬のビンを発見する。
 あと一時間遅れていたら、間に合わなかった。

「まず外へ出なさい」
と、先生はネリーに忠告する。
「どこでもいいから。家に閉じこもってちゃだめですよ」
 そんなこと分かってる。だが、どこへ行けばいいっていうんだろう?
 この世界とのあいだに持っていた最後のつながりを、ネリーは自ら断ち切ったのだ。
 あとには何も残らなかった。

 ネリーのママはひどく取り乱して、こっちの方が気の毒になるくらいだ。
 こんなふうになるまで、自分の娘がどこまで追いつめられていたか、ママはなんにも知らなかった。
 だけど、今ごろ騒いだってもう遅い。
 ネリーの方は、いくぶん落ちついてきたようだ。
 少しずつ、体重も増えていった。放心したように、ボーッとしていることが多かったけれど。
 落ちついてきたと、言えば言えるかもしれない。
 もはや死ぬだけのエネルギーもなくなってしまったと、言えば言えるかもしれない。

 回復は、ゆっくりとやってくる。
 たとえば、午後二時のテレビ。ママのもらってくる卒業証書。
 ガソリンスタンドの待合室。
 マネージャーは仕事の手順を説明し終え、引き出しに履歴書をしまう。

 日曜はからすが森公園へでかける日だ。
 午前中は少し雨が降っているが、ネリーは早めに出て、近所のデパートをぶらぶらする。
 日用品を買いこむ家族連れ、駆け回る子供たち。
 空々しい音楽、ききすぎの暖房、奇妙に明るい、虚構の空間。

 ベタベタとポスターの張られた映画館の壁にそって歩きながら、ネリーはここで<ロミオとジュリエット>を見たときのことを思い出す。
 何の行事だったか、学校の連中と一緒だった。
 涙のとまらないネリーのこと、見て見ぬふりをしてたっけ。
 何万年も前の話だ。
 でも、ニーノ・ロータのあのメロディーを聞くと今でも涙が出る。

 バスにのると、ネリーはぬれた髪をかきあげて曇ったガラスを眺め、指ででたらめな模様をかく。
 と、ずっと昔、小さい頃、やはりバスの窓一面に落書きをしたときの感覚がよみがえってくる。
 何かのお招ばれだったのだろう--結婚式だったかもしれない--ネリーは赤いベルベットのワンピースを着せられて、ママのひざの上に抱かれていた。
 あの頃、世界ってどんな感じだったのだろう。

 公園に着くころ、雨は上がっている。
 いっぱいにしずくをしたたらせた木々の、目にも鮮やかな緑。
 森を一つ抜け、広場に向かって降りてゆく幅の広い石段の上に立って、ネリーはにぶい真珠色の雲のすきまから、日の光がうっすら銀色のすじになってさしこんでくるのを眺める。
 石段の端に腰かけて、ウォークマンのイヤホンを外す。
 ほどなくしずかな足音が、上からゆっくりと降りてくる。
 かすかな影が、石段の上にのびる。
「こんにちは」
と、影が言う。
「こんにちは」
と、微笑んで、ネリーは言う。

 (1996?)







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